2024年6月15日土曜日

1990 (2) :未だに青春は軟弱なまま

80年代に入り、何度か海外との接点を接点を作ろうとしていた桑田だったが、87年後半以降はソロアルバム・サザン復活・映画撮影…と、しばらく国内マーケットに焦点を絞った活動を続けてきた。86年のKuwata Band87年のHall & Oatesとの共演を経たのち、海外への目線はどうなっていたのか。

以下は90年前半、『Southern All Stars』大ヒットを記録した後のインタビュー。

「だから、200万枚とか国民的バンドとかっていうセリフ自体、やっぱり村祭りにしかすぎないなって気がするよね。村祭りの音楽やってるってことに関して、ひとつの満足はあるんだ。けど、それだけじゃ夢がなさすぎるからねー。村に譬えるなら、俺は東京へ出て行きたいっていう気持ちあるしさ。東京が村であるんだったら世界へ出て行きたいって気持ち、あるね」
— 現状には満足してない?
「いや、キープする気はないってこと」
— 何か具体的に考えてることは?
「ん〜と。まあ、具体的じゃないんだけど。ぼく個人としてはね、例の映画(監督作品『稲村ジェーン』)が一段落するのが夏ぐらいだと思うんだけど。その後にちょっと海外行って、自分のバンドを作るなり、ね。向こうでライヴやるための、なんかそういったプロジェクトを作りたいなーと思ってるわけ。向こうのミュージシャンも含めてやったほうがいいと思うんだけどね、もはや。音楽っていうのは、世界の壁を越えるって意味だと思ってるから。それが、音楽が本来持ってる意味だと思う。人間の壁っていうか、それを越えるって意味だと俺は思ってるんだ。それがあまりにもビジネス用語になっちゃってて。日本人同士の取引の材料になっちゃってるからさ。決して輸出しない商品の。結局、演歌とか歌謡曲の世界に入ってたらそういう考え方は起きなかったと思うんだけど。やっぱり女にふられて、クラプトンからエルトン・ジョンとかリトル・フィートとかに憧れた人間としてはですね(笑)、ああいう人たちと一緒にやりたいな、っていう気持ちを棄てちゃうと、音楽やってる意味がないっていう気がするのね。」
(『Trans-Culture Magazine 03 Tokyo Calling 1990年5月号』新潮社、1990)

そこまで具体的な計画を立てていたわけでもないようだが、この時点でも海外を視野に順を追ってアプローチを再開させたい…という意向があったようである。まずは映画の完成に向け追い込みをかけ、その後に何らか動いてみたい、というところだったのだろう。


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さて、桑田がアルバム『稲村ジェーン』の制作追い込みに奮闘している頃、サザンのメンバー3名が「S.A.S. Project」名義で3曲にかかわった、もう一枚の企画アルバムが並行して製作されている。90年11月末にビクターのinvitationからリリースされた、Mrs. Jones Loversによる『Snowbird Hotel』である。
冬〜スノーリゾートをテーマにした企画アルバムなのだが、ライナーを見ただけではいったいどういった経緯で、誰を中心に作られた作品なのかわからない。プロデュースや「(C)企画、設計」としてヘンリー片岡のクレジットがある。

このMrs. Jones Lovers、こののち92年にアルバムをもう1枚リリースしている。M. J. Lovers名義でリリースされた『Rhapsody In Winter』が2021年にCDリイシューされ、鷺巣詩郎と柴崎祐二によるライナーでこのユニットの正体が明かされている。主体となっているのがヘンリー片岡と鷺巣詩郎。二人は88年のChocolate Kids Jr. & Henrry-B-White、89年のGavi、97年にはNo-Wethers…と幾多のユニット名で、主にウィンター・アルバムを制作し続けていたのだ。首謀者のヘンリー片岡とはとある博報堂プランナーの、音楽活動時のペンネームということだ。Mrs. Jones LoversというとKenneth Gamble & Leon Huff作のフィリーソウルクラシック「Me & Mrs. Jones」を思い起こすグループ名だが、実際この曲から取られているようで、特に『Rhapsody In Winter』はフィリーソウルへのオマージュといった要素が全編から感じられる。

『Snowbird Hotel』収録曲は基本的にヘンリー片岡&鷺巣詩郎のペンによる楽曲を、岩本正樹・笹路正徳・亀田誠治と、これ以降のJ-POP界でも多くのヒットを残すことになるアレンジャー達によるサウンドで彩っている。そしてなぜサザンの3名がここに起用されたのかその経緯はいまだに不明だが、とにかく松田弘・大森隆志・野沢秀行が「S.A.S. Project」のユニット名で「Party, Party, Party」「Silent Morning」「Snow Samba」3曲のアレンジ・演奏・サウンドプロデュースを担当しているのだ。

3曲については、録音を担当した当時アミューズスタジオ(こちらは87年4月に完成しているが、桑田関連の録音では使用されていないようだ)の熊田倫和もサウンドプロデュースに連名でクレジット。アレンジは既にサザンのライブでは顔なじみであった、片山敦夫がS.A.S. Projectと連名でクレジットされている。「Silent Morning」はアルバム中例外的に、大森のペンによる曲だ。ヴォーカルはアルバムの他の曲にあわせそれぞれヴォーカリストをフィーチャー。川内裕子、ブルースシンガーの入道(西村入道)、松田が88年にアルバムをプロデュースしている宮崎萬純…の3名が起用されており、あくまでS.A.S. Projectの3者はサウンド作りに徹している。曲によってメイン担当を分けた(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)ようで、グラウンドビートの「Party, Party, Party」は松田、バラードの「Silent Morning」は大森、「Snow Samba」は野沢…といった具合だろうか。そしてこれら3曲は、完成したばかりの松田のプライベートスタジオ、Beat Club Studioでベーシックが録音されている。

89年11月、松田はプライベートオフィス「Beat Club Corporation」を創立。プライベートスタジオであるBeat Club Studioが90年5月にアミューズスタジオの熊田のサポートを得て完成している(『代官山通信 Vol.29 Oct. 1990』サザンオールスターズ応援団、1990)

 スタジオの使用目的は?
松田弘「最初は自分のソロ・アルバムのためのスペースということを考えていたんですが、プリプロを含め、ある程度のレベルまではレコーディングできますから、いろいろと可能性は広がりますね。誰かのプロデュースとかね。
それから、ニューヨークにはリズム専門のオペレーターがいて、それが会社組織になっているんですけど、そういう可能性は日本にないのかなって考えてたんですよ。ドラマーとしては、そういう仕事っていいですよね、夢として。」
(『Sound & Recording Magazine 1991年1月号』リットーミュージック、1990)

ニューヨークというのは87年、Hall & Oatesと桑田のレコーディング参加のため渡米した際のエピソードである。

松田「87年はニューヨークに行って。これは強力だった。向こうのオペレーターってドラマー出身なんだよね。ドラマーじゃなきゃやれないっていう規則があってさ。タイム感、スウィング感、ノリとかね。ドラマーの仕事をユニオンで保証されたたり、いいシステムだなと思って、それがもとになって自分でも組織を作ろうかなって思ったんですね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

単なる個人事務所、宅録用スタジオというだけでなく、ドラマーによるリズム・プログラミング組織の立ち上げという目標も持ちあわせながら始めたのがBeat Clubというわけである。そういえばKuwata Band「Merry X’mas In Summer」(「All Day Long」も?)では、既にマニュアル・プレイではない、松田自ら打ち込んだマシンのドラムが使われていた。サザンのメンバーというよりは一プレイヤー、ドラマーとしての立場から、時代に即した在り方を模索した結果、オフィス・スタジオの設立に至ったということなのだろう。

そういった背景から、Beat Club Studioはマンションの一室を利用して作られており、ライン録りメインで本格的な防音もされていない。設置されているのもPC98、MacといったコンピューターとRoland D-70あたりをメインとしたシンセサイザーのみで、ドラムはトレーニングキットしか置かれていない『Sound & Recording Magazine 1991年1月号』

 ところで、弘さんのスタジオということなんですが、ドラマーのスタジオなのになぜドラムセットがおいてないんですか?
松田「ドラムは……今、ドラムマシーンっていうのがあったり、パソコンで音楽を作ったりっていうのが半分ぐらい主流になってきてるのね。それで、自分の音をディスクに残して、それをコンピューターで打ち込んで音楽を作るっていうやり方があるから、それをちょっとやってみようかなと思って。まぁ、コンピューターミュージックっていえばそれだけど、そういうやり方で、データーだけでとっちゃったりすれば、時間的に早いんだよね。レコーディングスタジオに入ってやる作業が少なくてすむんだ。今のレコーディングの形態っていうのは、もうその前の段階で、例えば自宅録音でもいいからデーターをたくさん残して、それを持っていくみたいな、そういう方法があるから、じゃあここで、単純にデーターだけじゃなくて、もっとクオリティーの高いものっていうか、完成度の高いものでそのままレコーディングにも使えるようなデーターができればいいなって思ってるんだよね。」
(『代官山通信 Vol.29 Oct. 1990』サザンオールスターズ応援団、1990)

スタジオを構え、『Snowbird Hotel』収録曲の製作作業を行ったわけだが、その後はまずは松田のソロアルバム用の作業を想定していたようだ。ゆくゆくはサザンのリズム・プログラミングの場としての使用も考えていたようである。

 このスタジオを使っての今後の予定は?
松田「基本的には自分の関係した仕事以外はしたくないというのがあるんですけど、実験的なケースとして箱貸しする場合もあるでしょうね。まあ、とりあえず自分のソロ・アルバムに向けての制作の場でありたいし、サザンの次回作となった時には、リズムのアプローチはここでやりたいな、というのはありますね。」
(『Sound & Recording Magazine 1991年1月号』


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Beat Club Studioの完成から遅れること数ヶ月、桑田の自宅地下にもレコーディングスタジオが完成している。

 このレコーディング(引用者注:原由子91年のアルバム『Mother』)は、ビクタースタジオだけでなくこの"猫に小判スタジオ” でもやってるわけなんですけれども、このスタジオはいつ頃できたんでしょうか?
原由子「去年の9月ぐらいにやっと使えるようになって、まず最初の使用が私のレコーディングだったってことで。だから、最初の頃はよくね、テープが暴走しちゃったり、止まれって行っても止まらなかったり、いろいろトラブル続出で(笑)。」
 設備は、プライベートスタジオとしては、日本でも1、2を争う凄いものだって聞いてたんですけどねぇ…
原「そうかなあ〜。それでね、スタジオが実際に始動するまでの間、機械をずっと置きっぱなしだったんですよね。私もモノグサだから、あんまり見に行かなかったの。そうしたら、悪いことに梅雨とか、夏とかがあって、秋の初めに覗きに行ったらね、カビが生えてたの、コンソールに(笑)。それもあってね、みんなに非難を浴びたっていうか、”猫に小判”、って言われちゃったの。でね、金属につくカビって染みみたいになっちゃって取れないのよねー、色が染みこんじゃって。だから、今でもあるよ、カビの跡が。地下だから湿気が凄いの。」
(『代官山通信 Vol.32 Mar. 1991』サザンオールスターズ、SAS応援団、1991)

『Sound & Recording Magazine 1991年1月号』によると松田のBeat Club StudioはレコーダーもAKAI A-DAMで、デジタルメインのコンパクトな構成であった。一方桑田のプライベートスタジオはというと、詳細は不明ながらアナログ機材を中心に据えていたようだ。「東京サリーちゃん」レコーディングと並行して作られたと思しきスタジオだが、Lenny Kravitz『Let Love Rule』あたりの影響もあったのだろうか。

「その前に、自宅の地下に“猫に小判スタジオ”っていう小さいスタジオを作ったんですけど、設備がアナログで、アナログの魅力にけっこう毒されてた。アナログはやっぱり俺が求めてた音だっていまさら思ったんだけど(後略)
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

スタジオ名については、前述の、コンソールにカビを生やしてしまったというエピソード等も踏まえての、小林武史のひとことがきっかけのようである。

今井邦彦「一応24チャンのアナログマルチも入ってて。小林さんがそれに対して「桑田さんには猫に小判みたいなものだ」って。それで“猫に小判スタジオ”。」
(「Switch Vol.31 No.8」スイッチ・パブリッシング、2013)

このスタジオの完成によって、青山のビクタースタジオまで移動・占拠しなくとも、宅録でベーシックやヴォーカル録りが行えることになる。何時間でも終わりを気にせずレコーディングに没頭できる環境というのは、80年代後半から一気に録音作業に傾倒していった桑田にとっては、念願のものであったことだろう。

「自分らしさっていうのがやっぱりあるとしたら、自分が一番充実してる時期っていうのは、やっぱり曲を作ってレコーディングするまでですね。その曲を初めて聞いた時か、それとも様々な偶然の末に初めて聴き入った折に、それまでいろいろと心にうろついていた事々などが、メロディーと言葉が生み出す世界にインスパイアーされ、手触りを持ったり、ウズキがよみがえったり。
桑田佳祐「ただの歌詞じゃねえか、こんなもん '84-'90」新潮社、1990)


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90年秋、映画「稲村ジェーン」公開後。長きにわたる過密スケジュールをこなし、ようやくひと息ついた桑田はメキシコ・ジャマイカ・ニューヨークに出向いている(メキシコはCM撮影、ジャマイカは完全オフ、ニューヨークでの詳細は不明)。このうちジャマイカ旅行の様子が『CADET 1991年1月号』(講談社、1990)に掲載されている。桑田によるいくつかの散文詩も載っており、ようやくの休暇でリラックスした内容が並ぶかと思いきや、コミカルなものもありつつどうにも意味深なものも含まれている。当時の心境が如実に反映されていた…のかもしれない。

そう言えば、あれほど正月に心に強く誓ったはずなのに、
まだ結論に達していない。
それにどうにも出口の見つからないショーバイである。
雑誌(マスコミ)の風潮は、いつもなぜかテイサイと建前を
ネガティブな立場に置こうとするくせに、
こんな時はかならずや、ジョーシキという名で
モラルという顔の人格に早変わりするだろう。
ジョーシキはジョーシキだけの中にあるものなんだから、
どうだっていいじゃないかよ。
俺は元旦に朝日を拝みながら、
今年は絶対に強姦魔の代理店をつくろう
と思ったはずなのに、
未だに青春は軟弱なままである。
—海に歌いて詠む