2023年5月5日金曜日

1988 (2) :“みんなのうた”

サザンオールスターズのレコードデビュー日は1978年6月25日。シングル「勝手にシンドバッド」がビクター音楽産業のinvitationからリリースされた日である。

1985年末以降、サザンはバンドとしては開店休業状態で、これまで見てきたとおり各メンバーのソロ活動のみが行われていた。当初、ソロ活動期間は86年の1年間の計画で始められたようだが、翌87年も桑田の海外レコーディング、原由子の第二子産休&育休、桑田のソロレコーディングがあり、サザンの休業状態は継続していた(なんとか6月にベスト盤『Ballade 2 ‘83-’86』がCD・カセットオンリーでリリースされる程度であった)。

桑田のソロアルバムは88年1月1日リリース予定がレコーディングの遅延で後ろに倒れ、レコーディング完了は5月初頭。本来であればアルバムリリースとともにソロでツアーを行う…というのがルーティーンだが、そうはならなかった。

1988年6月25日はサザンデビュー10周年。内外から活動再開が待たれていたサザンに、デビュー10周年というのは、格好の復帰タイミングだったのだ。88年の夏は、サザンの復活ツアーが行われることになる。それは、桑田ソロのツアーを差し置いてでもやる需要が内外にあったということだろう。

とはいえ前述の桑田ソロの録音完了遅延により、スケジュール的にはサザンはシングル1枚分の制作期間があるかないかという状況。スイッチで5月11日よりサザンのレコーディングが開始された「バックステージ・パス 1988年7月号」シンコーミュージック、1988。エンジニアの今井邦彦・A&R高垣健が桑田ソロマスタリングやり直しのため再渡米したのは、サザンのレコーディングの合間であった(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019)。

今井によると、サザンのシングル曲は作詞作業前の段階でタイトルだけは決まっていたそうだ。
今井邦彦「「みんなのうた」で3年ぶりにスタジオにメンバーが集まりました。この曲で覚えているのは、桑田さんはまだ歌詞がなかった時点で、タイトルだけは「これで行く」と決めていたこと。」
(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019
今井「最初このタイトルを聴いた時はびっくりしましたけどね(笑)。」
(FM COCOLO『J-POP レジェンドフォーラム』7月はサザンオールスターズを特集!3代目エンジニア今井邦彦をゲストに迎えた番組トークvol.3を公開


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桑田ソロのツアーは叶うことはなかったが、サザンの復活イベントの中で桑田ソロコーナーを設けることになる。

— だから、そういった意味で今度はサザンに戻っていくわけなんですが、そこでの行き帰りというのは自分の中では全然苦痛ではなかったですか。
「ちょっと苦痛でしたよ、やっぱり。だから復活祭の時はバンドを(サザンとソロという形で)二つやったでしょう。で、やってみて『何やってんだろうなあ』と俺は思ったんですけどね。(略)」
— はははは。あの時は例えばサザン単体でやるっていうことは考えられなかった?
「うん、アルバムが、新曲がなかったっていうのはある。まあ”みんなのうた”はあったけど。それとやっぱり、ソロ・プロジェクトでほんとは俺コンサート・ツアー廻りたかったんですね、じつは。だけど、サザンオールスターズは開店休業状態がもう何年続いているかっていうのがあったし。そこでまあ、ソロ・アルバムみたいなものもちょこちょこっと交えながら  それをサザンで演奏するのもおかしいしね  だから『さあ、これから行きますよ。復活ですよ』みたいなことを並べちゃおう!みたいな。まことにラフな、野蛮な発想なんだけど。もうそろそろ内部的にも活動を始めないとあんまりだなというのもありましたしね
— その辺の大人の判断ができちゃうあたりがまた桑田佳祐の
「いや、大人の判断じゃないんですけどね」
— だけど、本当に子供のエゴを押し通すんだったら「サザンはもうちょっと休もうよ」って言うじゃないですか。
「だって客を相手にしてやってることだからそれはどっかツラいじゃん」
— はははは。
「『あれ?』なんてなりながら『どうも受けてないな』とか、そういうところに陥るのはイヤだから」
— はははは。一貫してその辺はスケベなんだよなあ。
「一貫してスケベ(笑)」
— いいことですけどね。
「そうですかねえ?でも、一貫して気が小さいのかもしんないけど。だからもう時期がテンパってて、開店休業状態が長すぎるぞコールがあって。もう『またソロのコンサートやるの?』って言われるのもヤだし、こっちはやりたいしね。需要はないけど」
(「季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994」ロッキング・オン、1994)

桑田ソロバンドは以下のメンバーが召集された。小林武史・藤井丈司の両名はパンフにはプロデューサーともクレジットされており、「キーボード・スペシャル 1988年10月号」(立東社、1988)によると、小林の仕切りでバンドのリハーサルが行われたようだ。

小林武史:Keyboard, Producer
藤井丈司:Producer
古田たかし:Drums
樋沢達彦:Bass
原田末秋:Guitar
矢代恒彦:Keyboard
今野多久郎:Percussion
包国充:Sax
本田義博(1・3・5):Chorus
前田康美:Chorus


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イベントを控えた慌ただしいスケジュールの中、突貫工事のようにサザンのレコーディングも開始されていく。

— 明日からサザンのシングルのレコーディングだそうですけど、どういう曲なんですか。
「まだ作ってないの」
— (笑)。
「あーねえ……自分で言うのもあれだけど、僕は結構色んなしがらみの中で生きてましてね(笑)。スタッフ・ワークもある種やらなくちゃいけない時もあるし、曲作んなくちゃいけないし歌うたわなくちゃいけないし……いろいろ裏方もしなくちゃいけないでしょう。そういう意味では、うたう電通だね、本当に。ミーティングを仕切りレコーディングを仕切り、私生活を仕切られ(笑)、これは世に出す問題じゃあないんですけど。」
(略)
「今度のシングルなんか
—できてませんけど(笑)、あたかもできたように言うとね—視点がもう大ズレ、見てる範囲が狭い狭い。やっぱりサザンはですね、避暑地を捨ててですね、レジャー、バカンスを捨てて、そう!サザンはバケーションを捨てます。バケーションを捨てて都会に上陸しようと思ってるの。スキー場も海も捨ててですね、もうリゾートしないの。本当の日常生活にもどっちゃおうかなって言う気がしてんですよね。
(略)
— (笑)すごいですね。できてないのに言っていいんですか。
「(笑)できてないから言えるんだけど。ほんと、ボキャブラリー一切変えますから」
— 楽しそうですね。
「でもそれは、僕バンド活動としては夢だったですよね。僕らリトル・フィートのコピーしたりさ、E・クラプトンの真似したりしてずっときたでしょう。それがだんだんサザンのカラーっていうのができちゃったんだよね。だから、そうじゃないカラーっていうのを、最近私はね、ヒシヒシと感じるんです。」
(「ロッキング・オン・ジャパン 1988年7月号」ロッキング・オン、1988)

結局このバケーション、サザンのカラーを捨てて都会、日常生活に…というコンセプトは88年のシングルというより、翌89年1枚目のシングルでより明確な形で実現することになる。


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シングルA面は歌詞より先にタイトルだけ決まっていたということだが、「みんなのうた」といえばおなじみNHKの子供向け長寿歌番組だ。番組ホームページによるコンセプトは以下のとおり。

みんなのうたって?
子どもたちに良質で健全なうたを聴いてもらおうと「みんなのうた」はNHKのテレビ・ラジオで放送されている5分間の音楽番組です。
(NHK みんなのうた 番組ホームページ https://www.nhk.or.jp/minna/about/

もちろん直近のソロとバンドの対比や、サザン復活を待っていたリスナーのための歌、などいくつかの意味があろうが、当時の桑田はこんな発言もしている。棘のあるコメントではあるが、良く言えば「良質で健全」、シンプルなポップスを提示したということだろう。

— 「みんなのうた」は、3曲分位の曲を1つにまとめたっていう位のカラフルなメロディですよね。
「あっ、それはあるかもしれない。あの「ジョンとヨーコのバラード」みたいのがいいと思ってたんですよ。ああいう自堕落で駄作的なものがいいなと。「GET BACK」とか「ジョンとヨーコのバラード」とか、結局イージーな曲作ってたでしょ。それは、それで良かったじゃないですか。
— あのシングルがとても駄作だなんて思えませんけど。こんなものができてしまいました、という感じですか。
「うん。サザンの場合は「みんなのうた」じゃないけど、なんか、バンドだからね、要するに責任転嫁の戦いだから、こんなこともやっちゃおうかな?っていうのもできるんですよね。だから、反則技ができるんです。そういう意味では、サザンは、“雑誌の編集”みたいだね。あれもこれもあり、相原コージもあり、どおくまんプロもあり、っていう感じでいきますから。」
— 雑誌のような、というのは面白いですね。
「要するに生命エネルギー体が6つあるから、例え曲が自堕落でも、作品を上回る力ってあるでしょ?それで作品が低くてもいいっていうんじゃいうんじゃ勿論ないけど、何かその、反則技、飛び道具が出せるんですよね。いろいろな風に組み合わせれるし、6人という形は。1対5にもなるし、3対3にもなるし。」
(「シンプジャーナル 1988年8月号」自由国民社、1988)

それに俺だって今までにこんな曲は作ったことがないくらい、良く言やあシンプル、悪く言やあ……なんで悪く言う必要があるんだ!? いや、こんな曲を作るのは高校のとき以来かもしれない。まるでビートルズで言えば「ゲット・バック」や「ジョンとヨーコのバラード」のようなチープなメロディが駄作量産への回帰を思わせるかまえで、ガキのように演ることだけをこよなく楽しんでいるといった感じだ。
(「ケースケランド K-SUKE LAND」『Playboy日本版 1988年8月号』集英社、1988)

おそらく細部まで時間をかけて作り込んだ桑田ソロとの対比が念頭にあっての挑発的なコメントが繰り広げられているが、実際に曲を改めて聴いてみると、歌い出しからコード進行も実にシンプルで、ゆえにポップ職人のクールさすら感じられる。シンプルなコード使いというところでかGeneral Public「Tenderness」に接近するパートを経て、サビは桑田ソロ「いつか何処かで」でも使用した5度が半音ずつ上がるコード進行を早々に使い回しながら、Beatles「What Goes On」(これもBeatlesの中では桑田が言及した系譜の曲ともいえよう)を圧縮したようなメロディが足早に過ぎ去るという展開。ヘソを曲げて書き殴った…のかどうかは不明だが、一筆書きだったのならばそれはそれでかなり華麗に着地したというべきだろう。


***


「バックステージ・パス 1988年7月号」(シンコーミュージック、1988)には、佐伯明によるサザンレコーディング初日のルポが掲載されている。初日はB面用の曲のデモ録音のため、バンドでセッションを行なったようだ。

プログラマーがいるとの記載から、おそらく藤井丈司は居合わせたと思われ、また写真にはバンドメンバーとともに矢代恒彦が参加しているのが確認できる。矢代はパール兄弟のセカンド『Pearltron』からキーボードとして参加し、のちの90年からはバンドに正式メンバーとして加入している。88年当時は他にS-Ken、ゴーバンズ、鈴木雅之、Kanなどの作品で名前を見つけることができる。サザンでは88年のライブでサザン・桑田ソロバンド両方に参加し、サザンのシングルB面に収録されたライブ音源ではクレジットがあるが、スタジオ音源ではクレジットされていない。しかし実際はこのようにこの時期、矢代はスタジオでのサポートも行っていたようだ。そしてこの記事=録音初日では、桑田ソロで十分な活躍を見せた小林武史の存在は確認できない。

リリースされたシングル盤に記載されたアレンジとプロデュース、外部ミュージシャンのクレジットは以下のとおり。

Arranged by Southern All Stars & Takeshi Kobayashi

Produced by Southern All Stars
Co-Produced by Takeshi Kobayashi  Takeshi Fujii  Kunihiko Imai

小林武史:Synthesizer, Keyboards
藤井丈司:Synthesizer Programming
松本治:Trombone

結果的に直前の桑田ソロのメンバー・プロデューサーとサザンの融合が図られており、なんといっても小林武史の名前が記載されたことがトピックだろう。

小林がいつから登場したのか定かではないが、編曲クレジットや後述の松田弘の証言などから、おそらく(シンセの)ストリングス・ブラスのアレンジ・演奏などを依頼するのにあわせ、7人目のメンバーとしてアレンジの参加やトリートメントを担当したのではないかと思われる。この先のサザンのレコーディングとはまた距離感の異なるスタイルだ。

溌剌としたA面に対し、ユニークな、サザンならではのファンクネスが提示されたのが先に着手されたB面「おいしいね〜傑作物語」である。

松田弘「カップリングの「おいしいね〜傑作物語」は、皆で好き勝手に演った曲。ドラムについて言えば『kamakura』でつかんだ手応えの延長線上にある。2-4の、普通の2拍4拍にスネアを入れたくないなっていうヒネた性格が出てる(笑)。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

松田が語っているとおり『kamakura』の延長ということで、基本的にタムが変則的にずっと鳴るユニークなリズムパターンだ。ベースは関口のフレーズを藤井のシンベに置き換えたと思われるが、この関口-藤井のコンビネーションも『kamakura』でよくあったスタイルであろう。イントロから桑田ソロでもよく聴こえた小林武史と思しきシンセ・サックスが鳴り響き、さらにこちらも桑田ソロで登場していた松本治の気怠いトロンボーンが曲のやるせなさを強調する。終盤、久々に聴こえる男声中心・バンドメンバーによるラララコーラスは「勝手にシンドバッド」のパロディにも思えるが、そこに「勝手にシンドバッド」の楽しさは無く、松本のトロンボーン同様やるせない雰囲気を表すのに一役買っている。

歌詞は、冒頭のエピソードを読めば説明不要かと思うが、この当時の桑田個人の本音、愚痴をつらつらと綴った内容だ。そのまま「This song's about my actions」と歌い、力無く笑う箇所まである。シングル盤が裏と表で1曲ずつという造りを活かした、「身体と心は裏おもて」な一枚に仕上がっているわけだ。「あやつり人形」というのはサザンの2008年「I Am Your Singer」のマイムパフォーマンスについて語った際にも言及されており、この間20年、桑田のサザンへの複雑な思いが見てとれるワードだ。

さて続いてA面曲、当初は完成形とは異なる方向を目指していたようである。

山下達郎「僕ね、今度のシングルすごい好きなんですよ、「みんなのうた」っての。あの「悲しい気持ち」ってのもすごい好きなんですよ。ここのとこすごい私好みなんですよ、メロディが。」
桑田「ありがとうございます、そうですか?あれですよね、あんまりこう、机の上で頑張って一生懸命作った曲ってのは見破られますね。ちょっとこう、まあいっか!っていうスタンスでやったほうが。
山下「これは割とさりげなく作った歌なんですか?
桑田「もうさりげない。久しぶりのシングルだしね、本当はね、この曲はね、例えばエレファントカシマシとかね、あの渋谷陽一の世界ですけど、ロッキングオンジャパンのあれとかね。例えばThe Rock Bandとかね、アナーキーとかね、そういうアレンジで始めたんですよ。ズガーッカカカカカ ガーッカカカカカ
山下「なるほど。」
桑田「歌詞もちょっと違ってたんですよ。学校の先公がとか歌ってたんですよ、みんなで『ガッコのセンコーが』って。」
山下「(笑)」
桑田「そしたらうちのスタッフが入ってきてね、『泉谷かと思った』って言われてね…で『やめようか』っつって。」
山下「(爆笑)」
桑田「それでまあ一応、軌道修正したという。」
(「Tokyo Radical Mystery Night」Tokyo FM, 1988.7.5.)

ということでエレカシ(デビュー直後)やアナーキー/Rock Band、泉谷しげるに寄り道したのちポップに生まれ変わった「みんなのうた」である。松田のコメントによると、この曲で小林がサザンにバランスよく関わっていったのがわかる。

松田「この曲の前に三年ほどブランクがあって、僕はKUWATA BANDをやってね。その後、桑田がソロ・アルバムを作って小林武史というアレンジャーを連れてきたんですよね。彼がイイ形でサザンに溶け込んだ。(略)小林君の力が大きかったと思う。うまい具合にサザンに新風を注ぎ込んでくれたよね。小林君が、サザンというバンドの良さは何だろう?って考えてくれたという…。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

この曲のドラムについては松田本人がYouTubeで解説しているが、何か特定のヒントがあったわけではなく松田が編み出したもののようだ。

松田「「みんなのうた」のドラミングは本当にオリジナルというか、何かをコピーしたわけじゃなく自分だけのビートになったのかなと思ってて。」
「ハットの裏打ちを左手でやったっていうところがね、すごく面白いのかなと思いますけどね。」
(『「みんなのうた」ドラム解説【松田弘のサザンビート #09】』サザンオールスターズ official YouTube channel、2022 https://www.youtube.com/watch?v=AaWPwnFwV2w

冒頭から鳴る4ビートのキック四つ打ちに裏打ちのハイハット、この曲のアレンジを支配しているのは実質松田のドラムなのではという感もある。2つ目のパートでスネアが2-4で入り、サビは若干スウィング的なノリが含められ心地よく駆け抜ける。個人的にはキックはもう少しミックスで目立たせてもよかったと思うが、印象的なドラムである。さらには冒頭からドラムにあわせて幾度となく4ビートになる関口のベース、初期サザンのラテンディスコ歌謡もので聴かれた16ビートに軽やかに乗るユニークなフレーズを思い起こさせ、原点回帰の要素ともいえる。

この2人のリズムに小林と思しきシンセのサックス、松田のハイハットにあわせて裏拍フレーズ、一瞬スカを掠めるような味付けもあり、高速スカジャズとはさすがに言い過ぎだが疾走感溢れるアレンジである。これまた桑田ソロでよく聴かれたグロッケンも途中から登場。シンセのストリングス、頭からずっと右で鳴っている琴とハープの間のようなシンセも疾走感、高揚感を出すのに大きく貢献している。とにかく正面からポップ感満載なのだ。

「熱い波が また揺れる」の部分は一瞬アカペラとなるが、B面同様バンドメンバー全員によるコーラスが聴ける。こちらは溌剌とした曲にマッチした雰囲気だ。全員での荒々しいコーラスも初期サザンではよく聴くことのできたもので、原点回帰を匂わせる(ベース・パートはこののちのサザンでもよく出てくる桑田の声のサンプリングっぽく聴こえるが)。


***


というわけで生まれたシングル「みんなのうた c/w おいしいね〜傑作物語」だが、今回指摘したいのはその背景そのものに加え、動機や本音がどうであれ、この状況でこのようなポップネス溢れる名曲を生み出してしまうメロディ・メイカーとしての桑田、そしてそれに応えたバンド+小林武史によるトラックの組合せの素晴らしさである。桑田のポップ・ミュージック宣言を経ての感覚が無意識に滲んでいたということか、ソロ直後の勢いでタイミングが良かった、というべきか。

健全で良質な雰囲気は、小林の参加、桑田ソロを経由したポップネスが十分にフィードバックされているとはいえ、サザンというバンドとしてはそれまでの作品とは異質なものだ。来たるJポップ時代へのシフトチェンジを意図したわけでもないだろうが、後世から見ても面白いものである。

音楽誌ではないが、このようなリアクションも見られた。桑田の変化を察知したリアルタイムの例として載せておきたい。
 (前略)何より残念だったのは、むろん桑田の曲じたいの変質である。そもそも、『みんなのうた』なぞ、桑田ほどの素敵にみだらな才能が断じて歌ってはならぬたちのものなのだ。松田聖子じゃあるまいに。
 (略)才能の豊かさと含蓄との、いわばその江川卓的な調整の妙にかけて、みずからの環境音楽化を拒み、どれほど圧倒的な支持を得ようが、軽音楽右翼にだけはなりえなかった点にこそ、たとえば『マス・イメージ論』の音痴が絶賛するRCサクセションはおろか、『陽水の快楽』(武田青嗣)すら遠く及びもせぬ桑田の貴重さが育まれていたのである。
 その彼が、「みんなで空高く舞い上がれ/やがて誰の心にも虹のカーニバル」などと、うたごえ喫茶もどきの無葛藤な善意(メッセージ)を伝え、サビのルフランでは《C/C+/C6/C7/F》のあまりに予定調和的な盛り上がりを、文字通り恥気もなく演出しながら『みんなのうた』を歌ってしまうこと。それはちょうど、《Key of Life》のスティーヴィー・ワンダーが、《We are the world》を歌わされてしまうのとよく似た光景なのだ、と言えばよいか。
(渡部直己「渡部直己の世紀末マルチ・クリティーク」『朝日ジャーナル 1988年7月15日号』朝日新聞社、1988)


***


「みんなのうた」リリースと同時、6月25日にチケット発売されたサザンのツアーチケットは即日完売となった。かなりのフィーバーぶりが当時の記事からも窺える。ビジネス的には大成功といっていいだろう。桑田の判断は(実のところ消極的だったとしても)需要に見事に応えたものだったのだ。
 六月二十五日の午後になると、土曜日なのに都区内の一部では電話がかかりにくくなってしまった。これらの地域では、受話器を取っても「ツー」という発信音がしなかったり、逆にこの地域へかけようとしても、「ただ今、電話が大変かかりにくくなっております…」というあのメッセージ・テープが流れるだけ。約七百件もの苦情や問い合わせの電話に、NTTも大弱りだった。
(略)
 そのアミューズとは、人気ロック・グループの「サザンオールスターズ」を抱える芸能プロダクションである。このサザンが三年ぶりに活動を再開し、この日、コンサートのチケットを全国一斉に発売。で、都内はもちろん地方からも、プレイガイドの予約センターにファンからの電話が集中したのがことの原因だった。
(略)
 こうした騒動の中、七月末から予定されているサザンのコンサートのチケットは、用意された五十万枚がたった一時間でさばけたという。昨年秋に来日した世界的なミュージシャンのマイケル・ジャクソンは、日本公演で四十七万枚を売るという日本のコンサート動員記録を作ったばかり。それを、いとも簡単に塗り替えてしまったのである。
(「週刊文春 1988年7月7日号」文藝春秋社、1988)

日経流通新聞では高垣が登場。こちらの記事でもチケット人気の凄さに言及している。
 六月二十五日に発売したばかりだが早くも大ヒットのきざしをみせている。コンサートのチケットは売り出しと同時にNTTが悲鳴を上げるほど電話予約が殺到。再びサザン旋風が吹き始めているのだ。
(略)
 高垣の構想にはサザンの世界進出が描かれている。「日本にあるのは車や工業製品ばかりではないことを世界中に広めなければ」と、世界の仕掛け人になろうとしているのだ。
(「日経流通新聞 1988年7月12日」日本経済新聞社、1988)

サザンのビッグ・ビジネス化、「国民的バンド」化が着々と進むその一方で、桑田個人の思いだけでなく、バンドとしてのサザンも決して安泰な雰囲気ではなかったようだ。

松田「大復活祭はけっこう大変だったね。久々にメンバー集まって演ったけど、最初の西武球場の三日間というのはツラかった。ステージやってて、この場所から逃げ出したいと初めてそう思ったよね。」
野沢秀行「音楽だけじゃなく、人間的にも皆、それなりに自分の時間っていうのを過ごしてるわけだから、おいそれとまとまるってのはね。三年って長いよね。中学校卒業しちゃうんだもん。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

松田「88年に復活祭ってのがありましたよね。その初日を西武球場でやったんですけど、それがサザンの歴代3位に入る程の悪いステージだったんです。ドラム叩いても逃げ出したくなったくらい。お客さんも、あの惨状は判ったと思う。うちのカミさんも見てて泣いてたもの。それで、次のコンサートで、もう全て終わりにしよう、と皆で決めたんですよ。今だから言えるけど。」
(「R&R Newsmaker 1992年10月号」ビクター音楽産業、1992)

しかし、「次のコンサート」の前にサザンはアルバム1枚の制作、そして桑田個人にも音楽の枠を超えた新たなミッションが命じられる。様々なことが並行しながら、来たる90年代に向け、精力的に活動は続いていくのだった。