2023年2月21日火曜日

Glyder「In Love With Cherry」[Ken Gold Songbook]

Glyderは英国で70年代半ばに活動していた7人組ヴォーカル&インストゥルメンタルグループです。英Warner Bros.と契約し、75年に唯一のLP『Glyder』をリリースしています。LPのプロデュースはNew Seekersの一連の作品やBee Geesの3枚目『Bee Gees’ 1st』などのエンジニアであるMark Claytonによるものでした。

このGlyder、LPリリース後に数枚シングルをリリースしていますが、最後の2枚はメンバー以外のペンによる曲で、76年は大晦日にラスト・シングルとしてリリースされたのがKen Gold & Micky Denneコンビ作の「In Love With Cherry」です。プロデュースはGoldとは馴染みの、Sugarbeats〜Castaways〜Grapefruitと渡り歩いたPete Swettenhamがクレジットされています。

楽曲はパワーポップとまではいかない明るく楽しいポップスで、前年Hermitsが取り上げたGoldとMartin Shaer(これまたGoldとは旧友の、Sugarbeats〜Castawaysの元メンバー)の共作「Ginny Go Softly」のメロウでポップな路線をキープしつつ、ビートを強化したような一曲に仕上がっています。Gold-DenneコンビがReal ThingやDelegationで既にコンテンポラリーなソウルのソングライターチームとなりつつあった中では貴重な、70年代前半のGoldを想起させる一曲であると言えましょう。

メンバーのうちAndy Price、Nevil KiddierはこののちパワーポップバンドPinkeesを結成、英Creoleから82年にアルバム1枚とシングル数枚をリリースしています。


2023年2月11日土曜日

1988 (1) :『Keisuke Kuwata』

87年7月より開始された桑田のソロ用レコーディングは、「悲しい気持ち」レコーディングを経たのち、小林武史を共同プロデューサー/アレンジャーとして迎える。アルバムに記載されたプロデューサーは桑田・小林・藤井丈司、アレンジは「小林武史 with 桑田佳祐、藤井丈司」と、小林がメインアレンジャーであることが主張されている。LPのゲートフォールド内側/CDのブックレットには、桑田のみならず小林、藤井の3名が写った写真が掲載、このチームによる作品ということが示されている。

なお、A&Rの高垣健はそれまでサザン・Kuwata Bandではプロデューサーとしてクレジットされていたが、本作では過去の原由子のソロ同様、ディレクターと記載されている。

録音・ミックスはKuwata Bandに続き今井邦彦が担当、共同プロデューサーとしてもクレジットされている。LPカッティング、CDマスタリングはNYで今井と高垣立ち合いのもと、60年代後半から数々の名盤を手掛けていたGeorge Marinoが担当。今井によると当初はSterling Soundの別の某エンジニアに依頼していたが、完成品の曲間に取れないノイズが入っており、急遽George Marinoに再依頼、結果2度渡米することになったという(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019

当初は88年1月1日にはリリースする予定でレコーディングは進められたが(「Guitar Book GB 1987年11月号、結局録音完了したのは88年5月初頭、という長丁場となる。


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録音現場では、当初こそ桑田のデモテープを元に複数ミュージシャンとのリハーサルも行われていたが、そのうち桑田・小林・藤井だけでの、プリプロダクションと本番レコーディングが一体となったスタイルで進行されるようになる。桑田の持ってきたメロディ(一曲丸々という状態でもなく、部分部分のみの場合も多々あったようだ)をもとに3者でトラックを作り、出てきたサウンドによってはさらにメロディを加える・変えていくという、作曲と編曲がキャッチボールで進行していく状態となったようだ。

— プリプロダクションはどうでした?
小林武史「いや、最初から本番のレコーディングだったんです。だから、いつもレコーディング・スタジオでデモ・テープ段階の作業とレコーディングが、ずっと繰り返されてたって感じですね
。」
— 小林さんのアレンジ法というのは?
小林「ある程度、曲が成熟していくまでの段階で、例えばA、B、Cという段階があるとしますよね。まずAの段階で、Aメロとサビだけ出来ていると。その間に何かメロディが欲しいんだけど、とりあえずやってみる。この段階で、リズムとかベースの感じでまず第1段階のアレンジが始まるわけです。で、B段階になると、それを元に構成してみる。イントロをどういう雰囲気にするとか、間奏の雰囲気とか、そういうアレンジになっていくんです。第2段階になると、Bメロだけ作り直すっていう形になって、最終的なメロディの作り直しとか、決定稿が出てくるわけです。その段階で、曲の大体の雰囲気というか、環境みたいなものはできてくるわけです。例えば、弦とブラスの絡みとか、ブラスの音色であるとか。」
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」リットーミュージック、1988)

象徴的なのがアルバム一曲目「哀しみのプリズナー」のエピソードだ。
— 特にレコーディングで難航した曲というのはありますか?
桑田「1曲目の「哀しみのプリズナー」がそうなんですよね。メロディが全然違ってたんですよ。最初はジョージ・ハリスンみたいな曲だったんです。僕がスライド・ギター弾いて。でも、どう考えても古いんですよね、その曲が。ちょっとカントリーを匂わせるような、暗いイギリスの雰囲気がしたんです。で、ちょっと新しさを出すためにTR-808のタムを入れようってことになって。”スッテケ、スッテケ”っていう、ちょっとハネた感じのを入れたんです。そしたら、今度は歌がハマんなくなっちゃったんですよ。それで、16ビートを強調しようってことで、小林クンが”デケデケデケギャーン”っていうフレーズをキーボードで入れたんですよね。もう完全にナウくなってきちゃって、まずAメロの歌を入れ直したんです。その場でAメロを考えて、当然Bメロも合わなくなってきたんでどんどん付け足していったんです。Cメロも考えて付け足して……だから、イントロの”スッテケ、スッテケ”と、小林クンの”デケデケデケギャーン”、それだけのことで、もう曲が変わらざるを得なかった。すごく微妙なことにこだわったんですよ。スリルがあって非常に面白かったけど。
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)
小林「たとえば、M1という曲、A面の1曲目の曲ですけど、あれなんかはイントロの生ギターのストローク以外は全部変わっちゃったんだけど、最初は生っぽく8 beatでやってて。でも、そのままだと古いロックになってしまう。“何とか新しくしたい”って。それは彼(引用者注:桑田)の口グセで。サビが2曲(引用者注:原文ママ)変わったんですけどナカナカ上手くいかないんですよ。じゃあ、この曲の考え方は60年代の曲を今風のアレンジでリメイクしたような感じを狙ってみようかって話もあったんだけど、その発想って単純でしょ?結局、この曲が最後まで残って時期的に気持ちも高まってきていたから、僕が考えた16のベース・パターンに全然別のAメロがついたっていう感じなんですよね。
(「キーボードランド 1988年7月号」リットーミュージック、1988)
冒頭の複数アコギが名残ということは、「My Sweet Lord」的なサウンドでも目指していたのだろうか。ちなみに、この当初用意されボツとなったメロディは、95年の桑田と小林の最後のコラボレーションでめでたく世に出たものだろう(アレンジはRolling Stones meets Stevie Wonderのようなサウンドだが、楽曲のコード進行、特に冒頭のヴァースは「哀しみのプリズナー」とほぼ同一で、その後も付かず離れずの展開である)。小林のお気に入りだったようで、94年以前に小林の依頼でMr. Children用に桑田から譲り受けていたものだという(「Views 1995年9月号」講談社、1995)

アルバムからのセカンド・シングルとなった「いつか何処かで」のエピソードも。
小林「2枚目のシングルになった「いつか何処かで」っていう曲も、最初のとまったく違ってましたね。最初はブライアン・アダムスみたいな曲だったんです。割とヘヴィな感じで、サビだけはできてたんですけど、Aメロが全然違ってたんです。Aメロは、ある日作り直してきたときに、僕の中で「ああ、これは違うんじゃないか?」っていうのが出てきちゃったんです。そしたら、「これ、打ち込みでやろう」って桑田さんが言い出して、シーケンス・パターンを僕が考えて、藤井クンがTR-808でやってみたんです。そこでもう大きく流れが変わって、あとはもう……。あの曲はそういう意味ではガラス細工みたいな、密室性って言われてますけど(笑)、細いもので作り上げる、そういう感じでした。」
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)

このアルバムのレコーディング途中の87年末には前年に引き続き「Merry X'mas Show」が日本テレビ系で放送されている。解散したKuwata Bandもこの番組では再結成し出演、メンバー各自のアレンジの曲も含まれているが、小林・藤井のソロアルバム組が担当している楽曲も披露されている。
スクランブル四重合唱」「二人のFour Seasons Dedicate to “Noboru”」「きよしこの夜」は小林が単独で編曲にクレジット。おそらくトラック制作は藤井と桑田が参加しているだろう。
また編曲クレジットは無いが、「愛のさざ波 Dedicate to “Chiyoko”」は小林・藤井・桑田の3名によるトラック(その後の「リンゴ追分 Dedicate to “Hibari”」もだろうか)。
藤井丈司「クリスマスショウの時だね。アレンジは小林武史さん、桑田さん、僕。元ネタはTaste of honeyやMtume。@st_batucada: “@isoberyo: @junpq: このブラコンアレンジYouTube - 愛のさざ波 http://bit.ly/fgWaeN” 藤井丈司(fujiitake)10:11am、2011.3.2.
https://twitter.com/fujiitake/status/42753850372927488
ハマクラ・クラシックを藤井のツイートのとおりオリエンタル・ブラコンで、といったコンセプトだが、特にこの曲のトラックの質感は録音中の桑田ソロのサウンドを先行披露したような形だ。


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ソロアルバムの制作にあたり、「ポップ・ミュージック」のキーワード以外に桑田がイメージしていたミュージシャン、作品というのはどんなものだったのだろうか。

「今は、んー、高校生時代とかね、鎌倉学園の在校生だった頃の気持ちに戻ってやってみたいの。ポール・マッカートニーの『ラム』とか、『ジョンの魂』とか、ポール・サイモンとか。シンプルで、メロディ・ラインがあって、ね。そういうのを聞いてた時期に戻りたい。自分の中の聞き手みたいなものに対してもっと素直にアピールしたい、と、そんな感じ。」
(「宝島 1987年11月号」JICC出版局1987)
「悲しい気持ち」リリース直後のセッション初頭のコメントでは、まだ探りの段階ながら、自身が愛聴してきた、グループのヴォーカリストのソロアルバムというのが念頭にあったのが窺える。

「ちょうど洋楽でもスティーブ・ウィンウッドやティナ・ターナーとかロバート・パーマーなんかがヒットしていてね。かつてグループのリードシンガーだった人がソロで打って出たというサンプルをたくさん見ていて、『そういうのもいいなあ』なんて思えたんじゃないかな。」
(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)
といった具合に、直近の作品でやはりグループのヴォーカリストの直近のソロ作なども参考にしている節はある。後述の鈴木惣一郎の指摘にもあるように、破綻しないアダルトな質感などはDonald Fagen『The Nightfly』なども意識していそうだ。


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このアルバムでは藤井と小林によるコンピューター、シンセの音でほとんどが占められ、小林以外のマニュアル・プレイは原田末秋を中心とするギターがある程度登場するに留まっている。ブラスもほぼシンセ・弦も完全にシンセではあるのだが、しかしいわゆるエレポップ的なところには行かず、16ビートのファンキーな要素も顔を出しつつも基本は大人のオーソドックスなポップス、AOR的な枠をキープした作品になっている。

— 変な言い方になりますが、藤井さんといえばデジタル、桑田さんといえばアナログっていうイメージがあるのですが、桑田さん自身は打ち込みとかデジタルとかに違和感はありませんか?
桑田「6、7年前に、例えばバグルスとか、トレヴァー・ホーンとかが一生懸命やってたような音楽を日本人が真似してピコピコやってた頃に比べて、もうかなり機材とかも進歩してるしね。それに、デジタルが冷たいからっていう理由で、弦とかサックスのソロとか呼んでくると、けっこうアングラになっちゃったりするというのがあるんですよ。だから、藤井クンとカーツウェイルとかでサックスのソロとか弦やるっていう方が……むしろデジタルの方が暖かく聴こえるっていうところまできてません?昔の、エレクトロ・ポップの時代っていうのは、あくまでもテクノロジーって言ったら、そのプラスチックな部分を強調するばっかりだったけれども、今はその逆ですよね。(略)デジタルの方が自分の空想の中の音っていうのかな、けっこうそれに近いものがあったりとか、あと微調整ができたりするでしょ。だからそういう意味で、欲しい音になりますよね
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)
このとおり桑田は、マニュアル・プレイよりコンピュータのほうが自分の欲しい音であるとまで言い切っている。それを具現化するために必要なミュージシャンが、藤井・小林2人だったということだろう。

— (引用者注:桑田は)新しいものに対して貪欲?
小林「やっぱり、新しい形に自分を変えていくしかないっていうのはあるだろうし。POPSですからね、あの人は実体とかってないんですよ。桑田佳祐は一体なんなのかっていうんじゃなくて、彼が時代の鏡であり、今多勢いる人たちの鏡、投影者になろうとするんですよ。だから彼が立とうとする座標って、一番POPなところっていうことになる。言い換えると、彼が一番カッコよく見える音楽だし、彼の歌い易いものだし、歌って気持ちいいもの、彼自身が聴いて良いと思うものでなくちゃいけないわけで。とにかく彼は完全主義者だから、10ヶ月もかかってしまったんですよ。それを許す財力もあるってことですが。
(「キーボードランド 1988年7月号」
このコメントからも、コンピューターを使った音楽制作がデフォルトとなりつつある時代にいかに適応するか、という桑田の意思を小林がよく理解していたのがわかる。同時に「あの人は実体とかってないんですよ」とまで言い切る小林の洞察力も鋭い(2021年の桑田インタビューにおける桑田の自己分析と同じである)。

また、藤井・小林という人選は、最新の都会的なポップス・ミュージシャンらの感覚を、桑田自身の感覚とうまく融合させようとしていたのではないかというようにも見える(戸田誠司の参加案もあったということであれば、尚更だ)。藤井はすでに桑田にとって馴染みのある立場だったと思うが、元々はYMOのスタッフからプログラマーになり、YMO散解後もソロ作等に継続的に関わっている立場であった。
小林については、前回でそれまでのキャリアを眺めたとおり、決して単純に「シティ」の流れのミュージシャンというわけでもないのだが、桑田のコメントからは(いまだに)そのように見ているのがわかる。
「彼(引用者注:小林)は大貫妙子さんとか坂本龍一さんと言った、いわゆる知性派のシティ・ミュージック的な畑から出てきた人で。僕は僕でサザン然り、歌謡曲的な発想とかちょっと下世話なものを背負って出てきたタイプだったのかもしれない。少なくとも彼は最初、そう思ってたんじゃないかな?(笑)。彼には曖昧さや下世話さが皆無だった。よく僕の事を『電通っぽい』とか『野卑な香りがする』とか言ってたっけ(笑)。僕だって十分繊細だと思いますけどね(笑)。ともかくお互いそれまでにまでに会ったこともない類いの人間同士だった。その違いが、いい化学反応を起こしたんだと思います。
(「Switch Vol.30 No.7

なお、桑田が回想する小林のエピソードでは、自身と小林を上記のように対比する表現が多々登場する。このあたり、桑田のコンプレックスが顔を覗かせている。
小林くんはオレのことを芸能オヤジって思ってるかもしれないけど、その芸能オヤジっていうオレの持つ胡散臭いところと、小林くんの研ぎ済まされたところで清濁合わせ飲んだら合体したって感じだよね
(「月刊カドカワ 1995年1月号」角川書店、1994


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歌詞は完全日本語というわけでは無いが、程よく英語がブレンドされた従来の手法に戻っている。また「英語風に聞こえる日本語」の唱法も復活し、どちらかというとそちらを強く意識した歌い方も目立つ。このあたりはこれまでの経緯から自身の良さを改めて伸ばす方向に舵を切ったということだろう。

詞の内容はシンプルなラブ・ソングに加えて、シンガーソングライターよろしく2児に捧げた「Dear Boys」、住宅購入を元に書かれた「路傍の家にて」、Hall & Oatesのレコーディング現場を訪れた際の様子を描いた「Big Blonde Boy」など、ソロならではの個人的な内容も登場するようになる。また、「愛撫と殺意の交差点」での、世を真っ向から批判する形で主張するわけではなく、あくまでスケッチのように淡々と描写・独白するスタイルはここで初登場、90年代の桑田ではおなじみのパターンのひとつとなる。

もともと桑田の歌詞はサザンデビュー以降、仮歌のメロディから桑田の口をついて出たデタラメ英語/日本語をベースに組み立てられており、語感優先で意味は明確に用意されていなかった。しかしその曖昧に描かれている世界観とメロディ、歌唱の組合せが評価されていた面があったといえる。デビュー直後に「詞は画期的」「ただ読んだだけじゃ、一体何が何やら判らない詞が多いのだが、不思議なことに、メロディが付き、桑田が歌うと妙に自然な世界が広がってくる」「アイマイサにおいて桑田の作品はズバぬけて優れている。そしてメロディとの間に、すきまが全くないのも見事だ」と評したのは近田春夫であった「ニューミュージック・マガジン 1978年10月号ニューミュージック・マガジン、1978)

しかし、マンネリを感じた桑田はサザン83年『綺麗』から意図的にストーリーを組んだり、メッセージを忍ばせるようになる。そしてこのソロのタイミングで、周囲からまた新たな刺激を受けていたようだ。
 当時の詳しい様子は後述するが、この時、一緒にやり始めたのが藤井丈司、小林武史、小倉博和といった人達で、彼らは僕からしてみると意外にも”詩の事をとても気にする人達”だった。藤井君は「はっぴいえんど」の松本隆の世界観なども通ってきた人だし、小倉君は僕より若いのに、加川良とか高田渡だとかフォークのことや、古い映画のことなどをとてもよく知っていた
「言葉の羅列やインパクトだけじゃなく、歌全体で誰に何を伝えるか」
というような事を、誰に言われたわけではないが、小林くんも含め彼らとやっているうちに、そう考えさせられるようになった。(アイツら、エラそうに)
 スタジオでよく、
「この詩はどういう意味?」
 と訊かれたものだった。
 そんな彼らに囲まれているうちに、
「オレもやってやろうじゃないか」
 という気になる。「ただの歌詞」ではなく、文として、詩として、読むに値するものが書いてみたくなった。(悲しいことに歳をとると皆こうなるのよ)
桑田佳祐やっぱり、ただの歌詩じゃねえか、こんなもん - 桑田佳祐 言の葉大全集」新潮社、2012

小林も、自身のプロデュースワークについて、僕は言葉の部分もやっちゃうから。」
(「キーボードランド 1988年7月号」と語っていた。「小林武史はその後の桑田のサウンド作りを変えてしまった」とはよく指摘されることであるが、実のところサウンドのみならず、歌詞作りにおいてもその影響は大きかったのかもしれない。


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アルバムは原田末秋&笛吹利明の「My Sweet Lord」風?アコギの上で長田進のエレキギターと前述の小林のシンセが鳴る不思議な組み合わせ…がTR-808のタムを機に一気に雰囲気が変わる、というイントロのモダンな16ビート「哀しみのプリズナー」で幕を開ける。質感はSting『…Nothing Like The Sun』的な雰囲気もあり、歌い出しの「さあ部屋中を暗くしてくれ」から桑田の十八番である「英語っぽく聴こえる日本語」も全開だ。長田は佐野元春のThe Heartland加入以前から、小林とは顔見知りだったようだ。コーラスにアン・ルイスも参加。

Beach Boys+Chordettes?な桑田の一人多重コーラスで始まる「今でも君を愛してる」では抑制された桑田の歌と、小林の面目躍如というべきシンベの響きが素晴らしい。曲をさりげなく支えるブラス隊、ギターなども小林のシンセによるものである。ドラムロールのみ山木秀夫が演奏。

8ビートの「路傍の家にて」でも桑田の日本語の載せ方・崩し方は従来の芸風を推し進めたものになっている。イントロ、シンセのブラスとグロッケンの組合せからしてポップ感極まった、小林の手腕全開の一曲。ギターのみ原田末秋。

「Dear Boys」は原田末秋のウクレレをフィーチャーした曲で、ヴォーカル含めてレトロ風の音処理が面白い。ミュート・トランペットの間奏を含めたブラスももちろん小林のシンセによるものだが、桑田の言うように暖かなサウンドに仕上げている。アコギは斎藤誠、ベースは琢磨仁。原由子もコーラス参加。

「ハートに無礼美人」はBo Diddley&シャッフルビートに小林によるシンセのブラス隊が絡む曲。間奏ではようやくシンセでない、松本治によるトロンボーン・ソロが入ってくる(桑田の「Heavy〜heavy〜」以降は左右に分かれ2本対位のソロになるのも面白い)。ギターは原田。

「いつか何処かで」はアルバムからのセカンド・シングルとして88年3月に先行リリースされている。抑制された桑田の歌がまたまた素晴らしい。maj7の頻出や、D→Daug→D6→D7と5度が半音ずつ上がるコードの上で同じメロディを繰り返す、という部分も印象的だ(桑田はこの後すぐこの進行を再利用することになる)。この曲でもイントロのベル系のシンセのみならず、歌の途中から控えめに、効果的にグロッケンが登場する。こののち小林のトレードマークのひとつとなるグロッケン、これ以前の小林作品では登場せず、どうもこの桑田ソロセッションから多用し始めているようである。またこの曲における、ほとんどシンセなのだがノスタルジックなアコースティック感を演出する、という手法は90年台前半までの小林の十八番ともいえるスタイルだが、「Dear Boys」やこの曲で既に完成されていると言ってもよいだろう。小林はこのアレンジについて、「あれだけピンセットで作ったガラス壜のなかの船みたいにきれいなアレンジと言うのは、ぼくの記憶では日本のポップスにはそんなになかったように思う(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)と自負している。ギターは原田。

「Big Blonde Boy」は前述のとおりHall & Oates訪問時の様子を歌っているが、サウンドもイントロのJBっぽい雰囲気からシンベがよく動く打ち込みファンクに流れる。日本語崩しとファルセット、女声コーラス(桑名晴子)などの組み合わせも相まって若干岡村靖幸の87年作ファースト・88年作セカンドの中間のような雰囲気もある。ギターは原田だが、ソロパートは当時ルースターズの下山淳。

「Blue〜こんな夜には踊れない」は歌謡調の渋いメロディを4つ打ちの16ビートで彩っている。桑田によると制作がかなり難航し、アルバムセッション初頭の87年8月に着手し完成したのはセッション終盤の88年4月とのこと(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)。こちらもギターは原田だが、ソロの部分は下山によるもの。それまでの曲調から趣が変わり最後に拍子が変化する間奏が面白いが、ここは小林が「クラシカルな、バロックのような響きを「考えて」作った」(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」立東社、1988)とのこと。

「遠い街角」はコーラスに竹内まりやを迎えたA&MというかBurt BacharachというかCarpentars的なMORの世界。頭から作ったと思しき歌い出しのヴァースの美メロが印象的だ。若干このアルバム全体のサウンドからは浮いているが、当初桑田は打ち込みっぽくストレンジな方向で行こうとしていたようだ。しかし小林が「スタイルができ上がっている曲だから、ベーシックに」アレンジしたという(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)。ギターは河内淳一。アルバムからのプロモ盤7インチにはこの曲と「ハートに無礼美人」が選ばれている。

ファースト・シングル「悲しい気持ち」を経て、シャッフルのアバンギャルドなブルース「愛撫と殺意の交差点」が始まる。桑田によると自身が過去聴かずに飛ばしていたようなブルースを意図したという。
「ポールマッカートニーの《ラム》の中に<三本足>って曲があったじゃない?俺さ、昔からあの曲がキライでね。《ラム》を聴く時、いつもあの曲だけとばしてたの。ただ、ずっと気になっていたんだ、あのブルースっぽい曲のこと。それとリトルフィートのセイリンシューズの中に<アポリティカル・ブルース>っていう曲があるでしょ?あれも必ずとばしてたの。“やっぱりリトルフィートはファンキーにやってくれないと、ダメだ”とか言って。ローリングストーンズのスティッキー・フィンガーズに入ってる<ユー・ゴッタ・ムーブ>もそう。あれって、ちっとも良くないブルースだったでしょ?全然正統派のブルースじゃないのね。あの曲もイヤでイヤで、いつもとばしてた。でも、これらの半端なブルースが今になって良く思えたの。ブルースの解釈なんて、人それぞれでいいんだって思った。で、俺も<愛撫と殺意の交差点>っていう自分なりのブルースをやったの。」
(「GB増刊 Volume 1 Vol.4 1988 July」CBSソニー出版、1988
中盤、終盤はブリティッシュ、というかBeatles『Magical Mystery Tour』風にサウンド・コラージュが展開される。この曲のみ、藤井の連れてきた門倉聡がシンセ、シンベのみならず共同アレンジとしてもクレジット。門倉もそれまでに大貫妙子『Comin' Soon』や、矢口博康・戸田誠司・福原まりや鈴木さえ子参加の漫画イメージアルバム『アクマくん魔法★Sweet』等にアレンジャーとして名を連ねている。この曲がきっかけで、門倉はサザンの次のアルバムに参加、小林に代わりアレンジの中心を担うことになる。ギターは原田、コーラスで竹内まりやが参加。

「誰かの風の跡」はこのアルバムの総決算のような、シンセのアコギとボンゴが心地よいバラード。ポルタメントのかかったアナログ・シンセも、のちの小林武史のトレードマークのひとつとなる要素だが、この曲が初登場ではないだろうか。それまでの桑田にはなかった、大部分がファルセットで歌われている楽曲で、誰を意識したのか妙にクセのあるメロディ回しなども印象的だ。最後はかなりオフだが実は入っている、即1オクターブ上がるBのロングトーンのファルセットがフェイドアウト、追ってトラックもフェイドアウトしアルバムは幕を閉じる。



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このアルバムの制作中、前出の海外ミュージシャンの作品とは別に、プロデューサー3名が作業中常に意識していたある日本のミュージシャンがいたようだ。

桑田「最近ですね、僕もレコーディング10ヶ月してましたけど、コンピュータープログラミングなんていうのはね、当然ありましてそこに達郎さんの話題が必ず出るんですね。僕レコーディングずっとしてきてね、達郎さんほど語られる人って少ないよね、他所で。レコーディングしてる現場で、例えば何かやってると『タツローっていうのはこうこうこうで…』」
山下達郎「あーそう、意外…。」
桑田「うちの今コンピュータープログラミングの藤井っていうのとか、小林武史っていうのが。みんな達郎さんっていう人とたぶん会ったことは無いと思うんだけど…」
山下「いや藤井くんはよく知ってる。あのYMOやってた方でしょ。だから、よく知ってますよ。」
桑田「あ、ほんとに?だから、達郎さんに関してはね、出ますね。」
山下「あーそう…全っ然意外。」
桑田「達郎さんだったらどうするか、とかね。」
山下「そんなこと言ってんの…!」
桑田「うん、言ってる。」
山下「へえ〜。」
桑田「バラシバラシじゃなくてね。達郎さんのイメージっていうのを語り始めるってことが多かったですね、今回のアルバム僕ら、10ヶ月やってましたけど。」
(「Tokyo Radical Mystery Night」Tokyo FM, 1988.7.6.)

そういえばこのソロ・レコーディング初期、ポップスについて語る桑田は山下の名を出していたこともあった。
「でもやっぱりこう、ポップスって……俺、山下達郎みたいな人ってすごく好きなのね。竹内まりやとか。ちょっと堅物のさ、何か職人芸みたいなのあるじゃない?でも最終的にあの人は職人なんだよね、最後自分でボーカル乗っけるとき、あの人のボーカルって単なる女好きみたいに聞こえるんだよね俺は。ずーっと職人的にやってったのを、最後は自分の歌の色気だけを信じてさ、畳職人みたいなことをやってったのを、最後に自分の歌乗っけると結局全部ぶっ壊してしまうみたいなさ(笑)、ああいうたたずまいが好きだけどね。ああいうガンコ者の音楽だと思うの、ポップスってのは。筋金入りのもんですよ。
(「Rockin' On Japan 1987年11月号」ロッキング・オン、1987 / 「ロッキング・オン・ジャパン・ファイル ロッキング・オン3月号増刊」ロッキング・オン、1988)

この時点での山下のレイテスト・アルバムといえば『Pocket Music』だ。大胆にコンピュータを導入しながらも違和感無く従来の路線をキープし、かつ30歳を超えたシンガーソングライターとしてオプティミズムもペシミズムも包み隠さず表現した、中年男性によるポップスのひとつのあり方を提示したレコードであった。

山下は『Pocket Music』リリース時、サウンド・コンセプトの根幹思想として、こんな話をしている。
— でも達郎さんの場合、同世代の人たちがついてきてると同時に、若い人たちも新しく入ってきてますよね。
山下「交錯してますね。10数年もやってますとね、ギャップがすごいんです。20歳の人と30歳の人を同時に満足させるようなレコードやコンサートってのは、本当に大変なんですよ。だからね、少なくとも音の色というのは、今生きてる色じゃないとダメなんです。メロディなんかはもう変えられませんから。スタジオや楽器を含めた環境の中で、やっぱり一番コンテンポラリーだとされるような使い方をしていかない限り、生きてる音楽にはならないんですよね、流行音楽の場合は。」
(「Sound & Recording Magazine 1986年6月号」リットーミュージック、1986)
メロディは従来の持ち味をそのままに、サウンドはトレンドの音色を使うことで今を生きる流行歌を作ろうという試みもポップスの伝統的な手法ではあるが、山下のポップスとコンピュータの組合せはそのまま今回の桑田ソロの方法論、果てはこの先の「Jポップ」のひとつの方法論そのものともいえる。

細かいところでは山下の作品史上、『Pocket Music』はグロッケン(と何らかの楽器のユニゾン)や、類似のベル系シンセなどが多用されるようになる節目のアルバムでもあった。

ところで、小林武史は数年後自身がプロデューサー・メンバーを務めることになるMy Little Loverのコンセプトの原点にこの『Pocket Music』があったことを、後年さりげなく明かしている。
小林「そうすねえ。だからやっぱり - いや、これはもうどうとでも言えることなんですけど、マイ・リトル・ラバーっていうのはひとつの思いつきから生まれたものなんで。それは例えば(山下)達郎さんの『ポケット・ミュージック』だったり。(略)やっぱりちっちゃい頃から1曲好きになるとしばらくずーっとその曲聴いてるっていうか、そういう曲の在り方みたいなことでやってみるっていうアイディアがあって、たまたまそん時にAKKOが登場して。で、始まったんですよ。」
(「Bridge Vol.31 2001年8月号」ロッキング・オン、2001)
文脈からこのコメントではアルバムでなく楽曲としての「ポケット・ミュージック」を指していそうだが、小林によるJポップ史に残る名盤のひとつであろうMy Little Lover『Evergreen』も『Pocket Music』無しでは生まれなかったということになる。いま一度、日本ポップス史における『Pocket Music』の重要性は認識されるべきかもしれない。


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リリース後のアルバムレビューをいくつか見ていきたい。まずはこの時期かなり桑田が接近していた渋谷陽一の評から。
 A面1曲目のイントロの音にとりあえずは驚かされる。何も洋楽に近ければ偉いというものではないが、アレンジの緻密さ、演奏能力の確かさ、ほとんど洋楽のレベルである。しかも日本人のサウンド貧乏性とも言える録った音は全部使ってやる、というところがなく、音数はシンプルにまとめられている。この辺は小林武史の力が大きいのだろう。こうしたアレンジと録音のレベルの高さはアルバム全体にいえる。時間をかけてディテールまでていねいに作られている事が聞いていると十分に伝わってくるのだ。
 (略)英語で歌うKUWATA BANDで欲求不満を起こしていた彼の言葉のファンもこのレコードでは満足することができるだろう。
 さて、この僕にとっても長い間楽しみにしていたレコードを聞いて、おおむね満足したのだが、一点だけ気になる事があった。それはレコードの持つ密室的なムードである。あまりにもお見事にコントロールされ、どうもポップ・ミュージックの持つ下品さに欠けるような気がしたのだ。「まあ、いいか」と放りだしたものが結果、音楽に勢いをつけたりするのがポップ・ミュージックの面白いところであったりする。そうした、いい意味でのいいかげんさがない。何やら達人が作り上げた見事な完成品的な感じがする。確かに整合感を無視したような作品もあるが、それも予定された整合感の無視のように思えるのだが。(渋谷陽一)
(「ロッキング・オン・ジャパン 1988年7月号」ロッキング・オン、1988)

続いておなじみミュージック・マガジンからは高橋健太郎の評。高橋はサザンのデビュー前後のライブに足繁く通ったのみならず、「Young Mates Music Player 1978年10月号」(プレイヤー・コーポレーション、1978)とかなり早い段階でのインタビュー記事を担当。「ザ・ベストテン」サザン初登場時の新宿ロフト中継にも観客として桑田の真後ろにずっと映っている(高橋健太郎kentarotakahashhttps://twitter.com/kentarotakahash/status/37450118856839168 pm6:56 2011.2.15.)など、デビュー当時のサザンにかなり近い位置にいた音楽評論家のひとりだ。
 桑田佳祐は、その登場の時から馬鹿でかい個性を持っていた。僕は彼とはまったく同世代だが、ヤマハの渋谷店で初めてサザンのデモ・テープを聞かせてもらった時は、負けた!と思ったし(バンド解散したのはあの直後だったなあ)、アルバム・デビュー以前に10回は観に行っている。日本語をロック・ビートに、あるいは洋楽的なメロディーにのせる方法の新しさ、そして傍若無人でいながらハートフルな歌心には、ホント、惚れ込んできた。
 けれども、天才ゆえのワン・パターンというべきか、デビューした頃の彼の音楽の中に散らばっていた可能性の一部分しか発展していないように思えるのが、僕には気になる。(略)良いアレンジャーを得て、ゴージャスかつ凝った実験性のある音を作ってもいる。それでも、このアルバムの印象は、どこかフラットでレンジが狭い感じがあるのだ。まだまだ桑田佳祐にジェームズ・テイラーやマイケル・マクドナルドのようになって欲しくない僕には、それが惜しい。(高橋健太郎)
(「ミュージック・マガジン 1988年8月号」ミュージック・マガジン、1988)

ちなみにこの数ヶ月後、ミュージック・マガジン編集部は同じコーナーで高橋に山下達郎『僕の中の少年』のレビューを依頼している。続編のようなレビューになっているのが興味深い。
 桑田佳祐のソロに、まだまだジェームズ・テイラーやマイケル・マクドナルドのようにはなって欲しくない、と文句をつけたら、今度は山下達郎の新作が回ってきてしまった。知っての通り、この人はとうにジェームズ・テイラーの域ですからね。もはやモデル・チェンジなし。ひたすら細かいチューン・アップを重ねて、完成度を高めていくだけ。(高橋健太郎)
(「ミュージック・マガジン 1988年12月号」ミュージック・マガジン、1988)

渋谷はクオリティの高さとそれゆえの完璧なサウンドの息苦しさ、高橋はデビュー当時の桑田の才能の眩しさとこのアルバムの落ち着き様のギャップを素直に吐露している。おそらくデビューからリアルタイムで桑田を追いかけていたリスナーには、このあたり共感するところもあるかもしれない。

古参のこういった意見がある一方で、今回のアルバムで初めて桑田作品を気に入ったと評価する向きもある。こちらは鈴木惣一郎の評。
桑田佳祐はこのソロ・アルバムを作るにあたり、2枚のアルバムを絶対参考にしている。1枚はポール・マッカートニーの『ラム』、もう1枚はドナルド・フェイゲンの『ナイト・フライ』。これはかなりの確信がある。アルバム全体に漂うセンチメンタリズム、ダンディズム。+αの要素としてのスティング、バカラックなんてのも匂いますぜ。おそらく、桑田氏の描くソロ・アルバムというイメージは、前述のアーティストたち、いわゆるシンガー・ソングライターのりに集約されていると思われる。サザンは自他共に認める桑田氏のワン・マン・バンドなのに、KUWATA・BANDだってそうだったのに、やはり彼にとってのソロという部分はこのアルバムの中にのみある。とてもナイーブで、がんばり屋で、ポップスの大好きな桑田佳祐。僕は初めて気に入りました。(鈴木惣一郎)
(「Techii 1988年8月号」音楽之友社、1988)


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様々な評はあるが、本ソロ・アルバムがなにより桑田本人にとって刺激のあるレコーディング、迷いのない出来になったのは間違いない。以下は日時の記載は無いが、90年はシングル「真夏の果実」と同日発売の歌詞集収録のインタビュー。
ソロアルバムはね、サザンとは比べられないけれど、個人的には一番好きだな!ってのが本音。っていうのは、音楽のキャリアが何年があって、その中で、やっぱりいろいろ踏まえて来たものを、ソロっていう形だけど自由に出せたこと……それに小林武史君っていう、とってもいいパートナーを見つけられたこと、まあサザンもクワタバンドの時のメンバーもそうなんだけど、いい仲間と音楽作りができるっていうのは最高。で、ソロアルバムの時はシェフが俺じゃなくて小林君。名シェフのもと、素材・桑田は、実に心地良く楽しませてもらいましたね。
桑田佳祐ただの歌詩じゃねえか、こんなもん ’84-’90」新潮社、1990

こちらは94年のソロ活動振り返りより。
「で、小林くんの場合というのは、それは8小節じゃないんだけど、歌に対してとるメロディーの考え方とか作り方とか、それから非常に繊細なエルトン・ジョンみたいなものから、アッパーなちょっと気狂い的なやつ-例えばT-レックスみたいなものとかちょっとプログレッシヴ的なもの……イギリス的なもんかなあ?その辺がすごくうまいのね。で、ビックリしちゃったの。だから彼とチームを組んでた時のすごいめくるめくアレっていうのは、愉しかったというか、すごく勉強になったっていう。だから最初のソロ・アルバムっていうのは、そういうふうにして自分の世界観みたいなのを小林くんによってすごくパーッと広げてもらったという憶えがあるんですけど。」
「自分はいままで音楽を作ってきたけど、それまでは『こんなもんでいいんじゃない?』っていうとこで途中でやめてたような気がする、全部1曲1曲。だけどあきらめなくなったですね、やっぱり彼(引用者注:小林)と一緒にやってると、大事にするようになったというか。詞もヨイヨイだし、それから『やっぱロックでしょ、はいヨイヨイ』だったしね」
(「季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994」ロッキング・オン、1994)

桑田はこの自信作を提げて小林とともにソロ・アルバムのツアーを行いたかったところだが、完成が予定より大幅に延びてしまったことから、88年夏に既に予定されていた別のスケジュールとバッティングしてしまうことになる。そのあたりについては次回に。