原由子『Mother』のセッションが佳境となる90年3月24日・25日・26日、プロデューサーの桑田はレコーディングの中核メンバーであった小林武史、小倉博和、佐橋佳幸、角谷仁宣らを召集し、急遽ソロライブを開催する。「Nissin Power Station Acoustic Revolution」と題されたライブが3日間、新宿は日清パワーステーションにて行われた。上記メンバーに加え、ヴァイオリンに中西俊博、ドラムに元ARBのKeith、コーラスに前田康美・当時Hannaの倉本ひとみを迎えている。
このライブはこの時期にしては珍しく一切オリジナル曲を取り上げず、洋楽のカバーのみで構成されていた。セットリストは以下のとおり。
1. What A Wonderful World (Weiss - Douglas)
2. You've Got To Hide Your Love Away (Lennon - McCartney)
3. Proud Mary (Fogerty)
4. Born To Be Wild (Bonfire)
5. Easy Now (Clapton)
6. Dance with Me (J. & J. Hall)
7. Heart Of Gold (Young)
8. Tight Rope (Russell)
9. I Saw The Light (Rundgren)
10. Starman (Bowie)
11. Sunshine Of Your Love (Bruce - Brown - Clapton)
12. Stairway To Heaven (Page - Plant)
13. Smile Please (Wonder)
14. Mother And Child Reunion (Simon)
15. I'm Not In Love (Gouldman - Stewart)
16. A Day In The Life (Lennon - McCartney)
17. The Times They Are A-Changin' (Dylan)
18. Blowin' In The Wind (Dylan)
19. Summertime Blues (Cochran - Capehart)
20. Hello, I Love You (The Doors)
21. Paint It, Black (Jagger - Richard)
22. Telegram Sam (Bolan)
23. Oh, Pretty Woman (Orbison - Dees)
En. 1. Rain (Lennon - McCartney)
En. 2. Don't Worry Baby (Wilson - Christian)
En. 3. End Of The World (Dee - Kent)
なにしろ伸び伸びとカバーを楽しむ桑田の歌と、佐橋と小倉による、アコースティック/エレキギターやラップスティールのみならずバンジョー、マンドリンなど多彩でハイレベルな演奏、そして両者のハーモニーまで聴けるのが魅力のライブである。また、何曲かではキーボードを弾きながら同時に(ある意味でトレードマークである)グロッケンを叩く小林武史を見ることができるのも面白い。
「Dance With Me」までは佐橋と小倉を従えたアコースティック・トリオでの演奏。「Heart Of Gold」から中西が登場、「Tight Rope」から小林が合流。アコースティックとはいっても小林はシンセを弾き、「I Saw The Light」から佐橋はエレキに持ち替え。「Stairway To Heaven」でKeithが登場するがKeithのドラムはこの1曲のみで、以降は角谷のマシンによるドラムで展開、前田と倉本も合流。「A Day In The Life」では終始世界各所の日常映像が流れるが、終盤のストリングスが上昇するところで唐突に飛行するB29の映像に切り替わり、最後のコードでキノコ雲が映し出される。
佐橋がエレキをマンドリンに持ち替え、「The Times They Are A-Changin'」「Blowin' In The Wind」とBob Dylanコーナーに突入。Douglas MacArthurが厚木に降り立つところから戦後の混乱する日本、安保闘争、オイルショック、そしてベトナム戦争…最後に東京大空襲の映像が流れる。
ここで空気が打って変わり、再び登場したKeithによるエレドラをフィーチャー、佐橋・小倉もエレキに持ち替え「Summertime Blues」に突入。ここから本編ラストまで完全にアコースティックではなくなるのがタイトルに偽りありで面白い。「Rain」からはアンコールでドラムレス、佐橋小倉コンビもアコギの体制に戻る。
「でも意図的に入れたのは頭の「What a wonderful world」とラストの「End of the world」、それにディランの2曲だけだよ。ああいう世界情勢に対して無口にならざるを得ない日本人の体質にね、こういう禅問答みたいな歌が合ってるような気がしてさ」
— ベトコンの兵士が銃殺されるシーンのニュースフィルムをスクリーンに映したりしてましたね。
「フォークゲリラの頃だったら、例えば「風に吹かれて」を日本語に訳して歌うことで説得力を持たせていたでしょ。いまの時代なら、英語の原詞に映像をプラスすることであの歌が持ってる意味合いを客と共有できるんじゃないかと思ったわけ。」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』ぴあ、1991)
***
90年8月、イラクがクウェートに軍事侵攻。そのまま撤退しないイラクに対し、アメリカを中心とする多国籍軍が攻撃を開始したのが91年1月。いわゆる湾岸戦争の勃発である。アメリカにとってはベトナム戦争以来の大きな戦争への参加であった。また、リアルタイムで空爆の様子が中継された初めての戦争でもある。もちろんその映像は日本でもさかんにテレビ放送された。
湾岸戦争勃発当時、桑田は原由子ソロアルバムのプロデュース作業のかたわら、テレビから流れる戦争の映像を見ていたようだ。
「あの頃はちょうどハラ坊のアルバムをつくってる頃でね。プロデューサーつっても基本的におれは見てるだけだから、欲求不満がたまってきちゃってさ、おれも歌いたいよぉという。人恋しくなるのよ。ダイレクトな反応がほしくなる。それとね、湾岸戦争ってことがあるね、ひとつ理由として。」
「小林(武史)くんたちと毎日スタジオで顔つき合せてるじゃない。で、話すことといったらフセインのこととか90億ドルのこととか、海部さんてのはいい人なんだけどいじめられやすいキャラクターだなとかね、そんなのばっかり。ハラ坊はハラ坊でニュース見て暗い顔してるしさ。そういう情報とともにいろんな感情がもやもやっと渦巻いてね、その気分を正直に現そうと思ったらライブやるしかないな、と。まあ、そのへんのつながりはうまく説明できないんだけど。」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』)
また、当時はこの小林・佐橋・小倉らで、レコーディングやリハーサル等を行うのみならず、自宅スタジオ付きである桑田の自宅をたまり場にしていたようである。
佐橋佳幸「仕事も一緒だし、仕事が終わったら一緒に桑田さんちに飲みに行く(笑)。桑田さんの家には小さいスタジオがあってね。みんなで飲んだり食べたり、くだらない話をしたり、桑田さんが作った曲とかデモテープなんかも聴かせてもらったり…。夜な夜なワイワイやってたの。まだインターネットもない時代だったからね、お酒飲みながら桑田さんとかみんなが “あの曲、なんだっけ?” みたいなことを言いだすと、オタク担当の僕が Google 代わりになって答えたり、桑田さんに言われた曲をオグちゃんと一緒に弾いたり(笑)。そんな感じだった。あの頃、仕事が終わると桑田さんちか小林さんちかどっちかにいたなぁ。まだ独り者だったし、まず家には帰ってなかったねー(笑)」
(能地祐子 「【佐橋佳幸の40曲】SUPER CHIMPANZEE「クリといつまでも」桑田佳祐が結成した幻のバンド」 Re:minder、2023.11.25. https://reminder.top/646962821/)
そして原由子のアルバムと桑田のライブをきっかけに、佐橋と小倉は接近。ギター・デュオ「山弦」はここから誕生する。
佐橋「桑田さんはビクター・スタジオで原さんのミックス作業をやりながら隣のスタジオでパワステのリハをやってた。だから、両方に関わっていた桑田さんと小林さんはふたつのスタジオを行ったり来たりしていて。そうすると、リハのスタジオに桑田さんと小林さんがふたりともいなくなっちゃったりするでしょ。僕とオグちゃんは時間が空くよね。それで、その時間ずっとふたりでギター弾いて遊んでいたの。そのうちだんだん、“これ、なんかよくね?” みたいな感じになっていって。それが、後の山弦へとつながっていくんです」
(「【佐橋佳幸の40曲】SUPER CHIMPANZEE「クリといつまでも」桑田佳祐が結成した幻のバンド」)
山弦の胎動と並行して、桑田もこのメンバーを、3月のライブの一度きりではなく、自身の新たなグループにまとめようとしていたようである。ライブの模様は直後の4月14日にWOWOWで放送されているが、桑田は編集中であった映像をメンバーといつものように?酒を飲みながら視聴。冗談とも本気ともつかないグループ名を命名する。
「もとを正せば、ちょうどアコースティック・ライヴのヴィデオ編集をしてて、夜遅くなったんだよね。で、手持ちぶさたなんで、小林君や小倉君と酒を呑んじゃったんです。その時はライヴの映像を見てるから盛り上がってるでしょ?イイよねー、これはイイよ。これはもう海外へ持って行けるんじゃないか?みたいなさ、自惚れも含めて、酒呑んでるもんだから、皆、気がデカクなってるんだ。グループ名も「スーパー・チンパンジーという名前があるんだ」って俺が言ったら盛り上がって、「電気セーターズはどうだい?」なんてさ。皆「それがいい、ウワーッ」とか言っちゃって。ステージでの俺の動きなんか見ても、やっぱりマトモじゃないでしょ?「ブルース・スプリングスティーンみたいじゃないし、ロッド・スチュワートにもなれないから、日本ザル的なイメージで、でも洋モノを超えたという意味で、日本ザル=スーパー・チンパンジーだぁ!」なんてね。下が滑らかになってますから(笑)。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)
***
ライブから3ヶ月後の7月2日、桑田は小林・小倉・今野多久郎(佐橋はスケジュールの都合上不参加)を引き連れ中国は北京に向かい、再びアコースティック・パフォーマンスを行う。
湾岸戦争を契機に始まったソロ・プロジェクトで、なぜ中国・北京に訪問することになったのか。どうも源流は、事務所アミューズのビジネス的な観点からの意向があったようだ。
ここに紹介する『情不禁(抑えきれない心)』は1991年にリリースされた通算17枚目のアルバムで、1985年のデビュー以来コンスタントに作品を重ねてきた彼が全中華圏で大ブレイクするきっかけとなった楽曲「每天愛你多一些」(A-3)を収めるヒット作だ。
(略)
中華圏では知らぬものはいないと言われる上述のメガヒット曲「每天愛你多一些」だが、一聴してもらえればすぐに分かる通り、サザンオールスターズの「真夏の果実」を広東語でカヴァーしたものだ。彼はここで、日本でも国民的なヒット曲として知られる同曲を、情感いっぱいに歌い上げている。その朴訥とした味わいはオリジナルとは一味異なる儚さと切なさを感じさせるもので、歌手としてのジャッキー・チュンの卓越した個性が表れた名カヴァーといえる。
(柴崎祐二 「【未来は懐かしい】Vol.48 蘇る黄金期カントポップ サザンオールスターズの大ヒット・カヴァーを収めた「歌神」の代表作」 TURN、2024.4.15. https://turntokyo.com/features/serirs-bptf48/)
思わぬタイミングに全中華圏で「真夏の果実」のカバーが大ヒットしたのである。ここでアミューズはすかさずアジア圏でアルバム『稲村ジェーン』をリリース。アミューズ香港を設立し、日本の作品の展開のほか、香港のミュージシャンの日本進出等も手掛けるようになる(その後90年代末にいったん香港法人は閉鎖、2012年に改めて進出したようだ)。
まずは、北京行きのきっかけだが、知る知ぞ(引用者注:原文ママ)知る情報の1つとして、少し前、ジャッキー チョンという人が「真夏の果実」を歌い(もちろん現地語)連続5週にわたり第1位を飾ったのだが、それに気をよくしてかどうかは定かではないが、7月8日アジア9カ国で「稲村ジェーン」のアルバムが発売された。
(『代官山通信 Vol.35 Nov. 1991』サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)
— (引用者注:北京訪問について)しかし、ビジネスにはしたくないとはいえ、現実にはアジア8カ国でリリースされたんでしょう、「稲村ジェーン」のアルバムが。
「……おれはイヤだったんだけどねえ(と、マネージャーのほうを見る)。ジャケットもオリジナルとは違うし。まあ、アミューズ香港なんて会社もできちゃったから、しかたがなかったというしかないんだけど。おれとしては日本人としてフェアにね、音楽だけで彼らとつきあって、田んぼ耕して井戸掘ってみたいなところから始めないと実感わかないんだよ」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』ぴあ、1991)
なぜ北京なのかというところははっきりしないが、アミューズとしてはビジネスチャンスを広げるという意味で香港の次なるターゲットが中国本土だった可能性もある(桑田一行の4人は北京7泊ののち、香港でも2泊している)。小林武史は「中国へある番組で行って、ゲリラ的にライブを行いましたね。」( 「中西健夫ACPC会長連載対談 Vol.36 小林武史(音楽プロデューサー)」 ACPC Navi Summer 2024、2024.7. https://www.acpc.or.jp/magazine/navi_issue.php?topic_id=379)と語っており、とするとTBS系「筑紫哲也 News23」のサザンシングルのタイアップをきっかけにした連動企画として、北京に絡めたという側面もあったのかもしれない。
「湾岸戦争で“戦争をやると思わなかったのは日本とフセインだけ”みたいな意見があったけど、俺は「あっ、そうなのかな」って思った。予測と、現実にTV画面から出てくる映像がジョイントできない。そんな時に、たとえば日本のロックとか僕らがいるところなんかをいろいろ考えていたら、とにかく居てもたっても居られないというような感じがしちゃって。で、中国の話が来たんで、スーパー・チンパンジーは、皆、乗ったんです。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
桑田一行は、天安門広場や万里の長城を訪れゲリラ的にストリート・パフォーマンスを行う。ここではDylanナンバーや、こののちリリースされるオリジナル曲「クリといつまでも」を披露したようだ。今野はタンバリン、小倉・桑田はアコギ、小林はアコーディオン…という編成。
さらには、月檀体育館 利生健康城というところで現地のバンドと対バンで出演。ここでは6曲のオールド・ロックンロール・ナンバーを披露する(『With 1991年12月号』講談社、1991)。さすがにアコースティック・スタイルではなく、マシンのドラムに今野のタンバリン、小倉・桑田はエレキギター、小林はショルダーシンベという編成だったようだ。あくまでサザンではないということで、「真夏の果実」は演奏していない。
***
帰国後の8月はサザンのスケジュールが入っていたため、そちらの活動を優先。そして秋、桑田が新たなユニット・Super Chimpanzeeを結成、シングルをリリースする…という情報が伝えられる。
このユニットはサザンと同時進行で、ゲリラ的かつ局地的に発生し、サザン本体の活動にも新たな刺激を与えるビタミン剤・ニュードラッグとか。メンバーは桑田佳祐、小林武史を中心に活動内容に応じて集められるそうだ。
(『オリコン・ウィークリー 1991年9月9日号』オリジナル・コンフィデンス、1991)
ここでシングル「クリといつまでも」c/w「北京のお嬢さん」が9月26日、桑田のソロ映像作品「Acoustic Revolution」が10月2日にVHS・LDでリリース。3月のライブ時点では実際は存在していなかったが、同じメンバーということで映像作品にはアレンジ、演奏、サウンド・プロデュースとしてSuper Chimpanzeeがクレジットされている。
11月21日はシャレであることを強調するためか、A面曲のカラオケ付シングルもリリースされた。カラオケ付にはしりあがり寿による振り付けマンガ(振付:南流石)も付属している。桑田関連のシングルでカラオケが収録されるのは初。
カラオケ付はいつものVIDL-1台/税込¥930ではなく、ビクターの歌謡曲などカラオケ付シングルのナンバーであるVIDL-10000台/税込¥1,000での発売であった。オリジナルの裏ジャケットはわかりにくすぎると思ったのか、カラオケ付には収録曲と作者・アレンジャーの記載、さらに「桑田佳」の文字で誰のグループなのか匂わせている。
シングルのジャケットにおけるSuper Chimpanzeeのメンバーは以下のとおり。ただし、楽曲ごとのクレジットでは、桑田はヴォーカルのみとなっている。
シングルのジャケットにおけるSuper Chimpanzeeのメンバーは以下のとおり。ただし、楽曲ごとのクレジットでは、桑田はヴォーカルのみとなっている。
Keisuke Kuwata : Vocals, Guitars
Takeshi Kobayashi : Keyboards
Hirokazu Ogura : Guitars
Yoshiyuki Sahashi : Guitars
Yoshinori Kadoya : Computer Operation
「クリといつまでも」は、ピッチを上げた桑田のヴォーカルが印象的な、直球のいわゆる春歌というものにカテゴライズされるべき曲だろう。佐橋によるウクレレと、桶tionとクレジットされた小倉のエレアコ(ヤイリギターによる、桶がボディのエレアコ・オケーションである)が楽曲全編を支えている。途中から登場するヴォリュームは控えめだが右側で咆哮しているエレキも小倉によるもの。コーラス(?)は小倉と角谷という珍しい組み合わせである。
— スーパーチンパンジーのシングルは、桑田さんの植木等的部分ですか?
「いや、むしろ「ケメ子の歌」じゃないかな。一生に一度ほんとのナンセンス・ソングを作ってやろうという気で。いまだってナンセンスっぽい音楽ってのはあるにはあるけど、なにか学生気質が抜けてない感じでおれにはつまんないの。昔だったら月亭可朝とか、水商売の香りいっぱいのヤクザっぽいのがあったでしょ。もっとも実際やってみたら難しかったけどね。楽しいんだけど、難しいという二重構造」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』)
トラックの端正さゆえか水商売っぽさは欠ける気もするが、どちらかというと童謡・民謡等の替え歌を中心に酒席等で民衆に唄い継がれた春歌・猥歌のノリでそのまま90年代/平成の世に新曲として放り込んだ…という感がある。これはこの面々で自宅スタジオなどで夜な夜な語り明かした結果なのだろうか。
カップリング「北京のお嬢さん」はソリッドな佐橋のエレキ+小倉の12弦エレキ(Primal Screamセカンドの香りもしなくもないフレーズだ)とTR-909、小林のキーボード、シンベを組み合わせた、こちらも桑田いわく、「ハズし、ウケ狙い」の一曲とのこと。歌詞は完全に北京訪問ののちに書かれたと思われる内容だ。オルガンやTR-909など、トラックは同年4月にリリースされた、アニメ「ちびまる子ちゃん」のイメージアルバム『ごきげん〜まる子の音日記〜』収録の「乙女の微笑み」の発展系という感もある。小林・角谷によるトラックで、小林が提供した一曲である。
「カップリングの「北京のお嬢さん」はね、おれんちのスタジオでやったんだけど、これは『Acoustic Revolution』の人材でね、繰り広げていった感じなんだけど。小林くんを中心に盛り上がったんだよね。コミックソング狙いなんだけどね。ウケ狙い。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
***
シングル・映像作品リリースの勢いで、Super Chimpanzeeは年末にかけ2つのテレビ番組に出演。NHKの「プライム10 音楽達人倶楽部」では、少し志向を変えて日本のポップス・クラシックを演奏。基本的にヴォーカル以外は事前録音音源を使用したマイム演奏のようだが、「クリといつまでも」は歌もレコードと同じもの。グループ名は「Super Chimpanzeeとその仲間たち」となり、桑田・小林・小倉・佐橋・角谷に加え松田弘・根岸孝旨・今野多久郎・兼崎順一が参加。小倉や佐橋もリード・ヴォーカルをとっている。
1. 蘇州夜曲(曲:服部良一、詞:西條八十)
2. 花と小父さん(曲・詞:浜口庫之助)
3. 寒い朝(曲:吉田正、詞:佐伯孝夫)
4. 悲しきわがこころ(曲:不詳、詞:萩原哲晶)
5. 逢いたくて逢いたくて(曲:宮川泰、詞:岩谷時子)
6. 見上げてごらん夜の星を(曲:いずみたく、詞:永六輔)
7. クリといつまでも
日本テレビ系「EXテレビ」では「Super Chimpanzee EX Band」として出演。メンバーは桑田・小林・小倉・角谷に加え、小田原豊・根岸孝旨・古賀森男が参加。John Lennon関連のナンバーを3曲、マイムではない演奏で披露している。
1. Across The Universe (Lennon - McCartney)
2. Mother (Lennon)
3. Cold Turkey (Lennon)
***
さて、湾岸戦争を契機に結成・活動していたSuper Chimpanzee唯一のシングルが、なにゆえ桑田一世一代の直球春歌「クリといつまでも」だったのか。
大下由祐は「クリといつまでも」が「Acoustic Revolution」からの一連の流れに属する楽曲であることを示し、ひとつの反戦歌であった可能性を指摘した。
『Acoustic Revolution』が時代に対する一つの<解答>だったとすると、
そこから派生してできた『クリといつまでも』はもう一つの<解答>だったのではないか?
誤解を恐れずにいうと、桑田作品の中で最大の反戦歌なのかもしれない。
なぜなら、これほどノー天気で平和な歌はないから。
(略)
・・・とかなんとか言っちゃって、大袈裟に書きすぎちゃったかなあ~。
実際、単なるナンセンスエロエロソングという認識でいいと思う。
歌は歌として成立するべきだし、1曲は1曲としてしか成立しえないから。
音楽に理屈はいらない。
決して『世界平和』を歌った唄ではないし。
タダのエロソング。春歌のノリで作っただけかもしれないし。
だけど、その時の背景だけ、その時の桑田佳祐の姿だけ、知っておいてもらいたい。
原由子も『Mother』リリース時、反戦歌とは違う形で反戦・平和を表現したいと語っていた。また、これだけの豪華なメンバーで出したシングルがこの2曲であることについて、桑田は「外し」であると強調していた。
「この2曲のバランスってスーパーチンパンジーではすごく取れてるんですよ。このメンツだからできたってところかな。音楽を突き詰めるというか、どこにもないジャンルっていうかね。ハズしですよね。」
(『月刊カドカワ 1995年1月号』角川書店、1994)
反戦の意思をストレートな表現ではなく、あえての外しで…そういった逆張り的感覚の極地として、「クリといつまでも」が生まれたということなのかもしれない。
***
大島渚がベトナム戦争中の1967年に監督した作品に「日本春歌考」というのがある。添川知道の「日本春歌考―庶民のうたえる性の悦び」(光文社、1966)のタイトルを大島が引用した作品で、庵野秀明への影響が指摘されたり、坂本龍一が大島への弔辞でフェイバリットとして挙げた一作でもある。低予算・短時間という制約の中シナリオを用意せず、俳優とスタッフでディスカッションしながら即興的に撮影されたというユニークな怪作である。
きわめて性欲的になっている学生服の男子四人組が、引率の先生(伊丹一三)に代表される先行世代の敗北感にも、ブルジョワの美少女(田島和子)に代表される同世代の偽善ぶりにもいらだちながら、全てを転覆したいアナーキーな衝動を爆発させる。春歌から労働歌から反戦フォークまで、人物たちの意志の応酬がおびただしい歌の数々によって表現されるのも大島作品ならではのことだ。想像強姦と日本民族の騎馬民族起源説が強引な力技で架橋される結末部のスパークぶりは圧巻。
様々な立場を象徴する軍歌、革命歌、反戦歌などに対抗するように、何度も春歌「ヨサホイ節」が歌われるのがこの作品の特徴だ。作中ではベトナム戦争反対フォークソング大会が批判的に描かれている。そしてそれへの対抗として、「ヨサホイ節」「満鉄小唄」などの春歌が歌われる。
笠原芳光による同作品の評論を読んでも、どことなくSuper Chimpanzeeの活動にリンクするワードが散見される。偶然なら、面白いシンクロニシティだ。
かつて、「日本の夜と霧」で大島が描こうとしたものは革命への志向と挫折であり、自称前衛党への責任追及であった。この「日本春歌考」もまた背後のテーマは革命であろう。だか眼前の状況はよほど違ってきている。この抑圧され、後退し、鬱結する状況を一ミリメートルでも動かすものはなにか。その可能性が春歌によって象徴されているのではないだろうか。
さきに春歌は倫理的であるといった。それはこの映画において、さまざまの抑圧のなかでの安住と無関心が春歌をきっかけにして、動揺しはじめるからである。春歌それ自体はみじめな歌であり、自慰的な歌にすぎない。だが状況によってはそれはストレートな革命歌よりもさらに破壊的となり、ポピュラーな反戦歌よりも、もっと抵抗的となるのではないだろうか。
(笠原芳光「日本春歌考」『純粋とユーモア : 評論集』 教文館、1967)
この「日本春歌考」、91年の3月29日に松竹ホームビデオより初ビデオ化されているようである。
***
また、こんな話もある。
なお、今では人々が栗の実る季節になると思い出すともされるこの作品(引用者注:「クリといつまでも」)なのだが、意外なことに、桑田がそもそもヒントを得たのは、ジョン・レノンの「コールド・ターキー(冷たい七面鳥)」からだったという。
(小貫信昭『いわゆる「サザン」について』水鈴社、2024)
この桑田のコメントが2024年の執筆にあたって得た情報なのかどうか不明だが、これだけではなんのことやらさっぱりなので、もう少し深掘りしてみたい。
「Cold Turkey」というとJohn LennonがBeatles末期の1969年10月20/24日、Plastic Ono Band名義でリリースしたシングルである。「Plastic Ono Band」はあくまで概念的な存在であり、特に固定のメンバーを持たないバンド、という位置づけであった。
1969年9月、Beatlesのレコーディングを終えたLennonは、「Toronto Rock Revival Festival」の出演依頼を受ける。開催前日の依頼という無茶なスケジュールだったが、LennonはEric Clapton、Alan White、Klaus Voormannらを召集、オノ・ヨーコと共にライブ出演。お得意のオールド・ロックンロール「Blue Suede Shoes」「Money」「Dizzy Miss Lizzy」、Beatlesの「Yer Blues」、ヨーコの前衛感の強い2曲、そして既にリリースされていたPlastic Ono Bandの「Give Peace A Chance」に加えて新曲として披露されたのが「Cold Turkey」であった。
その直後、「Cold Turkey」はスタジオ録音され、翌10月にシングルリリース。ライブの模様も70年1月に『Live Peace In Toronto 1969』のタイトルでリリースされている。
この『Live Peace In Toronto 1969』、10代の多感な時期、流行りのニューロックに馴染めず、T. RexやDavid Bowieに救いを求めていた桑田が衝撃を受けた作品として挙げている。もともとバンドをやろうとしたきっかけもこのLPにあるようだ。
「それからさ、ジョン・レノンがカナダのトロントでやったライブ盤があるじゃない。『平和の祈り』だっけ?プラスティック・オノ・バンドの。あれがまたショックだったわけ、俺には。だって、まずクラプトンでしょ。クリームのエリック・クラプトンと、イエスのアラン・ホワイトと、それからクラウス・ブーアマンがジョン・レノンと一緒にやってるんだよね。ニュー・ロックの連中がビートルズのレノンと。で、やってる曲はいったい何だっつうと、「ブルー・スウェード・シューズ」でしょ。ロックンロールでしょ。ショックですよ、これは。
でね、歌ってみたわけ、俺。レコードと一緒に。「ブルー・スウェード・シューズ」。そしたら歌えるんだ、これが。♬ジャージャ!ウェリッツァ・ワンフォーザマニー……って。歌えんだよね。あ、これがバンドだ、と思ってさ、で、よし!とにかくギターのうめえやつ捜そう、とか思ったりしたの。」
(桑田佳祐『ロックの子』講談社、1985)
1973年10月、鎌倉高校に通っていた宮治淳一から文化祭の出演バンドを探しているという話を聞いた鎌倉学園3年生の桑田は、まだバンドをやっていたわけでもなく、さらには他校の文化祭にもかかわらず、強引に出演を交渉。ここで出演したバンドが桑田の初バンド、初ライブパフォーマンスになるようである。
大トリを任された桑田たちだったが、ひとつ前の演者として茅ケ崎北陵高校の実力派が、矢沢永吉率いるキャロルの「レディー・セブンティーン」を軽快に歌い、観客を熱狂させていた。完全に萎縮。「負けるものか!」と向かったが、すでにメインは終わったと、教室はガラガラだった。
その差は歴然。しかし、そんな様子を物ともせず桑田は「69年の(カナダ)トロントライブで、ジョン・レノンがやったみたいに、即興でやろうぜ」と舞台に立った。
「マネー」などを歌う桑田に、宮治は「音楽はむちゃくちゃだけど、本物が現れた」と身震いがした。
(「音楽プロモーター 宮治淳一(62)× 歌手 桑田佳祐(61) 縁のものがたり@砂交じりの友情 茅ケ崎が生んだ2人の音楽少年」 カナロコ/神奈川新聞社、2017.9.13.
ここで取り上げられた曲のうち、判明している2曲が「Blue Suede Shoes」「Money」である。桑田の人生における初バンド・ライブは、『Live Peace In Toronto 1969』の再現であったのだ。
そして91年、北京での演奏でも、「Blue Suede Shoes」は取り上げられている。「Be-Bop-A-Lula」「I Saw Her Standing There」「Slow Down」など、やはりオールド・ロックンロールを中心とした選曲だったようである。ここに「クリといつまでも」を加えている。
「何か日本以外の場所でオールド・ロックンロールを演りたいって気持ちがずっとあったんで、夢がかなったような気分で…駄目でしょうか?(笑)
やっぱりオールド・ロックンロール、ロックの原型みたいなものは、僕にとって不滅のものなんですよ。酒呑んでも真面目な顔して演ってもいつでも新鮮なのは、「ビー・バップ・ア・ルーラ」であり「ブルー・スウェード・シューズ」なんだ。あのー、ジョン・レノンがトロントに行って演ったのがあったでしょう?「ブルー・スウェード・シューズ」で始まる“ピース・イン・トロント”か。あれなんかは僕にとっては何かこう“人生の標語”なんですよ。振り返ってみれば、僕なんかでも節目節目で必ずロックンロール演ってる。文化祭で初めて人前に立った時からずっと……。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
北京でのライブは、自身のバンドに対する初期衝動の再確認とともに、平和への祈りを込めた音楽活動としてのPlastic Ono Bandのトレースだったようにも見える。桑田にとってPlastic Ono Band的な概念としてのバンド、流動的なメンバーを擁するソロ活動用の名義がSuper Chimpanzeeだったのかもしれない。
「クリといつまでも」に話を戻すと…「Cold Turkey」との共通性というとあまり明確なものは見つからないが、楽曲のシンプルな構成(最初のヴァース8小節を2回繰り返し、コーラスになだれ込む)は類似しており、コード進行も「Cold Turkey」をもとに幾分複雑にしたような感もある(「幸せ願えば」付近でシンクロする)。また、平和活動の流れのバンドのシングルではあるが全くそういった方針を感じさせず、かつ放送禁止扱いを受けそうな歌詞…というのも共通点ともいえなくはない(かたやドラッグの禁断症状、かたやクリとトリとリスがテーマである)。
この会合では今後のビートルズの活動について話し合われ、次のアルバムは3人で4曲ずつとリンゴに2曲程度という均等配分の案が出た。
また、ジョンがクリスマス期のシングル発売を提案したが却下されている。
このシングル曲がコールド・ターキーだったのではないか。
クリスマスに普通に連想するターキーという言葉を使いながらドラッグ禁断症状についての曲というのがジョンらしいが、このシャレはポールとジョージには受け入れられなかったようだ。
ジョージはこのあとのトロント・ライブに誘われたときにも断り、この曲の初演に参加しなかった。
(野良(@nora_fabs) 9:13pm、2024.10.27. https://x.com/nora_fabs/status/1850511207750635969 https://x.com/nora_fabs/status/1850511211009642646)
意図したかどうかはともかく、季節もののワードを扱いながら一般的な連想との落差が凄い、という嫌味なセンスも共通点となるであろう。
Plastic Ono Bandは70年代のLennonのソロ作品のほとんどに大なり小なりクレジットされている(Plastic Ono Band with The Flux Fiddlers、Plastic Ono Band With Elephants Memory And The Invisible Strings、The Plastic Ono Band With The Harlem Community Choir、The Plastic U.F.Ono Band、The Plastic Ono Nuclear Band、など…)。Super Chimpanzeeは結果的には91年限定の活動となり、「音楽達人倶楽部」で「Super Chimpanzeeとその仲間たち」、「EXテレビ」で「Super Chimpanzee EX Band」としての出演までで活動は途切れてしまう(最後の曲は「Cold Turkey」であった)。92年以降、桑田のソロ活動においてこの名義で新譜をリリースすることはなかった。
後年、桑田は自身のソロ活動名義が多彩である(嘉門雄三&Victor Wheels、Kuwata Band、Super Chimpanzee、桑田佳祐& The Pin Boysなど)理由について、Plastic Ono Bandへの憧れ、影響であろうと語っている(桑田佳祐「ポップス歌手の耐えられない軽さ」文藝春秋、2021)。ただし、当時の状況からするとこのSuper Chimpanzeeこそが意図的に(1969年の)Plastic Ono Bandをフォローする存在として動いていたように見える。
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91年は原由子のソロアルバム・ライブ、そして桑田のライブ「Acoustic Revolution」から始まったSuper Chimpanzeeの濃密な活動の合間の夏、サザンのシングルのリリースとスタジアムライブも行われている。次回はそのあたりから見ていきたい。