2022年12月15日木曜日

Warren Mills「Flame In The Fire」「It's Peculiar」[Ken Gold Songbook]


Warren Millsは84年に英JiveからMiraclesのエレクトロ・カバー「Mickey's Monkey」でデビューした、当時プレティーンのヴォーカリストです。

85年にはファーストにして唯一のアルバム『Warren Mills』がリリースされました。いくつかのプロデューサー・作者チームによる作品を並べた、80年台半ばのキッズ・エレクトロ・ソウル・アルバムになっています。リード・シングル「Sunshine」はFull Forceの提供曲で、ラップも含めたモダンなキッズソウルで最高です。このアルバムにおいて、当時同レーベルに所属していたBilly Oceanとチームを組んだ、Ken Gold作品が2曲収録されています。

1曲目はBilly Ocean - Ken Gold - Pete Q. Harrisが作者としてクレジットされた「Flame In The Fire」。プロデュースもこの3人がクレジットされています。Pete Q. HarrisとGoldは前年のKaite Kissoon以来のコラボレーションとなります。いかにも『Suddenly』『Love Zone』当時のBilly Oceanらしい(若干自身のものより派手?)エレクトロ・ソウルで、コーラスでもしっかりOceanの声が聴こえます。
「Flame In The Fire」は同年、アメリカの映画「Breakin'(邦題:ブレイク・ダンス)」「Breakin' 2: Electric Boogaloo」の系譜にある「Rappin'」のサントラに使用されたため、そちらのサントラにも収録されています。

2曲目はBilly Ocean-Ken Goldコンビの作品「It's Peculiar」。こちらはプロデュースがBilly Ocean-Pete Q. Harrisということで、Goldは楽曲提供のみのようです。ノスタルジックでメロウな60s前半のモータウンを思わせるシャッフルもので、この辺りはGoldやOceanのルーツというか十八番のようなスタイル、それをPete Q. Harrisによる最新のシンセ・サウンドで仕上げた1曲になっています。こちらも派手にOceanのコーラスが聴こえてきます。地味ながらも、好きな1曲です。




2022年12月8日木曜日

1987 (4) :悲しい気持ち(Just A Man In Love)pt.2

ソロ名義のレコーディングを始めるにあたり、桑田はまず藤井丈司にアルバム計画を伝え、同時にサウンド・プロデュース、スタッフ・ディレクションを依頼する。
(『Keisuke Kuwata』フライヤー ビクター音楽産業/アミューズ、1988)

藤井丈司はYMOのアシスタントとしてキャリアをスタート、『Technodelic』の後のソロ作や提供曲・バンド名義では『浮気なぼくら Naughty Boys』からプログラミングを手掛けるようになる。桑田とはサザン「ミス・ブランニュー・デイ c/w なんば君の事務所」『人気者で行こう』でのMC-4プログラミング並びにアレンジを皮切りに、『kamakura』での共同プロデュース・プログラミング・アレンジ、86年初頭のKuwata Bandシングルセッションでのプログラミングと、84年以降の桑田のレコーディングにほぼ参加している(「She’s A Big Teaser」NYミックスのプロモ盤7インチにもSpecial Thanksに藤井の名がある)。既に桑田にとっては馴染みの存在だったことだろう。

87年8月21日に原由子のシングル「あじさいのうた c/w Tonight's The Night」がリリースされている。ポップなA面と渋いブラコン的な雰囲気もあるB面の組み合わせで、アレンジは桑田と藤井の共同名義となっている。このシングル、おそらくスケジュール的に、桑田のソロ・レコーディングの前哨戦だったはずだ。実は参加ミュージシャンも桑田のセッション初頭とほぼ同じである。

Produced by 桑田佳祐
Arranged by 桑田佳祐、藤井丈司
Vocals, Keyboards : 原由子
Computer Programming : 藤井丈司
Guitars : 原田末秋
Bass : 琢磨仁
Drums, Chorus : 松田弘
Chorus : 桑田佳祐

初期桑田ソロセッションのポイントは、結果的にここからサザンのメンバーである2名を抜いていることだ。まずは原由子以外のキーボードが必要ということで、藤井は直前の藤井尚之『Naturally』レコーディングで共演していたキーボード・プレイヤーをセッションに起用。7月からレコーディングが開始される。


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小林武史は山形県で生まれ育ち、高校卒業後に上京、78年に渋谷の音楽学校に入学。米軍キャンプ回り、自身の自作曲でのバンド活動等を経て、山根麻衣のバックや廣田龍人のRicky & Revolverのメンバーとして、プロの世界でのキャリアをスタートさせている。

82年に杏里のシングル用楽曲コンペの話があり、書き下ろしで見事採用されたのが「思いきりアメリカン」であった。その流れでアルバムにも楽曲提供することになり、翌年アルバム『Bi・Ki・Ni』のB面に3曲を提供。小林のデモを聴いたアレンジャー佐藤準の勧めで、うち一曲「Surf City」は小林自身によるアレンジで収録されることに。アルバムで唯一ドラムはマシンによるもので、淡々とした地味な出来だが、本人によるとAlan Persons Project「Eye In The Sky」のようで、のちの自分のひとつの定番(の路線)になる、と語っている(「月刊カドカワ 1996年1月号」角川書店、1996)

そののち、小林はプロデューサー/アレンジャーとして85年以降、とあるレーベルで年一のペースで作品を残している。

・Jive『Klaxon』(1985.11.)
・アイリーン・フォーリーン『ロマンティック』(1986.6.)
・The Rock Band『四月の海賊たち』(1987.8.)

Jiveは四人組男声ヴォーカル・グループで、ファーストアルバム『First Letter』は伊藤銀次プロデュース、伊藤や杉真理・竹内まりやらが楽曲提供したある意味「シティ」寄りのポップスといった内容。メンバーのオリジナル曲で固められた『Klaxon』がセカンドアルバムにあたる。プロデュースはJive・小林武史のクレジット、アレンジは全曲小林・ヴォーカルパートのみグループの宮下文一が担当。本作がおそらく、小林が最初にプロデューサーとしてクレジットされたアルバムと思われる。80s半ば、ニューウェーブ時代のニューミュージックにコーラスが絡むところがユニークな作品で、当記事的にも思わずニヤリのリズムパターンであるバブルガム・ドゥーワップ歌謡「熱い瞳のマジック」も含む、ポップでバラエティに富んだ内容だ。随所に見せるファンキーな要素も含めて小林の器用さを示した一枚といえる。ベースはマニュアル・プレイ(小林のプロデュース・アレンジでスラップが入るのも珍しい)の曲も入っているが、ドラムは全曲マシン、生の管弦は入っていない。また「Frothy Story」は詞曲とも小林が共作、「スローモーション ランナー」は小林が単独で作詞を手がけている。

アイリーン・フォーリーンは高知出身のニューウェーブ、エレクトロ・ポップ・バンドで、『ロマンティック』はこれまたセカンドアルバムにあたる。メンバーの安岡孝章のペンによる収録曲は、一曲を除き小林が全曲のアレンジを担当、プロデュースのクレジットは小林武史&アイリーン・フォーリーン。全曲武部聡志との共同アレンジであったファースト『プラスティック・ジェネレイション』に比べると落ち着いた内容のセカンドだが、これまたいかにも小林といった地味ながらも手堅いシンセ主体の音作りだ。安岡の耽美的なヴォーカル・丁寧なメロディとうまくマッチしたアレンジで、シンセのブラスやストリングスなど含め、既にこの後80年代後半にかけての小林サウンドが確立されつつある感がある。余談だが、ここで小林は小倉博和と初対面しているというのが面白い(「カドカワムック 別冊カドカワ 総力特集 小林武史」角川グループパブリッシング、2008)。『ロマンティック』に小倉のクレジットは無いが、既にこれ以前のライブで3人目のギターとしてサポート参加していたようだ。このアルバムのリリース後、メンバーチェンジで小倉はバンドの正メンバーとなる。

そしてThe Rock Bandは元アナーキーで、『四月の海賊たち』は(改名後の)セカンドアルバム。ファースト『アナーキー』はバンドと笹路正徳との共同プロデュース・アレンジで、続くこちらはプロデュース・アレンジともにThe Rock Bandと小林の共同名義だ。改名したアナーキーはパンクから距離を置き、重心低めのハードロック、ブルースロック的な色が濃くなっており、そのあたり小林ともウマの合ったコラボレーションになっているといえよう。五木寛之の同名小説にインスパイアされた歌詞もユニークで、アナーキー名義の頃とは印象が異なる作品に仕上がっている。
なお、小林本人は80年代は前2作についても言及していたが、90年代半ば以降は『四月の海賊たち』を自身の「初プロデュース作」として語るようになる。おそらく、サウンドの出来もさることながら、歌詞も含めてプロデューサーとして全体をハンドリングできたという自負があったのかもしれない。
小林武史「プロデュースでは、去年、元アナーキーのROCK BANDのLPやって。いいLPだから、聴いてください(笑)。あとアイリーン・フォーリーンとか。JIVEはサウンド・プロデュース的な関わりだったけど…僕は言葉の部分もやっちゃうから。」
(「キーボードランド 1988年7月号」リットーミュージック、1988)

とこのように既に80年代半ば、小林はバラエティに富んだ作品のプロデュース、アレンジを既に担当している。この3作をリリースしているレーベルというのが当時サザンのTaishitaが属していたおなじみビクターinvitationであり、すべて、invitationの発足時から在籍し、アナーキーのデビュー時からのA&R/ディレクターである村木敬史の担当作品である。おそらくこの時期、小林は既に村木には目をかけられていたということなのだろう。

また、ソロ・ヴォーカルものとしてはビクターではなくワーナーで86年、香港で活動していた杜麗莎、テレサ・カピロの日本録音作『Teresa Carpio』(全曲英語詞バージョンの日本盤は『Tokyoドリーミング』)で小林は全曲のアレンジを担当、服部克久・長束利博とともにプロデューサーとしてもクレジットされている。テレサはもともと70年の来日中、フィリピン出身のGSバンド、デ・スーナーズとの共演ライブを見た勝新太郎にスカウトされ勝プロに所属、71年に日本Denonから「混血児マリー」でレコードデビューしていた。86年のアルバムは日本再デビュー盤となる。服部や小林作の曲だけでなく、安全地帯「悲しみにさよなら」なども取り上げている。

他方、プレイヤーとしては85年ごろに大村憲司と出会ったことをきっかけに、86年に大村に呼ばれ井上陽水のツアーメンバーに加入、ビッグ・ネームのツアーを大物プレイヤー達とこなす日々を送ることに。
さらには大村の紹介で高橋幸宏らと出会い、87年には高橋と鈴木慶一=Beatniksのセカンド『Extentialist A Go Go』にキーボードとしてレコーディング・ツアー両方で参加、また大貫妙子『A Slice Of Life』のレコーディングからツアーにも参加と、いわゆるサブカル、「シティ」周りのミュージシャン関連の仕事が多くなる。その流れでこののち88年には、大貫の計らいでミディレコードとソロ・ミュージシャンとして本人のヴォーカルによるアルバムリリースの契約を結ぶことになり、新進気鋭のミュージシャンとして「Techii」「Pop Ind’s」などの雑誌に取り上げられる扱いになっていく。

同じく大村憲司の参加する藤井尚之の87年作『Naturally』セッションで、小林は藤井丈司とも共演することになる。そういった流れがあり、藤井は桑田ソロセッションのキーボード・プレイヤーに小林を迎えたようだ。
— 初めはキーボード・プレイヤーとしてのみの参加だったようですね?
小林「そうですね、最初は。ただ、きっとプロデュースという形になっていくと思うからって、藤井クンは言ってました
。シングルの「悲しい気持ち」までは、別にそういう形を取っていなかったんですよ。ほかにもミュージシャンが随分いて。でも、途中からだんだん切り換わっていったんですよね。」
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」リットーミュージック、1988)

小林のコメントのとおり、おそらく、藤井の中では最終的に共同アレンジャー・プロデューサーとして小林を迎えようとしながらも、その手腕を桑田に確かめさせるためのお試し期間としてまずはプレイヤーとして参加させたということなのだろう。


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「悲しい気持ち」のシングル盤に記載された参加ミュージシャンは以下のとおり。

Vocals: 桑田佳祐
Keyboards, Synthesizer: 小林武史
Guitars : 原田末秋
Bass : 琢磨仁
Computer Programming : 藤井丈司
Backing Vocals : 杉真理
Engineered & Mixed by 今井邦彦
Assist. Engineered by 平沼浩司

のちのアルバム曲と異なり、このシングルについてはまだ小林と藤井と桑田の3者体制での密室レコーディングではなく、ある程度開かれたレコーディングだったようだ。
小林「それで今回のスタジオ・ワークでは、初期の段階ではDsやBの人も加わってはいたんだけど、中盤以降はずっと3人だけでやっていました。」
(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」立東社、1988)

原由子セッションとほぼ同じメンバーであることを見ると、小林の証言からもおそらく当初は松田弘あたりが参加していたものと思われる。しかしこの楽曲の時点で、最終的に桑田はマニュアル・プレイでなく、藤井によるマシンのドラムを選択する。といってもサザンでも『綺麗』からはマシンのドラムを使用するようになり、『kamakura』に至ってはドラムセットをフルで使ったマニュアル・プレイの曲は聴く限り半分も無く、楽曲単位で見るともはや特に珍しい話ではない。

ただ、(この曲の時点でアルバム全編マシンで進める判断をしたかどうか不明だが、)結果的にソロアルバムではマニュアル・プレイのドラムは一曲も入っていない。それどころかリハーサル、プリ・プロダクションの段階から、ドラムは藤井が打ち込んでいくことになる。このあたりはサザンやKuwata Bandを経て、それらとのさらなる差別化であったり、また並走する時代のサウンドを眺めながら新しいスタイルを求めた桑田自身の結論だったのだろう。
小林「最初はミュージシャンを集めてライブっぽいリハーサルをやってみたんですけど、それだと今まで桑田さんがやってきたものと、あまり変わらないと。空気とかがね。で、どうしても人間がやると、良くも悪くもサウンド的に曖昧になって、それには彼が飽きてたっていうか。」
(「キーボードランド 1988年8月号」リットーミュージック、1988)


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「悲しい気持ち」ではなんといっても印象的な二部構成のイントロからスタートする。シンセのヴィブラフォンで、松田聖子「赤いスイートピー」のイントロをマイナーキーに泳がせたようなしっとりした雰囲気で始まった…かと思えば瞬時に歌い出しのヴァースと同じメジャーキーのコード進行に変わり、しかし歌メロとは全く別の印象的なフレーズが、グロッケンと、おそらくRoland D-50のFantasiaあたりのキラキラした音色とのユニゾンで奏でられる。イントロのフレーズは小林も当時「ここが決めて」と語っているほどである(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)

楽曲を通していささか暗めの印象もあるシンセのヴィブラフォンが鳴り、要所要所でグロッケンとFantasiaのユニゾンが登場、と緩急のついた音選びが効果的だ。曲全体をさりげなく支える、生っぽくないシンセのストリングスもいい仕事をしている。

Roland D-50 Linear Synthesizerは87年3月に発売されたばかりの、当時最新のシンセサイザーだ。そのユニークなプリセット音たちは同年リリースでは順にThe Cars『Door To Door』(87.8.)、Michael Jackson『Bad』(87.8.)、George Michael『Faith』(87.10.)、Rick Astley『Whenever You Need Somebody』(87.11.)、翌年のPrince『Lovesexy』(88.5.)、Enya『Watermark』(88.9.)…とその後も数多くの名盤で耳にすることができる。
ちょうど「Techii 1987年10月号」における藤井の連載コーナー「シンクロ野郎」では、ゲストに小林を迎え、出て数ヶ月のD-50についてプレイヤーとオペレーターの立場からの対談が掲載されている。タイミング的におそらく「悲しい気持ち」録音当時と思われる。
藤井丈司「小林さんD50使い出してずいぶんになるよね。どう?」
小林「プリセット音がいいね。サンプリングした音とシンセの音を混ぜたり、エフェクト込みで音作りを考えたりっていう作業を、1台でやっちゃおうっていう発想がおもしろいよね。」
(略)
— 具体的にプリセット音で良し悪しはありますか?
小林「ピアノ系とか、シミュレーションは弱いって気もするけど、エディット次第で使える音になるかもしれない。」
藤井「まだ、ユーザーも研究段階だからね。DXが出たばかりのときと同じだよ、その辺は。」
小林「ただ、"Fantasia"とか、既製のシンセにはなかったような抽象的な音なんかの場合は、ほとんどが即使えるというぐらいの完成度を持ってるね。」
藤井「そう。聴いたことのない音というのが、たくさん入ってるね。」
小林「僕らがシンセ組み合わせてやっても、とても作れないんじゃないかってぐらい、凝ってるんだよね。さっきの、"Fantasia"にしても、完全5度ぐらいの倍音を発生させて、非常にバランスのいい音を作ってるし。」
藤井「だけど、ほとんどの音がリバーブで個性作ってるんだ。キタネーよな(笑)。」
(「Techii 1987年10月号」音楽之友社、1987)

さらに、この曲をぐっと馴染みやすくしているのがドラムパターンのいわゆる「(厳密には第二の)モータウン・ビート」であるところのSupremes「You Can’t Hurry Love」ビートだ。正直なところこのパターンを出してきたのが桑田なのか藤井なのか小林なのか、はたまた当初セッションに参加していた松田?なのか、今のところ不明なままである。ただし、「You Can’t Hurry Love」ビート自体は80年前後に英米でリバイバルが発生後、82年には日本にも飛び火しスクーターズ、翌年の松田聖子、そして桑田も原由子「恋は、ご多忙申し上げます」で既にトライしている。その後定番のひとつとなったビートであり、実際誰が言い出してもおかしくないものだ。また、同時にこの曲を支える琢磨仁のベースはまた別のパターンを提示することで、「そのまんま」にはなっていないのも最終的には正解なのだろう。

サビの最後で一瞬転調し、歌が終わったあとにオカリナのようなシンセのフレーズが鳴るが、このフレーズも小林考案のものとのこと(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)。このなんとも可愛らしい音色、フレーズを突っ込む絶妙なセンスも小林の魅力のひとつであろう。

そして(「シティ」)ポップス界の先達・杉真理をわざわざ起用し、タイトルを追いかけで連呼する、厚みのないさりげないコーラスなどの仕掛けは明らかに「60sガール・グループへの愛」の表れだ。間奏での桑田のファルセットの「Ooh-oh-ooh-ooh-…」などはDiana RossへのDedication、Supremes「Baby Love」歌い出しの変形と思われる。

前回で「Whoa-oh」の多用はRonettesを意識したのではないか、と書いたが、さらにSupremesも加わるとガール・ポップの大ネタと大ネタの組み合わせで、下手に元ネタたちを意識するとクドくなってしまいそうなものだ。しかし、あくまで凝りすぎないオーソドックスなアレンジを、打ち込み主体のクールで洗練されたサウンドで包んだトラックが功を奏し、非常に納まりのいい仕上がりとなっている。小林はこの曲のアレンジ全体についてこんなコメントを残している。
小林「曲が甘い青春ものになっているときには、アレンジで凝ろうとすると、曲のほうがはずかしくなっちゃう。甘いメロディーというのは隠そうと思っても隠れないものだから、むしろそれを広げるように考えたほうがいい。」
(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)

オールディーなクラシックを同時代的シンセ・サウンドで固めながらも、歌をメインに据えアレンジ自体はヒネらずに、というと前年の野沢毛ガニ&桜井鉄太郎によるJ.E.F.も似たスタイルではある。あちらは何よりまず本家B.E.F.の発想と桜井の選曲センスの融合が揺るぎない魅力なのだが、そんな方向性をぐっとメインストリーム側に寄せたのがこちらの桑田組と言えなくもない。桜井鉄太郎、小林武史と、6〜70年代のロック・ポップスに耽溺し、かつ時代に対応した音作りを熟知した、その後90年代の日本のポップス=J-POPを支えるプロデューサー達と共に試行錯誤しているのがこの頃のサザンメンバーのソロ活動の一面でもあった。

そして、ここまでアレンジについて見てきたが、桑田の歌唱も新基軸・変化のひとつとして大きく認識すべきポイントだろう。サザン『Nude Man』あたりからどんどんワイルドになっていった桑田のヴォーカルは、例えばKuwata Band「One Day」のようなバラードでさえ野太い発声で歌っているのだが、この「悲しい気持ち」では打って変わって繊細で、ぐっと抑制された発声となり、日本語も聞き取り易い発音に変わっている。いわゆる「普通」に近づいたと言えばそうなのだが、ヴォーカル・スタイルのバリエーションが増えたということでもある。ポップ・ミュージックに意識的になったこのタイミングでいま一度歌手、ヴォーカリストとして唱法を意図的に見直したことが、「さよならベイビー」「真夏の果実」等、90年代に向かう桑田ポップスの名唱に繋がっていくといっても過言ではないだろう。



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アレンジへの見事な貢献で、シングル「悲しい気持ち」の編曲は最終的に「桑田佳祐、藤井丈司、小林武史」と、小林が3番目のアレンジャーとしてクレジットされる。シングル盤にプロデューサーの記載は無いが、やはりこの時点での小林の権限は全てに口を出せるほど大きなものではなかったようで、シングル盤がリリースされた後に「打ち込みのドラムがハネていない」と指摘してくる小林に桑田は困惑したという(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM,  2014.10.25)

そして藤井の目論見どおり、小林は高垣健から正式に桑田ソロアルバムについてプロデュースの依頼を受ける。
小林「ソロ・シングルの「悲しい気持ち」から一緒に仕事をさせてもらうようになってね。そんな時、サザン (オールスターズ)のディレクターの高垣(健)さんから「ちゃんとこれをプロデューサーっていうやり方で受けてくれないか」と言われたんですよ。それまではレコード会社のディレクターの人が中心になって、作詞や作曲、編曲を人に頼んで、分業で、というのが一般的だったけど、やがてアーティストが自分で曲を書くようになったでしょう?分業がなくなって、その時、楽器の音でも録音のシステムのことでも理解できている人間、欧米で言う”プロデューサー”を育てる必要をレコード会社の人も感じたんだと思う。それを僕にやってほしいということだったんですね。」
(「カドカワムック 別冊カドカワ 総力特集 小林武史」角川グループパブリッシング、2008)

小林は高垣の依頼を快諾。前述のとおり、桑田の意向で他のプレイヤーを排し、桑田・藤井・小林のみの三者体制で、長期間にわたるアルバム・レコーディングが進められることとなる。