2024年11月30日土曜日

1991 (2) : 平和の祈りをこめて - Live Peace In Beijing 1991

原由子『Mother』のセッションが佳境となる90年3月24日・25日・26日、プロデューサーの桑田はレコーディングの中核メンバーであった小林武史、小倉博和、佐橋佳幸、角谷仁宣らを召集し、急遽ソロライブを開催する。「Nissin Power Station Acoustic Revolution」と題されたライブが3日間、新宿は日清パワーステーションにて行われた。上記メンバーに加え、ヴァイオリンに中西俊博、ドラムに元ARBのKeith、コーラスに前田康美・当時Hannaの倉本ひとみを迎えている。

このライブはこの時期にしては珍しく一切オリジナル曲を取り上げず、洋楽のカバーのみで構成されていた。セットリストは以下のとおり。

1. What A Wonderful World (Weiss - Douglas)
2. You've Got To Hide Your Love Away (Lennon - McCartney)
3. Proud Mary (Fogerty)
4. Born To Be Wild (Bonfire)
5. Easy Now (Clapton)
6. Dance with Me (J. & J. Hall)
7. Heart Of Gold (Young)
8. Tight Rope (Russell)
9. I Saw The Light (Rundgren)
10. Starman (Bowie)
11. Sunshine Of Your Love (Bruce - Brown - Clapton)
12. Stairway To Heaven (Page - Plant)
13. Smile Please (Wonder)
14. Mother And Child Reunion (Simon)
15. I'm Not In Love (Gouldman - Stewart)
16. A Day In The Life (Lennon - McCartney)
17. The Times They Are A-Changin' (Dylan)
18. Blowin' In The Wind (Dylan)
19. Summertime Blues (Cochran - Capehart)
20. Hello, I Love You (The Doors)
21. Paint It, Black (Jagger - Richard)
22. Telegram Sam (Bolan)
23. Oh, Pretty Woman (Orbison - Dees)
En. 1. Rain (Lennon - McCartney)
En. 2. Don't Worry Baby (Wilson - Christian)
En. 3. End Of The World (Dee - Kent)

なにしろ伸び伸びとカバーを楽しむ桑田の歌と、佐橋と小倉による、アコースティック/エレキギターやラップスティールのみならずバンジョー、マンドリンなど多彩でハイレベルな演奏、そして両者のハーモニーまで聴けるのが魅力のライブである。また、何曲かではキーボードを弾きながら同時に(ある意味でトレードマークである)グロッケンを叩く小林武史を見ることができるのも面白い。

「Dance With Me」までは佐橋と小倉を従えたアコースティック・トリオでの演奏。「Heart Of Gold」から中西が登場、「Tight Rope」から小林が合流。アコースティックとはいっても小林はシンセを弾き、「I Saw The Light」から佐橋はエレキに持ち替え。「Stairway To Heaven」でKeithが登場するがKeithのドラムはこの1曲のみで、以降は角谷のマシンによるドラムで展開、前田と倉本も合流。「A Day In The Life」では終始世界各所の日常映像が流れるが、終盤のストリングスが上昇するところで唐突に飛行するB29の映像に切り替わり、最後のコードでキノコ雲が映し出される。

佐橋がエレキをマンドリンに持ち替え、「The Times They Are A-Changin'」「Blowin' In The Wind」とBob Dylanコーナーに突入。Douglas MacArthurが厚木に降り立つところから戦後の混乱する日本、安保闘争、オイルショック、そしてベトナム戦争…最後に東京大空襲の映像が流れる。

ここで空気が打って変わり、再び登場したKeithによるエレドラをフィーチャー、佐橋・小倉もエレキに持ち替え「Summertime Blues」に突入。ここから本編ラストまで完全にアコースティックではなくなるのがタイトルに偽りありで面白い。「Rain」からはアンコールでドラムレス、佐橋小倉コンビもアコギの体制に戻る。

「でも意図的に入れたのは頭の「What a wonderful world」とラストの「End of the world」、それにディランの2曲だけだよ。ああいう世界情勢に対して無口にならざるを得ない日本人の体質にね、こういう禅問答みたいな歌が合ってるような気がしてさ
— ベトコンの兵士が銃殺されるシーンのニュースフィルムをスクリーンに映したりしてましたね。
「フォークゲリラの頃だったら、例えば「風に吹かれて」を日本語に訳して歌うことで説得力を持たせていたでしょ。いまの時代なら、英語の原詞に映像をプラスすることであの歌が持ってる意味合いを客と共有できるんじゃないかと思ったわけ。」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』ぴあ、1991)


***


90年8月、イラクがクウェートに軍事侵攻。そのまま撤退しないイラクに対し、アメリカを中心とする多国籍軍が攻撃を開始したのが91年1月。いわゆる湾岸戦争の勃発である。アメリカにとってはベトナム戦争以来の大きな戦争への参加であった。また、リアルタイムで空爆の様子が中継された初めての戦争でもある。もちろんその映像は日本でもさかんにテレビ放送された。

湾岸戦争勃発当時、桑田は原由子ソロアルバムのプロデュース作業のかたわら、テレビから流れる戦争の映像を見ていたようだ。

「あの頃はちょうどハラ坊のアルバムをつくってる頃でね。プロデューサーつっても基本的におれは見てるだけだから、欲求不満がたまってきちゃってさ、おれも歌いたいよぉという。人恋しくなるのよ。ダイレクトな反応がほしくなる。それとね、湾岸戦争ってことがあるね、ひとつ理由として。
「小林(武史)くんたちと毎日スタジオで顔つき合せてるじゃない。で、話すことといったらフセインのこととか90億ドルのこととか、海部さんてのはいい人なんだけどいじめられやすいキャラクターだなとかね、そんなのばっかり。ハラ坊はハラ坊でニュース見て暗い顔してるしさ。そういう情報とともにいろんな感情がもやもやっと渦巻いてね、その気分を正直に現そうと思ったらライブやるしかないな、と。まあ、そのへんのつながりはうまく説明できないんだけど。」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』)

また、当時はこの小林・佐橋・小倉らで、レコーディングやリハーサル等を行うのみならず、自宅スタジオ付きである桑田の自宅をたまり場にしていたようである。
佐橋佳幸「仕事も一緒だし、仕事が終わったら一緒に桑田さんちに飲みに行く(笑)。桑田さんの家には小さいスタジオがあってね。みんなで飲んだり食べたり、くだらない話をしたり、桑田さんが作った曲とかデモテープなんかも聴かせてもらったり…。夜な夜なワイワイやってたの。まだインターネットもない時代だったからね、お酒飲みながら桑田さんとかみんなが “あの曲、なんだっけ?” みたいなことを言いだすと、オタク担当の僕が Google 代わりになって答えたり、桑田さんに言われた曲をオグちゃんと一緒に弾いたり(笑)。そんな感じだった。あの頃、仕事が終わると桑田さんちか小林さんちかどっちかにいたなぁ。まだ独り者だったし、まず家には帰ってなかったねー(笑)」
(能地祐子 「【佐橋佳幸の40曲】SUPER CHIMPANZEE「クリといつまでも」桑田佳祐が結成した幻のバンド」 Re:minder、2023.11.25. https://reminder.top/646962821/

そして原由子のアルバムと桑田のライブをきっかけに、佐橋と小倉は接近。ギター・デュオ「山弦」はここから誕生する。
佐橋「桑田さんはビクター・スタジオで原さんのミックス作業をやりながら隣のスタジオでパワステのリハをやってた。だから、両方に関わっていた桑田さんと小林さんはふたつのスタジオを行ったり来たりしていて。そうすると、リハのスタジオに桑田さんと小林さんがふたりともいなくなっちゃったりするでしょ。僕とオグちゃんは時間が空くよね。それで、その時間ずっとふたりでギター弾いて遊んでいたの。そのうちだんだん、“これ、なんかよくね?” みたいな感じになっていって。それが、後の山弦へとつながっていくんです」
(「【佐橋佳幸の40曲】SUPER CHIMPANZEE「クリといつまでも」桑田佳祐が結成した幻のバンド」

山弦の胎動と並行して、桑田もこのメンバーを、3月のライブの一度きりではなく、自身の新たなグループにまとめようとしていたようである。ライブの模様は直後の4月14日にWOWOWで放送されているが、桑田は編集中であった映像をメンバーといつものように?酒を飲みながら視聴。冗談とも本気ともつかないグループ名を命名する。

「もとを正せば、ちょうどアコースティック・ライヴのヴィデオ編集をしてて、夜遅くなったんだよね。で、手持ちぶさたなんで、小林君や小倉君と酒を呑んじゃったんです。その時はライヴの映像を見てるから盛り上がってるでしょ?イイよねー、これはイイよ。これはもう海外へ持って行けるんじゃないか?みたいなさ、自惚れも含めて、酒呑んでるもんだから、皆、気がデカクなってるんだ。グループ名も「スーパー・チンパンジーという名前があるんだ」って俺が言ったら盛り上がって、「電気セーターズはどうだい?」なんてさ。皆「それがいい、ウワーッ」とか言っちゃって。ステージでの俺の動きなんか見ても、やっぱりマトモじゃないでしょ?「ブルース・スプリングスティーンみたいじゃないし、ロッド・スチュワートにもなれないから、日本ザル的なイメージで、でも洋モノを超えたという意味で、日本ザル=スーパー・チンパンジーだぁ!」なんてね。下が滑らかになってますから(笑)。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)


***


ライブから3ヶ月後の7月2日、桑田は小林・小倉・今野多久郎(佐橋はスケジュールの都合上不参加)を引き連れ中国は北京に向かい、再びアコースティック・パフォーマンスを行う。

湾岸戦争を契機に始まったソロ・プロジェクトで、なぜ中国・北京に訪問することになったのか。どうも源流は、事務所アミューズのビジネス的な観点からの意向があったようだ。

この91年、香港の広東語ポップス(カントポップ)界の大スター、張学友(ジャッキー・チュン)の「每天爱你多一些」が収録された『情不禁』が1月にリリースされ、全中華圏でヒットする。

ここに紹介する『情不禁(抑えきれない心)』は1991年にリリースされた通算17枚目のアルバムで、1985年のデビュー以来コンスタントに作品を重ねてきた彼が全中華圏で大ブレイクするきっかけとなった楽曲「每天愛你多一些」(A-3)を収めるヒット作だ。
(略)
中華圏では知らぬものはいないと言われる上述のメガヒット曲「每天愛你多一些」だが、一聴してもらえればすぐに分かる通り、サザンオールスターズの「真夏の果実」を広東語でカヴァーしたものだ。彼はここで、日本でも国民的なヒット曲として知られる同曲を、情感いっぱいに歌い上げている。その朴訥とした味わいはオリジナルとは一味異なる儚さと切なさを感じさせるもので、歌手としてのジャッキー・チュンの卓越した個性が表れた名カヴァーといえる。
(柴崎祐二 「【未来は懐かしい】Vol.48 蘇る黄金期カントポップ サザンオールスターズの大ヒット・カヴァーを収めた「歌神」の代表作」 TURN、2024.4.15. https://turntokyo.com/features/serirs-bptf48/

思わぬタイミングに全中華圏で「真夏の果実」のカバーが大ヒットしたのである。ここでアミューズはすかさずアジア圏でアルバム『稲村ジェーン』をリリース。アミューズ香港を設立し、日本の作品の展開のほか、香港のミュージシャンの日本進出等も手掛けるようになる(その後90年代末にいったん香港法人は閉鎖、2012年に改めて進出したようだ)。

まずは、北京行きのきっかけだが、知る知ぞ(引用者注:原文ママ)知る情報の1つとして、少し前、ジャッキー チョンという人が「真夏の果実」を歌い(もちろん現地語)連続5週にわたり第1位を飾ったのだが、それに気をよくしてかどうかは定かではないが、7月8日アジア9カ国で「稲村ジェーン」のアルバムが発売された
(『代官山通信 Vol.35 Nov. 1991』サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)

— (引用者注:北京訪問について)しかし、ビジネスにはしたくないとはいえ、現実にはアジア8カ国でリリースされたんでしょう、「稲村ジェーン」のアルバムが。
「……おれはイヤだったんだけどねえ(と、マネージャーのほうを見る)。ジャケットもオリジナルとは違うし。まあ、アミューズ香港なんて会社もできちゃったから、しかたがなかったというしかないんだけど。おれとしては日本人としてフェアにね、音楽だけで彼らとつきあって、田んぼ耕して井戸掘ってみたいなところから始めないと実感わかないんだよ」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』ぴあ、1991)

なぜ北京なのかというところははっきりしないが、アミューズとしてはビジネスチャンスを広げるという意味で香港の次なるターゲットが中国本土だった可能性もある(桑田一行の4人は北京7泊ののち、香港でも2泊している)。小林武史は「中国へある番組で行って、ゲリラ的にライブを行いましたね。」( 「中西健夫ACPC会長連載対談 Vol.36 小林武史(音楽プロデューサー)」 ACPC Navi Summer 2024、2024.7. https://www.acpc.or.jp/magazine/navi_issue.php?topic_id=379)と語っており、とするとTBS系「筑紫哲也 News23」のサザンシングルのタイアップをきっかけにした連動企画として、北京に絡めたという側面もあったのかもしれない。

「湾岸戦争で“戦争をやると思わなかったのは日本とフセインだけ”みたいな意見があったけど、俺は「あっ、そうなのかな」って思った。予測と、現実にTV画面から出てくる映像がジョイントできない。そんな時に、たとえば日本のロックとか僕らがいるところなんかをいろいろ考えていたら、とにかく居てもたっても居られないというような感じがしちゃって。で、中国の話が来たんで、スーパー・チンパンジーは、皆、乗ったんです。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

桑田一行は、天安門広場や万里の長城を訪れゲリラ的にストリート・パフォーマンスを行う。ここではDylanナンバーや、こののちリリースされるオリジナル曲「クリといつまでも」を披露したようだ。今野はタンバリン、小倉・桑田はアコギ、小林はアコーディオン…という編成。

さらには、月檀体育館 利生健康城というところで現地のバンドと対バンで出演。ここでは6曲のオールド・ロックンロール・ナンバーを披露する(『With 1991年12月号』講談社、1991)。さすがにアコースティック・スタイルではなく、マシンのドラムに今野のタンバリン、小倉・桑田はエレキギター、小林はショルダーシンベという編成だったようだ。あくまでサザンではないということで、「真夏の果実」は演奏していない。


***


帰国後の8月はサザンのスケジュールが入っていたため、そちらの活動を優先。そして秋、桑田が新たなユニット・Super Chimpanzeeを結成、シングルをリリースする…という情報が伝えられる。

このユニットはサザンと同時進行で、ゲリラ的かつ局地的に発生し、サザン本体の活動にも新たな刺激を与えるビタミン剤・ニュードラッグとか。メンバーは桑田佳祐、小林武史を中心に活動内容に応じて集められるそうだ。
(『オリコン・ウィークリー 1991年9月9日号』オリジナル・コンフィデンス、1991)

ここでシングル「クリといつまでも」c/w「北京のお嬢さん」が9月26日、桑田のソロ映像作品「Acoustic Revolution」が10月2日にVHS・LDでリリース。3月のライブ時点では実際は存在していなかったが、同じメンバーということで映像作品にはアレンジ、演奏、サウンド・プロデュースとしてSuper Chimpanzeeがクレジットされている。


11月21日はシャレであることを強調するためか、A面曲のカラオケ付シングルもリリースされた。カラオケ付にはしりあがり寿による振り付けマンガ(振付:南流石)も付属している。桑田関連のシングルでカラオケが収録されるのは初。

カラオケ付はいつものVIDL-1台/税込¥930ではなく、ビクターの歌謡曲などカラオケ付シングルのナンバーであるVIDL-10000台/税込¥1,000での発売であった。オリジナルの裏ジャケットはわかりにくすぎると思ったのか、カラオケ付には収録曲と作者・アレンジャーの記載、さらに「桑田佳」の文字で誰のグループなのか匂わせている。

シングルのジャケットにおけるSuper Chimpanzeeのメンバーは以下のとおり。ただし、楽曲ごとのクレジットでは、桑田はヴォーカルのみとなっている。

Keisuke Kuwata : Vocals, Guitars
Takeshi Kobayashi : Keyboards
Hirokazu Ogura : Guitars
Yoshiyuki Sahashi : Guitars
Yoshinori Kadoya : Computer Operation

「クリといつまでも」は、ピッチを上げた桑田のヴォーカルが印象的な、直球のいわゆる春歌というものにカテゴライズされるべき曲だろう。佐橋によるウクレレと、桶tionとクレジットされた小倉のエレアコ(ヤイリギターによる、桶がボディのエレアコ・オケーションである)が楽曲全編を支えている。途中から登場するヴォリュームは控えめだが右側で咆哮しているエレキも小倉によるもの。コーラス(?)は小倉と角谷という珍しい組み合わせである。

— スーパーチンパンジーのシングルは、桑田さんの植木等的部分ですか?
「いや、むしろ「ケメ子の歌」じゃないかな。一生に一度ほんとのナンセンス・ソングを作ってやろうという気で。いまだってナンセンスっぽい音楽ってのはあるにはあるけど、なにか学生気質が抜けてない感じでおれにはつまんないの。昔だったら月亭可朝とか、水商売の香りいっぱいのヤクザっぽいのがあったでしょ。もっとも実際やってみたら難しかったけどね。楽しいんだけど、難しいという二重構造」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』)

トラックの端正さゆえか水商売っぽさは欠ける気もするが、どちらかというと童謡・民謡等の替え歌を中心に酒席等で民衆に唄い継がれた春歌・猥歌のノリでそのまま90年代/平成の世に新曲として放り込んだ…という感がある。これはこの面々で自宅スタジオなどで夜な夜な語り明かした結果なのだろうか。

カップリング「北京のお嬢さん」はソリッドな佐橋のエレキ+小倉の12弦エレキ(Primal Screamセカンドの香りもしなくもないフレーズだ)とTR-909、小林のキーボード、シンベを組み合わせた、こちらも桑田いわく、「ハズし、ウケ狙い」の一曲とのこと。歌詞は完全に北京訪問ののちに書かれたと思われる内容だ。オルガンやTR-909など、トラックは同年4月にリリースされた、アニメ「ちびまる子ちゃん」のイメージアルバム『ごきげん〜まる子の音日記〜』収録の「乙女の微笑み」の発展系という感もある。小林・角谷によるトラックで、小林が提供した一曲である。
「カップリングの「北京のお嬢さん」はね、おれんちのスタジオでやったんだけど、これは『Acoustic Revolution』の人材でね、繰り広げていった感じなんだけど。小林くんを中心に盛り上がったんだよね。コミックソング狙いなんだけどね。ウケ狙い。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)


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シングル・映像作品リリースの勢いで、Super Chimpanzeeは年末にかけ2つのテレビ番組に出演。NHKの「プライム10 音楽達人倶楽部」では、少し志向を変えて日本のポップス・クラシックを演奏。基本的にヴォーカル以外は事前録音音源を使用したマイム演奏のようだが、「クリといつまでも」は歌もレコードと同じもの。グループ名は「Super Chimpanzeeとその仲間たち」となり、桑田・小林・小倉・佐橋・角谷に加え松田弘・根岸孝旨・今野多久郎・兼崎順一が参加。小倉や佐橋もリード・ヴォーカルをとっている

1. 蘇州夜曲(曲:服部良一、詞:西條八十)
2. 花と小父さん(曲・詞:浜口庫之助)
3. 寒い朝(曲:吉田正、詞:佐伯孝夫)
4. 悲しきわがこころ(曲:不詳、詞:萩原哲晶)
5. 逢いたくて逢いたくて(曲:宮川泰、詞:岩谷時子)
6. 見上げてごらん夜の星を(曲:いずみたく、詞:永六輔)
7. クリといつまでも

日本テレビ系「EXテレビ」では「Super Chimpanzee EX Band」として出演。メンバーは桑田・小林・小倉・角谷に加え、小田原豊・根岸孝旨・古賀森男が参加。John Lennon関連のナンバーを3曲、マイムではない演奏で披露している。

1. Across The Universe (Lennon - McCartney)
2. Mother (Lennon)
3. Cold Turkey (Lennon)


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さて、湾岸戦争を契機に結成・活動していたSuper Chimpanzee唯一のシングルが、なにゆえ桑田一世一代の直球春歌「クリといつまでも」だったのか。

大下由祐は「クリといつまでも」が「Acoustic Revolution」からの一連の流れに属する楽曲であることを示し、ひとつの反戦歌であった可能性を指摘した。

『Acoustic Revolution』が時代に対する一つの<解答>だったとすると、
そこから派生してできた『クリといつまでも』はもう一つの<解答>だったのではないか?
誤解を恐れずにいうと、桑田作品の中で最大の反戦歌なのかもしれない。
なぜなら、これほどノー天気で平和な歌はないから。
(略)
・・・とかなんとか言っちゃって、大袈裟に書きすぎちゃったかなあ~。
実際、単なるナンセンスエロエロソングという認識でいいと思う。
歌は歌として成立するべきだし、1曲は1曲としてしか成立しえないから。
音楽に理屈はいらない。
決して『世界平和』を歌った唄ではないし。
タダのエロソング。春歌のノリで作っただけかもしれないし。
だけど、その時の背景だけ、その時の桑田佳祐の姿だけ、知っておいてもらいたい。
(大下由祐/YU-SUKE O-SHITA 「クリといつまでも」 note、2023.12.6. https://note.com/fair_oxalis36/n/nfd74c9e6c1e6

原由子も『Mother』リリース時、反戦歌とは違う形で反戦・平和を表現したいと語っていた。また、これだけの豪華なメンバーで出したシングルがこの2曲であることについて、桑田は「外し」であると強調していた。

「この2曲のバランスってスーパーチンパンジーではすごく取れてるんですよ。このメンツだからできたってところかな。音楽を突き詰めるというか、どこにもないジャンルっていうかね。ハズしですよね。」
(『月刊カドカワ 1995年1月号』角川書店、1994)

反戦の意思をストレートな表現ではなく、あえての外しで…そういった逆張り的感覚の極地として、「クリといつまでも」が生まれたということなのかもしれない。


***


大島渚がベトナム戦争中の1967年に監督した作品に「日本春歌考」というのがある。添川知道の「日本春歌考―庶民のうたえる性の悦び」(光文社、1966)のタイトルを大島が引用した作品で、庵野秀明への影響が指摘されたり、坂本龍一が大島への弔辞でフェイバリットとして挙げた一作でもある。低予算・短時間という制約の中シナリオを用意せず、俳優とスタッフでディスカッションしながら即興的に撮影されたというユニークな怪作である。

きわめて性欲的になっている学生服の男子四人組が、引率の先生(伊丹一三)に代表される先行世代の敗北感にも、ブルジョワの美少女(田島和子)に代表される同世代の偽善ぶりにもいらだちながら、全てを転覆したいアナーキーな衝動を爆発させる。春歌から労働歌から反戦フォークまで、人物たちの意志の応酬がおびただしい歌の数々によって表現されるのも大島作品ならではのことだ。想像強姦と日本民族の騎馬民族起源説が強引な力技で架橋される結末部のスパークぶりは圧巻。
(樋口尚文 「Nagisa Oshima Works」 大島渚プロダクション https://www.oshima-pro.jp/works.html

様々な立場を象徴する軍歌、革命歌、反戦歌などに対抗するように、何度も春歌「ヨサホイ節」が歌われるのがこの作品の特徴だ。作中ではベトナム戦争反対フォークソング大会が批判的に描かれている。そしてそれへの対抗として、「ヨサホイ節」「満鉄小唄」などの春歌が歌われる。

笠原芳光による同作品の評論を読んでも、どことなくSuper Chimpanzeeの活動にリンクするワードが散見される。偶然なら、面白いシンクロニシティだ。

 かつて、「日本の夜と霧」で大島が描こうとしたものは革命への志向と挫折であり、自称前衛党への責任追及であった。この「日本春歌考」もまた背後のテーマは革命であろう。だか眼前の状況はよほど違ってきている。この抑圧され、後退し、鬱結する状況を一ミリメートルでも動かすものはなにか。その可能性が春歌によって象徴されているのではないだろうか。
 さきに春歌は倫理的であるといった。それはこの映画において、さまざまの抑圧のなかでの安住と無関心が春歌をきっかけにして、動揺しはじめるからである。春歌それ自体はみじめな歌であり、自慰的な歌にすぎない。だが状況によってはそれはストレートな革命歌よりもさらに破壊的となり、ポピュラーな反戦歌よりも、もっと抵抗的となるのではないだろうか。
(笠原芳光「日本春歌考」『純粋とユーモア : 評論集』 教文館、1967)

この「日本春歌考」、91年の3月29日に松竹ホームビデオより初ビデオ化されているようである。


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また、こんな話もある。

なお、今では人々が栗の実る季節になると思い出すともされるこの作品(引用者注:「クリといつまでも」)なのだが、意外なことに、桑田がそもそもヒントを得たのは、ジョン・レノンの「コールド・ターキー(冷たい七面鳥)」からだったという。
(小貫信昭『いわゆる「サザン」について』水鈴社、2024)

この桑田のコメントが2024年の執筆にあたって得た情報なのかどうか不明だが、これだけではなんのことやらさっぱりなので、もう少し深掘りしてみたい。

「Cold Turkey」というとJohn LennonがBeatles末期の1969年10月20/24日、Plastic Ono Band名義でリリースしたシングルである。「Plastic Ono Band」はあくまで概念的な存在であり、特に固定のメンバーを持たないバンド、という位置づけであった。

1969年9月、Beatlesのレコーディングを終えたLennonは、「Toronto Rock Revival Festival」の出演依頼を受ける。開催前日の依頼という無茶なスケジュールだったが、LennonはEric Clapton、Alan White、Klaus Voormannらを召集、オノ・ヨーコと共にライブ出演。お得意のオールド・ロックンロール「Blue Suede Shoes」「Money」「Dizzy Miss Lizzy」、Beatlesの「Yer Blues」、ヨーコの前衛感の強い2曲、そして既にリリースされていたPlastic Ono Bandの「Give Peace A Chance」に加えて新曲として披露されたのが「Cold Turkey」であった。

その直後、「Cold Turkey」はスタジオ録音され、翌10月にシングルリリース。ライブの模様も70年1月に『Live Peace In Toronto 1969』のタイトルでリリースされている。


この『Live Peace In Toronto 1969』、10代の多感な時期、流行りのニューロックに馴染めず、T. RexやDavid Bowieに救いを求めていた桑田が衝撃を受けた作品として挙げている。もともとバンドをやろうとしたきっかけもこのLPにあるようだ。

「それからさ、ジョン・レノンがカナダのトロントでやったライブ盤があるじゃない。『平和の祈り』だっけ?プラスティック・オノ・バンドの。あれがまたショックだったわけ、俺には。だって、まずクラプトンでしょ。クリームのエリック・クラプトンと、イエスのアラン・ホワイトと、それからクラウス・ブーアマンがジョン・レノンと一緒にやってるんだよね。ニュー・ロックの連中がビートルズのレノンと。で、やってる曲はいったい何だっつうと、「ブルー・スウェード・シューズ」でしょ。ロックンロールでしょ。ショックですよ、これは。
 でね、歌ってみたわけ、俺。レコードと一緒に。「ブルー・スウェード・シューズ」。そしたら歌えるんだ、これが。♬ジャージャ!ウェリッツァ・ワンフォーザマニー……って。歌えんだよね。あ、これがバンドだ、と思ってさ、で、よし!とにかくギターのうめえやつ捜そう、とか思ったりしたの。」
(桑田佳祐『ロックの子』講談社、1985)

1973年10月、鎌倉高校に通っていた宮治淳一から文化祭の出演バンドを探しているという話を聞いた鎌倉学園3年生の桑田は、まだバンドをやっていたわけでもなく、さらには他校の文化祭にもかかわらず、強引に出演を交渉。ここで出演したバンドが桑田の初バンド、初ライブパフォーマンスになるようである。

 大トリを任された桑田たちだったが、ひとつ前の演者として茅ケ崎北陵高校の実力派が、矢沢永吉率いるキャロルの「レディー・セブンティーン」を軽快に歌い、観客を熱狂させていた。完全に萎縮。「負けるものか!」と向かったが、すでにメインは終わったと、教室はガラガラだった。
 その差は歴然。しかし、そんな様子を物ともせず桑田は「69年の(カナダ)トロントライブで、ジョン・レノンがやったみたいに、即興でやろうぜ」と舞台に立った。
 「マネー」などを歌う桑田に、宮治は「音楽はむちゃくちゃだけど、本物が現れた」と身震いがした。
(「音楽プロモーター 宮治淳一(62)× 歌手 桑田佳祐(61) 縁のものがたり@砂交じりの友情 茅ケ崎が生んだ2人の音楽少年」 カナロコ/神奈川新聞社、2017.9.13.

ここで取り上げられた曲のうち、判明している2曲が「Blue Suede Shoes」「Money」である。桑田の人生における初バンド・ライブは、『Live Peace In Toronto 1969』の再現であったのだ。

そして91年、北京での演奏でも、「Blue Suede Shoes」は取り上げられている。「Be-Bop-A-Lula」「I Saw Her Standing There」「Slow Down」など、やはりオールド・ロックンロールを中心とした選曲だったようである。ここに「クリといつまでも」を加えている。

「何か日本以外の場所でオールド・ロックンロールを演りたいって気持ちがずっとあったんで、夢がかなったような気分で…駄目でしょうか?(笑)
 やっぱりオールド・ロックンロール、ロックの原型みたいなものは、僕にとって不滅のものなんですよ。酒呑んでも真面目な顔して演ってもいつでも新鮮なのは、「ビー・バップ・ア・ルーラ」であり「ブルー・スウェード・シューズ」なんだ。あのー、ジョン・レノンがトロントに行って演ったのがあったでしょう?「ブルー・スウェード・シューズ」で始まる“ピース・イン・トロント”か。あれなんかは僕にとっては何かこう“人生の標語”なんですよ。振り返ってみれば、僕なんかでも節目節目で必ずロックンロール演ってる。文化祭で初めて人前に立った時からずっと……。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

北京でのライブは、自身のバンドに対する初期衝動の再確認とともに、平和への祈りを込めた音楽活動としてのPlastic Ono Bandのトレースだったようにも見える。桑田にとってPlastic Ono Band的な概念としてのバンド、流動的なメンバーを擁するソロ活動用の名義がSuper Chimpanzeeだったのかもしれない。

「クリといつまでも」に話を戻すと…「Cold Turkey」との共通性というとあまり明確なものは見つからないが、楽曲のシンプルな構成(最初のヴァース8小節を2回繰り返し、コーラスになだれ込む)は類似しており、コード進行も「Cold Turkey」をもとに幾分複雑にしたような感もある(「幸せ願えば」付近でシンクロする)。また、平和活動の流れのバンドのシングルではあるが全くそういった方針を感じさせず、かつ放送禁止扱いを受けそうな歌詞…というのも共通点ともいえなくはない(かたやドラッグの禁断症状、かたやクリとトリとリスがテーマである)。

この会合では今後のビートルズの活動について話し合われ、次のアルバムは3人で4曲ずつとリンゴに2曲程度という均等配分の案が出た。
また、ジョンがクリスマス期のシングル発売を提案したが却下されている。
このシングル曲がコールド・ターキーだったのではないか。
クリスマスに普通に連想するターキーという言葉を使いながらドラッグ禁断症状についての曲というのがジョンらしいが、このシャレはポールとジョージには受け入れられなかったようだ。
ジョージはこのあとのトロント・ライブに誘われたときにも断り、この曲の初演に参加しなかった。

意図したかどうかはともかく、季節もののワードを扱いながら一般的な連想との落差が凄い、という嫌味なセンスも共通点となるであろう。

Plastic Ono Bandは70年代のLennonのソロ作品のほとんどに大なり小なりクレジットされている(Plastic Ono Band with The Flux Fiddlers、Plastic Ono Band With Elephants Memory And The Invisible Strings、The Plastic Ono Band With The Harlem Community Choir、The Plastic U.F.Ono Band、The Plastic Ono Nuclear Band、など…)。Super Chimpanzeeは結果的には91年限定の活動となり、「音楽達人倶楽部」で「Super Chimpanzeeとその仲間たち」、「EXテレビ」で「Super Chimpanzee EX Band」としての出演までで活動は途切れてしまう(最後の曲は「Cold Turkey」であった)。92年以降、桑田のソロ活動においてこの名義で新譜をリリースすることはなかった。

後年、桑田は自身のソロ活動名義が多彩である(嘉門雄三&Victor Wheels、Kuwata Band、Super Chimpanzee、桑田佳祐& The Pin Boysなど)理由について、Plastic Ono Bandへの憧れ、影響であろうと語っている桑田佳祐ポップス歌手の耐えられない軽さ」文藝春秋、2021)。ただし、当時の状況からするとこのSuper Chimpanzeeこそが意図的に(1969年の)Plastic Ono Bandをフォローする存在として動いていたように見える。


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91年は原由子のソロアルバム・ライブ、そして桑田のライブ「Acoustic Revolution」から始まったSuper Chimpanzeeの濃密な活動の合間の夏、サザンのシングルのリリースとスタジアムライブも行われている。次回はそのあたりから見ていきたい。



2024年9月28日土曜日

1991 (1) :"Mother" Of Love

90年秋、桑田の自宅地下に「猫に小判スタジオ」が竣工。最初の録音は、8年ぶりとなる原由子のソロアルバムであった。

原のソロ楽曲は87年以降断続的にリリースされている。アルバムについてもシングルが出るたびに言及されてきたが、原自身の子育てや、プロデューサー・桑田が自身のソロやサザン〜映画撮影などで時間が取れなかったのか、着手は延び延びになっていたようである。自宅スタジオが完成し、移動しなくてもレコーディングが可能になったというのも大きいのかもしれない。

原由子「そのー、時間的制約もあって、集中してね、アルバムレコーディングするっていうのが、できないんです。でもやっぱり、いつか形としてLPっていうものにね、したいっていうのがあるんで、少しずつ作りだめしてるっていうか、唄いだめしてるっていう感じで…それで、2〜3曲ずつレコーディングっていうのが私のソロは一番やりやすいんで、それでまた今回(引用者注:シングル「ためいきのベルが鳴るとき」)もシングルになっちゃったんですけど、いずれはまとめてアルバムにしたいなっていうのが希望です。」
(『代官山通信 号外 1989年第2号』サザンオールスターズ応援団、1989)

87年以降リリースされた原のソロ作品は以下のとおり。珍しい原・桑田の共作「ガール/Girl」、桑田作「ためいきのベルが鳴るとき」以外はすべて原本人による作曲である。

「あじさいのうた c/w Tonight’s The Night」(1987.8.21.)
Produced by Keisuke Kuwata
Arranged by Keisuke Kuwata, Takeshi Fujii

「ガール/Girl / 春待ちロマン」(1988.4.21.)
Produced by Keisuke Kuwata
「ガール/Girl」
Arranged by Takeshi Kobayashi
「春待ちロマン」
Arranged by Hiroyasu Yaguchi, Satoshi Kadokura

「かいじゅうのうた c/w 星のハーモニー」(1989.4.26.)
「星のハーモニー / かいじゅうのうた」(1989.10.21. CDのみ、ジャケットのAB曲を逆転させ両A面表記で再発)
「かいじゅうのうた」
編曲:矢口博康
Engineered by 赤川新一
「星のハーモニー」
編曲:小林武史
Enginnered by 梅津達男

「ためいきのベルが鳴るとき c/w 星のハーモニー」(1989.5.21.)
Produced by Keisuke Kuwata, Takeshi Kobayashi
Arranged by Takeshi Kobayashi
Engineered by Tatsuo Umezu

『絵本とCDで楽しむピーターラビットのおはなし<第2集>』(1990.6.27.)
「キツネどんのおはなし」
編曲:門倉聡

『絵本とCDで楽しむピーターラビットのおはなし<第5集>』(1990.6.27.)
「ひげのサムエルのおはなし」
「グロースターの仕たて屋」
編曲:門倉聡

断続的に作られた作品は、特に88年以降は小林武史セクション、矢口博康・門倉聡セクションという2本の柱のスタッフによって制作されている。これは桑田ソロ〜サザンの制作体制と相互に影響を与えあっているということだろう。89年の録音・ミックスについては今井邦彦ではなく、この時点でビクターから既に独立していたベテランの梅津達男、さらに「かいじゅうのうた」は多くのミディ関連作や「ジャンクビート東京」も手がけた赤川新一が担当。サザンと比べると柔軟な体制で録音されていることも伺える。『絵本とCDで楽しむピーターラビットのおはなし』はイメージ曲のインストで、他に大貫妙子や山川恵津子らが作曲で参加。原は作曲のみで、演奏は門倉や菅原弘明に一任、「グロースターの仕たて屋」は小倉博和をフィーチャーしている。サントラ等も多く手がける門倉のセンスによるところも大きい3曲だ。「キツネどんのおはなし」で聴こえる滲んだコーラス・パッドは「ナチカサヌ恋歌」の原のコーラスの流用(サンプリング)に聴こえなくもないが、果たして…。

この流れで、門倉聡が90年に入りWinkのアレンジなどに注力していく中、『稲村ジェーン』を経た桑田は、原ソロアルバムでも継続して小林武史をパートナーに選んだということになる。ただし、88年春の時点で、すでに小林は原にソロアルバム制作の誘いとともに、自分がバックアップをすると宣言していたようだ。

原「これ(引用者注:「ガール/Girl」)は小林クンと私の最初の出会いの作品。ちょうど彼が桑田さんのソロでレコーディングをやっていて、並行してアレンジをみてくれた。この曲の作業の後に「ソロ・アルバム作ろうよ。オレに任せて」って感じで言ってくれたので、急に作ろうって気持ちが高まった。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』角川書店、1991)



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原のソロというと、前作『Miss Yokohamadult』においてはヴォーカリストとしての原の魅力を引き出すことに注力していたため、キーボードプレイヤーとしてトラック作りにはほぼ関わっていなかった。本作でもそのスタンスは変わっていない。ヴォーカルは原のキャリアの中では最も甘く艶のある時期で、ある意味さまざまなポップスを歌うのに適していたタイミングでもある。そんな原のヴォーカルに、87年の桑田のポップ・ミュージック宣言以降のスタンスをベースに、この数年の流れが反映されたサウンドが組み合わさり、バラエティ豊かな大作2枚組に仕上がっている。

翌92年、ソニーが提唱しソニー・マガジンズから雑誌「ガールポップ」が発刊されるような時代である。アイドルが廃れたJ-Pop初期における、女性シンガーものの雛形的な側面も持った2枚組ともいえよう。


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アルバム用のセッションは猫に小判スタジオが完成した90年秋以降に開始されたようで、以降の録音曲はアルバム『稲村ジェーン』同様小林武史、角谷仁宣のコンビによるトラックがベースとなっている。そして本作での初登場かつ重要なプレイヤーが、佐橋佳幸である。

佐橋は83年、Uguissのギタリストとしてエピック・ソニーよりデビュー。それ以前に高校の先輩にあたる清水信之の命を受け、同じく先輩のEPOのデビュー前のライブやデモテープ作りに携わり、80年のアルバム『Down Town』が初のレコード参加となる。84年のバンド解散後は様々なセッションに参加するようになり、80年代末には小林武史が仕切る現場に呼ばれることも多くなっていく。

佐橋佳幸「小林武史さんともちょうど、その少し前に知り合っていたんです。以前も話したけど、当時、僕はTOPという、藤井丈司さんや飯尾芳史さんといったYMO人脈が中心となって生まれた事務所に所属していて。その人脈繋がりで80年代の終わり、小林さんとも知り合うんです」
「小林さんがファーストアルバム『Duality』(1988年)を出した後かな。小林さんがアレンジする曲に僕をギター弾きとしてちょくちょく呼んでくれるようになって、仲良くなりました。ソロ作品のレコーディングや、その後のライブハウスツアーに大村憲司さんの後釜で参加したり…。あと、その頃だと鈴木聖美さんのレコーディングとか、小林さんが作編曲・プロデュースを手がけた仕事にも頻繁に呼ばれるようになって」
(【佐橋佳幸の40曲】小泉今日子「あなたに会えてよかった」名うてのビートルマニア大集合!https://reminder.top/292698159/

本作では、80年代のシングル曲を除く、90年以降のセッションのほとんどの曲のギターが佐橋によるものだ。15曲中8曲が佐橋単独のギター、加えて小倉博和と併記されている3曲も、クレジットや音から察するに佐橋の割合が大きいと推測される。多彩な楽曲たちに華麗に対応する、佐橋の万能さが窺い知れる。

そして『稲村ジェーン』から引き続き小倉博和、根岸孝旨、小田原豊らも参加。パーカッションはおなじみ今野多久郎が担当しているのも『稲村ジェーン』末期のレコーディングからの流れといえよう。

Produced by KEISUKE KUWATA & TAKESHI KOBAYASHI
Co-produced by KUNIHIKO IMAI
Recording Engineered by KUNIHIKO IMAI, HIROSHI HIRANUMA
  TATSUO UMETSU, SHINICHI AKAGAWA, SHOZO INOMATA
Remix Engineered by KUNIHIKO IMAI
  TATSUO UMETSU, SHINICHI AKAGAWA

プロデュースは桑田・小林、共同プロデューサーとして今井邦彦、さらには個別に高垣健も共同プロデューサーとしてクレジットされている。アルバム『稲村ジェーン』の延長といった体制でのレコーディングだ。桑田と小林とのコンビネーションも3年を超え、呼応関係がよりスムーズになっていったようである。
「小林(武史)クンがレコーディングに加わるようになって、もう何年も経つけど、それ以前と比べて変わったところは、アレンジのシミュレーションがいろいろできるようになったことなんだよね。だけど、最近はそういう作業も割と少なくなって、初めからかなりダイレクトに決まってきてる。最初から(曲の)敷地内にいろんなものを作ってくるしさ。何回も仮の住まいを建ててブッ壊すようなことはしない。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』)



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収録曲は桑田のペンによる曲が7曲、原のペンによる曲が10曲。小林作が1曲、原と小倉の共作が1曲、カバーが1曲と、意外と原による曲が最多収録となっている。そういった意味では、シンガーソングライター的な作品として楽しめるのも特徴だろう。原のペンによる曲は、プロデューサーソングライター桑田による、意図が明確でアクの強い曲とはまた別の魅力があることをリリース時に指摘したのはサザンのバンドメイト、関口和之である。

関口和之「とくに原坊が作った曲がいい。桑田が作った曲ってのは、“こう考えてる”というのが出ちゃうんですよ。僕なんかは聴いてると、桑田の声が聞こえてくるんだよね。だけど原坊の曲は、全体にこう、ほんのりした感じがするんです。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』)


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マシンのドラムによるRonnettes「Be My Baby」イントロを踏襲した桑田作「ハートせつなく」でアルバムは明るく(しかし歌詞は悲しく)スタート。「Be My Baby」ということでPhil Spector、いわゆるウォール・オブ・サウンドの再現かというとそこまででもなく、バリトンサックスでボトムに壁は作りつつも他は比較的あっさりとした音空間だ。桑田のBrian Wilson風ファルセットやMike Love風ベースパートなどでBeach Boysの要素も添えつつ、60年代の訳詞ガールポップ的な世界を90年代初頭に蘇らせたという雰囲気である。オールディー感あふれるトレモロギターやアコギは佐橋、的確に踊るベースは根岸、サックスはダディ柴田、パーカッションは今野。原によると、制作側はヴォーカル・ディレクションの際、竹内まりやの名を出していたようだ。
「だって歌う時に、まりやさんみたいな感じでって言われて。ぜんぜん真似できないんだけど、なるほど、こんな感じかなと思って。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
アルバムリリースの約2ヶ月前、91年3月27日にシングルとしてリリースされている。

イントロのコード進行などに笠置シヅ子「ラッパと娘」の香りを感じさせる、桑田作のジャズ歌謡もの「東京ラブコール」。左のギターはレーベルメイトであるレピッシュの杉本恭一。右にガットギターもフィーチャーされているが、こちらはもちろん小倉によるもの。トロンボーンは松本治。

「少女時代」はもともと斉藤由貴88年のアルバム『Pant』に原が提供していた曲で、セルフカバーにあたる。冒頭のコード進行からヒントを得たのか、小林は原由子版「希望の轍」といったアレンジ(メロトロン、ストリングスのフレーズ、ブラスの音色や使い方など類似要素が多い)を施したようで、オリジナルのポップであっさりとした雰囲気と比較するとかなりドラマティックな印象を与える出来栄えだ。最後にオリジナルには無かった「希望の明日へ」というフレーズも追加された。佐橋のギター、根岸のベースも同じ方向を向き、ひとつひとつのフレーズが曲の盛り上がりを増幅させている。パーカッションは今野。

89年のシングル2作のB面に収録されていた原によるペンの「星のハーモニー」は、本アルバム用のニュー・ミックスで収録(ちなみにシングル2作でもそれぞれミックス、エディットが異なっている)。抜けがよくなり、イントロの星の動きをイメージした?打ち込みのパーカッションがアルバムでは1小節おきにオミットされている。原いわく、「子どもと一緒に聴いてるお母さんを意識した」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)とのこと。アレンジは桑田がノータッチなのか、小林の単独クレジットである。89年の録音のため、角谷ではなく藤井丈司がプログラミングを担当。

桑田作、60年代後半のやさぐれGS歌謡の世界「じんじん」はアルバムリリースの3日前に先行シングルとしてリリースされている(この変則的なタイミングはどういう意図があったのだろうか)。エレキ・12弦・アコギが佐橋、小倉もエレキで参加。根岸・小田原・今野と本作の中心メンバーによる演奏に、桑田のひとりじんじんコーラスが炸裂するテンション高めの一曲である。
「これは和製のバタ臭さと申しましょうか、芸能界しか行くところがないって感じで。ちょっと整形に失敗しました、みたいな(笑)。ブルー・コメッツと美空ひばりでGSをやったりという……あとはピンキーとキラーズですかね。行き場のない人たちの集まる芸能界(笑)。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

ここで桑田・原の夫婦以外、本アルバムのプロデューサー兼アレンジャーである小林のペンによる「使い古された諺を信じて」が登場。アレンジも小林単独のクレジットだ。
原「小林クンの頭にお洒落な雰囲気というのがあって(後略)」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
お洒落ということで、小林のハネるシンベ、ワウ・クラヴィネット、そして何より左で鳴るおそらく佐橋のシティなカッティングがその雰囲気を支えている。間奏のギターソロは小倉だろうか。ドラムは小田原だが、「も一度だけ〜」の部分で一瞬ヒネったドラムパターンになるのも面白い。パーカッションでレベッカのサポート中島オバヲが参加。コーラスは前田康美と桑田。作詞のみ桑田というのも珍しい。
「小林クンの作ってきたメロディーにオレが詞をつけるそのやり方は歌謡曲ぽかったけど面白かった。原坊は仮り歌のお姉さんというか、ダミー(笑)。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

原によるペンの「Good Luck, Lovers!」では珍しくドラムに青山純を迎えている。ギターは小倉、コーラス…というか終盤でひとこと多重で歌っているのは桑田。原の当初の意図としては田舎臭いサザン・ロックがあったようだが、小林のクラヴィネットやシンベ、青山らしい重いながらもタイトなドラムなどが組み合わさり洗練された仕上がりとなっている。
原「これはサザン・ロックみたいな時代遅れ泥臭いイメージでやったんですけど、出来上がったらあんまり田舎さはなかったという。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

フジテレビ系幼児・子供向け番組「ひらけ!ポンキッキ」用に録音・シングルリリースされた「かいじゅうのうた」は89年の録音で、原の作曲・矢口博康によるアレンジ。桑田や小林はノータッチである。キーボードは門倉聡。東京ブラボーのブラボー小松、Soft BalletのサポートやShi-shonenに参加の塚田嗣人がかいじゅう風ギターを熱演。ベースは70年代からソウル系の作品(Michael Jackson「Rock With You」など)に参加しているBobby Watson。ドラムはおなじみ松田弘。松田によると、風変わりなレコーディングだったとのことである。
松田弘「ふつうはまずドラムでリズム録りをして、その上にメロディとかギターのカッティングなんかと“こうきたから、こういく”というように受け答えしながら重ねていくんだけど、今回例えば「かいじゅうのうた」では、曲全体の青写真が見えないまま、最初からドラムの細かい部分まで全部入れたんだよね。そのあとに入れたギターがもう最初から全編、グワーッとした感じの音ばかりで、これでほんとにいいのかなぁって感じなんだよ。まあそこから音をピック・アップしていって、怪獣の雄叫びっぽくしていくんだけど、なんだか摩訶不思議な作り方だった。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
さらには朝本千加、沢村充、矢口の3名によるサックスと豪華な顔ぶれによるトラックにのせ、桑田家の長男視点からの兄弟愛が歌われている。

都倉俊一&阿久悠コンビ作、ピンク・レディーのカバーである「UFO(僕らの銀河系)」。地味目のグラウンドビート風味のトラックで、ロシア語のラップをフィーチャーするなど、オリジナルに比べぐっと渋めに迫ったアプローチである。ギターは佐橋、コーラスと補作詞が桑田、Voice・補作詞としてクレジットされているラップのJadrankaはおそらくJadranka Stojaković。ユーゴスラビア出身のJadrankaは当時日本に活動拠点を移し、J.E.F.でおなじみ東芝のポップサイズからアルバムをリリースしている。
「この曲はボクの目配りから出てきたものでしょうか?“歌う電通”と言われてますから(笑)。でも二枚組アルバムのなかでカバーは絶対やった方がいいなと思って。」
「途中のラップは銀河系の彼方から来た宇宙人のつぶやき。地球人と仲良くするためにやって来たんだと。ところが地球じゃ地球人同士が喧嘩してる。もしかしたら、地球人とやらは銀河系の友だちが見てる目の前でお互いに殺し合ったりするんじゃないかってメッセージをロシア語で入れた。ちょうど湾岸戦争が始まった時期で、UFOは侵略みたいなことも連想するから、何となくそんなことを考えてた。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

1枚目の締めは「花咲く旅路」。作者の桑田によると、高田浩吉の「大江戸出世小唄」を意識して着手されたという。
「高田浩吉っぽい“土手の柳は風まかせ”というマイナーかメジャーか判然としない“転ぶ”みたいな曲を目指したんだけど、難しくてオレ作れなかったんだ。「こんぴらふねふねおいてに帆かけてシュラシュシュシュ」っていうの。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
「ナチカサヌ恋歌」の続編・延長ということなのか、同曲で聴かれた原の多重コーラスが冒頭から何度か登場。この数年のワールドミュージックブームで様々なチャレンジをしていた桑田が、原というヴォーカリストと共に最終的にこの曲に到達した…というところだろうか。佐橋のギター&マンドリン、桑田のコーラスをフィーチャーしている。90年秋からオンエアのJR東海の企業CM「日本を休もう」は当初中華風インストが流れるアニメCMであったが、すぐに「花咲く旅路」を使用したバージョンに変更。シングルカットはされていないが、アルバムリリース時すでに世間では耳馴染みの曲であったことだろう。

2枚目の1曲目は原による作曲・小林単独のアレンジ「お涙ちょうだい」。原はCarly Simon的ブルーアイドソウルの世界を意識したという。
原「高校の時、カーリ・サイモンとか好きでね。あんな、クロっぽい白人みたいなブルージーな感じが出せたらいいなぁって。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
佐橋をフィーチャーした小林のアレンジはニューソウル的な要素を、ミックスはナローでデッドながら当時のUK的、ソフィスティ・ポップ的な音色なども多少加味したような雰囲気で構築している。サックスは包国充、コーラスは桑田。どういう経緯か作詞は森雪之丞が担当している。

グラム・ロック・ミーツ・テクノといった雰囲気のトラックに、無機質なテクノ・ポップ風…というかジューシィ・フルーツでのイリア風ヴォーカルを乗せ、セクシュアルな歌詞が展開されるというミスマッチを狙った「イロイロのパー」。ギターは佐橋、ハーモニカは八木のぶお、コーラスは桑田、Voiceとして梶明子も参加。小林がキーボードと共にサンプリング・ギターとクレジットされているが、イントロの左で鳴っているカッティングの音であろうか。

本作で一番古い録音である87年リリース「あじさいのうた」は、産休・育休で音楽から離れていたシンガーソングライター原由子の復活を高らかに示した曲である。
原「この曲ができてみて、やっぱり私には音楽は必要なんだなってことがわかった。だから、記念碑的な作品です。忘れがちな思いを素直に歌にして。育児を含めて毎日に忙殺されてると、恋心とかステキな気持ちって忘れちゃうじゃないですか?」
「この曲はキーボードで作曲する時の私の特性みたいなのがあって、けっこう好きなコード進行なんですよね。だから自然にできた。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
桑田ソロ「悲しい気持ち」の前哨戦として桑田と藤井丈司の2名体制でアレンジ。原田末秋・琢磨仁・松田弘とのレコーディングで、「雨に唄えば」というフレーズも出てくる爽快感のあるレイニー・ポップスである。

珍しく原と小倉の共作である「夜空を見上げれば」は、佐橋と小倉のアコギに中西俊博・桑野聖・桑江千絵・向山佳絵子による弦楽四重奏をフィーチャーするという本作でも珍しい編成。原由子としか言いようのない優しさが全編を貫いた楽曲といえるだろう。この時期の世相を鑑みて書かれた歌詞のようだ。
原「世界や日本がこの先どうなるかわからないけど、子どもが大きくなった時にも夜空を見上げて「星がキレイだね」って言っていられる世の中であってほしいなと。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
アレンジは原・小倉・小林・桑田の連名で、加えてストリングスアレンジに中西俊博を迎えている。

「Anneの街」は原の作で、「赤毛のアン」にインスパイアされた歌詞ということである。アレンジは小林単独のクレジット。
「これは小林クンと原坊のカップリングで、お互いの繊細な部分が響き合ってる。僕はこのアレンジにはぜんぜんかかわってないです。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
コーラスも小林主体?で桑田が加わるという、異色のバランスだが不思議と曲に合っている。プログラミングは角谷でなく藤井丈司で、ひょっとしたらベーシックは80年代に録ってあったのかもしれない。途中から登場するMoogは、グロッケンと共にこれ以降の小林武史のアレンジを語る上で欠かせない存在だろう。なお、アルバムに収められたバージョンはシングルとミックスは同じようだが、歌が終わるところでフェイドアウトするショート・バージョン。そのため、この曲の大きな魅力のひとつである、何度か登場する八木のぶおのソロと佐橋のオブリの組合せのうち、歌が終わって以降の部分はシングルでしか聴くことができない。

「終幕(フィナーレ)」は歌謡調というか火曜サスペンス劇場調というか竹内まりやのマイナーもの調という雰囲気もする、原の作曲・小林アレンジの一曲。歌詞もバスが出ていくあたり、そういった雰囲気をさらに印象付けている。ドラムは小田原、ベースは味に変化をつけるためか有賀啓雄、ブラス・ストリングスアレンジは中西俊博によるもののようだ。そのため弦も中西俊博グループが担当、フリューゲルホーンは数原晋、フルートに篠原猛。

88年に「ガール/Girl」とのカップリングでリリースされたシングル曲「春待ちロマン」は矢口博康・門倉聡アレンジの春の訪れを感じさせる、シンセのスティールパンやマリンバが印象的な一曲。キーボードは門倉、サックスと珍しくギターも矢口、ベースに中原信雄、プログラミングは土岐幸男。原はこの曲についてはギターで作曲したという。
原「これはギターを鳴らしながら作曲しました。キーボードで作るとコード進行が似通ったりしてある意味自分の欠点が出ちゃったりするんで。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

イントロの小林・小倉の組み合わせから早くも印象的な、桑田のペンによる「ためいきのベルが鳴るとき」も89年にシングルとしてリリースされていた曲だ。小林の単独アレンジで、小林・小倉に加えドラムは松田弘、プログラミングは藤井丈司。ファルセットの多重コーラスは桑田。この曲も「星のハーモニー」同様アルバム収録に際しリミックスされており、すっきりしたタイトな音像に変わったほか、シングルバージョンにはあった各種パーカッションの一部や「uh...lalala...Ringin' a bell just seems to tell what's in my」部分のドラムがオミットされている。

87年にキユーピーのCMに使われた原の書き下ろしコマソンは、特に当時はタイトルも公表されず、リリースもされなかった。それが4年を経て後続部分を追加しリレコーディング、「キューピーはきっと来る」のタイトルで本作に収録となる。CM用録音ではブラス隊をメインに、ドラムもキックとブラシのみ…という編成だったが、今回は小林のニュー・アレンジ、松田弘のマーチングドラム、小倉博和のブズーキ、樋沢達彦のベース、包国充のサックス、小林正弘のトランペット、池谷明広のトロンボーンが賑やかに曲を彩っている。

原にしては珍しい、歌い込むバラード「想い出のリボン」でアルバムは締まる。エレキギターとエレキシタールに原田末秋、同じくエレキ・アコギに小倉、コーラスは桑田。こういった曲でエレキシタールが鳴るあたり、山下達郎によるフィリーソウル経由のバラードに通ずるものがあると思えば、実際桑田はヴォーカル・ディレクション時に山下を意識していたようなコメントをしている。
「(山下)達郎さん節を要求されるからね。ンン〜ンという、ンがなきゃダメだから。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
山下達郎で締める、という意味では『Keisuke Kuwata』にも通ずるものがあるが、今回は竹内まりやで始めているあたり、同じ制作チームのこだわりが見てとれる。


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91年6月1日にリリースされた本作が与えた影響として、共同プロデューサーでメインアレンジャーでもある小林武史の動向があるだろう。

このアルバムリリースの直前、5月21日にリリースされた小泉今日子のシングル「あなたに会えてよかった」の作曲・編曲を担当したのが小林武史である。

収録アルバム『afropia』になぜかクレジットはないがプログラミングはおなじみ角谷仁宣が担当(ジャパニーズポップスとヤマハシンセサイザー https://jp.yamaha.com/products/contents/music_production/synth_50th/anecdotes/012.html。そのほか、演奏も『Mother』セッションでおなじみ佐橋・根岸・小田原が起用された。佐橋によると、セッション中に悩んだ小林が自分のパートのみ弾いて失踪してしまうというハプニングがあり、3名でビートリーなフォークロックの方向へと転がしたという
(【佐橋佳幸の40曲】小泉今日子「あなたに会えてよかった」名うてのビートルマニア大集合! https://reminder.top/292698159/

とはいえ、上物については小林の、というか『Mother』アレンジのアイディア総復習といった感がある。「ハートせつなく」のバリトンサックス、「少女時代」「使い古された諺を信じて」(遡れば「希望の轍」)のメロトロン、「Anneの街」のポルタメントのかかったMoogなどのモノシンセ(遡れば「誰かの風の跡」)、「想い出のリボン」のエレキシタール(遡れば「真夏の果実」)、など、ここ数年の桑田絡みの小林作品の断片があちらこちらから聴こえてくる。(クレジットはないが佐橋アレンジの)鈴木祥子とのコーラスを含めた佐橋・根岸・小田原のBeatles的な要素と、小林=『Mother』の要素の組み合わせが不思議なバランスで仕上がったユニークなアレンジ…といえるのだろう。

この後、小林は91年10月リリースの牧瀬里穂「Miracle Love」(竹内まりや作)のアレンジも担当。こちらも小林・角谷・佐橋・小田原と、これまでの流れの面子による演奏である。この頃になると、小林によるガールものも80年代末の田村英里子や立花理佐で聴かれたシンセ中心のトラックから、生音志向に移り変わりつつあるのがわかる。

そのいっぽう小林は、8月には個人事務所、烏龍舎を設立。桑田のコネクションでアミューズ大里洋吉に直談判し、ニューヨークのアミューズ所有のマンションをレコーディングの場としてレンタルする。そして10月には渡米、拠点をニューヨークに移すのだった。

新しいミュージシャンを探してニューヨークから日本とアジアへ向けてプロデュースしたいというのが、小林のアイディアだったのだ。
(略)
途中でアミューズ側の事情が変わりスタジオ構想は頓挫するのだが、すでにこの時期、今年デビューした『MY LITTLE LOVER』につながる女性ユニットの原型を見つけてプロデュースを開始している。
(『月刊Views 1995年9月号』講談社、1995)

ニューヨークでMy Little Loverの原型…というと既にこの当時、ガールヴォーカルとLenny Kravitz〜Waterfront Studio的なサウンドの融合を目指していたのだろうか。しかし結局アミューズのマンションが使えなくなったため、2ヶ月程度で小林は帰国を余儀なくされる(そのタイミングで、トイズファクトリーから新人バンドのプロデュース依頼を受けることになる)。

のちの小林の発言(『月刊カドカワ 1996年1月号』角川書店、1995では、過去に自腹でWaterfront Studioに出向き、My Little Loverの前身としてとある女性ヴォーカリストと録音していると明かしている。レコーディングのタイミングは不明(『Vanessa Paradis』とどちらが先だろうか)だが、小林のこういった動きも『稲村ジェーン』〜『Mother』を経てのものというのが興味深い。

また、11月には原のシングル「負けるな女の子!」がリリース。読売テレビ制作のアニメ「Yawara!」主題歌用に原が書き下ろした曲で、小林の単独プロデュース・アレンジで桑田は完全にノータッチのようだ。角谷・小倉・小田原の3名とフルートはJake H. Conception、コーラスで前田康美が参加。小林のシンベや、小田原のタム捌きを存分に味わうことができる一曲だ。

小林武史以外にも『Mother』の影響は存在する。佐橋佳幸と小倉博和のコンビ「山弦」結成のきっかけはこの『Mother』セッション、そして後述の、並行して行われた桑田のソロライブであった。


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『Mother』には様々なラブ・ソングが収められているが、これはやはり当時の世相が影響しているといえそうである。

原「最近“私のメッセージ”があるとすればそれは何かな?とか考えるんです。たとえば、戦争に対して“戦争反対!”って行進するのも何か違うかなぁと。反対と言うのは簡単、と言っては大変失礼なんですけど、反対するよりどうやったら解決するかとか、どうしたら戦争に行かなくて済むだろうか?って考えたほうが、“戦争反対!”と言ってるだけよりもいいのになーって思う。何か根本的な、普遍的な、クサイ言い方だけど、普遍的な愛や子どもや、恋人とか友だちとか、そういうものをみんなが思い出せば戦争なんて事態には至らないんじゃないか?と思ったりしているんです。
「人間的には、やっぱり母親になったというのが一番大きかったでしょうねぇ。今もし母親じゃなかったら、湾岸戦争のこととか、環境問題もぜんぜん気にならなかったかもしれないなぁって思ってるんですよ。嫌だなぁっていうぐらいで、実際に自分のこととして考えられなかったかもしれない。やっぱり子どもを守りたい気持ちは強いですから、すべて他人事じゃなくなっちゃいました。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

特に91年1月〜2月の湾岸戦争は、まさに『Mother』レコーディングの最中に勃発している。この時期、録音現場でも話題の中心になっていたという。

そんな中、プロデューサーの桑田は、レコーディングと並行し急遽洋楽のカバーのみで構成されたソロライブを企画・開催する。演奏メンバーには『Mother』録音のコアメンバーから小林武史、小倉博和、佐橋佳幸らがそのまま召集されることになる。

佐橋「ある日、桑田さんから “オレが若い頃に聞いてた洋楽のカバーばっかりのライブをやるんだけど手伝ってくんない?” って言われて。そんなの、まさに僕の大好物の企画じゃないですか(笑)。断る理由がない。で、僕とオグちゃんと、ツインギターで参加したのがパワステでの “アコースティック・レボリューション” だったわけです。」
【佐橋佳幸の40曲】SUPER CHIMPANZEE「クリといつまでも」桑田佳祐が結成した幻のバンド
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2024年6月15日土曜日

1990 (2) :未だに青春は軟弱なまま

80年代に入り、何度か海外との接点を接点を作ろうとしていた桑田だったが、87年後半以降はソロアルバム・サザン復活・映画撮影…と、しばらく国内マーケットに焦点を絞った活動を続けてきた。86年のKuwata Band87年のHall & Oatesとの共演を経たのち、海外への目線はどうなっていたのか。

以下は90年前半、『Southern All Stars』大ヒットを記録した後のインタビュー。

「だから、200万枚とか国民的バンドとかっていうセリフ自体、やっぱり村祭りにしかすぎないなって気がするよね。村祭りの音楽やってるってことに関して、ひとつの満足はあるんだ。けど、それだけじゃ夢がなさすぎるからねー。村に譬えるなら、俺は東京へ出て行きたいっていう気持ちあるしさ。東京が村であるんだったら世界へ出て行きたいって気持ち、あるね」
— 現状には満足してない?
「いや、キープする気はないってこと」
— 何か具体的に考えてることは?
「ん〜と。まあ、具体的じゃないんだけど。ぼく個人としてはね、例の映画(監督作品『稲村ジェーン』)が一段落するのが夏ぐらいだと思うんだけど。その後にちょっと海外行って、自分のバンドを作るなり、ね。向こうでライヴやるための、なんかそういったプロジェクトを作りたいなーと思ってるわけ。向こうのミュージシャンも含めてやったほうがいいと思うんだけどね、もはや。音楽っていうのは、世界の壁を越えるって意味だと思ってるから。それが、音楽が本来持ってる意味だと思う。人間の壁っていうか、それを越えるって意味だと俺は思ってるんだ。それがあまりにもビジネス用語になっちゃってて。日本人同士の取引の材料になっちゃってるからさ。決して輸出しない商品の。結局、演歌とか歌謡曲の世界に入ってたらそういう考え方は起きなかったと思うんだけど。やっぱり女にふられて、クラプトンからエルトン・ジョンとかリトル・フィートとかに憧れた人間としてはですね(笑)、ああいう人たちと一緒にやりたいな、っていう気持ちを棄てちゃうと、音楽やってる意味がないっていう気がするのね。」
(『Trans-Culture Magazine 03 Tokyo Calling 1990年5月号』新潮社、1990)

そこまで具体的な計画を立てていたわけでもないようだが、この時点でも海外を視野に順を追ってアプローチを再開させたい…という意向があったようである。まずは映画の完成に向け追い込みをかけ、その後に何らか動いてみたい、というところだったのだろう。


***


さて、桑田がアルバム『稲村ジェーン』の制作追い込みに奮闘している頃、サザンのメンバー3名が「S.A.S. Project」名義で3曲にかかわった、もう一枚の企画アルバムが並行して製作されている。90年11月末にビクターのinvitationからリリースされた、Mrs. Jones Loversによる『Snowbird Hotel』である。
冬〜スノーリゾートをテーマにした企画アルバムなのだが、ライナーを見ただけではいったいどういった経緯で、誰を中心に作られた作品なのかわからない。プロデュースや「(C)企画、設計」としてヘンリー片岡のクレジットがある。

このMrs. Jones Lovers、こののち92年にアルバムをもう1枚リリースしている。M. J. Lovers名義でリリースされた『Rhapsody In Winter』が2021年にCDリイシューされ、鷺巣詩郎と柴崎祐二によるライナーでこのユニットの正体が明かされている。主体となっているのがヘンリー片岡と鷺巣詩郎。二人は88年のChocolate Kids Jr. & Henrry-B-White、89年のGavi、97年にはNo-Wethers…と幾多のユニット名で、主にウィンター・アルバムを制作し続けていたのだ。首謀者のヘンリー片岡とはとある博報堂プランナーの、音楽活動時のペンネームということだ。Mrs. Jones LoversというとKenneth Gamble & Leon Huff作のフィリーソウルクラシック「Me & Mrs. Jones」を思い起こすグループ名だが、実際この曲から取られているようで、特に『Rhapsody In Winter』はフィリーソウルへのオマージュといった要素が全編から感じられる。

『Snowbird Hotel』収録曲は基本的にヘンリー片岡&鷺巣詩郎のペンによる楽曲を、岩本正樹・笹路正徳・亀田誠治と、これ以降のJ-POP界でも多くのヒットを残すことになるアレンジャー達によるサウンドで彩っている。そしてなぜサザンの3名がここに起用されたのかその経緯はいまだに不明だが、とにかく松田弘・大森隆志・野沢秀行が「S.A.S. Project」のユニット名で「Party, Party, Party」「Silent Morning」「Snow Samba」3曲のアレンジ・演奏・サウンドプロデュースを担当しているのだ。

3曲については、録音を担当した当時アミューズスタジオ(こちらは87年4月に完成しているが、桑田関連の録音では使用されていないようだ)の熊田倫和もサウンドプロデュースに連名でクレジット。アレンジは既にサザンのライブでは顔なじみであった、片山敦夫がS.A.S. Projectと連名でクレジットされている。「Silent Morning」はアルバム中例外的に、大森のペンによる曲だ。ヴォーカルはアルバムの他の曲にあわせそれぞれヴォーカリストをフィーチャー。川内裕子、ブルースシンガーの入道(西村入道)、松田が88年にアルバムをプロデュースしている宮崎萬純…の3名が起用されており、あくまでS.A.S. Projectの3者はサウンド作りに徹している。曲によってメイン担当を分けた(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)ようで、グラウンドビートの「Party, Party, Party」は松田、バラードの「Silent Morning」は大森、「Snow Samba」は野沢…といった具合だろうか。そしてこれら3曲は、完成したばかりの松田のプライベートスタジオ、Beat Club Studioでベーシックが録音されている。

89年11月、松田はプライベートオフィス「Beat Club Corporation」を創立。プライベートスタジオであるBeat Club Studioが90年5月にアミューズスタジオの熊田のサポートを得て完成している(『代官山通信 Vol.29 Oct. 1990』サザンオールスターズ応援団、1990)

 スタジオの使用目的は?
松田弘「最初は自分のソロ・アルバムのためのスペースということを考えていたんですが、プリプロを含め、ある程度のレベルまではレコーディングできますから、いろいろと可能性は広がりますね。誰かのプロデュースとかね。
それから、ニューヨークにはリズム専門のオペレーターがいて、それが会社組織になっているんですけど、そういう可能性は日本にないのかなって考えてたんですよ。ドラマーとしては、そういう仕事っていいですよね、夢として。」
(『Sound & Recording Magazine 1991年1月号』リットーミュージック、1990)

ニューヨークというのは87年、Hall & Oatesと桑田のレコーディング参加のため渡米した際のエピソードである。

松田「87年はニューヨークに行って。これは強力だった。向こうのオペレーターってドラマー出身なんだよね。ドラマーじゃなきゃやれないっていう規則があってさ。タイム感、スウィング感、ノリとかね。ドラマーの仕事をユニオンで保証されたたり、いいシステムだなと思って、それがもとになって自分でも組織を作ろうかなって思ったんですね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

単なる個人事務所、宅録用スタジオというだけでなく、ドラマーによるリズム・プログラミング組織の立ち上げという目標も持ちあわせながら始めたのがBeat Clubというわけである。そういえばKuwata Band「Merry X’mas In Summer」(「All Day Long」も?)では、既にマニュアル・プレイではない、松田自ら打ち込んだマシンのドラムが使われていた。サザンのメンバーというよりは一プレイヤー、ドラマーとしての立場から、時代に即した在り方を模索した結果、オフィス・スタジオの設立に至ったということなのだろう。

そういった背景から、Beat Club Studioはマンションの一室を利用して作られており、ライン録りメインで本格的な防音もされていない。設置されているのもPC98、MacといったコンピューターとRoland D-70あたりをメインとしたシンセサイザーのみで、ドラムはトレーニングキットしか置かれていない『Sound & Recording Magazine 1991年1月号』

 ところで、弘さんのスタジオということなんですが、ドラマーのスタジオなのになぜドラムセットがおいてないんですか?
松田「ドラムは……今、ドラムマシーンっていうのがあったり、パソコンで音楽を作ったりっていうのが半分ぐらい主流になってきてるのね。それで、自分の音をディスクに残して、それをコンピューターで打ち込んで音楽を作るっていうやり方があるから、それをちょっとやってみようかなと思って。まぁ、コンピューターミュージックっていえばそれだけど、そういうやり方で、データーだけでとっちゃったりすれば、時間的に早いんだよね。レコーディングスタジオに入ってやる作業が少なくてすむんだ。今のレコーディングの形態っていうのは、もうその前の段階で、例えば自宅録音でもいいからデーターをたくさん残して、それを持っていくみたいな、そういう方法があるから、じゃあここで、単純にデーターだけじゃなくて、もっとクオリティーの高いものっていうか、完成度の高いものでそのままレコーディングにも使えるようなデーターができればいいなって思ってるんだよね。」
(『代官山通信 Vol.29 Oct. 1990』サザンオールスターズ応援団、1990)

スタジオを構え、『Snowbird Hotel』収録曲の製作作業を行ったわけだが、その後はまずは松田のソロアルバム用の作業を想定していたようだ。ゆくゆくはサザンのリズム・プログラミングの場としての使用も考えていたようである。

 このスタジオを使っての今後の予定は?
松田「基本的には自分の関係した仕事以外はしたくないというのがあるんですけど、実験的なケースとして箱貸しする場合もあるでしょうね。まあ、とりあえず自分のソロ・アルバムに向けての制作の場でありたいし、サザンの次回作となった時には、リズムのアプローチはここでやりたいな、というのはありますね。」
(『Sound & Recording Magazine 1991年1月号』


***


Beat Club Studioの完成から遅れること数ヶ月、桑田の自宅地下にもレコーディングスタジオが完成している。

 このレコーディング(引用者注:原由子91年のアルバム『Mother』)は、ビクタースタジオだけでなくこの"猫に小判スタジオ” でもやってるわけなんですけれども、このスタジオはいつ頃できたんでしょうか?
原由子「去年の9月ぐらいにやっと使えるようになって、まず最初の使用が私のレコーディングだったってことで。だから、最初の頃はよくね、テープが暴走しちゃったり、止まれって行っても止まらなかったり、いろいろトラブル続出で(笑)。」
 設備は、プライベートスタジオとしては、日本でも1、2を争う凄いものだって聞いてたんですけどねぇ…
原「そうかなあ〜。それでね、スタジオが実際に始動するまでの間、機械をずっと置きっぱなしだったんですよね。私もモノグサだから、あんまり見に行かなかったの。そうしたら、悪いことに梅雨とか、夏とかがあって、秋の初めに覗きに行ったらね、カビが生えてたの、コンソールに(笑)。それもあってね、みんなに非難を浴びたっていうか、”猫に小判”、って言われちゃったの。でね、金属につくカビって染みみたいになっちゃって取れないのよねー、色が染みこんじゃって。だから、今でもあるよ、カビの跡が。地下だから湿気が凄いの。」
(『代官山通信 Vol.32 Mar. 1991』サザンオールスターズ、SAS応援団、1991)

『Sound & Recording Magazine 1991年1月号』によると松田のBeat Club StudioはレコーダーもAKAI A-DAMで、デジタルメインのコンパクトな構成であった。一方桑田のプライベートスタジオはというと、詳細は不明ながらアナログ機材を中心に据えていたようだ。「東京サリーちゃん」レコーディングと並行して作られたと思しきスタジオだが、Lenny Kravitz『Let Love Rule』あたりの影響もあったのだろうか。

「その前に、自宅の地下に“猫に小判スタジオ”っていう小さいスタジオを作ったんですけど、設備がアナログで、アナログの魅力にけっこう毒されてた。アナログはやっぱり俺が求めてた音だっていまさら思ったんだけど(後略)
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

スタジオ名については、前述の、コンソールにカビを生やしてしまったというエピソード等も踏まえての、小林武史のひとことがきっかけのようである。

今井邦彦「一応24チャンのアナログマルチも入ってて。小林さんがそれに対して「桑田さんには猫に小判みたいなものだ」って。それで“猫に小判スタジオ”。」
(「Switch Vol.31 No.8」スイッチ・パブリッシング、2013)

このスタジオの完成によって、青山のビクタースタジオまで移動・占拠しなくとも、宅録でベーシックやヴォーカル録りが行えることになる。何時間でも終わりを気にせずレコーディングに没頭できる環境というのは、80年代後半から一気に録音作業に傾倒していった桑田にとっては、念願のものであったことだろう。

「自分らしさっていうのがやっぱりあるとしたら、自分が一番充実してる時期っていうのは、やっぱり曲を作ってレコーディングするまでですね。その曲を初めて聞いた時か、それとも様々な偶然の末に初めて聴き入った折に、それまでいろいろと心にうろついていた事々などが、メロディーと言葉が生み出す世界にインスパイアーされ、手触りを持ったり、ウズキがよみがえったり。
桑田佳祐「ただの歌詞じゃねえか、こんなもん '84-'90」新潮社、1990)


***


90年秋、映画「稲村ジェーン」公開後。長きにわたる過密スケジュールをこなし、ようやくひと息ついた桑田はメキシコ・ジャマイカ・ニューヨークに出向いている(メキシコはCM撮影、ジャマイカは完全オフ、ニューヨークでの詳細は不明)。このうちジャマイカ旅行の様子が『CADET 1991年1月号』(講談社、1990)に掲載されている。桑田によるいくつかの散文詩も載っており、ようやくの休暇でリラックスした内容が並ぶかと思いきや、コミカルなものもありつつどうにも意味深なものも含まれている。当時の心境が如実に反映されていた…のかもしれない。

そう言えば、あれほど正月に心に強く誓ったはずなのに、
まだ結論に達していない。
それにどうにも出口の見つからないショーバイである。
雑誌(マスコミ)の風潮は、いつもなぜかテイサイと建前を
ネガティブな立場に置こうとするくせに、
こんな時はかならずや、ジョーシキという名で
モラルという顔の人格に早変わりするだろう。
ジョーシキはジョーシキだけの中にあるものなんだから、
どうだっていいじゃないかよ。
俺は元旦に朝日を拝みながら、
今年は絶対に強姦魔の代理店をつくろう
と思ったはずなのに、
未だに青春は軟弱なままである。
—海に歌いて詠む

2024年5月30日木曜日

The Boleyn Boys「West Ham United」「Football Mad」[Ken Gold Songbook]

West Ham United(F. C.)は、英国はロンドンを拠点とするプロサッカークラブです。クラブのアンセムとして古くから今に至るまで定番となっているのがJohn Kellette作の1919年のヒット曲「I'm Forever Blowing Bubbles」なのですが、それとは別に、チーム名をタイトルに冠したアンセムが1973年にPyeからシングルリリースされています。このBoleyn Boys名義の「West Ham United c/w Football Mad」、両面Martin Shaer & Christian Gold作、Tony Riversプロデュースという70年代前半のKen Gold関係者で製作されたシングルでした。


楽曲は両面とも同じような雰囲気で、Goldのディスコグラフィーの中では同時期のAnniversary「Jo Jo」(とかNew Seekers「Never Ending Song of Love」とか)が若干近い雰囲気を持っている…というところでしょうか。

Discogsピクチャースリーブを見ると、歌詞とともに盤にはない製作クレジットが記されています。

Music by Ken Gould
Lyrics by Martin Shaer
Produced by Tony Rivers

レーベルの記載はC. Goldで、これはまだKenに変わる前のChristian Goldのことかと思うのですが、ピクチャースリーブではKenではあるもののGoldでなくGould…、これは同年のHollywood Freeway「You're The Song」のアレンジとしてもクレジットされている元ApplejacksのDon Gouldに寄せた表記のようで面白いところです。また、明確に歌詞はMartin Shaer、曲はGoldと分業制になっているのも読み取れます。ということはこのコンビによる他の曲、「Ginny Go Softly」「In Love With Cherry」あたりも作詞Martin Shaer、作曲Ken Goldの体制で作られていたのかもしれません。

75年にはWest Ham United Cup Squadと選手名義で「I'm Forever Blowing Bubbles」が再びPyeからTony Riversプロデュース、Don Gouldアレンジでシングルリリースされています。未聴ですが、このB面にもRiversプロデュース・Gouldアレンジの「West Ham United」が収められているようで、73年版と同じ録音かそれともリレコなのかどうか…気になるところです。


2024年4月11日木曜日

1990 (1) :ペギー・リーみたいに

89年9月の『Southern All Stars』録音完了後、桑田は予定どおり監督作品の撮影に入る。クランクアップ後の年明け、アルバムリリースとサザンのツアー「夢で逢いまShow」を開催。ツアー終了後の5月より、映画の編集・追加撮影、そして映画公開と同時にリリースされるアルバムのレコーディングを行なっている。

桑田監督の映画については、初期コンセプトについては以前記したとおりだが、作品の規模としても当初はそれほど大きなものではなかったという。

— 当初は「ストレンジャー・ザン・パラダイス」みたいな映画になるという話も聞きましたけど……。
「うん。だって、最初は予算が5000万円くらいの単館上映のものっていうことだったから。おれも映画撮るのなんか初めてだしね、それくらいのほうが気がラクでいいやと思ってて。それで、撮影期間も2ヶ月ぐらいに設定されてたから、地味なモノクロの、でもアナーキーな映画をつくろうと考えてたんですよ。」
(『ぴあ music complex 1990年8月29日号』ぴあ、1990)

おそらく最初に事務所内で企画が立ち上がったのは88年のサザン復活前と思われるが、その復活劇がビジネス的に大きな結果を残したからというのもあるのか、撮影期間・予算・内容等、規模はどんどん当初構想から大きくなっていったようだ。この増え続ける予算をカバーする案として、音楽アルバムの制作というアイディアが出る。アミューズだけでなくビクターにも映画の予算を負担してもらい、アルバムの売上を還元させるという目論見である(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)。当初、A&R高垣健は単純にインストも多く入った映画の「サウンド・トラック」アルバムをリリースしようとしていたようだが、桑田の意向でいわゆる普通のアルバムとして成立するよう、追加で曲作りからの作業が行われることになったという。

「ウチのTというチーフディレクターが、勝手に劇盤の選曲とかもしちゃって(笑)。でも、その中身が、さっき言った二曲(引用者注:「愛は花のように」「忘れられたBig Wave」)と、あとは8小節しかないような曲だったり曲だったり12小節しかない曲だったりを、全部サントラ盤として選曲してる。で、「これでイイんじゃないか?」と言ってるTという人がいて(笑)。俺は焦ったのよ、アンタ何考えてんの?って。この曲、12小節しかないよってさ。「でもサントラだからねぇ」とか神戸訛りで言われた時には、私は目まいがしたんですよ。「それじゃマズいんじゃない?いくらなんでも」ってね。やるからにはアルバムとして成立させたいから、また新たに曲を作ったりする作業が始まったんですよ。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

最終的な映画の出来については公開から34年が経とうとしている現在でも賛否分かれるところだが、もし、映画が桑田の語るような、初期のストイックなコンセプトと規模のままで作られていたら…そのいっぽうで今聴けるような内容のアルバムが企画されることもなかったのかもしれない。

実際にリリースされたアルバム『稲村ジェーン』は、帯やライナーにサウンド・トラックという文字はない。広告でも、サントラとは書かずに「超娯楽アルバム」と銘打たれている。そういえばジャケットも、よくよく見れば映画「稲村ジェーン」の内容に沿ったイラストでもなく、映画を撮影する男が描かれている。このあたりからも、映画のサントラというよりは、映画監督が作った歌ものアルバム…というほうがしっくりくるのだろう。



***


Produced by KEISUKE KUWATA, TAKESHI KOBAYASHI
Co-Produced and Engineered by KUNIHIKO IMAI

本アルバムのプロデュースは桑田と小林の2名のみ。作業パートナーは『Southern All Stars』の門倉聡から小林武史にバトンタッチしたようである。また、いつものように共同プロデューサーとして今井邦彦、またレコード会社の共同プロデューサーとして高垣健も別途クレジットされている(ちなみに映画の音楽クレジットはというと、同じ体制を指していても表現は異なり、音楽:桑田佳祐、音楽監督:小林武史、音楽プロデューサー:高垣健、であった)。

1988 (3)  : ラテン・ミュージックとBig Wave」のとおり、もともとサザンとは別のプロジェクトとして始まった映画用音楽だが、プロデューサーのクレジットしかり、アルバムも中身を見れば方針はそのままである。先行して『Southern All Stars』に収録された2曲、サザン名義でリリースされた先行シングル「真夏の果実」、そして「Mambo」の計4曲にサザンのグループ名は記載されている。しかし大部分である他7曲はあくまで桑田・小林によるチョイスの、曲ごとに集められた個々のミュージシャンたちによる楽曲…というコンセプトで、参加者がパートとともに羅列されているのみ。特に固定のグループ名なども記されていない。

桑田としても、実態はサザンと別プロジェクトだったということでか、『Southern All Stars』と比べかなりリラックスした精神状態のレコーディングだったようである。
「十字架背負わないでやってる適当さが好きです。ビートルズの『Hey Jude』みたいな統一感のなさがすごく好きで、個人的には飽きのこないアルバムです。」
(『ワッツイン 1993年12月号』)

しかし、リリースされたアルバムの名義は「Southern All Stars and All Stars」と冠され、一見すると一曲一曲がサザンを主体に、さらに多くのゲストを迎えて制作された…というような印象を受ける。邪推すると、営業的な観点からサザンの名前をメインに据えたい、という判断が事務所/レコード会社側であったのではないか。当時のサザンブランドのビジネス的な力の強さを示す出来事と言っていいのかもしれない。

余談だが、プロデューサーの記載のあるところすべてに空白行を開けずにサザンオールスターズの文字がある。すぐ下にメンバーの名前とパートが羅列されており、単にサザンのメンバー紹介の欄と解釈しているが、常にこの固まりだとまるでプロデューサーにサザンが含まれているようにも読めてしまうのが面白い。


***


88年秋から長期にわたり断続的に行われたレコーディングだが、録音順を推測してみよう。
88年11月以降、サザンのアルバム着手前から録られていた「美しい砂のテーマ」「愛は花のように」「忘れられたBig Wave」以外に、実際に映画に使われているスペイン語の楽曲が「稲村ジェーン」「Mambo」「マリエル」だ。89年9月、サザンのアルバム完成後からクランクインまで、7日間ほど映画音楽のレコーディングが行われている。おそらくこれらの楽曲はクランクインまでの時点で予め録られていた楽曲ではないだろうか。89年9月時点の取材で桑田は、映画音楽は全曲スペイン語でいきたいと語っている。

— 音楽は桑田さんおっしゃっていたじゃないですか。スペイン語とか…。
全部スペイン語にしたいなと。
— それはマジでやってるんですか。
「マジでやってますよ。今スペイン語はやってるし、ジプシー・キングスとかね。そういう意味では今っぽいものを描きたいなという、昔と今は一緒だという考えでいきたいなと。」
(桑田佳祐「平成NG日記」講談社、1990)

「平成NG日記」によれば、撮影が完了したのちの90年1月に数日、そして映画の編集・さらに追加撮影が完了した5月半ば以降、7月まで集中してアルバムのレコーディングが行わている。
前述の桑田のコメント、そして次の映画プロデューサー森重晃の発言からすると、ここで新たに録音された楽曲が特にラテンものではない、日本語詞の楽曲たちと思われる。

 「忘れられたBIG WAVE」は、歌詞も映画のストーリーに沿ってますからね。そうすると「真夏の果実」「希望の轍」が作られたのは……?
森重「撮影の後ですね。映画の撮影が10月か11月ぐらいに終わって、編集していた段階で、桑田がライブツアーの合間に「希望の轍」と「真夏の果実」を作ってきて、これを使いたいと。「希望の轍」は、主人公がダイハツ ミゼットに乗って、山の上に向かうシーンで使いたいということになって、翌年の4月に新たに撮影したんです。」
 曲に合わせて、シーンを追加した?
「というより、“曲の長さに足りるように”ですね(笑)。山の上に上がっていく場面はもともとあったんですけど、長さが足りなかったから。
 それくらい楽曲と映像のバランスにこだわっていた、と。
「そうですね。あの2曲はそもそも、撮影が終わって、桑田自身が刺激を受けて作った曲だと思うんです。それはすごくいいことだし、こちらとしても嬉しいですよね。桑田に「これどう?」ってスタジオで聴かされた時に、すごいなって思いましたから。「希望の轍」と「真夏の果実」はある程度、曲に合わせて映像を編集してるんですよ。」
(『稲村ジェーン』プロデューサー森重晃が明かす制作秘話と“映画監督・桑田佳祐” https://realsound.jp/2021/06/post-801592_2.html)

楽曲に合わせ追加撮影が行われた「真夏の果実」「希望の轍」、そしてカバー曲「愛して愛して愛しちゃったのよ」。さらには映画に使われなかった、純粋にアルバム用の楽曲「Love Potion No.9」「東京サリーちゃん」(「愛して愛して愛しちゃったのよ」も、本編ではラジオからの音?として薄く・短く流れるという、他の曲とは異なる使われ方なので、本来映画に使う予定ではなかったのかもしれない)。このあたりが90年に入ってから製作された楽曲だろう。

「ストーリーを練ってた時はね、マンボとかビギンとか、あの、ビギンって音楽の方のね、とか、そいうラテンなのかなあって思ってたの。でも、女優さんに会ったりとか役者さんに会って話してると、こっちも影響受けて反映していくでしょ。最初は台本てものしかなかったけど、だんだん『稲村ジェーン』の本当のテイストがわかってくると歌詞が出来てきたりとか。
(『ワッツイン 1990年9月号』CBS・ソニー出版、1990)

結果的に、『Southern All Stars』ほどではないが、やはり初期構想の範囲外の曲が増えていき、ラテン・スペイン語といった単一イメージに縛られない内容のアルバムに仕上がっている。おそらく着手当初はワールドミュージックブームを契機に、日本/桑田のポップス受容史における英語圏以外の音楽=ラテン音楽に改めてフォーカスを当てる…という狙いがあったはずだ。しかし、いざアルバムとなるとストイックに一辺倒のテーマに絞らない…というのは、これはもうポップス歌手・桑田の性なのだろう。アルバムとして強烈な印象を与えるよりはあくまで楽曲主義、と言うべきか。しかしそのおかげで、歌謡曲、ニューミュージックがJポップと名を変える90年代の幕開けにふさわしく、普遍的な日本語ポップスが2曲も生まれてしまうのだからなんとも面白いとしか言いようがない。


***


レコーディングは『Southern All Stars』と交互に行われているため、特にクランクイン前はサザンのレコーディングと重複したスタッフで制作されている。クランクアップ後、90年のレコーディングでは小林武史を作業パートナーに据え、本格的にアルバムを完成させる作業を進めたようだ。ここでコンピューター・プログラミングに角谷仁宣が初登場する。

本作はプログラマーのみ、曲ごとのクレジットが無く角谷・梅崎俊春・菅原弘明3名の名前がまとめて記載されている。関連シングルにはクレジットすらない状況だが、菅原・梅崎は『Southern All Stars』でも登場しているため、後半のレコーディングでは基本的に角谷がプログラミングを担当していると思われる。角谷は89年の大貫妙子シングル「家族輪舞曲」(小林プロデュース・アレンジ)にプログラマーとして参加、そのまま小林とのコンビでの仕事が続くため、本作もこの組み合わせでは早い時期の作品ということになる。これ以降角谷は91年の立花ハジメ『Bambi』などの参加作もあるものの、基本は桑田関連のレコーディングにほぼ専属のような立ち位置で関わっていく。小林が桑田関連の制作から離れた95年以降もそのまま桑田の制作に継続参加し、現時点では2021年まで桑田関連作のほとんどのプログラミングを担当。実はこれ以降の桑田サウンドの要といえる存在で、そういう意味でも本作はかなり重要な意義を持つアルバムと言えよう。角谷が最初に着手した曲は、「真夏の果実」だったようだ。

最初に取り掛かったのは「真夏の果実」。
レコーディングの始まった日、アミューズの大里会長(当時)が様子を観に来ました。私は初対面だったのですが、当時使っていたMac SEを見て、会長「何これ?」、私「マック、パソコンです。これに演奏させます。」、会長「こんなので音楽作って面白いの?」、私「はぁ」心の声(そう言われても)みたいな会話がありました。
そして「希望の轍」、「稲村ジェーン」そのあとサウンドトラックの録音、そしてアルバム「稲村ジェーン」へ、桑田さんのアイデアで映画に使われていない曲を数曲追加し「サントラ」にとどまらない「アルバム」というカタチになりました。
(角谷仁宣 <映画「稲村ジェーン」のレコーディング現場> 一般社団法人 日本シンセサイザープロフェッショナルアーツ(JSPA)Column https://www.jspa.gr.jp/post/2021_0604)

90年半ば、本作と並行して小林武史プロデュース・角谷仁宣プログラミング・今井邦彦エンジニアリング・ビクター青山スタジオにて…と、かなり同じ条件でアルバムを録音していたのが大貫妙子である。『New Moon』としてリリースされるこのアルバムはキーボード・シンセ主体で若干暗めの、いかにも当時の小林らしい質感のサウンドで構築されている。前年の小林ソロにも近い感触だ。対して『稲村ジェーン』は桑田の主張が影響してか、生楽器とシンセ隊をうまく組み合わせた、この頃の小林単独作品では味わえないようなサウンドに仕上がっている。

 音の傾向としては?
「楽器でいうとさ、ウクレレとガット・ギターとかですね。非常に安直な楽器というかさ。でも、音の存在感とかは太いでしょ。ガット・ギターとハープの組み合わせとか。ああいうの最初に思い浮かんだんだよね。あと、トランペットとか。最もシンプルな構成の楽器とかがハマるな、というかね。だから自分の中の湘南というのが、音にするとそういうシンプルな生楽器だったんだろうね。あくまで湘南をシンプルな生楽器で装飾してみたい、というのが。シンセとか加工されたエレキ・ギターとかはさ、違うと思った。
(『ワッツイン 1990年9月号』)

なお、映画用音源はドルビーサラウンド4ch用に、アルバムとは別に今井邦彦がミックスしている。そのため「真夏の果実」など、曲によってはレコード・バージョンから明確に定位を変えているものもある。「Mambo」はレコードではオミットされているブラスがイントロに入っていたり、「マリエル」はリード・ヴォーカルが桑田でなくLuis Sartorによるものに差し替わっている…等のバージョン違いもあるため、映画用ミックスもマニアは要チェックだろう。


***


アルバムは単純に楽曲だけでなく、映画を鑑賞している男女の会話を曲間に挟む…という、いかにも企画もの的な構成になっている。ドラマ部分はスーパー・エキセントリック・シアターからYMO『Service』にも参加していた今村明美、同じくSETの寺脇康文の2名を中心としてミニドラマを展開。この寸劇パート、CDでも曲間指定されず楽曲扱いになっていたが、サブスク時代になっても楽曲の一部ということになってしまい、ほとんどの曲が必ず最後に寸劇がついてきてしまう…のは今となってはご愛敬か。

小倉博和のガット・ギターから始まる、Gipsy Kingsの香りが濃厚な映画のタイトル・ソング、「稲村ジェーン」でアルバムは幕を開ける。
「マイナーのラテンで、16ノリのリズムが心地良いですね。小倉(博和)くん(g)のガット・ギターがスゴイです。ナイロン弦がリッチー・ブラックモアしてるから(笑)。
(『ワッツイン 1990年9月号』)
小倉と小林以外に、松田弘のドラムをフィーチャー。Luis Sartorのコーラス・語りが聞こえるが、記載が漏れているようだ。

続いていきなりラテンものではない軽快な8ビート、冒頭から印象的な小林のピアノをフィーチャーした「希望の轍」。
「この曲はミゼット・ソングと呼ばれていて、ミゼットが走る所で使うことになってるんですけど、エルトン・ジョンみたいな軽快なポップ・ロックですね
(『ワッツイン 1990年9月号』)
ミゼットを走らせるシーン用に…と桑田が書いたメロディに、ピアノのイントロ、シンセのストリングス、メロトロンのフルート、桑田のひとりカノン風コーラス、左右の逆回転フレーズ…といちいちドラマティックな要素をぶつける小林のアレンジが見事である。メロディにうまく対応したアレンジ、完璧なコンビネーションといっていいだろう。小倉・原田末秋のギター以外は、小林と角谷によるトラックのようで、ドラムはマシン、ベースもシンセでコンパクトにまとめられあまり重くなっていないのがちょうどよい塩梅だ。『Southern All Stars』後、気負いがなくなった状態で生まれたこの曲は、時間を重ねるうちに桑田・サザン史に燦然と輝く名曲となる。桑田によくある、無欲の一筆書きシリーズのひとつである。

『Southern All Stars』に先行収録された桑田のワンマン・アカペラ「忘れられたBig Wave」に続き、小倉のガット・ギターをフィーチャーした本アルバム中唯一のインストもの、「美しい砂のテーマ」。前述のとおり小倉と桑田の出会いの曲で、小林・小倉・北村健太の3名で88年秋に録られている。60年代のLos Panchosや70年代のOliver Onionsあたりの映画音楽的な、スペイン・イタリアあたりの雰囲気がよく出たノスタルジックな一曲だ。

アルバム用としてのアイディアか、1965年にちなんだ洋邦カバーが1曲ずつ収められている。「Love Potion No.9」はJerry Leiber & Mike Stollerコンビ作で、ヴォーカルグループCloversによる59年のバージョンがオリジナル。その後英国のバンドSearchersが64年にカバー、翌65年にかけてヒットを記録している。その後も71年にヴォーカルグループCoastersがヒット(『稲村ジェーン』バージョンでは参考にしていないようだが、このバージョンはラテン風味の味付けでこれまた良い)させるなど、長く歌い継がれる1曲だ。小倉博和と原田末秋のコンビによるキレのあるウクレレをフィーチャー、ベースは桑田ソロにも参加の樋沢達彦、パーカッションはおなじみ今野多久郎。さらには珍しく、当時本作と並行してビクター青山スタジオにてアルバムを録音中だった大貫妙子をコーラスに迎えている。

クランクアップ後に録音され、当初映画のテーマ曲として作られていた「忘れられたBig Wave」からその座を奪いサザンの先行シングルとしてリリースされたのが「真夏の果実」である。これも「希望の轍」同様、無欲の一筆書き系の曲といえそうで、奇をてらわずに素直なメロディが展開されるバラードだ。伊豆というのは映画のロケ地である。

「「真夏の果実」は伊豆で作ったんですけど、(略)映画『稲村ジェーン』の公開前で、忙しくもあり何か寂しくもあり……って時で。でも、妙に充実している時期にフッとできた曲。
「メロディを小林君に聴かせて、小林君にいろいろ考えてもらった。俺は横からチャチャ入れるだけで(笑)。その意味じゃ、“サザンオールスターズに小林武史ありき”ってハッキリと言える。彼の力量を強く示した曲ですね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

アレンジ面で耳を引くのは、まずなんといっても強烈に引き込まれるイントロだ。シンセのハープとグロッケンのみの三音で始まり、右からシンセのチェロ、中央で硬質なブラシとキック、左から大森隆志によるウクレレのストロークが重なっていく。そして一旦グロッケンとチェロが止むと、圧倒的に抑制され、引いた感のある桑田の歌が始まる。『Keisuke Kuwata』以降、どんどん多彩に、ニュアンスに細やかさが出てきた桑田のヴォーカルであるが、ここにきて極まった感もある。日本語の歌詞もはっきり聴き取れる発音だ。

「イントロのハープ…あれはシンセなんだけど、俺が「ペギー・リーみたいにやりたいな」と言ってて、それがハープ的な音を喚んだのかもしれない。この曲で『稲村ジェーン』の見方が変わったね。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
Peggy Leeということで、メロディを書いた桑田のイメージには58年のアルバム『Sea Shells』があったと思われる。このアルバムは全編ハープ・ハープシコード・ヴォーカルのみのストイックな編成で録音された、Peggy Leeの前後の作品と比べてもかなりの異色作だ(収録曲も民謡、Leeの自作曲、演奏をバックに英訳された漢詩の朗読…と相当ユニークである)。特に大下由佑の指摘する「The Gold Wedding Ring」などは、ハープとヴォーカルのみで演奏されている。おそらくイントロのハープのフレーズは、桑田のイメージを受けた小林が、歌い出しのヴァースにおいての、ヴォーカルと交互に踊るカウンターとして生み出したものなのだろう。ここひとつ取っても、ソングライターとアレンジャーの素敵な呼応関係が成立しているといえそうだが、このフレーズを単独で抜き出し、グロッケンを添えてイントロにも配置したのが素晴らしい効果となっている。小林・桑田とシンセのハープの組み合わせというと実は「ナチカサヌ恋歌」(そういえばシングルのカップリングにも90年4月武道館での演奏が収録されている)ですでに一度チャレンジしているのだが、音の整頓具合はぐっと進化し、緊張感の増した世界を構築している。

ちなみにこの曲が初参加の角谷によると、ハープやチェロはKorg M1の音ということだ。
角谷仁宣「例えば「真夏の果実」で使ったハープの音などは、よりリアルな音色でも色々試してみたんですが、やはりM1のハープでないとあの曲のニュアンスが出せませんでした。その後に出た「COMBINATION 1」などのTシリーズ用のディスク、これも今回のM1ソフト・シンセ・バージョン1.5で追加になりましたけど、それに入っているチェロの音も同じ曲で使っています。
「小林(武史)さんも使っていたし、あの頃は『稲村ジェーン』(1990年)とか『世に万葉の花が咲くなり』(1992年)とか原(由子)さんのソロ・アルバム『MOTHER』(1991年)などを小林さんと一緒にやっていて、共通の言語としてと言いますか…。でもあの頃、みんな使っていましたよね。他の機材が良くなかったということではなくて、オールマイティではなかったんですね。そこへいくと、オーケストラ系からポップス系まで何にでも使えたのはM1やTシリーズでしたね。
(SOUNDBYTES : 角谷仁宣 http://www.korg.co.jp/SoundMakeup/SoundBytes/MasanobuKadoya/)

曲が進むにつれ、印象はシンプル、アコースティックでノスタルジックなままだが多数の音が効果的に登場し、桑田の歌とともに盛り上がりを見せていく。果てはフィリーソウルにまで接近したのか、エレキシタールまで入っている。印象以上に多くの音が入っている…という小林武史の得意技が十二分に発揮されている。

この桑田監修のもと、小林と角谷の作業で組み立てられたトラックに、(本アルバムを支配する、小倉の鋭い演奏とはまた別の味がある)大森のウクレレと、原由子のハーモニーを載せることで、図らずもまごうことなき最新型のサザンオールスターズを提示することにも成功したと言えるのではないか。『Southern All Stars』もすでに同じ体制だったといえるが、事実、90年代の日本のポップス…Jポップ時代は冒頭の時点でこういったレコーディングスタイルがすっかり主流になっていた時期である。こののち桑田のセッションにも登場する、佐橋佳幸は同90年の小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」のレコーディングを振り返ってこのようにコメントしている。
佐橋佳幸「基本的には打ち込みで作って、どうしても打ち込みでは表現できないギターはギタリストを呼んで、他にも必要な楽器があったらそれもダビングして、あとは歌とコーラスを入れて完パケ… という形が定着してきていたんです。そういうやり方が主流になりつつあった時期。このあいだ話した、教授(坂本龍一)と同じやり方ですよね。」
(【佐橋佳幸の40曲】小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」あの超有名イントロ誕生の秘密! https://reminder.top/387207757)

音楽評論家の萩原健太やハルメンズ・パール兄弟のサエキけんぞうは、この曲がその後のサザンにとって重要なポイントになったと語っているのも興味深い。

萩原健太「しかし、桑田が監督した映画『稲村ジェーン』のサウンドトラックアルバムは、桑田佳祐というミュージシャンの成長を本当に思い知らせた傑作で、主題歌の『真夏の果実』はサザンがその後も活動を継続する上でとても重要な一曲だったと思います。ちょっと大人で、聴いてる人を泣かせる、その後のサザンを象徴する曲ですね」
(桑田佳祐、井上陽水… 大物アーティストの転換期になった1990年 https://www.news-postseven.com/archives/20210726_1677640.html)

サエキけんぞう「それまでのサザンというか、80年代の桑田さんは、KUWATA BANDとして活動したり、音楽的なことをいろいろと試していた時期だったと思うんですよね。で、そのあとにリリースした“真夏の果実”を、ソロではなくサザン名義にしたというところがポイントで。つまり、「ソロもバンドもないんだ」という意識というか……もちろん、そのあともソロは定期的にやっていくんですけど、すべてをサザンで背負い込むことを表明した曲が“真夏の果実”だったと僕は思っていて。そのことにも感銘を受けたんですよね。」
(桑田佳祐が音楽史に名を残すまでの変遷を、サエキけんぞうが分析 https://www.cinra.net/article/interview-201608-saekikenzo)

また、音楽プロデューサーの亀田誠治は、自身にプロデューサーというものを強烈に意識させたのがこの「真夏の果実」、小林武史であったと語っている。

亀田誠治「サザンについてはこれまでいろいろな媒体の取材でもお話ししていますが、僕はデビュー当初から大好きで、もちろんこの『稲村ジェーン』以前もずっと聴いていました。ただ、「真夏の果実」を聴いた時に、もうイントロ2秒で、2小節で号泣してしまったんですね。キンコンカーンというグロッケンの音しかないのに、そのメロディだけで泣けてしまった。「これは今まで僕が聴いてきたサザンと違う!!」と思って、CDシングルを買った。すると、そこで"小林武史"という名前を発見したのです。"Produced by 桑田佳祐、小林武史"。つまりプロデューサーという人が入ることで「こんなに音が変わるのか......」と初めて気が付いたのです。
(亀の音楽史 講義12 真夏の果実/サザンオールスターズ http://kame-on.com/college/faculty_of_culture/meiban/k12.html)
※引用者注:実際はシングルにプロデューサーの記載は無いので、アルバムのクレジットと思われる

ある意味では86年以降のさまざまな試行錯誤が、この曲でサザンにうまくフィードバックされたと言ってもよいのかもしれない。『月刊カドカワ 1992年12月号』において、桑田は「僕が思うサザンのベスト5に入るナンバーのひとつに「真夏の果実」を挙げている。

続いて、ルンバ・ビートだがマンボを踊ろうと歌われるユニークな「Mambo」。映画ではオープニング・ナンバーとして使用されている。
「これもけっこう最初の頃に作った曲。映画「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のオープニング曲にヒントを得て作ったんですけど、ちょっと違っちゃったかな。ザラついた、ざっくりとした感じのストーンズのりの曲。
(『ワッツイン 1990年9月号』)
「Stranger Than Paradise」オープニングで流れていたScreamin' Jay Hawkins「I Put A Spell On You」にヒントを…と語っているが、アレンジも比較的賑やかで、確かに「I Put〜」のようなクールさとはまた別の趣がある。サザン名義で、小林に加え門倉聡・菅原弘明がアレンジにもクレジットというのは「フリフリ’65」と同じ体制なので、同時期の録音だろうか。さらに生のブラス隊も加わっており、比較的シンプルな顔ぶれで録られた本作の他の曲とはいささか雰囲気が異なる。少なくともドラムは松田・ギターは大森のタッチに聴こえるので、この2名の起用からサザンの名を冠したというところか。トロンボーンに桑田ソロにも参加の松本治、トランペットは小林正弘と菅波雅彦、サックスに渕野繁雄と包国充。パーカッションは珍しくティンパン・ナイアガラでもおなじみ、浜口茂外也が参加している(余談だが、浜口は浜口庫之助の息子にあたる)。コーラスのクレジットはないが、サザンメンバーというよりはLuis Sartorの声に聞こえるので「稲村ジェーン」同様記載漏れか。

前年にファースト・アルバムをリリースし、この90年半ばには来日が予定される(本人の体調不良で中止となる)など、日本でも静かに評価が広がっていたLenny Kravitzの影響がかなり濃厚な「東京サリーちゃん」。桑田のみならず、当時はシンセ/コンピューター主体の音作りを得意としていた小林武史にとっても、先々のLenny Kravitzもの・生音ものの原点として大きな意味を持つ曲だろう。
― レニー・クラヴィッツのデビューアルバム『Let Love Rule』(1989年)は、キラキラした1980年代のサウンドとはまったく違う、丸く温かみのあるサウンドでした。
小林武史「当時、レニー・クラヴィッツの音に大きな衝撃を受けたミュージシャンはたくさんいて、僕自身もその一人でした。彼は1960、70年代に使われていたヴィンテージの機材を使って、演奏現場にある臨場感や空気感をそのまま閉じ込めようとしていた。そうすると後で音を差し替えることができないから、どんな音を出したいのか? という「初期衝動へのこだわり」をものすごく重んじて録音することになるんです。そんな研ぎ澄まされた状況で生まれる音楽は、演奏する人の息づかいや命がより見えてきて、ロックの持つ「自由な感覚」にもつながっている気がします。ウォーターフロントスタジオで僕が体験したのは、そんな多様な人々を生々しく捉えたバンドの在り方、音の在り方だったんです。」
(『YEN TOWN BANDは、なぜ20年ぶりに本格的に復活するのか?』 Vol.1 小林武史インタビュー このバンドについて今話しておくべきこと https://www.cinra.net/article/column-yentownband-kobayashitakeshi)

この音像なら現役のサウンドとしてJohn Lennonへの愛を表現できる…というところに桑田・小林は共感したのではないだろうか。ということでリードギターは桑田本人、左チャンネルのギターは原田末秋。ドラムには元レベッカでRingo Starrマニアの小田原豊を起用。そしてレベッカ以前からの小田原のもうひとつのバンド、Pow!のベースであったPaul McCartneyマニアの根岸孝旨が桑田関連のレコーディングに初参加。当時ミュージシャンを辞めようとしていた根岸には、転機となる出来事だったようだ(【根岸孝旨インタビュー】「とにかく異常なロック好きなことは分かった」と、初めて僕のベースを認めてくれたのが桑田さんでした https://www.kanaderoom.jp/mag/negishitakamune/)。サックスにも佐野元春 with The Heartlandのダディ柴田を起用するなど、ここまでの桑田作品の流れでは異色だが目的のはっきりした顔ぶれである。歌詞も見事なLennon風ナンセンスの世界に仕上がっている。桑田としても自信作だったようで、リリース直後、もはやラテンも映画も全く関係ないこの曲をアルバム中「特に聴いてほしい曲と述べている(『月刊カドカワ 1990年10月号』)

兼崎淳一によるトランペットをフィーチャーしたラテンもの「マリエル」。兼崎は「勝手にシンドバッド」にもホーン・スペクトラムの一員として参加した、サザン関連では最古のゲスト・ミュージシャンのひとりである。残念ながら現時点ではこの曲がサザン関連では最後の参加のようだ。他は小林・小倉・松田と、「稲村ジェーン」と同じ顔ぶれ。映画では冒頭の語りからそのままLuis Sartorがリードヴォーカルをとっている。終盤唐突にBeatlesバージョンの「Twist And Shout」の引用があるなど、軽やかな雰囲気が楽しい。

小林・小倉・北村健太らをメインに録られ、89年春からCMで流れこの時点では既にお馴染み「愛は花のように」を経て、アルバムは原由子のヴォーカル曲で締め括りへ。「愛して愛して愛しちゃったのよ」は、浜口庫之助作、和田弘とマヒナ・スターズ/松平直樹/田代美代子65年のヒット曲のカバー(オリジナルは63年、元スリー・キャッツの小沢桂子ソロ「愛しちゃったの」)。浜口庫之助のカバーといえば思い出すのが87年末、「Merry X’mas Show」での桑田・小林・藤井丈司アレンジによる「愛のさざ波 Dedicate to “Chiyoko”」だ。ハマクラ・クラシックをオリエンタル・ブラコンで料理するというアイディア、音盤に残すべく第二弾として挑戦したのが本曲なのだろう。オリジナルのコードそのままでなくMaj7thを多用することでモダンな響きに変え、ドラムマシンとシンベのリズムを軸にメロウな世界が展開されるあたり、同じパターンだ。終盤、桑田&小林によってアダプトされた部分で登場するウィウウィウコーラスも「愛のさざ波」で既に登場しており、このあたりも続編というのを示していると思われる。
「やっぱり浜口庫之助さんが書く曲ってすごいよね。なんかハネてて、ブラコンぽいっていうか。」
(『ぴあ music complex 1990年8月29日号』)
そして今回はなんとわざわざ和田弘本人のラップスティールをフィーチャー、さらに小倉のガットギターを添えハワイアンの要素をプラス。ハワイアンといっても左右で聴こえる小倉のガットギターはキレが素晴らしく、グルーヴを十分に感じさせる演奏だ。世にもメロウで奇妙な、ハワイアン・ブラコン歌謡がここに誕生したのである。パーカッションは今野多久郎、シンバルのみで松田も参加。桑田も気に入っていたのか、アルバムリリースの20日後とほとんど間隔を開けずに、「Love Potion No.9」とのカップリングでシングルリリースされている。



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サザンがクレジットされていない楽曲たちのその後だが…アルバムライナーの入稿後になんらかの決まった名義が必要ということになったのか(シングル「愛して愛して愛しちゃったのよ」リリースのためだろうか)、映画パンフレットにおいて「稲村オーケストラ」「原由子&稲村オーケストラ」というグループ名が初めて冠される。
映画エンドロールではこのグループ名は登場せず、まとめて「by アルバム「稲村ジェーン」サザンオールスターズ&オールスターズ」とクレジットされていることからも、急造されたグループ名であることがうかがえる。映画公開前日、9月7日のテレビ朝日系「ミュージックステーション」では桑田・小林武史・小倉博和・松田弘・琢磨仁・今野多久郎・Luis Sartor(+ダンサーとして南流石をフィーチャー)が「稲村オーケストラ」として出演、「希望の轍」「稲村ジェーン」を披露。この番組がおそらく「稲村オーケストラ」の初出のようだ。しかし、録音メディアにおいて、この名義が使われたのは後発シングル「愛して愛して愛しちゃったのよ c/w Love Potion No.9」と「愛して愛して愛しちゃったのよ」収録の各種コンピ盤のみ。実は他の音盤では一切登場したことのないグループ名である。

なんとかサザンの名前を入れたかったのか、「愛して愛して愛しちゃったのよ」のレーベルでは「原由子&稲村オーケストラ」よりも「Southern All Stars (And All Stars Presents Cover Special Vol.1)」の文字の方が目立つ。

「稲村オーケストラ」扱いとなった楽曲たちは、90年年末のサザンの年越しライブ(ちなみにこの際サポートとして、ライブでは珍しく小林武史が参加している)以降、何事もなかったかのようにサザンのライブで取り上げられ続けることになる。特に「希望の轍」はラテン〜スペイン語曲でもないということもあり、ライブを通じ違和感なくサザンの楽曲への仲間入りをしていたといえよう。いっぽう、レコーディング版も93年のサザンメガ・ミックス「enoshima」、95年のサザンベスト盤『Happy!』にも特に注釈もなく(=サザンの楽曲として)収録。果ては98年、サザンの旧譜リイシューにおいてアルバム『稲村ジェーン』自体が正式にサザンの10枚目のオリジナル・アルバムとして扱われ、当初のコンセプトは雲散霧消してしまう。

ところが各音楽配信サービスでサザンの全旧譜が扱われるようになった2010年代、本作収録曲でサザン名義でないものは「稲村オーケストラ」の曲として登録。「稲村オーケストラ」の名は突如復活を遂げ、サブスク時代に至っている。


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90年9月に東宝系で公開された映画「稲村ジェーン」は配給収入18.3億円のヒットを記録(過去興行収入上位作品 一般社団法人日本映画製作者連盟 1990年 http://www.eiren.org/toukei/1990.html)。88年からサザンの活動を挟みつつ、2年がかりで駆け抜けた桑田監督の映画プロジェクトは、ここにきてようやく、一段落したのであった。