2017年2月10日金曜日

1984年のサザンオールスターズ


スージー鈴木さんの新著「1984年の歌謡曲」がイースト・プレスより発刊されます。サザンについても書かれているはずなので、あえてメルマガの連載を読まず(すいません)、当記事を先にまとめてからゆっくりじっくり読みたいと思います。さて今回は、スージーさんとは異なり、縦のライン、サザン史上という観点から1984年がどんな年だったのか、書いてみたいと思います。個人的な思い入れが強い年ですので、長くなるのはご容赦のほどを…。まずは前回同様、84年の出来事を箇条書きでいってみましょう。


●1984.1.4. ニッポン放送系「オールナイトニッポン」火曜1部を桑田さんが担当(レギュラー担当としては80年6月以来)。

●1.9. 前年からの全国ツアー「SASたいした発表会 私は騙された! ツアー'83」を年末年始を挟んで再開。千秋楽は2月1日、日本武道館にて。

●2.25. 『綺麗』CDでリリース。ビクター音楽産業(当時)の日本ポピュラーものでは第一号(VDR-1)としてリリースされました。同時に原さんの『Miss Yokohamadult』もCD化されています。

●3.25. キンヤ「Let It Boogie」c/w「タバコ・ロードにセクシーばあちゃん」リリース。サザンのカバー。

●4.1. 講談社文庫イメージキャラクターを桑田さんが担当。

●4.1. ジューシィ・フルーツ「萎えて女も意思をもて」c/w「海」リリース。両面共に桑田さんの書き下ろし。

●4.7. 日本テレビ系「サザンの勝手にナイト あっ!う○こついてる」放送開始(〜9月まで全5回)。サザンとアミューズ所属のS.E.T.によるコントと音楽のバラエティ番組でした。

●4. アルバム制作開始(録音は6月まで)。

●5.21. 増田恵子「女優」リリース。原さんソロ曲のカバー。

●5.25. 桑田佳祐「ただの歌詞じゃねえか、こんなもん」発売(新潮文庫)。「勝手にシンドバッド」から「東京シャッフル」までの歌詞集です。

●6. 雪印スライスチーズのCMに桑田さん出演。桑田さんがスクラッチするバージョンのバックで流れていたのは後に「祭りはラッパッパ」として世に出る曲ですが、松田さんや関口さんのマニュアル演奏が収められたレコードのテイクとは異なり、この時点ではリン・ドラムやMC-4の演奏と思しきシンセベースの音が聞こえます。

●6.21. 『熱い胸さわぎ』『TENナンバーズ・からっと』『タイニイ・バブルス』『ステレオ太陽族』『ヌード・マン』CDリリース。旧譜LPの一括CD化です。同時にカセットも『綺麗』を加えた6作が規格番号はそのまま、装丁が統一されました。

●6.25. 「ミス・ブランニュー・デイ(Miss Brand-New Day)」c/w「なんば君の事務所」リリース。シングルにクレジットはありませんが、両面ともに藤井丈司さんの操るMC-4の演奏をフィーチャーした意欲作です。オリコン最高6位と、久々にオリコン10位以内にチャート・インします。

●7.7. 『人気者で行こう』リリース(LP/カセット)。前作『綺麗』の延長線にある本作ですが、前作に引き続いて参加の矢口博康さんと初登場の藤井丈司さんの活躍が目立つ、ニューウェーブとAOR〜ソフト&メロウの2軸の路線でバランスのとれた作品に仕上がりました。

●7.20. 全国5ヶ所のスタジアム・ツアー「絶体絶命!ツアー夏 “出席とります”」スタート。

●7.21. 『人気者で行こう』CDリリース。当時、CDは若干遅れてリリースされていました。

●8.1. 長山洋子「シャボン」リリース。この頃になると、サザンのLPでの原さんコーナーは即カバーされるのが恒例になっていました。

●9.5. ロサンゼルスにて秋のツアーに向けた一ヶ月の合宿開始。同時にシングルのレコーディング、ミュージック・ビデオの撮影も行いました。

●10.1. 鈴乃屋秋のキャンペーンを担当。

●10.6. 日本テレビ系「いい加減にします!」開始。S.E.T.のコント番組でした。サザンは準レギュラーとして出演。

●10.21. 「Tarako」c/w「Japaneggae(Sentimental)」リリース。サザンでは初の、というか唯一の海外レコーディング、全編英語詞のシングルです。

●10.21. 宮本典子『Sweet Sugar』リリース。「海」のカバー収録。

●10.25. 全国ツアー「大衆音楽取締法違反 “やっぱりアイツはクロだった!” -実刑判決2月まで-」スタート。

●11.1. 富士通テレホンのCMに出演。この後1年間に渡り、様々なバージョンがオンエアされたようです。

●12.10. 4作目の映像作品「サ吉のみやげ話」リリース(VHS/Beta)。「Tarako」と『人気者で行こう』収録曲にLAで録り下ろした映像をつけたミュージック・ビデオ集です。33分で9,800円と、映像ソフトもまだまだ高価でした。

●12.15. 桑田佳祐「ケースケランド」発売(集英社)。月刊PLAYBOYでの同名連載の単行本化です。

●12.16. 「勝手にシンドバッド」「気分しだいで責めないで」「いとしのエリー」「思い過ごしも恋のうち」「C調言葉に御用心」「涙のアベニュー」「恋するマンスリー・デイ」7インチ再発。オリジナル盤は価格600円で発売されていましたが、値上げのメリットがあったようで、VIHXの規格番号・各700円で、シングル盤にもかかわらずリイシューされました。カッティング等はオリジナル盤と同じです。「いなせなロコモーション」以降は当初より700円だったため、7インチの廃盤までそのままでした。

●12.(?) 年明けにかけて富士通テレホンCM用楽曲のレコーディング。翌年1月よりオンエア開始。

●12.21. 「サ吉のみやげ話」VHDリリース。ビクターの主力映像ディスクはVHDでしたから、LDは88年までリリースされませんでした。5,800円と、VHS・Betaに比べ安価ではあったのですが…。

●12.31. 公式には初の年越しライブ「縁起者で行こう」を新宿コマ劇場で開催。



特筆すべき点、三ついきましょう。

一つ目は新たなデジタルの音楽メディア、CDの登場です。CD自体は82年10月に発売されていますので、ビクター音産の参入まで約1年半かかっています。これは他ならぬ日本ビクターがCDの対抗馬、AHDの開発を進めており、CDへの参入に消極的だったためでしょう(AHDはハードメーカー達がCD側についてしまったばっかりに、音楽メディアの枠組みから外れながら開発が続けられ、結果VHD以上に歴史に埋もれてしまうことになりますが…)。

当時のCDはソフト1枚3,500円〜3,800円、ハードも一番安いヤマハの83年発売CD-X1で99,800円、後は100,000円台〜200,000円前後程度のものばかりでなかなか普及していませんでした。この年84年11月、SONYがD-50を49,800円の大盤振る舞い価格で発売したことで他ハードメーカーも追随し始め、普及が進んでいきます。

サザン関連では86年6月のKUWATA BAND『NIPPON NO ROCK BAND』でようやくCDのブックレットが一色刷りからカラーになりましたが、まだまだ売上はLPの方が勝っていました(85年『kamaura』までは歌詞カードはカセット用の原版が使われていましたし、86年2月の関口さんソロ『砂金』ではそもそもCDがリリースされませんでした)。88年の桑田さんソロ『Keisuke Kuwata』の頃にはCDがLPの売上を上回ることになります。



二つ目、続いて録音の世界でもデジタルの波は押し寄せておりました。前作、『綺麗』で初参加の矢口博康さんのコネクションで当時ヨロシタ・ミュージック所属の藤井丈司さんが(「Techno」のクレジットで)プログラマーとして参加、数曲でデジタル・シーケンサーMC-4の打ち込みを担当しています。

敬愛する細野晴臣さんはサザンデビューの頃からコンピューターとの同期演奏に走ってしまい、戸惑いから反発するような発言もされていた桑田さんですが、『綺麗』ではドラム・マシンを導入するようになり、この頃になるとまたまた敬愛する大滝詠一さんも84年『EACH TIME』で松武秀樹さんを起用するような時代になりました(とはいうものの、2月22日にリリースされます松武秀樹さんの作品集では81年の「A面で恋をして」が収録されていますので、実は早くからいろいろやられていたという…)。MC-4の利用というのもYMOやムーンライダーズが使い始めた81年から既に3年が経過しており、歌謡界でも84年は船山基紀さんらもフェアライトCMIを使い始める年でして、決して早い時期の利用というわけではありませんでしたが、サザンへの更なる刺激として、藤井さんの起用を選択したようです。藤井さんに参加依頼として渡したデモが「ミス・ブランニュー・デイ」でした。

「ミス・ブランニュー・デイ」は、楽曲としては英米ではなく、60年代のイタリア、フランスといったヨーロッパのポップスを意識して作られたようです(そう言われてみれば歌い出しの印象的な隣合せの半音2つが続くフレーズなども…)。日本でも、60年代に訳詞ポップス含めて一つのトレンドであった伊仏のポップスは、桑田さんにとってBeatlesと並行し血となり肉となった要素ではないかと思います(この辺も背後にナベプロの影がちらつきます)。そういった桑田さんの重要なルーツのうちの一つを、同時代のUKニューウェーブの中でもエレクトロ、シンセ・ポップ的なサウンド(藤井さんいわく、桑田さんは当時Eurythmics、Frankie Goes To Hollywoodを気に入っていて、その辺の雰囲気がほしかったのだろう、ということでした)で装飾する、というのがコンセプトだったようです。結果、関口さん考案の全編に渡るベースはMC-4の演奏が使われました。イントロ冒頭の原さん考案のProphet-5のフレーズは原さんによるMC-4へのリアルタイム入力のようです。

なお、「ミス・ブランニュー・デイ」の歌詞について少し触れると、時事ネタを扱っているという意味で歌謡曲、流行歌度が高めです。仮歌で口をついて出た「Miss Brand-New Day」を「新しい日々を追い求める女性」とし、そういった女性達〜オールナイターズに対して画一的だと批判しながら毎週「オールナイトフジ」を見ている、というようなイメージの歌詞でして、単なる一方的な批判に終始せず、相対する男の哀しき性も添える、というのがこの頃の桑田さんの面白いところです。

また、当初はジューシィ・フルーツへの提供曲のセルフカバーである「海」がシングル曲として選ばれ、ジャケット印刷まで進んでいながら、桑田さんの思いつきで「ミス・ブランニュー・デイ」に変更となったというエピソードも面白い話です。「海」は『綺麗』からのシングル「EMANON」の延長であるソフト&メロウ路線の完成形で、これは個人的には相当好みなのですが、たぶん、ソフト&メロウ路線では「ミス・ブランニュー・デイ」ほどヒットしなかったでしょう。たらればの話ではありますが、直感でシングルを(ある意味日本歌謡界と親和性の強い)ユーロ・ポップス路線に変更したことで、久々にオリコン10位以内のヒットになった…ような気もします。

当初からB面収録が決まっていた「なんば君の事務所」はMC-4やリン・ドラム等自動演奏の割合が高く(こっちは藤井さんが編曲にもクレジットされています)、結果的にシングル両面、コンピューター・サウンドの存在感が強い盤となりました。その流れでリリースされた『人気者で行こう』は1曲目「JAPANEGGAE」もMC-4演奏の琴風フレーズから始まっており、これは前作『綺麗』でのマイクロシンセ同様、アルバムを新機材の音から始めるということで踏襲しているようです(次作『kamakura』も同様です)。さらに、LP帯やCDジャケット(89年盤まで)に「DIGITAL REMIX」のロゴマークがある通り、詳細は不明ですがミックスはデジタルのテープを使っているようですね。

話がどんどん逸れますが、藤井さんの起用というのは人脈的な意味でも一つのターニングポイントでした。何せこの後、90年代終わりまで桑田さんが起用したミュージシャン、アレンジャーの方々は、基本的にヨロシタ〜インテンツィオ〜TOPなどが絡んだ、つまり藤井さん人脈です。小林武史さん、菅原弘明さん、小倉博和さん、佐橋佳幸さん、そして珍しくトレンドを踏まえたサウンドで攻めた昨年の「ヨシ子さん」でもプログラミングを担当している、実は90年以降の桑田さんサウンドの要である角谷仁宣さん…未来の桑田さんサウンドは、この84年に流れが決まったと、後付けですが見ることが出来るでしょう。



さてさてようやく三つ目のトピックは、初の海外勢とのレコーディングです。LAレコーディングでは、どういった繫がりか不明ですが、当時LAでアレンジャー/プログラマーとして活動していたPaul Fox(当時ではSmokey Robinson『Touch』やCommodores「I Keep Running」等でクレジットが確認できます)を共同アレンジャーに起用し新曲「Tarako」の録音と「Japaneggae」のヴォーカル差し替えが行なわれました。とはいうものの、あまりスムーズなセッションとは行かなかったようで、「Japaneggae」ではFoxの意見が強行されオリジナルにあったリムショットが削除されてしまう(これで間延びした感じになってしまった気がしますね)等、度々衝突もあったようです。

これ以降、翌85年秋のとあるセッションもお蔵入り、87年の桑田さん単身でのHall&Oatesセッションメンバーとのレコーディングと海外関連は試行錯誤が続きますが、90年代以降になると桑田さんは小林武史さんの海外録音の勧めにも難色を示し、内にこもるレコーディングを突き進めることになります。これは80年代の経験で、海外についてはあまりいい印象が無かった、ということかと思います。翌85年、桑田さんはLAレコーディングについて「通用しないってことも分かった」「下手な英語で歌っても“Tarako”なんてサザンオールスターズじゃなくなっちゃう」「これからは日本語ですよ、僕ら日本人は」なんて話されておりました(86年にはまた思いつきで英語で歌っちゃうのですが…)。



そして年末、富士通テレホンCM曲の録音で再びサザンは藤井丈司さんを起用、新兵器フェアライトCMIを導入します。このフェアライトが大活躍し、メンバー6人の楽器クレジットが消滅する、混沌とした大作のレコーディングが翌85年3月から開始されるのでした。