2021年8月20日金曜日

1986 (2):”Nippon No Rock Band”

先行したシングル用レコーディングを経て、Kuwata Bandは3月11日よりアルバム用のレコーディングを始める。レコーディング中の4月5日には、ファーストシングルとして「Ban Ban Ban」がリリースされている。

前回の記事で「ハード・ロックやろう」とメンバーを招集したとの桑田のコラムがあったが、それではアルバム制作時点でどのようなコンセプトがあったのかというと、活動の発想の起点であるPower Station周りであったようだ。
「つまりロックのアルバムっていうコンセプトが最初からあったから。具体的には、ロバート・パーマーとかパワーステーションとか、いわゆる黄金のロック系の人、ああいうものの良さってあるじゃない。ロバート・パーマーのルーツはツェッペリンだったりとかして、それでツェッペリンてのはやっぱり新しいんだ、とかという気にみんながなってたのね。『カラフル・クリーム』とかCDで買って来ちゃったりしてさ、聞いてるとカッコいいわけよやっぱり、新しいわけ凄く。これはナウいなと思って、そこから入ってったの。」
(桑田佳祐「ブルー・ノート・スケール」ロッキング・オン、1987)
*Robert Palmerのルーツ云々の箇所は、Power StationのTaylor兄弟の誤りと思われる。

Power Station、そしてRobert Palmer『Riptide』あたりが念頭にあったのは松田のコメントからも推察できる。
松田弘「俺はもともと、打楽器奏者として黒人が好きなんだ。たとえば、シックのドラマー、トニー・トンプソン。」
「俺のイメージでは、白人はすごく器用なプレイヤー、手の動きが早くて、細かいフレーズも完璧にこなす。黒人の場合は、もっと基本的なリズムキープでノリをだしてる。どーんとでっかい迫力があって、しかもガチッと芯を貫いてる。俺は、どっちかというと、後者のドラマーになりたい。(中略)そういうストレートなドラマーを、この1年、目指したんだ。」
(「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」アミューズ、1987)

ちなみに松田だけでなく、メンバー全員ルーツがある程度統一されていたというのも面白い話である。
川内淳一「みんな黒人音楽、好きだしね。匂いが、似てるんだ。そういうところが、アルバムにも出てると思う。ヒロちゃんは、ずっとディスコでやってたし、俺もそうだし、琢磨さんに至っては、キネヅカ以前は、お互いそんな突っ込んで仕事したことなかったから、驚いてた。僕がロックばっかりやってきたと思ったんだって。バンドをやると、ドラムはプログレあがり、ベースはジャズあがり、キーボードはクラシックあがり、みたいなパターンが多いね。このバンドはちょっと違う。小島にしても、基本はクラシックでパーフェクトだけど、あいつもやっぱり黒人音楽どっぷりだから
(「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」)
とはいっても結局Power Stationほどファンク方面には寄らなかったようだ。

そしてレコーディングもある程度進んだ時点での松田のインタビューが、一番アルバムの内容を的確に表しているといえよう。
ー レコーディングも後半ということで、かなりKuwata Bandのサウンドの輪郭が現れてきたと思うのですが?そのベースとなるのはどのあたりですか。
松田「メンバーそれぞれの育ってきた時代があるから、けっこう広いね。60年代から70年代……。ヘタするともっと前の音楽が趣味の人もいるし。だけど基本的には、ツェッペリン、パープル、クラプトンといったロックを聞いて、“カッコイイ”と思ってロックに憧れた人たちだから、その辺の感覚に今の時代をプラスした音をやろうと。だから単にナツメロ・ロックじゃないよ。
(「Guitar Book GB 1986年8月号」CBSソニー出版、1986)

また、この路線の背景は、やはりサザンとの差別化と言うのも念頭にあったようだ。
このアルバムに関しては、サザンと差別化するって意味合いもあった。サザンに対して疲れちゃったってのがあってね。だから、「なにくそ、サザン!」ってのがあったね。とにかく違うのをやるんだっていう気負いがあったね。
(「月刊カドカワ 1995年1月号」角川書店、1994)


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このアルバム収録曲の大きな特徴として、サザンや先行シングル曲のように、桑田がまず作曲、その後バンドでヘッド・アレンジする、という流れを行なっていないことがある。バンドでのセッションでトラック作成を先行させ、その中で主に桑田がメロディをはめ込む、という順序で制作を進めたようで、クレジットは全曲「作曲:Kuwata Band」である。

ー 実際には、レコーディングってどういう風に進行したんですか?まず、桑田さんが曲を持ってくるわけですか?
桑田「いやいや、そうじゃなくて、例えば、レッド・ツェッペリンみたいな、とかそういうアイディアをスタジオでみんなで考えて、そんでまあ、後は全員で勝手にーというか緻密なんだろうけど、ひとりひとりはーやっていく、という。それでみんなで丸くなって音を出して、どんどん積み上げていってという…」
琢磨仁「なんかね、混沌とした中からひとつきっかけが出たら、それを中心としてどんどんイメージを重ねていって」
(「Rockin' On Japan Vol.1」ロッキング・オン、1986)

小島「最初の形は何もないんです。まったくゼロから始めるんです。KBかギターでフレーズを作り出したり、弘さんのリズムから始まったり。気持ちいいフレーズが出てきたらそれで行くって感じです。」
(「KB Special 1986年9月号」立東社、1986)

「アルバムの制作はね、メンバーがアイディアを持ち寄るっていうより、なんか弾いて実践しちゃうんだよね、みんな根性入れて。とにかくバテないの、タフなんだ。」
(「ブルー・ノート・スケール」)

セッションにおける各曲の最初のネタ振りは6〜70年代のいわゆる英米ロック全般であったようだ。
ー 「シール・ビー・テリン」、これはどのようなコンセプトで始まった曲でしょう?
桑田「初め、ピート・タウンゼントみたいにしようって言ってたんだよね」
ー へーえ、かなり違いますね。
桑田「かなり違っちゃいましたね(笑)」
今野多久郎「みんなそうです。初め、何かみたいにしようって言うんだけど、できたものは全然違っちゃう」
(中略)
ー 続いての「オール・デイ・ロング」なんですが…
(全員口ぐちに)「これは長かった」
桑田「これは最初始めた時はね、ストーンズの“エモーショナル・レスキュー”みたいな感じだったの」
ー みんな、最初と違っちゃうんですね。
桑田「全然違うねえ、全然違うメロディやったの、最初は」
琢磨「ラテン・ロックっていうか…」
今野「そうそう、ファンクみたいな要素のあるね」
河内「でも、ギターは完璧にブルースだったもんね」
(「Rockin' On Japan Vol.1」)

収録曲は河内のKeith Richards風ギターなどStonesを感じさせる疾走感溢れる「She'll Be Tellin'」、ネタ振りはRobert Palmerだったという「Zodiak」、仮題が「Led Zeppelin」であったイントロからモロにLed Zeppelinの「Paravoid」、小島のオルガンソロが炸裂する「"Boys" In The City」、河内ヴォーカルのスウィングもの「Feedback」、ヘヴィな「Devil Woman」などハードに迫る楽曲だけではない。後述するマシンのビートと小島のシンセ群、Tommy Snyderのラップなどアーバンな趣きもある「All Day Long」、ポップなサザン・ロックの香りもする「Believe In Rock'n Roll」、音数控えめで渋めに迫る「You Never Know」(終盤はZeppelin的か)、シャッフルの「Red Light Girl」、60'sブリティッシュもの「Go Go Go」、河内のDuane Allman風スライドが心地よい「I'm A Man」など、それなりにバラエティに富んでいる。ハード・ロック一辺倒というわけではなく、あくまで「ロック」に拘った、というところのようだ。バラードを入れなかったのはなるべく湿っぽくないアルバムにしようという意図があったのだろう。


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ゲスト・プレイヤーは少なく、「She'll Be Tellin'」「Zodiak」「"Boys'" In The City」で矢口博康、「Red Light Girl」「Feedback」では包国充、「Go Go Go」で八木のぶお、とこれまでのサザンでもおなじみのプレイヤー3名のほか、「You Never Know」で中西俊博が桑田関連では初参加している。

そしてこのアルバムでの特色として、コンピューター・オペレーションがいつものヨロシタ・ミュージック系の藤井丈司ではなく、ハンマーの小泉洋が担当していることが挙げられる。小泉はもともと最初期TMネットワークで実質的なサウンドの要としてコンピューター・オペレーションを担当、その後ムーンライダーズ・オフィスから森達彦のハンマーに所属していた。藤井はスケジュールの都合でシングルのセッションに続き参加できなかったと思われるが、なぜハンマーの小泉に声がかかったのか明確な経緯は不明。小島によるとキーボードはほとんど手引きだそうだが、シンセの音作りや、ドラム・マシンなど、小泉の果たした音作りもアルバムに大きな影響を与えているだろう。「All Day Long」などは松田のプレイでなく、全編マシンによるドラムのようだ。
彼(筆者注:小島)が7人目のメンバーとして名を挙げたのがオペレーターの小泉洋。1テイク目で彼(小島)が思い切りフレーズを弾いたあと、小泉氏と音決めをするというパターン。
(「キーボードランド 1986年8月号」リットーミュージック、1986)
小島「(「All Day Long」について)最初はぜんぜん違うアレンジでやってたんだけど、1回ぶちこわして、1ヶ月たってから、ドラム・マシーンとボクだけで全部弾いてやり直したんです。」
(「KB Special 1986年9月号」立東社、1986)


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そしてこのアルバム用セッションで作られたレゲエ調のメロウな楽曲「Merry X'mas In Summer」は収録が見送られ、アルバムリリース直前にシングル盤として単体でリリースされた。河内だけでなく原由子のコーラスまでフィーチャーしており、サザン感が強い。正式メンバー6人で一から録った唯一のシングルA面曲である。
河内「ほんとうはLPに入れる予定で作った曲。あんまりいいのでシングルになった。」
(「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」)

この曲のドラムも松田のマニュアル・プレイではないが、プログラミングは松田本人が担当しているようだ。タムだけはシモンズを使う、というのも83年以降の松田の特徴で、「You Never Know」などでもタムはシモンズだ。
松田「これは俺が打ち込んだコンピューターの音を使っている。ドラムオペレーター松田弘の音です。コンピューターに関して、これだけ完璧にやったのは初めて。そういう意味で“俺の音”ってけっこうイイ音してるナなんて自負もあるのです。」
(「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」)


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トラックの録音の目処が立ったところで歌入れとなるのだが、ここで、この後物議を醸すこととなる全編英語詞問題。後々様々理由が語られることになるのだが、そのきっかけは理屈ではなく、あくまでレコーディング中の、現場での感覚的な判断だったようだ。
ー 英語でやろうというのは、クワタ・バンド結成以前にあったアイデアなのかな、それともメンツ揃えて音だしてからなの?
「メンツ揃えて、音出して。直前ですよ、詞を乗せる最後の直前。一回ギターの淳坊ってのがうたったんだけどさ、すごいものを見たんだよ、日本語と英語のチャンポンでうたったんだけど、それ聞いて日本のミュージシャンてホントにかわいそうなんだなって思ったの。こんなに一生懸命作ってね、淳坊みたいな実力のあるヤツがね、ギターバリバリ弾いて、音バッチリバランス取って決めて、タイコの音から全部決めて、アンサンブルしてアレンジして、さあうたうって時になったら、ギブ・ミー・チャンスで僕のベイビー…ってなると、あーって日本のバンドの現状を見たのね。
(中略)やめようやっぱり、申し訳ないぜ自分のプレイにってさ。逆にサザンていうのはそういうとこで闘ってきたのかもしれないけど、逆手逆手に持ってかないでシンプルな形でストーンとね、ステーキとかスペアリブとかを醤油と箸でどのように食べるかっていうのが俺たちのやり方だったわけでしょ。こんな食べ方あるぜー!みたいなさ。だからそうじゃなくて普通に、ナイフとフォークで食べてナプキンで口をふいたらどうかっていうことだけだったんだよね。」
(「Rockin' On Japan Vol.2」ロッキング・オン、1986)

つまり、「Feedback」のタイトルでアルバムB面5曲目に収録された河内ヴォーカル曲を最初に日本語で歌った際、ハマらなかったので英語にしよう、という判断がそのまま他の桑田ヴォーカル曲を含めた全曲に適用されることになったようである。確かに、こと「Feedback」についていえばスウィング・ビートのソリッドなロックンロールに河内のヴォーカル、これには英語詞がぴったりハマっており、筆者個人としてはこのアルバムのベスト・トラックかと思う。確かにこの曲については、この感覚的な判断は間違っていなかっただろう。

英語詞はゴダイゴ活動停止後、ソロとしてinvitationと契約していたTommy Snyderに急遽依頼され、全曲英語詞で歌われたアルバム『Nippon No Rock Band』は7月14日(CDのみ1週間後の20日)にリリースされた。先行して7月5日に「スキップ・ビート」「Merry X'mas In Summer」の2枚がシングル・リリースされている。