2024年4月11日木曜日

1990 (1) :ペギー・リーみたいに

89年9月の『Southern All Stars』録音完了後、桑田は予定どおり監督作品の撮影に入る。クランクアップ後の年明け、アルバムリリースとサザンのツアー「夢で逢いまShow」を開催。ツアー終了後の5月より、映画の編集・追加撮影、そして映画公開と同時にリリースされるアルバムのレコーディングを行なっている。

桑田監督の映画については、初期コンセプトについては以前記したとおりだが、作品の規模としても当初はそれほど大きなものではなかったという。

— 当初は「ストレンジャー・ザン・パラダイス」みたいな映画になるという話も聞きましたけど……。
「うん。だって、最初は予算が5000万円くらいの単館上映のものっていうことだったから。おれも映画撮るのなんか初めてだしね、それくらいのほうが気がラクでいいやと思ってて。それで、撮影期間も2ヶ月ぐらいに設定されてたから、地味なモノクロの、でもアナーキーな映画をつくろうと考えてたんですよ。」
(『ぴあ music complex 1990年8月29日号』ぴあ、1990)

おそらく最初に事務所内で企画が立ち上がったのは88年のサザン復活前と思われるが、その復活劇がビジネス的に大きな結果を残したからというのもあるのか、撮影期間・予算・内容等、規模はどんどん当初構想から大きくなっていったようだ。この増え続ける予算をカバーする案として、音楽アルバムの制作というアイディアが出る。アミューズだけでなくビクターにも映画の予算を負担してもらい、アルバムの売上を還元させるという目論見である(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)。当初、A&R高垣健は単純にインストも多く入った映画の「サウンド・トラック」アルバムをリリースしようとしていたようだが、桑田の意向でいわゆる普通のアルバムとして成立するよう、追加で曲作りからの作業が行われることになったという。

「ウチのTというチーフディレクターが、勝手に劇盤の選曲とかもしちゃって(笑)。でも、その中身が、さっき言った二曲(引用者注:「愛は花のように」「忘れられたBig Wave」)と、あとは8小節しかないような曲だったり曲だったり12小節しかない曲だったりを、全部サントラ盤として選曲してる。で、「これでイイんじゃないか?」と言ってるTという人がいて(笑)。俺は焦ったのよ、アンタ何考えてんの?って。この曲、12小節しかないよってさ。「でもサントラだからねぇ」とか神戸訛りで言われた時には、私は目まいがしたんですよ。「それじゃマズいんじゃない?いくらなんでも」ってね。やるからにはアルバムとして成立させたいから、また新たに曲を作ったりする作業が始まったんですよ。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

最終的な映画の出来については公開から34年が経とうとしている現在でも賛否分かれるところだが、もし、映画が桑田の語るような、初期のストイックなコンセプトと規模のままで作られていたら…そのいっぽうで今聴けるような内容のアルバムが企画されることもなかったのかもしれない。

実際にリリースされたアルバム『稲村ジェーン』は、帯やライナーにサウンド・トラックという文字はない。広告でも、サントラとは書かずに「超娯楽アルバム」と銘打たれている。そういえばジャケットも、よくよく見れば映画「稲村ジェーン」の内容に沿ったイラストでもなく、映画を撮影する男が描かれている。このあたりからも、映画のサントラというよりは、映画監督が作った歌ものアルバム…というほうがしっくりくるのだろう。



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Produced by KEISUKE KUWATA, TAKESHI KOBAYASHI
Co-Produced and Engineered by KUNIHIKO IMAI

本アルバムのプロデュースは桑田と小林の2名のみ。作業パートナーは『Southern All Stars』の門倉聡から小林武史にバトンタッチしたようである。また、いつものように共同プロデューサーとして今井邦彦、またレコード会社の共同プロデューサーとして高垣健も別途クレジットされている(ちなみに映画の音楽クレジットはというと、同じ体制を指していても表現は異なり、音楽:桑田佳祐、音楽監督:小林武史、音楽プロデューサー:高垣健、であった)。

1988 (3)  : ラテン・ミュージックとBig Wave」のとおり、もともとサザンとは別のプロジェクトとして始まった映画用音楽だが、プロデューサーのクレジットしかり、アルバムも中身を見れば方針はそのままである。先行して『Southern All Stars』に収録された2曲、サザン名義でリリースされた先行シングル「真夏の果実」、そして「Mambo」の計4曲にサザンのグループ名は記載されている。しかし大部分である他7曲はあくまで桑田・小林によるチョイスの、曲ごとに集められた個々のミュージシャンたちによる楽曲…というコンセプトで、参加者がパートとともに羅列されているのみ。特に固定のグループ名なども記されていない。

桑田としても、実態はサザンと別プロジェクトだったということでか、『Southern All Stars』と比べかなりリラックスした精神状態のレコーディングだったようである。
「十字架背負わないでやってる適当さが好きです。ビートルズの『Hey Jude』みたいな統一感のなさがすごく好きで、個人的には飽きのこないアルバムです。」
(『ワッツイン 1993年12月号』)

しかし、リリースされたアルバムの名義は「Southern All Stars and All Stars」と冠され、一見すると一曲一曲がサザンを主体に、さらに多くのゲストを迎えて制作された…というような印象を受ける。邪推すると、営業的な観点からサザンの名前をメインに据えたい、という判断が事務所/レコード会社側であったのではないか。当時のサザンブランドのビジネス的な力の強さを示す出来事と言っていいのかもしれない。

余談だが、プロデューサーの記載のあるところすべてに空白行を開けずにサザンオールスターズの文字がある。すぐ下にメンバーの名前とパートが羅列されており、単にサザンのメンバー紹介の欄と解釈しているが、常にこの固まりだとまるでプロデューサーにサザンが含まれているようにも読めてしまうのが面白い。


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88年秋から長期にわたり断続的に行われたレコーディングだが、録音順を推測してみよう。
88年11月以降、サザンのアルバム着手前から録られていた「美しい砂のテーマ」「愛は花のように」「忘れられたBig Wave」以外に、実際に映画に使われているスペイン語の楽曲が「稲村ジェーン」「Mambo」「マリエル」だ。89年9月、サザンのアルバム完成後からクランクインまで、7日間ほど映画音楽のレコーディングが行われている。おそらくこれらの楽曲はクランクインまでの時点で予め録られていた楽曲ではないだろうか。89年9月時点の取材で桑田は、映画音楽は全曲スペイン語でいきたいと語っている。

— 音楽は桑田さんおっしゃっていたじゃないですか。スペイン語とか…。
全部スペイン語にしたいなと。
— それはマジでやってるんですか。
「マジでやってますよ。今スペイン語はやってるし、ジプシー・キングスとかね。そういう意味では今っぽいものを描きたいなという、昔と今は一緒だという考えでいきたいなと。」
(桑田佳祐「平成NG日記」講談社、1990)

「平成NG日記」によれば、撮影が完了したのちの90年1月に数日、そして映画の編集・さらに追加撮影が完了した5月半ば以降、7月まで集中してアルバムのレコーディングが行わている。
前述の桑田のコメント、そして次の映画プロデューサー森重晃の発言からすると、ここで新たに録音された楽曲が特にラテンものではない、日本語詞の楽曲たちと思われる。

 「忘れられたBIG WAVE」は、歌詞も映画のストーリーに沿ってますからね。そうすると「真夏の果実」「希望の轍」が作られたのは……?
森重「撮影の後ですね。映画の撮影が10月か11月ぐらいに終わって、編集していた段階で、桑田がライブツアーの合間に「希望の轍」と「真夏の果実」を作ってきて、これを使いたいと。「希望の轍」は、主人公がダイハツ ミゼットに乗って、山の上に向かうシーンで使いたいということになって、翌年の4月に新たに撮影したんです。」
 曲に合わせて、シーンを追加した?
「というより、“曲の長さに足りるように”ですね(笑)。山の上に上がっていく場面はもともとあったんですけど、長さが足りなかったから。
 それくらい楽曲と映像のバランスにこだわっていた、と。
「そうですね。あの2曲はそもそも、撮影が終わって、桑田自身が刺激を受けて作った曲だと思うんです。それはすごくいいことだし、こちらとしても嬉しいですよね。桑田に「これどう?」ってスタジオで聴かされた時に、すごいなって思いましたから。「希望の轍」と「真夏の果実」はある程度、曲に合わせて映像を編集してるんですよ。」
(『稲村ジェーン』プロデューサー森重晃が明かす制作秘話と“映画監督・桑田佳祐” https://realsound.jp/2021/06/post-801592_2.html)

楽曲に合わせ追加撮影が行われた「真夏の果実」「希望の轍」、そしてカバー曲「愛して愛して愛しちゃったのよ」。さらには映画に使われなかった、純粋にアルバム用の楽曲「Love Potion No.9」「東京サリーちゃん」(「愛して愛して愛しちゃったのよ」も、本編ではラジオからの音?として薄く・短く流れるという、他の曲とは異なる使われ方なので、本来映画に使う予定ではなかったのかもしれない)。このあたりが90年に入ってから製作された楽曲だろう。

「ストーリーを練ってた時はね、マンボとかビギンとか、あの、ビギンって音楽の方のね、とか、そいうラテンなのかなあって思ってたの。でも、女優さんに会ったりとか役者さんに会って話してると、こっちも影響受けて反映していくでしょ。最初は台本てものしかなかったけど、だんだん『稲村ジェーン』の本当のテイストがわかってくると歌詞が出来てきたりとか。
(『ワッツイン 1990年9月号』CBS・ソニー出版、1990)

結果的に、『Southern All Stars』ほどではないが、やはり初期構想の範囲外の曲が増えていき、ラテン・スペイン語といった単一イメージに縛られない内容のアルバムに仕上がっている。おそらく着手当初はワールドミュージックブームを契機に、日本/桑田のポップス受容史における英語圏以外の音楽=ラテン音楽に改めてフォーカスを当てる…という狙いがあったはずだ。しかし、いざアルバムとなるとストイックに一辺倒のテーマに絞らない…というのは、これはもうポップス歌手・桑田の性なのだろう。アルバムとして強烈な印象を与えるよりはあくまで楽曲主義、と言うべきか。しかしそのおかげで、歌謡曲、ニューミュージックがJポップと名を変える90年代の幕開けにふさわしく、普遍的な日本語ポップスが2曲も生まれてしまうのだからなんとも面白いとしか言いようがない。


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レコーディングは『Southern All Stars』と交互に行われているため、特にクランクイン前はサザンのレコーディングと重複したスタッフで制作されている。クランクアップ後、90年のレコーディングでは小林武史を作業パートナーに据え、本格的にアルバムを完成させる作業を進めたようだ。ここでコンピューター・プログラミングに角谷仁宣が初登場する。

本作はプログラマーのみ、曲ごとのクレジットが無く角谷・梅崎俊春・菅原弘明3名の名前がまとめて記載されている。関連シングルにはクレジットすらない状況だが、菅原・梅崎は『Southern All Stars』でも登場しているため、後半のレコーディングでは基本的に角谷がプログラミングを担当していると思われる。角谷は89年の大貫妙子シングル「家族輪舞曲」(小林プロデュース・アレンジ)にプログラマーとして参加、そのまま小林とのコンビでの仕事が続くため、本作もこの組み合わせでは早い時期の作品ということになる。これ以降角谷は91年の立花ハジメ『Bambi』などの参加作もあるものの、基本は桑田関連のレコーディングにほぼ専属のような立ち位置で関わっていく。小林が桑田関連の制作から離れた95年以降もそのまま桑田の制作に継続参加し、現時点では2021年まで桑田関連作のほとんどのプログラミングを担当。実はこれ以降の桑田サウンドの要といえる存在で、そういう意味でも本作はかなり重要な意義を持つアルバムと言えよう。角谷が最初に着手した曲は、「真夏の果実」だったようだ。

最初に取り掛かったのは「真夏の果実」。
レコーディングの始まった日、アミューズの大里会長(当時)が様子を観に来ました。私は初対面だったのですが、当時使っていたMac SEを見て、会長「何これ?」、私「マック、パソコンです。これに演奏させます。」、会長「こんなので音楽作って面白いの?」、私「はぁ」心の声(そう言われても)みたいな会話がありました。
そして「希望の轍」、「稲村ジェーン」そのあとサウンドトラックの録音、そしてアルバム「稲村ジェーン」へ、桑田さんのアイデアで映画に使われていない曲を数曲追加し「サントラ」にとどまらない「アルバム」というカタチになりました。
(角谷仁宣 <映画「稲村ジェーン」のレコーディング現場> 一般社団法人 日本シンセサイザープロフェッショナルアーツ(JSPA)Column https://www.jspa.gr.jp/post/2021_0604)

90年半ば、本作と並行して小林武史プロデュース・角谷仁宣プログラミング・今井邦彦エンジニアリング・ビクター青山スタジオにて…と、かなり同じ条件でアルバムを録音していたのが大貫妙子である。『New Moon』としてリリースされるこのアルバムはキーボード・シンセ主体で若干暗めの、いかにも当時の小林らしい質感のサウンドで構築されている。前年の小林ソロにも近い感触だ。対して『稲村ジェーン』は桑田の主張が影響してか、生楽器とシンセ隊をうまく組み合わせた、この頃の小林単独作品では味わえないようなサウンドに仕上がっている。

 音の傾向としては?
「楽器でいうとさ、ウクレレとガット・ギターとかですね。非常に安直な楽器というかさ。でも、音の存在感とかは太いでしょ。ガット・ギターとハープの組み合わせとか。ああいうの最初に思い浮かんだんだよね。あと、トランペットとか。最もシンプルな構成の楽器とかがハマるな、というかね。だから自分の中の湘南というのが、音にするとそういうシンプルな生楽器だったんだろうね。あくまで湘南をシンプルな生楽器で装飾してみたい、というのが。シンセとか加工されたエレキ・ギターとかはさ、違うと思った。
(『ワッツイン 1990年9月号』)

なお、映画用音源はドルビーサラウンド4ch用に、アルバムとは別に今井邦彦がミックスしている。そのため「真夏の果実」など、曲によってはレコード・バージョンから明確に定位を変えているものもある。「Mambo」はレコードではオミットされているブラスがイントロに入っていたり、「マリエル」はリード・ヴォーカルが桑田でなくLuis Sartorによるものに差し替わっている…等のバージョン違いもあるため、映画用ミックスもマニアは要チェックだろう。


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アルバムは単純に楽曲だけでなく、映画を鑑賞している男女の会話を曲間に挟む…という、いかにも企画もの的な構成になっている。ドラマ部分はスーパー・エキセントリック・シアターからYMO『Service』にも参加していた今村明美、同じくSETの寺脇康文の2名を中心としてミニドラマを展開。この寸劇パート、CDでも曲間指定されず楽曲扱いになっていたが、サブスク時代になっても楽曲の一部ということになってしまい、ほとんどの曲が必ず最後に寸劇がついてきてしまう…のは今となってはご愛敬か。

小倉博和のガット・ギターから始まる、Gipsy Kingsの香りが濃厚な映画のタイトル・ソング、「稲村ジェーン」でアルバムは幕を開ける。
「マイナーのラテンで、16ノリのリズムが心地良いですね。小倉(博和)くん(g)のガット・ギターがスゴイです。ナイロン弦がリッチー・ブラックモアしてるから(笑)。
(『ワッツイン 1990年9月号』)
小倉と小林以外に、松田弘のドラムをフィーチャー。Luis Sartorのコーラス・語りが聞こえるが、記載が漏れているようだ。

続いていきなりラテンものではない軽快な8ビート、冒頭から印象的な小林のピアノをフィーチャーした「希望の轍」。
「この曲はミゼット・ソングと呼ばれていて、ミゼットが走る所で使うことになってるんですけど、エルトン・ジョンみたいな軽快なポップ・ロックですね
(『ワッツイン 1990年9月号』)
ミゼットを走らせるシーン用に…と桑田が書いたメロディに、ピアノのイントロ、シンセのストリングス、メロトロンのフルート、桑田のひとりカノン風コーラス、左右の逆回転フレーズ…といちいちドラマティックな要素をぶつける小林のアレンジが見事である。メロディにうまく対応したアレンジ、完璧なコンビネーションといっていいだろう。小倉・原田末秋のギター以外は、小林と角谷によるトラックのようで、ドラムはマシン、ベースもシンセでコンパクトにまとめられあまり重くなっていないのがちょうどよい塩梅だ。『Southern All Stars』後、気負いがなくなった状態で生まれたこの曲は、時間を重ねるうちに桑田・サザン史に燦然と輝く名曲となる。桑田によくある、無欲の一筆書きシリーズのひとつである。

『Southern All Stars』に先行収録された桑田のワンマン・アカペラ「忘れられたBig Wave」に続き、小倉のガット・ギターをフィーチャーした本アルバム中唯一のインストもの、「美しい砂のテーマ」。前述のとおり小倉と桑田の出会いの曲で、小林・小倉・北村健太の3名で88年秋に録られている。60年代のLos Panchosや70年代のOliver Onionsあたりの映画音楽的な、スペイン・イタリアあたりの雰囲気がよく出たノスタルジックな一曲だ。

アルバム用としてのアイディアか、1965年にちなんだ洋邦カバーが1曲ずつ収められている。「Love Potion No.9」はJerry Leiber & Mike Stollerコンビ作で、ヴォーカルグループCloversによる59年のバージョンがオリジナル。その後英国のバンドSearchersが64年にカバー、翌65年にかけてヒットを記録している。その後も71年にヴォーカルグループCoastersがヒット(『稲村ジェーン』バージョンでは参考にしていないようだが、このバージョンはラテン風味の味付けでこれまた良い)させるなど、長く歌い継がれる1曲だ。小倉博和と原田末秋のコンビによるキレのあるウクレレをフィーチャー、ベースは桑田ソロにも参加の樋沢達彦、パーカッションはおなじみ今野多久郎。さらには珍しく、当時本作と並行してビクター青山スタジオにてアルバムを録音中だった大貫妙子をコーラスに迎えている。

クランクアップ後に録音され、当初映画のテーマ曲として作られていた「忘れられたBig Wave」からその座を奪いサザンの先行シングルとしてリリースされたのが「真夏の果実」である。これも「希望の轍」同様、無欲の一筆書き系の曲といえそうで、奇をてらわずに素直なメロディが展開されるバラードだ。伊豆というのは映画のロケ地である。

「「真夏の果実」は伊豆で作ったんですけど、(略)映画『稲村ジェーン』の公開前で、忙しくもあり何か寂しくもあり……って時で。でも、妙に充実している時期にフッとできた曲。
「メロディを小林君に聴かせて、小林君にいろいろ考えてもらった。俺は横からチャチャ入れるだけで(笑)。その意味じゃ、“サザンオールスターズに小林武史ありき”ってハッキリと言える。彼の力量を強く示した曲ですね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

アレンジ面で耳を引くのは、まずなんといっても強烈に引き込まれるイントロだ。シンセのハープとグロッケンのみの三音で始まり、右からシンセのチェロ、中央で硬質なブラシとキック、左から大森隆志によるウクレレのストロークが重なっていく。そして一旦グロッケンとチェロが止むと、圧倒的に抑制され、引いた感のある桑田の歌が始まる。『Keisuke Kuwata』以降、どんどん多彩に、ニュアンスに細やかさが出てきた桑田のヴォーカルであるが、ここにきて極まった感もある。日本語の歌詞もはっきり聴き取れる発音だ。

「イントロのハープ…あれはシンセなんだけど、俺が「ペギー・リーみたいにやりたいな」と言ってて、それがハープ的な音を喚んだのかもしれない。この曲で『稲村ジェーン』の見方が変わったね。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
Peggy Leeということで、メロディを書いた桑田のイメージには58年のアルバム『Sea Shells』があったと思われる。このアルバムは全編ハープ・ハープシコード・ヴォーカルのみのストイックな編成で録音された、Peggy Leeの前後の作品と比べてもかなりの異色作だ(収録曲も民謡、Leeの自作曲、演奏をバックに英訳された漢詩の朗読…と相当ユニークである)。特に大下由佑の指摘する「The Gold Wedding Ring」などは、ハープとヴォーカルのみで演奏されている。おそらくイントロのハープのフレーズは、桑田のイメージを受けた小林が、歌い出しのヴァースにおいての、ヴォーカルと交互に踊るカウンターとして生み出したものなのだろう。ここひとつ取っても、ソングライターとアレンジャーの素敵な呼応関係が成立しているといえそうだが、このフレーズを単独で抜き出し、グロッケンを添えてイントロにも配置したのが素晴らしい効果となっている。小林・桑田とシンセのハープの組み合わせというと実は「ナチカサヌ恋歌」(そういえばシングルのカップリングにも90年4月武道館での演奏が収録されている)ですでに一度チャレンジしているのだが、音の整頓具合はぐっと進化し、緊張感の増した世界を構築している。

ちなみにこの曲が初参加の角谷によると、ハープやチェロはKorg M1の音ということだ。
角谷仁宣「例えば「真夏の果実」で使ったハープの音などは、よりリアルな音色でも色々試してみたんですが、やはりM1のハープでないとあの曲のニュアンスが出せませんでした。その後に出た「COMBINATION 1」などのTシリーズ用のディスク、これも今回のM1ソフト・シンセ・バージョン1.5で追加になりましたけど、それに入っているチェロの音も同じ曲で使っています。
「小林(武史)さんも使っていたし、あの頃は『稲村ジェーン』(1990年)とか『世に万葉の花が咲くなり』(1992年)とか原(由子)さんのソロ・アルバム『MOTHER』(1991年)などを小林さんと一緒にやっていて、共通の言語としてと言いますか…。でもあの頃、みんな使っていましたよね。他の機材が良くなかったということではなくて、オールマイティではなかったんですね。そこへいくと、オーケストラ系からポップス系まで何にでも使えたのはM1やTシリーズでしたね。
(SOUNDBYTES : 角谷仁宣 http://www.korg.co.jp/SoundMakeup/SoundBytes/MasanobuKadoya/)

曲が進むにつれ、印象はシンプル、アコースティックでノスタルジックなままだが多数の音が効果的に登場し、桑田の歌とともに盛り上がりを見せていく。果てはフィリーソウルにまで接近したのか、エレキシタールまで入っている。印象以上に多くの音が入っている…という小林武史の得意技が十二分に発揮されている。

この桑田監修のもと、小林と角谷の作業で組み立てられたトラックに、(本アルバムを支配する、小倉の鋭い演奏とはまた別の味がある)大森のウクレレと、原由子のハーモニーを載せることで、図らずもまごうことなき最新型のサザンオールスターズを提示することにも成功したと言えるのではないか。『Southern All Stars』もすでに同じ体制だったといえるが、事実、90年代の日本のポップス…Jポップ時代は冒頭の時点でこういったレコーディングスタイルがすっかり主流になっていた時期である。こののち桑田のセッションにも登場する、佐橋佳幸は同90年の小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」のレコーディングを振り返ってこのようにコメントしている。
佐橋佳幸「基本的には打ち込みで作って、どうしても打ち込みでは表現できないギターはギタリストを呼んで、他にも必要な楽器があったらそれもダビングして、あとは歌とコーラスを入れて完パケ… という形が定着してきていたんです。そういうやり方が主流になりつつあった時期。このあいだ話した、教授(坂本龍一)と同じやり方ですよね。」
(【佐橋佳幸の40曲】小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」あの超有名イントロ誕生の秘密! https://reminder.top/387207757)

音楽評論家の萩原健太やハルメンズ・パール兄弟のサエキけんぞうは、この曲がその後のサザンにとって重要なポイントになったと語っているのも興味深い。

萩原健太「しかし、桑田が監督した映画『稲村ジェーン』のサウンドトラックアルバムは、桑田佳祐というミュージシャンの成長を本当に思い知らせた傑作で、主題歌の『真夏の果実』はサザンがその後も活動を継続する上でとても重要な一曲だったと思います。ちょっと大人で、聴いてる人を泣かせる、その後のサザンを象徴する曲ですね」
(桑田佳祐、井上陽水… 大物アーティストの転換期になった1990年 https://www.news-postseven.com/archives/20210726_1677640.html)

サエキけんぞう「それまでのサザンというか、80年代の桑田さんは、KUWATA BANDとして活動したり、音楽的なことをいろいろと試していた時期だったと思うんですよね。で、そのあとにリリースした“真夏の果実”を、ソロではなくサザン名義にしたというところがポイントで。つまり、「ソロもバンドもないんだ」という意識というか……もちろん、そのあともソロは定期的にやっていくんですけど、すべてをサザンで背負い込むことを表明した曲が“真夏の果実”だったと僕は思っていて。そのことにも感銘を受けたんですよね。」
(桑田佳祐が音楽史に名を残すまでの変遷を、サエキけんぞうが分析 https://www.cinra.net/article/interview-201608-saekikenzo)

また、音楽プロデューサーの亀田誠治は、自身にプロデューサーというものを強烈に意識させたのがこの「真夏の果実」、小林武史であったと語っている。

亀田誠治「サザンについてはこれまでいろいろな媒体の取材でもお話ししていますが、僕はデビュー当初から大好きで、もちろんこの『稲村ジェーン』以前もずっと聴いていました。ただ、「真夏の果実」を聴いた時に、もうイントロ2秒で、2小節で号泣してしまったんですね。キンコンカーンというグロッケンの音しかないのに、そのメロディだけで泣けてしまった。「これは今まで僕が聴いてきたサザンと違う!!」と思って、CDシングルを買った。すると、そこで"小林武史"という名前を発見したのです。"Produced by 桑田佳祐、小林武史"。つまりプロデューサーという人が入ることで「こんなに音が変わるのか......」と初めて気が付いたのです。
(亀の音楽史 講義12 真夏の果実/サザンオールスターズ http://kame-on.com/college/faculty_of_culture/meiban/k12.html)
※引用者注:実際はシングルにプロデューサーの記載は無いので、アルバムのクレジットと思われる

ある意味では86年以降のさまざまな試行錯誤が、この曲でサザンにうまくフィードバックされたと言ってもよいのかもしれない。『月刊カドカワ 1992年12月号』において、桑田は「僕が思うサザンのベスト5に入るナンバーのひとつに「真夏の果実」を挙げている。

続いて、ルンバ・ビートだがマンボを踊ろうと歌われるユニークな「Mambo」。映画ではオープニング・ナンバーとして使用されている。
「これもけっこう最初の頃に作った曲。映画「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のオープニング曲にヒントを得て作ったんですけど、ちょっと違っちゃったかな。ザラついた、ざっくりとした感じのストーンズのりの曲。
(『ワッツイン 1990年9月号』)
「Stranger Than Paradise」オープニングで流れていたScreamin' Jay Hawkins「I Put A Spell On You」にヒントを…と語っているが、アレンジも比較的賑やかで、確かに「I Put〜」のようなクールさとはまた別の趣がある。サザン名義で、小林に加え門倉聡・菅原弘明がアレンジにもクレジットというのは「フリフリ’65」と同じ体制なので、同時期の録音だろうか。さらに生のブラス隊も加わっており、比較的シンプルな顔ぶれで録られた本作の他の曲とはいささか雰囲気が異なる。少なくともドラムは松田・ギターは大森のタッチに聴こえるので、この2名の起用からサザンの名を冠したというところか。トロンボーンに桑田ソロにも参加の松本治、トランペットは小林正弘と菅波雅彦、サックスに渕野繁雄と包国充。パーカッションは珍しくティンパン・ナイアガラでもおなじみ、浜口茂外也が参加している(余談だが、浜口は浜口庫之助の息子にあたる)。コーラスのクレジットはないが、サザンメンバーというよりはLuis Sartorの声に聞こえるので「稲村ジェーン」同様記載漏れか。

前年にファースト・アルバムをリリースし、この90年半ばには来日が予定される(本人の体調不良で中止となる)など、日本でも静かに評価が広がっていたLenny Kravitzの影響がかなり濃厚な「東京サリーちゃん」。桑田のみならず、当時はシンセ/コンピューター主体の音作りを得意としていた小林武史にとっても、先々のLenny Kravitzもの・生音ものの原点として大きな意味を持つ曲だろう。
― レニー・クラヴィッツのデビューアルバム『Let Love Rule』(1989年)は、キラキラした1980年代のサウンドとはまったく違う、丸く温かみのあるサウンドでした。
小林武史「当時、レニー・クラヴィッツの音に大きな衝撃を受けたミュージシャンはたくさんいて、僕自身もその一人でした。彼は1960、70年代に使われていたヴィンテージの機材を使って、演奏現場にある臨場感や空気感をそのまま閉じ込めようとしていた。そうすると後で音を差し替えることができないから、どんな音を出したいのか? という「初期衝動へのこだわり」をものすごく重んじて録音することになるんです。そんな研ぎ澄まされた状況で生まれる音楽は、演奏する人の息づかいや命がより見えてきて、ロックの持つ「自由な感覚」にもつながっている気がします。ウォーターフロントスタジオで僕が体験したのは、そんな多様な人々を生々しく捉えたバンドの在り方、音の在り方だったんです。」
(『YEN TOWN BANDは、なぜ20年ぶりに本格的に復活するのか?』 Vol.1 小林武史インタビュー このバンドについて今話しておくべきこと https://www.cinra.net/article/column-yentownband-kobayashitakeshi)

この音像なら現役のサウンドとしてJohn Lennonへの愛を表現できる…というところに桑田・小林は共感したのではないだろうか。ということでリードギターは桑田本人、左チャンネルのギターは原田末秋。ドラムには元レベッカでRingo Starrマニアの小田原豊を起用。そしてレベッカ以前からの小田原のもうひとつのバンド、Pow!のベースであったPaul McCartneyマニアの根岸孝旨が桑田関連のレコーディングに初参加。当時ミュージシャンを辞めようとしていた根岸には、転機となる出来事だったようだ(【根岸孝旨インタビュー】「とにかく異常なロック好きなことは分かった」と、初めて僕のベースを認めてくれたのが桑田さんでした https://www.kanaderoom.jp/mag/negishitakamune/)。サックスにも佐野元春 with The Heartlandのダディ柴田を起用するなど、ここまでの桑田作品の流れでは異色だが目的のはっきりした顔ぶれである。歌詞も見事なLennon風ナンセンスの世界に仕上がっている。桑田としても自信作だったようで、リリース直後、もはやラテンも映画も全く関係ないこの曲をアルバム中「特に聴いてほしい曲と述べている(『月刊カドカワ 1990年10月号』)

兼崎淳一によるトランペットをフィーチャーしたラテンもの「マリエル」。兼崎は「勝手にシンドバッド」にもホーン・スペクトラムの一員として参加した、サザン関連では最古のゲスト・ミュージシャンのひとりである。残念ながら現時点ではこの曲がサザン関連では最後の参加のようだ。他は小林・小倉・松田と、「稲村ジェーン」と同じ顔ぶれ。映画では冒頭の語りからそのままLuis Sartorがリードヴォーカルをとっている。終盤唐突にBeatlesバージョンの「Twist And Shout」の引用があるなど、軽やかな雰囲気が楽しい。

小林・小倉・北村健太らをメインに録られ、89年春からCMで流れこの時点では既にお馴染み「愛は花のように」を経て、アルバムは原由子のヴォーカル曲で締め括りへ。「愛して愛して愛しちゃったのよ」は、浜口庫之助作、和田弘とマヒナ・スターズ/松平直樹/田代美代子65年のヒット曲のカバー(オリジナルは63年、元スリー・キャッツの小沢桂子ソロ「愛しちゃったの」)。浜口庫之助のカバーといえば思い出すのが87年末、「Merry X’mas Show」での桑田・小林・藤井丈司アレンジによる「愛のさざ波 Dedicate to “Chiyoko”」だ。ハマクラ・クラシックをオリエンタル・ブラコンで料理するというアイディア、音盤に残すべく第二弾として挑戦したのが本曲なのだろう。オリジナルのコードそのままでなくMaj7thを多用することでモダンな響きに変え、ドラムマシンとシンベのリズムを軸にメロウな世界が展開されるあたり、同じパターンだ。終盤、桑田&小林によってアダプトされた部分で登場するウィウウィウコーラスも「愛のさざ波」で既に登場しており、このあたりも続編というのを示していると思われる。
「やっぱり浜口庫之助さんが書く曲ってすごいよね。なんかハネてて、ブラコンぽいっていうか。」
(『ぴあ music complex 1990年8月29日号』)
そして今回はなんとわざわざ和田弘本人のラップスティールをフィーチャー、さらに小倉のガットギターを添えハワイアンの要素をプラス。ハワイアンといっても左右で聴こえる小倉のガットギターはキレが素晴らしく、グルーヴを十分に感じさせる演奏だ。世にもメロウで奇妙な、ハワイアン・ブラコン歌謡がここに誕生したのである。パーカッションは今野多久郎、シンバルのみで松田も参加。桑田も気に入っていたのか、アルバムリリースの20日後とほとんど間隔を開けずに、「Love Potion No.9」とのカップリングでシングルリリースされている。



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サザンがクレジットされていない楽曲たちのその後だが…アルバムライナーの入稿後になんらかの決まった名義が必要ということになったのか(シングル「愛して愛して愛しちゃったのよ」リリースのためだろうか)、映画パンフレットにおいて「稲村オーケストラ」「原由子&稲村オーケストラ」というグループ名が初めて冠される。
映画エンドロールではこのグループ名は登場せず、まとめて「by アルバム「稲村ジェーン」サザンオールスターズ&オールスターズ」とクレジットされていることからも、急造されたグループ名であることがうかがえる。映画公開前日、9月7日のテレビ朝日系「ミュージックステーション」では桑田・小林武史・小倉博和・松田弘・琢磨仁・今野多久郎・Luis Sartor(+ダンサーとして南流石をフィーチャー)が「稲村オーケストラ」として出演、「希望の轍」「稲村ジェーン」を披露。この番組がおそらく「稲村オーケストラ」の初出のようだ。しかし、録音メディアにおいて、この名義が使われたのは後発シングル「愛して愛して愛しちゃったのよ c/w Love Potion No.9」と「愛して愛して愛しちゃったのよ」収録の各種コンピ盤のみ。実は他の音盤では一切登場したことのないグループ名である。

なんとかサザンの名前を入れたかったのか、「愛して愛して愛しちゃったのよ」のレーベルでは「原由子&稲村オーケストラ」よりも「Southern All Stars (And All Stars Presents Cover Special Vol.1)」の文字の方が目立つ。

「稲村オーケストラ」扱いとなった楽曲たちは、90年年末のサザンの年越しライブ(ちなみにこの際サポートとして、ライブでは珍しく小林武史が参加している)以降、何事もなかったかのようにサザンのライブで取り上げられ続けることになる。特に「希望の轍」はラテン〜スペイン語曲でもないということもあり、ライブを通じ違和感なくサザンの楽曲への仲間入りをしていたといえよう。いっぽう、レコーディング版も93年のサザンメガ・ミックス「enoshima」、95年のサザンベスト盤『Happy!』にも特に注釈もなく(=サザンの楽曲として)収録。果ては98年、サザンの旧譜リイシューにおいてアルバム『稲村ジェーン』自体が正式にサザンの10枚目のオリジナル・アルバムとして扱われ、当初のコンセプトは雲散霧消してしまう。

ところが各音楽配信サービスでサザンの全旧譜が扱われるようになった2010年代、本作収録曲でサザン名義でないものは「稲村オーケストラ」の曲として登録。「稲村オーケストラ」の名は突如復活を遂げ、サブスク時代に至っている。


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90年9月に東宝系で公開された映画「稲村ジェーン」は配給収入18.3億円のヒットを記録(過去興行収入上位作品 一般社団法人日本映画製作者連盟 1990年 http://www.eiren.org/toukei/1990.html)。88年からサザンの活動を挟みつつ、2年がかりで駆け抜けた桑田監督の映画プロジェクトは、ここにきてようやく、一段落したのであった。