2022年10月6日木曜日

1987 (3) :悲しい気持ち(Just A Man In Love)pt.1

桑田のソロ・デビュー・シングルである「悲しい気持ち(Just A Man In Love)」については、そのドラムパターンからSupremes「You Can’t Hurry Love」の影響が語られがちだが、あまり桑田本人は何を意識してこの曲を書いたか、多くを語っていない。

前回に続き、2012年のインタビューを見るとこんな発言がある。
「『悲しい気持ち』で、ポップスという言葉を、等身大の音楽を、ようやく掴まえたんですよ。ディープ・パープルも悪くないけど、やっぱり自分の本質はロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』や坂本九の『上を向いて歩こう』なんだよって。遅れてきた反抗期というか間の悪い自我の目醒めだったけど、自分には大きな変換期だったんです。」
(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)


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Ronettesといえばアメリカン・ポップス史上にその名を轟かすガール・グループで、鬼才プロデューサー・Phil Spectorのプロデュース作品という意味でもポップス史上にその名を残す偉大なヴォーカルグループのひとつだろう。特にプロデューサーSpector-アレンジャーJack Nitzsche-エンジニアLarry Levineの三者が織りなす「ウォール・オブ・サウンド」のひとつの完成形ともいえる「Be My Baby」はいまだに語り継がれる名曲だ。

そんな「Be My Baby」でおなじみRonettesだが、Spectorプロデュース期=Philles期以降トレードマークのひとつになったのがリード・ヴォーカルVelonicaのキュートで印象的な「Whoa-oh」だろう。これはPhilles移籍前の作品では見られず、Spectorのプロデュース下最初にリリースされた作品、「Be My Baby」において登場するものだ。

音楽評論家の高橋健太郎は、Ellie Greenwich & Jeff Barryが「Be My Baby」を作曲した時点では3拍子だったのではないかと推察している。
グリーニッチ&バリーの書いた「Be My Baby」はたぶん、デモの時点ではロネッツのバージョンとはかなり違った雰囲気だったのではないかと思われる。グリーニッチは1973年に発表したソロ・アルバム『Let It Be Written, Let It Be Sung』で同曲をセルフ・カバーしているが、それはゆったりした3拍子で、フレンチ・ポップ的な優しい雰囲気を持つ。『Let It Be Written, Let It Be Sung』(書いたままに、歌ったままに)というタイトルからして、ソロ・アルバム用にそういうアレンジを施したのではなく、もともと彼女が書いた形、自身で歌っていた形を示したのが、そのセルフ・カバー・バージョンだったのではないだろうか。
(高橋健太郎「音楽と録音の歴史ものがたり ロネッツ「Be My Baby」をめぐるエリー・グリニッチとヴェロニカ・ベネットのストーリー 〜【Vol.87】https://www.snrec.jp/entry/column/historysr87

その3拍子であるEllie Greenwich「Be My Baby」セルフカバーを聴くと、曲最後の必殺「Whoa-oh-oh-oh-oh」は入っておらず、「Wow-yeah」と別のフレーズが収まっている。ひょっとしたら「Whoa-oh-oh-oh-oh」は、Jack Nitzscheと共に3拍子からロックンロールにビートを変えた際、もしくは長時間に渡ったというレコーディング・セッション中 —Hal Blaneのタム回しを聴きながら— 、Velonicaの歌声が生きるキメとして、プロデューサーであるSpectorが入れ込んだものなのかもしれない。

「Be My Baby」後のRonettesというと、第二弾「Baby, I Love You」では冒頭から「Whoa-oh, whoa-oh-oh-oh」が登場。その後の「Do I Love You?」「You Baby」「Walking In The Rain」と、必ず入れ込まれたVelonicaの「Whoa-oh」はVelonica、RonettesのトレードマークとしてSpectorが意図的に作曲家たちに仕込ませた、もしくは自ら仕込んだフレーズであったことだろう。80年代の日本でも、Spector-Ronettesを意識したと思しきガール・ポップのうち、中村俊夫・沖田優司による原めぐみ「涙のメモリー」や大瀧詠一による松田聖子「一千一秒物語」、こののちの89年は小西康陽による須藤薫「つのる想い」などでVelonicaの影響を感じさせる「Whoa-oh」が登場する。


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坂本九といえば、「上を向いて歩こう」で日本人初の全米一位を記録した和製ポップス史上に残る偉大な歌手のひとりである。ダニー飯田とパラダイス・キング在籍時の「ステキなタイミング」でも印象的なファルセットを聴かせていた坂本だが、ソロデビュー曲となる「上を向いて歩こう」もヒーカップ唱法で、日本語を崩して歌われるヴォーカルが印象的だ。初演をステージで聴いた作詞の永六輔は、歌詞の崩され方に戸惑いを隠せなかったという。

六輔はその歌を聞いて耳を疑った。
「ウォウォウォウォ」とは何だろう。
九の声も緊張して上ずっていた。
六輔の耳には……
「ウヘフォムフヒテ
 アハルコフホフホフホフ」
なんだこの歌は!
「ナハミヒダガハ
 コッボレッヘェナハイヨフホフホフニ」
六輔は九がふざけているとしか思えなかったが、舞台の袖からみていると、九は前傾姿勢の直立不動、しかも足がガタガタとふるえている。
(永六輔「六・八・九の九 坂本九ものがたり」中央公論社、1986

特に歌詞カードの「歩こう」「こぼれないように」の部分は実際には「あーるこow wow wow wow」「こーぼーれ、なーいよow wow wowに」と歌われている。佐藤剛「上を向いて歩こう」岩波書店、2011では、中村八大がロカビリー歌手・坂本九の魅力を最大限に生かすために、Wow Wowの箇所を起点にこの曲を作ったことが示されている。中村から坂本へ楽曲提供したい、と声をかけられた事務所マナセプロの担当マネージャー曲直瀬信子は、中村にこのようなオーダーをしたという。

曲直瀬信子「九ちゃんにはチャンスだと思ったんです。だから八大さんにプレスリーのシングルなんかを届けて、聴いてもらいました。(略)何しろ九ちゃんは音域が狭いから、ファルセット・ヴォイスの特徴をうまく出してほしかったんです。」
「それで当日、八大さんのお宅に行くと、『上を向いて歩こう』の譜面を渡されました。そのまま八大さんはどこかへいなくなってしまって、とにかく忙しかったんですね。でも渡された譜面を見るとすぐに特徴がわかりました。『オゥオゥオゥオゥ』の部分の意味することもわかりました。九ちゃんは音域が狭いので、ファルセットを生かして欲しいと頼んでいたんです。とても嬉しかったですね。以前の打ち合わせで、私が思っているプレスリーの特徴とかを、八大さんに一生懸命に説明していたことが、そこには生かされていましたから」
佐藤剛「上を向いて歩こう」岩波書店、2011

同書によれば、この部分をヒーカップ唱法で、裏声を交えながら歌うことだけは中村の作曲段階で既に考案してあったようで、レコーディング時も中村から坂本への指示というとこの箇所だけはうまくやってくれ、程度だったという。作者の中村にとって、この曲の肝はWow Wowの部分だったというのがわかるエピソードである。

なお、桑田佳祐史的に重要人物のひとりである宮川泰はザ・ピーナッツ初のオリジナル曲「ふりむかないで」を書き下ろすにあたり、楽曲自体はPaul Anka「Diana」のコード進行を基にしながらも、レコーディング時に「上を向いて歩こう」のWow Wowの箇所をヒントに冒頭の「イェイイェイイェイイェイ」を入れ込んだという。(宮川泰「若いってすばらしい 夢は両手にいっぱい 宮川泰の音楽物語」産経新聞出版社、2007)


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さて、そんなことを考えながら「悲しい気持ち」を聴いてみると、桑田の曲でここまで「Wow Wow」「Whoa-oh」が頻発するのも珍しいことに気づく(要所要所、都合8回の登場だ)。おそらく、Ronettesをきっかけとし、洋邦のロックンロール、ポップ・クラシックの美味しいポイントとして、意識的に取り入れたのではないだろうか。もっと突っ込んでしまうと、タイトル部分「Just a man in love」直後の下降する「oh yeah-eh-eh-eh-eh」のメロディはそのまま「Be My Baby」の「Whoa-oh-oh-oh-oh」にシンクロしている(シンプルにGFEDC・ソファミレド、ではあるのだが)。

コード進行もシンプルで、メロディもそれまでの桑田らしいアクはどちらかというと控えめ、端正な仕上がりである。冒頭は多少Ronettes「You Baby」(これはPhil Spector-Barry Mann-Cynthia Weil作)の香りもしなくもない雰囲気だが、たぶんこの曲のベースにあるのは特定の作曲家というよりは、Velonica、Ronettesを起点とした「ポップ・ミュージックへの愛」ということなのだろう。そこまで仰々しい展開もなく、明るくも切ない、甘酸っぱいメロディが淡々と、あっさりと過ぎ去るように展開される、まさに「たかがポップ・ミュージック」を体現するような楽曲だ。

驚くべきことに、「悲しい気持ち」はこのソロ用に気合を入れて作られた曲ではなくストックであり、Kuwata Bandのシングル用セッションで既に一度トライしていたということが近年明かされている。
— 当時の楽曲製作のエピソード等覚えていらっしゃいますか。
「これね、Kuwata Bandってのがありまして、これソロの前の86年なんですけど、ソロは87年でしょ?でもね、86年の時にね、ちょっと作ってあったんですよ。でKuwata Bandで、1回やったことあったんですよ。」
— じゃあもしかするとKuwata Bandの曲になったかも…
「なったかもしれないけどあんまり歌詞とかもこうちゃんとできてなかったのか、不完全なものでちょっと一旦横に置いておいてね、「Ban Ban Ban」とかそういう曲を、Kuwata Bandでやったんだと思うんですけど。」
(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM, 2021.10.9.)

世が世ならKuwata Bandのシングルとしてリリースされていたかもしれないと思うと、この時期の桑田の湧き出るメロディ・メーカーとしての恐ろしさに驚愕する。そういえばKuwata Bandのライブではシングル曲のコーナーに混じっていささか唐突に「Be My Baby」(『Rock Concert』収録)も取り上げられていた。ひょっとしたら当時の「悲しい気持ち」もあのDavid Foster風にエレピが八分を刻むアレンジだったのだろうか。

前述の「Be My Baby」が作曲時点では三拍子だったのでは…という高橋健太郎の推測ではないが、「悲しい気持ち」もソロ・セッションで取り上げるまではSupremesな16ビートではなく、Ronettesな8ビートの楽曲だったのかもしれない。となると発想の起点はBilly Joel「Say Goodbye To Hollywood」あたりだろうか…、などと想像が膨らむ。そういえば「Ban Ban Ban」も70年代Geroge Harrison風ウォール・オブ・サウンドの80年代解釈、と言えなくもないようなディレイを効かせたサウンドでもあったが…。86年初頭、「ロック」モードにシフトしようとしつつも、どうにも隠せない桑田のポップス志向が既にウズウズしながら顔を覗かせていた…ということになるのだろうか。


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初となるソロ・セッションの初期段階では、桑田がTR-707・ギター・ベース・キーボードを使いひとりで製作したデモテープをもとに進められたという(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」リットーミュージック、1988)。このあたりの模様は次回、詳しく見ていきたい。


2022年10月2日日曜日

1987 (2) :ポップ・ミュージック宣言

87年10月2日、朝日新聞夕刊に桑田のソロ・デビュー・シングルリリースにあたっての全面広告が掲載される。桑田の顔面アップとコピー、そして小さく声明が添えられている。

 僕はミュージシャンである以前にポップ・ミュージックの聞き手でした。そして今だに聞き手である自分を満足させるために曲を書いているような気がします。
 ポップ・ミュージックは他人の為の音楽です。何より聞き手にとって楽しいものでなくては駄目なのです。だからミュージシャンとしての快感も聞き手が喜んでくれる視線の中でしか確かめられません。だけど、そんな音楽だから、人種や年令、あるいは考えかたを超えて、たくさんの人に同じ快感を与えるというマジックを作りだせるのでしょう。
 たかがポップ・ミュージック、そう自分を励ましながら曲を書く事によって、僕の音楽はきっと自分だけの満足に終らず、皆さんに楽しんでもらえる方に向かって歩んでいけてるのでしょう。これからソロとして、あるいはサザンの桑田として歌う時も、そうしたテレパシーとしてのメロディーが貴方へ届くことを祈ります。
サザンオールスターズ 桑田佳祐
(「悲しい気持ち」各種広告 ビクター音楽産業/アミューズ、1987)

Kuwata Band、Hall & Oatesとの共演を経たうえで、なぜ「ポップ・ミュージック」でソロ活動を始めるという方針になったのか。いささか唐突感があるような気もするが、背景を紐解くと、それぞれの経験を踏まえての結論だったようである。

「まずひとつにはバンド活動の反動が大きかった。サザンでやって、KUWATA BANDでやって、どちらも楽しいんですけど、さすがに集団で動くことが面倒くさいというか、食傷気味に思えてきちゃって(笑)。自分でやっておいて悪いけど『そろそろ一人にしてくれよ』という気分になっちゃったんですよね。あとはKUWATA BANDで『これからはロックだろ』とか言っちゃったけど、なんかちょっと無理していたかなという反省もかなりあってね。」
(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)

— ソロ・アルバムを作ろうと決めたのは、いつ頃だったんですか。
「去年の4月にNYに行った時、ホール&オーツのレコーディングを見たんだけど、その時、彼らにすごく刺激を受けたのね。彼らにとっては約3年ぶりのレコーディングだったんだけど、とても自然にやっていたというか、等身大の自分たちに近づこうとしているって感じだった。なんて言うか、無理にコンテンポラリーなところにいようとしてないし、昔にすがろうともしていない。古いものの流れと新しいものの流れが彼らの中で大きな渦を巻いているとような、そんなふうに見えたの。で、あとで彼らのでき上がったアルバムを見たら、そこには"future classics"と言うボディ・コピーがついてたんだけど、それを見た時、なるほどなって思ったの。あ、これがポップスというものなんだ、と。ロックというプロパガンダの世界じゃなくて、ね。彼らのレコーディングを見て、やっぱり等身大っていうのはイイなあって思った。」
「最初はKUWATA BANDが終わったら、サザンを再始動しようと思ってたんだけど、その前にひとつのキッカケというか、自信みたいなものが欲しかったの
。というのは、KUWATA BANDでは全曲英語のアルバムを作ったわけだけど、結局あれはどういう評価を得たんだろうってことを考えたのね。今になってみて、いまひとつ自信がない、と。それに俺という存在は、いったいなんだろうって思った。サザンを休養してた時にね、もちろん俺はサザンのメンバーであり、ボーカリストなんだけど、そうじゃない自分の姿、裸の自分の姿をここで見せなきゃシャクにさわると思って、ソロ・アルバムを作ろうと決心したの。」
(「GB増刊 Volume 1 Vol.4 1988 July」CBSソニー出版、1988

「だから限定するんならポップスって言い方の方がいいやって気がするしね。自分はついつい色んなことをやってしまうから、音楽の中で。だからロックって断って失敗したなって思う、俺は。メロディー弱くなっちゃったかな、とかね(笑)」
(「Rockin' On Japan 1987年11月号」ロッキング・オン、1987
 / 「ロッキング・オン・ジャパン・ファイル ロッキング・オン3月号増刊」ロッキング・オン、1988)

1986 (3) :Nippon No Rock Bandへの批判と反論の終盤で引用した箇所でも語っているが、とにかくサザンを復活させる前に、桑田個人としての、Kuwata Bandのアルバムへの批判を受けての反省とリベンジ、というのがこのソロレコーディングのきっかけになっているのがわかる。「ロック」との距離感、英語詞とそれによるヴォーカルのドライブ感、作曲への時間のかけ方…等。

さらにはHall & Oatesの、ルーツミュージックへのプリミティブな愛と、同時代的なものへの目線のバランスに共感したということも大きいのだろう。そういえばNYレコーディングを経て、「勝手にシンドバッド」が最高傑作であることに気づいたとも語っている(「Playboy日本版 1987年7月号」集英社、1987)。自身のルーツ、初期衝動の側にはどんな音楽があったのか…というところに立ち返ろうという意識もあったはずだ。


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日本国内製作のポップ・ミュージック、ポップスというカテゴリは、80年代前半の一部音楽雑誌を見ると「フォーク」に対する「ロック」に相当するような扱いで、カウンター的に「ニューミュージック」に対抗するもの、として使用されているものをいくらか見つけることもできる。

70年代がフォークを中心としたニューミュージックの時代だったとすれば、80年代はロックがメインのポップミュージックの時代になる、と予測する人は多い。
(「週刊明星 1980年3月10日号」集英社、1980

少しずつではあるけれど日本の真の意味でのポップスというものが育ちつつある。ひと頃、「ニュー・ミュージック」という、フォークなんかも含んだいやらしい言葉が盛んに使われたが、もう、そんな手垢にまみれた言葉を捨てるべきだろう。(市川清師
(「ミュージック・ステディ 1982年4月号」ステディ出版1982
市川清師「僕たちが支持するポップスはあくまでも<ロック・スピリットを持ったポップス>のことだということを明言しておきたい。もうフォークやニューミュージックが死語になりつつある、いや、なったというのは音楽業界の常識だと思うんだ。」
(「ミュージック・ステディ 1983年3月号ステディ出版、1983

死語になったかどうかというと実際は、「Jポップ」という言葉が浸透する90年代初頭までは、レコード店など国内製作ものを大きく括る言葉としては「ニューミュージック」が残り続けるのだが、それは置いておいて…
ここで「ミュージック・ステディ」誌がポップスのミュージシャンとしてインタビューしているのは佐野元春・伊藤銀次・山下久美子・村田和人・鈴木雅之・Epo…と、その裏にナイアガラの影が透けて見えるような人選だ。
同誌で杉真理はこんな発言をしている。
杉真理「今だからこそ「ポップスをやってる」なんて大見得を切って言えるけども、ちょっと前までは「ポップス」なんて言ったら、「軟弱だ」といわれて、馬鹿にされましたからね。僕の大好きなポール・マッカートニーにしても、「結局、あいつはポップスがやりたかったのさ」なんて、非常に軽蔑的な言い方をされて……。当時は、ポップスって言うと、トム・ジョーンズとか、エンゲルベルト・フンバーディングとか(笑)、そう言うニュアンスしか無かったからなあ。」
(「ミュージック・ステディ 1983年3月号ステディ出版、1983

桑田自身はというと、やはりデビュー以来、杉の発言と似たような空気は感じていたようだ。
— それにしても面白いのは、サザンだってこの当時すでに古今東西のエッセンスを凝縮した”ポップス”だったのに、ソロを契機に桑田さんがようやくポップスという記号性に対して自覚的になったという点ですね。
「最初は”手がかり”でした。サザンのデビュー当時、ポップスという言葉はしばしば差別的というか、少々時代遅れ的な意味合いで使われることもあったし、やっぱり褒め言葉は何だかよくわからないけど『ロックだね!』だった(笑)。あとは”フォーク”とか、”ニューミュージック”の方が、ジャンルとしては何となく分かり易いというか、確立された感もあって。だから僕から見るとフォークの人やユーミンなんかは、確固たる信念を持っている感じがした。歌詞も自分のメッセージを織り込んで、時代の匂いを言い当てたり、ファンへの『お前ら俺についてこいよ』という姿勢も感じられた。ところが僕にはそういうものが全くない(笑)。もちろんサザンの桑田として藻搔いてたことは事実だけれど、実は僕、”サザンの桑田”という呼ばれ方が一番嫌でね(笑)。なんか”お向かいのおじいちゃん”みたいで(笑)。自分が何者で、世間から、メンバーから、何を期待されているのかがさっぱり分からない時代だった。只の無自覚な音楽ファンだったんです。
(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)


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ポップ・ミュージック、ポップスをやるにあたってのサウンド・コンセプトについては、レコーディングを始めるにあたり特に具体的なものや、目標としたものは考えていなかったようだ。当初はとにかく幅広い世代、多くの人に聴かれる・メロディ重視・コードもシンプルに、ということで、編曲以前に作曲を重視している様子が窺える。

「ポップソングを認知する人たちというのは、たいていがレコードをそんなに買わない、要するにサイレント・マジョリティというか、そういうものだと思うんだよね。オリコン関係者じゃないけど、潜在的ユーザーとかサイレント・マジョリティというのは、ぜったいにポップソングに欠かせないものなんだよね。
 例えば、主婦向けに音楽やりたいと思ってるわけ。主婦でもいいし、年増でもいいんだけど、やっぱり成熟した人というのを説得しないとさ、彼らが楽しめて共感できる言葉じゃないと、その音楽ウソだなと思うのね。
 いま、30過ぎた中産階級といわれるかもしれない人々が、ココロの拠り所を自分の音楽に向けてくれたら、なんて素晴らしいことだろうと思う。俺、自分の音楽のこと、中産階級のババアどもに聴かせる音楽じゃねえよ、とは思わないの。」
「ポップスというのは、サーファーのための音楽とか、ワンレン・ギャルをイテコマすための音楽とかそういう部分ばかりじゃなくて、ある種の日常のテンションでいいと思うんだよね。街を歩いていて、”ちょっといい女だな”とか、昔を懐かしむみたいな…俺たちの日常って決して退屈ではないでしょう。」
「だからサイレント・マジョリティという特徴のない人たちに対して俺が歌いたいのは、うーん、なんら特徴のない音楽かもしれないね。ただそれは、反戦とかなんとかってのと違って、いいわけのきかない音楽なんだ。そのニュアンスをうまく言えたら、きっといいコピーライターになれるかも知れない。」
(「エスクァイア日本版 1987年12月20日号エスクァイアマガジンジャパン、1987

「あと、生ギターで弾ける曲ね。これです。生ギターかウクレレで弾ける曲。」
— ウクレレ?
「そう。ウクレレ持つと加山雄三の曲が出てきちゃうんだよねー。あれ、すごいと思う。ウクレレ弾いて、♪もーしもォこの船で……とか歌ってると、なぜか人に聞かせたくなるしさ。一緒に歌を共有したくなっちゃうの、誰かと。俺の場合は女房だけどさ。原坊が夜中に寝てるときでも、俺起こしちゃうもん。俺のオリジナル聞かせるんじゃなくて、
♪もーしもォこの船で……って聞かせるためにね(笑)。輪が生まれるわけよ、ウクレレと歌と、あと明星の歌本さえあれば。歌詞の上にパァーっとコードの押さえ方も書いてあって。そういうのやりたいの。今回のソロアルバムはその方向だね。それしかできないからさ、俺には。アパートの勤労学生にも俺の歌を届けたい、と。」
— 人々の唇に歌を。
「そうそう。もう一度、唇に歌を、頬に涙を、三世代に輪を……ね(笑)。」
(「宝島 1987年11月号」JICC出版局1987)


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冒頭の桑田の声明、特に桑田ソロと限定しているわけでもなく「サザンの桑田として歌う時も」とも記されている。手探りでありきっかけだったと本人は振り返っているが、2001年のベスト盤『Top Of The Pops』、2020年の連載コラム・2021年の著書「ポップス歌手の耐えられない軽さ」など、現在に至るまで意識的に「ポップス」というワードが使われている。ミュージシャン・桑田佳祐の立ち位置をポップス、ポップ・ミュージックに置いた瞬間が、この87年ソロ活動スタートのタイミングだったといえよう。現在から振り返ると、桑田の長いキャリアの中でも、活動コンセプトのターニングポイントだったのである。