2023年9月23日土曜日

The Nolans「I'm Never Gonna Let You Break My Heart Again」[Ken Gold Songbook]

Nolansはアイルランド出身のガール・ヴォーカル・グループです。1974年に母体となるThe Singing NolansからThe Nolan Sistersに改名、79年にはユーロビジョン・ソング・コンテストに参加。Epic移籍後にNolansに改名しての第一弾「I'm In The Mood For Dancing」がアイルランドIRMA2位、UK OCC3位、南アフリカSpringbokや日本のオリコンでは1位を獲得するなど、世界的ヒットを記録します。

Nolansは「I'm In The Mood For Dancing」の後も、「Don't Make Waves」「Gotta Pull Myself Together」、そして「Who's Gonna Rock You」とヒットを続けます。この「Who's Gonna Rock You」は80年初頭にリリースされていたBilly Ocean『City Limit』収録のアッパーなナンバーのカバーで、作者はKen Gold-Billy Oceanコンビでした(Nolansのバージョン『City Limit』バージョンに比較的忠実な出来です)。この縁があったからかどうか不明ですが、82年のNolans『Portrait』にKen Gold-Micky Denneコンビの楽曲が一曲収録されています。


Gold-Denneコンビ作のスロー「I'm Never Gonna Let You Break My Heart Again」はアルバムA面の4曲目に収録され、日本ではアルバム発売前にシングル「Crashing Down」B面に先行収録もされました。プロデュースはそれまでのNolans作品ではおなじみNicky Grahamが担当。Nolansというとこの時期のヒット曲からやはり元気でポップ、またはアッパーな曲のイメージが強いですが、この曲は打って変わって大人びた雰囲気を見せています。Delegation『Deuces High』期のGold-Denneコンビらしい、アーベインでメロウな楽曲といえるでしょう。

Ken Gold史としては81年のPointer Sistersに続くGold-Denneコンビによる黒っぽさのあるガールグループものですが、この後は突如Phil Spector〜ナイアガラ風の、Jodellesが登場することになります。

2023年8月31日木曜日

1988 (3) : ラテン・ミュージックとBig Wave

1987年10月28日の朝日新聞夕刊では、見開きでアミューズの全面広告が掲載されている。桑田のポップ・ミュージック宣言、「悲しい気持ち」広告と同じ月の月末にあたる。


「生命が永遠だったら、今日、何をするだろう。」とコピーのあるアミューズ10周年の企業広告には、スタッフ募集・アミューズアメリカの活動・アメリカでのミュージカル運動・音楽スタジオの創設・喜多郎ライブへ妊婦1000人を招待…などが記載されているが、メインの告知は10本の映画製作と、その出演者オーディションへの参加者募集の告知であった。

アミューズが、原田真二のマネジメントのために大里洋吉により立ち上げられたのが77年。もともと映画好きだった大里は、映画会社に的を絞り就職活動していたがうまくいかず、最終的に業務内容に「映画制作」と記載のあった渡辺プロダクションに就職したというエピソードの持ち主だ(Musicman’s RELAY 大里洋吉  https://www.musicman.co.jp/interview/19474。音楽中心のプロダクション・アミューズ立ち上げ5年後の81年、大里は映像部門アミューズ・シネマ・シティを創立、満を持して映画界に進出する。第一回作品「モーニング・ムーンは粗雑に」の制作・公開と同時に、サザンのスポットCM(「Big Star Blues」)やMV(翌年の「匂艶The Night Club」)など自社音楽部門の映像作品制作も開始。83年以降は「アイコ十六歳」「さびしんぼう」「Bu・Su」と富田靖子主演作品を連続して制作…とこの流れで87年、事務所の10周年を記念し、10本の映画制作を打ち立て更なる事業の拡大と新たな才能の発掘を兼ねる試みが「アミューズ・10ムービーズ」であった。実際このオーディションの合格者には、福山雅治が含まれている。

先の広告には俳優のみならず、脚本家や監督も探しており、「新人監督の起用も予定しています。」と書かれている。結果的に、新人として監督を担当することになるのが桑田であった。

桑田「で、たまたまうちの事務所が年間に10本の映画を作ろうっていう10ムービーズって企画を打ち出してね、僕は初め関係ないって思ってたんだけど、僕の所にも話が来て、最初はことわったんですよね。でも、色々やってるうちに僕なりに映画を作る条件を考えた。」
(『週刊ビーイング』1993年9月13日号、リクルート)

映画畑以外、異業種からの映画監督参入というとなんといっても89年、ビートたけしが北野武名義で監督を務めた「その男、凶暴につき」が挙げられる。こちらは当初の監督が降板したことから偶発的に監督・北野武が誕生したようだが、桑田の場合はその前から企画が始まっており、所属事務所の記念事業の一環という側面もあった。ここから、数年にわたってミュージシャンを含む異業種からの監督を迎えた作品がいくつか生まれる流れが発生する。


***


映画の公開やアルバムのリリースが90年9月だったため、音楽制作もサザンのアルバムリリース後の90年かと思いきや厳密にはそうではない。この映画の音楽はあくまで桑田のソロ活動の一環という扱いで、サザンとは別のプロジェクトとして88年から進められており、サザンの次のアルバム・ライブツアーと交互にスケジューリングされ進められていったようである。

 88年の11月に映画の下敷きとしてのイメージ音楽のレコーディングがスタート。脚本の完成と歩調を合わせての曲作りとレコーディングを繰り返し、並行して伊豆ロケを中心とした撮影。スタジオでフィルムをコマ送りで見ながらのレコーディング。「正解はひとつしかないんだ」という合言葉での牛歩のような作業の挙句、音楽がピタッと映像にはまった時の感動。
(略)
企画→音楽制作→脚本→撮影→音楽と編集の繰り返し→完成という、いかにもミュージシャンが映画を作るという手順にそって進行され、きわめて音楽寄りの映画になっているのだ
(高垣健「ロック・ビジネス悪あがき 第7回 桑田佳祐、9月に双生児誕生!?」『Sound & Recording Magazine 1990年9月号』リットーミュージック、1990)

各種記録・証言(『Sound & Recording Magazine 1990年3月号』リットーミュージック、1990/『FMレコパル 1989年2月20日号』小学館、1989『代官山通信 Vol.24 Oct. 1989』サザンオールスターズ応援団、1989/桑田佳祐「平成NG日記」講談社、1990から推察した最終的なスケジュールは以下のとおり。

・88年11月〜 映画音楽用レコーディング
・88年末〜 サザン「女神達への情歌」「さよならベイビー」レコーディング
・89年4月〜89年9月6日 サザンアルバムレコーディング
・89年9月10日〜19日 映画音楽用レコーディング
・89年9月21日〜12月14日 映画撮影
・89年12月15日〜31日 サザン年越しライブ リハーサル〜本番
・90年1月〜4月 サザンアルバム『Southern All Stars』リリース、ツアー「夢で逢いまShow」
・90年5月〜7月 映画編集・追加撮影、アルバム『稲村ジェーン』用レコーディング
・90年9月 映画公開、アルバム『稲村ジェーン』リリース


***


当初、映画制作のミッションを受けた桑田は、右も左もわからない状況で脚本を誰に依頼するか、映画「Big Wave」に音楽として関わっていたという理由で山下達郎に相談。山下の提案で、脚本は康珍化に依頼することとなる。
桑田「まぁ、(山下)達郎さんにも相談したんですよね。そしたら、タッツァン、『アンタもたいへんだねえ』って(笑い)、『いままで、日本のミュージシャン、映画に関わるとみんなツブれてるんだから、アンタも財産、気をつけて』なんていわれて。やめようかな、とか思って(笑い)。
 達郎さんの紹介で、今回、以前は作詞家だった康珍化さんと一緒にやるんですよ。」
(『Goro 1989年2月23日号』小学館、1989)

桑田「脚本は、康さん(康珍化)とじっくり詰めましたね。納得するまでは重箱の隅をつつくような作業を、去年の11月ごろから7ヶ月くらいかかってやりました。」
 この間書き直された脚本は全5稿、そしてなんと1稿が上った段階で曲の方が先に上っていて(3曲)、その音楽によってどんどんシーンが書き変えられていくという作業が行われたということだ。このあたりが脚本家、監督共に音楽畑の人間だったことがプラス効果になっている。中の1にはこんなタイトルがついている。「忘れられたビッグ・ウェーブ」。ア・カペラのバラードだ。これだけでかなりのシーンがイメージできる。そういうものだ。
(『月刊シャウト 1989年12月号』シンコー・ミュージック、1989)

第一稿と同時に出来上がっていた3曲というのが、「美しい砂のテーマ」「愛は花のように(Ole!)」「忘れられたBig Wave」と思われる。

M②「愛は花のように」
 ベーシックは、アナログ・マルチを使用してます。ちなみにこのアルバム(引用者注:『Southern All Stars』)では、ほとんどソニーのPCM-3348(デジタル・マルチ)を使用してます。
 日生のCMでもお馴染みのこの曲は、アルバム・レコーディングに先行して88年11月に録り、その後でダビングをしたのですが、基本パターンはゲストの方々(ギターは小倉博和氏、キーボードは小林武史氏、パーカッションなどに北村健太氏)と、桑田氏で作ったものです。この曲の参考として、ジプシー・キングスを皆で聴いたりしましたが、小林氏のキーボードで新しく生まれ変わった感じです。
(今井邦彦「レコーディング実話 Southern All Stars/サザンオールスターズ」『Sound & Recording Magazine 1990年3月号』リットーミュージック、1990)

「愛は花のように」は最終的にサザン名義でリリースされてはいるものの、実際に演奏の核になっているのは上記3名である。アルバム『稲村ジェーン』で同じメンバーがクレジットされているのがインスト「美しい砂のテーマ」だ。

小林武史は桑田ソロ・サザン「みんなのうた」でも既にお馴染み、北村健太は河内淳一・今野多久郎の在籍したS!trxや高中正義バンドのドラマーだ。そしてもう1人ここで初登場するのが、小林武史同様この後の桑田・サザンのサウンド作りに多大な影響を与えるギタリスト、小倉博和である。

小倉博和は香川県に生まれ、大学進学を機に上京。先輩のデュオ、Stepのサポートとして西込加久見と共に参加(ちなみに、このStepはデビュー前の角松敏生がプロを目指して最初に参加したグループだったという。)。その後高校時代のポプコン仲間のバンド、アイリーン・フォーリーンにサポートからメンバーとして参加。セカンドアルバム『ロマンティック』に小倉のクレジットは無いが、実際にはレコーディング現場に居合わせていたようでここでプロデュースとアレンジを担当した小林武史と出会っている(「カドカワムック 別冊カドカワ 総力特集 小林武史」角川グループパブリッシング、2008)。バンド正式加入と並行し西込らとキャロット・スタジオを渋谷に設立、CMやビデオ音楽の制作を開始。さらには藤井丈司の紹介でシブがき隊のバック、立花ハジメ『Beauty & Happy』でスタジオ・ミュージシャンのキャリアをスタートさせていた(「Profile」『小倉博和 ~ No Guitar, No Life. ~ 』
http://ogurahirokazu.com/prof_2.htm)
上記の小倉公認ファンサイトのアーカイブによれば、小倉のインストのデモテープを聴いた桑田のA&R高垣健が興味を持ち、小林武史のツテで桑田一行で映画音楽録音のためキャロット・スタジオに突撃訪問…という流れが実はあったようだ。

以下の会話から、訪問した桑田一行はキャロット・スタジオで小倉について様子見のレコーディングを行なったようで、最初の録音は「美しい砂のテーマ」であったことがわかる(実際リリースされた作品ではキャロット・スタジオはノークレジットなのだが)。

桑田「僕と小倉さんが初めてね、ばったり出くわしたのはね、「稲村ジェーン」だもんね。」
小倉博和「そうです、そうです。」
(略)
桑田「渋谷にまあ文字どおり汚いスタジオがあってね、なにか物の怪のようなものがあってね、そこで彼に会って。
そしたら俺手元が上手くいかなくてね、ギター弾いてて。なんかおぼつかなかったの。それで小倉くんがじーっと見てまして、「あのー、僕ちょっとやりましょうか?」って言うから、いやいや俺を誰だと思ってるんだって話になってね。僕あまりにもこの「美しい砂のテーマ」なんかがね、コードぐらいしか弾けなかったの自分で作っといて。そしたら本当にもてあましたんでしょうね。」
小倉「もてあましたわけじゃないですけど、あまりに素敵な時間に私も本当参加したいと。」
桑田「それで、やりましょうかって3回ぐらい言われたの。」
小倉「失礼だとは思いながらですね。」
桑田「よく言ってくれたよでも。で俺ね、3回ぐらいにさすがに、ちょっとお願いするってギターを渡したの。で、この人にギターを弾かせて、クリック聴きながら彼ギター1人で弾いたら、あらまっ、と思って。あらっ、君はなんでこんなとこにいるの?みたいな。誰あなたは?みたいな感じになっちゃって。」
小倉「いや、でもびっくりしたのが、その時に桑田さんがああ、いいって言ってくれて。」
桑田「いいんだもん。だって。」
小倉「そのテイクを残すって言って。そのテイクが本チャンなんですよ。」
桑田「そうだっけ?」
小倉「そうです。それでちょっとソロも弾いていいっておっしゃってくれたんです。」
桑田「最後まで全部おまかせしちゃうの。俺全部ね、もうフンころがしみたいな形になっちゃって。面白いよね、その「美しい砂のテーマ」が僕らの…」
小倉「そう、出会いなんですよね。それで桑田さん覚えてらっしゃるかどうかなんですが、ソロをね、僕が弾いた時に、その1テイク目だったんですけど、ずっとソロ弾いて最後に…♪〜…っていう感じで終わるんですけど、あっ間違えた、と思って、「あっ!」っていう声出しちゃったんですね。それが録音されちゃって。で、すいませんもう一回お願いできますかって言ったら、桑田さんが「いや今の最高だから」って言って。じゃあ、「あっ!」の声だけ取るように。あの頃ね、もちろんデジタルじゃなくって、アナログでしたから。しかもそのスタジオだったから、Otariかどっかのマルチだったと思うんですけど。それをもう、本当時間をかけて綺麗に。そのテイクなんですよ。嬉しかったです。」
(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM, 2012.7.21.)


***


「稲村ジェーン」の音楽については上掲2曲のとおり当初から(小倉をフィーチャーした)ガット・ギター主体のサウンド、スペイン語、ラテン・ミュージックの雰囲気…と意図的に着手開始されているのがわかる。この発想はどこからきているのかというと、映画の内容にあわせてのことのようだ。

桑田「去年の夏のツアーの終わりにね、俺が新幹線の中でJRのパンフレットを見てたら、おもしろい話がコラムに書いてあってね。それをやりたいってことで話がスタートしたの。」
— どんな話?
「昔の稲村ヶ崎(鎌倉の地名)のサーファーの話。まぁそれをやろうと。きわめて単純に。
 その人は48歳で、もちろん今も現役なんだけど、日本のサーフィンの草分け。
(略)
 その頃、ジェーン台風っていうのがあって、その時の波の話。」
(『ワッツイン 1989年3月号』CBS・ソニー出版、1989)

日本のサーフィンの草分けで当時48歳ということは、阿出川輝雄についてのコラムだったのだろうか。とにかくこの車内誌(「L&G」だろうか)のコラムをヒントに、稲村ヶ崎を舞台にジェーン台風を絡めて当時の若者の青春を描く、というコンセプトが立てられた。

今度作る映画はね、時代設定を東京オリンピックの頃の設定、つまり25年前の設定にしてるのね。そうすると、とうぜん追憶・レトロってことに形の上ではどうしてもなってしまうわけだけど、そこで自分が出したいのは、やっぱり「青春」なんだよね。
(略)
「ビッグ・ウェンズデイ」っていう映画はさ、要するに年寄りの作った幻想であって、そういった「青春のシンボル」的な話っていうのは、年寄りくさいと思うのね。やっぱり、若者っていつの時代もそんなもんには共感できない状態がえんえんとつづいているんだろうなって思うんですよ。
(略)
僕は最初、「ウラ湘南」の映画をつくるってことで発想したんです。「オモテ湘南」はもうすごくコンビニエンスになってるから。だから僕のやろうとしてることはコンクリート剥き出しのところにどれくらい葦簾ばりをはれるかってことでもあって、そのコントラストっていうのは加山雄三にはできないだろうって思ったんだけど。土地も人間もそうだけど、一色では語りきれないものってあるじゃないですか。やっぱり、昨日まで三味線弾いてた人間が、いきなりエルビス聞いてるわけにはいかないし、その間にラテンとか実際にはつまってて、そのあげくにレゲエにたどりついたりラップにたどりついたりするわけですよね。そこにたどりつくには理由があるわけよ。
(『Rock 'N' Roll Newsmaker 1989年5月号』ビクター音楽産業、1989)

桑田「やっぱり”湘南”ていうのは、サザンにとって、ある意味でキーワードなんですね。僕らの音楽は「勝手にシンドバッド」でデビューしてから、ある時期まで“湘南サウンド”って言われたりして、結果として、湘南風俗を語るうえで一端を担ったところがある。その、東京の人間が作った湘南イメージというものに対する、地元の人間としてのアンチテーゼといったねらいもあるんです。
 けっきょく、サザンの活動はおりにふれ“湘南”というキーワードが隣り合わせにあったんだけど、それは、人様の評価の湘南であって、僕らの湘南とは多少のギャップがありながらここまできた。それに対する答えという意味でも、僕は、映画の中で、僕なりにリアルな、30年前の湘南を演出できたらいいなと思っているんです。」
(『月刊エフ 1989年5月号』主婦の友社、1989)

ウラ湘南」ということで、いわゆる「湘南サウンド」の逆を張り、桑田本人の幼少の記憶から、埋もれていたラテン・ミュージック、スペイン語という発想が出てきたようだ。

映画の音楽の方は、ある種「スパニッシュ」なんだ。ほとんど僕はスペイン語で歌うつもりなんだけどね(笑)。スパニッシュと湘南とどう関係してるかというと、もちろん無国籍ってこともあるんだけど、僕の遠い記憶によると湘南ってスパニッシュだったのよね、メキシカンとか。ペレス・プラードとか、まぁ、メジャーなところではレイ・チャールズなんかでもそうだし、ハリー・ベラフォンテとかナットキング・コールとかね。コファンドタタムーチョとか、バイアコンディオスなんとかミアモーレっていうのがさ、おれは湘南だとおもってたわけ(笑)。ほんとよ。ワイルドワンズとか出てきたっていうのはもっと後だもん。もっとこう、肌の色が黒くって、マイアミ・サウンドマシーンのヴォーカルの女みたいな、あーいう色づかいっていうのがさ、僕の中では湘南サウンドだからさ。
(略)
『勝手にシンドバッド』もラテンでしょ。ラテンの血っていうのは日本人の中にあるからね。まぁ、全編つうじてスパニッシュでやるっていうのも、何かアンチテーゼがあるわけですよ。
(『Rock 'n' Roll Newsmaker 1989年5月号』、ビクター音楽産業、1989)

桑田「で、そのラテンっていうことだけど、あの頃の茅ヶ崎あたりって普通にラテンがかかってたんですよね。うちの店(桑田家は当時バーを経営していた)のジュークボックスでも、ペレス・プラードとかザビア・クガートとか、レイ・チャールズやハリー・ベラフォンテのラテンっぽいやつとか、そういうのが人気高かった。なにかこう、日本人が、日本人の庶民がスイングしやすい音楽だったんじゃないのかな。盆踊りの感覚に近いというか、頭使わなくて済む音楽。」
— 腰のへんにくるっていうのはありますね。
「そりゃ高校くらいの時には、ラテンなんかダサいって思ってたけどね。バンド組んでやるときは「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」とか「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」とかコピーするわけでさ。でも、頭使うんだよね、そういうのはやっぱり。風呂上りにすんなり酔っぱらえるのはラテンだった。'65年っていうと、日本人がまだギターのチョーキングのテクニックなんかも知らない時代でしょう。だったら当然ラテンとかハワイアンに走るよね。」
(略)
— でも、'65年っていうとゴーゴーかなっていう気もするんですけど
「ゴーゴーは東京のものなんですよ。茅ヶ崎の田舎じゃそれはまだニュースの段階で。」
— そんなに離れてないのに……。
「いや、感覚的な距離がね。だって、いま湘南道路とかって呼ばれてる134号線なんか遊歩道路って言ってたんだもん。さびれててさ。それとラテンのどこかドライなイメージってのがおれのなかでダブるわけ。真夏でも長袖着てる感覚っていうか、ちょっと見苦しい感じがね。」
(『ぴあ music complex 1990年8月29日号』ぴあ、1990)


***


映画の時代設定以外にも、桑田がラテンに接近(回帰)する時代背景は認識しておいたほうがよいだろう。遡って87年、シングル「悲しい気持ち」リリース時のインタビュー。

桑田「そそそ。その点、たとえばロス・ロボスとか。あいつらの「ラ・バンバ」がなんですごいかってことだよね。あれが全米ナンバーワンになるわけで。そういう時代になってきてるんじゃないかな。願望もこめてそう思うけどね。ドド・パーンじゃなくてさ。ほら、ちょっと前に、俺、ニューヨーク行ったでしょ。」
— あ、例のホール&オーツとのプロジェクトで?
「そう。で、タクシーに乗ったりすると、プエルトリカンの英語もろくに喋れないような運転手がパラパパーッツとサルサかなんかカー・ラジオで聞きながら走ってるわけじゃん。後、ジャマイカから出てきたような運転手がこ〜んな顔してレゲエのすげえやつ聞いて、歌いながらハンドル握ってたり。
(略)
8ビートの刺激とは全然違う刺激。あーゆーのにくらべて、その、ドッ・パーン・ドド・パーンってやつは非常に消極的な音楽だと思ったの。ひいては、私の仕事がどれだけ消極的か、スケールが小さいか……ね。」
— 民族の血に目覚めた(笑)
「や、そーゆーんじゃなくて。日本的なエスノ感覚っていうと、たとえばフジヤマとか琴の旋律とかってなっちゃうけど、そうじゃなくてね。もっと自然に俺たちはプエルトリカンとかメキシカンとかスパニッシュとかに近いな、と。ラテン系だからさ。僕らもラテン組合の一員なわけ。日本のメロディってラテンだもん。それをニューヨークで強く感じたのね。俺たちはわざわざエスノなんとかって能書きをたれなくても、もっと簡単に民族音楽の要素とかを取り入れることができるんだなって。」
(略)
— そういう貴重な体験が今度のソロ・アルバム作りに活きてくる?
「といいんだけど(笑)。だから俺が思ってるのは、ホール&オーツとやったのをいいキッカケにして、本場のやつらといろんな競演をしてみたいよね。それも2・4を強調するロックンロール野郎とじゃなく、むしろスパニッシュ、メキシカン。そいつらとラテンやサルサをやるとか。」
『Guitar Book GB 1987年11月号』CBSソニー出版、1987

88年ソロ・「みんなのうた」リリース後も、日本人と親和性が高い曲としてLos Lobosを挙げている。
桑田「それで、「ラ・バンバ」とか日本で流行るじゃないですか。「ラ・バンバ」って日本人もついていけるんですよね。スペイン歌謡とかは日本人の血でわかる。」
(「シンプジャーナル 1988年8月号」自由国民社、1988)

ちょうど80年代後半、いわゆる「ワールドミュージック」ブームというのがあった。80年代前半、日本では「エスノ」と呼ばれていた非西洋的なポップスが、この時期新たに「ワールドミュージック」と呼ばれるようになり、いくつかの世界的ヒット曲もあり盛り上がりをみせるようになる。Jポップ界でも、90年頃から上々颱風、ネーネーズ、りんけんバンドなどがレコードデビュー、The Boomがその志向を強めるなど、ひとつの流れが生まれることとなる。

桑田が当時よく言及していたLos Lobosはメキシコ系アメリカ人のバンドで、87年のアメリカ映画「La Bamba」の同名テーマ曲が各国でヒットを記録。「愛は花のように」の解説で今井が言及していたGipsy Kingsはスペインからの移民がフランスで結成したバンドで、87年のサード・アルバム『Gipsy Kings』がパリ発の世界的ヒットとなる。

Gipsy Kingsと同じくパリ発ワールド・ミュージック的ヒットというと、89年の世界的ヒット「Lambada」がある。フランスで結成されたグループKaomaによるこの曲、スタイルこそブラジルで流行していたものだが、仕掛人のひとりはフランスの音楽プロデューサー、Jean Karakosであった。

Karakosは76年にパリにてレーベルCelluloidを創立。その後米国での運営を視野にニューヨークに進出、Bill Laswellを実質的なパートナーとして迎え、非西洋と同時代的な米英のサウンドの融合を図った名作を数多くリリースしている。

CelluloidからBill Laswellプロデュースでレコードを残したグループにはTouré Kundaがいる(前述のKaomaもメンバーの数名はTouré Kundaと重複している、楽曲のための寄せ集めグループのようだ)。セネガル出身だがフランスに移住し、Celluloidから80年にレコードデビュー。84年『Casamance Au Clair De Lune』でアメリカでもLPがリリースされるようになり、Bill Laswellをプロデューサーに迎えた『Natalia』が85年。そして85年秋には来日し、サザンのライブにジョイントという形で共演。残念ながらこの顔ぶれでスタジオ録音を残すことは失敗に終わったが、この時期、既に桑田らも当時のTouré Kundaのこういった立ち位置=非米英のスタイルを軸に最新の米英のサウンドを融合させ、果ては米マーケットにも食い込む…に着目、学ぶものがあるという認識だったということだろう。

さてその85年、Touré Kundaとのジョイントライブ直前の桑田のインタビューを見てみると、やはり自身の幼少の頃のルーツを振り返り、ラテンというキーワードが出てきている。

桑田「そのルーツなんだけどね。いくつかあると思うんだ。要するにグループだから、結成した当時、何にシビレて集まったかというのがそもそもルーツだと思うんだよね。そうすると、やっぱりオールマン・ブラザーズまで行っちゃう。今度のレコーディングでも、そういう70年代のロイク(ブラック・ミュージック)が乗り移ってるのをやりたかったんだよね。だけど僕らがロイクを感じるのはB. B. キングだとか、そういうんじゃなくてオールマン・ブラザーズとかね、要するに白人が勘違いした黒人音楽みたいなものを、また僕らが勘違いしてるみたいなね、そういう解釈なんだよね。で、歌謡曲でいうとザ・ピーナッツとか欧陽菲菲とかのね、昭和40年代なんだよね。西暦で言えば70年代。そのへんに僕らのルーツがあると思うのね。で、あの欧陽菲菲だとか辺見マリとか、ちあきなおみとか、あのへんの歌謡曲ってさ、今の菊池桃子とかの歌謡曲と全然違うでしょ。もっとなんか、ジャズの匂いがあったり、フルバンドの匂いがあったり、スペイン歌謡そのものだったりするでしょ。もっと行っちゃうとペルーとかアルゼンチンとか、あのへんの中南米あたりのものじゃないかと僕は思うけど……。だから昭和40年代の歌謡曲って凄く好きだったんだよね。それでウチのオヤジがやっぱりラテンのフルバンドの人たちの音楽を聴いてたんだね。で、辺見マリの歌なんか、そのへんとニュアンスが似てるわけ。要するに、あれも民族音楽なんだよね、そこまで行っちゃうとさ。だから僕らが解釈してる民族音楽ってさ、ペルー風、アルゼンチン風、スペイン風、メキシカンとか言って行くとトリオ・ロス・パンチョスまで行って、そのすぐ先へ行くともう辺見マリがいるっていう、そういうふうになっちゃうからね。そこからまた枝分かれしてボサノバがあったり、カリプソがあるとか、もっと行くとレゲエがあったりするわけ。
(略)
たとえばウチのオヤジの世代になると、いろんなモノが一気にアメリカから入ってきた世代だからね。ダンスホールとかミルクホールとか、ジャズは聴けるし、ルンバだ、ジルバだとかね、そういうのがバーッと入ってきたわけでしょ。で、僕なんがが作ったレコードをオヤジなんかに聴かせるとね、レゲエやったりしてるでしょ、すると「これ、ドドンパだな」って言う。そういうのってウチのオヤジの世代なんかにあるんだよね。だから俺たちの世代には、映画音楽だ、ジャズだ、キューバンだとかいう凄い幅広いオヤジとかオフクロがいたみたいね。で、僕らもそういうレコードを聴いて育っている。だから抵抗ないんだよね。」
(『バックステージ・パス 1985年12月号』シンコーミュージック、1985


***


輪島祐介は著書「踊る昭和歌謡」において、戦後日本の歌謡曲を外来のリズムの影響を軸に検証し、ジャズ、ラテン  マンボから一連のニューリズム、ドドンパ、ツイスト、ディスコ・アイドル、ユーロビート…の流れを追い、「鑑賞」ではなく「参加」視点での歌謡史を提示している。さらにはそれと並行し、日本の海外音楽受容史において「ロック」など英語圏の音楽のみが検証される史観に異議を唱え、特に中盤ではラテン音楽の受容史実を改めて検証している。
ラテン(系)音楽を一種のモデルとする外来音楽の大衆的な受容の系譜があったことを強調し、従来の日本大衆音楽史において暗黙のうちに前提となってきた、ジャズ、フォーク、ロックに代表される英語圏音楽の影響を特権視する見方を相対化したい。
(輪島祐介「踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽」NHK出版、2015)

この後者を音楽で世に提示しようとしたのが、「稲村ジェーン」撮影前の桑田の構想だったのではないだろうか。過去の日本ではロックンロールなど米英の音楽スタイルに限定せず、ラテンなど幅広いジャンルを人々は楽しんでいたのではなかったか、自身にもその経験は染み込んでいる…という、桑田のロックンロール以前のルーツ再確認の作業でもあったはずだ。「高校くらいの時には、ラテンなんかダサいって思ってたけどね。」と移り変わる時代を過ごした、生々しいリアルタイマーの感覚を素直に吐露しつつ、ワールドミュージックブームが始まっていたこのタイミング、期は熟したということだったのだろう。

スペイン語というのは直接的にはLos Lobos、Gipsy Kingsのヒットの影響と思われる。そういえば数年前にKuwata Bandの全編英語詞が反省材料のひとつとなっていた桑田が、またしても母語ではないスペイン語の曲を歌うというのに躊躇があったのかどうかは不明だ。ひょっとしたら、英語と比較すると日本語の発話に近いスペイン語なら歌いやすく違和感はない、というくらいの考えはあったのかもしれない。

しかし、ここがユニークなのだが、「日本語を英語っぽく歌う」カタコト歌謡の系譜にも属するヴォーカリスト・桑田の歌うスペイン語は、なんとも英語訛りで(コーラス参加しているLuis Sartorと比べるとわかりやすい)、それがストレンジな印象を与えている。まるでラテンをルーツに持ちながら、その後英語圏の「洋楽」で育った日本のポップスそのものを体現するようなスペイン語曲に仕上がった…というのはいくらなんでも言い過ぎか。

結局クランクアップ後のレコーディング作業で、映画音楽は幸か不幸か桑田の性でストイックな全編ラテン・スペイン語ではなく、日本語詞のロックンロール〜ポップスが混じったある程度幕の内弁当的な内容になる。とはいえそれにより桑田・サザン史、果てはJポップ史に残る普遍的な名曲が2曲も生まれることになるのだが、それはまた先の話である。


***


残りの一曲は小倉のギターは登場しない、「忘れられたBig Wave」。この曲は当初、映画の主題歌として用意されていたようである。映画プロデューサーを担当した森重晃は次のように語っている。
森重晃「僕は桑田から「『忘れられたBIG WAVE』を主題歌として考えているんだ」という話をクランクイン前に聞いていまして、撮影しながら彼の中で色々と変わっていったんでしょうね。」
(サザン桑田監督映画『稲村ジェーン』が初のBlu-ray & DVD化、撮影裏話を映画プロデューサーが語る https://www.billboard-japan.com/special/detail/3225

この曲は聞けばわかるようにアカペラ、しかも桑田の一人多重唱で構築されている(既に日本語詞で、ラテンでもないのだが主題歌は扱いが別、ということか)。
M④「忘れられたBig Wave」
 いわゆるアカペラとされるこの曲は、桑田氏の声だけで作ったものですが、ベース・パートだけはサンプリングと生声(元は桑田氏の声)のミックスです。ヴォーカルはだいたいノイマンのU67ですが、この曲はU87でした
 すべてのパートがダブルで、ミックスではプレート・エコーのみ、EQは、TUBE TECHという真空管のもので仕上げました。
(今井邦彦「レコーディング実話 Southern All Stars/サザンオールスターズ」『Sound & Recording Magazine 1990年3月号』リットーミュージック、1990)

そもそも桑田が山下達郎に脚本家の相談を持ちかけたのが映画「Big Wave」の音楽をやっていた、という理由であり、曲タイトル、そしてワンマン多重アカペラというスタイルからして山下達郎へのオマージュであることは明らかだ。のちに桑田本人もそのように語っている。
桑田「要するに何が言いたいかっていうと、達郎さんへのオマージュです。達郎さんがよく一人でアカペラをやられてるんですけど、僕もそれをちょっとやってみたっていう。クリック聴きながらですから、達郎さんよりも簡単な条件でやってますし、ベースはできなかったんで、ボンボンって口ベースはサンプリングです。達郎さんはそんな事しません。それでこれ達郎さんのオマージュみたいな気持ちで作ってね、一人で録音してってですね。矢代くんって方がいろいろ音録ってくれたんですけどキーボードの。
達郎さんのマンション行きまして、まりやちゃんももちろんいらっしゃいまして、聴いてもらったんです。ちょっと怖くてね、達郎さんだから。それで「いいじゃんよく出来てるよ」なんて言われたのを憶えているんですけど。でもまりやちゃんかな、達郎さんかな、やっぱすごいなと思ったの。「あっ、このベースはあれね、打ち込みね」って。言ってないのにね、わかっちゃってね。バレなきゃ言うつもりなかったんですけど。すぐ見破られましたけどね。「ファルセットきれいだねー」とか言って、「あ、でもベースは打ち込みだね」って。悪いことできないなあって思ってましたけどね。」
(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM, 2015.8.15.)

完成した曲を持ち込んだ本人を前にベースパートがサンプリングであることを指摘するのは夫のような気がするが、それはさておき…桑田のワンマン多重コーラスというとソロアルバム『Keisuke Kuwata』で既に披露されており、桑田にとってヴォーカリストとしての新たな武器であった。アカペラとなるとその延長であり究極ともいえる形で、とにかく試してみたい、という桑田の衝動がうかがえる。

アルバム『稲村ジェーン』において、この曲の共同アレンジは前述2曲の小林武史ではなく、門倉聡がクレジットされている。門倉は桑田のソロ・アルバムの1曲(「愛撫と殺意の交差点」)で共同アレンジャーとして初登場、同時期88年4月の原由子シングル「春待ちロマン」で矢口博康と連名でアレンジを担当。さらには次のサザンのアルバム、サウンド作りの中心人物は実は小林ではなく門倉のようなのだが、そのあたりは次回以降で詳しく触れることにしよう。また、先の桑田のコメントから、矢代恒彦もクレジットこそ無いがこの時期のレコーディングに引き続き参加していることがわかる。


***


89年に入ると、映画の作業はクランクインに向けて割合を下げ、まずは先にリリースを予定していたサザンのアルバムレコーディングがメインになっていく。次回はそのあたりを見ていきたい。





2023年7月30日日曜日

Felicity Kendal「Running Away From Love」[Ken Gold Songbook]

Ken Gold Songbook、今回は珍品の極み、エクササイズ用レコードに収録されたGold-Denne作品です。

1981年、英国でのエアロビクスブームの最中にエクササイズ用レコードとして『Shape Up And Dance』がLifestyle Recordsからリリースされます。LifestyleはMicrometroという会社のレーベルで、MicrometroはこのあたりからKen Goldが出版で関わっているZomba Productionが親会社のようです。レコードの名義は俳優のFelicity Kendal。音楽にあわせてエクササイズを行うための実用レコードで、Kendalはひたすら指示・掛け声を発しているだけなのですが、バックの音楽はヴォーカルものが流れています。ここにポツンとKen Gold & Micky Denne作の、おそらくここでしか聴けない「Running Away From Love」が収録されています。


爽やかで少し切ないメロウなこの曲、Gold作品だとBilly Ocean「Whatever Turns You On」(『City Limit』収録のオリジナルバージョンのほう)に若干近いでしょうか、あちらをさらに軽めにした雰囲気で、暑い最中でも涼しげにエクササイズができる実用的な小品に仕上がっています。

他の曲は「Isn’t She Lovely」「YMCA」「Dancing Queen」などヒット曲のカバー・バージョンが多く、なるべくヴォーカル部分はKendalの掛け声は入らないような構成ですが、「Running Away From Love」は歌い出しからかなりヴォーカルが小さくミックスされてるうえに前半はほとんどずっとKendalの掛け声が被るというヒドい?扱いとなっています。演奏・ヴォーカルともにノン・クレジットなので一切は謎なのですが、どうも聴き覚えのあるこのヴォーカル、ひょっとしてKen Gold本人じゃ…ない…ですよね?

いつの日か、Kendalの声の入っていないバージョンが世に出てくれることを祈って(やはりKen Gold作品集を…!英AceとかCherry Redとか、いかがでしょうか?)…今回の記事を締めたいと思います。

2023年6月24日土曜日

33 1/3計画 — 日本の45回転レコード創成期とコンパクト盤(下)

■その1 アメリカでは

1950年代末以降、米国のレコード業界において7インチシングル盤にとっては地味に迷走の10年でした。「地味に」というのは、業界からは新たな提案を続けていたものの、市場はその提案を受け入れずゆえにまったく新風は吹かず、それらのこと自体が歴史の中に埋もれたまま何事もなかったかのように時が過ぎていった…という、今となっては業界のいわゆる「黒歴史」となった流れがあったようだ、ということです。

Mike Callahanさん、Dave Edwardsさん、Patrice Eyriesさん、Randy Wattsさん、Tim Neelyさんによる2014年の大作記事に、そのあたりの経緯がまとめられています。
「The Stereo Singles Project: History and Discography of 7" stereo singles and Little LPs」
情報量の多いサイトなので、こちらの記事を参考に私が独断で要約 + 当時のBillboard紙からの引用で若干細かめにまとめますと…

1958年、ステレオ録音の登場により7インチ盤市場にも各社がステレオシングル、ステレオEPを投入します。ポップスファンにとってはちょっと早いタイミングと思われる方もいるかもしれません。それもそのはず、当時はポップスもののレコーディングはまだモノラルが主流、そもそも供給できる音源が少ない状況でした。また、モノラル用カートリッジでステレオ盤はかけられないという互換性の問題から、そもそも需要も無かったようです。そしてさらに、ポップスの宣伝の場でもあるAMラジオ局も当時はモノラル放送ですから、これまたステレオ盤はかけられない…等の理由が先のサイトで推測されています。ということで、ステレオのシングル盤自体がすぐに廃れてしまう…

という状況になりかけた1959年、沈黙していたColumbiaが満を持して33 1/3回転の7インチシングル、「Stereo Seven」のリリースを開始。ここには10年以上前の因縁がありました。

ここで時計の針を戻して1948年の話をしますと…Columbiaは78回転盤に代わる新しいマイクログルーヴのレコードとして、10インチと12インチでLP=Long Play Record、33 1/3回転盤を開発・発売。その半年後、ライバルのRCA Victorが7インチでマイクログルーヴの45回転レコードを開発・発売。熾烈な回転数戦争の火蓋が切って落とされましたが、回転数切替機能を持つプレイヤーも普及、2社以外のレコード会社もいずれかに絞るわけでもなくそれぞれをリリースし、結果的に棲み分けが成立します。45回転盤登場とほぼ同時にColumbiaは慌てて7インチでも33 1/3回転盤をリリースしますが、7インチの領域では45回転盤にかなうことはありませんでした。1950年、Columbiaが渋々45回転市場に参入したのち、33 1/3回転7インチ盤はいつのまにかフェイドアウトの憂き目にあっています。
このあたりは松林弘治さんによるこちらの記事が詳しいです。
「Things I Learned On Phono EQ Curves, Pt.14」

ということで、フェイドアウトから10年も経たないうちに、シングル盤のステレオ化に乗じて、Columbiaは(仕様的に回転数はステレオと関係ないのですが)再度33回転でStereo Sevenを発売開始したのです。

Billboardの59年7月20日号において、Columbiaが33回転のステレオ7インチを発売、という記事が掲載されます。
Columbiaの社長Goddard Libersonは「我々はStereo Sevenのターゲットを、シングル盤の新たなリスナー=最近シングル盤を買っていない大人のリスナー、と考えています」「総売上の80%は33回転レコードです。ステレオ環境が整ってるユーザーはLP購入者ですから、33回転はステレオ・シングルに必然なのです」と語っています。音質や仕様の問題ではなく、普段シングルを買わないLP購入層にアプローチするための戦略として33回転なのだ、という理屈です。
Col. to Intro New Stereo 7-Inch 33 1/3


ステレオ45回転シングルに失敗したと考えた各社は、Columbiaの動きに追随し33回転シングルのリリースを開始します。こちらはABC Paramount参入の記事です。
Am-Par Debs Seven-Inch LP

こちらはCraftのステレオ用レーベル、Stere-o-craftも大人向けを想定して33回転シングルに参入する、との記事です。
Label Climbs 7-Inch Stereo Bandwagon

こちらの記事では、Capitolが年明けに33回転シングル市場に参入するという話がスポークスマンによって否定された、とあります。Capitolは過去の回転数戦争において、最初にRCA Victor側につき、45回転盤をリリースした会社でした。同時にジュークボックス製造会社Seeburgのエンジニア、John Stuparitzが33回転シングルに可能性を感じているとのコメントも寄せられています。「ステレオ、モノラルともシングル盤の未来は33回転にある」との熱いコメントが光ります。
Interest Builds in Stereo 33 Single

米国内に留まらず、海外でも33回転シングルがリリースされるとの記事も登場します。日本において、Columbiaと同じタイプの盤を日本コロムビアが発売するとの記事です。

そして翌60年6月。秋にCapitolも33回転シングルに参入、しかもステレオのみならずモノラルシングルもリリースするとの記事が掲載されます。モノラル・ステレオ両方をリリースすることで、Capitolは最終的にレコードの回転数が1種に戻ることに全力を尽くしている…とBillboard紙は書いています。ここが7インチシングルのステレオ化から、33 1/3への回転数統一に目的がスライドしていくターニングポイントとなったようです。
Capitol to Issue Mono and Stereo Seven-Inch 33's

1週間後には他のメジャー会社も回転数統一に向けて動いている、という記事が出てきます。Capitolが先陣を切る中、Columbiaのみならず、Victorもこの問題についてトップ達がこの数ヶ月研究を続けている、とあります。
Mono 33 Single Can Spur 1-Speed Industry Thinking

そしてColumbiaはすべてのシングルについて、45回転と同時に33回転(モノラル)でもリリースする予定、と報じられます。
Col. to Issue All Singles 33 and 45

そして60年の年末。業界のこの流れには逆らえないと思ったのか、ついには回転数戦争における7インチ界の勝者・45回転レコード生みの親であるRCA Victorまでが33回転7インチ「Compact 33」の発売を大々的に始めます
Victor Sights on Broader Market Via 'Compact 33'
RCA Victorの33回転シングルの登場で、業界が回転数統一に向かう道が示された…と小見出しがあります。シングルは「Compact 33 Single」、4曲入りのEPに相当するものが「Compact 33 Double」としてリリースされること、歯ブラシメーカーDr. Westとタイアップし、歯ブラシにCompact 33のハイライト盤『Tunes for Teens』がついてくる、というプロモーションが展開される…などが書かれています。ハイライト盤のタイトルは、45回転盤の主要顧客層である若者に33回転7インチを売っていこうという明確な意思が見てとれます。

こちらは歯ブラシなしで単体発売されていた、無題のバージョンと思われます(歯ブラシ付バージョンはこちら)。Compact 33は回転数切替不要、センター用アダプターも不要…とアピールポイントが書かれています。
歯ブラシの有無にかかわらず盤は共通のものが使われていたようです。A面モノラル・B面ステレオでなんと計8トラック入り。片面4トラックでもはやDoubleですらありません。

若者向けに33回転のみの安価なプレイヤーが求められている…というBillboard紙の社説も掲載されています。
Sparking 33 Singles

61年末になっても、まだまだ各社の33回転チャレンジは続いていました。4曲にとどまらず6曲入り33回転7インチを、Cadenceは「Cadence Little LP」・Mercuryは「Compact 6」のシリーズ名でリリース開始します。
Manufactures Unveil New 'Small' LP's



さてこれらの33回転7インチ、息巻く業界と裏腹に、実は市場にはまったく受け入れられなかったようです。RCA Victorが参入して半年後、61年6月のBillboard紙、ラジオ局WBUCの制作マネージャーDale Brooksの意見を見てみましょう。
Vox Jox: Vetoes Compact 33
Brooksも最初は良いアイディアと思っていた33回転7インチ、実際45回転盤に比べると
・大きさが同じなので収納には何のメリットもない
・再生忠実度に大きな改善はない
・センターホールが小さいので片手で手軽につかめない
・扱いが面倒くさい
…と、完全に酷評です。センターホールなどはアダプターの手間を考慮したのが裏目に出てしまっています。

唯一33回転7インチに活路を見出し、当初よりジュークボックス界においてバックアップを続けてきたSeeburg社の奔走を取り上げた62年9月のこちらの記事を読むと、「市場に大きな影響を与えたものはなかった」ということで、一般向け33回転7インチ盤はもはや終わったことになっています。
After considering the concept as a retail entity, most diskers called last week were pessimistic. There were recollections of various experiments with new concepts in disks, such as RCA Victor’s compact 33-speed singles, Columbia’s stereo 33, introduced some time before, and others. In none of these cases, did the disks in question make a serious dent in the marketing picture. Fault, in most cases, was laid at the doorstep of Mr. Average Record Dealer, whose problems of inventory were already compounded by the necessity of stocking both stereo and monaural versions of the same LP titles.
("Little LP's Stir Mixed Reactions", Billboard Music Week, September 22, 1962

以降、一般向け33回転7インチについての記事は見かけなくなります。各社とも、1950年のColumbiaのように、生産をフェイドアウトさせていったようです。Stereo Seven発売からわずか3年、33回転7インチはすっかり過去のものになってしまいました。

しかしこれ以降、Seeburgの33回転7インチ専用ジュークボックスのために、各レコード会社は1枚に6曲程度収録された「Little LP」を作り続けていくことになります。アルバム作品のプロモーション用として、多くの曲が入った33回転7インチというのはジュークボックスにとってはメリットのあるものだったということでしょう。Seeburgの奮闘がなければ、33回転7インチは完全に消えてしまっていたかもしれません。

そして最初の話に戻りますが…再度業界は市場が選択し続けた、45回転でのシングル盤のステレオ化を目指します。この間何年かでFM局の増加、ポップスでも12インチLP=アルバムのステレオ化などが進み、購入者のリスニング環境などの障壁は少なくなっていました。渋るAM局にはモノミックスを収録したプロモ盤を出し続けるというところで落とし所をつけ、1968年より、ようやく全体的に45回転シングルがステレオ化され始めました。当初のトライから丸10年の廻り道、でした。



■その2  日本では

長らくお待たせしました、今回の本題です。日本での4曲入り33回転7インチ・いわゆるコンパクト盤について、見ていきましょう。


●日本初の33回転7インチレコード

日本でマイクログルーヴのレコードが発売されたのは33 1/3回転盤が51年、45回転盤が54年。既に米国で回転数戦争は終わっており、日本コロムビアも特に50年代初頭から33回転の7インチを発売することはなかったようです。12インチの33回転LP、7インチの45回転シングル、7インチの45回転EPが共存していました(さらには地味ながら16 2/3回転のマイクログルーヴ盤というのもありましたので、実は旧式78回転盤とあわせると4スピード存在していました)。

平和な時代が続いた1958年、ひっそりと日本ディスクがおそらく日本初の33回転7インチレコード、6曲入りをリリースしています。

7DLP-1(7"LP) ¥800 パリー・ニューヨーク
いつの日か君に逢わん、詩人の魂、パリ・カナイユ
美しきコペンハーゲン、アイ・ビリーヴ、スウエーデン・ラプソデイ
仏のル・アープ港から、ニユーヨーク迄の間の大西洋航路の豪華船“リベルデ”号に乗り込んだ、ジエーリー・メンゴ、フランク・プーセルその他のバンドがフランスとアメリカを想わせる曲を美しくきかせる33回転の7"LP
『デュクレテー・トムソン デイスコフイル・フランセー オアゾーリール Nippon Mercury 日本ディスク株式会社 1958・1 正月新譜拔粹目録』日本ディスク株式会社、1958

同社はこの頃8インチLPのリリース(「月報 日本マーキュリー 1950年代」https://muuseo.com/chirolin_band/items/12などユニークなトライをいくつか行っており、33回転7インチもその一環のようです。日本ディスクがこのようなトライを続けた理由は、社長André Calabuigの方針によるものだったと推測されます。

(引用者注:フランスでのレコード事情について)レコードの値段についてはよく質問されます。一枚一枚の値段は日本より少し高いのですが、生活水準が日本より高い様に思いますので、それ程購入にさしつかえる事はない様です。それに12吋LPにプレスされた曲の一部分を抜粋して、7吋LPにして出していますので、手ごろな値段で求められ、又自分の好きな曲目だけを楽しめます。日本ではまだこの7吋LPが普及されていませんが、日本ディスクではこの企画をしていますので良いプレスで数多くの名曲を、求めやすいお値段で出まわるのも近い事と思います。
アンドレ・キャラビ「外・人界 フランス人は…『レコード藝術 1957年4月号』音楽之友社、1957)

45catなどで本国Ducretet-Thomsonのディスコグラフィーを見ると、50年代後半は45回転シングル、4曲入りもEPのみで、33回転の7インチは出ている形跡がありません。1952年には出ていたようですが…。ほか仏Columbia、仏RCA Victorなどを見ても7インチは45回転盤ばかりのようです。もちろん前回のとおり、当時の日本でもEPはそれなりに出ていましたので、この辺はCalabuigがうまいこと話を盛ったのか、それともポップス畑の事情に疎かったのか、どちらかでしょうか。

日本ディスクの33回転7インチは大きい会社ではなかったこと、また月報でもこの一枚しか確認できない程度の規模のリリースだったようで、このチャレンジは歴史の中に埋もれてしまったようです。

Calabuigはこの数年後、朝日新聞社が仏Sonopresseと提携した朝日ソノプレス(のちの朝日ソノラマ)創立時の社長に就任。リーズナブルなメディアとして日本人にも非常に身近な存在となる、ソノシートの普及に大きく関わります。


●ステレオ・セブンの日本上陸

さてこれ以降は前回も登場した日本レコード協会の機関紙『Record』(現:『The Record』)の海外情報「世界の話題」、国内情報「News」コーナーを主に参照していきたいと思います。

59年9月号「世界の話題」コーナーでは、米ColumbiaのStereo Seven発売についての記事があります。

米国コロムビアの「Streo Seven」
 米国コロムビアは七月中旬マイアミのアメリカーナ・ホテルに於いて開催された一九五九年度販売会議で、三十三回ステレオ七吋レコードを発表した。四五シングルで発売する内の特種の曲目だけを三十三回ステレオで出す。これを「Streo Seven」と命名した。
 これは大人を対象に発売するもので、大部分の大人は四五シングルを使用するのをやめている。これはスピンドルにアダプター取り付けの面倒さがあるからである。
(略)
 この「ステレオ・セヴン」に関する他の諸会社の批評は賛否まち〳〵で纏まらない。反対者達は「何のために出すのだ。また商売に混乱を引き起こすではないか。四五シングルのステレオ盤があるではないか」という。併し、熱心に賛成する諸会社もあり、或る大会社は、「これは素晴らしい考えだ。どうして我が社が思いつかなかったのだろう」と言ってもいる。
 然し、現在のところどの会社も三十三回ステレオ七吋を出そうとするものはなく、コロムビアの売行をよく見極めて決心をつけようとしている。
『Record 1959年9月号』日本蓄音機レコード協会、1959) ※引用者注:Steroの綴りは原文ママ

まだ海の向こうの小さな動きかと思いきや、先のBillboard紙の記事にもあったとおり、1960年1月、日本コロムビアはStereo Sevenを日本においても発売開始します。1960年1月5日発行の月報で1ページが設けられています。

1960年レコード界の寵児!
STEREO SEVEN ¥400 <1月10日発売>
コロムビア33 1/3rpmステレオ・7登場!
LPファンがそのままの回転で手軽に楽しめる17cmのステレオ・シングル盤。
『レコード月報 コロムビア M-G-M エピック ウェストミンスター ヴェガ・ニクサ 1960 2』日本コロムビア株式会社 レコード営業部、1960)

初回発売は以下の5枚、4曲入りEPの代用品ではなく、あくまで45回転シングル盤に代わるものとしての、片面1曲ずつの収録でした。

・LLS-1「The Battle Of New Orleans / All For The Love Of A Girl」Johnny Horton
・LLS-2「Love Is A Many-Splendored Thing / Flirtibird」Duke Ellington & His Orch.
・LLS-3「Volare / I Love Paris」The Kirby Stone Four
・LLS-4「Smile / You Can't Love Em All」Tony Bennett
・LLS-5「Goodnight Irene / On Top Of Old Smoky」Micth Miller & His Orch.

こちらは第一回発売のうちのLLS-2。レーベルやカンパニースリーブのデザインは米国ColumbiaのStereo Sevenを踏襲し、細部のみ変えてあるようです。

ライナーには「ステレオ・レコード界にセンセイショナルな話題を提供したステレオ・セブン」とあります。


●「米国で好調な」33回転7インチ

『Record 60年4月号』の「世界の話題」コーナーで、再度Stereo Sevenが登場します。好調なうえに、45回転シングルは消えゆくのではという業者のコメントまで載っています。

ステレオ・セブンのその後の売行
 昨年七月米国コロムビアが発売した三十三回転ステレオ七吋は、その後徐々にレコード会社ならびにジュークボックス設置店主達の興味の的になりつつある。特に最近のように四五回シングル売行が低下し始めている際においてである。或る業者は、四五回シングルは間もなく消え失せるのではないかと言っている。
『Record 1960年4月号』日本蓄音機レコード協会、1960)

いっぽう日本では、まだまだ45回転EPの可能性を広げる試みが続けられていました。『Record 60年5月号』の国内情報「News」コーナーでは、日本ビクターがさらに曲数を増やしたEPをリリースするとの記事が掲載されています。

ビクターから六曲入りEP JETシリーズ発売
普通EPは両面で四曲録音されているがビクターレコードではEPの収録時間を最大限に活用し六曲収録のキングサイズEPを制作し“スーパー・ドーナッツ・ジェット・シリーズ”として6月新譜から発売する。
価格は一枚六百円という徳用版。
『Record 1960年5月号』日本蓄音機レコード協会、1960)

日本ビクターのJETナンバーはその後2曲入りのシングル盤にも使用されることになりますが、当初は6曲入りEPの番号だったようです。JET-2が45catに掲載されています(余談ですが、このChantelsのアルバム・ジャケット、ジュークボックスの写真の流用もひょっとしてこのキングサイズEPが始まりでしょうか?)。

『Record 60年10月号』の「世界の話題」、モノラルでも33回転シングルが出る・キャピトルも参入するという記事で、またしても海外での33回転シングルの好調さが伝えられます。

モノラル七吋三三回転盤
 昨年夏発売したステレオ・セヴンの成功に引続き、米国コロムビアは今回四五シングルと同時にモノラル三三回盤を発売し始めた。同一ポピュラー曲を二つの速度で発売していく方針である。小売店側も、配給者側も喜んでこれを迎えていると営業部長ガラハー氏が語っている。
(略)
 キャピトルも、この例にならい特定の曲だけ、四五及び三三回七吋で発売することを決定し、他の数社もこれに従うことになるらしい。
『Record 1960年10月号』日本蓄音機レコード協会、1960)


●ステレオ・セブンの方針転換

『Record 60年10月号』では同時に「News」で、日本のコロムビアが4曲入りのステレオ・セブンをリリースすると報じられています。

コロムビア「ステレオ7」五百円盤発売
コロムビアでは新たに一枚四曲入りのステレオ・セブン五〇〇円盤シリーズ(17cmLP)を設け第一回新譜として次の五枚を十一月二十日発売する。
『Record 1960年10月号』日本蓄音機レコード協会、1960)

コロムビアの月報では60年11月1日発行の『レコード月報 '60/12』(日本コロムビア株式会社 レコード営業部、1960)において、「4曲入ったステレオ7 17cmLP」の題で、4曲入りステレオ・セブンが5枚リリースされる旨記載されています。EPに変わるものとしての「17cmLP」、33回転盤です。初回発売は以下の5枚でした。

・LSS-1「La Cumparsita / Jalousie / Besame Mucho / Miami Beach Rhumba」Xavier Cugat & His Orch.
・LSS-2「Quien Sera / La Malagueña / Me Voy Pa'l Pueblo / Carilu」Trio Los Panchos
・LSS-3「Love Is A Many-Splendored Thing / Third Man Theme / Around The World In 80 Days / An Affair To Remember」Frank De Vol & His Orch.
・LSS-4「La Cumparsa / Taboo / Quierme Mucho / Para Vigo Me Voy」Percy Faith & His Orch.
・LSS-5「Night And Day / Check To Cheek / Over The Rainbow / Three Coins In The Fountain」Doris Day

こちらが4曲入り第一弾のLSS-1。シングルのLLSナンバーから心機一転、レーベルやスリーブのデザインも変わっています。このデザインは米Columbiaのモノラル33回転シングルに準じているようです。

LLSナンバーにはあった、録音特性RIAAについての記載がなくなっています。

いっぽう気になるのは片面1曲入り、シングルのステレオ・セブンなのですが、コロムビア年鑑によると60年8月発売のLLS-17、Andre Kastelanetz & His Orch.「Dark Eyes / Two Guitars」を最後にすでにリリースが止まっています。つまり45回転シングルの代替としてのステレオ・セブンをいったん打ち止めにし、改めて4曲入りEPの代替としてステレオ・セブンを再スタートさせたような状況です。

面白いのが、米ColumbiaのStereo Sevenはこの時点ではまだ片面1曲ずつのシングルのみで、片面に複数曲が入るのは6263年のことのようです。イエローのレーベル・デザイン等もColumbiaのモノラル33回転盤の流用で、Stereo Sevenのものではありません。タイミングとしては、Capitolも参入し、ステレオだけでなくモノラルの33回転シングルを開始、33回転統一の動きが見られ始めた頃です。RCA Victorの参入も間近で、CapitolやRCA Victorは33 Doubleを当初よりリリースしているようですので、この辺の情報を先取りしてヒントにしたのか、それとも日本コロムビア独自の判断だったのか…この辺は興味深いところです。

今回この背景については見つけることはできませんでしたが、33回転シングルを打ち止めにしてしまうということは、単純に8ヶ月リリースしてみて、方針転換せざるを得ないような売れ行きだったという可能性もあります。いずれにせよこの判断・発売スタイルが、後々日本のEP、4曲入り7インチ界に大きな影響を与えることになるようです。


●他社の33回転4曲入り7インチ参入

年が明けて『Record 61年1月号』の「News」、33回転7インチにコロムビア以外の会社が参入するニュースが登場します。テイチクが国内製作ものの33回転7インチをリリースするという内容です。

テイチク、33回転17cmステレオ発売
テイチクは2月新譜から33回転17cmステレオを発売する。価格は四〇〇円、第一回発売は次のとおり。▶︎戦友、佐渡おけさ<アイ・ジョージ>▶︎銀座の恋の物語<ブルー・キャナリーズ>君忘れじのブルース<クリスタル・シスターズ>北上夜曲<トリオ・こいざんす>十三夜<ふりそで・シスターズ>▶︎独立騎兵隊マーチ/峠の幌馬車/コーヒー・ルンバ/九月になれば<バッキー白片とアロハハワイアンズ>SS-一〜三。
『Record 1961年1月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

SS-1は片面1曲ずつとシングルっぽいですが、「戦友」は7分45秒の収録なので、これのみ特例と思われます。テイチクの年鑑『テイチク・デッカ・ユニオン・フォニット番号順総目録 : 営業用 1963』テイチク株式会社、1962)を見ても、SS-2以降はすべて4曲入りの「Stereo LP」でした。あくまで4曲入りEPに相当するものを33回転でリリースし始めた、というところです。


●日本のレコード業界の方針

『Record 61年2-3月号』ではコンパクト盤史的に重要な情報が掲載された一冊です。まずいつもの「世界の話題」では、米RCA VictorのCompact 33のニュースが飛び込みます。

RCAのCOMPACT33とレコード速度の一本化
 米国コロムビアが一年半前、十年目に再発売したSTEREO SEVENはその後好調の波に乗り切り、シーバーグもこの小型三三回盤演奏可能のジュークボックスを市販し始め、キャピトル、デッカとこれに続き、現在米国では二十二のレコード会社が発売しつつある。四五回盤の創始社RCAビクターは永らくその売行状況を注視していたが、遂に一九六一年一月一挙二十五枚の七吋三三回盤をCOMPACT33と銘打って発売した。これは世界的に有名な歯ブラシDr. West's Toothburshと提携して行なわれる。(この歯ブラシは、現在は知らないが、その昔は大阪製で神戸の米人商社から米国へ輸入されていた事実を筆者は知っている)
 この新発売盤は二種類あり、COMPACT 33 SINGLEは片面一曲づつで小売値段九八仙、COMPACT 33 DOUBLEは片面二曲づつで一弗四九仙となっている。そして、四五版と同時発売される。
 大会社がすべて三三回七吋を取扱うようになれば、自然考えられてくるのはレコード速度の一本化(現在は四速度)である。この点に関して、各社幹部は最深の注意を払って成り行きを見ているが、ビクターは各放送局につき三三回と四五回といずれが便利であるかを調査しつつあり、同時に小売店側の在庫状態をも検討し最も苦痛なく一本化できる方法を考えている。もっともこの一本化迄には相当の時間を必要とすることであろう。又ビクターは三回転のみの安価蓄音機を発売する予定である。
『Record 1961年2-3月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

時間はかかるだろうとしながらも、米国では回転数統一にむけ各社(22社!)が動いており、33回転7インチ自体も好調であるという印象を与える記事になっています。

さて同誌では、協会誌ということでレコード会社各社の社員、さらに日本オーディオ協会の理事らの座談会が掲載されています。お題は「演奏機に関係するクレームの問題点」。プレーヤーに関する苦情について、あれこれ意見交換が行なわれています。大きくは3点話題があり、針飛びの問題、針自体の問題、そして回転数、です。プレーヤーのスピード選択肢に78回転・16回転はもう不要ではないかという話が続くのですが、その中でこんな発言があります。

浅野勇(オーディオ協会理事)「スピードの問題をつきつめて行きますと45あたりも無意味だと思うんです、7吋だって33でいいと思いますね。」
和田正三郎(キングレコード技術課長)「アメリカでは、そういう趨勢にありますよ。1スピードですみますし。」
(略)
白石勇磨(日本ビクター録音技術課長)「オプショナルセンター(アダプターのいらないもの)の将来はどうでしょうか。45はみんなアレになるとか……。」
池田圭(オーディオ協会理事)「どっちがいいんですか、ドーナツとオプショナルセンターでは。ビクターさん以外はみんなドーナツなんですね。」
和田「別にドーナツにして大きくする理由はもうないんです。」
白石「アダプターを無くしたりする心配もないわけです。」
池田「そうするとみんな小さくするというようなことではどうなのですか。」
和田「それはもうできてるでしょう。33で7吋を出せばそれは解決できますよ。会社はみんな33にして行こうという傾向があるのですから。
岡原勝(オーディオ協会理事・岡原研究所)「あるようですね。
池田「そうすると45本来の意義からはずれることになりますね。」
和田「そうですよ。最初ビクターが45を発明したときの理論的根拠はくずされるわけです。しかしEPだとか、その理論を超えた長い時間のカッティングを既にやっているので、要は耳できいてどの程度の歪までききわけられるかによるので、その辺にふんぎりをつける根拠がありそうです。」
(「座談会 演奏機に関係するクレームの問題点『Record 1961年2-3月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

さらっと話していますがキングレコードの技術課長の発言にあるように、この時すでに日本のレコード会社各社は、米国の趨勢を横目で見ながら33回転に統一する流れに意識的に足を踏み入れていた、ということがわかります。となると、数ヶ月前にテイチクが4曲入りの「Stereo LP」をリリース開始したのは、この流れを踏まえたものでしょう。

『初歩のラジオ 1961年3月号』(誠文堂新光社、1961)でも海外トピックス欄に「33 1/3回転の“新シングル盤”」という記事があり、RCA VictorのCompact 33についての情報があります。45回転盤はかつての78回転盤のように影が薄くなっていくのではと予想される…と締められています。


●日本ビクターの33回転4曲入り7インチ参入

そして『Record 61年5月号』の「News」では、日本のビクターもRCA VictorのCompact 33 Doubleの日本盤を発売開始するとの記事があります。直近でクラシックはすでに33回転7インチをリリース開始していたようです。

ビクター17cmLPに新シリーズ「コンパクト33ダブル」「33E-100番シリーズ」「ミニLP」
ビクターは17cmLP「スーパー・ボックス・シリーズ」に続いて、六月、七月新譜からステレオ・モノラルに「コンパクト33ダブル」「33E-100番シリーズ」「ミニLP」を新設、発売することとなった。
『Record 1961年5月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

ビクターからのモノラルコンパクト33ダブルの第一弾はElvis Presley『Flaming Star』でした。レーベルやスリーブはRCA VictorのCompact 33 Doubleにに近いデザインです。ただし、コロムビアのステレオ・セブンのような商品説明は特にありません。

やはり前年のコロムビアの判断を踏まえているのか、4曲入りEPに相当するコンパクト33ダブルのみで、米国のようにCompact 33 Singleはリリースされず、この後もリリースされることはありませんでした。


●コンパクト盤と入れ替わり、消えゆくEP

『Record 61年7月号』の「News」は、1年前には6曲入りEPということでニュースとなっていた日本ビクターのジェット・シリーズがステレオになると同時に33回転盤に切り替わるとの報です。

ビクター新企画 ステレオ・ジェット・シリーズ
ビクターは従来ワールド・グループにスーパー・ドーナッツ・ジェット・シリーズを設けEP45回転<六曲入り一枚六〇〇円>を発売しているが、7月新譜から17cmLPステレオによる「ステレオ・ジェット・シリーズ」を設け、一枚五〇〇円で発売することとなった。
『Record 1961年7月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

このようにこの時期、EPは33回転のコンパクト盤に切り替えられることで徐々に絶滅していったようです。

『Record 61年11-12月号』の「世界の話題」では、米国での45回転シングルの売上低下の原因を解説した記事があります。ここで33回転7インチについても触れられていますが、効果が出ていない、と、これまでの勢いがありません。

四五シングル売上低下の原因
 シングル売上げ増進の一策として、七吋三三回盤、ワーナーのシングル片面二曲録音のPlus2等が発売されているが、未だそれ程の効果は認められていない。
『Record 1961年7月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

これ以降、米国でも33回転7インチはジュークボックス界でのみ生きながらえることになります。その後は『Record』でも、コンパクト盤についての記事は見当たりませんでした。

そもそもの話になりますが、今回調べてみて、コンパクト盤についての記事自体数える程度しか見当たりません。特集記事があっても音質については煮え切らない、というか曖昧な記載しかなかったのは推して知るべし、というところでしょうか。

 ドーナツがはじめて発売されたとき、それが三十三回転よりもスピードの速い四十五回転であることとアームとの対角関係で最も合理的な大きさであることを理由として音質の良さをライバルのLPに対して宣言したことからすると、LPなみに三十三回転のステレオとなったダブル盤が果して音質的にLP以上という往年の誇りを維持しているのか、或いは別の大きな目的のまてにその点では数歩後退したのか、私には責任ある回答はできないが、しかし察するところ後者であったとしてもシート(引用者注:ソノシート)とは同日には論じられないだろう。
藁科雅美「ダブル盤礼賛」『レコード藝術 1964年5月号』音楽之友社、1964

日本ではその後回転数が統一されることもなく、かといってEPが復活するわけでもなく、7インチシングルは45回転・4曲入り7インチ=コンパクト盤は33回転、という暗黙のルールが業界で固定化されます。このルールは特にひっくり返ることもなく、CD時代が到来するまで継続するのでした。


●日本におけるシングルのステレオ化

そういえば米国で発端となったステレオシングルの問題、日本では早く45回転シングルのステレオ化が進みました。国内制作でいうとコロムビアの美空ひばりが63年、ビクターの橋幸夫が64年にシングルのレギュラーリリースをステレオに切り替えていますので、シングル盤のステレオ化は欧米に先駆けてかなり早く進んでいます。供給側の対応はスムーズに終わり、購入者側、ラジオ局もすんなり?かどうか不明ですが、状況を見る限り受け入れていたと思われます。

コンパクト盤もそうなのですが、米国のように購入者に選択肢を与える(33回転シングルが出ていた間、米各社は一貫して45回転シングルは通常どおりリリースし続けていました)わけでもなく、また購入者側もさほど拘りがなければこのような流れになるということでしょうか。


●33回転7インチレコードの呼称

ちなみに今回「コンパクト盤」とタイトルにしておいてなんなのですが、この固有名詞、リアルタイムの文献を見る限り必ずしも一般的ではなく、「コンパクト盤」以外に「ダブル盤」(『レコード藝術 1964年5月号』音楽之友社、1964)「ミニLP」『Music Monthly 1961年6月号』月刊ミュジック社、1961)、「17cmLP」など実に多様です。もともと「EP」ですら違う使われ方になってしまった日本ですが、4曲入り7インチの立場の緩さがうかがえます。

「ダブル盤」というのは「シングル盤」に対して片面2曲という意味と思われ、既に日本でも『Record 1957年7月号』(日本蓄音機レコード協会、1957)で4曲入りEPを指す言葉として既に登場しています。そのため、もともとは特に33回転に特化した名称ではありません。RCA Victorも「Compact 33 Single」「Compact 33 Double」のシリーズ名で区別していました。先の『レコード藝術 1964年5月号』では、「ダブル盤」の語を使っていますが、記事内容から呼称が統一されていない、というか筆者もそもそもその語を使っていなかったのがわかります。

 ダブル盤という、私がうかつにもつい最近、本誌の編集者からはじめてその名を教わったレコードが、そのコンパクトである。Compact…目のつんだ、ぎっしり詰った…つまり三十三回転の十七センチのレコードのことであるが、念のためにレコード会社でもダブル盤という呼称を使っているかどうか訊ねてみると、ある社ではイエスと答え、ある社ではコンパクト・ダブルだと云い、またある社ではダブル盤という名前は音楽之友社の人たちの創造で、うちではコンパクトLPと呼んでいるというはなしだった。要するにダブル盤はまだレコード業界が公式に採用している統一名ではなく、名付け親は『レコード藝術』だというのが図星かもしれないが、字数も少なく、コンパクトの別の意味である簡潔という趣旨にも添った、たいへん巧い用語だと思う。それが普及すると、普通のLPや四十五回転のシングルやEPと区別するためにいちいち十七センチLPなどと書かなくても、ダブルの三文字で用が足りるようになるだろう。
藁科雅美「ダブル盤礼賛」『レコード藝術 1964年5月号』音楽之友社、1964

近年、日本で「コンパクト盤」の言葉が比較的使われているのは、おそらく後世もコレクターの多いBeatlesをリリースしていた東芝が「コンパクト7」「〇〇(レーベル名)コンパクト」のシリーズ名を使っており、CDがメインとなる80年代末までカタログに残り続けていたというのもあるかもしれません。コンパクトの語こそないものの、92年のリイシューでもまだ律儀に45回転ではなく33回転でリリースしています。

もともと米国でCompactの語を使っていたのがRCA VictorとCapitol、Libertyで、日本では配給していたビクターが「コンパクト盤」、東芝が「コンパクト7」「〇〇コンパクト」と使用していましたが、他のレーベルは特にコンパクトとも呼んでいなかったようです。



■その3  フランスでは・メキシコでは・アラスカへゆけば

ここからは参考程度に他国の状況をBillboard紙に頼って探ってみましょう。

欧州ではそもそも33回転7インチなどは試験的リリースすらあったのかどうか…というイメージでしたが、61年3月のBillboard、スペインでのRCAの「Compact」リリースに関する記事がありました。
Spanish Newsnotes: Disk Biz

確かに45catにも掲載されており、4曲入りのCompact 33 DoubleがLPCナンバーで61年に何枚かリリースされていますが、62年以降リリースされた形跡がありません(EPのみのリリースに戻っています)。早々に諦めたと言っていいような状況です。他国でもリリースされた形跡は見当たらず、基本的に欧州のレコード会社は米国の動きを冷静に見ていた(見てるだけ)というところでしょうか。

英国やフランス・イタリアなどにおいては、45回転EPはLP=アルバムからの抜粋盤としての重要な地位を確保し、60年代においてもリリースが継続されました。このあたり、4曲入り7インチの需要自体が無くなった米国とは異なる点です。

オセアニアではどうでしょう。61年6月、ニュージーランドでCompact 33 Double第一弾、Elvis Presleyの「Flaming Star」がヒットしているとの記載があります。
Harry Miller Plans Jazz Pack

「Flaming Star」=『Elvis By Reqest』は日本ビクターのコンパクト33ダブル第一弾と同じです。しかし、日本と異なりニュージーランドでは、これ以外のCompact 33のリリースがほとんどなく、その後もEPばかり、シングルももちろん45回転のままだったようです。

45catの『Elvis By Reqest』を見ると他にカナダ、南アフリカ盤でもCompact 33 Doubleで出ていることがわかります。そこでRCA( Victor)のそれぞれのリリース状況を覗いてみると、カナダ南アフリカも数枚出してその後すぐ45回転EPに戻るという、スペイン、ニュージーランドと同じ流れが繰り広げられていたようです。

ということで欧州、オセアニア、北米、アフリカなどでは33回転7インチは4曲入りを試験的にリリースしてみたものの根付かず、45回転が7インチ盤の回転数の座を譲ることはありませんでした。米国とほぼ同じ流れと言っていいでしょう。

それでは…南米についてはどうでしょうか。

Columbia Sales Climb South of the Border
これによると62年初頭、南米では以下の状況だったようです。
アルゼンチンでは60年の33回転シングル発売当時、45回転盤はまだ市民権を得ていなかったため、33回転シングルが根付いた
ブラジルやウルグアイでも33回転シングルが好調
・メキシコでは33回転シングルは未リリース、チリでは全く広がりを見せていない
・アルゼンチンやブラジルでは45回転ではなく、33回転EP(Billboardもこの頃はこんな呼び方してるんですね)のリリースが予定されている

ここでまたまた45catを見ますと、アルゼンチン(ColumbiaCBSRCA Victor)は60年頃〜70年代半ばまで、ブラジル(CBSRCA Victor)・ウルグアイ(ColumbiaCBSRCA Victor)も80年頃もしくはそれ以降もでしょうか?7インチはシングルも4曲入りも33回転「のみ」でリリースされています。

他方、すでに45回転が根付いていたメキシコ(ColumbiaCBSRCA Victor)、チリ(CBSRCA Victor)では確かに記事のとおり45回転盤のみがリリースされているのがわかります。

60年代以降、南米数カ国の7インチが33回転でリリースされているのは謎でしたが、アルゼンチンで60年にリリースが開始されたということは、米国の33回転統一ムーブメントの影響を受けていると言ってよいタイミングです(それ以前は実は45回転で普通に出てるようですし、RCAでは61年以降「33 Simple」「33 LP」に切り替わっています)。おそらく、定着した国では米国の動きを見て試験的に導入しうまく定着した・もしくは日本のコンパクト盤のように有無を言わさず33回転オンリーに発売を切り替えたのではないでしょうか。そうするとその後アルゼンチンなどで70年代以降、45回転に再び切り替わる契機も非常に気になるところですが、今回はここまでとしたいと思います。



■おわりに :世界は1分間に45回転で

ということで、どこにも明確に記録がない(私が見つけられなかっただけかもしれませんが)日本のコンパクト盤の成立経緯、軽い気持ちで調べていったのですが思いもよらないワールドワイドでグローバルな話にまで行き着いてしまいました。単純に、なぜ日本の4曲入り7インチは45回転EPではなく、12インチLPの音質的に不利な部分になってしまうコンパクト盤で出しているんだろう、という長年うすらぼんやり感じていた疑問をきれいにしようとしただけだったのですが…予想以上に知らない歴史があったようです。45回転7インチレコードファンの私にとっては、まさか60年代初頭にその存在を脅かす動きがあったとは驚きを禁じ得ませんでした。世が世なら、60年代以降、世界は1分間に33回転でのみ廻っていたのかもしれません。

結局、33回転・45回転と2種の回転数が共存するという状況は、70年以上経った今日も続いています。回転数戦争で出た結論は、業界が改めて整理しようとしても崩れるものではなかったということになり、そう考えるとこの共存状況はなかなか面白いものです。

実はこのあとも12インチの45回転盤が日本では意外と早く、67年にメジャー数社から登場(これは単純に音質を重視した試みのようです)していったんフェイドアウトしていたり、レコードの新しいスタイルについては細々したチャレンジがいろいろ行なわれているようです。そのあたりもそのうち調べてみたいところです。

米国ではたった3年弱で潰えた市販用33回転7インチの挑戦、米国でこそ息絶えましたが、その種は遠く離れた南米数カ国と日本でのみ花開き、静かに、生きながらえていたのでした…ということで、今回の記事を締めたいと思います。

2023年5月5日金曜日

1988 (2) :“みんなのうた”

サザンオールスターズのレコードデビュー日は1978年6月25日。シングル「勝手にシンドバッド」がビクター音楽産業のinvitationからリリースされた日である。

1985年末以降、サザンはバンドとしては開店休業状態で、これまで見てきたとおり各メンバーのソロ活動のみが行われていた。当初、ソロ活動期間は86年の1年間の計画で始められたようだが、翌87年も桑田の海外レコーディング、原由子の第二子産休&育休、桑田のソロレコーディングがあり、サザンの休業状態は継続していた(なんとか6月にベスト盤『Ballade 2 ‘83-’86』がCD・カセットオンリーでリリースされる程度であった)。

桑田のソロアルバムは88年1月1日リリース予定がレコーディングの遅延で後ろに倒れ、レコーディング完了は5月初頭。本来であればアルバムリリースとともにソロでツアーを行う…というのがルーティーンだが、そうはならなかった。

1988年6月25日はサザンデビュー10周年。内外から活動再開が待たれていたサザンに、デビュー10周年というのは、格好の復帰タイミングだったのだ。88年の夏は、サザンの復活ツアーが行われることになる。それは、桑田ソロのツアーを差し置いてでもやる需要が内外にあったということだろう。

とはいえ前述の桑田ソロの録音完了遅延により、スケジュール的にはサザンはシングル1枚分の制作期間があるかないかという状況。スイッチで5月11日よりサザンのレコーディングが開始された「バックステージ・パス 1988年7月号」シンコーミュージック、1988。エンジニアの今井邦彦・A&R高垣健が桑田ソロマスタリングやり直しのため再渡米したのは、サザンのレコーディングの合間であった(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019)。

今井によると、サザンのシングル曲は作詞作業前の段階でタイトルだけは決まっていたそうだ。
今井邦彦「「みんなのうた」で3年ぶりにスタジオにメンバーが集まりました。この曲で覚えているのは、桑田さんはまだ歌詞がなかった時点で、タイトルだけは「これで行く」と決めていたこと。」
(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019
今井「最初このタイトルを聴いた時はびっくりしましたけどね(笑)。」
(FM COCOLO『J-POP レジェンドフォーラム』7月はサザンオールスターズを特集!3代目エンジニア今井邦彦をゲストに迎えた番組トークvol.3を公開


***


桑田ソロのツアーは叶うことはなかったが、サザンの復活イベントの中で桑田ソロコーナーを設けることになる。

— だから、そういった意味で今度はサザンに戻っていくわけなんですが、そこでの行き帰りというのは自分の中では全然苦痛ではなかったですか。
「ちょっと苦痛でしたよ、やっぱり。だから復活祭の時はバンドを(サザンとソロという形で)二つやったでしょう。で、やってみて『何やってんだろうなあ』と俺は思ったんですけどね。(略)」
— はははは。あの時は例えばサザン単体でやるっていうことは考えられなかった?
「うん、アルバムが、新曲がなかったっていうのはある。まあ”みんなのうた”はあったけど。それとやっぱり、ソロ・プロジェクトでほんとは俺コンサート・ツアー廻りたかったんですね、じつは。だけど、サザンオールスターズは開店休業状態がもう何年続いているかっていうのがあったし。そこでまあ、ソロ・アルバムみたいなものもちょこちょこっと交えながら  それをサザンで演奏するのもおかしいしね  だから『さあ、これから行きますよ。復活ですよ』みたいなことを並べちゃおう!みたいな。まことにラフな、野蛮な発想なんだけど。もうそろそろ内部的にも活動を始めないとあんまりだなというのもありましたしね
— その辺の大人の判断ができちゃうあたりがまた桑田佳祐の
「いや、大人の判断じゃないんですけどね」
— だけど、本当に子供のエゴを押し通すんだったら「サザンはもうちょっと休もうよ」って言うじゃないですか。
「だって客を相手にしてやってることだからそれはどっかツラいじゃん」
— はははは。
「『あれ?』なんてなりながら『どうも受けてないな』とか、そういうところに陥るのはイヤだから」
— はははは。一貫してその辺はスケベなんだよなあ。
「一貫してスケベ(笑)」
— いいことですけどね。
「そうですかねえ?でも、一貫して気が小さいのかもしんないけど。だからもう時期がテンパってて、開店休業状態が長すぎるぞコールがあって。もう『またソロのコンサートやるの?』って言われるのもヤだし、こっちはやりたいしね。需要はないけど」
(「季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994」ロッキング・オン、1994)

桑田ソロバンドは以下のメンバーが召集された。小林武史・藤井丈司の両名はパンフにはプロデューサーともクレジットされており、「キーボード・スペシャル 1988年10月号」(立東社、1988)によると、小林の仕切りでバンドのリハーサルが行われたようだ。

小林武史:Keyboard, Producer
藤井丈司:Producer
古田たかし:Drums
樋沢達彦:Bass
原田末秋:Guitar
矢代恒彦:Keyboard
今野多久郎:Percussion
包国充:Sax
本田義博(1・3・5):Chorus
前田康美:Chorus


***


イベントを控えた慌ただしいスケジュールの中、突貫工事のようにサザンのレコーディングも開始されていく。

— 明日からサザンのシングルのレコーディングだそうですけど、どういう曲なんですか。
「まだ作ってないの」
— (笑)。
「あーねえ……自分で言うのもあれだけど、僕は結構色んなしがらみの中で生きてましてね(笑)。スタッフ・ワークもある種やらなくちゃいけない時もあるし、曲作んなくちゃいけないし歌うたわなくちゃいけないし……いろいろ裏方もしなくちゃいけないでしょう。そういう意味では、うたう電通だね、本当に。ミーティングを仕切りレコーディングを仕切り、私生活を仕切られ(笑)、これは世に出す問題じゃあないんですけど。」
(略)
「今度のシングルなんか
—できてませんけど(笑)、あたかもできたように言うとね—視点がもう大ズレ、見てる範囲が狭い狭い。やっぱりサザンはですね、避暑地を捨ててですね、レジャー、バカンスを捨てて、そう!サザンはバケーションを捨てます。バケーションを捨てて都会に上陸しようと思ってるの。スキー場も海も捨ててですね、もうリゾートしないの。本当の日常生活にもどっちゃおうかなって言う気がしてんですよね。
(略)
— (笑)すごいですね。できてないのに言っていいんですか。
「(笑)できてないから言えるんだけど。ほんと、ボキャブラリー一切変えますから」
— 楽しそうですね。
「でもそれは、僕バンド活動としては夢だったですよね。僕らリトル・フィートのコピーしたりさ、E・クラプトンの真似したりしてずっときたでしょう。それがだんだんサザンのカラーっていうのができちゃったんだよね。だから、そうじゃないカラーっていうのを、最近私はね、ヒシヒシと感じるんです。」
(「ロッキング・オン・ジャパン 1988年7月号」ロッキング・オン、1988)

結局このバケーション、サザンのカラーを捨てて都会、日常生活に…というコンセプトは88年のシングルというより、翌89年1枚目のシングルでより明確な形で実現することになる。


***


シングルA面は歌詞より先にタイトルだけ決まっていたということだが、「みんなのうた」といえばおなじみNHKの子供向け長寿歌番組だ。番組ホームページによるコンセプトは以下のとおり。

みんなのうたって?
子どもたちに良質で健全なうたを聴いてもらおうと「みんなのうた」はNHKのテレビ・ラジオで放送されている5分間の音楽番組です。
(NHK みんなのうた 番組ホームページ https://www.nhk.or.jp/minna/about/

もちろん直近のソロとバンドの対比や、サザン復活を待っていたリスナーのための歌、などいくつかの意味があろうが、当時の桑田はこんな発言もしている。棘のあるコメントではあるが、良く言えば「良質で健全」、シンプルなポップスを提示したということだろう。

— 「みんなのうた」は、3曲分位の曲を1つにまとめたっていう位のカラフルなメロディですよね。
「あっ、それはあるかもしれない。あの「ジョンとヨーコのバラード」みたいのがいいと思ってたんですよ。ああいう自堕落で駄作的なものがいいなと。「GET BACK」とか「ジョンとヨーコのバラード」とか、結局イージーな曲作ってたでしょ。それは、それで良かったじゃないですか。
— あのシングルがとても駄作だなんて思えませんけど。こんなものができてしまいました、という感じですか。
「うん。サザンの場合は「みんなのうた」じゃないけど、なんか、バンドだからね、要するに責任転嫁の戦いだから、こんなこともやっちゃおうかな?っていうのもできるんですよね。だから、反則技ができるんです。そういう意味では、サザンは、“雑誌の編集”みたいだね。あれもこれもあり、相原コージもあり、どおくまんプロもあり、っていう感じでいきますから。」
— 雑誌のような、というのは面白いですね。
「要するに生命エネルギー体が6つあるから、例え曲が自堕落でも、作品を上回る力ってあるでしょ?それで作品が低くてもいいっていうんじゃいうんじゃ勿論ないけど、何かその、反則技、飛び道具が出せるんですよね。いろいろな風に組み合わせれるし、6人という形は。1対5にもなるし、3対3にもなるし。」
(「シンプジャーナル 1988年8月号」自由国民社、1988)

それに俺だって今までにこんな曲は作ったことがないくらい、良く言やあシンプル、悪く言やあ……なんで悪く言う必要があるんだ!? いや、こんな曲を作るのは高校のとき以来かもしれない。まるでビートルズで言えば「ゲット・バック」や「ジョンとヨーコのバラード」のようなチープなメロディが駄作量産への回帰を思わせるかまえで、ガキのように演ることだけをこよなく楽しんでいるといった感じだ。
(「ケースケランド K-SUKE LAND」『Playboy日本版 1988年8月号』集英社、1988)

おそらく細部まで時間をかけて作り込んだ桑田ソロとの対比が念頭にあっての挑発的なコメントが繰り広げられているが、実際に曲を改めて聴いてみると、歌い出しからコード進行も実にシンプルで、ゆえにポップ職人のクールさすら感じられる。シンプルなコード使いというところでかGeneral Public「Tenderness」に接近するパートを経て、サビは桑田ソロ「いつか何処かで」でも使用した5度が半音ずつ上がるコード進行を早々に使い回しながら、Beatles「What Goes On」(これもBeatlesの中では桑田が言及した系譜の曲ともいえよう)を圧縮したようなメロディが足早に過ぎ去るという展開。ヘソを曲げて書き殴った…のかどうかは不明だが、一筆書きだったのならばそれはそれでかなり華麗に着地したというべきだろう。


***


「バックステージ・パス 1988年7月号」(シンコーミュージック、1988)には、佐伯明によるサザンレコーディング初日のルポが掲載されている。初日はB面用の曲のデモ録音のため、バンドでセッションを行なったようだ。

プログラマーがいるとの記載から、おそらく藤井丈司は居合わせたと思われ、また写真にはバンドメンバーとともに矢代恒彦が参加しているのが確認できる。矢代はパール兄弟のセカンド『Pearltron』からキーボードとして参加し、のちの90年からはバンドに正式メンバーとして加入している。88年当時は他にS-Ken、ゴーバンズ、鈴木雅之、Kanなどの作品で名前を見つけることができる。サザンでは88年のライブでサザン・桑田ソロバンド両方に参加し、サザンのシングルB面に収録されたライブ音源ではクレジットがあるが、スタジオ音源ではクレジットされていない。しかし実際はこのようにこの時期、矢代はスタジオでのサポートも行っていたようだ。そしてこの記事=録音初日では、桑田ソロで十分な活躍を見せた小林武史の存在は確認できない。

リリースされたシングル盤に記載されたアレンジとプロデュース、外部ミュージシャンのクレジットは以下のとおり。

Arranged by Southern All Stars & Takeshi Kobayashi

Produced by Southern All Stars
Co-Produced by Takeshi Kobayashi  Takeshi Fujii  Kunihiko Imai

小林武史:Synthesizer, Keyboards
藤井丈司:Synthesizer Programming
松本治:Trombone

結果的に直前の桑田ソロのメンバー・プロデューサーとサザンの融合が図られており、なんといっても小林武史の名前が記載されたことがトピックだろう。

小林がいつから登場したのか定かではないが、編曲クレジットや後述の松田弘の証言などから、おそらく(シンセの)ストリングス・ブラスのアレンジ・演奏などを依頼するのにあわせ、7人目のメンバーとしてアレンジの参加やトリートメントを担当したのではないかと思われる。この先のサザンのレコーディングとはまた距離感の異なるスタイルだ。

溌剌としたA面に対し、ユニークな、サザンならではのファンクネスが提示されたのが先に着手されたB面「おいしいね〜傑作物語」である。

松田弘「カップリングの「おいしいね〜傑作物語」は、皆で好き勝手に演った曲。ドラムについて言えば『kamakura』でつかんだ手応えの延長線上にある。2-4の、普通の2拍4拍にスネアを入れたくないなっていうヒネた性格が出てる(笑)。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

松田が語っているとおり『kamakura』の延長ということで、基本的にタムが変則的にずっと鳴るユニークなリズムパターンだ。ベースは関口のフレーズを藤井のシンベに置き換えたと思われるが、この関口-藤井のコンビネーションも『kamakura』でよくあったスタイルであろう。イントロから桑田ソロでもよく聴こえた小林武史と思しきシンセ・サックスが鳴り響き、さらにこちらも桑田ソロで登場していた松本治の気怠いトロンボーンが曲のやるせなさを強調する。終盤、久々に聴こえる男声中心・バンドメンバーによるラララコーラスは「勝手にシンドバッド」のパロディにも思えるが、そこに「勝手にシンドバッド」の楽しさは無く、松本のトロンボーン同様やるせない雰囲気を表すのに一役買っている。

歌詞は、冒頭のエピソードを読めば説明不要かと思うが、この当時の桑田個人の本音、愚痴をつらつらと綴った内容だ。そのまま「This song's about my actions」と歌い、力無く笑う箇所まである。シングル盤が裏と表で1曲ずつという造りを活かした、「身体と心は裏おもて」な一枚に仕上がっているわけだ。「あやつり人形」というのはサザンの2008年「I Am Your Singer」のマイムパフォーマンスについて語った際にも言及されており、この間20年、桑田のサザンへの複雑な思いが見てとれるワードだ。

さて続いてA面曲、当初は完成形とは異なる方向を目指していたようである。

山下達郎「僕ね、今度のシングルすごい好きなんですよ、「みんなのうた」っての。あの「悲しい気持ち」ってのもすごい好きなんですよ。ここのとこすごい私好みなんですよ、メロディが。」
桑田「ありがとうございます、そうですか?あれですよね、あんまりこう、机の上で頑張って一生懸命作った曲ってのは見破られますね。ちょっとこう、まあいっか!っていうスタンスでやったほうが。
山下「これは割とさりげなく作った歌なんですか?
桑田「もうさりげない。久しぶりのシングルだしね、本当はね、この曲はね、例えばエレファントカシマシとかね、あの渋谷陽一の世界ですけど、ロッキングオンジャパンのあれとかね。例えばThe Rock Bandとかね、アナーキーとかね、そういうアレンジで始めたんですよ。ズガーッカカカカカ ガーッカカカカカ
山下「なるほど。」
桑田「歌詞もちょっと違ってたんですよ。学校の先公がとか歌ってたんですよ、みんなで『ガッコのセンコーが』って。」
山下「(笑)」
桑田「そしたらうちのスタッフが入ってきてね、『泉谷かと思った』って言われてね…で『やめようか』っつって。」
山下「(爆笑)」
桑田「それでまあ一応、軌道修正したという。」
(「Tokyo Radical Mystery Night」Tokyo FM, 1988.7.5.)

ということでエレカシ(デビュー直後)やアナーキー/Rock Band、泉谷しげるに寄り道したのちポップに生まれ変わった「みんなのうた」である。松田のコメントによると、この曲で小林がサザンにバランスよく関わっていったのがわかる。

松田「この曲の前に三年ほどブランクがあって、僕はKUWATA BANDをやってね。その後、桑田がソロ・アルバムを作って小林武史というアレンジャーを連れてきたんですよね。彼がイイ形でサザンに溶け込んだ。(略)小林君の力が大きかったと思う。うまい具合にサザンに新風を注ぎ込んでくれたよね。小林君が、サザンというバンドの良さは何だろう?って考えてくれたという…。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

この曲のドラムについては松田本人がYouTubeで解説しているが、何か特定のヒントがあったわけではなく松田が編み出したもののようだ。

松田「「みんなのうた」のドラミングは本当にオリジナルというか、何かをコピーしたわけじゃなく自分だけのビートになったのかなと思ってて。」
「ハットの裏打ちを左手でやったっていうところがね、すごく面白いのかなと思いますけどね。」
(『「みんなのうた」ドラム解説【松田弘のサザンビート #09】』サザンオールスターズ official YouTube channel、2022 https://www.youtube.com/watch?v=AaWPwnFwV2w

冒頭から鳴る4ビートのキック四つ打ちに裏打ちのハイハット、この曲のアレンジを支配しているのは実質松田のドラムなのではという感もある。2つ目のパートでスネアが2-4で入り、サビは若干スウィング的なノリが含められ心地よく駆け抜ける。個人的にはキックはもう少しミックスで目立たせてもよかったと思うが、印象的なドラムである。さらには冒頭からドラムにあわせて幾度となく4ビートになる関口のベース、初期サザンのラテンディスコ歌謡もので聴かれた16ビートに軽やかに乗るユニークなフレーズを思い起こさせ、原点回帰の要素ともいえる。

この2人のリズムに小林と思しきシンセのサックス、松田のハイハットにあわせて裏拍フレーズ、一瞬スカを掠めるような味付けもあり、高速スカジャズとはさすがに言い過ぎだが疾走感溢れるアレンジである。これまた桑田ソロでよく聴かれたグロッケンも途中から登場。シンセのストリングス、頭からずっと右で鳴っている琴とハープの間のようなシンセも疾走感、高揚感を出すのに大きく貢献している。とにかく正面からポップ感満載なのだ。

「熱い波が また揺れる」の部分は一瞬アカペラとなるが、B面同様バンドメンバー全員によるコーラスが聴ける。こちらは溌剌とした曲にマッチした雰囲気だ。全員での荒々しいコーラスも初期サザンではよく聴くことのできたもので、原点回帰を匂わせる(ベース・パートはこののちのサザンでもよく出てくる桑田の声のサンプリングっぽく聴こえるが)。


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というわけで生まれたシングル「みんなのうた c/w おいしいね〜傑作物語」だが、今回指摘したいのはその背景そのものに加え、動機や本音がどうであれ、この状況でこのようなポップネス溢れる名曲を生み出してしまうメロディ・メイカーとしての桑田、そしてそれに応えたバンド+小林武史によるトラックの組合せの素晴らしさである。桑田のポップ・ミュージック宣言を経ての感覚が無意識に滲んでいたということか、ソロ直後の勢いでタイミングが良かった、というべきか。

健全で良質な雰囲気は、小林の参加、桑田ソロを経由したポップネスが十分にフィードバックされているとはいえ、サザンというバンドとしてはそれまでの作品とは異質なものだ。来たるJポップ時代へのシフトチェンジを意図したわけでもないだろうが、後世から見ても面白いものである。

音楽誌ではないが、このようなリアクションも見られた。桑田の変化を察知したリアルタイムの例として載せておきたい。
 (前略)何より残念だったのは、むろん桑田の曲じたいの変質である。そもそも、『みんなのうた』なぞ、桑田ほどの素敵にみだらな才能が断じて歌ってはならぬたちのものなのだ。松田聖子じゃあるまいに。
 (略)才能の豊かさと含蓄との、いわばその江川卓的な調整の妙にかけて、みずからの環境音楽化を拒み、どれほど圧倒的な支持を得ようが、軽音楽右翼にだけはなりえなかった点にこそ、たとえば『マス・イメージ論』の音痴が絶賛するRCサクセションはおろか、『陽水の快楽』(武田青嗣)すら遠く及びもせぬ桑田の貴重さが育まれていたのである。
 その彼が、「みんなで空高く舞い上がれ/やがて誰の心にも虹のカーニバル」などと、うたごえ喫茶もどきの無葛藤な善意(メッセージ)を伝え、サビのルフランでは《C/C+/C6/C7/F》のあまりに予定調和的な盛り上がりを、文字通り恥気もなく演出しながら『みんなのうた』を歌ってしまうこと。それはちょうど、《Key of Life》のスティーヴィー・ワンダーが、《We are the world》を歌わされてしまうのとよく似た光景なのだ、と言えばよいか。
(渡部直己「渡部直己の世紀末マルチ・クリティーク」『朝日ジャーナル 1988年7月15日号』朝日新聞社、1988)


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「みんなのうた」リリースと同時、6月25日にチケット発売されたサザンのツアーチケットは即日完売となった。かなりのフィーバーぶりが当時の記事からも窺える。ビジネス的には大成功といっていいだろう。桑田の判断は(実のところ消極的だったとしても)需要に見事に応えたものだったのだ。
 六月二十五日の午後になると、土曜日なのに都区内の一部では電話がかかりにくくなってしまった。これらの地域では、受話器を取っても「ツー」という発信音がしなかったり、逆にこの地域へかけようとしても、「ただ今、電話が大変かかりにくくなっております…」というあのメッセージ・テープが流れるだけ。約七百件もの苦情や問い合わせの電話に、NTTも大弱りだった。
(略)
 そのアミューズとは、人気ロック・グループの「サザンオールスターズ」を抱える芸能プロダクションである。このサザンが三年ぶりに活動を再開し、この日、コンサートのチケットを全国一斉に発売。で、都内はもちろん地方からも、プレイガイドの予約センターにファンからの電話が集中したのがことの原因だった。
(略)
 こうした騒動の中、七月末から予定されているサザンのコンサートのチケットは、用意された五十万枚がたった一時間でさばけたという。昨年秋に来日した世界的なミュージシャンのマイケル・ジャクソンは、日本公演で四十七万枚を売るという日本のコンサート動員記録を作ったばかり。それを、いとも簡単に塗り替えてしまったのである。
(「週刊文春 1988年7月7日号」文藝春秋社、1988)

日経流通新聞では高垣が登場。こちらの記事でもチケット人気の凄さに言及している。
 六月二十五日に発売したばかりだが早くも大ヒットのきざしをみせている。コンサートのチケットは売り出しと同時にNTTが悲鳴を上げるほど電話予約が殺到。再びサザン旋風が吹き始めているのだ。
(略)
 高垣の構想にはサザンの世界進出が描かれている。「日本にあるのは車や工業製品ばかりではないことを世界中に広めなければ」と、世界の仕掛け人になろうとしているのだ。
(「日経流通新聞 1988年7月12日」日本経済新聞社、1988)

サザンのビッグ・ビジネス化、「国民的バンド」化が着々と進むその一方で、桑田個人の思いだけでなく、バンドとしてのサザンも決して安泰な雰囲気ではなかったようだ。

松田「大復活祭はけっこう大変だったね。久々にメンバー集まって演ったけど、最初の西武球場の三日間というのはツラかった。ステージやってて、この場所から逃げ出したいと初めてそう思ったよね。」
野沢秀行「音楽だけじゃなく、人間的にも皆、それなりに自分の時間っていうのを過ごしてるわけだから、おいそれとまとまるってのはね。三年って長いよね。中学校卒業しちゃうんだもん。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

松田「88年に復活祭ってのがありましたよね。その初日を西武球場でやったんですけど、それがサザンの歴代3位に入る程の悪いステージだったんです。ドラム叩いても逃げ出したくなったくらい。お客さんも、あの惨状は判ったと思う。うちのカミさんも見てて泣いてたもの。それで、次のコンサートで、もう全て終わりにしよう、と皆で決めたんですよ。今だから言えるけど。」
(「R&R Newsmaker 1992年10月号」ビクター音楽産業、1992)

しかし、「次のコンサート」の前にサザンはアルバム1枚の制作、そして桑田個人にも音楽の枠を超えた新たなミッションが命じられる。様々なことが並行しながら、来たる90年代に向け、精力的に活動は続いていくのだった。