2023年5月5日金曜日

1988 (2) :“みんなのうた”

サザンオールスターズのレコードデビュー日は1978年6月25日。シングル「勝手にシンドバッド」がビクター音楽産業のinvitationからリリースされた日である。

1985年末以降、サザンはバンドとしては開店休業状態で、これまで見てきたとおり各メンバーのソロ活動のみが行われていた。当初、ソロ活動期間は86年の1年間の計画で始められたようだが、翌87年も桑田の海外レコーディング、原由子の第二子産休&育休、桑田のソロレコーディングがあり、サザンの休業状態は継続していた(なんとか6月にベスト盤『Ballade 2 ‘83-’86』がCD・カセットオンリーでリリースされる程度であった)。

桑田のソロアルバムは88年1月1日リリース予定がレコーディングの遅延で後ろに倒れ、レコーディング完了は5月初頭。本来であればアルバムリリースとともにソロでツアーを行う…というのがルーティーンだが、そうはならなかった。

1988年6月25日はサザンデビュー10周年。内外から活動再開が待たれていたサザンに、デビュー10周年というのは、格好の復帰タイミングだったのだ。88年の夏は、サザンの復活ツアーが行われることになる。それは、桑田ソロのツアーを差し置いてでもやる需要が内外にあったということだろう。

とはいえ前述の桑田ソロの録音完了遅延により、スケジュール的にはサザンはシングル1枚分の制作期間があるかないかという状況。スイッチで5月11日よりサザンのレコーディングが開始された「バックステージ・パス 1988年7月号」シンコーミュージック、1988。エンジニアの今井邦彦・A&R高垣健が桑田ソロマスタリングやり直しのため再渡米したのは、サザンのレコーディングの合間であった(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019)。

今井によると、サザンのシングル曲は作詞作業前の段階でタイトルだけは決まっていたそうだ。
今井邦彦「「みんなのうた」で3年ぶりにスタジオにメンバーが集まりました。この曲で覚えているのは、桑田さんはまだ歌詞がなかった時点で、タイトルだけは「これで行く」と決めていたこと。」
(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019
今井「最初このタイトルを聴いた時はびっくりしましたけどね(笑)。」
(FM COCOLO『J-POP レジェンドフォーラム』7月はサザンオールスターズを特集!3代目エンジニア今井邦彦をゲストに迎えた番組トークvol.3を公開


***


桑田ソロのツアーは叶うことはなかったが、サザンの復活イベントの中で桑田ソロコーナーを設けることになる。

— だから、そういった意味で今度はサザンに戻っていくわけなんですが、そこでの行き帰りというのは自分の中では全然苦痛ではなかったですか。
「ちょっと苦痛でしたよ、やっぱり。だから復活祭の時はバンドを(サザンとソロという形で)二つやったでしょう。で、やってみて『何やってんだろうなあ』と俺は思ったんですけどね。(略)」
— はははは。あの時は例えばサザン単体でやるっていうことは考えられなかった?
「うん、アルバムが、新曲がなかったっていうのはある。まあ”みんなのうた”はあったけど。それとやっぱり、ソロ・プロジェクトでほんとは俺コンサート・ツアー廻りたかったんですね、じつは。だけど、サザンオールスターズは開店休業状態がもう何年続いているかっていうのがあったし。そこでまあ、ソロ・アルバムみたいなものもちょこちょこっと交えながら  それをサザンで演奏するのもおかしいしね  だから『さあ、これから行きますよ。復活ですよ』みたいなことを並べちゃおう!みたいな。まことにラフな、野蛮な発想なんだけど。もうそろそろ内部的にも活動を始めないとあんまりだなというのもありましたしね
— その辺の大人の判断ができちゃうあたりがまた桑田佳祐の
「いや、大人の判断じゃないんですけどね」
— だけど、本当に子供のエゴを押し通すんだったら「サザンはもうちょっと休もうよ」って言うじゃないですか。
「だって客を相手にしてやってることだからそれはどっかツラいじゃん」
— はははは。
「『あれ?』なんてなりながら『どうも受けてないな』とか、そういうところに陥るのはイヤだから」
— はははは。一貫してその辺はスケベなんだよなあ。
「一貫してスケベ(笑)」
— いいことですけどね。
「そうですかねえ?でも、一貫して気が小さいのかもしんないけど。だからもう時期がテンパってて、開店休業状態が長すぎるぞコールがあって。もう『またソロのコンサートやるの?』って言われるのもヤだし、こっちはやりたいしね。需要はないけど」
(「季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994」ロッキング・オン、1994)

桑田ソロバンドは以下のメンバーが召集された。小林武史・藤井丈司の両名はパンフにはプロデューサーともクレジットされており、「キーボード・スペシャル 1988年10月号」(立東社、1988)によると、小林の仕切りでバンドのリハーサルが行われたようだ。

小林武史:Keyboard, Producer
藤井丈司:Producer
古田たかし:Drums
樋沢達彦:Bass
原田末秋:Guitar
矢代恒彦:Keyboard
今野多久郎:Percussion
包国充:Sax
本田義博(1・3・5):Chorus
前田康美:Chorus


***


イベントを控えた慌ただしいスケジュールの中、突貫工事のようにサザンのレコーディングも開始されていく。

— 明日からサザンのシングルのレコーディングだそうですけど、どういう曲なんですか。
「まだ作ってないの」
— (笑)。
「あーねえ……自分で言うのもあれだけど、僕は結構色んなしがらみの中で生きてましてね(笑)。スタッフ・ワークもある種やらなくちゃいけない時もあるし、曲作んなくちゃいけないし歌うたわなくちゃいけないし……いろいろ裏方もしなくちゃいけないでしょう。そういう意味では、うたう電通だね、本当に。ミーティングを仕切りレコーディングを仕切り、私生活を仕切られ(笑)、これは世に出す問題じゃあないんですけど。」
(略)
「今度のシングルなんか
—できてませんけど(笑)、あたかもできたように言うとね—視点がもう大ズレ、見てる範囲が狭い狭い。やっぱりサザンはですね、避暑地を捨ててですね、レジャー、バカンスを捨てて、そう!サザンはバケーションを捨てます。バケーションを捨てて都会に上陸しようと思ってるの。スキー場も海も捨ててですね、もうリゾートしないの。本当の日常生活にもどっちゃおうかなって言う気がしてんですよね。
(略)
— (笑)すごいですね。できてないのに言っていいんですか。
「(笑)できてないから言えるんだけど。ほんと、ボキャブラリー一切変えますから」
— 楽しそうですね。
「でもそれは、僕バンド活動としては夢だったですよね。僕らリトル・フィートのコピーしたりさ、E・クラプトンの真似したりしてずっときたでしょう。それがだんだんサザンのカラーっていうのができちゃったんだよね。だから、そうじゃないカラーっていうのを、最近私はね、ヒシヒシと感じるんです。」
(「ロッキング・オン・ジャパン 1988年7月号」ロッキング・オン、1988)

結局このバケーション、サザンのカラーを捨てて都会、日常生活に…というコンセプトは88年のシングルというより、翌89年1枚目のシングルでより明確な形で実現することになる。


***


シングルA面は歌詞より先にタイトルだけ決まっていたということだが、「みんなのうた」といえばおなじみNHKの子供向け長寿歌番組だ。番組ホームページによるコンセプトは以下のとおり。

みんなのうたって?
子どもたちに良質で健全なうたを聴いてもらおうと「みんなのうた」はNHKのテレビ・ラジオで放送されている5分間の音楽番組です。
(NHK みんなのうた 番組ホームページ https://www.nhk.or.jp/minna/about/

もちろん直近のソロとバンドの対比や、サザン復活を待っていたリスナーのための歌、などいくつかの意味があろうが、当時の桑田はこんな発言もしている。棘のあるコメントではあるが、良く言えば「良質で健全」、シンプルなポップスを提示したということだろう。

— 「みんなのうた」は、3曲分位の曲を1つにまとめたっていう位のカラフルなメロディですよね。
「あっ、それはあるかもしれない。あの「ジョンとヨーコのバラード」みたいのがいいと思ってたんですよ。ああいう自堕落で駄作的なものがいいなと。「GET BACK」とか「ジョンとヨーコのバラード」とか、結局イージーな曲作ってたでしょ。それは、それで良かったじゃないですか。
— あのシングルがとても駄作だなんて思えませんけど。こんなものができてしまいました、という感じですか。
「うん。サザンの場合は「みんなのうた」じゃないけど、なんか、バンドだからね、要するに責任転嫁の戦いだから、こんなこともやっちゃおうかな?っていうのもできるんですよね。だから、反則技ができるんです。そういう意味では、サザンは、“雑誌の編集”みたいだね。あれもこれもあり、相原コージもあり、どおくまんプロもあり、っていう感じでいきますから。」
— 雑誌のような、というのは面白いですね。
「要するに生命エネルギー体が6つあるから、例え曲が自堕落でも、作品を上回る力ってあるでしょ?それで作品が低くてもいいっていうんじゃいうんじゃ勿論ないけど、何かその、反則技、飛び道具が出せるんですよね。いろいろな風に組み合わせれるし、6人という形は。1対5にもなるし、3対3にもなるし。」
(「シンプジャーナル 1988年8月号」自由国民社、1988)

それに俺だって今までにこんな曲は作ったことがないくらい、良く言やあシンプル、悪く言やあ……なんで悪く言う必要があるんだ!? いや、こんな曲を作るのは高校のとき以来かもしれない。まるでビートルズで言えば「ゲット・バック」や「ジョンとヨーコのバラード」のようなチープなメロディが駄作量産への回帰を思わせるかまえで、ガキのように演ることだけをこよなく楽しんでいるといった感じだ。
(「ケースケランド K-SUKE LAND」『Playboy日本版 1988年8月号』集英社、1988)

おそらく細部まで時間をかけて作り込んだ桑田ソロとの対比が念頭にあっての挑発的なコメントが繰り広げられているが、実際に曲を改めて聴いてみると、歌い出しからコード進行も実にシンプルで、ゆえにポップ職人のクールさすら感じられる。シンプルなコード使いというところでかGeneral Public「Tenderness」に接近するパートを経て、サビは桑田ソロ「いつか何処かで」でも使用した5度が半音ずつ上がるコード進行を早々に使い回しながら、Beatles「What Goes On」(これもBeatlesの中では桑田が言及した系譜の曲ともいえよう)を圧縮したようなメロディが足早に過ぎ去るという展開。ヘソを曲げて書き殴った…のかどうかは不明だが、一筆書きだったのならばそれはそれでかなり華麗に着地したというべきだろう。


***


「バックステージ・パス 1988年7月号」(シンコーミュージック、1988)には、佐伯明によるサザンレコーディング初日のルポが掲載されている。初日はB面用の曲のデモ録音のため、バンドでセッションを行なったようだ。

プログラマーがいるとの記載から、おそらく藤井丈司は居合わせたと思われ、また写真にはバンドメンバーとともに矢代恒彦が参加しているのが確認できる。矢代はパール兄弟のセカンド『Pearltron』からキーボードとして参加し、のちの90年からはバンドに正式メンバーとして加入している。88年当時は他にS-Ken、ゴーバンズ、鈴木雅之、Kanなどの作品で名前を見つけることができる。サザンでは88年のライブでサザン・桑田ソロバンド両方に参加し、サザンのシングルB面に収録されたライブ音源ではクレジットがあるが、スタジオ音源ではクレジットされていない。しかし実際はこのようにこの時期、矢代はスタジオでのサポートも行っていたようだ。そしてこの記事=録音初日では、桑田ソロで十分な活躍を見せた小林武史の存在は確認できない。

リリースされたシングル盤に記載されたアレンジとプロデュース、外部ミュージシャンのクレジットは以下のとおり。

Arranged by Southern All Stars & Takeshi Kobayashi

Produced by Southern All Stars
Co-Produced by Takeshi Kobayashi  Takeshi Fujii  Kunihiko Imai

小林武史:Synthesizer, Keyboards
藤井丈司:Synthesizer Programming
松本治:Trombone

結果的に直前の桑田ソロのメンバー・プロデューサーとサザンの融合が図られており、なんといっても小林武史の名前が記載されたことがトピックだろう。

小林がいつから登場したのか定かではないが、編曲クレジットや後述の松田弘の証言などから、おそらく(シンセの)ストリングス・ブラスのアレンジ・演奏などを依頼するのにあわせ、7人目のメンバーとしてアレンジの参加やトリートメントを担当したのではないかと思われる。この先のサザンのレコーディングとはまた距離感の異なるスタイルだ。

溌剌としたA面に対し、ユニークな、サザンならではのファンクネスが提示されたのが先に着手されたB面「おいしいね〜傑作物語」である。

松田弘「カップリングの「おいしいね〜傑作物語」は、皆で好き勝手に演った曲。ドラムについて言えば『kamakura』でつかんだ手応えの延長線上にある。2-4の、普通の2拍4拍にスネアを入れたくないなっていうヒネた性格が出てる(笑)。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

松田が語っているとおり『kamakura』の延長ということで、基本的にタムが変則的にずっと鳴るユニークなリズムパターンだ。ベースは関口のフレーズを藤井のシンベに置き換えたと思われるが、この関口-藤井のコンビネーションも『kamakura』でよくあったスタイルであろう。イントロから桑田ソロでもよく聴こえた小林武史と思しきシンセ・サックスが鳴り響き、さらにこちらも桑田ソロで登場していた松本治の気怠いトロンボーンが曲のやるせなさを強調する。終盤、久々に聴こえる男声中心・バンドメンバーによるラララコーラスは「勝手にシンドバッド」のパロディにも思えるが、そこに「勝手にシンドバッド」の楽しさは無く、松本のトロンボーン同様やるせない雰囲気を表すのに一役買っている。

歌詞は、冒頭のエピソードを読めば説明不要かと思うが、この当時の桑田個人の本音、愚痴をつらつらと綴った内容だ。そのまま「This song's about my actions」と歌い、力無く笑う箇所まである。シングル盤が裏と表で1曲ずつという造りを活かした、「身体と心は裏おもて」な一枚に仕上がっているわけだ。「あやつり人形」というのはサザンの2008年「I Am Your Singer」のマイムパフォーマンスについて語った際にも言及されており、この間20年、桑田のサザンへの複雑な思いが見てとれるワードだ。

さて続いてA面曲、当初は完成形とは異なる方向を目指していたようである。

山下達郎「僕ね、今度のシングルすごい好きなんですよ、「みんなのうた」っての。あの「悲しい気持ち」ってのもすごい好きなんですよ。ここのとこすごい私好みなんですよ、メロディが。」
桑田「ありがとうございます、そうですか?あれですよね、あんまりこう、机の上で頑張って一生懸命作った曲ってのは見破られますね。ちょっとこう、まあいっか!っていうスタンスでやったほうが。
山下「これは割とさりげなく作った歌なんですか?
桑田「もうさりげない。久しぶりのシングルだしね、本当はね、この曲はね、例えばエレファントカシマシとかね、あの渋谷陽一の世界ですけど、ロッキングオンジャパンのあれとかね。例えばThe Rock Bandとかね、アナーキーとかね、そういうアレンジで始めたんですよ。ズガーッカカカカカ ガーッカカカカカ
山下「なるほど。」
桑田「歌詞もちょっと違ってたんですよ。学校の先公がとか歌ってたんですよ、みんなで『ガッコのセンコーが』って。」
山下「(笑)」
桑田「そしたらうちのスタッフが入ってきてね、『泉谷かと思った』って言われてね…で『やめようか』っつって。」
山下「(爆笑)」
桑田「それでまあ一応、軌道修正したという。」
(「Tokyo Radical Mystery Night」Tokyo FM, 1988.7.5.)

ということでエレカシ(デビュー直後)やアナーキー/Rock Band、泉谷しげるに寄り道したのちポップに生まれ変わった「みんなのうた」である。松田のコメントによると、この曲で小林がサザンにバランスよく関わっていったのがわかる。

松田「この曲の前に三年ほどブランクがあって、僕はKUWATA BANDをやってね。その後、桑田がソロ・アルバムを作って小林武史というアレンジャーを連れてきたんですよね。彼がイイ形でサザンに溶け込んだ。(略)小林君の力が大きかったと思う。うまい具合にサザンに新風を注ぎ込んでくれたよね。小林君が、サザンというバンドの良さは何だろう?って考えてくれたという…。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

この曲のドラムについては松田本人がYouTubeで解説しているが、何か特定のヒントがあったわけではなく松田が編み出したもののようだ。

松田「「みんなのうた」のドラミングは本当にオリジナルというか、何かをコピーしたわけじゃなく自分だけのビートになったのかなと思ってて。」
「ハットの裏打ちを左手でやったっていうところがね、すごく面白いのかなと思いますけどね。」
(『「みんなのうた」ドラム解説【松田弘のサザンビート #09】』サザンオールスターズ official YouTube channel、2022 https://www.youtube.com/watch?v=AaWPwnFwV2w

冒頭から鳴る4ビートのキック四つ打ちに裏打ちのハイハット、この曲のアレンジを支配しているのは実質松田のドラムなのではという感もある。2つ目のパートでスネアが2-4で入り、サビは若干スウィング的なノリが含められ心地よく駆け抜ける。個人的にはキックはもう少しミックスで目立たせてもよかったと思うが、印象的なドラムである。さらには冒頭からドラムにあわせて幾度となく4ビートになる関口のベース、初期サザンのラテンディスコ歌謡もので聴かれた16ビートに軽やかに乗るユニークなフレーズを思い起こさせ、原点回帰の要素ともいえる。

この2人のリズムに小林と思しきシンセのサックス、松田のハイハットにあわせて裏拍フレーズ、一瞬スカを掠めるような味付けもあり、高速スカジャズとはさすがに言い過ぎだが疾走感溢れるアレンジである。これまた桑田ソロでよく聴かれたグロッケンも途中から登場。シンセのストリングス、頭からずっと右で鳴っている琴とハープの間のようなシンセも疾走感、高揚感を出すのに大きく貢献している。とにかく正面からポップ感満載なのだ。

「熱い波が また揺れる」の部分は一瞬アカペラとなるが、B面同様バンドメンバー全員によるコーラスが聴ける。こちらは溌剌とした曲にマッチした雰囲気だ。全員での荒々しいコーラスも初期サザンではよく聴くことのできたもので、原点回帰を匂わせる(ベース・パートはこののちのサザンでもよく出てくる桑田の声のサンプリングっぽく聴こえるが)。


***


というわけで生まれたシングル「みんなのうた c/w おいしいね〜傑作物語」だが、今回指摘したいのはその背景そのものに加え、動機や本音がどうであれ、この状況でこのようなポップネス溢れる名曲を生み出してしまうメロディ・メイカーとしての桑田、そしてそれに応えたバンド+小林武史によるトラックの組合せの素晴らしさである。桑田のポップ・ミュージック宣言を経ての感覚が無意識に滲んでいたということか、ソロ直後の勢いでタイミングが良かった、というべきか。

健全で良質な雰囲気は、小林の参加、桑田ソロを経由したポップネスが十分にフィードバックされているとはいえ、サザンというバンドとしてはそれまでの作品とは異質なものだ。来たるJポップ時代へのシフトチェンジを意図したわけでもないだろうが、後世から見ても面白いものである。

音楽誌ではないが、このようなリアクションも見られた。桑田の変化を察知したリアルタイムの例として載せておきたい。
 (前略)何より残念だったのは、むろん桑田の曲じたいの変質である。そもそも、『みんなのうた』なぞ、桑田ほどの素敵にみだらな才能が断じて歌ってはならぬたちのものなのだ。松田聖子じゃあるまいに。
 (略)才能の豊かさと含蓄との、いわばその江川卓的な調整の妙にかけて、みずからの環境音楽化を拒み、どれほど圧倒的な支持を得ようが、軽音楽右翼にだけはなりえなかった点にこそ、たとえば『マス・イメージ論』の音痴が絶賛するRCサクセションはおろか、『陽水の快楽』(武田青嗣)すら遠く及びもせぬ桑田の貴重さが育まれていたのである。
 その彼が、「みんなで空高く舞い上がれ/やがて誰の心にも虹のカーニバル」などと、うたごえ喫茶もどきの無葛藤な善意(メッセージ)を伝え、サビのルフランでは《C/C+/C6/C7/F》のあまりに予定調和的な盛り上がりを、文字通り恥気もなく演出しながら『みんなのうた』を歌ってしまうこと。それはちょうど、《Key of Life》のスティーヴィー・ワンダーが、《We are the world》を歌わされてしまうのとよく似た光景なのだ、と言えばよいか。
(渡部直己「渡部直己の世紀末マルチ・クリティーク」『朝日ジャーナル 1988年7月15日号』朝日新聞社、1988)


***


「みんなのうた」リリースと同時、6月25日にチケット発売されたサザンのツアーチケットは即日完売となった。かなりのフィーバーぶりが当時の記事からも窺える。ビジネス的には大成功といっていいだろう。桑田の判断は(実のところ消極的だったとしても)需要に見事に応えたものだったのだ。
 六月二十五日の午後になると、土曜日なのに都区内の一部では電話がかかりにくくなってしまった。これらの地域では、受話器を取っても「ツー」という発信音がしなかったり、逆にこの地域へかけようとしても、「ただ今、電話が大変かかりにくくなっております…」というあのメッセージ・テープが流れるだけ。約七百件もの苦情や問い合わせの電話に、NTTも大弱りだった。
(略)
 そのアミューズとは、人気ロック・グループの「サザンオールスターズ」を抱える芸能プロダクションである。このサザンが三年ぶりに活動を再開し、この日、コンサートのチケットを全国一斉に発売。で、都内はもちろん地方からも、プレイガイドの予約センターにファンからの電話が集中したのがことの原因だった。
(略)
 こうした騒動の中、七月末から予定されているサザンのコンサートのチケットは、用意された五十万枚がたった一時間でさばけたという。昨年秋に来日した世界的なミュージシャンのマイケル・ジャクソンは、日本公演で四十七万枚を売るという日本のコンサート動員記録を作ったばかり。それを、いとも簡単に塗り替えてしまったのである。
(「週刊文春 1988年7月7日号」文藝春秋社、1988)

日経流通新聞では高垣が登場。こちらの記事でもチケット人気の凄さに言及している。
 六月二十五日に発売したばかりだが早くも大ヒットのきざしをみせている。コンサートのチケットは売り出しと同時にNTTが悲鳴を上げるほど電話予約が殺到。再びサザン旋風が吹き始めているのだ。
(略)
 高垣の構想にはサザンの世界進出が描かれている。「日本にあるのは車や工業製品ばかりではないことを世界中に広めなければ」と、世界の仕掛け人になろうとしているのだ。
(「日経流通新聞 1988年7月12日」日本経済新聞社、1988)

サザンのビッグ・ビジネス化、「国民的バンド」化が着々と進むその一方で、桑田個人の思いだけでなく、バンドとしてのサザンも決して安泰な雰囲気ではなかったようだ。

松田「大復活祭はけっこう大変だったね。久々にメンバー集まって演ったけど、最初の西武球場の三日間というのはツラかった。ステージやってて、この場所から逃げ出したいと初めてそう思ったよね。」
野沢秀行「音楽だけじゃなく、人間的にも皆、それなりに自分の時間っていうのを過ごしてるわけだから、おいそれとまとまるってのはね。三年って長いよね。中学校卒業しちゃうんだもん。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

松田「88年に復活祭ってのがありましたよね。その初日を西武球場でやったんですけど、それがサザンの歴代3位に入る程の悪いステージだったんです。ドラム叩いても逃げ出したくなったくらい。お客さんも、あの惨状は判ったと思う。うちのカミさんも見てて泣いてたもの。それで、次のコンサートで、もう全て終わりにしよう、と皆で決めたんですよ。今だから言えるけど。」
(「R&R Newsmaker 1992年10月号」ビクター音楽産業、1992)

しかし、「次のコンサート」の前にサザンはアルバム1枚の制作、そして桑田個人にも音楽の枠を超えた新たなミッションが命じられる。様々なことが並行しながら、来たる90年代に向け、精力的に活動は続いていくのだった。


2023年3月21日火曜日

EPとはなんだったのか — 日本の45回転レコード創成期とコンパクト盤(上)

音楽メディアにおける「EP」というカテゴリ、2023年現在では主に「収録曲数がシングルより多く、アルバムより少ない」作品を指すことが多いと思います。

この「EP」、1950年代にビニール製レコードの一種としてアメリカで開発・発売されて以降、音楽メディアの変化や、勘違いからくる誤用等の影響もありつつ、各国でさまざまな意味に変わりながら現在の用法に落ち着いてるようです。特に日本では、シングルを含めた45回転レコード全般を「EP」と扱うことも多く、本来の英米での使われ方を知ると違和感を持つ方も多いかもしれません。

今回は、1950年代の日本において、発売当初「EP」を中心に45回転レコードはどのように扱われてきたのか、というあたり、興味本位であれこれ見ていくうちにわかってきたことをせっかくなんでこちらに記しておきたいと思います。本当は「EP」の類似品?である33 1/3回転の7インチレコード、「コンパクト盤」は日本でなぜ登場し、定着したのか…ということについて調べていたので当記事は副産物・序章にあたるのですが、長くなるのでコンパクト盤については後編でせまる予定です。



●前提:米国における「Extended Play」レコード

45回転レコードが生まれたのは1949年、そしてEPレコードが生まれたのは1952年。いずれも米国で産声をあげました。米国におけるEP登場時の本来の定義は、松林弘治さんによる当時のBillboard誌を追ったこちらの素晴らしい記事でよく理解できます。

「What the EP (Extended Playing) Originally Stands For」

「EP」の本来の意味は「Extended Playing」で、初出は1952年、米 RCA Victor がリリースした7インチ45回転盤を指し、それは

・7インチ45回転シングル盤と形状や回転数は同じ
・シングル盤よりカッティングレベルを下げることで単位当たりの記録密度をあげ、
・かつシングル盤よりもっと内側まで記録することで、
・片面あたり8分程度記録可能にしたメディア

でした。つまり元々の意味は「7インチシングルの収録時間を拡張した (Extended) 盤」という意味です。

ということで、1949年にまずは7インチ45回転レコード(いわゆる45回転シングルレコード)が世に出て、その3年後、長時間収録を目的として収録時間が「拡張された」7インチ45回転レコード=「EP」レコードが生まれた、という流れです。「EP」は7インチ45回転レコードのバリエーションのひとつとして世に出た、というところです。

この米国での事例を念頭に置きながら、1952年以降、日本での流れを見ていきたいと思います。

なお、この「EPの本来の意味」も諸説あるところで、こちらでは「本来の意味」として、LPの弱点である内周部分の溝の情報量を「拡張する」ものとして45回転レコード「=」EPが生まれた、との説が紹介されています。そのほか、78回転シェラック製レコード、いわゆるSPレコードに対して録音時間を「拡張する」ものが45回転レコード「=」EP、という説も一部書籍では見かけることができます。しかし、これらの説が書かれた50年代当時の文献は、今のところ見つけることができていません。もしご存知の方がいましたらご教示ください。



●輸入盤として日本に入ってきた「EP」

米国で登場した「EP」は、52年当時は国内プレスはされず、輸入盤として日本に入ってきていたようです。52年12月5日の時事通信 時事解説版』には、ちょうど12月から輸入が始まったEPレコードについて以下のように解説されています。

EPレコード
◇一枚で約三十分も連続してかけられるLPレコード(Long Playing 長時間レコード)は、今や音盤界の寵兒として音楽ファンを喜ばせているが、最近アメリカからニューフェイスのEPレコードが輸入され、我が国にも本格的なLP時代が訪れようとしている。
◇このEP(Extended Playing)レコードの特色は、四十五回転のレコードと同じ大きさの七インチ盤で、回転数は同じだが吹込面積を技術的に拡大し、四十五回転片面五分を八分に延長した新しいLPレコード。さる七月末アメリカ最大のラヂオ受信機製造会社RCAが発売し、今月初め「ジプシー男爵」「軽騎士序曲」など八枚がわが国に輸入された。
このEPの登場でLPレコードは三十三・1/3回転(十二インチ盤片面二十五分)、四十五回転(七インチ盤片面五分、従来の標準型レコードは一分間七十八回転)と三種類となつたわけだ。我が国で発売されているのは三十三・1/3回転が一番多いが、アメリカではEPができてから四十五回転に人気が出ているという。三十三・1/3回転のものは演奏時間の長いクラシックもの向きで四十五回転のものには軽音楽が多い。
(「用語」『時事通信 時事解説版 1952年12月5日 第2127号』時事通信社、1952)

マイクログルーヴのビニール製レコードのことを45回転レコード含めて「LP」と総称してしまっていますが、これは同年発行の『世界新語辞典 1953年版』(東京大学新聞研究会編、東京堂、1952)でもみられますので、この当時ありがちな誤りだったのかもしれません。ただし、時事通信では、EPは「既存の45回転レコードの収録時間を延長・拡大したもの」であることがきちんと説明されています。この辺は米国の定義とズレはありません。



●日本盤「EP」登場のニュース

1954年、国産の45回転レコード発売の報が入ります。初のリリースはコロムビアかビクターか、というところだったようですが、最終的にビクターが一番乗りとなることを『レコード藝術 1954年4月号』が報じています。

 日本ビクターでは、LPと並行してかねてから45廻轉盤の發賣計畫を進めていたが、諸般の準備が成り、陽春四月はじめには第一回發賣とまで漕ぎつけたと傳えられる。しかもEPが先ず登場するというのはまことに喜ばしいニュースである。
 “EP”とは、すでに讀者諸氏御承知のとおり、RCAビクターが從來のドーナッツを改良して、演奏時間一面五分强から八分までに延長したもので、Extended Playの略である。從つて、これまでSPの十二吋両面に収まっていた曲がEPの片面で通して聴けることになり、二枚物が一枚におさまつてしまう。
(「EP日本盤誕生 —ビクター近く發賣—」『レコード藝術 1954年4月号』音楽之友社、1954)

音楽誌らしく、EPとはなんなのかについては解説しつつも読者諸氏が既に承知のもの、ということです。



●日本初の45回転レコードは日本ビクター製の4曲入り「EP」

1954年に日本ビクターが国内カッティング・国内プレスでリリースした日本初の45回転レコードは前掲のレコード藝術記事のとおり、4曲入りの「45 Extended Play」、EPレコードでした。日本初の45回転レコードは、いわゆるシングルレコードではなくいきなり「EP」だったのです。EPの前史として45回転のシングルレコードのみの時代が存在した欧米と、日本は事情が異なるということになります。

63年に出版されたビクター社史には、「45回転EPレコード」のカッティング、プレスマシン開発エピソードがしっかり記載されていますが、ここでは45回転=EPとして語られています。両面で2曲入りの45回転レコード、というか収録時間・曲数については全く言及がありません。
更にその年の十二月に、まだ当時発売されていなかった最初のEPレコードを急遽発売する企画が立てられた。当時はまだ日本に45回転の録音機はどこにもなかったので、私たちは急いで、EPレコード用の録音機を自作することから仕事を始めた。
(略)
このようにして、最初に作られたダイナショアの歌うところのEP一〇〇一「ブルー・カナリヤ」が航空便でお店へ配達され、二月新譜として原盤輸入プレスだけで発売しようとしていた他社よりわずか数日早く発売され、国産EP第一号の栄誉をかちえることができたのである」
(井上敏也「新製品開発夜話<一技術者の記録から>」日本ビクター株式会社販売推進部編『音に生きる : ビクターの栄光』ダイヤモンド社、1963)
「日本盤 オールディーズ・シングル図鑑1954~1964」(菅田泰治編著 シンコーミュージック、2011)によるとポップスはシルバーレーベル・クラシックはゴールドレーベルがオリジナル盤とのことなので、ブラックのこちらはレイトプレスでしょうか。

上記エピソードでは他社が2月新譜で準備していたと記載がありますが、後述するコロムビアは実際には4月にリリースしているようです。ビクターがいつリリースしたかについては具体的な日付の記述がありません。

そこでビクターの毎月の新譜月報を確認することにします。45回転レコードは、54年4月末発行の月報において、第二回発売告知の記事で初登場しています。この際、後追いで第一回発売についても言及があり、「去る3月21日、本邦最初の45回轉レコードとして全國主要都市で一齊發賣され、たちまちファンの寵兒となつたビクター・ドーナッツ盤の第2回新譜です。」(「Victor "45" RPM ビクター45回轉レコード第2回發賣」『ビクターレコード 邦楽洋楽 6月新譜 1954』日本ビクター株式会社、1954)とあります。リアルタイムの記録として、これが正確な日本初の45回転レコードの発売日のようです。この月報によれば、第一回リリースは以下の6タイトルでした。

・EP-1001『Blue Canary』Dinah Shore
・EP-1002『Perez Prado Goes To America』Perez Prado And His Orch.
・EP-1003『Drum Boogie』Gene Krupa Jazz Trio
・EP-1004『This Is Glenn Miller Vol.1』Glenn Miller And His Orch.
・EP-1005『This Is Glenn Miller Vol.2』Glenn Miller And His Orch.
・EP-3001〜2『An Die Freude Symphony No.9 In D Minor "Choral" Beethoven, op. 125』Arturo Toscanini And The NBC Symphony Orchastra / The Robert Shaw Chorale

ちなみに毎年末に発行されるビクターの年鑑目録(「ビクターレコード番号順總目録 1955」日本ビクター株式会社、1954)では上記はすべて5月発売となっており、以降廃盤になるまで毎年そのままの記載です。このあたり、おおらかな時代ならではの混乱が見られます…。

ということで、3月21日は日本で初めて7インチ45回転レコードが発売された記念日ということで祝うのがよさそうです。ナイアガラファンにはおなじみの日ですね。来年2024年はなんと70周年になります。

当時のビクター月報には毎号音楽評論家の村田武雄さんによるコラムが複数掲載されていますが、同じく4月末発行の月報では、新商品45回転レコードについての話題もみられます。7インチビニール製レコードの素晴らしさ、LPとEPが出たことでいよいよ78回転レコードは時代遅れになった…等記載されています。ここではさすが専門家、EPとはなんなのかについてもきちんと言及しています。
ビクターの四十五回轉は全部EP<Extended Playing>(延長された演奏)の録音法なので片面六分から八分かかる。
(村田武雄「新しいレコード時代 —四十五回轉禮讃記—」『ビクターレコード 邦楽洋楽 6月新譜 1954』日本ビクター株式会社、1954)

しかし、同月報巻末の広告ページでは、見出しに「最高の芸術と最高の技術の勝利!! ビクターEPレコード発売!とあり、「EPの上に小さく「45回転がルビのように重なって記載されています。これだけ見ると、45回転レコード=EP、と捉えることができてしまいます。

『Jazz 1954年3月・4月合併号』(ホット・クラブ・オブ・ジャパン、1954)巻末掲載のビクターの広告では、ジャズ専門誌ということでGlenn MillerのEP2作をメインとし、Dinah Shore、Perez Pradoの4枚が掲載されています。隅には33 1/3回転と45回転両用プレーヤーの記載もあります。ここには「待望の45回転(EP)レコード 日本初登場!」とあり、こちらも月報の広告と同じ印象です。

『レコード藝術 1954年5月号』(音楽之友社、1954)では巻末にArturo Toscanini & The NBC Symphony OrchastraのLP・SPと共に、2枚組EPであるEP-3001〜2が新発売されたとの広告が掲載されています。こちらも「待望の45回転EP盤ビクターで発売!」と同じ調子です。

ビクターがEPではない45回転レコードをリリースしたのは第二回発売におけるJascha Heifetz「Introduction And Rondo Capriccioso」(ES-8001)になるようです(発売日は月報に記載なし、年鑑によると5月リリースとのこと)。先の月報の第二回発売告知ページでは、最後に価格がまとめて書かれており、ここではEPでない45回転レコードは「標準盤」という表現です。
★ビクター45回轉レコード定價表(解說付美麗ジャケット入)
★EP-3000(クラシックEP盤)¥850.-
★EP-1000(ポピュラーEP盤)¥700.-
★ES-8000(クラシック標準盤)¥550.-

このESシリーズはEPシリーズとは異なり、ジャケット、レーベル等に「45 Extended Play」の文字はありません。「45RPM」とあるだけです。
ということで、ビクターもEPとそうでない45回転レコードを明確に区別して製造・発売しているのがわかります。しかし、後述のとおり、これ以降もビクターはなぜか広告では積極的にこの違いを謳わず、逆に混同させるような広告しか出していないようです。



●日本初の「EPではない」45回転レコードは日本コロムビア製

ビクターの二月新譜として原盤輸入プレスだけで発売しようとしていた他社というのが日本コロムビアでした。先のビクター社史のとおり、コロムビア第一弾のカッティングは海外で行われたようで、メタルマスターを輸入し国内プレスした、というところが違いのようです。

日本コロムビアの59年4月15日発行の月報を見ると、第一回発売の日付まで記載はありませんでしたが、4月上旬と記載されています。ビクターに遅れること2週間くらいだったのでしょうか。
待望!ついに國産化成る! ★四十五回轉レコード第一回發賣
三十三 1/3回轉LPレコードの發賣に引き續きレコード界の寵兒として全世界に普及しつつある45回轉レコード(ドーナツツ盤)の國產化に銳意硏究を重ねて居りました弊社では、ついに他社に魁け4月上旬第一回のレコードを發賣する運びとなりました。御期待下さい。
『Columbia Records / M-G-M Records 5月新譜 May 1954』日本コロムビア株式会社、1954)

なお、コロムビアの年鑑(『コロムビア M-G-Mレコード番号順総目録』日本コロムビア株式会社、1955)では上記はすべて54年3月発売となっており、こちらも以降廃盤になるまで毎年そのままの記載です。おおらかな、時代です…。

第一回発売の内容は以下になります。この月報では、EPとそうでないものの違いは記載されておらず、すべて単に45回転レコードです。

・CC-1「Il Barbiere Di Siviglia - Overture」The Philharmonia Orchestra Conducted By Alcoe Galleria
・CC-2「Cavalleria Rusticana - Intermezzo」The Royal Opera House Orchestra, Covent Garden Conducted By Franco Patane
・EW-1『Puccini - La Boheme - For Orchestra』André Kostelanetz And His Orch.
・EM-1『Benny Goodman New Sextet』Benny Goodman Sextet
・EM-2『Mambo With Cugat』Xavier Cugat & His Orch.
・EW-2『Lecuona』Morton Gould Conducting The Robin Hood Dell Orchestra Of Philadelphia

全て海外からのメタルマスター使用ということで、内容も既存作品の国内盤仕様、EPについてはジャケットもオリジナル盤に準じているようです。

『レコード藝術 1954年6月号』(音楽之友社、1954)には、ビクターのToscanini & The NBC Symphony Orchastraの広告のほかに、コロムビアの広告「COLUMBIA 7吋盤 新發賣 45回転レコードが掲載されています。ここでは、広告上半分にCC-1、CC-2のタイトルとレコード一枚の本体の写真、そして下半分に「★EW・EM盤はEPレコード(6分間乃至9分間演奏可能)★」とあり、EW-1、2、EM-1、2のタイトル・収録内容が掲載されています。ビクターと異なり、45回転レコードと45回転EPレコードの2種をリリースしていることが明確にされています。そしてこれ以降もコロムビアの広告は、EPと、通常の45回転レコード=シングルレコード、を明確に区別して出しているようです『スイングジャーナル 1956年12月号』スイングジャーナル社、1956)。このあたり、ビクターとは対照的です。

ということで、日本初の「EPでない」45回転レコードはコロムビアのCC-1ということになります。

CC-1は英国Columbia(EMI)のSCD-2012の日本盤、ということのようです。英国オリジナル盤は(EPではないので)ジャケットなしでカンパニースリーブのみのようですが、日本盤は12インチLPのXL品番シリーズを流用したデザイン(元を辿るとこちらも英Columbiaの33CXシリーズと思われます)の、ライナーつきの豪華な厚紙のジャケットがついています。輸入メタルマスター使用のため、マトリックスナンバーも英EMIファンにはおなじみのフォントで「7XCA」の刻印があります。

ちなみに、当時のコロムビアのEPはジャケットに「Extended Play」の文字がありますが、こちらはビクターと異なりレーベルには特別記載はないようです。

その後ビクター、コロムビアに続いて、日本マーキュリー、テイチク、日本ポリドール、キングなど順次大手各社が45回転EP、シングルをリリースしていきます。



●レコード協会と「EP」

日本レコード協会の機関紙『Record』(現:『The Record』)は、1956年の創刊以降、現在も継続刊行されています。

1956年7月の創刊号では、「レコード界の現状」という記事で、業界の最新トピックがいくつも記載されています(『Record 1956年7月号』日本蓄音機レコード協会、1956)。ここでのレコード生産量・新譜曲数・生産高は、「LP」「SP」「EP」の3カテゴリで分類されています。45回転レコードはすべて「EP」に含まれていることになります。

しかし1年後の57年7月号のレコード各社の技術・研究部長、課長らの座談会「躍進するレコード(その一)技術座談会(上)」では、こんな会話があります。
伊藤(克人・日本コロムビア研究部長)「米国コロムビアがLPを発売したのが一九四八年七月で、翌年四月にRCAビクターが、LP同様の塩化ビニル樹脂を使って七吋45回転盤というものの市販を発表したんですね。」
和田(正三郎・キングレコード技術部長)「それはEPではないんですね。」
伊藤「そうですね、片面五分ぐらいでした。EPというのはそれから約三年後(一九五二年八月十五日)に、片面八分間に拡大されたものとして発表になったんです。」
『Record 1957年7月号』日本蓄音機レコード協会、1957)
同記事に掲載されている「レコードの呼び方」という表にも、45回転レコードは「四十五回転盤(或はシングル)」「EP(或はダブル)」と区別され、「シングル」という語も登場しました。

上記を境に、『Record』ではシングルとEPは別物として扱われるようになり、58年2月-3月号「昭和32年レコード生產の全貌」からはEPとシングルが別集計されています(『Record 1958年2月-3月号』日本蓄音機レコード協会、1958)

このように、レコード協会ですらもシングルとEPの違いは当初認識しておらず、軌道修正しています。混乱が当初から生じていたということの一端が、ここでも見受けられます。



●レコード店広告の「EP」

では、50年台後半、音楽雑誌におけるレコード店の広告ではどうでしょうか。

レコード買入!LP&EP最高価にて御買受け致します
(「オザワレコード店 広告」『レコード藝術 1957年5月号』音楽之友社、1957)

国産リアル・ジャズLP. EPは全種取揃へております
「レコードショップハンター 広告」『スイングジャーナル 1957年10月号』スイングジャーナル社、1957)

というように、やはりLPと並びEPの文字はありますが、45回転レコード、シングルといった表現はありません。ここらもおそらく、45回転=EP、という意味で使われていると思われます。



●回転数と代名詞

ここで45回転レコードから少し離れます。
33 1/3回転ビニール製レコードには、Long Play、「LP」という代名詞があります。そして78回転シェラック製レコードには、Standard Play、「SP」という代名詞もあるかと思います。しかしこの「SP」というのは、どうも和製英語、日本独自の代名詞である可能性が高いようです。2023年3月現在、英語版Wikipediaでは、「Phonograph Record」における「78rpm Disc Developments」の項に「SP」「Standard Play」などは一切記載がありません。

ここでまたまた松林弘治さんの記事を参考にしたいと思います。
「なぜ日本だけで「SP盤」と呼ぶようになったのか」

こちらでは、複数のサイトや、再び40年代末〜50年の米Billboard誌から、英語圏で「SP」という語は使用されておらず、「78rpm」という表現が一般的であることが示されています。さらに松林さんは推測として、日本でSPと呼ぶようになった理由を記載されています。
従来の(蓄音機や電蓄でかける)レコードの代わりとなる、新しいレコードが1951年に登場した
→ それは「LP = Long Playing」レコードと呼ばれているらしい
→ では、今までのレコードはなんと表現したらいいか
→ じゃあ「SP = Standard Playing または Short Playing」にしよう
と、日本独自表現を生むこととなったのかもしれませんね。

実際、2023年3月現在、国会図書館デジタルコレクションで「SPレコード」で検索すると、ヒットするのは1952年7月以降、すでに日本でもLPが発売されて以降の文献しか確認することはできません。

1950年では、以下のような表現です。
今までの標準の78回転盤
『初歩のラジオ 1950年7月号』誠文堂新光社、1950)
舊レコード(78囘轉盤)
『スイングジャーナル 1950年10月号』スイングジャーナル社、1950)

また、先の『時事通信 時事解説版 1952年12月5日 第2127号』でも78回転レコードのことを、「従来の標準型レコード」と表現しています。おそらくLPと比較しての「一般レコード」「標準型レコード」などを、LPに類する語に英訳した結果Standard Play、SPと呼ぶのに落ち着いたと推測できそうです。53年になると、『ラジオ技術 1953年1月号』(アイエー出版、1953)では「SPレコード(78廻転の一般レコード・LPに対してこう呼びます)」と解説されています。

となると、1954年当時、既に33 1/3回転レコードはLP、78回転レコードはSP、と呼ぶ日本独自の代名詞文化が根付いていたといえます。この流れの中で、新しく登場した45回転レコードをアルファベットの代名詞で呼ぶとしたら…、そしてそこに、少し意味は違っても近しい英語が既にあったとしたら…。

もともとあくまで45回転レコードの一部でしかない既存英語の「Extended Play」「EP」を、45回転レコード全体という意味に充ててしまうのも、この流れからすると自然なことなのかもしれません。



●ビクターS盤の45回転化

57年にもなると、78回転レコードの段階的廃止を目的とした45回転レコード移行の動きが見られます。ビクターのS盤、Sシリーズ(78回転レコードの洋楽ポピュラーシリーズ)が45回転シングル化されたSSシリーズが始まりました。Elvis Presley「Love Me」(SS-1001)が第一号になりますが、SSシリーズ発売開始の広告を見ると、シングルの広告にもかかわらず「1957年はEP(ドーナツ盤)時代」と大きく書かれています。(『スイングジャーナル 1957年4月号』スイングジャーナル社、1957)

こちらは第一回発売のうちのSS-1002。この頃になるとビクターは単なるドーナツタイプでなく、英国などでも見られるプッシュアウトセンターでリリースしています。

しかし、同年発行のPresley本である「エルヴィス・プレスリイ」小森和子編 荒地出版社、1957)巻末ディスコグラフィーには、「78回転S盤」「45回転EP盤」「45回転シングル盤」「33 1/3回転LP」と、きちんとEPとシングルが別物として記載されています。小森のおばちゃまこと小森和子さんがしっかり理解していただけかと思いきや、このディスコグラフィー、<ビクター提供>とのクレジットがあります。ということで、ビクターはとにかく一貫して自社の広告だけは、シングルもEPも45回転レコードは全て「EP」と扱っていることになります。前述のとおりコロムビアや他社も広告ではきちんと分けているにもかかわらず、です。ビクターの広告制作担当に、他部署からでも指摘することはできなかったのでしょうか。



●「EP」のゆくえ

『レコード藝術 1957年5月号』音楽之友社、1957)では、「EPの楽しみ」というこの時期のEP状況を知ることができる特集が組まれています。クラシックメインの雑誌のため基本はクラシック寄りの視点ですが、非常に興味深い特集です。導入部から当時のEPの状況がわかります。
クラシックで忘れがちなもの、そして、レコード会社もあまり力を入れず、レコード雑誌も積極的に取り扱わないもの、それがEPではないだろうか。それが果たして正当な評価なのかどうか。(後略)

座談会では呼称混乱問題から始まります。
記者「最初からちよつと変な話ですがある有名な音楽評論家がある有名なレコード評論家に、EPというのは何ですかときいたそうです。ところがそのレコード評論家の先生がそれにあまり明確な答えを差し上げられなかつたという伝説があるのですけれども(笑)つまりEPといい、45回転といい、或いはドーナッツ盤と言い、非常にわずらわしいので、この辺で一応分かりやすく説明して頂きたいのです。
藁科雅美「四十五回転とEP、 MPとLPとがそれぞれ親戚になるのですね
伊奈一男「混乱するのは、例えばカタログを見ると四十五回転と書いてあるでしよう。そのほかにEPがある。あれがいけないんでしょうね。」
上野一郎「そういう分け方は非常に不正確な分け方で、EPだつて四十五回転でしよう。(後略)」

ここで日本のEPの課題として指摘されているのが価格の件です。
上野「日本の場合は、四十五シングルとEPに値段の差がついていますね。所がアメリカでは初めEPを売り出したときには値段の差をつけなかつたんですよ。今までの四十五シングルの値段でEPが買える。そうすると十二吋LPをEP盤にすると三枚になるわけですから、ずっと安いということになる。その点で非常に利点があたわけです。ところが日本じや値段に差をつけているから、LP十二吋とそれをEPに直したものと比較すると、EPの方がいくらか割高になる。

とはいえポピュラーにおいて、45回転レコード自体は78回転レコードの代替品として売れ始めていることも話題に出ています。
藁科「でも売れ行きは伸びているんでしよう。この間のレコード協会の雑誌を見ても、LPの伸び方より四十五とEPがずつと上廻っている。
伊奈「ただそれはクラシックよりも主としてポピュラーでしよう。ただクラシックも昨年の暮れあたりから、ようやく伸びているようです。ポピュラーの方は、例えば四十五回転シングルというのは、今SPと同じ値段の三百五十円ですから、当然伸びるのが当たり前だと思います。」

先のレコード協会の機関紙『Record 1957年7月号』の座談会でも、米国の話と並べながら、78回転レコードの代替品として45回転シングルレコードが定着しつつある一方、EP複数枚を組み合わせてアルバムとする方式が廃れつつあることが触れられています。
井上(敏也・日本ビクターレコード部録音技術課長)「結局日本なんかではハイ・ファイというものが別の意味で大きく問題にされてチェンジするということは二の次になっていて、依然として丁寧に一枚づつかける。オートチェンジャーで自動式演奏しようという考えは少ないですね、やはり昔なみに手でレコードをかけかえる、となるとやはりLPのように長いものが強いということになるのですね。
和田「そういうことで発明者のアメリカのRCAビクターでも45回転の組物はやはり売れないんだということですね、そういうものは十二吋のLPに任せておけ、ということですな。」
井上「従来のSPに代るべきものとして45回転盤の意味がある……と私はそう思うんです。」
和田「今日ではね。そういう情勢に変りつつある……。」
井上「変ってますね。」

45回転シングルレコードが78回転の代替としてポピュラー界で浸透していく一方、当初想定されていた2〜3枚組で1LPと同等の「アルバム」として扱う、といった目的でのEPの存在意義は薄れていきます。上記の会話のとおり、アルバムを聴くならやはり手間の少ないLPで…という志向があったと推測できます。60年代を通して英国等ではLPからの廉価抜粋盤としてEPの役割は残ったものの、米国ではLPの価格が手ごろになっていったのか、そういった需要も起こらなかったのかもしれません。日本ではレコードはまだまだ高級品でしたので、廉価抜粋盤としての需要はあったことでしょう。

1958年になると、こちらもクラシックですがEPの価格を下げ、手に入れやすい立ち位置に置き、その居場所を確保しようという動きも見られるようになります。
シリーズ名にもいろいろあるが、“エース”とはちょっと変っている。「切り札」という意味だそうだが、野球のエースにあやかりたいのが本音かもしれない。冗談はさておき、EPの売れゆきがあまりかんばしくないといわれている昨今、あえてEPをエピックが始めたのは1枚500円という手ごろな値段でヒットを狙ったのであろう。1,000円のLPがある以上600円から700円のEPは明らかに割高で、ここに目をつけたエピックの企画は当を得たもの。
(相沢昭八郎「クラシック17cm EPの新規格 エース・シリーズへの期待」『Music Monthly 1958年10月号』月刊ミュジック社、1958

しかし、日本では1960年に33 1/3回転の7インチレコード、のちのいわゆる「コンパクト盤」が登場します。コンパクト盤の登場後1、2年で、EPは一気にその座を奪われるどころか、完全に消滅することになるのです。

(つづく)

2023年2月21日火曜日

Glyder「In Love With Cherry」[Ken Gold Songbook]

Glyderは英国で70年代半ばに活動していた7人組ヴォーカル&インストゥルメンタルグループです。英Warner Bros.と契約し、75年に唯一のLP『Glyder』をリリースしています。LPのプロデュースはNew Seekersの一連の作品やBee Geesの3枚目『Bee Gees’ 1st』などのエンジニアであるMark Claytonによるものでした。

このGlyder、LPリリース後に数枚シングルをリリースしていますが、最後の2枚はメンバー以外のペンによる曲で、76年は大晦日にラスト・シングルとしてリリースされたのがKen Gold & Micky Denneコンビ作の「In Love With Cherry」です。プロデュースはGoldとは馴染みの、Sugarbeats〜Castaways〜Grapefruitと渡り歩いたPete Swettenhamがクレジットされています。

楽曲はパワーポップとまではいかない明るく楽しいポップスで、前年Hermitsが取り上げたGoldとMartin Shaer(これまたGoldとは旧友の、Sugarbeats〜Castawaysの元メンバー)の共作「Ginny Go Softly」のメロウでポップな路線をキープしつつ、ビートを強化したような一曲に仕上がっています。Gold-DenneコンビがReal ThingやDelegationで既にコンテンポラリーなソウルのソングライターチームとなりつつあった中では貴重な、70年代前半のGoldを想起させる一曲であると言えましょう。

メンバーのうちAndy Price、Nevil KiddierはこののちパワーポップバンドPinkeesを結成、英Creoleから82年にアルバム1枚とシングル数枚をリリースしています。


2023年2月11日土曜日

1988 (1) :『Keisuke Kuwata』

87年7月より開始された桑田のソロ用レコーディングは、「悲しい気持ち」レコーディングを経たのち、小林武史を共同プロデューサー/アレンジャーとして迎える。アルバムに記載されたプロデューサーは桑田・小林・藤井丈司、アレンジは「小林武史 with 桑田佳祐、藤井丈司」と、小林がメインアレンジャーであることが主張されている。LPのゲートフォールド内側/CDのブックレットには、桑田のみならず小林、藤井の3名が写った写真が掲載、このチームによる作品ということが示されている。

なお、A&Rの高垣健はそれまでサザン・Kuwata Bandではプロデューサーとしてクレジットされていたが、本作では過去の原由子のソロ同様、ディレクターと記載されている。

録音・ミックスはKuwata Bandに続き今井邦彦が担当、共同プロデューサーとしてもクレジットされている。LPカッティング、CDマスタリングはNYで今井と高垣立ち合いのもと、60年代後半から数々の名盤を手掛けていたGeorge Marinoが担当。今井によると当初はSterling Soundの別の某エンジニアに依頼していたが、完成品の曲間に取れないノイズが入っており、急遽George Marinoに再依頼、結果2度渡米することになったという(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019

当初は88年1月1日にはリリースする予定でレコーディングは進められたが(「Guitar Book GB 1987年11月号、結局録音完了したのは88年5月初頭、という長丁場となる。


***


録音現場では、当初こそ桑田のデモテープを元に複数ミュージシャンとのリハーサルも行われていたが、そのうち桑田・小林・藤井だけでの、プリプロダクションと本番レコーディングが一体となったスタイルで進行されるようになる。桑田の持ってきたメロディ(一曲丸々という状態でもなく、部分部分のみの場合も多々あったようだ)をもとに3者でトラックを作り、出てきたサウンドによってはさらにメロディを加える・変えていくという、作曲と編曲がキャッチボールで進行していく状態となったようだ。

— プリプロダクションはどうでした?
小林武史「いや、最初から本番のレコーディングだったんです。だから、いつもレコーディング・スタジオでデモ・テープ段階の作業とレコーディングが、ずっと繰り返されてたって感じですね
。」
— 小林さんのアレンジ法というのは?
小林「ある程度、曲が成熟していくまでの段階で、例えばA、B、Cという段階があるとしますよね。まずAの段階で、Aメロとサビだけ出来ていると。その間に何かメロディが欲しいんだけど、とりあえずやってみる。この段階で、リズムとかベースの感じでまず第1段階のアレンジが始まるわけです。で、B段階になると、それを元に構成してみる。イントロをどういう雰囲気にするとか、間奏の雰囲気とか、そういうアレンジになっていくんです。第2段階になると、Bメロだけ作り直すっていう形になって、最終的なメロディの作り直しとか、決定稿が出てくるわけです。その段階で、曲の大体の雰囲気というか、環境みたいなものはできてくるわけです。例えば、弦とブラスの絡みとか、ブラスの音色であるとか。」
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」リットーミュージック、1988)

象徴的なのがアルバム一曲目「哀しみのプリズナー」のエピソードだ。
— 特にレコーディングで難航した曲というのはありますか?
桑田「1曲目の「哀しみのプリズナー」がそうなんですよね。メロディが全然違ってたんですよ。最初はジョージ・ハリスンみたいな曲だったんです。僕がスライド・ギター弾いて。でも、どう考えても古いんですよね、その曲が。ちょっとカントリーを匂わせるような、暗いイギリスの雰囲気がしたんです。で、ちょっと新しさを出すためにTR-808のタムを入れようってことになって。”スッテケ、スッテケ”っていう、ちょっとハネた感じのを入れたんです。そしたら、今度は歌がハマんなくなっちゃったんですよ。それで、16ビートを強調しようってことで、小林クンが”デケデケデケギャーン”っていうフレーズをキーボードで入れたんですよね。もう完全にナウくなってきちゃって、まずAメロの歌を入れ直したんです。その場でAメロを考えて、当然Bメロも合わなくなってきたんでどんどん付け足していったんです。Cメロも考えて付け足して……だから、イントロの”スッテケ、スッテケ”と、小林クンの”デケデケデケギャーン”、それだけのことで、もう曲が変わらざるを得なかった。すごく微妙なことにこだわったんですよ。スリルがあって非常に面白かったけど。
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)
小林「たとえば、M1という曲、A面の1曲目の曲ですけど、あれなんかはイントロの生ギターのストローク以外は全部変わっちゃったんだけど、最初は生っぽく8 beatでやってて。でも、そのままだと古いロックになってしまう。“何とか新しくしたい”って。それは彼(引用者注:桑田)の口グセで。サビが2曲(引用者注:原文ママ)変わったんですけどナカナカ上手くいかないんですよ。じゃあ、この曲の考え方は60年代の曲を今風のアレンジでリメイクしたような感じを狙ってみようかって話もあったんだけど、その発想って単純でしょ?結局、この曲が最後まで残って時期的に気持ちも高まってきていたから、僕が考えた16のベース・パターンに全然別のAメロがついたっていう感じなんですよね。
(「キーボードランド 1988年7月号」リットーミュージック、1988)
冒頭の複数アコギが名残ということは、「My Sweet Lord」的なサウンドでも目指していたのだろうか。ちなみに、この当初用意されボツとなったメロディは、95年の桑田と小林の最後のコラボレーションでめでたく世に出たものだろう(アレンジはRolling Stones meets Stevie Wonderのようなサウンドだが、楽曲のコード進行、特に冒頭のヴァースは「哀しみのプリズナー」とほぼ同一で、その後も付かず離れずの展開である)。小林のお気に入りだったようで、94年以前に小林の依頼でMr. Children用に桑田から譲り受けていたものだという(「Views 1995年9月号」講談社、1995)

アルバムからのセカンド・シングルとなった「いつか何処かで」のエピソードも。
小林「2枚目のシングルになった「いつか何処かで」っていう曲も、最初のとまったく違ってましたね。最初はブライアン・アダムスみたいな曲だったんです。割とヘヴィな感じで、サビだけはできてたんですけど、Aメロが全然違ってたんです。Aメロは、ある日作り直してきたときに、僕の中で「ああ、これは違うんじゃないか?」っていうのが出てきちゃったんです。そしたら、「これ、打ち込みでやろう」って桑田さんが言い出して、シーケンス・パターンを僕が考えて、藤井クンがTR-808でやってみたんです。そこでもう大きく流れが変わって、あとはもう……。あの曲はそういう意味ではガラス細工みたいな、密室性って言われてますけど(笑)、細いもので作り上げる、そういう感じでした。」
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)

このアルバムのレコーディング途中の87年末には前年に引き続き「Merry X'mas Show」が日本テレビ系で放送されている。解散したKuwata Bandもこの番組では再結成し出演、メンバー各自のアレンジの曲も含まれているが、小林・藤井のソロアルバム組が担当している楽曲も披露されている。
スクランブル四重合唱」「二人のFour Seasons Dedicate to “Noboru”」「きよしこの夜」は小林が単独で編曲にクレジット。おそらくトラック制作は藤井と桑田が参加しているだろう。
また編曲クレジットは無いが、「愛のさざ波 Dedicate to “Chiyoko”」は小林・藤井・桑田の3名によるトラック(その後の「リンゴ追分 Dedicate to “Hibari”」もだろうか)。
藤井丈司「クリスマスショウの時だね。アレンジは小林武史さん、桑田さん、僕。元ネタはTaste of honeyやMtume。@st_batucada: “@isoberyo: @junpq: このブラコンアレンジYouTube - 愛のさざ波 http://bit.ly/fgWaeN” 藤井丈司(fujiitake)10:11am、2011.3.2.
https://twitter.com/fujiitake/status/42753850372927488
ハマクラ・クラシックを藤井のツイートのとおりオリエンタル・ブラコンで、といったコンセプトだが、特にこの曲のトラックの質感は録音中の桑田ソロのサウンドを先行披露したような形だ。


***


ソロアルバムの制作にあたり、「ポップ・ミュージック」のキーワード以外に桑田がイメージしていたミュージシャン、作品というのはどんなものだったのだろうか。

「今は、んー、高校生時代とかね、鎌倉学園の在校生だった頃の気持ちに戻ってやってみたいの。ポール・マッカートニーの『ラム』とか、『ジョンの魂』とか、ポール・サイモンとか。シンプルで、メロディ・ラインがあって、ね。そういうのを聞いてた時期に戻りたい。自分の中の聞き手みたいなものに対してもっと素直にアピールしたい、と、そんな感じ。」
(「宝島 1987年11月号」JICC出版局1987)
「悲しい気持ち」リリース直後のセッション初頭のコメントでは、まだ探りの段階ながら、自身が愛聴してきた、グループのヴォーカリストのソロアルバムというのが念頭にあったのが窺える。

「ちょうど洋楽でもスティーブ・ウィンウッドやティナ・ターナーとかロバート・パーマーなんかがヒットしていてね。かつてグループのリードシンガーだった人がソロで打って出たというサンプルをたくさん見ていて、『そういうのもいいなあ』なんて思えたんじゃないかな。」
(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)
といった具合に、直近の作品でやはりグループのヴォーカリストの直近のソロ作なども参考にしている節はある。後述の鈴木惣一郎の指摘にもあるように、破綻しないアダルトな質感などはDonald Fagen『The Nightfly』なども意識していそうだ。


***


このアルバムでは藤井と小林によるコンピューター、シンセの音でほとんどが占められ、小林以外のマニュアル・プレイは原田末秋を中心とするギターがある程度登場するに留まっている。ブラスもほぼシンセ・弦も完全にシンセではあるのだが、しかしいわゆるエレポップ的なところには行かず、16ビートのファンキーな要素も顔を出しつつも基本は大人のオーソドックスなポップス、AOR的な枠をキープした作品になっている。

— 変な言い方になりますが、藤井さんといえばデジタル、桑田さんといえばアナログっていうイメージがあるのですが、桑田さん自身は打ち込みとかデジタルとかに違和感はありませんか?
桑田「6、7年前に、例えばバグルスとか、トレヴァー・ホーンとかが一生懸命やってたような音楽を日本人が真似してピコピコやってた頃に比べて、もうかなり機材とかも進歩してるしね。それに、デジタルが冷たいからっていう理由で、弦とかサックスのソロとか呼んでくると、けっこうアングラになっちゃったりするというのがあるんですよ。だから、藤井クンとカーツウェイルとかでサックスのソロとか弦やるっていう方が……むしろデジタルの方が暖かく聴こえるっていうところまできてません?昔の、エレクトロ・ポップの時代っていうのは、あくまでもテクノロジーって言ったら、そのプラスチックな部分を強調するばっかりだったけれども、今はその逆ですよね。(略)デジタルの方が自分の空想の中の音っていうのかな、けっこうそれに近いものがあったりとか、あと微調整ができたりするでしょ。だからそういう意味で、欲しい音になりますよね
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)
このとおり桑田は、マニュアル・プレイよりコンピュータのほうが自分の欲しい音であるとまで言い切っている。それを具現化するために必要なミュージシャンが、藤井・小林2人だったということだろう。

— (引用者注:桑田は)新しいものに対して貪欲?
小林「やっぱり、新しい形に自分を変えていくしかないっていうのはあるだろうし。POPSですからね、あの人は実体とかってないんですよ。桑田佳祐は一体なんなのかっていうんじゃなくて、彼が時代の鏡であり、今多勢いる人たちの鏡、投影者になろうとするんですよ。だから彼が立とうとする座標って、一番POPなところっていうことになる。言い換えると、彼が一番カッコよく見える音楽だし、彼の歌い易いものだし、歌って気持ちいいもの、彼自身が聴いて良いと思うものでなくちゃいけないわけで。とにかく彼は完全主義者だから、10ヶ月もかかってしまったんですよ。それを許す財力もあるってことですが。
(「キーボードランド 1988年7月号」
このコメントからも、コンピューターを使った音楽制作がデフォルトとなりつつある時代にいかに適応するか、という桑田の意思を小林がよく理解していたのがわかる。同時に「あの人は実体とかってないんですよ」とまで言い切る小林の洞察力も鋭い(2021年の桑田インタビューにおける桑田の自己分析と同じである)。

また、藤井・小林という人選は、最新の都会的なポップス・ミュージシャンらの感覚を、桑田自身の感覚とうまく融合させようとしていたのではないかというようにも見える(戸田誠司の参加案もあったということであれば、尚更だ)。藤井はすでに桑田にとって馴染みのある立場だったと思うが、元々はYMOのスタッフからプログラマーになり、YMO散解後もソロ作等に継続的に関わっている立場であった。
小林については、前回でそれまでのキャリアを眺めたとおり、決して単純に「シティ」の流れのミュージシャンというわけでもないのだが、桑田のコメントからは(いまだに)そのように見ているのがわかる。
「彼(引用者注:小林)は大貫妙子さんとか坂本龍一さんと言った、いわゆる知性派のシティ・ミュージック的な畑から出てきた人で。僕は僕でサザン然り、歌謡曲的な発想とかちょっと下世話なものを背負って出てきたタイプだったのかもしれない。少なくとも彼は最初、そう思ってたんじゃないかな?(笑)。彼には曖昧さや下世話さが皆無だった。よく僕の事を『電通っぽい』とか『野卑な香りがする』とか言ってたっけ(笑)。僕だって十分繊細だと思いますけどね(笑)。ともかくお互いそれまでにまでに会ったこともない類いの人間同士だった。その違いが、いい化学反応を起こしたんだと思います。
(「Switch Vol.30 No.7

なお、桑田が回想する小林のエピソードでは、自身と小林を上記のように対比する表現が多々登場する。このあたり、桑田のコンプレックスが顔を覗かせている。
小林くんはオレのことを芸能オヤジって思ってるかもしれないけど、その芸能オヤジっていうオレの持つ胡散臭いところと、小林くんの研ぎ済まされたところで清濁合わせ飲んだら合体したって感じだよね
(「月刊カドカワ 1995年1月号」角川書店、1994


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歌詞は完全日本語というわけでは無いが、程よく英語がブレンドされた従来の手法に戻っている。また「英語風に聞こえる日本語」の唱法も復活し、どちらかというとそちらを強く意識した歌い方も目立つ。このあたりはこれまでの経緯から自身の良さを改めて伸ばす方向に舵を切ったということだろう。

詞の内容はシンプルなラブ・ソングに加えて、シンガーソングライターよろしく2児に捧げた「Dear Boys」、住宅購入を元に書かれた「路傍の家にて」、Hall & Oatesのレコーディング現場を訪れた際の様子を描いた「Big Blonde Boy」など、ソロならではの個人的な内容も登場するようになる。また、「愛撫と殺意の交差点」での、世を真っ向から批判する形で主張するわけではなく、あくまでスケッチのように淡々と描写・独白するスタイルはここで初登場、90年代の桑田ではおなじみのパターンのひとつとなる。

もともと桑田の歌詞はサザンデビュー以降、仮歌のメロディから桑田の口をついて出たデタラメ英語/日本語をベースに組み立てられており、語感優先で意味は明確に用意されていなかった。しかしその曖昧に描かれている世界観とメロディ、歌唱の組合せが評価されていた面があったといえる。デビュー直後に「詞は画期的」「ただ読んだだけじゃ、一体何が何やら判らない詞が多いのだが、不思議なことに、メロディが付き、桑田が歌うと妙に自然な世界が広がってくる」「アイマイサにおいて桑田の作品はズバぬけて優れている。そしてメロディとの間に、すきまが全くないのも見事だ」と評したのは近田春夫であった「ニューミュージック・マガジン 1978年10月号ニューミュージック・マガジン、1978)

しかし、マンネリを感じた桑田はサザン83年『綺麗』から意図的にストーリーを組んだり、メッセージを忍ばせるようになる。そしてこのソロのタイミングで、周囲からまた新たな刺激を受けていたようだ。
 当時の詳しい様子は後述するが、この時、一緒にやり始めたのが藤井丈司、小林武史、小倉博和といった人達で、彼らは僕からしてみると意外にも”詩の事をとても気にする人達”だった。藤井君は「はっぴいえんど」の松本隆の世界観なども通ってきた人だし、小倉君は僕より若いのに、加川良とか高田渡だとかフォークのことや、古い映画のことなどをとてもよく知っていた
「言葉の羅列やインパクトだけじゃなく、歌全体で誰に何を伝えるか」
というような事を、誰に言われたわけではないが、小林くんも含め彼らとやっているうちに、そう考えさせられるようになった。(アイツら、エラそうに)
 スタジオでよく、
「この詩はどういう意味?」
 と訊かれたものだった。
 そんな彼らに囲まれているうちに、
「オレもやってやろうじゃないか」
 という気になる。「ただの歌詞」ではなく、文として、詩として、読むに値するものが書いてみたくなった。(悲しいことに歳をとると皆こうなるのよ)
桑田佳祐やっぱり、ただの歌詩じゃねえか、こんなもん - 桑田佳祐 言の葉大全集」新潮社、2012

小林も、自身のプロデュースワークについて、僕は言葉の部分もやっちゃうから。」
(「キーボードランド 1988年7月号」と語っていた。「小林武史はその後の桑田のサウンド作りを変えてしまった」とはよく指摘されることであるが、実のところサウンドのみならず、歌詞作りにおいてもその影響は大きかったのかもしれない。


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アルバムは原田末秋&笛吹利明の「My Sweet Lord」風?アコギの上で長田進のエレキギターと前述の小林のシンセが鳴る不思議な組み合わせ…がTR-808のタムを機に一気に雰囲気が変わる、というイントロのモダンな16ビート「哀しみのプリズナー」で幕を開ける。質感はSting『…Nothing Like The Sun』的な雰囲気もあり、歌い出しの「さあ部屋中を暗くしてくれ」から桑田の十八番である「英語っぽく聴こえる日本語」も全開だ。長田は佐野元春のThe Heartland加入以前から、小林とは顔見知りだったようだ。コーラスにアン・ルイスも参加。

Beach Boys+Chordettes?な桑田の一人多重コーラスで始まる「今でも君を愛してる」では抑制された桑田の歌と、小林の面目躍如というべきシンベの響きが素晴らしい。曲をさりげなく支えるブラス隊、ギターなども小林のシンセによるものである。ドラムロールのみ山木秀夫が演奏。

8ビートの「路傍の家にて」でも桑田の日本語の載せ方・崩し方は従来の芸風を推し進めたものになっている。イントロ、シンセのブラスとグロッケンの組合せからしてポップ感極まった、小林の手腕全開の一曲。ギターのみ原田末秋。

Dear Boys」は原田末秋のウクレレをフィーチャーした曲で、ヴォーカル含めてレトロ風の音処理が面白い。ミュート・トランペットの間奏を含めたブラスももちろん小林のシンセによるものだが、桑田の言うように暖かなサウンドに仕上げている。アコギは斎藤誠、ベースは琢磨仁。原由子もコーラス参加。

「ハートに無礼美人」はBo Diddley&シャッフルビートに小林によるシンセのブラス隊が絡む曲。間奏ではようやくシンセでない、松本治によるトロンボーン・ソロが入ってくる(桑田の「Heavy〜heavy〜」以降は左右に分かれ2本対位のソロになるのも面白い)。ギターは原田。

「いつか何処かで」はアルバムからのセカンド・シングルとして88年3月に先行リリースされている。抑制された桑田の歌がまたまた素晴らしい。maj7の頻出や、D→Daug→D6→D7と5度が半音ずつ上がるコードの上で同じメロディを繰り返す、という部分も印象的だ(桑田はこの後すぐこの進行を再利用することになる)。この曲でもイントロのベル系のシンセのみならず、歌の途中から控えめに、効果的にグロッケンが登場する。こののち小林のトレードマークのひとつとなるグロッケン、これ以前の小林作品では登場せず、どうもこの桑田ソロセッションから多用し始めているようである。またこの曲における、ほとんどシンセなのだがノスタルジックなアコースティック感を演出する、という手法は90年台前半までの小林の十八番ともいえるスタイルだが、「Dear Boys」やこの曲で既に完成されていると言ってもよいだろう。小林はこのアレンジについて、「あれだけピンセットで作ったガラス壜のなかの船みたいにきれいなアレンジと言うのは、ぼくの記憶では日本のポップスにはそんなになかったように思う(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)と自負している。ギターは原田。

「Big Blonde Boy」は前述のとおりHall & Oates訪問時の様子を歌っているが、サウンドもイントロのJBっぽい雰囲気からシンベがよく動く打ち込みファンクに流れる。日本語崩しとファルセット、女声コーラス(桑名晴子)などの組み合わせも相まって若干岡村靖幸の87年作ファースト・88年作セカンドの中間のような雰囲気もある。ギターは原田だが、ソロパートは当時ルースターズの下山淳。

「Blue〜こんな夜には踊れない」は歌謡調の渋いメロディを4つ打ちの16ビートで彩っている。桑田によると制作がかなり難航し、アルバムセッション初頭の87年8月に着手し完成したのはセッション終盤の88年4月とのこと(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)。こちらもギターは原田だが、ソロの部分は下山によるもの。それまでの曲調から趣が変わり最後に拍子が変化する間奏が面白いが、ここは小林が「クラシカルな、バロックのような響きを「考えて」作った」(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」立東社、1988)とのこと。

「遠い街角」はコーラスに竹内まりやを迎えたA&MというかBurt BacharachというかCarpentars的なMORの世界。頭から作ったと思しき歌い出しのヴァースの美メロが印象的だ。若干このアルバム全体のサウンドからは浮いているが、当初桑田は打ち込みっぽくストレンジな方向で行こうとしていたようだ。しかし小林が「スタイルができ上がっている曲だから、ベーシックに」アレンジしたという(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)。ギターは河内淳一。アルバムからのプロモ盤7インチにはこの曲と「ハートに無礼美人」が選ばれている。

ファースト・シングル「悲しい気持ち」を経て、シャッフルのアバンギャルドなブルース「愛撫と殺意の交差点」が始まる。桑田によると自身が過去聴かずに飛ばしていたようなブルースを意図したという。
「ポールマッカートニーの《ラム》の中に<三本足>って曲があったじゃない?俺さ、昔からあの曲がキライでね。《ラム》を聴く時、いつもあの曲だけとばしてたの。ただ、ずっと気になっていたんだ、あのブルースっぽい曲のこと。それとリトルフィートのセイリンシューズの中に<アポリティカル・ブルース>っていう曲があるでしょ?あれも必ずとばしてたの。“やっぱりリトルフィートはファンキーにやってくれないと、ダメだ”とか言って。ローリングストーンズのスティッキー・フィンガーズに入ってる<ユー・ゴッタ・ムーブ>もそう。あれって、ちっとも良くないブルースだったでしょ?全然正統派のブルースじゃないのね。あの曲もイヤでイヤで、いつもとばしてた。でも、これらの半端なブルースが今になって良く思えたの。ブルースの解釈なんて、人それぞれでいいんだって思った。で、俺も<愛撫と殺意の交差点>っていう自分なりのブルースをやったの。」
(「GB増刊 Volume 1 Vol.4 1988 July」CBSソニー出版、1988
中盤、終盤はブリティッシュ、というかBeatles『Magical Mystery Tour』風にサウンド・コラージュが展開される。この曲のみ、藤井の連れてきた門倉聡がシンセ、シンベのみならず共同アレンジとしてもクレジット。門倉もそれまでに大貫妙子『Comin' Soon』や、矢口博康・戸田誠司・福原まりや鈴木さえ子参加の漫画イメージアルバム『アクマくん魔法★Sweet』等にアレンジャーとして名を連ねている。この曲がきっかけで、門倉はサザンの次のアルバムに参加、小林に代わりアレンジの中心を担うことになる。ギターは原田、コーラスで竹内まりやが参加。

「誰かの風の跡」はこのアルバムの総決算のような、シンセのアコギとボンゴが心地よいバラード。ポルタメントのかかったアナログ・シンセも、のちの小林武史のトレードマークのひとつとなる要素だが、この曲が初登場ではないだろうか。それまでの桑田にはなかった、大部分がファルセットで歌われている楽曲で、誰を意識したのか妙にクセのあるメロディ回しなども印象的だ。最後はかなりオフだが実は入っている、即1オクターブ上がるBのロングトーンのファルセットがフェイドアウト、追ってトラックもフェイドアウトしアルバムは幕を閉じる。



***


このアルバムの制作中、前出の海外ミュージシャンの作品とは別に、プロデューサー3名が作業中常に意識していたある日本のミュージシャンがいたようだ。

桑田「最近ですね、僕もレコーディング10ヶ月してましたけど、コンピュータープログラミングなんていうのはね、当然ありましてそこに達郎さんの話題が必ず出るんですね。僕レコーディングずっとしてきてね、達郎さんほど語られる人って少ないよね、他所で。レコーディングしてる現場で、例えば何かやってると『タツローっていうのはこうこうこうで…』」
山下達郎「あーそう、意外…。」
桑田「うちの今コンピュータープログラミングの藤井っていうのとか、小林武史っていうのが。みんな達郎さんっていう人とたぶん会ったことは無いと思うんだけど…」
山下「いや藤井くんはよく知ってる。あのYMOやってた方でしょ。だから、よく知ってますよ。」
桑田「あ、ほんとに?だから、達郎さんに関してはね、出ますね。」
山下「あーそう…全っ然意外。」
桑田「達郎さんだったらどうするか、とかね。」
山下「そんなこと言ってんの…!」
桑田「うん、言ってる。」
山下「へえ〜。」
桑田「バラシバラシじゃなくてね。達郎さんのイメージっていうのを語り始めるってことが多かったですね、今回のアルバム僕ら、10ヶ月やってましたけど。」
(「Tokyo Radical Mystery Night」Tokyo FM, 1988.7.6.)

そういえばこのソロ・レコーディング初期、ポップスについて語る桑田は山下の名を出していたこともあった。
「でもやっぱりこう、ポップスって……俺、山下達郎みたいな人ってすごく好きなのね。竹内まりやとか。ちょっと堅物のさ、何か職人芸みたいなのあるじゃない?でも最終的にあの人は職人なんだよね、最後自分でボーカル乗っけるとき、あの人のボーカルって単なる女好きみたいに聞こえるんだよね俺は。ずーっと職人的にやってったのを、最後は自分の歌の色気だけを信じてさ、畳職人みたいなことをやってったのを、最後に自分の歌乗っけると結局全部ぶっ壊してしまうみたいなさ(笑)、ああいうたたずまいが好きだけどね。ああいうガンコ者の音楽だと思うの、ポップスってのは。筋金入りのもんですよ。
(「Rockin' On Japan 1987年11月号」ロッキング・オン、1987 / 「ロッキング・オン・ジャパン・ファイル ロッキング・オン3月号増刊」ロッキング・オン、1988)

この時点での山下のレイテスト・アルバムといえば『Pocket Music』だ。大胆にコンピュータを導入しながらも違和感無く従来の路線をキープし、かつ30歳を超えたシンガーソングライターとしてオプティミズムもペシミズムも包み隠さず表現した、中年男性によるポップスのひとつのあり方を提示したレコードであった。

山下は『Pocket Music』リリース時、サウンド・コンセプトの根幹思想として、こんな話をしている。
— でも達郎さんの場合、同世代の人たちがついてきてると同時に、若い人たちも新しく入ってきてますよね。
山下「交錯してますね。10数年もやってますとね、ギャップがすごいんです。20歳の人と30歳の人を同時に満足させるようなレコードやコンサートってのは、本当に大変なんですよ。だからね、少なくとも音の色というのは、今生きてる色じゃないとダメなんです。メロディなんかはもう変えられませんから。スタジオや楽器を含めた環境の中で、やっぱり一番コンテンポラリーだとされるような使い方をしていかない限り、生きてる音楽にはならないんですよね、流行音楽の場合は。」
(「Sound & Recording Magazine 1986年6月号」リットーミュージック、1986)
メロディは従来の持ち味をそのままに、サウンドはトレンドの音色を使うことで今を生きる流行歌を作ろうという試みもポップスの伝統的な手法ではあるが、山下のポップスとコンピュータの組合せはそのまま今回の桑田ソロの方法論、果てはこの先の「Jポップ」のひとつの方法論そのものともいえる。

細かいところでは山下の作品史上、『Pocket Music』はグロッケン(と何らかの楽器のユニゾン)や、類似のベル系シンセなどが多用されるようになる節目のアルバムでもあった。

ところで、小林武史は数年後自身がプロデューサー・メンバーを務めることになるMy Little Loverのコンセプトの原点にこの『Pocket Music』があったことを、後年さりげなく明かしている。
小林「そうすねえ。だからやっぱり - いや、これはもうどうとでも言えることなんですけど、マイ・リトル・ラバーっていうのはひとつの思いつきから生まれたものなんで。それは例えば(山下)達郎さんの『ポケット・ミュージック』だったり。(略)やっぱりちっちゃい頃から1曲好きになるとしばらくずーっとその曲聴いてるっていうか、そういう曲の在り方みたいなことでやってみるっていうアイディアがあって、たまたまそん時にAKKOが登場して。で、始まったんですよ。」
(「Bridge Vol.31 2001年8月号」ロッキング・オン、2001)
文脈からこのコメントではアルバムでなく楽曲としての「ポケット・ミュージック」を指していそうだが、小林によるJポップ史に残る名盤のひとつであろうMy Little Lover『Evergreen』も『Pocket Music』無しでは生まれなかったということになる。いま一度、日本ポップス史における『Pocket Music』の重要性は認識されるべきかもしれない。


***


リリース後のアルバムレビューをいくつか見ていきたい。まずはこの時期かなり桑田が接近していた渋谷陽一の評から。
 A面1曲目のイントロの音にとりあえずは驚かされる。何も洋楽に近ければ偉いというものではないが、アレンジの緻密さ、演奏能力の確かさ、ほとんど洋楽のレベルである。しかも日本人のサウンド貧乏性とも言える録った音は全部使ってやる、というところがなく、音数はシンプルにまとめられている。この辺は小林武史の力が大きいのだろう。こうしたアレンジと録音のレベルの高さはアルバム全体にいえる。時間をかけてディテールまでていねいに作られている事が聞いていると十分に伝わってくるのだ。
 (略)英語で歌うKUWATA BANDで欲求不満を起こしていた彼の言葉のファンもこのレコードでは満足することができるだろう。
 さて、この僕にとっても長い間楽しみにしていたレコードを聞いて、おおむね満足したのだが、一点だけ気になる事があった。それはレコードの持つ密室的なムードである。あまりにもお見事にコントロールされ、どうもポップ・ミュージックの持つ下品さに欠けるような気がしたのだ。「まあ、いいか」と放りだしたものが結果、音楽に勢いをつけたりするのがポップ・ミュージックの面白いところであったりする。そうした、いい意味でのいいかげんさがない。何やら達人が作り上げた見事な完成品的な感じがする。確かに整合感を無視したような作品もあるが、それも予定された整合感の無視のように思えるのだが。(渋谷陽一)
(「ロッキング・オン・ジャパン 1988年7月号」ロッキング・オン、1988)

続いておなじみミュージック・マガジンからは高橋健太郎の評。高橋はサザンのデビュー前後のライブに足繁く通ったのみならず、「Young Mates Music Player 1978年10月号」(プレイヤー・コーポレーション、1978)とかなり早い段階でのインタビュー記事を担当。「ザ・ベストテン」サザン初登場時の新宿ロフト中継にも観客として桑田の真後ろにずっと映っている(高橋健太郎kentarotakahashhttps://twitter.com/kentarotakahash/status/37450118856839168 pm6:56 2011.2.15.)など、デビュー当時のサザンにかなり近い位置にいた音楽評論家のひとりだ。
 桑田佳祐は、その登場の時から馬鹿でかい個性を持っていた。僕は彼とはまったく同世代だが、ヤマハの渋谷店で初めてサザンのデモ・テープを聞かせてもらった時は、負けた!と思ったし(バンド解散したのはあの直後だったなあ)、アルバム・デビュー以前に10回は観に行っている。日本語をロック・ビートに、あるいは洋楽的なメロディーにのせる方法の新しさ、そして傍若無人でいながらハートフルな歌心には、ホント、惚れ込んできた。
 けれども、天才ゆえのワン・パターンというべきか、デビューした頃の彼の音楽の中に散らばっていた可能性の一部分しか発展していないように思えるのが、僕には気になる。(略)良いアレンジャーを得て、ゴージャスかつ凝った実験性のある音を作ってもいる。それでも、このアルバムの印象は、どこかフラットでレンジが狭い感じがあるのだ。まだまだ桑田佳祐にジェームズ・テイラーやマイケル・マクドナルドのようになって欲しくない僕には、それが惜しい。(高橋健太郎)
(「ミュージック・マガジン 1988年8月号」ミュージック・マガジン、1988)

ちなみにこの数ヶ月後、ミュージック・マガジン編集部は同じコーナーで高橋に山下達郎『僕の中の少年』のレビューを依頼している。続編のようなレビューになっているのが興味深い。
 桑田佳祐のソロに、まだまだジェームズ・テイラーやマイケル・マクドナルドのようにはなって欲しくない、と文句をつけたら、今度は山下達郎の新作が回ってきてしまった。知っての通り、この人はとうにジェームズ・テイラーの域ですからね。もはやモデル・チェンジなし。ひたすら細かいチューン・アップを重ねて、完成度を高めていくだけ。(高橋健太郎)
(「ミュージック・マガジン 1988年12月号」ミュージック・マガジン、1988)

渋谷はクオリティの高さとそれゆえの完璧なサウンドの息苦しさ、高橋はデビュー当時の桑田の才能の眩しさとこのアルバムの落ち着き様のギャップを素直に吐露している。おそらくデビューからリアルタイムで桑田を追いかけていたリスナーには、このあたり共感するところもあるかもしれない。

古参のこういった意見がある一方で、今回のアルバムで初めて桑田作品を気に入ったと評価する向きもある。こちらは鈴木惣一郎の評。
桑田佳祐はこのソロ・アルバムを作るにあたり、2枚のアルバムを絶対参考にしている。1枚はポール・マッカートニーの『ラム』、もう1枚はドナルド・フェイゲンの『ナイト・フライ』。これはかなりの確信がある。アルバム全体に漂うセンチメンタリズム、ダンディズム。+αの要素としてのスティング、バカラックなんてのも匂いますぜ。おそらく、桑田氏の描くソロ・アルバムというイメージは、前述のアーティストたち、いわゆるシンガー・ソングライターのりに集約されていると思われる。サザンは自他共に認める桑田氏のワン・マン・バンドなのに、KUWATA・BANDだってそうだったのに、やはり彼にとってのソロという部分はこのアルバムの中にのみある。とてもナイーブで、がんばり屋で、ポップスの大好きな桑田佳祐。僕は初めて気に入りました。(鈴木惣一郎)
(「Techii 1988年8月号」音楽之友社、1988)


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様々な評はあるが、本ソロ・アルバムがなにより桑田本人にとって刺激のあるレコーディング、迷いのない出来になったのは間違いない。以下は日時の記載は無いが、90年はシングル「真夏の果実」と同日発売の歌詞集収録のインタビュー。
ソロアルバムはね、サザンとは比べられないけれど、個人的には一番好きだな!ってのが本音。っていうのは、音楽のキャリアが何年があって、その中で、やっぱりいろいろ踏まえて来たものを、ソロっていう形だけど自由に出せたこと……それに小林武史君っていう、とってもいいパートナーを見つけられたこと、まあサザンもクワタバンドの時のメンバーもそうなんだけど、いい仲間と音楽作りができるっていうのは最高。で、ソロアルバムの時はシェフが俺じゃなくて小林君。名シェフのもと、素材・桑田は、実に心地良く楽しませてもらいましたね。
桑田佳祐ただの歌詩じゃねえか、こんなもん ’84-’90」新潮社、1990

こちらは94年のソロ活動振り返りより。
「で、小林くんの場合というのは、それは8小節じゃないんだけど、歌に対してとるメロディーの考え方とか作り方とか、それから非常に繊細なエルトン・ジョンみたいなものから、アッパーなちょっと気狂い的なやつ-例えばT-レックスみたいなものとかちょっとプログレッシヴ的なもの……イギリス的なもんかなあ?その辺がすごくうまいのね。で、ビックリしちゃったの。だから彼とチームを組んでた時のすごいめくるめくアレっていうのは、愉しかったというか、すごく勉強になったっていう。だから最初のソロ・アルバムっていうのは、そういうふうにして自分の世界観みたいなのを小林くんによってすごくパーッと広げてもらったという憶えがあるんですけど。」
「自分はいままで音楽を作ってきたけど、それまでは『こんなもんでいいんじゃない?』っていうとこで途中でやめてたような気がする、全部1曲1曲。だけどあきらめなくなったですね、やっぱり彼(引用者注:小林)と一緒にやってると、大事にするようになったというか。詞もヨイヨイだし、それから『やっぱロックでしょ、はいヨイヨイ』だったしね」
(「季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994」ロッキング・オン、1994)

桑田はこの自信作を提げて小林とともにソロ・アルバムのツアーを行いたかったところだが、完成が予定より大幅に延びてしまったことから、88年夏に既に予定されていた別のスケジュールとバッティングしてしまうことになる。そのあたりについては次回に。


2022年12月15日木曜日

Warren Mills「Flame In The Fire」「It's Peculiar」[Ken Gold Songbook]


Warren Millsは84年に英JiveからMiraclesのエレクトロ・カバー「Mickey's Monkey」でデビューした、当時プレティーンのヴォーカリストです。

85年にはファーストにして唯一のアルバム『Warren Mills』がリリースされました。いくつかのプロデューサー・作者チームによる作品を並べた、80年台半ばのキッズ・エレクトロ・ソウル・アルバムになっています。リード・シングル「Sunshine」はFull Forceの提供曲で、ラップも含めたモダンなキッズソウルで最高です。このアルバムにおいて、当時同レーベルに所属していたBilly Oceanとチームを組んだ、Ken Gold作品が2曲収録されています。

1曲目はBilly Ocean - Ken Gold - Pete Q. Harrisが作者としてクレジットされた「Flame In The Fire」。プロデュースもこの3人がクレジットされています。Pete Q. HarrisとGoldは前年のKaite Kissoon以来のコラボレーションとなります。いかにも『Suddenly』『Love Zone』当時のBilly Oceanらしい(若干自身のものより派手?)エレクトロ・ソウルで、コーラスでもしっかりOceanの声が聴こえます。
「Flame In The Fire」は同年、アメリカの映画「Breakin'(邦題:ブレイク・ダンス)」「Breakin' 2: Electric Boogaloo」の系譜にある「Rappin'」のサントラに使用されたため、そちらのサントラにも収録されています。

2曲目はBilly Ocean-Ken Goldコンビの作品「It's Peculiar」。こちらはプロデュースがBilly Ocean-Pete Q. Harrisということで、Goldは楽曲提供のみのようです。ノスタルジックでメロウな60s前半のモータウンを思わせるシャッフルもので、この辺りはGoldやOceanのルーツというか十八番のようなスタイル、それをPete Q. Harrisによる最新のシンセ・サウンドで仕上げた1曲になっています。こちらも派手にOceanのコーラスが聴こえてきます。地味ながらも、好きな1曲です。




2022年12月8日木曜日

1987 (4) :悲しい気持ち(Just A Man In Love)pt.2

ソロ名義のレコーディングを始めるにあたり、桑田はまず藤井丈司にアルバム計画を伝え、同時にサウンド・プロデュース、スタッフ・ディレクションを依頼する。
(『Keisuke Kuwata』フライヤー ビクター音楽産業/アミューズ、1988)

藤井丈司はYMOのアシスタントとしてキャリアをスタート、『Technodelic』の後のソロ作や提供曲・バンド名義では『浮気なぼくら Naughty Boys』からプログラミングを手掛けるようになる。桑田とはサザン「ミス・ブランニュー・デイ c/w なんば君の事務所」『人気者で行こう』でのMC-4プログラミング並びにアレンジを皮切りに、『kamakura』での共同プロデュース・プログラミング・アレンジ、86年初頭のKuwata Bandシングルセッションでのプログラミングと、84年以降の桑田のレコーディングにほぼ参加している(「She’s A Big Teaser」NYミックスのプロモ盤7インチにもSpecial Thanksに藤井の名がある)。既に桑田にとっては馴染みの存在だったことだろう。

87年8月21日に原由子のシングル「あじさいのうた c/w Tonight's The Night」がリリースされている。ポップなA面と渋いブラコン的な雰囲気もあるB面の組み合わせで、アレンジは桑田と藤井の共同名義となっている。このシングル、おそらくスケジュール的に、桑田のソロ・レコーディングの前哨戦だったはずだ。実は参加ミュージシャンも桑田のセッション初頭とほぼ同じである。

Produced by 桑田佳祐
Arranged by 桑田佳祐、藤井丈司
Vocals, Keyboards : 原由子
Computer Programming : 藤井丈司
Guitars : 原田末秋
Bass : 琢磨仁
Drums, Chorus : 松田弘
Chorus : 桑田佳祐

初期桑田ソロセッションのポイントは、結果的にここからサザンのメンバーである2名を抜いていることだ。まずは原由子以外のキーボードが必要ということで、藤井は直前の藤井尚之『Naturally』レコーディングで共演していたキーボード・プレイヤーをセッションに起用。7月からレコーディングが開始される。


***


小林武史は山形県で生まれ育ち、高校卒業後に上京、78年に渋谷の音楽学校に入学。米軍キャンプ回り、自身の自作曲でのバンド活動等を経て、山根麻衣のバックや廣田龍人のRicky & Revolverのメンバーとして、プロの世界でのキャリアをスタートさせている。

82年に杏里のシングル用楽曲コンペの話があり、書き下ろしで見事採用されたのが「思いきりアメリカン」であった。その流れでアルバムにも楽曲提供することになり、翌年アルバム『Bi・Ki・Ni』のB面に3曲を提供。小林のデモを聴いたアレンジャー佐藤準の勧めで、うち一曲「Surf City」は小林自身によるアレンジで収録されることに。アルバムで唯一ドラムはマシンによるもので、淡々とした地味な出来だが、本人によるとAlan Persons Project「Eye In The Sky」のようで、のちの自分のひとつの定番(の路線)になる、と語っている(「月刊カドカワ 1996年1月号」角川書店、1996)

そののち、小林はプロデューサー/アレンジャーとして85年以降、とあるレーベルで年一のペースで作品を残している。

・Jive『Klaxon』(1985.11.)
・アイリーン・フォーリーン『ロマンティック』(1986.6.)
・The Rock Band『四月の海賊たち』(1987.8.)

Jiveは四人組男声ヴォーカル・グループで、ファーストアルバム『First Letter』は伊藤銀次プロデュース、伊藤や杉真理・竹内まりやらが楽曲提供したある意味「シティ」寄りのポップスといった内容。メンバーのオリジナル曲で固められた『Klaxon』がセカンドアルバムにあたる。プロデュースはJive・小林武史のクレジット、アレンジは全曲小林・ヴォーカルパートのみグループの宮下文一が担当。本作がおそらく、小林が最初にプロデューサーとしてクレジットされたアルバムと思われる。80s半ば、ニューウェーブ時代のニューミュージックにコーラスが絡むところがユニークな作品で、当記事的にも思わずニヤリのリズムパターンであるバブルガム・ドゥーワップ歌謡「熱い瞳のマジック」も含む、ポップでバラエティに富んだ内容だ。随所に見せるファンキーな要素も含めて小林の器用さを示した一枚といえる。ベースはマニュアル・プレイ(小林のプロデュース・アレンジでスラップが入るのも珍しい)の曲も入っているが、ドラムは全曲マシン、生の管弦は入っていない。また「Frothy Story」は詞曲とも小林が共作、「スローモーション ランナー」は小林が単独で作詞を手がけている。

アイリーン・フォーリーンは高知出身のニューウェーブ、エレクトロ・ポップ・バンドで、『ロマンティック』はこれまたセカンドアルバムにあたる。メンバーの安岡孝章のペンによる収録曲は、一曲を除き小林が全曲のアレンジを担当、プロデュースのクレジットは小林武史&アイリーン・フォーリーン。全曲武部聡志との共同アレンジであったファースト『プラスティック・ジェネレイション』に比べると落ち着いた内容のセカンドだが、これまたいかにも小林といった地味ながらも手堅いシンセ主体の音作りだ。安岡の耽美的なヴォーカル・丁寧なメロディとうまくマッチしたアレンジで、シンセのブラスやストリングスなど含め、既にこの後80年代後半にかけての小林サウンドが確立されつつある感がある。余談だが、ここで小林は小倉博和と初対面しているというのが面白い(「カドカワムック 別冊カドカワ 総力特集 小林武史」角川グループパブリッシング、2008)。『ロマンティック』に小倉のクレジットは無いが、既にこれ以前のライブで3人目のギターとしてサポート参加していたようだ。このアルバムのリリース後、メンバーチェンジで小倉はバンドの正メンバーとなる。

そしてThe Rock Bandは元アナーキーで、『四月の海賊たち』は(改名後の)セカンドアルバム。ファースト『アナーキー』はバンドと笹路正徳との共同プロデュース・アレンジで、続くこちらはプロデュース・アレンジともにThe Rock Bandと小林の共同名義だ。改名したアナーキーはパンクから距離を置き、重心低めのハードロック、ブルースロック的な色が濃くなっており、そのあたり小林ともウマの合ったコラボレーションになっているといえよう。五木寛之の同名小説にインスパイアされた歌詞もユニークで、アナーキー名義の頃とは印象が異なる作品に仕上がっている。
なお、小林本人は80年代は前2作についても言及していたが、90年代半ば以降は『四月の海賊たち』を自身の「初プロデュース作」として語るようになる。おそらく、サウンドの出来もさることながら、歌詞も含めてプロデューサーとして全体をハンドリングできたという自負があったのかもしれない。
小林武史「プロデュースでは、去年、元アナーキーのROCK BANDのLPやって。いいLPだから、聴いてください(笑)。あとアイリーン・フォーリーンとか。JIVEはサウンド・プロデュース的な関わりだったけど…僕は言葉の部分もやっちゃうから。」
(「キーボードランド 1988年7月号」リットーミュージック、1988)

とこのように既に80年代半ば、小林はバラエティに富んだ作品のプロデュース、アレンジを既に担当している。この3作をリリースしているレーベルというのが当時サザンのTaishitaが属していたおなじみビクターinvitationであり、すべて、invitationの発足時から在籍し、アナーキーのデビュー時からのA&R/ディレクターである村木敬史の担当作品である。おそらくこの時期、小林は既に村木には目をかけられていたということなのだろう。

また、ソロ・ヴォーカルものとしてはビクターではなくワーナーで86年、香港で活動していた杜麗莎、テレサ・カピロの日本録音作『Teresa Carpio』(全曲英語詞バージョンの日本盤は『Tokyoドリーミング』)で小林は全曲のアレンジを担当、服部克久・長束利博とともにプロデューサーとしてもクレジットされている。テレサはもともと70年の来日中、フィリピン出身のGSバンド、デ・スーナーズとの共演ライブを見た勝新太郎にスカウトされ勝プロに所属、71年に日本Denonから「混血児マリー」でレコードデビューしていた。86年のアルバムは日本再デビュー盤となる。服部や小林作の曲だけでなく、安全地帯「悲しみにさよなら」なども取り上げている。

他方、プレイヤーとしては85年ごろに大村憲司と出会ったことをきっかけに、86年に大村に呼ばれ井上陽水のツアーメンバーに加入、ビッグ・ネームのツアーを大物プレイヤー達とこなす日々を送ることに。
さらには大村の紹介で高橋幸宏らと出会い、87年には高橋と鈴木慶一=Beatniksのセカンド『Extentialist A Go Go』にキーボードとしてレコーディング・ツアー両方で参加、また大貫妙子『A Slice Of Life』のレコーディングからツアーにも参加と、いわゆるサブカル、「シティ」周りのミュージシャン関連の仕事が多くなる。その流れでこののち88年には、大貫の計らいでミディレコードとソロ・ミュージシャンとして本人のヴォーカルによるアルバムリリースの契約を結ぶことになり、新進気鋭のミュージシャンとして「Techii」「Pop Ind’s」などの雑誌に取り上げられる扱いになっていく。

同じく大村憲司の参加する藤井尚之の87年作『Naturally』セッションで、小林は藤井丈司とも共演することになる。そういった流れがあり、藤井は桑田ソロセッションのキーボード・プレイヤーに小林を迎えたようだ。
— 初めはキーボード・プレイヤーとしてのみの参加だったようですね?
小林「そうですね、最初は。ただ、きっとプロデュースという形になっていくと思うからって、藤井クンは言ってました
。シングルの「悲しい気持ち」までは、別にそういう形を取っていなかったんですよ。ほかにもミュージシャンが随分いて。でも、途中からだんだん切り換わっていったんですよね。」
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」リットーミュージック、1988)

小林のコメントのとおり、おそらく、藤井の中では最終的に共同アレンジャー・プロデューサーとして小林を迎えようとしながらも、その手腕を桑田に確かめさせるためのお試し期間としてまずはプレイヤーとして参加させたということなのだろう。


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「悲しい気持ち」のシングル盤に記載された参加ミュージシャンは以下のとおり。

Vocals: 桑田佳祐
Keyboards, Synthesizer: 小林武史
Guitars : 原田末秋
Bass : 琢磨仁
Computer Programming : 藤井丈司
Backing Vocals : 杉真理
Engineered & Mixed by 今井邦彦
Assist. Engineered by 平沼浩司

のちのアルバム曲と異なり、このシングルについてはまだ小林と藤井と桑田の3者体制での密室レコーディングではなく、ある程度開かれたレコーディングだったようだ。
小林「それで今回のスタジオ・ワークでは、初期の段階ではDsやBの人も加わってはいたんだけど、中盤以降はずっと3人だけでやっていました。」
(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」立東社、1988)

原由子セッションとほぼ同じメンバーであることを見ると、小林の証言からもおそらく当初は松田弘あたりが参加していたものと思われる。しかしこの楽曲の時点で、最終的に桑田はマニュアル・プレイでなく、藤井によるマシンのドラムを選択する。といってもサザンでも『綺麗』からはマシンのドラムを使用するようになり、『kamakura』に至ってはドラムセットをフルで使ったマニュアル・プレイの曲は聴く限り半分も無く、楽曲単位で見るともはや特に珍しい話ではない。

ただ、(この曲の時点でアルバム全編マシンで進める判断をしたかどうか不明だが、)結果的にソロアルバムではマニュアル・プレイのドラムは一曲も入っていない。それどころかリハーサル、プリ・プロダクションの段階から、ドラムは藤井が打ち込んでいくことになる。このあたりはサザンやKuwata Bandを経て、それらとのさらなる差別化であったり、また並走する時代のサウンドを眺めながら新しいスタイルを求めた桑田自身の結論だったのだろう。
小林「最初はミュージシャンを集めてライブっぽいリハーサルをやってみたんですけど、それだと今まで桑田さんがやってきたものと、あまり変わらないと。空気とかがね。で、どうしても人間がやると、良くも悪くもサウンド的に曖昧になって、それには彼が飽きてたっていうか。」
(「キーボードランド 1988年8月号」リットーミュージック、1988)


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「悲しい気持ち」ではなんといっても印象的な二部構成のイントロからスタートする。シンセのヴィブラフォンで、松田聖子「赤いスイートピー」のイントロをマイナーキーに泳がせたようなしっとりした雰囲気で始まった…かと思えば瞬時に歌い出しのヴァースと同じメジャーキーのコード進行に変わり、しかし歌メロとは全く別の印象的なフレーズが、グロッケンと、おそらくRoland D-50のFantasiaあたりのキラキラした音色とのユニゾンで奏でられる。イントロのフレーズは小林も当時「ここが決めて」と語っているほどである(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)

楽曲を通していささか暗めの印象もあるシンセのヴィブラフォンが鳴り、要所要所でグロッケンとFantasiaのユニゾンが登場、と緩急のついた音選びが効果的だ。曲全体をさりげなく支える、生っぽくないシンセのストリングスもいい仕事をしている。

Roland D-50 Linear Synthesizerは87年3月に発売されたばかりの、当時最新のシンセサイザーだ。そのユニークなプリセット音たちは同年リリースでは順にThe Cars『Door To Door』(87.8.)、Michael Jackson『Bad』(87.8.)、George Michael『Faith』(87.10.)、Rick Astley『Whenever You Need Somebody』(87.11.)、翌年のPrince『Lovesexy』(88.5.)、Enya『Watermark』(88.9.)…とその後も数多くの名盤で耳にすることができる。
ちょうど「Techii 1987年10月号」における藤井の連載コーナー「シンクロ野郎」では、ゲストに小林を迎え、出て数ヶ月のD-50についてプレイヤーとオペレーターの立場からの対談が掲載されている。タイミング的におそらく「悲しい気持ち」録音当時と思われる。
藤井丈司「小林さんD50使い出してずいぶんになるよね。どう?」
小林「プリセット音がいいね。サンプリングした音とシンセの音を混ぜたり、エフェクト込みで音作りを考えたりっていう作業を、1台でやっちゃおうっていう発想がおもしろいよね。」
(略)
— 具体的にプリセット音で良し悪しはありますか?
小林「ピアノ系とか、シミュレーションは弱いって気もするけど、エディット次第で使える音になるかもしれない。」
藤井「まだ、ユーザーも研究段階だからね。DXが出たばかりのときと同じだよ、その辺は。」
小林「ただ、"Fantasia"とか、既製のシンセにはなかったような抽象的な音なんかの場合は、ほとんどが即使えるというぐらいの完成度を持ってるね。」
藤井「そう。聴いたことのない音というのが、たくさん入ってるね。」
小林「僕らがシンセ組み合わせてやっても、とても作れないんじゃないかってぐらい、凝ってるんだよね。さっきの、"Fantasia"にしても、完全5度ぐらいの倍音を発生させて、非常にバランスのいい音を作ってるし。」
藤井「だけど、ほとんどの音がリバーブで個性作ってるんだ。キタネーよな(笑)。」
(「Techii 1987年10月号」音楽之友社、1987)

さらに、この曲をぐっと馴染みやすくしているのがドラムパターンのいわゆる「(厳密には第二の)モータウン・ビート」であるところのSupremes「You Can’t Hurry Love」ビートだ。正直なところこのパターンを出してきたのが桑田なのか藤井なのか小林なのか、はたまた当初セッションに参加していた松田?なのか、今のところ不明なままである。ただし、「You Can’t Hurry Love」ビート自体は80年前後に英米でリバイバルが発生後、82年には日本にも飛び火しスクーターズ、翌年の松田聖子、そして桑田も原由子「恋は、ご多忙申し上げます」で既にトライしている。その後定番のひとつとなったビートであり、実際誰が言い出してもおかしくないものだ。また、同時にこの曲を支える琢磨仁のベースはまた別のパターンを提示することで、「そのまんま」にはなっていないのも最終的には正解なのだろう。

サビの最後で一瞬転調し、歌が終わったあとにオカリナのようなシンセのフレーズが鳴るが、このフレーズも小林考案のものとのこと(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)。このなんとも可愛らしい音色、フレーズを突っ込む絶妙なセンスも小林の魅力のひとつであろう。

そして(「シティ」)ポップス界の先達・杉真理をわざわざ起用し、タイトルを追いかけで連呼する、厚みのないさりげないコーラスなどの仕掛けは明らかに「60sガール・グループへの愛」の表れだ。間奏での桑田のファルセットの「Ooh-oh-ooh-ooh-…」などはDiana RossへのDedication、Supremes「Baby Love」歌い出しの変形と思われる。

前回で「Whoa-oh」の多用はRonettesを意識したのではないか、と書いたが、さらにSupremesも加わるとガール・ポップの大ネタと大ネタの組み合わせで、下手に元ネタたちを意識するとクドくなってしまいそうなものだ。しかし、あくまで凝りすぎないオーソドックスなアレンジを、打ち込み主体のクールで洗練されたサウンドで包んだトラックが功を奏し、非常に納まりのいい仕上がりとなっている。小林はこの曲のアレンジ全体についてこんなコメントを残している。
小林「曲が甘い青春ものになっているときには、アレンジで凝ろうとすると、曲のほうがはずかしくなっちゃう。甘いメロディーというのは隠そうと思っても隠れないものだから、むしろそれを広げるように考えたほうがいい。」
(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)

オールディーなクラシックを同時代的シンセ・サウンドで固めながらも、歌をメインに据えアレンジ自体はヒネらずに、というと前年の野沢毛ガニ&桜井鉄太郎によるJ.E.F.も似たスタイルではある。あちらは何よりまず本家B.E.F.の発想と桜井の選曲センスの融合が揺るぎない魅力なのだが、そんな方向性をぐっとメインストリーム側に寄せたのがこちらの桑田組と言えなくもない。桜井鉄太郎、小林武史と、6〜70年代のロック・ポップスに耽溺し、かつ時代に対応した音作りを熟知した、その後90年代の日本のポップス=J-POPを支えるプロデューサー達と共に試行錯誤しているのがこの頃のサザンメンバーのソロ活動の一面でもあった。

そして、ここまでアレンジについて見てきたが、桑田の歌唱も新基軸・変化のひとつとして大きく認識すべきポイントだろう。サザン『Nude Man』あたりからどんどんワイルドになっていった桑田のヴォーカルは、例えばKuwata Band「One Day」のようなバラードでさえ野太い発声で歌っているのだが、この「悲しい気持ち」では打って変わって繊細で、ぐっと抑制された発声となり、日本語も聞き取り易い発音に変わっている。いわゆる「普通」に近づいたと言えばそうなのだが、ヴォーカル・スタイルのバリエーションが増えたということでもある。ポップ・ミュージックに意識的になったこのタイミングでいま一度歌手、ヴォーカリストとして唱法を意図的に見直したことが、「さよならベイビー」「真夏の果実」等、90年代に向かう桑田ポップスの名唱に繋がっていくといっても過言ではないだろう。



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アレンジへの見事な貢献で、シングル「悲しい気持ち」の編曲は最終的に「桑田佳祐、藤井丈司、小林武史」と、小林が3番目のアレンジャーとしてクレジットされる。シングル盤にプロデューサーの記載は無いが、やはりこの時点での小林の権限は全てに口を出せるほど大きなものではなかったようで、シングル盤がリリースされた後に「打ち込みのドラムがハネていない」と指摘してくる小林に桑田は困惑したという(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM,  2014.10.25)

そして藤井の目論見どおり、小林は高垣健から正式に桑田ソロアルバムについてプロデュースの依頼を受ける。
小林「ソロ・シングルの「悲しい気持ち」から一緒に仕事をさせてもらうようになってね。そんな時、サザン (オールスターズ)のディレクターの高垣(健)さんから「ちゃんとこれをプロデューサーっていうやり方で受けてくれないか」と言われたんですよ。それまではレコード会社のディレクターの人が中心になって、作詞や作曲、編曲を人に頼んで、分業で、というのが一般的だったけど、やがてアーティストが自分で曲を書くようになったでしょう?分業がなくなって、その時、楽器の音でも録音のシステムのことでも理解できている人間、欧米で言う”プロデューサー”を育てる必要をレコード会社の人も感じたんだと思う。それを僕にやってほしいということだったんですね。」
(「カドカワムック 別冊カドカワ 総力特集 小林武史」角川グループパブリッシング、2008)

小林は高垣の依頼を快諾。前述のとおり、桑田の意向で他のプレイヤーを排し、桑田・藤井・小林のみの三者体制で、長期間にわたるアルバム・レコーディングが進められることとなる。