2023年12月23日土曜日

Sparrow「Half Of My Life」[Ken Gold Songbook]

Sparrowはイギリスの5人組ヴォーカル&インストゥルメンタルグループです。75年にCBSと契約、元ZombiesのChris Whiteプロデュースでアルバムがレコーディングされるも、先行シングルの売れ行きが芳しくなくお蔵入りとなってしまった悲劇のバンドでした。76年、Bronzeに移籍後3枚のシングルを残していますが、77年4月のラストシングルA面「Half Of My Life」がKen Gold & Micky Denneコンビ作、Ken Goldのプロデュース曲となっています。

SparrowのメンバーのうちドラムのBrian Hudson・ギターのTom Marshall・Tony Hardingは元Tony Rivers & The Castaways〜Harmony Grass、ベースのStuart Calver
は元Playground…と60年代末〜70年代初頭のKen Gold周辺のバンド出身者で構成されており、おそらくそれぞれGoldとは顔見知りだったのでしょう。77年ともなるとGoldの仕事はソウル化が進んでおり、ハーモニー・ポップ人脈への楽曲提供はこのあたりが最後になるかと思われます。

ハーモニー・ポップ・バンドとGold-Denneコンビの組み合わせということで、楽曲の雰囲気としては渋めのMcCartney〜Wings感もありながら、歌い出しなどは「You’re The Song」をぐっとブルージーにした感じもあるとでもいいましょうか…メロウなミディアムを、流麗なコーラスで彩ったナンバーとなっています。

なお、Chris Whiteは2019年より「The Chris White Experience」シリーズとして、自身が関わった未発表音源のリリースを開始しました。そして「The Chris White Experience Presents」として、75年のSparrowのお蔵入り録音も発掘、2021年になってCD化されました。Ken Gold絡みの作品は含まれていませんが、Goldに近しかったメンバーによる、歴史に埋もれていた英国ハーモニー・ポップの良作を楽しむことができます。

2023年10月20日金曜日

番外編:ベスト盤考 pt.1(あるいは、ミュージックテープ考)

『すいか』の話が出たところで今回は番外編、ベスト盤について。

70年代後半〜80年代における、いわゆるアナログレコード以外の重要な音楽メディアといえば、カセットテープ(今回扱うのは当時の言葉でいうと「ミュージックテープ(Pre-recorded Tape)」、生テープではない、録音済で売っているもの)である。80年代前半、CDが急速に普及する直前はカセットの売上がアナログレコードに肉薄し、80年代後半はCD・アナログレコード・カセットがほぼ同売上となるタイミングもあった(図1 日本の音楽ソフトは1998年をピークに急速に減少したが…(音楽ソフトの種類別生産金額推移1952〜2020年) レコード購買が拡大、ネット世代の若者はアナログ好き=ジェイ・コウガミ https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20220118/se1/00m/020/057000c

レコードとは販売会社が異なったり(配信しかり、原盤権の貸与・譲渡先をメディアごとに変えて契約することが可能であるため)、レコードに比べるとサブ的な立ち位置だったことでベスト盤や企画盤などが比較的自由にリリースできていた…というのもカセットの大きな特徴だろう。サザンもご多分にもれず、レコードでのベスト盤は2023年の今日でもリリースされたことがない一方で、カセットでは多くのベスト盤がリリースされていた。83年までは年1〜2作というかなりのハイペースで、それぞれそれなりに好調な売れ行きを記録していたのだった(「オリコン・アルバム・チャートブック<完全版>1970〜2005」(オリコン・エンタテインメント、2007)によると、カセットのみのベスト盤では、『メタル・スーパーベスト』を除き一番売上数の少ない『Kick Off!』でも85,740本を記録しており、『熱い胸さわぎ』LPの71,520枚より多い)。今回掲載したカセットのベスト盤はほとんど90年代に入ってもカタログ・店頭に残り続け、12曲入りは93年頃、20曲入りはカセットのレギュラーリリース自体が終了する96年を過ぎたあたりで廃盤になったようだ。

90年代半ばに設立されたサザンの旧公式サイト(http://www.jvcmusic.co.jp/sas/)はビクターのドメインで、ディスコグラフィもレコード会社管理ということでか、こういった廃盤ベストもその存在を消し去らない程度にはきちんと掲載されていた。現在のアミューズが管理する公式サイトでは、『すいか』『Happy!』を除きこうした廃盤作品は載っていない(ビデオも80年代の2作が載っていないようだ)。

また、近年では、レコード会社や原盤制作会社主体の、ミュージシャン本人がリリースに積極的ではない・関わっていないベスト盤は「非公式」などと称され否定的に扱われることも多い(そうなると実は『すいか』も桑田本人は渋々了承したベスト盤、ということになる)。他方、リスナー視点からすると「非公式」ベスト盤でそのミュージシャンと出会うこともあるなど、十人十色の思い入れがあるのも事実だろう。何より、正式なルートで正規にリリースされた作品たちである。ミュージシャンの思いとは別で、一度世に出たものは背景はどうあれディスコグラフィーにおいては平等に扱うべきではなかろうか、という気もする(とはいいつつ、サブスクリプションサービスの普及で個人が簡単にプレイリストを編纂・公開・共有できる今となっては、ベスト盤の公式・非公式というカテゴライズももはや過去のものかもしれないが…)。

ということで、今回は番外編、歴史の記録として『すいか』に至るまでのベスト盤をすべて、こちらにまとめておきたい。

なお、今回はベスト盤以外の企画もの(サザン関連はベスト盤のことまで「企画アルバム」と称するので混乱してしまうのだが、ここではオリジナル・カラオケ集やメガミックス「江ノ島」、加えてレーベルコンピレーションやファミリークラブものなど)は除かせていただく。いつか機会があればということで…。


***


■SOLD OUT!! ベスト・オブ・サザンオールスターズ
1979.11.25. invitation(ビクター音楽産業) VCF-1558
SIDE 1 
1. C調言葉に御用心 
2. 当って砕けろ 
3. 別れ話は最後に 
4. 恋はお熱く 
5. 女呼んでブギ 
6. 勝手にシンドバッド 

SIDE 2 
1. お願いD. J. 
2. 奥歯を食いしばれ 
3. 思い過ごしも恋のうち 
4. 気分しだいで責めないで 
5. いとしのエリー 
6. I AM A PANTY(Yes, I am) 

シングル「C調言葉に御用心」リリース直後に編まれた、サザン初のベスト・アルバム。どうもこの後のものを眺めても、基本的にはシングルのリリース直後、かつ直近でオリジナルアルバムのリリース予定がない場合にカセットのみでベスト盤を企画していたようだ。

「勝手にシンドバッド」「気分しだいで責めないで」「いとしのエリー」「思い過ごしも恋のうち」と、デビュー以降のシングル・ヒットを全て網羅した内容である。ヒット曲が並び「いとしのエリー」で締まる…かと思いきや「I Am A Panty」で急速乾燥しそのまま終わる展開が味わい深い。なお、サザンのベスト盤は基本的にアルバムのマスターを使っているようで、これ以降もシングルとアルバムでミックス・バージョンが違うのものはほぼすべてアルバムのものが採用されている。

2023年現在も『10ナンバーズ・からっと』歌詞カードに記号しか書かれていない「奥歯を食いしばれ」、こちらの歌詞カードでは実際の歌詞が掲載されているのも美味しいポイントといえる(これは数ヶ月前にリリースされたオリジナルカラオケ集『オリジナル・カラオケ ベスト・12』の流れか)。

他方、先行シングルで歌詞が何も書かれていなかった「I Am A Panty」は記号で埋められている。


■KICK OFF!
1980.7.5. invitation(ビクター音楽産業) VCF-10008 
SIDE 1 
1. いなせなロコモーション 
2. 勝手にシンドバッド 
3. 私はピアノ 
4. 恋するマンスリーデイ 
5. 涙のアベニュー 
6. Hey! Ryudo!

SIDE 2 
1. ジャズマン 
2. 二人だけのパーティ~タイニイ・バブルス
3. To You 
4. C調言葉に御用心 
5. 青い空の心
6. いとしのエリー 

シングル「ジャズ・マン」リリース後に発売。タイミング的には“ファイブ・ロック・ショー”が完結し、5枚のシングルすべてを含んだベスト盤…にしたかったものの、途中でスケジュールがひと月ずれてしまったためそちらの完結を待たずに出してしまった、という状況か。おかげで「わすれじのレイド・バック」はリリース前で、未収録である。

シングルとアルバムでミックスの違う「Hey! Ryudo!」は、珍しくシングルのミックスで収録されている。

リリース後に高田みずえの「私はピアノ」カバーがヒットしたため、そののち『タイニイ・バブルス』LP帯同様同曲を大きくフィーチャーしたジャケットに変更されたようだ。



■アーリー・サザンオールスターズ
1980.12.5. invitation(ビクター音楽産業) VCF-30001 
SIDE 1 
1. 勝手にシンドバッド 
2. 別れ話は最後に 
3. 恋はお熱く 
4. 思い過ごしも恋のうち 
5. Let It Boogie 
6. いとしのエリー 
7. 私はピアノ 
8. 涙のアベニュー 
9. 恋するマンスリー・デイ 
10. C調言葉に御用心  

SIDE 2 
1. ごめんねチャーリー 
2. I AM A PANTY(Yes, I AM)
3. 青い空の心~No me? More no! 
4. JAZZMAN 
5. ひょうたんからこま 
6. いなせなロコモーション 
7. LOVE SICK CHICKEN 
8. わすれじのレイド・バック 
9. FIVE ROCK SHOW 
10. シャ・ラ・ラ 

シングル「シャ・ラ・ラ/ごめんねチャーリー」リリース後のベスト盤。LP2枚組に相当する、20曲約90分収録・定価3,800円の長時間ベスト盤である。デビューから“ファイブ・ロック・ショー”、そして最新シングルまでも「アーリー」として括るという、ある意味かなり前向きなタイトルがつけられている。実はデビュー3年を迎えたのち、ちょうど『ステレオ太陽族』より原盤制作会社が変わる…というまさに区切りのタイミングではあるのだが、さすがにそこまでの意味合いまでは含んでいないか。



■BEST ONE ’82
1981.10.21. invitation(ビクター音楽産業) VCF-30002
■BEST
1983? invitation(ビクター音楽産業) VCF-30002
SIDE 1 
1. 勝手にシンドバッド 
2. 恋はお熱く
3. 女呼んでブギ 
4. 思い過ごしも恋のうち 
5. いとしのエリー 
6. 私はピアノ 
7. C調言葉に御用心 
8. 涙のアベニュー 
9. 恋するマンスリー・デイ 
10. JAZZMAN 

SIDE 2 
1. いなせなロコモーション 
2. わすれじのレイド・バック 
3. ごめんねチャーリー 
4. シャ・ラ・ラ 
5. My Foreplay Music 
6. 恋の女のストーリー 
7. 我らパープー仲間 
8. ラッパとおじさん(Dear M.Y's Boogie) 
9. Big Star Blues 
10. 栞(しおり)のテーマ 

レコード会社のシリーズものとなるベスト盤。ビクターでは『Best One』というシリーズが先行して存在していたが、81年暮れに『Best One ’82』のタイトルで全189タイトルがリリース。国内ミュージシャンのみならずビクターが配給している洋楽、果てはビクターが当時販売を委託されていた外部原盤(アルファレコードであればYMO、荒井由実、Quincy Jonesなど…)のベスト盤が緑色の共通ジャケットでリリースされている。この中にサザンもラインアップされており、中身はというとデビューから最新作『ステレオ太陽族』「栞のテーマ」まで20曲を年代順に収録した、優等生的な偏りのない内容である。

各『Best One ’82』は82年が終わる=発売から1年を迎えると廃盤になっていったが、サザンのこのタイトルはそれなりに売れていたのか、のち(ジャケット裏の注意書きが82〜84年のスタイル、またジャケットのアルファベットのバンド名が『綺麗』「Emanon」期風のフォントなので、83年後半あたりか)にタイトル・ジャケットを一新、シリーズから独立。『Best』のタイトルで同じ内容・同じ規格番号のまま、20曲入りカセットが廃盤となる90年代半ばまでカタログや店頭に残り続けた。

『Best One ’82』の“One ’82”を消しただけ、という安易な変更が素晴らしい。



■メタル・スーパーベスト
1981.12.20. invitation(ビクター音楽産業) MVH-1001

SIDE 1 
1. いとしのエリー 
2. 私はピアノ 
3. C調言葉に御用心 
4. 涙のアベニュー 
5. 恋するマンスリー・デイ 
6. JAZZMAN 
7. いなせなロコモーション 
8. わすれじのレイドバック  

SIDE 2 
1. ごめんねチャーリー 
2. シャ・ラ・ラ 
3. My Foreplay Music 
4. 恋の女のストーリー 
5. 我らパープー仲間 
6. ラッパとおじさん 
7. BIG STAR BLUES 
8. 栞(しおり)のテーマ  

カセットの磁気テープには複数のポジション(Type)が存在し、ノーマル(Type I)・クローム/ハイポジション(Type II)、フェリクローム(Type III)が70年代半ばまでに出揃っていた。70年代末にさらなる高音質を謳うメタル・ポジション(Type IV)が登場。この当時レコード会社がリリースしていたミュージックテープはおおかたノーマルであったが、80年代に入ると、並行してメタル・ポジションのミュージックテープもリリースされるようになる。といっても、高音質が売りであるため、価格も若干高めに設定されており、大きな売上につながらなかったのかさほどリリース数は多くなかった。

この『メタル・スーパーベスト』は、メタルポジションのテープを使用したベスト盤で、『Best One ’82』同様、ビクターのシリーズものの一環である。ということでか2ヶ月前リリースの『Best One ’82』冒頭4曲を削っただけという、安易過ぎる選曲となっている。12曲でも20曲でもなく、16曲入りだがこれはたまたまのちのCDサイズの収録内容だ。当時の価格は¥3,300。なお、サザンのメタルテープはこのベスト盤と『ステレオ太陽族』(1981.8.5. invitation MVH-3)の2作のみのリリースであった。

他のタイトルと異なりカセットチャートには入ることなく、ビクターの年鑑を見てもかなり早く、84年ごろには廃盤となったようだ。

これはレアすぎて所有していないので、広告の画像でご勘弁を….



■Shout!
1982.5.1. invitation(ビクター音楽産業) VCF-10097
SIDE 1 
1. チャコの海岸物語 
2. 翔(Show)~鼓動のプレゼント 
3. 栞(しおり)のテーマ 
4. 朝方ムーンライト 
5. ムクが泣く 
6. 素顔で踊らせて 

SIDE 2 
1. タバコ・ロードにセクシーばあちゃん 
2. 働けロック・バンド(Workin’ for T.V.) 
3. 奥歯を食いしばれ 
4. シャ・ラ・ラ 
5. いなせなロコモーション 
6. いとしのエリー 

シングル「チャコの海岸物語」大ヒット中に急遽?発売。ジャケットもシングルのものをそのまま流用するというわかりやすさで、「チャコ〜」のヒットに伴いこちらのアルバムもヒットを記録したようだ。「オリコン・アルバム・チャートブック<完全版>1970〜2005」によるとオリコンカセットチャート最高位1位、売上数207,120本とのこと。

『カセット・ライフ 1982年6月号』(シンコーミュージック、1982)のカセット・レビューによると、桑田本人の選曲ということである。確かにジャケットとは打って変わって何らかの意思を感じる選曲で、特にA面終盤〜B面中盤の渋い流れに選曲者のこだわりを見ることができよう。後年の『Happy!』に通じるものがある。

本作から録音時にドルビーNR方式でエンコードされるようになる。これはカセットのレギュラーリリースが終了となる96年まで続く。



■SUPER BEST バラッド ’77〜’82
1982.12.5. invitation(ビクター音楽産業) VCF-30004
■バラッド ’77〜’82
1985.4.21. invitation(ビクター音楽産業) VDR-9001~2(CD)
SIDE 1 
1. 朝方ムーンライト 
2. ラチエン通りのシスター 
3. 私はピアノ 
4. Just a Little Bit 
5. シャ・ラ・ラ 
6. 涙のアベニュー 
7. 松田の子守唄 
8. 夏をあきらめて 
9. 別れ話は最後に 
10. いとしのエリー 

SIDE 2 
1. 恋の女のストーリー 
2. ひょうたんからこま 
3. 恋はお熱く 
4. わすれじのレイド・バック 
5. Oh! クラウディア 
6. 働けロック・バンド (Workin’ for T.V.) 
7. Ya Ya あの時代を忘れない 
8. 流れる雲を追いかけて 
9. 思い出のスター・ダスト 
10. 素顔で踊らせて 

シングル「Ya Ya あの時代を忘れない」リリース後に発売。ビクターの20曲入り『Super Best』シリーズ(全10タイトル)の一環ではあるが、他タイトルはほとんどが特色のないベストものなのに対し、サザンのこれのみ、既存作品と変化をつけるためかバラードに特化したベスト盤となっている。

年代順でもない凝った曲順・選曲だが、発売当時の広告によると「デビュー以来、最新ヒットの「YaYa」までサザン自身の選曲、構成によるきわめつけのバラード20曲!!」とあるので、『Shout!』に続き、メンバーの意向が反映された内容になっているようだ。

リリース後早々にオリコンカセットチャートでは1位を記録。その後4ヶ月ほど20位以上をキープし続けたところで、83年5月に「いとしのエリー」をはじめ劇中にサザンの旧譜が流れるTBS系連続ドラマ「ふぞろいの林檎たち」が放送。この効果もあってかドラマ終了後の10月まで20位以上に食い込み続け、年末にようやくベスト100圏外へ。翌84年は夏から秋にかけて圏外から再登場。85年3月には「ふぞろいの林檎たちII」が放送開始。4月に再び圏外から復活、夏には20位以上まで上昇し、年末まで100位以上に登場し続けている。そして翌年以降も、毎年夏に圏外からチャート・インを繰り返すという、超ロングセラー・アルバムとなるのだった。88年6月時点で、オリコンカセットチャート史上最高の128週チャートイン記録を達成したという『ウィークリー・コンフィデンス 1988年6月20日号』オリジナル・コンフィデンス、1988)。チャート統合前の、カセットのみの売上数は546,430本「オリコン・アルバム・チャートブック<完全版>1970〜2005」)

「ふぞろいの林檎たちII」のオンエアに合わせたのか85年4月にはサザン、そしてビクター音楽産業の国内ポップスもので初の2枚組CDとしてCD化。CD用のマスターを改めて用意したようで、「Oh! クラウディア」の冒頭のフェイドインが緩やかになっている。また、“Super Best”がタイトルから外れシリーズから独立。ブックレットにはライブの写真が追加されている。といっても松田はシモンズ・関口はスタインバーガー、原もJupitor-6を使っていそうで、さらには矢口博康と思しき人物も写っている。おそらく当アルバム内容の時期からは外れた、84〜85年のライブのものとみられる。このあたり、なんともおおらかな時代である。そもそも、デビューが78年であるにもかかわらずタイトルを「’77~’82」としてしまっているのも相当おおらかである。



■原由子 with サザンオールスターズ
1983.12.16. TAISHITA(ビクター音楽産業) VCF-10174
SIDE 1 
1. そんなヒロシに騙されて 
2. かしの樹の下で 
3. ボディ・スペシャルⅠ 
4. ボディ・スペシャルⅡ 
5. 南たいへいよ音頭 
6. 私はピアノ  

SIDE 2 
1. 東京シャッフル 
2. 流れる雲を追いかけて 
3. EMANON 
4. シャッポ 
5. Ya Ya(あの時代を忘れない) 
6. NEVER FALL IN LOVE AGAIN 

シングル「東京シャッフル」リリースに伴うベスト盤。「東京シャッフル」の収録と同時に、原由子ヴォーカル曲を大きくフィーチャーしようという若干強引な内容だ。原由子ソロ第2作『Miss Yokohamadult』リリースのタイミングに乗じた企画ともいえる。といっても当時のサザン名義で原のヴォーカル曲はそこまで多くなく、『綺麗』収録曲や直近のシングルなどで彩りを添えている。

時代の流れが変わったのかこの作品を最後に、ベスト盤のリリースは一段落する。



■BALLADE 2 ’83〜’86
1987.6.21. TAISHITA(ビクター音楽産業) VCF-30007(CT)、VDR-9049〜50(CD)
SIDE/DISC 1 
1. かしの樹の下で
2. 愛する女性とのすれ違い
3. あっという間の夢のTonight
4. Bye Bye My Love(U are the one)
5. Never Fall In Love Again
6. 鎌倉物語
7. 海
8. Please!
9. サラ・ジェーン
10. 夕日に別れを告げて〜メリーゴーランド

SIDE/DISC 2 
1. シャボン
2. Japaneggae(ジャパネゲエ)
3. Melody(メロディ)
4. 女のカッパ
5. Long-haired Lady
6. EMANON
7. 星空のビリー・ホリディ
8. 悲しみはメリー・ゴーランド
9. 旅姿六人衆
10. Dear John

87年の夏、サザン/桑田作品を出すことができない・というか出すものがなかったタイミングでリリースされたと思しき、『バラッド』の第二弾。そういう意味ではすでに『すいか』の前哨戦的な存在ともいえよう。タイトルは85年までの選曲にもかかわらず「’83~’86」と、またしても1年多い、第一弾と同じおおらかなミスを犯している。

Kuwata Band『Rock Concert』然り、この頃になるとこの手の作品もアナログレコードは出なくともCDが同時発売されるようになる(87年にCDがレコード・カセットの売上金額を凌駕、翌88年には生産数も凌駕することになる)。ベスト盤もカセット・オンリーというサブ的なメディアの世界から、LPの代替品としてのCD、つまりメインメディアの世界に侵食していくのだった。そういったこともあってか本作から、ベスト盤でもようやくプロデューサーほかスタッフのクレジットが登場。「Produced by Southern All Stars」「Co-produced by Takeshi Takagaki」の記載がある。

CD帯やライナーには「Digital New Mastering」のロゴと説明が入っている。エンジニアのクレジットは無いが、いよいよポップス旧譜でもCD用のリマスタリングがひとつの付加価値として提示される時代に入っていく。

ちなみに本作の「女のカッパ」、現行盤CDやそのマスターを使用している配信・ストリーミングの『人気者で行こう』収録バージョンより冒頭のSEが数秒長く収録されている。実は本作の編集がオリジナルで、『人気者で行こう』LP・カセットに収録されていたもの。2週間遅れで出た『人気者で行こう』CD用のマスタリング時、SE部分をそのまま無音の曲間扱いにしてしまった(ノイズと判断して消してしまった?)ようだ。そして現行の2008年リマスターCD『人気者で行こう』でも、過去のCDに準じた編集となっている。そのため、オリジナル・エディットはこちらでしか聴けないというねじれ現象が現在も発生したままである。



■すいか SOUTHERN ALL STARS SPECIAL 61 SONGS 
1989.7.21. TAISHITA(ビクター音楽産業) VDR-10001〜4(CD)、VCF-8001〜4(CT)


Vol.1 1978〜1980
1. 勝手にシンドバッド
2. 別れ話は最後に
3. 当って砕けろ
4. 恋はお熱く
5. 瞳の中にレインボウ
6. 女呼んでブギ
7. お願いD. J.
8. 思い過ごしも恋のうち
9. LET IT BOOGIE
10. いとしのエリー
11. タバコ・ロードにセクシーばあちゃん
12. 私はピアノ
13. 涙のアベニュー
14. TO YOU
15. 恋するマンスリーデイ

Vol.2 1980〜1982
1. C調言葉に御用心
2. I AM A PANTY(YES, I AM)
3. 青い空の心(NO ME? MORE NO!)
4. いなせなロコモーション
5. ジャズマン(JAZZ MAN)
6. ひょうたんからこま
7. わすれじのレイド・バック
8. シャ・ラ・ラ
9. ごめんねチャーリー
10. MY FOREPLAY MUSIC
11. 朝方ムーンライト
12. BIG STAR BLUES(ビッグスターの悲劇)
13. 栞(しおり)のテーマ
14. チャコの海岸物語
15. 翔(SHOW)〜鼓動のプレゼント 

Vol.3 1982〜1983
1. 夏をあきらめて
2. 流れる雲を追いかけて
3. 匂艶THE NIGHT CLUB
4. 逢いたさ見たさ病めるMY MIND
5. 女流詩人の哀歌
6. Ya Ya(あの時代を忘れない)
7. シャッポ
8. ボディスペシャルII
9. マチルダBABY
10. かしの樹の下で
11. そんなヒロシに騙されて
12. NEVER FALL IN LOVE AGAIN
13. EMANON
14. 東京シャッフル
15. STILL I LOVE YOU

Vol.4 1984〜1988
1. JAPANEGGAE(ジャパネゲエ)
2. ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)
3. あっという間の夢のTONIGHT
4. シャボン
5. 海
6. 愛する女性とのすれ違い
7. 死体置場でロマンスを
8. HAPPY BIRTHDAY
9. MELODY(メロディ)
10. 吉田拓郎の唄
11. 鎌倉物語
12. BYE BYE MY LOVE(U are the one)
13. 星空のビリー・ホリディ
14. 怪物君の空
15. おいしいね〜傑作物語
16. みんなのうた

前回記事のとおり、89年の夏に新譜が出せないということで会社側からの要望を受けた桑田が、本意ではないものの「一緒に働いたものとしてはやっぱりね、ボーナスも欲しいだろう、これだけ言ってくるからにはやっぱり、よしわかった最後には信頼しなくちゃいけない(『ロッキング・オン・ジャパン 1990年3月号』ロッキング・オン、1990)ということでリリースされたベスト盤。すでにアナログレコードの売上を凌ぎメインメディアとしての堂々たる地位を確立していたCD、そしていつものカセットの2形態でリリースされている。内容はデビューから88年のシングルまで10年分61曲を年代順に収録した、良くも悪くもあまり偏りのない選曲。ディスコグラフィと最新写真を掲載したブックレット・トランクス&パンティがすいか柄の缶に収められたボックス・セット…という豪華仕様であった。

『Ballade 2』に続き「Produced by Southern All Stars」の記載、さらにこちらも帯に「Digital New Mastering」「全曲デジタルマスタリングにてクリアーなサウンドで再編集」とある。マスタリングエンジニアが4名(今井邦彦、川崎洋、平沼浩司、武田憲二)もクレジットされていることから、1枚につき1名でそれぞれマスタリングしたのだろうか。

前回のとおり、予定プレス数に対し予約が上回ってしまった(予定プレス数や実際の売上数は当時の雑誌記事・オリコン売上数、時を隔てて現在の公式サイト・公式データブックなどでかなり違っているため、あまり気にするものでもなさそうだ)ようで、その影響かUSプレスのディスクが存在する。1セットの中に日本プレス・USプレスのディスクが混在しているものや、そうでないものなど多数の組み合わせが存在するようだ。
USプレスには「Manufactured In USA And Distributed By Victor Musical Industries Inc., Tokyo, Japan」の記載がある。

リリースの半年後に「スイカじゃないけど置いときゃ腐るもんでしかないでしょ?もうあれは腐ってしまってますよ」とまで桑田は語ったが、ここでしか聴けないレア音源なども入っていないにもかかわらず、30年以上経った今でも中古市場では定価割れしていない状況だ。ただし、CDにはアルミ蒸着部分が腐食してしまう、80年代の旧スポンジ緩衝材がデフォルトで入っているため、特にDISC2・4の状態は要注意(これはCD『バラッド』『kamakura』『Ballade 2』の黒ケース=80年代プレスも同様。スポンジは直ちに破棄したほうが良い)。桑田の予言どおり、ディスクが腐ってしまっている可能性がある。

2023年10月7日土曜日

1989 (1) : 現役のナツメロ・バンド

年始に元号が「平成」に変わり、消費税が導入された1989年の4月。サザンオールスターズのニューシングル「女神達への情歌」がリリースされる。


MVを制作し、映像メディアでも同時にリリースされたため、シングルはいつもの3インチCD・7インチ・カセットに加えVHS、翌5月にはVHS-C・VHD・8インチLD、とこの頃ならではの多様な、計7形態で発売されている。


***


「女神達への情歌」はクールなトラックに桑田のブルージーなヴォーカルと、これまたクールなワンマン多重コーラスが乗った、「みんなのうた」とは全く印象が異なるこちらも意欲作であった。サウンド・コンセプトは「原点回帰」であることを桑田は複数のインタビューで口にしている。

— はじめにサザンオールスターズの新曲「女神達への情歌」の制作意図からお話しください。
桑田「まずいえるのは「みんなのうた」(88年6月)とは次元が違うということです。「みんなのうた」って、アマチュアっぽさバンザイ的な部分があって、それに関してはプロとして反省したの。まぁ、ここまできたら、怖いものはない!みたいなのもあるけど、「勝手にシンドバッド」(78年6月)を出す以前のサザン、下北沢のライブハウスでやってた頃の感覚がよみがえってきて、この曲ができた。今回の曲は”産業的な作為”がないです。」
— 早い話、売れ線狙いではない、と。
(略)
デビュー以前の気持ちというと、当時のお気に入りバンドのこととか思い出したりもしたんですか。
「やっぱりリトル・フィートなんですよ。正しい人間になって音楽やろうとすると、必ず出てくるバンドなんです。やっぱり、自分たちにとってのロック・スピリットを確認したかったしね。今度の曲って、全体にエコーを少なくしたんだけど、それもロック・スピリットの現れだと思ってください。
(『FM Station 1989年 No.6』ダイヤモンド社、1989)

— 今回のニュー・シングルのテーマは原点回帰だとか?
「や、単に煮詰っただけ(笑)。ていうか、ブルースがやりたかったのね。『勝手にシンドバッド』でデビューする以前、アマチュア時代のサザンっぽいイメージ。プリミティヴな手触りをもう一度確かめてみたかったんだ。ある意味では、このシングルがいまレコーディング中のニュー・アルバムのパイロット版的存在になると思うけど。」
— プリミティヴなものを見直そうと思ったのはどんなキッカケで?
「(略)たとえば、ボ・ガンボスとレピッシュとプライベーツと……。これ、たぶん5〜6年前だったらほとんどいっしょくただったんじゃないかな」
— ロックという枠でひとくくり。
「そう。だけど、今はその辺の微妙なテイストの違いを、みんなかぎわけてるでしょ。受け取る側の感覚とか、マスコミの意識とか、あとミュージシャン本人たちの出どころが変わってきたとか。いろいろ理由があると思うんだけど。立ちはだかる歌謡曲の巨大な壁っていうのも、今がもうないしね。(略)」
— 歌謡曲という言葉が意味する音楽形態自体が変わったのかもしれない。
「かもしれないね。とにかく、そういう音楽性の差とか違いとかをあえて極端に打ち出しながら、産業ロックの法則にのっとって活動しなくてもわかってもらえる時代なんじゃないか、と。産業ロック、イコール歌謡曲だからさ。その法則にのっとってがんばるっていうのは、ね。いまとなっては、あんまり刺激ないし。」
— で、いきなりリトル・フィート。
「ほら、今も年寄りのミュージシャンが根強くやってるでしょ。キース・リチャーズとかスティーヴ・ウィンウッドとかブライアン・ウィルソンとか。ああいう永続性っていうのかな。特にブライアン・ウィルソンのアルバムなんか聞いてて、すごくうれしかったの。別に何か新しいことやってるわけでもないんだけど、かといって古さとか、いやらしさとかも感じさせないし。自分の世代と自分の音楽に対して忠実な姿っていうか、そういうものを平然と出してるじゃない。ナチュラルだなって思うわけ。
(『SPA! 1989年3月16日号』扶桑社、1989)

「デビュー以前のサザンをね、やりたいっていう……。ま、それは言葉の上だけだけども、精神はそうだよね。ブルースっていうか、そういう古くせえもんをやりたいと思った。クールなんだけど、熱い!っていう。」
(略)
「今年はもう一度出直しっていうか、さっき言ったようにデビュー・アルバムってものにものすごく憧れがあるんだよね、俺は個人的に。」
(略)
「自分たちも、マスコミに登場したサザンに合わせて自分たちをコントロールしだしたところがあったじゃないですか。それはとっても楽しかったけど、ほんのちょっぴり残念だった。やっぱりブルースとか、暗い音楽ね、体験音楽、自分たちでやることに意味があるっていう音楽のフィールドね。だってサザンロックのサザンなんだから。そうやりたいなって、いまさら(笑)。
 サザンロックのサザンはいつしか南のサーフィンの方にいっちゃったんだ(笑)。そっちの方の業界に流れちゃった。それは俺も悪いんだけど。いつしか加山雄三と並べられることに快感を覚えてきましたからね。
 でも本来、グレッグ・オールマンのつぶやきとか、レオン・ラッセルのバター犬のようなボーカル、何というか女性の恥部をなめるような歌い方というかバンドというか、ネトネトしたのがやりたくなったわけですよ。まあ俺の言ってることなんて4カ月くらいとかで変わってしまうんでしょうけど(笑)。」
(『ワッツイン 1989年3月号』CBS・ソニー出版、1989)

サウンド作りの面では、ここで門倉聡・菅原弘明コンビが登場する。共同アレンジャー、キーボードでクレジットされた門倉は藤井丈司の人選で桑田ソロ「愛撫と殺意の交差点」にて初登場。88年春の原由子ソロシングル「春待ちロマン」を経て、今回サザン名義のレコーディングにも参加することとなった。プログラマーの菅原は当時オフィス・インテンツィオに所属しており、高橋幸宏『...Only When I Laugh』や高橋の関連作(Beatniks、高野寛)、坂本龍一『Neo Geo』などで活躍していた。2名を迎えたこのレコーディングで、桑田はかなりの手応えを感じたようで、「女神達への情歌」は桑田のフェイバリット・ナンバーとして後年も語られることになる。

「僕が思うサザンのベスト5に入るナンバーですよ。この曲と「勝手にシンドバッド」「真夏の果実」、あと一つか二つかなというぐらいなんだ、俺は。「ニッポンのヒール」とかもそのなかに入りますけどね。これをやっているときの門倉君と菅原君の相性が僕にすごく合った。これ以上言うと、コード進行がどうのとか、何だかワケがわからなくなっちゃうけど、まずコード進行は、イイよね(笑)。あとガットギターでやったギターのリフ。それとあとは歌詞とコーラス。あらゆる出来映えを考えてベスト・テイクだと思うもん。俺が初めてデモ・テープらしきものをウチで作って持っていった。クソみたいな内容だったけど、デモテープらしきものに聞こえたのはあれが最初で最後じゃない?」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)

イントロは各種シンセのリズムとガットギターのリフからスタートする。ガットギターというと同時期に録音が開始された「稲村ジェーン」用セッションが想起されるが、実際、そこからのフィードバックが行われている。「Tsuneishi Group Saturday Night Cruise 桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM, 2008.6.28.)にて、この曲のギターは「稲村ジェーン」用レコーディングで登場したばかりの小倉博和が考案したリフであることを桑田は明かしている。「今回はちょっとブルージーなものを作りたくて、あの出だしのリフから作った。」(『シンプジャーナル 1989年6月号』、1989)という発言とあわせると、前述の桑田のデモテープは小倉と作ったものなのかもしれない。このガットギターのアレンジひとつにしても、桑田はかなり気に入っていたようだ。
「「女神達」は、「KAMAKURA」とか「みんなのうた」とかのギターを超えたところがあるんだ。エレキもそうだし、ガットギターも大森がやってるけど、ひとつのアンサンブルをね、オーケストレーションというか、ギターで作っているんだ。あの曲はほとんどがギターとコーラスで支えているんだよ。
(『代官山通信 Vol.23 Jul. 1989』サザンオールスターズ応援団、1989)

桑田の凝ったワンマンコーラスもサザンでは初で、前年のソロから継続登場となる。「忘れられたBig Wave」とどちらが先に着手されたのか不明だが、両方とも同じタイミングで、門倉によるコーラス・アレンジということになるだろう。
— 全体のコーラス・ワークも後期のビーチ・ボーイズみたいに実験性に富んでいて、思わず引き込まれたんですがあれは桑田さん一人でやったんですか。
「うん、好きなんですよ。一人のコーラスが。達郎さんじゃないけれども。自分一人でコーラスをやって、みんなでやるのとは違う倍音が聴こえてくるのが面白くて。」
(『シンプジャーナル 1989年6月号』)

さて、デモから実際のアレンジについては、おそらくこの曲からサザンはこれまでと作業順序を変えている。『kamakura』までのサザンはバンドのヘッドアレンジでシミュレーションを行い、そのあとコンピューターが登場する…という順序であった。以下は関口和之86年ソロ作リリース時のインタビューより。
関口和之「彼(引用者注:米光亮)の自宅のスタジオに16chのレコーダーがあるので、ドラム、ベース、キーボードの、すでに決まっているフレーズはそこで打ち込んじゃったんです。それをレコーディング・スタジオで24chにたちあげて、生音とさしかえたり、ダビングしたりしてね。コンピューターのアプローチとしては、サザンと逆。サザンの場合、まずバンドで音を出してみて、ベースやドラムをコンピューターにさしかえていく。」
(「キーボード・スペシャル 1986年3月号」立東社、1986)

しかしこの曲はシンセとコンピューター(門倉と菅原)でシミュレーションを行ったのちに生音をダビングしていくという、関口や桑田ソロの手法を流用したものと思われる。
「で、今年89年にレコードとしてサザンが復活するんだけど、そのためのハズミをつけるためにこのシングルを慎重にやりたかった。メンバーが集まった時に言ったんだけど、設計図を引くようにアレンジをやろうって話をしたんだよね。せーので全員でボカーンとやって終わりっていうんじゃなくてね。」
(『ワッツイン 1989年3月号』)
この後のアルバム・セッション一曲目、「悪魔の恋」の今井邦彦コメントからもそれは伺える。
M③「悪魔の恋」
 アルバム・レコーディングの最初の曲です。シンプルなリズム・パターンですが、ドラムは打ち込みで、おかずなどシミュレーションしてから叩く、というやり方をしました。
(今井邦彦「レコーディング実話 Southern All Stars/サザンオールスターズ」『Sound & Recording Magazine 1990年3月号』リットーミュージック、1990)

冒頭で引用した桑田コメントでは何度もLittle Featの名が挙がっているが、イントロのビートは「Dixie Chicken」でも、例えば79年の「I Am A Panty(Yes, I Am)」のように比較的そのまんまというアプローチではない。クールな響きはSteely Dan「Babylon Sisters」や、Donald Fagenバージョンの「Ruby Baby」の匂いも感じられる。そこに原点回帰的な泥臭いLeon Russel風ヴォーカル、洗練された桑田のひとりManhattan Transfer(実はコーラスのみならず全体が85年「That’s Killer Joe」の雰囲気もある)・Beach Boys風コーラスが絡んでいくという意外性の連続の世界。おそらくマニュアル・プレイのリズムは入っておらず(たまに入るスネアは生?)、菅原の打ち込んだシンセと門倉のキーボード、大森のガット+エレキギターと桑田の各種ヴォーカルでいかに「クールなんだけど、熱い」サウンドを構築するか、ということに念頭が置かれた録音だったのだろう。小林武史の参加はないようだが、またしてもグロッケンが要所要所で効果的に使われており、すっかり桑田のお気に入り楽器になったことがうかがえる。

サザンというバンドにしてはマニュアル・プレイの出番は少ないが、これも意図的・時代的なものだったようだ。
「要するにブルースっていう古臭いものをそのままやると、どんどん古臭くなって下手すると関西ブルースになるからね。例えばオルガンの音でも本当のハモンドでやると今やかえってアングラになるから、それをシンセであえてやると、何となくマゴウことなきシンセがハモンドの音に聞こえたりするっていう効果を狙ったんだけどね。できるだけ限定されない形でブルースやって、結果としてトラディショナルな音楽形態のものを作りたかったんです。」
(『シンプジャーナル 1989年6月号』)
ソロでも同じような発言をしていたが、ルーツをそのまま再現するのではなく、トレンドの手法・音色と組み合わせることで今を生きるサウンドに仕上げる、という方法論を今回も用いたということになる。

エンジニアはこれまでどおり今井邦彦が担当。桑田ソロでは桑田のサウンド追求癖に根気よく付き合ってきた今井だが、今回はサザン名義の録音でも桑田が同じくギリギリまで粘るようになっているのがコメントからわかる。
M⑧「女神達への情歌」
 このアルバムのコンセプトとなった曲です。ヴォーカルとコーラスのからみが中心となって、いろいろな楽器が、オンで出てくるところがミソ。間奏のシンセは、プロフェット5を、コンソールのプリアンプで歪ませたものです。ほど良い歪みと渋いフレーズで、不思議な感じです。
 この曲はPCM-3324とアナログ・スレーヴを使ったため、コーラスの孫スレーヴまでできてしまいました。
(今井邦彦「レコーディング裏話 Southern All Stars/サザンオールスターズ」)
今井「『女神達〜』で思い出深いのは、自分なりにミックスの手応えがあって、桑田さんも作業を終えた夜、「最高の出来だね」って電話をくれたのに、それから2日ぐらいしたら、「もう一回ダビングをしたいんだけど」と言われて(笑)。ミックスが終わったやつをもう一回デジタル・マルチに入れて、違うチャンネルにスネアを足しました。」
(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019

さて、歌詞についても言及しておこう。このサウンドに乗って、アダルトビデオを鑑賞する男を描くというなんともユニークな、風刺のようで自虐的でもあるテーマ、他の追随を許さない作詞家・桑田の真骨頂ともいえる。歌詞もベスト、と自身でも語っていたが、このテーマはどこから発想されたのか。
時代が呼んでるのは非常にコンビニエントなものでしょ。マンションの一室とモニターとちょっとした消費財。それがぼくらを含めて中堅どころ社会人のステイタスだったりするわけでしょ。世界のニュースから何から、ビデオをピッとやればまかなえる。密閉された中での熱狂というか。それを皮肉ってやりたいってのはありましたね。」
(『スコラ 1989年4月27日号』)

密閉された中での熱狂」というと、スタジオにこもってコンピューターとシンセでシミュレーションしながら「クールなんだけど、熱い」サウンドを目指したこの曲の制作体勢がそのまま当てはまる。おそらくそんなサウンド・コンセプトをなぞった、皮肉ったテーマとして、アダルトビデオ鑑賞が発想されたということなのではないだろうか。そして、「みんなのうた」制作前に語っていた都会・日常生活、というコンセプトがやっと叶ったといえる。ある意味では、これも「シティ・ミュージック」なのだ。

「今度のシングルなんか—できてませんけど(笑)、あたかもできたように言うとね—視点がもう大ズレ、見てる範囲が狭い狭い。やっぱりサザンはですね、避暑地を捨ててですね、レジャー、バカンスを捨てて、そう!サザンはバケーションを捨てます。バケーションを捨てて都会に上陸しようと思ってるの。スキー場も海も捨ててですね、もうリゾートしないの。本当の日常生活にもどっちゃおうかなって言う気がしてんですよね。
(略)
— (笑)すごいですね。できてないのに言っていいんですか。
「(笑)できてないから言えるんだけど。ほんと、ボキャブラリー一切変えますから」
— 楽しそうですね。
「でもそれは、僕バンド活動としては夢だったですよね。僕らリトル・フィートのコピーしたりさ、E・クラプトンの真似したりしてずっときたでしょう。それがだんだんサザンのカラーっていうのができちゃったんだよね。だから、そうじゃないカラーっていうのを、最近私はね、ヒシヒシと感じるんです。」
(「ロッキング・オン・ジャパン 1988年7月号」ロッキング・オン、1988)

英詞部分をネイティブの感覚に寄せるためか、Kuwata Bandからの縁でTommy Snyderを補作詞として起用。これ以降、2002年まで数々の桑田作品に英語補作詞としてTommy Snyderのクレジットがある。


***


「女神達への情歌」完成後に即アルバムのレコーディング開始…とはいかず、ホイチョイ・プロダクションズ原作・馬場康夫監督の映画「彼女が水着にきがえたら」主題歌のオーダーを受けたサザンは、そちら用に新曲を制作することになる。同じ原作・監督の体制での第一弾、87年「私をスキーに連れてって」は松任谷由実の旧譜を使用した映画だったが、「彼女が水着にきがえたら」ではサザンの旧譜を使用することに決定。さらには、書き下ろしの新曲を主題歌に据えることになったのであった。89年6月にリリースされたのが「さよならベイビー」である。

――この映画で気になるのは、サザンオールスターズの音楽は最初から決まっていたのかということなんですけれど。 
馬場康夫「いや、実のところ当時はサザンオールスターズのことは全く興味がなかったんですよ。もちろん今は大好きですよ。なぜ興味がなかったかというと、桑田佳祐さんは僕より2つ年下なんです。ユーミンは僕よりひとつ上だったから学生時代に聴いていて染み付いているんですけど、サザンは僕が社会人になってから出てきたのであまり聴いていなかった。だから、フジテレビからサザンの音楽を使いたいという話があってから、じっくりと聴き込みましたね。でもサザンよりも桑田さんのソロ・アルバム『Keisuke Kuwata』のほうをとても気に入ってしまったんです。それで、「いつか何処かで(I FEEL THE ECHO)」をどうしても使いたいとお願いしたら、桑田さんも「いいよ、あれもいい曲だね」って感じで使わせてくれたんです。」
(略)
「『彼女が水着にきがえたら』で、「いつか何処かで」が流れるシーンがあるじゃないですか。さっきお話した鐙摺(あぶずり)の電話ボックス前で主役の二人がすれ違うところ。桑田さんはあのシーンに使われるものだと思って、「さよならベイビー」を書いてくれたんです。消えた夏灯り、戻れない乙女っていう歌詞を読めば、意識して書いてくださったのがわかりますよ。でも、あのすれ違いのシーンには、僕はどうしても「いつか何処かで」を使いたかったので、「さよならベイビー」ができ上がってきた時に頭を抱えたのを覚えています(笑)。結局は、オープニングでうまくはめることができました。」
(実は「さよならベイビー」は、主役の二人がすれ違うシーンを想定して桑田佳祐さんが書かれてたんです。ホイチョイ・プロダクションズ 馬場康夫 ロングインタビュー 第2回

「女神達への情歌」がその後のサザンのアルバムのパイロット的な位置に置かれようとしていたのに対し、こちらはあくまで映画のため職業作家的に提供した曲、という意味合いが強かったようだ。
桑田「アレは、つまり「彼女が水着にきがえたら」と言う映画のためにつくりましたから。サザンのアルバム用と言うよりはあの映画用としてね。監督の馬場さんを通して、主演の原田知世さんとか伊藤かずえさんの役どころのイメージに基づいて作ったと言う部分があるからね。あの映画を盛り上げるためのものなんだよ。
(『代官山通信 Vol.23 Jul. 1989』サザンオールスターズ応援団、1989)

馬場が「いつか何処かで」を気に入ったというエピソードを踏まえてというわけでもなかろうが、ソロ・アルバムを経たポップス歌手桑田の繊細な、こだわりのあるヴォーカルがなにより素晴らしい。低めの地声とファルセットを行き来する唱法も珍しいアプローチだ。サウンド作りはというと「女神達への情歌」の手応えを踏まえ引き続き門倉をアレンジャーに迎え、門倉・菅原コンビ、さらに今回はプログラミングにおなじみ藤井丈司もクレジットされている(同時期の後藤次利による工藤静香用セクションの顔ぶれだ)。この面々による、ほどよくトロピカルなレゲエ・ラヴァーズロック風味のトラックで、湿度高めな楽曲とのバランスを取っている。下記で今井が語るように終盤でリズム隊がマニュアル・プレイにはなるものの、基本的には今回もクールなマシンのビートが心地よく(TR-808のカウベルも印象的だ)、この手の桑田のヴォーカルとも相性が良い。相変わらずレコーディングはすんなりといかず、時間をかけた録音となったようだ。

M11「さよならベイビー」
 「彼女が水着にきがえたら」のテーマ・ソングなので、お馴染みの曲でしょう。この曲だけ、ヴォーカルはシュアーSM57で録ってます。多少、他の曲と歌の感じが違うのがわかります?リズム(ドラム、パーカッション)でもめた曲で、相当細かい打ち込みをしています(他の曲でもそうですが)。前半打ち込みドラム、大サビから生ドラムと生ベース、最後は生ドラムと打ち込みベースと、48chフルに使ってます。
(今井邦彦「レコーディング裏話 Southern All Stars/サザンオールスターズ」)

桑田「いま聴くとアレンジ的にアチャーッ!って感じもあるんだけど、その時はけっこうこだわって作った。コンピュータのリズムとかね。とにかく追求癖がついてたから、何かちょっとでも気に食わないことがあると詰めてましたね。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)


また、映画にインスパイアされて作った曲、というのもこの時期大きなポイントだろう。馬場から映画の内容・シーンの説明を受けての作曲だったようで、馬場のコメントどおり、特定のシーンに使われることを想定したことが功を奏したようだ。当時の桑田の場合、こういったオーダーを受けての、ストーリーに寄り添った曲作りというのは珍しい。たまたまだろうが、この年の秋には桑田自身の監督作品の撮影が予定されていた。クランクアップ後、その映像に触発され、桑田は追加で新曲の制作を行うこととなる。


***


「女神達への情歌」の攻めの姿勢の背景の一つに、桑田はこんな危機感を持っていたことを明かしている。

— ところで、カラオケで今も、サザンのヒットナンバー、「いとしのエリー」などが、根強い人気で、中年のオジサンまで歌っちゃう、みたいなことって、当の桑田さんはどんなふうに受け止めてます?
桑田「サザンの大衆性(ポピュラリティ)ということでは喜ぶべきことなんですけど、ここまでなっちゃうと、ある種の危機感ていうか、“若い人間ついてこないのか”みたいなものを感じますね。たとえば、この前の夏、横浜球場でのコンサートでも最後“Oh!クラウディア”なんか歌って、わーっと盛り上がるんだけど、僕らの年代だけが持ちうる共通意識っていうか、その域を超えていないっていうのはあるんですよね。」
— それ以上のものを求めたい、と。
「うん、やっぱり……。僕らの同世代感覚で共有できるだけだと、もっと若い世代、例えば、高校生、大学生になると、話ができなくなってくる。サザンの今の曲を、高校生が学園祭でコピーしてるかっていうと、やってないんじゃないか、それに対する危機感はありますね。
(略)
だから、同世代が受け入れてくれるというありがたさとはまた別にね、常に若い人、この言い方がジジくさいんだけど、(笑)若者にベクトル向けてないとマズイと思うんです。
(略)
今年の活動なんかにしても、ビデオシングル作りました、映画作りましたとか、表面(うわべ)でとらえると、なんか文化人くさいじゃないですか。(笑)でも、僕らは文化人を相手にやろうというつもりはいっさいないし、やっぱり曲を演奏してナンボと思っていますから。」
— まだまだバリバリの現役でやる、と。
「もちろん、そう願っています。今回のビデオシングルと映画は、これからのサザンの心意気を示す打ち上げ花火、みたいなものです。」
(『月刊エフ 1989年5月号』主婦の友社、1989)

「サザンも、まあ、去年復活して、横浜球場なんかでライヴやったでしょ。で、何万人って客とみんなで「オー・クラウディア」を歌ってしまうという世界にいよいよきてしまったから。なんか、こう、全日本プロレスみたいになってきちゃって(笑)。ほら、あるじゃない、馬場が16文キックやると、それだけで“おーッ!”ていう世界が。もちろん、それはそれでうれしいんだけど、同時にそういういうパターンだけにおちこんでしまうといかんなって匂いをすごく感じたわけ。
(『SPA! 1989年3月16日号』)

ボク自身もポップスというようなものはいつでもできるといったらおかしいけど、今回はちょっと外したいんです」
— でも、それは、いままでのサザンのイメージを壊すことになる。
「いままでのサザンオールスターズという名前から連想されるものが好きな人は、ちょっととまどいがあるかもしれないね。だけど、そういう旧知のファンに対しては裏切らなくちゃいけないんだろうな」
(『Goro 1989年2月23日号』小学館、1989)

何度も言及される前年「大復活祭」の「Oh!クラウディア」は、ある種の定番、ナツメロ、懐かしいサザンの象徴として語られている。それに対抗するための裏切り、現役感を示そうとしたのが新曲「女神達への情歌」であったといえる。とはいっても一方で、わざわざB面にその「Oh!クラウディア」ライブ・バージョンを収録する、このシングル盤の構成における相変わらずのバランス感覚はなんとも桑田らしい

時は前後して、90年初頭、アルバム『Southern All Stars』リリース時のインタビュー。新作の話もそこそこに、渋谷陽一は当時のサザンの立ち位置について、痛いところを突くような持論を桑田にぶつける。

— で、いよいよサザンでまたツアーをやるわけですけど—俺、横浜球場行って思ったんだけれども、世代の音楽としてのサザンオールスターズってあるねえ、20代の
「ああ、ここんとこ最近ね、この4年ぐらいそういう風潮ありますね。」
— そういうのってどうですか?
「やだよねそんなの」
— 現役のナツメロ・バンドの役割があるみたいな。
「クラシックって言ってくれる?(笑)」
— (笑)失礼しました。
現役のナツメロ・バンドかもしんないけど、やだよね俺は」
— 現役で一番メジャーでありながらナツメロ・バンド的意味合いも持ってるってすごいよね。4年半も休むからいけないんだよ(笑)。
「(笑)この4年半ぐらいでそうなった可能性あるよね」
— その辺ナツメロ・バンドのおじさんとしてはどうですか?
「んー、だからあんまり好きじゃないですよそれは。だって昔の曲を聴かれるっていう、これほど恥ずかしいものはないもん。昔の曲を聴き直されてるとかさ、会った時に『“いとしのエリー”聴きましたよ』とかさ」
— いいじゃない、「ありがとう」って言うんでしょ?
「言わないよォ。ほんっとに興味のない話題ってそういうことよね、『チャコの海岸物語”、うちの父が好きで』なんて」
— いいじゃない。
「良くないよォ。世の中でいっち番興味のない話題ってそれ」
— アハハハ。だけど世間はそういうことにすごく興味があるわけじゃない?
「だからね、俺に言うことじゃないと思うんだけど」
— だって作ったのあなたじゃない?
「作ったけども、ひとつのレコードという形にして届けたんだから、それに対するコメントはもういらないの」
— レイ・チャールズと話すときに最新アルバムについて話す?クインシー・ジョーンズとの曲よかったとか言う?やっぱり昔の曲について話すでしょう。
「いや、俺はそう言うことについて気ィ遣うもん」
— 気ィ遣うけど本当は一番聞きたいんでしょ?(笑)
「ほんとはそう(笑)、ほんとはそうなの、そそそ(笑)」
— (笑)同じじゃないですか。
「俺はだから彼らの気持ちわかってるから。『レイ・チャールズさん、俺、“アイ・ガット・ウーマン”思い出の曲でね』っつったら彼らは顔で笑っていても腹の中は煮え繰り返ってるのわかるからさ(笑)。まあ、レイ・チャールズほど偉大になって仕舞えば煮えくり返んないかもしれないけさあ、俺はセコいからやなんですよ。そういう昔の話は」
(『ロッキング・オン・ジャパン 1990年3月号』ロッキング・オン、1990)

89年7月、ニューアルバム制作真っ只中のサザンは、限定生産のベスト・アルバムをリリースする。『すいか Southern All Stars Special 61 Songs』と題されたこのボックスセットは、サザンのデビューから「みんなのうた」までを年代順にCD4枚またはカセット4本に収めた、88年までのサザンのアンソロジー的なベスト盤であった。CDは税込10,000円、カセットは税込8,000円と高額商品であったが、発売前の段階で予約が内々の予定プレス数を上回ってしまったという。予約数に間に合わせるため、国内生産では間に合わず急遽米国で追加プレスを行ったのか、CDは1セットの中でも日本プレスとUSプレスの盤が混在している。


ニューアルバムのレコーディングの最中、先行シングルが2枚出た段階でこのようなベスト盤が出た背景はというと、アルバムが89年夏には間に合わない・しかし夏に何かサザンの新作を出したい…というのが最大の理由であろうことは想像に難くない。さらに、ベスト盤という発想は、88年の旧譜シングルの一括3インチCD化が念頭にあったはずだ。「みんなのうた」と同時にリリースされた23枚のCD一括リイシューでは、10数枚がオリコンシングルチャート100位以内にランクインしている(『FMレコパル 1989年2月20日号』小学館、1989)まだまだサザンの旧譜には十分な経済効果が期待できる、という思惑が、レコード会社・事務所の両社にはあったことだろう。そういえば、6月公開の「彼女が水着にきがえたら」でもサザンの旧譜が使われたばかりであった。

— その割には『すいか』なんていうとんでもないレコード出したじゃないですか。
「あれは俺知らないところで……説明して説明して」
マネージャー「あれはビクターの企画モンっていう世界で」
— で、結局OKしたんでしょ?
「だからぁ……ああいう企画が最初からあったわけではなくて、ね?何か出したいっていう企画があって、ああいうのは一切やめようって話しになってたんだけど、結局—とにかく出したい動機があるじゃない。色々と思惑があるじゃない。その思惑はわかるけどもアーティスティックじゃないからやっぱりやだという戦いもあるんですよ。で、一緒に働いたものとしてはやっぱりね、ボーナスも欲しいだろう、これだけ言ってくるからにはやっぱり、よしわかった最後には信頼しなくちゃいけないっていうね。そういう微妙なねえ……んー、まさにスイカなんですサザンは。あの『すいか』のレコードじゃないけど、ま・さ・に・いろんな人間の思惑とか信頼関係とか、それから色んなのがあるんですよォ」
— だけど1万円もする高価な商品があんなにバカみたいに売れると思いました?
「んー、まあねえ、売れましたけどねぇ」
— やっぱり現役のナツメロ・バンドなんですかね。
「そうそうそう。まさに現役のナツメロ・バンドなんだよ、あの『すいか』の時点までは。だからそういうことはしたくなかったわけ俺は。でも、やっぱり色んな思惑とかね、ノヴェルティとかそういうものをどっかで手放さなくちゃいけないというね、新譜が出てない分……辛いっスねえ」
— だけどそういうヤクザな商売っていいと思いません?逆に。何かポップ・ビジネスやってるっていうダイナミックさがあると思いません?
「思います思います」
— そういうことをも楽しめる余裕というか、キャパシティっていうのは……。
「いや、楽しめないけどさ俺は。『すいか』に関しては別に」
— そこかサザンオールスターズの大衆性を支えていると思うんですけどね。
「んー、そうかもしんないけど……まっ『すいか』はね、あれはあれだけのもんですからね、ほんとに。スイカじゃないけど置いときゃ腐るもんでしかないでしょ?もうあれは腐ってしまってますよ」
— いや、今年ビクターは『めろん』出すっつってましたよ。
「キャーッ」
— 今度は四枚組だっつう話だよ(笑)。
キャーッ(笑)。もう当分ないでしょう。やっぱり現役としてのレコードが出てなかったっていうのが一番大きかったんじゃないの?こっちの弱みとしても。それはやですよやっぱり」
(『ロッキング・オン・ジャパン 1990年3月号』)

『すいか』現象が発生していた89年夏、それを横目にサザンはスタジオで「現役としてのレコード」制作の真っ只中であった。そんな新作はどのような内容になったのか、次回、詳細を見ていこう。


2023年9月23日土曜日

The Nolans「I'm Never Gonna Let You Break My Heart Again」[Ken Gold Songbook]

Nolansはアイルランド出身のガール・ヴォーカル・グループです。1974年に母体となるThe Singing NolansからThe Nolan Sistersに改名、79年にはユーロビジョン・ソング・コンテストに参加。Epic移籍後にNolansに改名しての第一弾「I'm In The Mood For Dancing」がアイルランドIRMA2位、UK OCC3位、南アフリカSpringbokや日本のオリコンでは1位を獲得するなど、世界的ヒットを記録します。

Nolansは「I'm In The Mood For Dancing」の後も、「Don't Make Waves」「Gotta Pull Myself Together」、そして「Who's Gonna Rock You」とヒットを続けます。この「Who's Gonna Rock You」は80年初頭にリリースされていたBilly Ocean『City Limit』収録のアッパーなナンバーのカバーで、作者はKen Gold-Billy Oceanコンビでした(Nolansのバージョン『City Limit』バージョンに比較的忠実な出来です)。この縁があったからかどうか不明ですが、82年のNolans『Portrait』にKen Gold-Micky Denneコンビの楽曲が一曲収録されています。


Gold-Denneコンビ作のスロー「I'm Never Gonna Let You Break My Heart Again」はアルバムA面の4曲目に収録され、日本ではアルバム発売前にシングル「Crashing Down」B面に先行収録もされました。プロデュースはそれまでのNolans作品ではおなじみNicky Grahamが担当。Nolansというとこの時期のヒット曲からやはり元気でポップ、またはアッパーな曲のイメージが強いですが、この曲は打って変わって大人びた雰囲気を見せています。Delegation『Deuces High』期のGold-Denneコンビらしい、アーベインでメロウな楽曲といえるでしょう。

Ken Gold史としては81年のPointer Sistersに続くGold-Denneコンビによる黒っぽさのあるガールグループものですが、この後は突如Phil Spector〜ナイアガラ風の、Jodellesが登場することになります。

2023年8月31日木曜日

1988 (3) : ラテン・ミュージックとBig Wave

1987年10月28日の朝日新聞夕刊では、見開きでアミューズの全面広告が掲載されている。桑田のポップ・ミュージック宣言、「悲しい気持ち」広告と同じ月の月末にあたる。


「生命が永遠だったら、今日、何をするだろう。」とコピーのあるアミューズ10周年の企業広告には、スタッフ募集・アミューズアメリカの活動・アメリカでのミュージカル運動・音楽スタジオの創設・喜多郎ライブへ妊婦1000人を招待…などが記載されているが、メインの告知は10本の映画製作と、その出演者オーディションへの参加者募集の告知であった。

アミューズが、原田真二のマネジメントのために大里洋吉により立ち上げられたのが77年。もともと映画好きだった大里は、映画会社に的を絞り就職活動していたがうまくいかず、最終的に業務内容に「映画制作」と記載のあった渡辺プロダクションに就職したというエピソードの持ち主だ(Musicman’s RELAY 大里洋吉  https://www.musicman.co.jp/interview/19474。音楽中心のプロダクション・アミューズ立ち上げ5年後の81年、大里は映像部門アミューズ・シネマ・シティを創立、満を持して映画界に進出する。第一回作品「モーニング・ムーンは粗雑に」の制作・公開と同時に、サザンのスポットCM(「Big Star Blues」)やMV(翌年の「匂艶The Night Club」)など自社音楽部門の映像作品制作も開始。83年以降は「アイコ十六歳」「さびしんぼう」「Bu・Su」と富田靖子主演作品を連続して制作…とこの流れで87年、事務所の10周年を記念し、10本の映画制作を打ち立て更なる事業の拡大と新たな才能の発掘を兼ねる試みが「アミューズ・10ムービーズ」であった。実際このオーディションの合格者には、福山雅治が含まれている。

先の広告には俳優のみならず、脚本家や監督も探しており、「新人監督の起用も予定しています。」と書かれている。結果的に、新人として監督を担当することになるのが桑田であった。

桑田「で、たまたまうちの事務所が年間に10本の映画を作ろうっていう10ムービーズって企画を打ち出してね、僕は初め関係ないって思ってたんだけど、僕の所にも話が来て、最初はことわったんですよね。でも、色々やってるうちに僕なりに映画を作る条件を考えた。」
(『週刊ビーイング』1993年9月13日号、リクルート)

映画畑以外、異業種からの映画監督参入というとなんといっても89年、ビートたけしが北野武名義で監督を務めた「その男、凶暴につき」が挙げられる。こちらは当初の監督が降板したことから偶発的に監督・北野武が誕生したようだが、桑田の場合はその前から企画が始まっており、所属事務所の記念事業の一環という側面もあった。ここから、数年にわたってミュージシャンを含む異業種からの監督を迎えた作品がいくつか生まれる流れが発生する。


***


映画の公開やアルバムのリリースが90年9月だったため、音楽制作もサザンのアルバムリリース後の90年かと思いきや厳密にはそうではない。この映画の音楽はあくまで桑田のソロ活動の一環という扱いで、サザンとは別のプロジェクトとして88年から進められており、サザンの次のアルバム・ライブツアーと交互にスケジューリングされ進められていったようである。

 88年の11月に映画の下敷きとしてのイメージ音楽のレコーディングがスタート。脚本の完成と歩調を合わせての曲作りとレコーディングを繰り返し、並行して伊豆ロケを中心とした撮影。スタジオでフィルムをコマ送りで見ながらのレコーディング。「正解はひとつしかないんだ」という合言葉での牛歩のような作業の挙句、音楽がピタッと映像にはまった時の感動。
(略)
企画→音楽制作→脚本→撮影→音楽と編集の繰り返し→完成という、いかにもミュージシャンが映画を作るという手順にそって進行され、きわめて音楽寄りの映画になっているのだ
(高垣健「ロック・ビジネス悪あがき 第7回 桑田佳祐、9月に双生児誕生!?」『Sound & Recording Magazine 1990年9月号』リットーミュージック、1990)

各種記録・証言(『Sound & Recording Magazine 1990年3月号』リットーミュージック、1990/『FMレコパル 1989年2月20日号』小学館、1989『代官山通信 Vol.24 Oct. 1989』サザンオールスターズ応援団、1989/桑田佳祐「平成NG日記」講談社、1990から推察した最終的なスケジュールは以下のとおり。

・88年11月〜 映画音楽用レコーディング
・88年末〜 サザン「女神達への情歌」「さよならベイビー」レコーディング
・89年4月〜89年9月6日 サザンアルバムレコーディング
・89年9月10日〜19日 映画音楽用レコーディング
・89年9月21日〜12月14日 映画撮影
・89年12月15日〜31日 サザン年越しライブ リハーサル〜本番
・90年1月〜4月 サザンアルバム『Southern All Stars』リリース、ツアー「夢で逢いまShow」
・90年5月〜7月 映画編集・追加撮影、アルバム『稲村ジェーン』用レコーディング
・90年9月 映画公開、アルバム『稲村ジェーン』リリース


***


当初、映画制作のミッションを受けた桑田は、右も左もわからない状況で脚本を誰に依頼するか、映画「Big Wave」に音楽として関わっていたという理由で山下達郎に相談。山下の提案で、脚本は康珍化に依頼することとなる。
桑田「まぁ、(山下)達郎さんにも相談したんですよね。そしたら、タッツァン、『アンタもたいへんだねえ』って(笑い)、『いままで、日本のミュージシャン、映画に関わるとみんなツブれてるんだから、アンタも財産、気をつけて』なんていわれて。やめようかな、とか思って(笑い)。
 達郎さんの紹介で、今回、以前は作詞家だった康珍化さんと一緒にやるんですよ。」
(『Goro 1989年2月23日号』小学館、1989)

桑田「脚本は、康さん(康珍化)とじっくり詰めましたね。納得するまでは重箱の隅をつつくような作業を、去年の11月ごろから7ヶ月くらいかかってやりました。」
 この間書き直された脚本は全5稿、そしてなんと1稿が上った段階で曲の方が先に上っていて(3曲)、その音楽によってどんどんシーンが書き変えられていくという作業が行われたということだ。このあたりが脚本家、監督共に音楽畑の人間だったことがプラス効果になっている。中の1にはこんなタイトルがついている。「忘れられたビッグ・ウェーブ」。ア・カペラのバラードだ。これだけでかなりのシーンがイメージできる。そういうものだ。
(『月刊シャウト 1989年12月号』シンコー・ミュージック、1989)

第一稿と同時に出来上がっていた3曲というのが、「美しい砂のテーマ」「愛は花のように(Ole!)」「忘れられたBig Wave」と思われる。

M②「愛は花のように」
 ベーシックは、アナログ・マルチを使用してます。ちなみにこのアルバム(引用者注:『Southern All Stars』)では、ほとんどソニーのPCM-3348(デジタル・マルチ)を使用してます。
 日生のCMでもお馴染みのこの曲は、アルバム・レコーディングに先行して88年11月に録り、その後でダビングをしたのですが、基本パターンはゲストの方々(ギターは小倉博和氏、キーボードは小林武史氏、パーカッションなどに北村健太氏)と、桑田氏で作ったものです。この曲の参考として、ジプシー・キングスを皆で聴いたりしましたが、小林氏のキーボードで新しく生まれ変わった感じです。
(今井邦彦「レコーディング実話 Southern All Stars/サザンオールスターズ」『Sound & Recording Magazine 1990年3月号』リットーミュージック、1990)

「愛は花のように」は最終的にサザン名義でリリースされてはいるものの、実際に演奏の核になっているのは上記3名である。アルバム『稲村ジェーン』で同じメンバーがクレジットされているのがインスト「美しい砂のテーマ」だ。

小林武史は桑田ソロ・サザン「みんなのうた」でも既にお馴染み、北村健太は河内淳一・今野多久郎の在籍したS!trxや高中正義バンドのドラマーだ。そしてもう1人ここで初登場するのが、小林武史同様この後の桑田・サザンのサウンド作りに多大な影響を与えるギタリスト、小倉博和である。

小倉博和は香川県に生まれ、大学進学を機に上京。先輩のデュオ、Stepのサポートとして西込加久見と共に参加(ちなみに、このStepはデビュー前の角松敏生がプロを目指して最初に参加したグループだったという。)。その後高校時代のポプコン仲間のバンド、アイリーン・フォーリーンにサポートからメンバーとして参加。セカンドアルバム『ロマンティック』に小倉のクレジットは無いが、実際にはレコーディング現場に居合わせていたようでここでプロデュースとアレンジを担当した小林武史と出会っている(「カドカワムック 別冊カドカワ 総力特集 小林武史」角川グループパブリッシング、2008)。バンド正式加入と並行し西込らとキャロット・スタジオを渋谷に設立、CMやビデオ音楽の制作を開始。さらには藤井丈司の紹介でシブがき隊のバック、立花ハジメ『Beauty & Happy』でスタジオ・ミュージシャンのキャリアをスタートさせていた(「Profile」『小倉博和 ~ No Guitar, No Life. ~ 』
上記の小倉公認ファンサイトのアーカイブによれば、小倉のインストのデモテープを聴いた桑田のA&R高垣健が興味を持ち、小林武史のツテで桑田一行で映画音楽録音のためキャロット・スタジオに突撃訪問…という流れが実はあったようだ。

以下の会話から、訪問した桑田一行はキャロット・スタジオで小倉について様子見のレコーディングを行なったようで、最初の録音は「美しい砂のテーマ」であったことがわかる(実際リリースされた作品ではキャロット・スタジオはノークレジットなのだが)。

桑田「僕と小倉さんが初めてね、ばったり出くわしたのはね、「稲村ジェーン」だもんね。」
小倉博和「そうです、そうです。」
(略)
桑田「渋谷にまあ文字どおり汚いスタジオがあってね、なにか物の怪のようなものがあってね、そこで彼に会って。
そしたら俺手元が上手くいかなくてね、ギター弾いてて。なんかおぼつかなかったの。それで小倉くんがじーっと見てまして、「あのー、僕ちょっとやりましょうか?」って言うから、いやいや俺を誰だと思ってるんだって話になってね。僕あまりにもこの「美しい砂のテーマ」なんかがね、コードぐらいしか弾けなかったの自分で作っといて。そしたら本当にもてあましたんでしょうね。」
小倉「もてあましたわけじゃないですけど、あまりに素敵な時間に私も本当参加したいと。」
桑田「それで、やりましょうかって3回ぐらい言われたの。」
小倉「失礼だとは思いながらですね。」
桑田「よく言ってくれたよでも。で俺ね、3回ぐらいにさすがに、ちょっとお願いするってギターを渡したの。で、この人にギターを弾かせて、クリック聴きながら彼ギター1人で弾いたら、あらまっ、と思って。あらっ、君はなんでこんなとこにいるの?みたいな。誰あなたは?みたいな感じになっちゃって。」
小倉「いや、でもびっくりしたのが、その時に桑田さんがああ、いいって言ってくれて。」
桑田「いいんだもん。だって。」
小倉「そのテイクを残すって言って。そのテイクが本チャンなんですよ。」
桑田「そうだっけ?」
小倉「そうです。それでちょっとソロも弾いていいっておっしゃってくれたんです。」
桑田「最後まで全部おまかせしちゃうの。俺全部ね、もうフンころがしみたいな形になっちゃって。面白いよね、その「美しい砂のテーマ」が僕らの…」
小倉「そう、出会いなんですよね。それで桑田さん覚えてらっしゃるかどうかなんですが、ソロをね、僕が弾いた時に、その1テイク目だったんですけど、ずっとソロ弾いて最後に…♪〜…っていう感じで終わるんですけど、あっ間違えた、と思って、「あっ!」っていう声出しちゃったんですね。それが録音されちゃって。で、すいませんもう一回お願いできますかって言ったら、桑田さんが「いや今の最高だから」って言って。じゃあ、「あっ!」の声だけ取るように。あの頃ね、もちろんデジタルじゃなくって、アナログでしたから。しかもそのスタジオだったから、Otariかどっかのマルチだったと思うんですけど。それをもう、本当時間をかけて綺麗に。そのテイクなんですよ。嬉しかったです。」
(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM, 2012.7.21.)


***


「稲村ジェーン」の音楽については上掲2曲のとおり当初から(小倉をフィーチャーした)ガット・ギター主体のサウンド、スペイン語、ラテン・ミュージックの雰囲気…と意図的に着手開始されているのがわかる。この発想はどこからきているのかというと、映画の内容にあわせてのことのようだ。

桑田「去年の夏のツアーの終わりにね、俺が新幹線の中でJRのパンフレットを見てたら、おもしろい話がコラムに書いてあってね。それをやりたいってことで話がスタートしたの。」
— どんな話?
「昔の稲村ヶ崎(鎌倉の地名)のサーファーの話。まぁそれをやろうと。きわめて単純に。
 その人は48歳で、もちろん今も現役なんだけど、日本のサーフィンの草分け。
(略)
 その頃、ジェーン台風っていうのがあって、その時の波の話。」
(『ワッツイン 1989年3月号』CBS・ソニー出版、1989)

日本のサーフィンの草分けで当時48歳ということは、阿出川輝雄についてのコラムだったのだろうか。とにかくこの車内誌(「L&G」だろうか)のコラムをヒントに、稲村ヶ崎を舞台にジェーン台風を絡めて当時の若者の青春を描く、というコンセプトが立てられた。

今度作る映画はね、時代設定を東京オリンピックの頃の設定、つまり25年前の設定にしてるのね。そうすると、とうぜん追憶・レトロってことに形の上ではどうしてもなってしまうわけだけど、そこで自分が出したいのは、やっぱり「青春」なんだよね。
(略)
「ビッグ・ウェンズデイ」っていう映画はさ、要するに年寄りの作った幻想であって、そういった「青春のシンボル」的な話っていうのは、年寄りくさいと思うのね。やっぱり、若者っていつの時代もそんなもんには共感できない状態がえんえんとつづいているんだろうなって思うんですよ。
(略)
僕は最初、「ウラ湘南」の映画をつくるってことで発想したんです。「オモテ湘南」はもうすごくコンビニエンスになってるから。だから僕のやろうとしてることはコンクリート剥き出しのところにどれくらい葦簾ばりをはれるかってことでもあって、そのコントラストっていうのは加山雄三にはできないだろうって思ったんだけど。土地も人間もそうだけど、一色では語りきれないものってあるじゃないですか。やっぱり、昨日まで三味線弾いてた人間が、いきなりエルビス聞いてるわけにはいかないし、その間にラテンとか実際にはつまってて、そのあげくにレゲエにたどりついたりラップにたどりついたりするわけですよね。そこにたどりつくには理由があるわけよ。
(『Rock 'N' Roll Newsmaker 1989年5月号』ビクター音楽産業、1989)

桑田「やっぱり”湘南”ていうのは、サザンにとって、ある意味でキーワードなんですね。僕らの音楽は「勝手にシンドバッド」でデビューしてから、ある時期まで“湘南サウンド”って言われたりして、結果として、湘南風俗を語るうえで一端を担ったところがある。その、東京の人間が作った湘南イメージというものに対する、地元の人間としてのアンチテーゼといったねらいもあるんです。
 けっきょく、サザンの活動はおりにふれ“湘南”というキーワードが隣り合わせにあったんだけど、それは、人様の評価の湘南であって、僕らの湘南とは多少のギャップがありながらここまできた。それに対する答えという意味でも、僕は、映画の中で、僕なりにリアルな、30年前の湘南を演出できたらいいなと思っているんです。」
(『月刊エフ 1989年5月号』主婦の友社、1989)

ウラ湘南」ということで、いわゆる「湘南サウンド」の逆を張り、桑田本人の幼少の記憶から、埋もれていたラテン・ミュージック、スペイン語という発想が出てきたようだ。

映画の音楽の方は、ある種「スパニッシュ」なんだ。ほとんど僕はスペイン語で歌うつもりなんだけどね(笑)。スパニッシュと湘南とどう関係してるかというと、もちろん無国籍ってこともあるんだけど、僕の遠い記憶によると湘南ってスパニッシュだったのよね、メキシカンとか。ペレス・プラードとか、まぁ、メジャーなところではレイ・チャールズなんかでもそうだし、ハリー・ベラフォンテとかナットキング・コールとかね。コファンドタタムーチョとか、バイアコンディオスなんとかミアモーレっていうのがさ、おれは湘南だとおもってたわけ(笑)。ほんとよ。ワイルドワンズとか出てきたっていうのはもっと後だもん。もっとこう、肌の色が黒くって、マイアミ・サウンドマシーンのヴォーカルの女みたいな、あーいう色づかいっていうのがさ、僕の中では湘南サウンドだからさ。
(略)
『勝手にシンドバッド』もラテンでしょ。ラテンの血っていうのは日本人の中にあるからね。まぁ、全編つうじてスパニッシュでやるっていうのも、何かアンチテーゼがあるわけですよ。
(『Rock 'n' Roll Newsmaker 1989年5月号』、ビクター音楽産業、1989)

桑田「で、そのラテンっていうことだけど、あの頃の茅ヶ崎あたりって普通にラテンがかかってたんですよね。うちの店(桑田家は当時バーを経営していた)のジュークボックスでも、ペレス・プラードとかザビア・クガートとか、レイ・チャールズやハリー・ベラフォンテのラテンっぽいやつとか、そういうのが人気高かった。なにかこう、日本人が、日本人の庶民がスイングしやすい音楽だったんじゃないのかな。盆踊りの感覚に近いというか、頭使わなくて済む音楽。」
— 腰のへんにくるっていうのはありますね。
「そりゃ高校くらいの時には、ラテンなんかダサいって思ってたけどね。バンド組んでやるときは「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」とか「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」とかコピーするわけでさ。でも、頭使うんだよね、そういうのはやっぱり。風呂上りにすんなり酔っぱらえるのはラテンだった。'65年っていうと、日本人がまだギターのチョーキングのテクニックなんかも知らない時代でしょう。だったら当然ラテンとかハワイアンに走るよね。」
(略)
— でも、'65年っていうとゴーゴーかなっていう気もするんですけど
「ゴーゴーは東京のものなんですよ。茅ヶ崎の田舎じゃそれはまだニュースの段階で。」
— そんなに離れてないのに……。
「いや、感覚的な距離がね。だって、いま湘南道路とかって呼ばれてる134号線なんか遊歩道路って言ってたんだもん。さびれててさ。それとラテンのどこかドライなイメージってのがおれのなかでダブるわけ。真夏でも長袖着てる感覚っていうか、ちょっと見苦しい感じがね。」
(『ぴあ music complex 1990年8月29日号』ぴあ、1990)


***


映画の時代設定以外にも、桑田がラテンに接近(回帰)する時代背景は認識しておいたほうがよいだろう。遡って87年、シングル「悲しい気持ち」リリース時のインタビュー。

桑田「そそそ。その点、たとえばロス・ロボスとか。あいつらの「ラ・バンバ」がなんですごいかってことだよね。あれが全米ナンバーワンになるわけで。そういう時代になってきてるんじゃないかな。願望もこめてそう思うけどね。ドド・パーンじゃなくてさ。ほら、ちょっと前に、俺、ニューヨーク行ったでしょ。」
— あ、例のホール&オーツとのプロジェクトで?
「そう。で、タクシーに乗ったりすると、プエルトリカンの英語もろくに喋れないような運転手がパラパパーッツとサルサかなんかカー・ラジオで聞きながら走ってるわけじゃん。後、ジャマイカから出てきたような運転手がこ〜んな顔してレゲエのすげえやつ聞いて、歌いながらハンドル握ってたり。
(略)
8ビートの刺激とは全然違う刺激。あーゆーのにくらべて、その、ドッ・パーン・ドド・パーンってやつは非常に消極的な音楽だと思ったの。ひいては、私の仕事がどれだけ消極的か、スケールが小さいか……ね。」
— 民族の血に目覚めた(笑)
「や、そーゆーんじゃなくて。日本的なエスノ感覚っていうと、たとえばフジヤマとか琴の旋律とかってなっちゃうけど、そうじゃなくてね。もっと自然に俺たちはプエルトリカンとかメキシカンとかスパニッシュとかに近いな、と。ラテン系だからさ。僕らもラテン組合の一員なわけ。日本のメロディってラテンだもん。それをニューヨークで強く感じたのね。俺たちはわざわざエスノなんとかって能書きをたれなくても、もっと簡単に民族音楽の要素とかを取り入れることができるんだなって。」
(略)
— そういう貴重な体験が今度のソロ・アルバム作りに活きてくる?
「といいんだけど(笑)。だから俺が思ってるのは、ホール&オーツとやったのをいいキッカケにして、本場のやつらといろんな競演をしてみたいよね。それも2・4を強調するロックンロール野郎とじゃなく、むしろスパニッシュ、メキシカン。そいつらとラテンやサルサをやるとか。」
『Guitar Book GB 1987年11月号』CBSソニー出版、1987

88年ソロ・「みんなのうた」リリース後も、日本人と親和性が高い曲としてLos Lobosを挙げている。
桑田「それで、「ラ・バンバ」とか日本で流行るじゃないですか。「ラ・バンバ」って日本人もついていけるんですよね。スペイン歌謡とかは日本人の血でわかる。」
(「シンプジャーナル 1988年8月号」自由国民社、1988)

ちょうど80年代後半、いわゆる「ワールドミュージック」ブームというのがあった。80年代前半、日本では「エスノ」と呼ばれていた非西洋的なポップスが、この時期新たに「ワールドミュージック」と呼ばれるようになり、いくつかの世界的ヒット曲もあり盛り上がりをみせるようになる。Jポップ界でも、90年頃から上々颱風、ネーネーズ、りんけんバンドなどがレコードデビュー、The Boomがその志向を強めるなど、ひとつの流れが生まれることとなる。

桑田が当時よく言及していたLos Lobosはメキシコ系アメリカ人のバンドで、87年のアメリカ映画「La Bamba」の同名テーマ曲が各国でヒットを記録。「愛は花のように」の解説で今井が言及していたGipsy Kingsはスペインからの移民がフランスで結成したバンドで、87年のサード・アルバム『Gipsy Kings』がパリ発の世界的ヒットとなる。

Gipsy Kingsと同じくパリ発ワールド・ミュージック的ヒットというと、89年の世界的ヒット「Lambada」がある。フランスで結成されたグループKaomaによるこの曲、スタイルこそブラジルで流行していたものだが、仕掛人のひとりはフランスの音楽プロデューサー、Jean Karakosであった。

Karakosは76年にパリにてレーベルCelluloidを創立。その後米国での運営を視野にニューヨークに進出、Bill Laswellを実質的なパートナーとして迎え、非西洋と同時代的な米英のサウンドの融合を図った名作を数多くリリースしている。

CelluloidからBill Laswellプロデュースでレコードを残したグループにはTouré Kundaがいる(前述のKaomaもメンバーの数名はTouré Kundaと重複している、楽曲のための寄せ集めグループのようだ)。セネガル出身だがフランスに移住し、Celluloidから80年にレコードデビュー。84年『Casamance Au Clair De Lune』でアメリカでもLPがリリースされるようになり、Bill Laswellをプロデューサーに迎えた『Natalia』が85年。そして85年秋には来日し、サザンのライブにジョイントという形で共演。残念ながらこの顔ぶれでスタジオ録音を残すことは失敗に終わったが、この時期、既に桑田らも当時のTouré Kundaのこういった立ち位置=非米英のスタイルを軸に最新の米英のサウンドを融合させ、果ては米マーケットにも食い込む…に着目、学ぶものがあるという認識だったということだろう。

さてその85年、Touré Kundaとのジョイントライブ直前の桑田のインタビューを見てみると、やはり自身の幼少の頃のルーツを振り返り、ラテンというキーワードが出てきている。

桑田「そのルーツなんだけどね。いくつかあると思うんだ。要するにグループだから、結成した当時、何にシビレて集まったかというのがそもそもルーツだと思うんだよね。そうすると、やっぱりオールマン・ブラザーズまで行っちゃう。今度のレコーディングでも、そういう70年代のロイク(ブラック・ミュージック)が乗り移ってるのをやりたかったんだよね。だけど僕らがロイクを感じるのはB. B. キングだとか、そういうんじゃなくてオールマン・ブラザーズとかね、要するに白人が勘違いした黒人音楽みたいなものを、また僕らが勘違いしてるみたいなね、そういう解釈なんだよね。で、歌謡曲でいうとザ・ピーナッツとか欧陽菲菲とかのね、昭和40年代なんだよね。西暦で言えば70年代。そのへんに僕らのルーツがあると思うのね。で、あの欧陽菲菲だとか辺見マリとか、ちあきなおみとか、あのへんの歌謡曲ってさ、今の菊池桃子とかの歌謡曲と全然違うでしょ。もっとなんか、ジャズの匂いがあったり、フルバンドの匂いがあったり、スペイン歌謡そのものだったりするでしょ。もっと行っちゃうとペルーとかアルゼンチンとか、あのへんの中南米あたりのものじゃないかと僕は思うけど……。だから昭和40年代の歌謡曲って凄く好きだったんだよね。それでウチのオヤジがやっぱりラテンのフルバンドの人たちの音楽を聴いてたんだね。で、辺見マリの歌なんか、そのへんとニュアンスが似てるわけ。要するに、あれも民族音楽なんだよね、そこまで行っちゃうとさ。だから僕らが解釈してる民族音楽ってさ、ペルー風、アルゼンチン風、スペイン風、メキシカンとか言って行くとトリオ・ロス・パンチョスまで行って、そのすぐ先へ行くともう辺見マリがいるっていう、そういうふうになっちゃうからね。そこからまた枝分かれしてボサノバがあったり、カリプソがあるとか、もっと行くとレゲエがあったりするわけ。
(略)
たとえばウチのオヤジの世代になると、いろんなモノが一気にアメリカから入ってきた世代だからね。ダンスホールとかミルクホールとか、ジャズは聴けるし、ルンバだ、ジルバだとかね、そういうのがバーッと入ってきたわけでしょ。で、僕なんがが作ったレコードをオヤジなんかに聴かせるとね、レゲエやったりしてるでしょ、すると「これ、ドドンパだな」って言う。そういうのってウチのオヤジの世代なんかにあるんだよね。だから俺たちの世代には、映画音楽だ、ジャズだ、キューバンだとかいう凄い幅広いオヤジとかオフクロがいたみたいね。で、僕らもそういうレコードを聴いて育っている。だから抵抗ないんだよね。」
(『バックステージ・パス 1985年12月号』シンコーミュージック、1985


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輪島祐介は著書「踊る昭和歌謡」において、戦後日本の歌謡曲を外来のリズムの影響を軸に検証し、ジャズ、ラテン  マンボから一連のニューリズム、ドドンパ、ツイスト、ディスコ・アイドル、ユーロビート…の流れを追い、「鑑賞」ではなく「参加」視点での歌謡史を提示している。さらにはそれと並行し、日本の海外音楽受容史において「ロック」など英語圏の音楽のみが検証される史観に異議を唱え、特に中盤ではラテン音楽の受容史実を改めて検証している。
ラテン(系)音楽を一種のモデルとする外来音楽の大衆的な受容の系譜があったことを強調し、従来の日本大衆音楽史において暗黙のうちに前提となってきた、ジャズ、フォーク、ロックに代表される英語圏音楽の影響を特権視する見方を相対化したい。
(輪島祐介「踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽」NHK出版、2015)

この後者を音楽で世に提示しようとしたのが、「稲村ジェーン」撮影前の桑田の構想だったのではないだろうか。過去の日本ではロックンロールなど米英の音楽スタイルに限定せず、ラテンなど幅広いジャンルを人々は楽しんでいたのではなかったか、自身にもその経験は染み込んでいる…という、桑田のロックンロール以前のルーツ再確認の作業でもあったはずだ。「高校くらいの時には、ラテンなんかダサいって思ってたけどね。」と移り変わる時代を過ごした、生々しいリアルタイマーの感覚を素直に吐露しつつ、ワールドミュージックブームが始まっていたこのタイミング、期は熟したということだったのだろう。

スペイン語というのは直接的にはLos Lobos、Gipsy Kingsのヒットの影響と思われる。そういえば数年前にKuwata Bandの全編英語詞が反省材料のひとつとなっていた桑田が、またしても母語ではないスペイン語の曲を歌うというのに躊躇があったのかどうかは不明だ。ひょっとしたら、英語と比較すると日本語の発話に近いスペイン語なら歌いやすく違和感はない、というくらいの考えはあったのかもしれない。

しかし、ここがユニークなのだが、「日本語を英語っぽく歌う」カタコト歌謡の系譜にも属するヴォーカリスト・桑田の歌うスペイン語は、なんとも英語訛りで(コーラス参加しているLuis Sartorと比べるとわかりやすい)、それがストレンジな印象を与えている。まるでラテンをルーツに持ちながら、その後英語圏の「洋楽」で育った日本のポップスそのものを体現するようなスペイン語曲に仕上がった…というのはいくらなんでも言い過ぎか。

結局クランクアップ後のレコーディング作業で、映画音楽は幸か不幸か桑田の性でストイックな全編ラテン・スペイン語ではなく、日本語詞のロックンロール〜ポップスが混じったある程度幕の内弁当的な内容になる。とはいえそれにより桑田・サザン史、果てはJポップ史に残る普遍的な名曲が2曲も生まれることになるのだが、それはまた先の話である。


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残りの一曲は小倉のギターは登場しない、「忘れられたBig Wave」。この曲は当初、映画の主題歌として用意されていたようである。映画プロデューサーを担当した森重晃は次のように語っている。
森重晃「僕は桑田から「『忘れられたBIG WAVE』を主題歌として考えているんだ」という話をクランクイン前に聞いていまして、撮影しながら彼の中で色々と変わっていったんでしょうね。」
(サザン桑田監督映画『稲村ジェーン』が初のBlu-ray & DVD化、撮影裏話を映画プロデューサーが語る https://www.billboard-japan.com/special/detail/3225

この曲は聞けばわかるようにアカペラ、しかも桑田の一人多重唱で構築されている(既に日本語詞で、ラテンでもないのだが主題歌は扱いが別、ということか)。
M④「忘れられたBig Wave」
 いわゆるアカペラとされるこの曲は、桑田氏の声だけで作ったものですが、ベース・パートだけはサンプリングと生声(元は桑田氏の声)のミックスです。ヴォーカルはだいたいノイマンのU67ですが、この曲はU87でした
 すべてのパートがダブルで、ミックスではプレート・エコーのみ、EQは、TUBE TECHという真空管のもので仕上げました。
(今井邦彦「レコーディング実話 Southern All Stars/サザンオールスターズ」『Sound & Recording Magazine 1990年3月号』リットーミュージック、1990)

そもそも桑田が山下達郎に脚本家の相談を持ちかけたのが映画「Big Wave」の音楽をやっていた、という理由であり、曲タイトル、そしてワンマン多重アカペラというスタイルからして山下達郎へのオマージュであることは明らかだ。のちに桑田本人もそのように語っている。
桑田「要するに何が言いたいかっていうと、達郎さんへのオマージュです。達郎さんがよく一人でアカペラをやられてるんですけど、僕もそれをちょっとやってみたっていう。クリック聴きながらですから、達郎さんよりも簡単な条件でやってますし、ベースはできなかったんで、ボンボンって口ベースはサンプリングです。達郎さんはそんな事しません。それでこれ達郎さんのオマージュみたいな気持ちで作ってね、一人で録音してってですね。矢代くんって方がいろいろ音録ってくれたんですけどキーボードの。
達郎さんのマンション行きまして、まりやちゃんももちろんいらっしゃいまして、聴いてもらったんです。ちょっと怖くてね、達郎さんだから。それで「いいじゃんよく出来てるよ」なんて言われたのを憶えているんですけど。でもまりやちゃんかな、達郎さんかな、やっぱすごいなと思ったの。「あっ、このベースはあれね、打ち込みね」って。言ってないのにね、わかっちゃってね。バレなきゃ言うつもりなかったんですけど。すぐ見破られましたけどね。「ファルセットきれいだねー」とか言って、「あ、でもベースは打ち込みだね」って。悪いことできないなあって思ってましたけどね。」
(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM, 2015.8.15.)

完成した曲を持ち込んだ本人を前にベースパートがサンプリングであることを指摘するのは夫のような気がするが、それはさておき…桑田のワンマン多重コーラスというとソロアルバム『Keisuke Kuwata』で既に披露されており、桑田にとってヴォーカリストとしての新たな武器であった。アカペラとなるとその延長であり究極ともいえる形で、とにかく試してみたい、という桑田の衝動がうかがえる。

アルバム『稲村ジェーン』において、この曲の共同アレンジは前述2曲の小林武史ではなく、門倉聡がクレジットされている。門倉は桑田のソロ・アルバムの1曲(「愛撫と殺意の交差点」)で共同アレンジャーとして初登場、同時期88年4月の原由子シングル「春待ちロマン」で矢口博康と連名でアレンジを担当。さらには次のサザンのアルバム、サウンド作りの中心人物は実は小林ではなく門倉のようなのだが、そのあたりは次回以降で詳しく触れることにしよう。また、先の桑田のコメントから、矢代恒彦もクレジットこそ無いがこの時期のレコーディングに引き続き参加していることがわかる。


***


89年に入ると、映画の作業はクランクインに向けて割合を下げ、まずは先にリリースを予定していたサザンのアルバムレコーディングがメインになっていく。次回はそのあたりを見ていきたい。