2022年2月1日火曜日

1986 (4) :Kuwata Band以外の作品

ここまで86年のKuwata Band=桑田・松田の活動を見てきたが、一方他のメンバーの活動はどういった方向性だったのか、今回は振り返ってみたい。

86年のリリースの口火を切ったのは関口和之。前述のとおり、もともと関口と毛ガニこと野沢秀行の2名は85年の時点でまだソロ作品をリリースしておらず、両者ともソロ・プロジェクト自体は『kamakura』録音以前から計画されていたものであった。関口のアルバムは構想2年、レコーディング1ヶ月と、6曲+1曲のミニアルバムとはいえ実作業自体はコンパクトでスピーディーに進められた。(「週刊FM 1986年1月27日号」音楽之友社、1986)

それまでのサザンでの関口作品というと、「ひょうたんからこま」(原由子によるLinda McCartney風コーラスが白眉!)、「ムクが泣く」、と当初はBeatles関連の影響が色濃い楽曲が続いた。サザンがニューウェーブ化してからはファンカラティーナ+ボディドリービートのカリプソ風味「南たいへいよ音頭」、直近ではガムラン+アフリカな「最後の日射病」と、アルバムのコンセプトに合わせ志向を変えながらも群を抜いてユニークな楽曲を披露してきたのがわかる。ソロ作も直近の流れを継続した、シンセ・サウンドを纏ったユニークなニューウェーブ作品に仕上がっている。同時期のムーンライダーズに近い雰囲気もある。

プロデュースは関口、共同プロデュースはいつもの高垣健に加え、新田一郎がクレジット。そして全曲のアレンジとプログラミングは米光亮が担当。関口が自宅でデモを録り、米光の自宅で、曲によって当時Pinkのホッピー神山・当時アルファベッツの坂本洋ことサントリー坂本が参加しながらベーシック・トラックを作成していく、というスタイルの制作だったようだ。
関口「プロデューサーに新田一郎選手を迎えて、彼がよく使っているオペレーターの米光亮君の自宅で16trにベーシックを打ち込んだんです。」
「最初やり方をどうしようかと思ってたんですけど、バンド組む雰囲気でもないし、自分のアイディアが目一杯出る形がいいと、3人で米光君の家で煮詰めてやろうって。ホッピー神山とサントリー坂本にも来てもらってキーボードかぶせて……それは1週間ぐらいかかったな。それからビクター青山でダビングしました。」
(「サウンド&レコーディング・マガジン 1986年2月号」リットー・ミュージック、1986)
関口「はじめ僕が、DXとRXだけでリズム・パターンとメロディ、コードだけをきめてくるんです。そこで米光くんの家にキーボードの人1人に来てもらって、3人でベーシックをしあげていって。」
「リズム・セクションあたりの音は米光くん、上にかぶせた音はホッピーが中心かな。サントリーは、どっちかっていうとアイデアが豊富。」
「彼(筆者注:米光)の自宅のスタジオに16chのレコーダーがあるので、ドラム、ベース、キーボードの、すでに決まっているフレーズはそこで打ち込んじゃったんです。それをレコーディング・スタジオで24chにたちあげて、生音とさしかえたり、ダビングしたりしてね。コンピューターのアプローチとしては、サザンと逆。サザンの場合、まずバンドで音を出してみて、ベースやドラムをコンピューターにさしかえていく。」
(「キーボード・スペシャル 1986年3月号」立東社、1986)

バキバキのローファイなドラム、EPOのコーラス、ホッピー神山らしいシンセの組み合わせで高らかにアルバムの始まりを告げる、アバンギャルドっぽさを含みながらもファンキーでメロウな「絵の中のクレーア」。当アルバムはシングルは切られなかったが、この曲のみMV(実写の関口と、関口によるキャラクターのアニメが合成された脱力系)が作られている。ホッピー神山というと、タイトルトラック「砂金」では、ほぼ同時(20日後の86年2月25日)リリースのPink『光の子』タイトル曲イントロと同じサンプル?が通しで聞こえる。関口とMarico With Cuteの若林マリ子の、無国籍感溢れるデュエット曲。矢口博康参加の、関口の脱力系ヴォーカルが冴えるロック・ナンバー「フトンへようこそ」では、2小節ずつサンプルしたフレーズを矢口がキーボードで弾いており(「キーボード・スペシャル 1986年3月号」立東社1986)、曲を一層シュールなものにしている。ニューウェーブ化以前の関口を想起させるノスタルジックな「エスケイプ」の間奏や、「Le Marche」での木琴のようなシンセはTouré KundaのErhlich Alain Royの作ったDX-7の音が使われている。色々あったが、Touré Kundaのメンバーとは、サザンは良好な関係を築いていたのがわかる。
関口「この前、トゥレ・クンダのキーボードのロイと仲良くなって。彼は、けっこう民俗音楽的な音を、自分で作ってるんですよ。キレイな音だからコピーさせてもらってね。普通アメリカのミュージシャンとかはいやがるでしょ。でも彼は、「音楽やサウンドはみんなのものだから」って言ってくれて。感激しましたね。」
(「キーボード・スペシャル 1986年3月号」立東社1986)
最後はモロにムーンライダーズなロックンロール「アンクル・ピーターの羽」で、本編25分はあっという間に終わる。

本作の初回盤は「3大附録つき限定盤」として、72ページハードカバーで歌詞・ライナーのみならず関口によるイラスト・エッセイ・絵本・4コマ漫画まで収録された「砂金の話」、ペーパークラフト「途方の石」、そしてボーナストラック「人気なんてラ・ラ・ラ(We're The 二次会)」という関口の友人47名+1匹がヴォーカル/コーラス参加した「We Are The World」パロディ曲がアルバムラストに収められ、2月5日にボックス・セットとしてリリースされた。LP・カセットのみで、86年にもかかわらずCDはリリースしないという潔さ(92年のソロ作一挙リイシューの際、初めてCD化された)。「人気なんてラ・ラ・ラ」はLP通常盤、CD、配信/サブスクいずれにも収録されている。

「宝島 1986年4月号」(JICC出版局、1986年3月)の「View Of Wonderland」コーナーでは関口の『砂金』インタビューの裏ページに、4月公開となる映画「カイロの紫のバラ」の紹介記事が掲載されている。関口はこの映画を観たことがきっかけで、のちにウクレレとの永遠の恋に落ちることになる。


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同じく「宝島 1986年4月号」「View Of Wonderland」コーナー、関口の2ページ後には野沢のJapanese Electoric Foundationの紹介記事も掲載されている。

野沢のソロ活動は個人名義ではなく、荻窪ロフトでセミプロ時代の野沢と友人であり、ミュージシャンのマネジメントやレコーディングのディレクションを担当していた小川英則、ベーシスト六川正彦とのプロジェクト、Japanese Electric Foundationとして活動が行われた。小川は本作で桜井鉄太郎を名乗りミュージシャン・デビューを果たしており、実質桜井鉄太郎・ファーストといえる作品に仕上がっている。
野沢「まあ坊(六川さんのこと)がリズム面に関して、桜井がカバーの曲や歌心に関して、そして俺がJEFの統括的な部分を支えていく感じかな。」
「Guitar Book GB 1986年6月号」CBSソニー出版、1986
こちらも関口同様録音の2年前に構想が立ち上がり、85年2月にデモの録音、10月からレコーディングが開始された。「Guitar Book GB 1986年5月号」CBSソニー出版、1986

レコーディングのきっかけとなった、小川=桜井がミュージシャンを目指し建設した個人スタジオ「Runt Studio」で本編のレコーディングも行われた。
桜井鉄太郎「周りのエンジニアが大工仕事を手伝ってくれて、スタジオは無事完成したんですが、最初はね、“生意気だ”って業界から干されるわけですよ(笑)。それに当時主流だったドルビー・システムを備えていないスタジオだったから、誰も使ってくれない。ところがある日、近田春夫さんが面白そうだからと言って使ってくれたんです。僕は毎日、近田さんの隣に座って、いろんなことを学ばせてもらいました。当時、まだMIDIの規格が生まれたばかりのころでしたが、近田さんがヤマハのDX7などの機材をスタジオに持ってきて、僕にデジタル・シーケンサーという存在を教えてくれたんです。(略)リズム・ボックスにつなげばドラムとキーボードのアンサンブルができて、そこに自分でギター弾いて重ねれば、1人でもバンド・アンサンブルが作れてしまう……もう、僕の音楽人生ががらりとひっくり返るくらいの衝撃がありましたね。すぐに近田さんに教えてもらった機材を揃えて、日夜それをいじることに夢中になりました。一番最初はね、大好きなトッド・ラングレンの曲を打ち込んでみたんですけど……“すごい!格好いいじゃないか!”って(笑)。それで僕は、自分のスタジオを持っていたし、これを背景にまたレーベルを作りたいと考えたんですよ。で、よくスタジオに遊びに来ていたサザンオールスターズのパーカッション、野沢“毛ガニ”秀行君と“何かやろうよ”って話しているうちに、ほかにもいろんな人が参加する形で、J.E.F.名義の「ジャパニーズ・エレクトリック・ファンデーション」を発表することになったんです。」
— これが、表舞台に登場した初めての作品ということですか?
「そう。ずーっとレコードを作る仕事がしたいと思っていた僕が、初めて、自分でレコーディングをして世に出した特別な作品です。アルバム2曲目「オープン・マイ・アイズ」は、僕が初めて多重録音したものなんですけど、キーボードもギターもコーラスも自分でやって。今までの自分は裏方の人間、スタッフなわけですから。周りは驚いてましたね。これをきっかけに制作の仕事がくるようになったんです。」
— ここに、プロデューサー桜井鉄太郎が誕生するのですね。
「キーボード・マガジン 2007年11月号」リットーミュージック、2007)

プロジェクト名からしてBritish Electric Foundationを下敷きにしていることは明白で、シンセ主体のエレクトロ・サウンドで往年の名曲をカバー、というスタイルも同じだが、桜井の小粋な選曲で独自性を出している(楽曲についてはこちら参照)。ヴォーカルも基本的には桜井と元H2Oの中沢堅司のツイン・ヴォーカルで、他はサロン・ミュージックと楠木勇有行&桑名晴子で1曲ずつ、とB.E.F.ほどヴォーカリストを多彩にせず、絞り込んでいるのが違いか。
野沢「どっぷり洋楽に漬かってみよう、それがJEFのトータル・イメージだと決めたんだ。それからオリジナルにまず忠実にやってみようと。いくら知られてないとは言っても人の曲だからね。実際自分たちなりにいろんなことはやってみたんだけど……どんどん離れていくような気がして。だからオリジナル+αで勝負してみようと思った。枝葉に気をつけたというか……。意外といろんな音入れてるけどその割に変わってない感じがするでしょう?」
「やっぱり原曲が素晴らしい。昔の曲って、メロディーを大切にしていると思うよ。例えばジャズやってる人たちがずーっと昔の曲を今でも演奏し続けてるように、“うたごごろ”って絶対変わらないものだから。ロックの方もだんだんジャズと同じようになってきていいんじゃないかな。JEFではボーカルがメイン。歌がちゃんとしてないアルバムはきついと思ったのね。だから僕もあえて歌わなかったし……(笑)」
「Guitar Book GB 1986年6月号」CBSソニー出版、1986

サザン『kamakura』はフェアライトCMIを駆使した製作費のかかるレコーディングであったが、J.E.F.では逆の志向で録音されているようだ。
— そうすると機材面ではどんな工夫を?
野沢「カッコよく言っちゃうと、誰でも使っているような楽器を使ってというのはあった。今って、フェアライトで生ドラムをサンプリングしちゃう時代でしょ。それは僕の場合、『kamakura』でやっちゃって、いいところも悪いところもわかっちゃった。だから逆に音楽ってもっと手軽にできるものだよね、というのを試してみたかったのね。キーボードはDX、リズムはRX程度なんだ。煮詰まって考えた分、使い方は10倍発見したと思う。僕も知らないうちに、いい楽器ならいい音が作れるというマジックにはまってた部分であったから、いろいろ勉強させられたよね。」
(「キーボードランド 1986年4月号」リットーミュージック、1986)
関口の『砂金』同様こちらもシングルは切られなかったが、Nazzのカバー「Open My Eyes」のMV、プロモ盤7インチが作られている。

J.E.F.は3月20日のアルバムリリース後、6月にFM東京「Top Of Japan」にて4曲のスタジオ・ライブを敢行、7月のアミューズのイベント「大里くん祭り」に出演「Guitar Book GB 1986年8月号」CBSソニー出版、1986。その後セカンド、サードアルバムの構想を既に立てていたようだが、野沢がヘルニアで入院したことで活動不可能に。
野沢「僕はこの頃、地味ーな入院生活をしてた。’86年のクリスマスにKuwata BandがTVで頑張ってるのを観て、病院のベッドで泣きましたからね。」
「’88年(筆者注:87年の誤植と思われる)の俺は地味よ(笑)。予定ではJEFをもう少し展開させていって、JEF2、3と進めるつもりだった。JEF3くらいでソウルをやろうと選曲とかにも取りかかっていたんだけど全部コケちゃった。親ガメである私がコケちゃったもんで(笑)。」
「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

J.E.F.が動けなくなって以降、桜井はJ.E.F.のスタイルを発展させ、俳優高嶋政宏とReal Pop Organizers(R.O.P.)を結成、アルバムを89年にリリース。同時期にクラブ方面に接近し、90年にFM横浜で小西康晴、窪田晴男との番組「Girl Girl Girl」をスタート。91年にはCosa Nostraを結成する。


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さて最後は大森隆志。大森は既に82年にファースト・ソロ作『真夜中のギター・ボーイ』をリリースしていたこともあり、85年秋時点ではソロ作は予定されていなかったのかまずはアミューズに所属した新人バンド、1・3・5のデビュー・シングルの作曲・プロデュースを担当。A面「0%麗人」はバンドとの共同作曲・編曲は矢島賢、B面「Soldier」は矢島賢との共同作・編曲。矢島は70年代から既に日本のポップスを支えるセッション・ギタリストとして多数の作品に参加、そして80年代に入るとフェアライトCMIを自宅スタジオに導入し、アレンジャー・トラックメイカーとしても活躍を続けていた。このシングルもサウンドは完全に矢島の手によるシンセ・ポップに、サビで関西弁の歌詞が乗ったユニークな楽曲である(のちにアルバムに収録された別ミックスの方が、シンベが目立つハードな出来だ)。シングルは86年5月20日にリリースされ、この流れで、大森は矢島とのプロジェクトをスタートすることになる。グループは「Tabo's Project」と命名された。
大森「レベッカみたいな、女の子のボーカリストを擁したバンド、やってみたいね。」
「Guitar Book GB 1986年6月号」CBSソニー出版、1986
大森「このTABO’S PROJECTというのは矢島賢さんという人とペアになって進めてるんですけど、彼は自宅にスタジオを持ってましてね。そこで今後レコーディングも進んでいくと思います。」
「Guitar Book GB 1986年7月号」CBSソニー出版、1986
— 矢島さんと組んだのは?
大森「135のプロデュースをした時に、“この人しかいないな”という感じで。あの人はプロの間では認められてるけど、これからの時代は、そういうクリエイターももっと表に出ないといけないと思うのね。スターだけがスターである時代って終わると思うの。そうじゃないと、創造性ってどんどん狭められてくると思うんだよね。」
「Guitar Book GB 1986年12月号」CBSソニー出版、1986

ヴォーカルは一般公募が行われ、大森と矢島を含む審査員によるオーディションが開催、準グランプリとなったNatsuがメンバーとして加入した。
— TABO’S PROJECTって、大森隆志をプロデューサーとするプロジェクトかと思ったんだけど…。
大森「3人で完全なグループなの。開発チームみたいなプロジェクトじゃなくて、ボクをリーダーとするグループ。彼女(筆者注:Natsu)がボーカリストで、コンピューター・オペレーションとかギターとかモロモロのことをやるのが、LIGHT HOUSEの矢島さん。3人組なの。」
— で、女性シンガーをフィーチュアするという。
「うん。キャッチーな歌を入れたかったから。最近、マドンナとかシャーデーとか好きでね。ホンモノのアイドルを作りたいなと思って。音楽が感じられるアイドルを日本から出してみたいし、それも、バンドというかグループでやってみたかったので、こういうグループ編成になった。」
「Guitar Book GB 1986年12月号」CBSソニー出版、1986
サウンドに主張のあるガールヴォーカルのグループもの、という意味では、翌88年の藤田浩一菊池桃子によるラ・ムーに近い要素もあるとも言えるのだろうか(あれほど振り切れてはいないが)。

アルバム全体は矢島(とゲスト・ミュージシャンとしてクレジットされている矢島の妻、矢島マキ実質Light House Projectである)によるフェアライト・サウンドが支配、そこにNatsuによるニューミュージック的な無垢なヴォーカルと大森のギターが乗ったエレクトロ・ポップ作品に仕上がった。全て歌ものというわけでもなく、インストも数曲入り、冒頭と終盤はアンビエント〜ニューエイジ的な観点で楽しみむこともできる。作曲は大森・矢島のみならず、矢島マキ、原田末秋のペンによる楽曲も1曲ずつ収められている。

レコーディングはもちろん矢島の自宅スタジオ、Light House Studioをメインに7月〜8月に行われた。そのため、おそらく第4のメンバーであろう矢島マキのクレジットも「Keyboards, Synthesizers & Nice Food」となっている。先行シングルとして「Dance Away ひとりぼっちにサヨナラ」c/w「Truth〜Song For World Peace〜」が10月21日にリリース、アルバム『Eyes Of A Child』が11月5日にリリースされた。

10cc風コーラス処理をフィーチャーした、矢島作・LINDA詞のメロウ・リゾート・ニューエイジ「Feel」からアルバムがスタート。冒頭のシンベから、とにかく矢島によるトラックが心地良い。「Dance Away ひとりぼっちにサヨナラ」は先行シングルとしてカットされた、矢島作・神沢礼江詞の哀愁エレクトロ歌謡もの。大森のギターの使い方も控えめながらちょうど良い塩梅。「Time's Street」は大森作・鈴木さえ子詞のエレクトロ・ファンク歌謡、冒頭のサックスは短いフレーズだが一聴して矢口博康とわかる。「Eyes Of A Child」は矢島作・LINDA詞の大森ヴォーカル曲。味わいのある大森のヴォーカル・声域にうまくマッチさせた、職人矢島の腕が光る燻し銀のメロウなエレクトロ・ファンクもの。「突然炎のように」は大森作・神沢礼江詞、「Tears」は矢島マキ作・沢ちひろ詞の哀愁エレクトロ歌謡路線。「Logical Pressure」は流れが変わって矢島作のPower Station風ドラムが炸裂するインスト。さらに流れが変わって原田末秋作・宮原芽映詞のトロピカル歌謡「ふたりの宝島」はNatsuと大森のデュエット。パーカッションでシーナ&ロケッツの川嶋一秀が参加。締めの「Truth〜Song For World Peace〜」は大森作、ギター主体のインスト。これまたニューエイジ的で、清涼感あふれるトラックに矢島のMIDIシンセによるハーモニカがよく合っている。

Tabo's Projectはアルバムリリース後、ラフォーレミュージアム原宿にて12月4日・5日にライブを行なっている。87年はNatsuのソロ活動も考えられていたようで(結局なかったようだが)、グループ活動はこれで一区切り、ということだったようだ。

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ということで86年のKuwata Band以外のサザンメンバー作品をざっと眺めてみると、各人とも名うてのアレンジャー/サウンドメーカーと組んでのシンセ主体のニューウェーブ〜エレクトロ・ポップ作品を繰り出しているのがわかる。近年のバレアリック・ミュージック、シティ・ポップ的な観点からそれぞれ再評価されてよい作品ばかりだ。実際、『Eyes Of A Child』などはバレアリック的な再評価に伴い、2010年代のうちに中古市場での価格はかなり高騰した(しかし、この3作のうち唯一、公式のフィジカルリリース・配信ともに行われていないのは残念な話である)。
レコーディング手法もアレンジャーやコンピューター・オペレーターと宅録(自宅スタジオ)で作り込んでいくという、バンドに拘った桑田=Kuwata Bandのように、ヘッドアレンジありきのスタイルとは異なる手順で、ある意味時代に即した制作方法だ。桑田がこのレコーディング手法を取るにはあと1年、待たねばならないのであった。








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