2021年12月11日土曜日

1986 (3) :Nippon No Rock Bandへの批判と反論

7月14日のアルバムリリース後、Kuwata Bandは全国ツアー「TDK AD Special Kuwata Band Rock Concert」を開始。7月21日の福井フェニックスプラザ(7月18日練馬文化センターという記録もある)から10月11日のNHKホールまで全50本(練馬文化センターを含むと51本)に渡るツアーであった。
その最中、「ミュージック・マガジン」誌のレビューがきっかけで、アルバム『Nippon No Rock Band』について、ひと悶着起きることとなる。


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その詳細を見る前に、ここまで「ミュージック・マガジン」(旧「ニューミュージック・マガジン」)誌で桑田/サザンがどのように評されてきたか。本来であればそれぞれ評者の文章を読むべきとは思うのだが、字数の都合で今回はレビューでの獲得点数から雰囲気を見ていきたい。79年までは100点満点、80年以降は10点満点。

『熱い胸さわぎ』
90点(78年9月号 今月のレコード:北中正和)

『10ナンバーズ・からっと』
90点(79年5月号 今月のレコード:小倉エージ)

『タイニイ・バブルス』
9点(80年5月号 アルバム・レヴュー:天辰保文)
9点(同:北中正和)

『ステレオ太陽族』
9点(81年8月号 アルバム・レヴュー:天辰保文)
9点(同:北中正和)
9点(81年9月号 クロス・レヴュー:北中正和)
6点(同:酒井加奈子)
7点(同:湯川れい子)
8点(同:中村とうよう)

『嘉門雄三&Victor Wheels Live!』
7点(82年5月号 アルバム・レヴュー:天辰保文)

『Nude Man』
8点(82年9月号 クロス・レヴュー:今井智子)
6点(同:小嶋さちほ)
7点(同:佐藤響子)
10点(同:中村とうよう)
9点(同 アルバム・レヴュー:天辰保文)

『綺麗』
8点(83年8月号 クロス・レヴュー:小嶋さちほ)
9点(同:森脇美貴夫)
8点(同:鷲巣功)
10点(同:中村とうよう)
8点( アルバム・レヴュー:天辰保文)
9点(同:北中正和)

『人気者で行こう』
9点(84年8月号 アルバム・レヴュー:天辰保文)
8点(同:北中正和)
8点(84年9月号 クロス・レヴュー:小嶋さちほ)
8点(同:真保みゆき)
8点(同:森脇美貴夫)
9点(同:中村とうよう)

『kamakura』
9点(85年11月号 クロス・レヴュー:井上厚)
8点(同:高橋健太郎)
9点(同:鳥井賀句)
9点(同:中村とうよう)
8点(同 アルバム・レヴュー:真保みゆき)

といった感じで、総じて好意的な評価だ。特に『Nude Man』『綺麗』などは中村とうよう編集長をして10点満点の評価である。もともと編集長自ら、サザンのデビュー間もない頃に近田春夫に文章を依頼しており(78年10月号「サザン・オールスターズを中心に最近の音楽業界を見てみれば…」近田春夫)、デビュー当初からサザンに好意的な雑誌であったといえる。これ以外の点数のないアルバム評でもさほど悪いことは書かれておらず、また桑田本人のインタビューも79年、82年、85年に行われている。ここまでの桑田、サザンにとってはある意味親和的な雑誌であったといえよう。


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さてそれを踏まえてKuwata Band『Nippon No Rock Band』についてはというと、まず86年9月号、巻末の「CDマガジン」(86年4月号より、CDのみの独立したコーナーが開始されていた)における「CDピックアップ」の藤田正によるアルバム評だ。

こりゃ、つまらないCD聞いちまったもんだ。チンケで平凡な歌詞に、普段英語を使ってないのがよくわかるベチョッと切れの悪い桑田のヴォーカル。これに妙に手馴れたバックが付くもんだから、正直僕はタマんなかった。やらない方がよかったですね、桑田さん。退廃寸前ですよ。
日本のロック世代は、大なり小なり欧米の若者文化に対してあこがれと劣等感を併せ持っているものだけど、桑田=サザンのエラいところは、そのコンプレックスと今晩のミソシルを、東京・神奈川の生活レベルでわけへだてなくミックスして、等身大で語ったところにあったと思う。桑田が本CDのように“英語のロック”をやりたい人だってのは誰でも知っているのだ。そのファンの眼を意識しながら、外見は新そうだけど、要は外国ロックの追随盤を作ったというのでは桑田ロックが泣くではないか。タイトルを逆説的に読んでしまうのはぼくだけだろうか。(藤田正)
(「ミュージック・マガジン 1986年9月号」ミュージック・マガジン、1986)

このレビューがきっかけで、サザンのA&R、ディレクターでおなじみビクターの高垣健(Kuwata BandのアルバムでもCo-Producerとクレジットされている)がコンタクトを取り、藤田を9月21日の京都会館のライブに招待、ライブ後にメンバーとの会談を設定。桑田の疲労からその場での桑田と藤田の対談には至らなかったが、その後高垣の語り下ろし「Kuwata Bandができるまで」、桑田の語り下ろし(9月30日に受領したという録音テープ)「ぼくはなぜ英語で歌ったか」を藤田の再度の意見とともに掲載したのが86年11月号の「Nippon No Rock Bandへの批判と反論」である。


高垣は『kamakura』以降の桑田周辺の活動からアルバム制作の背景までをA&Rの立場から説明している。このアルバム自体、サザンの文脈での様々な実験・トライの一環であることが語られている。
結果的に、先にシングルを聞いていた人にはとても面食らうアルバムになったんだけれども、次のサザン・オールスターズの活動再開にあたっての素材として、Kuwata Bandでの実験はすごく大きなものになるだろうと僕らは見ているんですよ。そりゃ日本語で歌う方がわかりやすいだろうし、セールスの面を考えても一番素直なんだけれども、逆に今はそういうことを考える時期じゃないなという判断もあるんですよ。
つまり、Kuwata Bandのいいところは冒険心がものすごくある、今の日本の状況に対する危機感をすごくもっている、このふたつがあるってことはすごいと思う。自分のやっていることに満足してないし、決して安定したいとか思っていなくて、そのへんのスリルと前向きな姿勢を持っているところは僕らにとっても刺激になりますね。
(「ミュージック・マガジン 1986年11月号」ミュージック・マガジン、1986)

桑田の語り下ろしでは、英語で歌ったことの意図についてが語られている。
とにかく、英語でやるってことが一番簡単に日本のロックであることを証明するためのチケットなのではないか、という気がしました。
(略)
日本語がいい、英語がいいってことを同じ日本人の間でごちゃごちゃやってるのはアレだけど、海外進出とか、そういうことはこれから不自然じゃなくなってくるっていう時代を想定して夢見ていくと、今日本語がいいか英語がいいかっていってたものが無意味になってしまう時代が来ると思うんです。
(略)
ですが、いずれは避けて通れないっていうのがあって、きっと、僕は、日本人でも韓国人でもベトナム人でも、ロックは英語で歌った方が多くの人間にとって聞きやすいはずだということ、多くの、“せいぜい30億の人間”に、これは乱暴な言い方だけど、とても聞きやすくシンプルな形にするという意味で英語でやってるんだという、そういう時代がくると思います。
(「ミュージック・マガジン 1986年11月号」ミュージック・マガジン、1986)

上記の意見とともに、藤田の再度の批評で記事は締まっているが、藤田のスタンスは変わらない。というより、論点がかみ合っていないというのが正しいか。桑田や高垣は制作の意図について語っているが、藤田はあくまで出てきた作品、演奏、歌について批評しているというところだ。
僕は日本人が英語の歌をうたっちゃいけないと言ってるのではない。うたいたいなら何をうたおうとかまわない。しかし、日本語と横文字言葉のゴチャまぜで、あれほど現代の都市のアウラを作り出せる人が、それを捨ててまで英語のノリに固執したのはなぜだろう。と、僕は最初にCDを聞いた時に考えたのである。
(略)
『kamakura』を名作たらしめたのは、サウンド作りが巧みになったなど様々な原因があるのだろうが、なんといっても圧倒的に桑田さんのヴォーカルなのだった。
ぼくは一部のキューバ人からはただのコピーだといわれているサルサが大好きな人間だから、形が似ているからといってそれだけで相手にしない人間ではない。サルサはサルサでしか味わえない貴重な味わいがあるのは間違いないし、サルサをキューバンではなくサルサたらしめてるのは、まず第一にプエルトリコ人シンガーがそのスタイルにたくした熱烈な思いのはずだ。
Kuwata Bandの「風に吹かれて」を聞いて、乗ったいい演奏だと納得しながら、でもコピーみたいだと思ってしまった理由は、桑田さんのヴォーカルにある。桑田さんは、そのCDのタイトルどおり、日本のロックをやろうとして新しくバンドを作ったわけだが、そこまでして、という理由、熱いものがぼくには感じられない。もちろん、何度も言うようだけど演奏レベルは高いし、ヴォーカルもビンビンと聞こえてくる。しかしそのヴォーカルをじっと聞いていると、ずんずん平坦になっていってしまうようにぼくには思えるのだ。
(「ミュージック・マガジン 1986年11月号」ミュージック・マガジン、1986)

一方、同誌では、86年9月号のアルバム・レヴュー、10月号にもクロス・レヴューでアルバムが取り上げられている。

7点「英語で全曲やってるせいもあるだろうけど、桑田のヴォーカルのリアルさは後退。『KAMAKURA』と比べてもしょうがないけど、よく指摘されるサザンのアマチュアっぽさは、このアルバムには不思議とない。サザン・ファンは3枚のシングルをどうぞ。」(菅岳彦)
(「ミュージック・マガジン 1986年9月号」ミュージック・マガジン、1986)
6点 「うーむ、これは苦しい。シングル3枚に入魂してしまったわけじゃないだろうが、桑田佳祐らしいポップさが少ない。あえてポップな感覚を排除したのかもしれないが、それにしても国籍不明語では独特のノリを見せるヴォーカルが、ここではまるでフツーでつまんない。」(小出斉)
6点 ニホンゴエーゴという、まさに“狭間の産物”としか言いようがないお化けを背負って四苦八苦する桑田君を勝手ながらたのもしく思っているわけだから、「上手くなった嘉門雄三バンド」を聞かされても、困る。」(真保みゆき)
3点 「桑田のヴォーカルも、日本語のそれと比べ、インパクトに欠けてしまっている。割り切って聴かないと非常にツラいレコードだと思う。」(宮部知彦)
8点 「全ての曲が、と言えないにしても、出来のよい曲は、70年代初めのブリティッシュ・ロックのハツラツとした気分を思い出させるほど、いいノリをしている。桑田くんが出したかったのはこの感じなんじゃないかな、というのが手応えとしてわかる。もちろんその狙いが完全に達成されているかどうかとなるとちょっと疑問がないわけでもないが、少なくともやりたいことがハッキリ見えているというだけでも、大成功と言えるんじゃないかな。」(中村とうよう)
(「ミュージック・マガジン 1986年10月号」ミュージック・マガジン、1986)

中村のコメントは問題点は認識してはいそうだがそれでもコメントはポジティブな方向で、どちらかというと他評者のコメントや前月号を踏まえフォローしているような印象だ。中村以外の評者のコメントは抜粋だが、ほぼ全員が藤田と同じ部分に引っかかっているのがわかる。英語詞を歌うことによる桑田のヴォーカルの問題だ。桑田/サザンのこれまでの作品は評価しながら、今回のアルバムはそれに匹敵するものが見られなかった、という立場なのである。

86年12月号では「Kuwata Bandをめぐる様々な反響」という記事で、高垣による11月号の記事に対する抗議文と、読者2名(好意的なもの・批判的なもの)の投稿がそれぞれ掲載された。高垣による抗議文は批評そのものに対してというよりは、ミュージック・マガジン誌の編集姿勢に対する抗議に近い。京都会館のライブ後の9月30日にビクタースタジオで藤田・桑田・高垣・アミューズ松野玲の4名で改めて会談・議論していたにもかかわらず11月号の記事にその事実の記載もなかったこと(桑田の語り下ろし録音は個人的に聞いてほしい、程度のつもりで藤田に渡したとのこと)や、その場で藤田が持論を展開・桑田の意見に対しては反論ばかりで聞く姿勢がみられなかったこと、第三者の意見も掲載するよう提案したが特に何もなかったこと、等に対する抗議であった(「ミュージック・マガジン 1986年12月号」ミュージック・マガジン、1986)。記事の終わりには編集部の「誌面の都合上、他の方々の意見はいずれ改めて取り上げるということでご了承いただきたい」の記載で締まってはいるが、これ以降、この件についての記事が誌面に載ることはなかったようだ。


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この間、11月にはシングル「One Day」がリリース。年初のシングル・セッションで録ったベーシックに、小島の差し替え・ダビング等を行いリリースされているようだ。(「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」アミューズ、1987)
1986年12月には全国ツアーから10月8日・9日の渋谷公会堂、9月26日の名古屋市民会館での模様を収めたライブ盤『Rock Concert』がCD、カセットのみの企画としてリリースされる(抜粋のプロモ盤のみ、LPで作られている)。ハウリング等まで消さずに収めた生々しい編集で、おそらくライブ盤としては珍しい、スタジオで一切手を加えていないアルバムと思われる。
年初スタジオでカバーしていたDeep Purple「Smoke On The Water」で始まり、オリジナル曲以外にもDeep Purple風アレンジのBob Dylan「Knockin' On Heaven's Door」「Like A Rolling Stone」「Blowin' In The Wind」、シングルB面にスタジオ版が入っているテンプターズ「神様お願い」、そしてオリジナルのシングル曲に混じってポツンと(偶然だろうがのちの桑田の方向性を予感させる)Ronettes「Be My Baby」、締めはBeatles「Hey Jude」、などのカバーがセットリストに含まれている。

さてこの『Rock Concert』、またまたミュージック・マガジンではレビューコーナーで取り上げられたが、やはり英語曲については手厳しい。

7点「日本人が歌えば“カタカナ英語”という桑田佳祐説は全く正しいと思うけど、スケベ、スケベー(「スキップ・ビート」)みたいカタカナ日本語(?)の方が、もっと“ニッポンのロック・バンド”だよね、やっぱり。」(菅岳彦)
(「ミュージック・マガジン 1987年1月号」ミュージック・マガジン、1986)
 「ここでの桑田佳祐の柔軟な歌いぶりからすると、スタジオの方はこぢんまりして見えるし、なによりバンドのアンサンブルがよい。そして魅力的なのは、〔1〕①を始め、意表を衝くアレンジによるディラン3曲などのカヴァーであり、その解釈も個性的でよい。そして、日本語の歌もである。が、英語の歌はやっぱり魅力半減だ。」(小倉エージ)
(「ミュージック・マガジン 1987年2月号」ミュージック・マガジン、1987)


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一連の批評に対し、桑田の表立ったリアクションはリアルタイムでは「Rockin’ On」「Rockin’ On Japan」誌のインタビューで意図を語る程度であったが、数年後の談を読むとかなり効いている様子だ。以下、94年のインタビュー。

サザンで作った『綺麗』を外国に持ってって聴かせた時の反応とか、'84年にビデオを撮りにロスへ行ったときのことを覚えてて、「なんか違うぞ、これは。オレが今までやってきたのはなんか思い違いしてるな」っていうのが出てきたのね。いわゆる外国人が喜ぶ音楽っていうのは、オレが茅ヶ崎と東京の間で思ってるロックとは違うなって。オレがロック、ロックって言ってるのは歌謡ロックじゃないかって思ってね。
(略)
ニューヨーク行ってさ、ここで日本語の歌歌ったら気持ちいいだろうなって思わないよ、絶対。すごい活気のなか、パンクバンドとかも観て、オレの想像した通りの観客の熱狂度だったわけ。それで、あのステージに立ったら…って思うじゃない。でも、「お願いDJ」演っても盛り上がらねーだろうなって思うし、「いとしのエリー」でみんな泣くとは思わないもんね。オレがポップス界で目指してきたものは、ビートルズやカーペンターズだからさ。ロックを表現するには英語で歌うしかないだろうって、行きついた時期なのね。

だから、オレは日本語で歌うのが日本人のロックだとは思ってなかった。英語でやって初めてロックで、日本語で歌ったら歌謡曲だって思ってたからね。そういうのを抜かしたら、歌謡曲とロックを分ける基準って精神論でしかなかったでしょ。だったら、日本のロックのサンプルを作ろうよってことで始まってた。

当時としてはしてやったりって気持ちはあったね。できた瞬間はね。だけど、ひと月経ち、1年経ち……、自分の不甲斐なさってのを感じ出しちゃって落ち込んじゃったよ。結局、ロック精神論を言ってたのはオレのほうかなって。トライアルだったんですよ、自分の曲に英語の歌詞をつけてもらって、コンサートツアーを回って……。アルバム1枚をちゃんと現実に還元させたというか。ずいぶん批判されたよね。まあ、誉められることより批判されることの方が覚えてるけどさ。いろいろと知恵がついたよ。考え方をちょっと改めなければいけないなって。今までロックにこだわったことはないんだけど、あえてロックにこだわってみたところに、そう簡単にはいかないんだってのを学習したってところだよね。
(「月刊カドカワ 1995年1月号」角川書店、1994)

海外のオーディエンスのリアクションという意味では、79年にサザンがゲスト出演しているフェス「Japan Jam in 江ノ島」の経験もトラウマになっていると思われる。Beach Boys、Heart、Fire Fall、TKOらが出演したこのフェスで、日本人ミュージシャンのゲストとしてオリジナルの(当然)日本語曲、三連のサザン・ロック歌謡とでも言うべき「恋はお熱く」でスローに登場したサザンは、オーディエンスの米兵等のブーイングを浴びてしまったのだった桑田佳祐ポップス歌手の耐えられない軽さ」文藝春秋、2021)

再び94年、こちらは渋谷陽一のインタビューより。 
「だから、その時に僕は勘違いしてたかもしんないけど、『ロックに日本語を乗っけてて面白いじゃん』みたいなのって、ちょっとピンクレディーの時代の評価だなあっていう。もう時代は変わってるし、海外ではもうバンド・エイドとかやってる時代なのにね。だから、これからはもうちょっと国際性をじゃないんだけど。」
− はははは。
「ちょっと年寄りくさくないかなあって思ったんですよね、そのロックは好き、日本語でやるっていう状況がねえ。」
(略)
− やっぱりサザンオールスターズがなんとなく歌謡曲ジャンルで見られてることへの反発があったんですか。
「あの当時はあったかもしんないね。歌謡曲ジャンルっていうか、だから、ほんとその当時からロックと歌謡曲っていうんじゃなくて、もういろんなものが飛び交ってたでしょう。YMOとかファンクとか。で、今の時代の方がさらに拡大したような気もするけど、価値観がもういっぱいあったと思うしね。日本人が英語で唄っちゃいけないっていう法律はないだろうと思ったからね。だけど作ってみたら、やたらと法律とかタブーみたいなことをかなり言われたんですよね。節操なさ過ぎないかとか。だからそれでビックリしたっていうか。安っぽい言葉かもしんないけど、もしかしたら国際化みたいな言葉がもう当時ぐらいからあったかもしんないですよね。英語の歌の一つも唄えなきゃダメだとか、英語の一つも喋れなきゃダメだとか。今のようにアジアとかの方向に目が向く以前っていうのは、やっぱりロックってものは当然お家元の英語圏ってのを意識しなきゃダメかみたいな発想が俺にもあったし、なんか周りにもあったと思うんですよ。そういう活動をする場合も、もう歌謡曲だとかってことに敵対心を燃やしてる時代じゃないなあと思ったし。だからそういう時代の気分を勝手に自分で持ってたんですけどね」
− 実際に唄ってみて、英語で唄うという行為そのものはどうでした?
「難しかった!やっぱり全然違うんだなと思いましたよ。だから俺は英語で歌えたら制約がないのになって思ってたんだけど、逆の制約がいっぱいあって、ノリがでないとかノリが悪いとか、あと発音できないとか−恥ずかしい話ですけど
− はははは。
「恥ずかしい話だけど、別に恥ずかしくないんだよね。で、あとやっぱり日本人特有の英語ってのがあるかなあと思って、例えばインドネシアにはインドネシア人の英語があるようにね。だけど日本人というのは僕らを含めて必ずアメリカ人っぽくするでしょう、中国人の英語見たいのを嫌うでしょ?だから僕なんかもそうだったんだけど。できたらこのままノリみたいなものを殺さずに、日本人独特の英語の世界なんかできたらいいなあと思ったけど。根がやっぱり限りなくイギリスとアメリカのロックをカッコいいと思ってるから、どうしても『快僧ラスプーチン』みたいなことはできないんですよね
(「季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994」ロッキング・オン、1994)

ということで前回のとおり、当初はあくまで日本国内向けのレコードにおいて、レコーディング中のトライで感覚的に英語詞を選択したはずが、図らずもロック、ポップスにおける日本語/英語問題や、将来的な海外での活動についてまで考えさせられるに至ってしまったKuwata Bandのアルバム。想像以上に課題を残したことが、この後の桑田の活動にどう影響したかというのは、また1987年以降、見ていきたい。

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