86年12月24日、桑田が中心となった音楽番組「Merry X'mas Show」が日本テレビ系で、青山某所(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012 の桑田インタビューによると、おなじみビクタースタジオ)からの生中継(一部は事前収録)でオンエアされた。
番組冒頭の桑田の発言によると86年3月頃、吉川晃司との酒の席で何かやろうということになった…とのことで、出演者は吉川からボールを受け取った桑田の人選、交渉で集められた。出演者は明石家さんまの司会で、Kuwata Band、アン・ルイス、松任谷由実、原由子、中村雅俊、泉谷しげる、鮎川誠、ARB、吉川晃司、Tommy Snyder、Boøwy、The Alfee、依田“Dekapan”稔、Sue Cream Sue、チェッカーズ、中村雅俊、小倉久寛、三宅祐司、Super Eccentric Theater、忌野清志郎、山下洋輔、鈴木雅之と、バラエティに富んだ顔ぶれ。この面子で洋邦のロック〜ポップス・クラシックを料理していくという、観る側も演る側も楽しい音楽番組であった。最終的に番組出演はなかったが、吉田拓郎や小田和正にも桑田が直接出演交渉を行っており、佐野元春は出演予定だったものの、体調不良で急遽当日に欠席となってしまったことが近年明かされている(桑田佳祐「ポップス歌手の耐えられない軽さ」文藝春秋、2021)。
番組用に作られた「Kissin’ Christmas(クリスマスだからじゃない)」は桑田作曲・松任谷由実作詞というこの時限りの珍しい組み合わせによるもの。政治・経済的な混乱を避けるため、リアルタイムでのレコードのリリースは行われず、桑田佳祐 & His Friends名義のプロモ盤7インチのみが存在する。2012年の桑田のベスト盤『I Love You -Now & Forever-』でようやく商品化された(ここではオリジナルの今井邦彦ミックスではなく、新たに中山佳敬によってアナログマルチからリミックスされたバージョンが収録されている)。
番組でのサウンド作りはというと、基本的には出演者またはKuwata Band、もしくはKuwata Bandのメンバーがアレンジャーとしてクレジットされているが、2曲は番組自体には出演していないアレンジャーによるものであった。両曲とも桑田の視点からという意味で人選が興味深い。
1曲は泉谷しげる・吉川晃司・高見沢俊彦・中村雅俊・桑田のヴォーカルグループ、Beach Fiveによる「長崎は今日も雨だった Dedicate to Beach Boys」。内山田洋とクールファイブ・ミーツ・Beach Boysなこの曲、画面では本人登場どころか名前すら出てこないが、実は桑田に相談された山下達郎の「長崎は今日も雨だった」と「Surfer Girl」をマッシュアップするというアイディアを実現したもの。スコアもノン・クレジットだが山下の手によるもので、リハーサルも山下立ち会いのもと行われている(「TATSURO MANIA No.100」スマイル・カンパニー、2016 / 桑田佳祐「ポップス歌手の耐えられない軽さ」文藝春秋、2021)。というか、冒頭から登場する、若干オフ気味だが存在感抜群のファルセットはどう聴いても…。
桑田は山下とは1980年、FM東京「パイオニア サウンド・アプローチ」で竹内まりや・世良公則・ダディ竹千代とともに即興バンド、竹野屋セントラル・ヒーティングで共に演奏して以来の共演と思われる。80年代前半の桑田の発言では、海外進出に関連するところで山下の名前が登場する。
「ただむこうで通用するのって今ないからね。山下達郎ぐらいなものね、正直な話。正統派でいけば達郎だけだからね。実力的な意味では達郎なんだけれども、達郎がそういうことに興味あるかどうかわからないけれども、海外進出することに。でも、やっぱりやるべきだね。」
(「潮 1983年11月号」潮出版社、1983)
両者はこの80年代半ば辺りから、私的にも急接近しているようだ。
もう1曲はアンルイス・原由子・松任谷由実のヴォーカルグループによる「年下の男の子 Dedicate to Chordettes」。Chordettes「Mr. Sandman」とキャンディーズ「年下の男の子」をマッシュアップしたこの曲はコーラス・アレンジ八木正生、編曲は戸田誠司(Shi-Shonen)。「Mr. Sandman」のスウィング・ジャズ路線をさらにグルーヴィーにしたトラックがこれまたとてもキュートで良い。
Shi-Shonenは戸田が福原まり・渡辺等・友田真吾らを率いて、83年に日本コロムビアからメジャーデビューしたテクノ・ポップ・バンド。ここで戸田を起用した明確な意図は桑田から語られてはいないが、もともと桑田はコラム「ケースケランド」のPrince『Purple Rain』の回(「Playboy日本版」1985年7月号掲載)で、Princeに一切触れることなくShi-Shonenを絶賛していたほどで、山下達郎と同じく、良い機会と思っていたのかもしれない。
そんな事よりダンナ!我がニッポンのシーンにも最近ケッタイな奴らが出てきましたぜ!その名も“シショウネン”という4人組。今まで俺たちが手に汗して頭に血イ流してシガみついてきたようなことを、コイツらまるで食事や歩行や性行為のような次元で、かーるく演ってしまっている。アルバムを聞くと、たぶんインターナショナルなビート感もさることながら、従来の音楽家とは、決定的に生きていることのスピード感さえ違うのでは……と、とにかく早くも今年のジャパニーズ・グランプリが出た!
(桑田佳祐「ケースケランド(文庫版)」集英社、1986)
Shi-Shonenは所属事務所がアミューズ 、さらに後述のとおり戸田はビクターインビテーションでのレーベルメイトのリアル・フィッシュのメンバー、というところでも桑田と縁があった。
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そして桑田はおそらく86年末あたり、「Merry X'mas Show」の作業とほぼ同じタイミングで、リアル・フィッシュのレコーディングにゲストとして招かれ、ラップを担当することになる。
リアル・フィッシュは矢口博康をリーダーとする無国籍インスト・ポップ・バンドで、矢口以外に美尾洋乃、そしてShi-shonenの戸田・福原・渡辺・友田の5人が在籍していた。矢口は鈴木慶一と出会いムーンライダーズ82年のアルバム『青空百景』レコーディング、ライブに参加。その後鈴木慶一関連作品に関わる傍ら、サザン83年のアルバム『綺麗』への参加依頼が来たことがきっかけでサザンのレコーディングも常連に。
— リアル・フィッシュとしては83年に水族館レーベルのコンピレーション『陽気な若き水族館員たち』に参加した後、ようやく1年後の84年に1stアルバムの『天国一の大きなバンド』が発売になるわけですが、ビクターから発売することになったのはサザンつながりですか?
矢口博康「うん。その時にサザンをやってたから、そのつながりでプロデューサーが「レコード作んないか」って言ってきて、それでレコーディングすることになったと思うんだけど。サザンにはなんで呼ばれたのかなあ?誰かが面白いって言ったんだろうね。それで『人気者で行こう』*のレコーディングに呼ばれたんだけど、4曲ぐらいやったのかな。全部びっくりを用意していったんだよね。事前に資料をもらって、吹くことを考えていったら、それが全部うまくハマってすごいウケてね。そこからレコーディングも含めて、日本を二周半くらいツアーで回った。」
(リアル・フィッシュ『遊星箱』Bridge、2007)
*『人気者で行こう』は矢口の記憶違いで、実際の初参加作品は83年『綺麗』。「マチルダBaby」「Yellow New Yorker」「Mico」「南たいへいよ音頭」の4曲に矢口のクレジットがある。
矢口はサザン『綺麗』を皮切りに『人気者で行こう』『kamakura』と連続でレコーディングに参加。それぞれのアルバムの全国ツアーにも参加し、王道からフリーキーなプレイまで全国の観客の目の前で披露した。リアル・フィッシュは84年にビクターのインビテーションからメジャーデビュー。矢口のコメントにある「プロデューサー」とは、リアル・フィッシュ全作品にディレクターとしてクレジットのある、サザンでもおなじみ敏腕A&R高垣健のことだろう。
85年のサザンのシングル「Bye Bye My Love (U are the one)」は、矢口単独ではなく、リアル・フィッシュがサザンと共に編曲としてクレジットされている。実際のレコーディングでは、サザンと藤井丈司でのベーシックの録音後に、リアル・フィッシュから矢口・福原・美尾・渡辺の4名に加え、当時ヤプーズの小滝満がダビングで参加している、ということのようだ。
さてそんなリアル・フィッシュのレコーディングに桑田が参加することになるのだが、この「ジャンクビート東京」、バンドの作品というより、戸田誠司がゲストと共に制作した企画もの・番外編、という意味合いが強そうだ。
矢口博康「俺にとっては「ジャンクビート東京」と『4』はつながってなくて、「ジャンクビート東京」は企画もんだと思うんだよね。俺、まったく記憶がないから。桑田さんにラップをお願いしたとか、そこらへんぐらいしかやってないかもね。」
(リアル・フィッシュ『遊星箱』Bridge、2007)
戸田誠司「『ジャンクビート東京』はリアル・フィッシュのおまけ。おまけは本体とは関係のないもの。グリコのおまけもキャラメルじゃない。確かに「ジャンクビート東京」は面白いし、突出した楽曲だと思うけど、リアル・フィッシュにとってはなくてもよかった曲かもしれないね。僕がリアル・フィッシュという環境の中で羽目を外しちゃった。駄々こねて、あの一瞬にやりたいことをやったって感じなんだろうな。」
— どうしてヒップホップをやろうと思ったんですか?
「やっぱり初めて耳にするとか、聴いたことのない音楽って楽しいよね。ヒップホップもそうだったし、その頃ライヴを手伝ってた近田(春夫)さんもやっていたモダンな日本語のラップの試行錯誤も興味があった。そうだ、「ジャンクビート東京」はタイニー・パンクスの「東京ブロンクス」って曲のパート2を作りたかったんだよ。とにかく作りたかった。世に出なくてもいい、ただただ作りたいって欲求だけがあった曲。」
— それで、いとうせいこうさんや、その周辺の方々が参加しているわけですね。
「(藤原)ヒロシくんや(高木)完ちゃんまで来てくれたのは嬉しかった。作りかけのオケを聴いてもらったら、僕がお願いする前に二人とも、もうやることやり始めてた。最高の仕事してくれた。」
— いとうせいこうさんも参加はスンナリと?
「実際のところ、いとう君も桑田さんも無理かなーと思ってたから、OKの返事をもらった時は正直びっくりしたぐらい。」
(リアル・フィッシュ『遊星箱』Bridge、2007)
「ジャンクビート東京」12インチのジャケット裏には、曲名に[「東京ブロンクス」extended version]のサブタイトルがある。「東京ブロンクス」は、いとうせいこう&Tinnie Punxの86年のアルバム『建設的』で発表された黎明期の日本語ヒップホップ〜ラップ・クラシックで、作曲・編曲はヤン富田、終末SF的リリックの作詞はいとうと押切伸一。終始淡々とした富田のトラックに、無人の東京に徐々に耐えきれなくなる主人公を見事に表現するいとうのラップの組み合わせが素晴らしい。
そんな「東京ブロンクス」に衝撃を受けた戸田が同じテーマのヒップホップを、と製作したのが「ジャンクビート東京」ということで、作詞・作曲はいとうせいこう&戸田誠司名義。サウンドは「東京ブロンクス」に比べるとエレクトロ寄りで、「東京ブロンクス」同様無人となった東京でどんどん焦燥していくリリックを、桑田といとうでラップするという構成。そしてこれまた「東京ブロンクス」同様ラップをバックアップするのはTinnie Punx=藤原ヒロシ&高木完。藤原は当時近田春夫のレーベルBPMのDJ/プロデューサーであった加納基成とともにターンテーブルも担当。そしてヤン冨田が「This World Never Happen Without You」とクレジットされている。冒頭や終盤に現れる、核ミサイルのローンチキーを回すカウントのループが恐怖感を増大させたり、某バンドのデビュー曲のピッチを落としたサンプルが荒廃した東京をうまく表す(終盤でもラララコーラスが歌われ、桑田が「懐かしいな」と呟いている)など、戸田による細かな仕掛けもそれぞれニヤリとさせられる。間奏で登場するハモンドの定番サンプルネタも楽しい。さらにはこのシングルB面に収められたリアル・フィッシュのスウィングもの「Playin' In The Ray」も素材として度々登場する。
桑田のラップというとこれ以前はサザン83年の「Allstars' Jungo」ぐらいで、ニューウェーブ化の一環としてラップを取り上げた、程度のものであった。この当時でも、ヒップホップの作品はほとんど聴いていなかったとのことだ。
— 桑田さんにとってのラップの起源とは?
「それこそ小林克也さんがやっていたザ・ナンバーワンバンドの「うわさのカム・トゥ・ハワイ」じゃないかな?“来んしゃい来んしゃいハワイに来んしゃい”というリリックの(笑)。あれを克也さんに聴かされて、それにちなんで誰かのアルバムを一、二枚聴いた程度だったと思いますよ。」
(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)
「一、二枚」というのが誰の作品かは不明だが、コラム「ケースケランド」では85年に藤井丈司に勧められたとAfrika Bambaataa & Sonic Forceを取り上げている。
いとうせいこうのラップ、というよりパフォーマンスはJames Brownがルーツにあったようで(「bounce:サイプレス上野のLEGENDオブ日本語ラップ伝説 第23回-最終回!!日本語ラップのパイオニアに学ぶ~いとうせいこう & TINNIE PUNX『建設的』」 https://tower.jp/article/series/2009/12/02/100047390)、「東京ブロンクス」でも後半はJBそのものなパフォーマンス、シャウトが聴ける。「ジャンクビート東京」ではいとうは登場からこのシャウトを含んだテンション高めのラップを聴かせている。そんないとうのラップに対抗しようと考えたかどうか不明だが、桑田のラップはまるで矢口のサックスのようなフリーキーなスタイルだ。トラックもリリックも桑田本人が関わっているわけではないので純粋にパフォーマンスのみという状況で繰り出されたのは、歌なのかラップなのか語りなのか混沌としつつ、とにかくリリックの内容を踏まえた瞬間瞬間で表情豊かな、歌手・ヴォーカリストならではの表現というところだろうか。共演したいとうは後に「ずいぶん後になって向井秀徳が似た志向性のことをやったと僕は思ってる」「極めてポエトリーリーディングに近い形。桑田佳祐以前にはいないと思うよ、あの解釈をした人は。で、その解釈が当時のヒップホップに衝撃を与えることも残念ながらなかった。みんな理解できなかったから。」と評している(「音楽ナタリー:桑田佳祐 I Love You - now & forever - 特集 いとうせいこう が語る桑田佳祐」 https://natalie.mu/music/pp/kuwata02/page/2)。桑田によるとあまり時間がない中でスタジオ入りし一気に録ってそのままその場を去る、という流れだった(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)ようで、事前に熟考していったというよりは、身体的・感覚的なものを優先させたものなのだろう。もちろんそれには「日本語」ラップというのは一役も二役も買っていると思われる。
桑田の声の艶・色気も脂の乗っている時期で、こののち桑田は唱法を変えてしまうため、このタイミングでこのラップを音盤に刻んだことを含めて戸田のアイディアは素晴らしかったと言える。終盤の桑田のラップからいとう&Tinnie Punxに桑田が加わるヴァースは圧巻だ。シングルは12インチで、87年1月21日にインビテーションからリリースされた。
さて、「ジャンクビート東京」のあまりの出来の良さに、桑田は戸田に録音の譲渡を依頼してきたという。
戸田「桑田さんが頭まで下げてきたんで、それより僕は10倍頭を下げて、勘弁してくれって言ったんだよ。でも、あげとけばよかったな(笑)。何もリアル・フィッシュ名義で出さなくてもよかったなって、今となっては思うんだけど。よっぽど桑田さん名義で出したほうが、世の中に対して親切だったかなって思うし。」(田中雄二「電子音楽 in Japan」アスペクト、2001)
その後、オリジナル・リリースから25年を隔てた2012年、「ジャンクビート東京」はベスト盤『I Love You -Now & Forever-』の初回限定盤ボーナス・ディスクに収められることになる。
リアル・フィッシュ『遊星箱』のライナーによると、エピソードはこれだけに留まらず、桑田のレコーディングのプロデューサーに戸田を迎えるアイディアまであったという(おそらく流れからすると時期的にはこの後、87年後半の桑田ソロのタイミングだろうか)。ひょっとすると桑田は、次の展開にはこの「ジャンクビート東京」よろしく、自分に無いものを持った、自分をうまく料理してくれるプロデューサー、アレンジャーを求めていたのかもしれない。最終的にこの案は実現に至らず、桑田は新たな道を模索することになる。
リアル・フィッシュは並行してレコーディングしていたアルバム『4(When The World Was Young)』リリース後に活動を休止。Shi-Shonenは、当時いとうせいこうら所属のラジカル・ガジベリビンバ・システムに出演していたYouが新メンバーとして加入。戸田はShi-Shonen自体をFairchildに新生させ、改めて活動を開始させたのだった。
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