2024年9月28日土曜日

1991 (1) :"Mother" Of Love

90年秋、桑田の自宅地下に「猫に小判スタジオ」が竣工。最初の録音は、8年ぶりとなる原由子のソロアルバムであった。

原のソロ楽曲は87年以降断続的にリリースされている。アルバムについてもシングルが出るたびに言及されてきたが、原自身の子育てや、プロデューサー・桑田が自身のソロやサザン〜映画撮影などで時間が取れなかったのか、着手は延び延びになっていたようである。自宅スタジオが完成し、移動しなくてもレコーディングが可能になったというのも大きいのかもしれない。

原由子「そのー、時間的制約もあって、集中してね、アルバムレコーディングするっていうのが、できないんです。でもやっぱり、いつか形としてLPっていうものにね、したいっていうのがあるんで、少しずつ作りだめしてるっていうか、唄いだめしてるっていう感じで…それで、2〜3曲ずつレコーディングっていうのが私のソロは一番やりやすいんで、それでまた今回(引用者注:シングル「ためいきのベルが鳴るとき」)もシングルになっちゃったんですけど、いずれはまとめてアルバムにしたいなっていうのが希望です。」
(『代官山通信 号外 1989年第2号』サザンオールスターズ応援団、1989)

87年以降リリースされた原のソロ作品は以下のとおり。珍しい原・桑田の共作「ガール/Girl」、桑田作「ためいきのベルが鳴るとき」以外はすべて原本人による作曲である。

「あじさいのうた c/w Tonight’s The Night」(1987.8.21.)
Produced by Keisuke Kuwata
Arranged by Keisuke Kuwata, Takeshi Fujii

「ガール/Girl / 春待ちロマン」(1988.4.21.)
Produced by Keisuke Kuwata
「ガール/Girl」
Arranged by Takeshi Kobayashi
「春待ちロマン」
Arranged by Hiroyasu Yaguchi, Satoshi Kadokura

「かいじゅうのうた c/w 星のハーモニー」(1989.4.26.)
「星のハーモニー / かいじゅうのうた」(1989.10.21. CDのみ、ジャケットのAB曲を逆転させ両A面表記で再発)
「かいじゅうのうた」
編曲:矢口博康
Engineered by 赤川新一
「星のハーモニー」
編曲:小林武史
Enginnered by 梅津達男

「ためいきのベルが鳴るとき c/w 星のハーモニー」(1989.5.21.)
Produced by Keisuke Kuwata, Takeshi Kobayashi
Arranged by Takeshi Kobayashi
Engineered by Tatsuo Umezu

『絵本とCDで楽しむピーターラビットのおはなし<第2集>』(1990.6.27.)
「キツネどんのおはなし」
編曲:門倉聡

『絵本とCDで楽しむピーターラビットのおはなし<第5集>』(1990.6.27.)
「ひげのサムエルのおはなし」
「グロースターの仕たて屋」
編曲:門倉聡

断続的に作られた作品は、特に88年以降は小林武史セクション、矢口博康・門倉聡セクションという2本の柱のスタッフによって制作されている。これは桑田ソロ〜サザンの制作体制と相互に影響を与えあっているということだろう。89年の録音・ミックスについては今井邦彦ではなく、この時点でビクターから既に独立していたベテランの梅津達男、さらに「かいじゅうのうた」は多くのミディ関連作や「ジャンクビート東京」も手がけた赤川新一が担当。サザンと比べると柔軟な体制で録音されていることも伺える。『絵本とCDで楽しむピーターラビットのおはなし』はイメージ曲のインストで、他に大貫妙子や山川恵津子らが作曲で参加。原は作曲のみで、演奏は門倉や菅原弘明に一任、「グロースターの仕たて屋」は小倉博和をフィーチャーしている。サントラ等も多く手がける門倉のセンスによるところも大きい3曲だ。「キツネどんのおはなし」で聴こえる滲んだコーラス・パッドは「ナチカサヌ恋歌」の原のコーラスの流用(サンプリング)に聴こえなくもないが、果たして…。

この流れで、門倉聡が90年に入りWinkのアレンジなどに注力していく中、『稲村ジェーン』を経た桑田は、原ソロアルバムでも継続して小林武史をパートナーに選んだということになる。ただし、88年春の時点で、すでに小林は原にソロアルバム制作の誘いとともに、自分がバックアップをすると宣言していたようだ。

原「これ(引用者注:「ガール/Girl」)は小林クンと私の最初の出会いの作品。ちょうど彼が桑田さんのソロでレコーディングをやっていて、並行してアレンジをみてくれた。この曲の作業の後に「ソロ・アルバム作ろうよ。オレに任せて」って感じで言ってくれたので、急に作ろうって気持ちが高まった。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』角川書店、1991)



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原のソロというと、前作『Miss Yokohamadult』においてはヴォーカリストとしての原の魅力を引き出すことに注力していたため、キーボードプレイヤーとしてトラック作りにはほぼ関わっていなかった。本作でもそのスタンスは変わっていない。ヴォーカルは原のキャリアの中では最も甘く艶のある時期で、ある意味さまざまなポップスを歌うのに適していたタイミングでもある。そんな原のヴォーカルに、87年の桑田のポップ・ミュージック宣言以降のスタンスをベースに、この数年の流れが反映されたサウンドが組み合わさり、バラエティ豊かな大作2枚組に仕上がっている。

翌92年、ソニーが提唱しソニー・マガジンズから雑誌「ガールポップ」が発刊されるような時代である。アイドルが廃れたJ-Pop初期における、女性シンガーものの雛形的な側面も持った2枚組ともいえよう。


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アルバム用のセッションは猫に小判スタジオが完成した90年秋以降に開始されたようで、以降の録音曲はアルバム『稲村ジェーン』同様小林武史、角谷仁宣のコンビによるトラックがベースとなっている。そして本作での初登場かつ重要なプレイヤーが、佐橋佳幸である。

佐橋は83年、Uguissのギタリストとしてエピック・ソニーよりデビュー。それ以前に高校の先輩にあたる清水信之の命を受け、同じく先輩のEPOのデビュー前のライブやデモテープ作りに携わり、80年のアルバム『Down Town』が初のレコード参加となる。84年のバンド解散後は様々なセッションに参加するようになり、80年代末には小林武史が仕切る現場に呼ばれることも多くなっていく。

佐橋佳幸「小林武史さんともちょうど、その少し前に知り合っていたんです。以前も話したけど、当時、僕はTOPという、藤井丈司さんや飯尾芳史さんといったYMO人脈が中心となって生まれた事務所に所属していて。その人脈繋がりで80年代の終わり、小林さんとも知り合うんです」
「小林さんがファーストアルバム『Duality』(1988年)を出した後かな。小林さんがアレンジする曲に僕をギター弾きとしてちょくちょく呼んでくれるようになって、仲良くなりました。ソロ作品のレコーディングや、その後のライブハウスツアーに大村憲司さんの後釜で参加したり…。あと、その頃だと鈴木聖美さんのレコーディングとか、小林さんが作編曲・プロデュースを手がけた仕事にも頻繁に呼ばれるようになって」
(【佐橋佳幸の40曲】小泉今日子「あなたに会えてよかった」名うてのビートルマニア大集合!https://reminder.top/292698159/

本作では、80年代のシングル曲を除く、90年以降のセッションのほとんどの曲のギターが佐橋によるものだ。15曲中8曲が佐橋単独のギター、加えて小倉博和と併記されている3曲も、クレジットや音から察するに佐橋の割合が大きいと推測される。多彩な楽曲たちに華麗に対応する、佐橋の万能さが窺い知れる。

そして『稲村ジェーン』から引き続き小倉博和、根岸孝旨、小田原豊らも参加。パーカッションはおなじみ今野多久郎が担当しているのも『稲村ジェーン』末期のレコーディングからの流れといえよう。

Produced by KEISUKE KUWATA & TAKESHI KOBAYASHI
Co-produced by KUNIHIKO IMAI
Recording Engineered by KUNIHIKO IMAI, HIROSHI HIRANUMA
  TATSUO UMETSU, SHINICHI AKAGAWA, SHOZO INOMATA
Remix Engineered by KUNIHIKO IMAI
  TATSUO UMETSU, SHINICHI AKAGAWA

プロデュースは桑田・小林、共同プロデューサーとして今井邦彦、さらには個別に高垣健も共同プロデューサーとしてクレジットされている。アルバム『稲村ジェーン』の延長といった体制でのレコーディングだ。桑田と小林とのコンビネーションも3年を超え、呼応関係がよりスムーズになっていったようである。
「小林(武史)クンがレコーディングに加わるようになって、もう何年も経つけど、それ以前と比べて変わったところは、アレンジのシミュレーションがいろいろできるようになったことなんだよね。だけど、最近はそういう作業も割と少なくなって、初めからかなりダイレクトに決まってきてる。最初から(曲の)敷地内にいろんなものを作ってくるしさ。何回も仮の住まいを建ててブッ壊すようなことはしない。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』)



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収録曲は桑田のペンによる曲が7曲、原のペンによる曲が10曲。小林作が1曲、原と小倉の共作が1曲、カバーが1曲と、意外と原による曲が最多収録となっている。そういった意味では、シンガーソングライター的な作品として楽しめるのも特徴だろう。原のペンによる曲は、プロデューサーソングライター桑田による、意図が明確でアクの強い曲とはまた別の魅力があることをリリース時に指摘したのはサザンのバンドメイト、関口和之である。

関口和之「とくに原坊が作った曲がいい。桑田が作った曲ってのは、“こう考えてる”というのが出ちゃうんですよ。僕なんかは聴いてると、桑田の声が聞こえてくるんだよね。だけど原坊の曲は、全体にこう、ほんのりした感じがするんです。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』)


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マシンのドラムによるRonnettes「Be My Baby」イントロを踏襲した桑田作「ハートせつなく」でアルバムは明るく(しかし歌詞は悲しく)スタート。「Be My Baby」ということでPhil Spector、いわゆるウォール・オブ・サウンドの再現かというとそこまででもなく、バリトンサックスでボトムに壁は作りつつも他は比較的あっさりとした音空間だ。桑田のBrian Wilson風ファルセットやMike Love風ベースパートなどでBeach Boysの要素も添えつつ、60年代の訳詞ガールポップ的な世界を90年代初頭に蘇らせたという雰囲気である。オールディー感あふれるトレモロギターやアコギは佐橋、的確に踊るベースは根岸、サックスはダディ柴田、パーカッションは今野。原によると、制作側はヴォーカル・ディレクションの際、竹内まりやの名を出していたようだ。
「だって歌う時に、まりやさんみたいな感じでって言われて。ぜんぜん真似できないんだけど、なるほど、こんな感じかなと思って。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
アルバムリリースの約2ヶ月前、91年3月27日にシングルとしてリリースされている。

イントロのコード進行などに笠置シヅ子「ラッパと娘」の香りを感じさせる、桑田作のジャズ歌謡もの「東京ラブコール」。左のギターはレーベルメイトであるレピッシュの杉本恭一。右にガットギターもフィーチャーされているが、こちらはもちろん小倉によるもの。トロンボーンは松本治。

「少女時代」はもともと斉藤由貴88年のアルバム『Pant』に原が提供していた曲で、セルフカバーにあたる。冒頭のコード進行からヒントを得たのか、小林は原由子版「希望の轍」といったアレンジ(メロトロン、ストリングスのフレーズ、ブラスの音色や使い方など類似要素が多い)を施したようで、オリジナルのポップであっさりとした雰囲気と比較するとかなりドラマティックな印象を与える出来栄えだ。最後にオリジナルには無かった「希望の明日へ」というフレーズも追加された。佐橋のギター、根岸のベースも同じ方向を向き、ひとつひとつのフレーズが曲の盛り上がりを増幅させている。パーカッションは今野。

89年のシングル2作のB面に収録されていた原によるペンの「星のハーモニー」は、本アルバム用のニュー・ミックスで収録(ちなみにシングル2作でもそれぞれミックス、エディットが異なっている)。抜けがよくなり、イントロの星の動きをイメージした?打ち込みのパーカッションがアルバムでは1小節おきにオミットされている。原いわく、「子どもと一緒に聴いてるお母さんを意識した」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)とのこと。アレンジは桑田がノータッチなのか、小林の単独クレジットである。89年の録音のため、角谷ではなく藤井丈司がプログラミングを担当。

桑田作、60年代後半のやさぐれGS歌謡の世界「じんじん」はアルバムリリースの3日前に先行シングルとしてリリースされている(この変則的なタイミングはどういう意図があったのだろうか)。エレキ・12弦・アコギが佐橋、小倉もエレキで参加。根岸・小田原・今野と本作の中心メンバーによる演奏に、桑田のひとりじんじんコーラスが炸裂するテンション高めの一曲である。
「これは和製のバタ臭さと申しましょうか、芸能界しか行くところがないって感じで。ちょっと整形に失敗しました、みたいな(笑)。ブルー・コメッツと美空ひばりでGSをやったりという……あとはピンキーとキラーズですかね。行き場のない人たちの集まる芸能界(笑)。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

ここで桑田・原の夫婦以外、本アルバムのプロデューサー兼アレンジャーである小林のペンによる「使い古された諺を信じて」が登場。アレンジも小林単独のクレジットだ。
原「小林クンの頭にお洒落な雰囲気というのがあって(後略)」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
お洒落ということで、小林のハネるシンベ、ワウ・クラヴィネット、そして何より左で鳴るおそらく佐橋のシティなカッティングがその雰囲気を支えている。間奏のギターソロは小倉だろうか。ドラムは小田原だが、「も一度だけ〜」の部分で一瞬ヒネったドラムパターンになるのも面白い。パーカッションでレベッカのサポート中島オバヲが参加。コーラスは前田康美と桑田。作詞のみ桑田というのも珍しい。
「小林クンの作ってきたメロディーにオレが詞をつけるそのやり方は歌謡曲ぽかったけど面白かった。原坊は仮り歌のお姉さんというか、ダミー(笑)。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

原によるペンの「Good Luck, Lovers!」では珍しくドラムに青山純を迎えている。ギターは小倉、コーラス…というか終盤でひとこと多重で歌っているのは桑田。原の当初の意図としては田舎臭いサザン・ロックがあったようだが、小林のクラヴィネットやシンベ、青山らしい重いながらもタイトなドラムなどが組み合わさり洗練された仕上がりとなっている。
原「これはサザン・ロックみたいな時代遅れ泥臭いイメージでやったんですけど、出来上がったらあんまり田舎さはなかったという。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

フジテレビ系幼児・子供向け番組「ひらけ!ポンキッキ」用に録音・シングルリリースされた「かいじゅうのうた」は89年の録音で、原の作曲・矢口博康によるアレンジ。桑田や小林はノータッチである。キーボードは門倉聡。東京ブラボーのブラボー小松、Soft BalletのサポートやShi-shonenに参加の塚田嗣人がかいじゅう風ギターを熱演。ベースは70年代からソウル系の作品(Michael Jackson「Rock With You」など)に参加しているBobby Watson。ドラムはおなじみ松田弘。松田によると、風変わりなレコーディングだったとのことである。
松田弘「ふつうはまずドラムでリズム録りをして、その上にメロディとかギターのカッティングなんかと“こうきたから、こういく”というように受け答えしながら重ねていくんだけど、今回例えば「かいじゅうのうた」では、曲全体の青写真が見えないまま、最初からドラムの細かい部分まで全部入れたんだよね。そのあとに入れたギターがもう最初から全編、グワーッとした感じの音ばかりで、これでほんとにいいのかなぁって感じなんだよ。まあそこから音をピック・アップしていって、怪獣の雄叫びっぽくしていくんだけど、なんだか摩訶不思議な作り方だった。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
さらには朝本千加、沢村充、矢口の3名によるサックスと豪華な顔ぶれによるトラックにのせ、桑田家の長男視点からの兄弟愛が歌われている。

都倉俊一&阿久悠コンビ作、ピンク・レディーのカバーである「UFO(僕らの銀河系)」。地味目のグラウンドビート風味のトラックで、ロシア語のラップをフィーチャーするなど、オリジナルに比べぐっと渋めに迫ったアプローチである。ギターは佐橋、コーラスと補作詞が桑田、Voice・補作詞としてクレジットされているラップのJadrankaはおそらくJadranka Stojaković。ユーゴスラビア出身のJadrankaは当時日本に活動拠点を移し、J.E.F.でおなじみ東芝のポップサイズからアルバムをリリースしている。
「この曲はボクの目配りから出てきたものでしょうか?“歌う電通”と言われてますから(笑)。でも二枚組アルバムのなかでカバーは絶対やった方がいいなと思って。」
「途中のラップは銀河系の彼方から来た宇宙人のつぶやき。地球人と仲良くするためにやって来たんだと。ところが地球じゃ地球人同士が喧嘩してる。もしかしたら、地球人とやらは銀河系の友だちが見てる目の前でお互いに殺し合ったりするんじゃないかってメッセージをロシア語で入れた。ちょうど湾岸戦争が始まった時期で、UFOは侵略みたいなことも連想するから、何となくそんなことを考えてた。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

1枚目の締めは「花咲く旅路」。作者の桑田によると、高田浩吉の「大江戸出世小唄」を意識して着手されたという。
「高田浩吉っぽい“土手の柳は風まかせ”というマイナーかメジャーか判然としない“転ぶ”みたいな曲を目指したんだけど、難しくてオレ作れなかったんだ。「こんぴらふねふねおいてに帆かけてシュラシュシュシュ」っていうの。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
「ナチカサヌ恋歌」の続編・延長ということなのか、同曲で聴かれた原の多重コーラスが冒頭から何度か登場。この数年のワールドミュージックブームで様々なチャレンジをしていた桑田が、原というヴォーカリストと共に最終的にこの曲に到達した…というところだろうか。佐橋のギター&マンドリン、桑田のコーラスをフィーチャーしている。90年秋からオンエアのJR東海の企業CM「日本を休もう」は当初中華風インストが流れるアニメCMであったが、すぐに「花咲く旅路」を使用したバージョンに変更。シングルカットはされていないが、アルバムリリース時すでに世間では耳馴染みの曲であったことだろう。

2枚目の1曲目は原による作曲・小林単独のアレンジ「お涙ちょうだい」。原はCarly Simon的ブルーアイドソウルの世界を意識したという。
原「高校の時、カーリ・サイモンとか好きでね。あんな、クロっぽい白人みたいなブルージーな感じが出せたらいいなぁって。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
佐橋をフィーチャーした小林のアレンジはニューソウル的な要素を、ミックスはナローでデッドながら当時のUK的、ソフィスティ・ポップ的な音色なども多少加味したような雰囲気で構築している。サックスは包国充、コーラスは桑田。どういう経緯か作詞は森雪之丞が担当している。

グラム・ロック・ミーツ・テクノといった雰囲気のトラックに、無機質なテクノ・ポップ風…というかジューシィ・フルーツでのイリア風ヴォーカルを乗せ、セクシュアルな歌詞が展開されるというミスマッチを狙った「イロイロのパー」。ギターは佐橋、ハーモニカは八木のぶお、コーラスは桑田、Voiceとして梶明子も参加。小林がキーボードと共にサンプリング・ギターとクレジットされているが、イントロの左で鳴っているカッティングの音であろうか。

本作で一番古い録音である87年リリース「あじさいのうた」は、産休・育休で音楽から離れていたシンガーソングライター原由子の復活を高らかに示した曲である。
原「この曲ができてみて、やっぱり私には音楽は必要なんだなってことがわかった。だから、記念碑的な作品です。忘れがちな思いを素直に歌にして。育児を含めて毎日に忙殺されてると、恋心とかステキな気持ちって忘れちゃうじゃないですか?」
「この曲はキーボードで作曲する時の私の特性みたいなのがあって、けっこう好きなコード進行なんですよね。だから自然にできた。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
桑田ソロ「悲しい気持ち」の前哨戦として桑田と藤井丈司の2名体制でアレンジ。原田末秋・琢磨仁・松田弘とのレコーディングで、「雨に唄えば」というフレーズも出てくる爽快感のあるレイニー・ポップスである。

珍しく原と小倉の共作である「夜空を見上げれば」は、佐橋と小倉のアコギに中西俊博・桑野聖・桑江千絵・向山佳絵子による弦楽四重奏をフィーチャーするという本作でも珍しい編成。原由子としか言いようのない優しさが全編を貫いた楽曲といえるだろう。この時期の世相を鑑みて書かれた歌詞のようだ。
原「世界や日本がこの先どうなるかわからないけど、子どもが大きくなった時にも夜空を見上げて「星がキレイだね」って言っていられる世の中であってほしいなと。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
アレンジは原・小倉・小林・桑田の連名で、加えてストリングスアレンジに中西俊博を迎えている。

「Anneの街」は原の作で、「赤毛のアン」にインスパイアされた歌詞ということである。アレンジは小林単独のクレジット。
「これは小林クンと原坊のカップリングで、お互いの繊細な部分が響き合ってる。僕はこのアレンジにはぜんぜんかかわってないです。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
コーラスも小林主体?で桑田が加わるという、異色のバランスだが不思議と曲に合っている。プログラミングは角谷でなく藤井丈司で、ひょっとしたらベーシックは80年代に録ってあったのかもしれない。途中から登場するMoogは、グロッケンと共にこれ以降の小林武史のアレンジを語る上で欠かせない存在だろう。なお、アルバムに収められたバージョンはシングルとミックスは同じようだが、歌が終わるところでフェイドアウトするショート・バージョン。そのため、この曲の大きな魅力のひとつである、何度か登場する八木のぶおのソロと佐橋のオブリの組合せのうち、歌が終わって以降の部分はシングルでしか聴くことができない。

「終幕(フィナーレ)」は歌謡調というか火曜サスペンス劇場調というか竹内まりやのマイナーもの調という雰囲気もする、原の作曲・小林アレンジの一曲。歌詞もバスが出ていくあたり、そういった雰囲気をさらに印象付けている。ドラムは小田原、ベースは味に変化をつけるためか有賀啓雄、ブラス・ストリングスアレンジは中西俊博によるもののようだ。そのため弦も中西俊博グループが担当、フリューゲルホーンは数原晋、フルートに篠原猛。

88年に「ガール/Girl」とのカップリングでリリースされたシングル曲「春待ちロマン」は矢口博康・門倉聡アレンジの春の訪れを感じさせる、シンセのスティールパンやマリンバが印象的な一曲。キーボードは門倉、サックスと珍しくギターも矢口、ベースに中原信雄、プログラミングは土岐幸男。原はこの曲についてはギターで作曲したという。
原「これはギターを鳴らしながら作曲しました。キーボードで作るとコード進行が似通ったりしてある意味自分の欠点が出ちゃったりするんで。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

イントロの小林・小倉の組み合わせから早くも印象的な、桑田のペンによる「ためいきのベルが鳴るとき」も89年にシングルとしてリリースされていた曲だ。小林の単独アレンジで、小林・小倉に加えドラムは松田弘、プログラミングは藤井丈司。ファルセットの多重コーラスは桑田。この曲も「星のハーモニー」同様アルバム収録に際しリミックスされており、すっきりしたタイトな音像に変わったほか、シングルバージョンにはあった各種パーカッションの一部や「uh...lalala...Ringin' a bell just seems to tell what's in my」部分のドラムがオミットされている。

87年にキユーピーのCMに使われた原の書き下ろしコマソンは、特に当時はタイトルも公表されず、リリースもされなかった。それが4年を経て後続部分を追加しリレコーディング、「キューピーはきっと来る」のタイトルで本作に収録となる。CM用録音ではブラス隊をメインに、ドラムもキックとブラシのみ…という編成だったが、今回は小林のニュー・アレンジ、松田弘のマーチングドラム、小倉博和のブズーキ、樋沢達彦のベース、包国充のサックス、小林正弘のトランペット、池谷明広のトロンボーンが賑やかに曲を彩っている。

原にしては珍しい、歌い込むバラード「想い出のリボン」でアルバムは締まる。エレキギターとエレキシタールに原田末秋、同じくエレキ・アコギに小倉、コーラスは桑田。こういった曲でエレキシタールが鳴るあたり、山下達郎によるフィリーソウル経由のバラードに通ずるものがあると思えば、実際桑田はヴォーカル・ディレクション時に山下を意識していたようなコメントをしている。
「(山下)達郎さん節を要求されるからね。ンン〜ンという、ンがなきゃダメだから。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
山下達郎で締める、という意味では『Keisuke Kuwata』にも通ずるものがあるが、今回は竹内まりやで始めているあたり、同じ制作チームのこだわりが見てとれる。


***


91年6月1日にリリースされた本作が与えた影響として、共同プロデューサーでメインアレンジャーでもある小林武史の動向があるだろう。

このアルバムリリースの直前、5月21日にリリースされた小泉今日子のシングル「あなたに会えてよかった」の作曲・編曲を担当したのが小林武史である。

収録アルバム『afropia』になぜかクレジットはないがプログラミングはおなじみ角谷仁宣が担当(ジャパニーズポップスとヤマハシンセサイザー https://jp.yamaha.com/products/contents/music_production/synth_50th/anecdotes/012.html。そのほか、演奏も『Mother』セッションでおなじみ佐橋・根岸・小田原が起用された。佐橋によると、セッション中に悩んだ小林が自分のパートのみ弾いて失踪してしまうというハプニングがあり、3名でビートリーなフォークロックの方向へと転がしたという
(【佐橋佳幸の40曲】小泉今日子「あなたに会えてよかった」名うてのビートルマニア大集合! https://reminder.top/292698159/

とはいえ、上物については小林の、というか『Mother』アレンジのアイディア総復習といった感がある。「ハートせつなく」のバリトンサックス、「少女時代」「使い古された諺を信じて」(遡れば「希望の轍」)のメロトロン、「Anneの街」のポルタメントのかかったMoogなどのモノシンセ(遡れば「誰かの風の跡」)、「想い出のリボン」のエレキシタール(遡れば「真夏の果実」)、など、ここ数年の桑田絡みの小林作品の断片があちらこちらから聴こえてくる。(クレジットはないが佐橋アレンジの)鈴木祥子とのコーラスを含めた佐橋・根岸・小田原のBeatles的な要素と、小林=『Mother』の要素の組み合わせが不思議なバランスで仕上がったユニークなアレンジ…といえるのだろう。

この後、小林は91年10月リリースの牧瀬里穂「Miracle Love」(竹内まりや作)のアレンジも担当。こちらも小林・角谷・佐橋・小田原と、これまでの流れの面子による演奏である。この頃になると、小林によるガールものも80年代末の田村英里子や立花理佐で聴かれたシンセ中心のトラックから、生音志向に移り変わりつつあるのがわかる。

そのいっぽう小林は、8月には個人事務所、烏龍舎を設立。桑田のコネクションでアミューズ大里洋吉に直談判し、ニューヨークのアミューズ所有のマンションをレコーディングの場としてレンタルする。そして10月には渡米、拠点をニューヨークに移すのだった。

新しいミュージシャンを探してニューヨークから日本とアジアへ向けてプロデュースしたいというのが、小林のアイディアだったのだ。
(略)
途中でアミューズ側の事情が変わりスタジオ構想は頓挫するのだが、すでにこの時期、今年デビューした『MY LITTLE LOVER』につながる女性ユニットの原型を見つけてプロデュースを開始している。
(『月刊Views 1995年9月号』講談社、1995)

ニューヨークでMy Little Loverの原型…というと既にこの当時、ガールヴォーカルとLenny Kravitz〜Waterfront Studio的なサウンドの融合を目指していたのだろうか。しかし結局アミューズのマンションが使えなくなったため、2ヶ月程度で小林は帰国を余儀なくされる(そのタイミングで、トイズファクトリーから新人バンドのプロデュース依頼を受けることになる)。

のちの小林の発言(『月刊カドカワ 1996年1月号』角川書店、1995では、過去に自腹でWaterfront Studioに出向き、My Little Loverの前身としてとある女性ヴォーカリストと録音していると明かしている。レコーディングのタイミングは不明(『Vanessa Paradis』とどちらが先だろうか)だが、小林のこういった動きも『稲村ジェーン』〜『Mother』を経てのものというのが興味深い。

また、11月には原のシングル「負けるな女の子!」がリリース。読売テレビ制作のアニメ「Yawara!」主題歌用に原が書き下ろした曲で、小林の単独プロデュース・アレンジで桑田は完全にノータッチのようだ。角谷・小倉・小田原の3名とフルートはJake H. Conception、コーラスで前田康美が参加。小林のシンベや、小田原のタム捌きを存分に味わうことができる一曲だ。

小林武史以外にも『Mother』の影響は存在する。佐橋佳幸と小倉博和のコンビ「山弦」結成のきっかけはこの『Mother』セッション、そして後述の、並行して行われた桑田のソロライブであった。


***


『Mother』には様々なラブ・ソングが収められているが、これはやはり当時の世相が影響しているといえそうである。

原「最近“私のメッセージ”があるとすればそれは何かな?とか考えるんです。たとえば、戦争に対して“戦争反対!”って行進するのも何か違うかなぁと。反対と言うのは簡単、と言っては大変失礼なんですけど、反対するよりどうやったら解決するかとか、どうしたら戦争に行かなくて済むだろうか?って考えたほうが、“戦争反対!”と言ってるだけよりもいいのになーって思う。何か根本的な、普遍的な、クサイ言い方だけど、普遍的な愛や子どもや、恋人とか友だちとか、そういうものをみんなが思い出せば戦争なんて事態には至らないんじゃないか?と思ったりしているんです。
「人間的には、やっぱり母親になったというのが一番大きかったでしょうねぇ。今もし母親じゃなかったら、湾岸戦争のこととか、環境問題もぜんぜん気にならなかったかもしれないなぁって思ってるんですよ。嫌だなぁっていうぐらいで、実際に自分のこととして考えられなかったかもしれない。やっぱり子どもを守りたい気持ちは強いですから、すべて他人事じゃなくなっちゃいました。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

特に91年1月〜2月の湾岸戦争は、まさに『Mother』レコーディングの最中に勃発している。この時期、録音現場でも話題の中心になっていたという。

そんな中、プロデューサーの桑田は、レコーディングと並行し急遽洋楽のカバーのみで構成されたソロライブを企画・開催する。演奏メンバーには『Mother』録音のコアメンバーから小林武史、小倉博和、佐橋佳幸らがそのまま召集されることになる。

佐橋「ある日、桑田さんから “オレが若い頃に聞いてた洋楽のカバーばっかりのライブをやるんだけど手伝ってくんない?” って言われて。そんなの、まさに僕の大好物の企画じゃないですか(笑)。断る理由がない。で、僕とオグちゃんと、ツインギターで参加したのがパワステでの “アコースティック・レボリューション” だったわけです。」
【佐橋佳幸の40曲】SUPER CHIMPANZEE「クリといつまでも」桑田佳祐が結成した幻のバンド
https://reminder.top/646962821/








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