2026年3月28日土曜日

1993 (1) : 時代ということを考えたら、ぼくらは時代遅れ

暗黒を提示するシリアスなサザンの始まり…と桑田が語った『世に万葉の花が咲くなり』の翌年は、サザンのデビュー15周年を迎える93年。当の桑田は周年行事はどこ吹く風で、休むか音楽映画の制作に取り掛かろうかとしていたようである。

「ほんとうは、今年一年休むつもりでいたんですよ。音楽だけやってると、とっても世界が狭いんで、たとえばインドに行くとか、パリに半年住むとか、そういう計画を今年の初めに立てたんです。
 でも、自宅にスタジオがあるんですけど、やっぱりそこに籠っちゃってね(笑)。じゃ、前から考えてる映画のための台本を作ろう、と。それも音楽から発想するような、ロック・ミュージカルみたいな形の映画にしたいと思っていて、軽く肩慣らしのつもりで機材いじってるうちに『エロティカ・セブン』ができあがって、できたらできたで、CDにしようか、と。結局、同じになっちゃうんですよね(笑)」
(『週刊文春 1993年10月21日号』文藝春秋、1993

とにかく気負わない、肩の力を抜く…という意図はあったようだ。

「こないだのツアーが2月に終わったでしょ?それから気楽にね、前後のバランスとか、そういうそれぞれの対比とか、そういうのを考えないてレコーディングを始めたんですよ。お気楽にやってレコードにする。そういうのいいなあってそんな発想があったんですけどね。」
 お気楽に、とは?
「あんまり世の中の前後左右を気にしないでということなんですけどね。」
(『ワッツイン 1993年8月号』ソニー・マガジンズ、1993

「ぼくも最近、はっきり言って見えなくなってきちゃったんだけどね。歌謡曲とかロックとか。ロックという言葉がバワー・ダウンしてると思うんですね。10代20代前半の子たちがものすごく分裂してるというか。音楽的趣味にしても多種にいってるし。そこにメイン・ストリームを見出すとしたら、ロックや歌謡曲でもないと思うんです。トレンドという言い方があったけど、それこそジュリアナかもしれないし。でも、わかんないですけど、ジュリアナは関西や茨城あたりの人が来てるのかもしれないし。かといってB’zやWANDSが日本のメイン・ストリームというわけでもないだろうし。とにかく多岐にわたってるでしょう。だからあえて客観的に見ると、サザンというのは今の時代で言うと時代遅れだと思うんですよね。変な言い方だけど」
(『スコラ 1993年8月13日号』スコラ、1993)

周囲を気にしない…という言葉の裏に、ここにきてトレンド・目指すものを見失ったという迷いが見え隠れする。ワードとして、海外の現役ミュージシャンは言及されず、また国内も当時チャートを席巻していたビーイングに触れる程度だ。多様化していく状況を眺めつつ、洋邦ともに、80年代までのような大きな流行は見られず、ピンとくる新しい大きな潮流というのも桑田の視界には入ってはこなかったということであろう。

そんな多様化の中、自らを含めてミュージシャンの上限年齢が上がり続け、いわゆるトレンドとは乖離しても現役でいられる…そんな状況について、率直なストレンジさも語っているのも当時ならではという感じで興味深い。この年、桑田は37歳であった。

「いろんな事を考えると、ぼくらも多少変わってきたんだろうけど、時代ということを考えたら、ぼくらは時代遅れだろうなと思いますよ。これは、昔風の時代遅れという意味じゃないけど、ぼくらサザンも、ユーミンも、拓郎さんも、陽水さんも、その人たちひとりひとりの年齢を見てもわかるように、時代遅れなんですよね。だけど、いられる。これ、何だろうと思うんですよね」
(『スコラ 1993年8月13日号』)

この状況下、結局93年は、いずれも独立したコンセプトがある企画もの的シングルが7月から11月とほぼ毎月、計5タイトル繰り出されることになる。



***


7月にリリースされたサザンのシングルは前年に引き続き2枚同時リリースという、相変わらず景気の良さを見せる企画であった。

ここまで八面六臂の活躍を見せた小林武史は参加せず、「ネオ・ブラボー!!」ではプレイヤーとして参加していた片山敦夫が全曲で本作でしか見られないクレジット、「編曲補」として登場(英語表記は「Co-Arrangement」なので、意図があるのかなんなのか不明)。メンバーのクレジットはあるがプロデューサーや参加ミュージシャンのクレジットは一切無く、しかしプログラミングはいつものように角谷仁宣(「Profile」Studio8thFloor https://studio8thfloor.com/works.html)、録音・ミックスもいつものように今井邦彦(『サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019』リットーミュージック、2019が担当したようだ。

1枚目A面はイントロから下世話に炸裂するシンセブラスが印象的な「エロティカ・セブン Erotica Seven」だ。

景気の良さを象徴する派手派手なインナー。いわゆるCDジュエルケースの透明トレイは89年の『女王陛下のピチカート・ファイヴ』が史上初だが、シングル用短冊形の透明トレイとしてはこちらも早いものだろうか。アートワークについてのクレジットは無い。

「最初からこの“エロティカ”という言葉があったわけじゃないんですよ。サビの2小節、どうも歌詞が出来なかったの。まあ、スケべな歌だなぁ、というのは全体の印象としてあったんですけどね。それで2小節ぜんぜん出来なくて、スタジオでとっさに“エロティカ~ッセブーン”と紋切り型ではあるけど、歌ってみた。そしたらウケた。“そこまで道化をやっていいのか?”という目線もその場にいた人たちから飛んできたんですけど、そのまま行ってしまったんです。(略)
そもそもこの曲のリズムパターンて、ドラムのキックの4つ打ち、つまりドオンドオンドオンドオンていうね。このリズムって何やってもいいというか、解放的な気分になれるものなんです。(略)で、そんなキックの4つ打ちの感覚は、曲作りからレコーディングの時まで、ずっとあったんですよね。」
(『ワッツイン 1993年8月号』


松田の四つ打ちの暑苦しいドラムがよく似合うラテン・ディスコ歌謡で、系譜としては「勝手にシンドバッド」「気分しだいで責めないで」「匂艶 The Night Club」の流れに属するもの。松田本人のアイディアなのかはたまた桑田によるものか、タム回しのみシモンズを使っているのは80s松田弘を思い起こさせるものだ。大森のカッティングや片山?のオルガン、間奏のSEなどのサンプリング絵巻、テルミンなど明るくスリリングに展開するあたりは映画を意識していた頃の名残だろうか。

桑田もネタ切れだったのか、この時期にしては珍しくカップリングにメンバー作の楽曲が収録されている。「9月の風」は大森作の、清涼感あふれる繊細なギターインストだ。大森が母を亡くしたことをうけて書かれた曲ということである大森隆志「ただ今、作曲中」大森隆志オフィシャルサイト~ブログ https://ameblo.jp/omoritakashi/entry-10478595168.html)

このシングル2枚については、カップリングを含め作曲者がサウンド作りをメインで仕切って進めるというスタイルだったようである。要はこの数年桑田が取っていたスタイルを、他のメンバーにも適用してみたというところだろう。

松田弘「大森の曲にしても俺の曲にしても、桑田の2曲にしても全部バリエーション違うでしょ。(略)それぞれに分担制で、責任持ってやったから。そういうレコーディング自体初めてだったしさ。」
『代官山通信 Vol.43』SAS&SAS応援団、1993)

『FM Station 1993年7月19日号』(ダイヤモンド社、1993)での「夏に聴きたいCD」で大森が挙げているのがJames Taylorの91年作『New Moon』である。このあたりのサウンドの影響もあるのかもしれない。

桑田によると、当初は歌ものになる可能性もあったという。
「大森の曲はね、ギターと一緒に寝てしまう少年の昂り、みたいなのが出てるなと思うんですよ。サザンの看板ギタリストという重荷から解放された作品になったと思う。この2つのバランスは大切だと思うんだよね。この曲、インストゥルメンタルですけど、最初は大森が自分で歌も歌うといってたんです。ボクはね、“それだけはやめてくれ”っていったんですけどね(笑)。」
(『FM Station 1993年7月19日号』)

もう一枚のA面は「素敵なバーディー(No No Bridy)」。8分の6拍子でドラム、ベース、ピアノ、オルガン、ギター、パーカッション、と初期サザンを彷彿とさせる編成のミディアム、サビでは男声コーラス(といっても今回は桑田ひとりに聴こえるが)が炸裂する…という「恋はお熱く」「ラチエン通りのシスター」「涙のアベニュー」「栞のテーマ」の系譜に位置付けられよう。いわゆるBメロのパートでの二回転調するコードの展開など、歳を重ねた桑田の技が地味ながら光る逸品だ。

ベースは、プリプロの段階では打ち込みでなく桑田が弾いたとのことである。

「でも、今はみんなで“せーの”ってやるほうをやりたいんだよね。」
— 本当に“せーの”で録音したんですか。
「実際にはね、その前段階でシュミレーション
(※原文ママ)した部分があったわけなんですけど、気持ちはあくまでそういうことでね。でね、この「素敵なバーディー」は、シュミレーションの時、俺がベース弾いてたんですよ。自宅のスタジオでやってた時ですよ。それもボロボロの昔買った7万円のベース。すごいへタなんだけど、この“ヘタ”ということに関して、何か問題はあんのかな、という気分なんだよね。ズレちゃってるけど、音が出てない時もあるけど、べつにそれでいいんじゃないのかなぁと思ったんですけどね。今までなら、キチッと音を縦に並べてたなぁって思ってね。でも、そうやって自分でベース弾いて、ペラペラのそのベースなんだけど、“レコードって、こういうのでもいいんじゃないか”って。」
(『ワッツイン 1993年8月号』

ここまで語って、最終版に収録されたベースが誰の演奏なのかは触れられていない。実際の音を聴くと打ち込み然とした感じでもなければシンベらしい音色でもない手弾きのエレキベースのようで、しかし関口や根岸のような特徴・タッチは感じられず、匿名的で素朴な雰囲気のプレイである。おそらく、プリプロと同じく桑田が弾いているのではないだろうか。もしそうであれば、サザン初の桑田によるベースプレイであり、ギター以外のパートも自らの演奏で構成していく、この先の桑田のマルチプレイヤー化の第一歩にあたる曲ということになる。

こちらのカップリングは松田作「遙かなる瞬間 とき」。松田が自作曲を発表するのはキャリア史上初である。

松田「自宅のスタジオでつくっていて、歌詞は、せつない感じが出ればと3時間で書き上げてしまった。サザンとして歌うのは「松田の子守歌」「翔」以来。いろいろなパターンで試して歌ったんだけど、難しかったよ。」
(『週刊ザテレビジョン 1993年7月23日号』角川書店、1993

松田「次のアルバムは歌いたいな」っていうのが「KAMAKURA」ぐらいからあってさ、タイミングとかローテーションなんかがあってなかなか言い出せなかったんだけど、「弘、1曲作るか?」って桑田が…カップリングは弘の曲と大森の曲で行こうって言い出してさ。あ、遂にきたなっていうところもあって。タイミング的にも音楽づいているときだったからすんなり入れたしね。曲も、以前からソロアルバムを作りたいという前提があったから、ストックしてたしね。(略)本当は自分のソロの目玉候補として暖めていた曲なんだけどね。」
『代官山通信 Vol.43』)

自宅スタジオで作っていたということなので、Beat Club Studioでソロ用として既に制作していた楽曲を、桑田からのオーダーでサザンの現場に持ち込みブラッシュアップし仕上げた…というところなのだろう。当時のSadeなどアダルト・コンテンポラリー的な感覚を歌謡的な世界に大きく寄せた雰囲気といったところだろうか。ここ数年の桑田主導のアレンジや、大森の曲のようなオーソドックスな雰囲気ともまた別の趣のあるトラックに仕上がっている。ドラム・プログラマー松田によると思われる多数の音色のスネアなどにもこだわりが感じられよう。


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このシングル2枚、なんといっても特筆すべきはラテン・ディスコ歌謡と三連のミディアムをA面に据えたということだろう。これらは78〜82年までの「サザン」の代表的なサウンドイメージで、83年の『綺麗』以降、レコーディングにおいて意図的に封印していたものだ。

— パブリックなイメージを、あえて毛嫌いするのではなく……
「それをあえて嫌って、わざと違ったところに行こうとするって気分ではなかったんですよ。ホントにもう、お気楽に作った2曲なんです。背伸びしてよりプログレッシブにという考え方じゃなくて、昔の学生ノリっていうかね。より下世話に、みたいなさ。」

(『ワッツイン 1993年8月号』

この10年の経緯を思えば、この「解禁」はかなり大きなポイントだ。トレンドや指標を見失った結果としてなのか、自信や確信があるわけでもなかったと思われるが、10年避け続けたパブリックイメージへの回帰、セルフパロディが初めて行われたことになる。それがこの時代のチャートにフィットしたのか、「エロティカ・セブン」は99年までサザン最大のヒットシングルとして君臨する。決して意図的ではないだろうが、結果的に以前から言われている「現役の懐メロバンド」であることの是非を問うたような構造にもなりそうだ。

「夜を徹して、今まさに探ってる段階ですからね。はっきり言って、この曲がすべてですというのも、こっ恥ずかしいんですね。これです。というのには、あと2、3年かかるかななんて思うんです。そう思うと、時代をうんぬんというより、時代遅れと言っちゃった方がぼくはもうすっきりするんですよね。その代わり、じゃ時代的なもの、時代と共に歩いてる、時代をそのまま代弁してるようなミュージシャンがどこにいるかというと、いないと。すべての人が時代遅れなんだと思うんですよ。YMOはどうか知らないけど。ただ、本当に成熱したのかなとも思うんです。成熟なんていうのは、こんなものだったのかななんて。だからと言って、やっぱり日本人に一番あってる音楽は歌謡曲だ、演歌だっていうようなこと言ってもしょうがないし。やっぱり今、走り続けるとか、音楽を量産するとか、いっぱいコンサートをやることで時代の風に乗っていくしかないと思うんですね。」
(『スコラ 1993年8月13日号』)


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93年がサザンデビュー15周年であることは先に述べた。恒例のデビュー記念日6月25日はまたしてもメンバーソロ作のリイシューで、今度はシングル盤の3インチ(8cm)CD化であった。廃盤となっていた楽曲、バージョンなども聴けるようになり、Kuwata BandのB面曲などは3年半ぶりにカタログに復活する。

ただ、前年に桑田ソロのベスト盤もリリース済で、さすがにこの年もベスト盤をリリースするのは気が引けたのか、93年のアルバムリリースは無し。そこに棚ぼた的に、珍しい企画作品が登場する。「勝手にシンドバッド」から最新曲「エロティカ・セブン」までサザン名義の楽曲をフロア向け風にメドレー化したメガ・ミックス、「enoshima - Southern All Stars Golden Hits Medley」である。マキシ・シングルで、久々のアナログ盤である12インチを8月に一万枚限定で先行発売、2週間半後に追って5インチ(12センチ)CDとカセットをレギュラーリリースしている。明確に「サザンオールスターズの作品」と銘打たれているわけでもなく、「Produced by Z. Dan」のクレジットがあるのみ。サザンのマスターが流出、入手した謎のグループ「Z団」によるリミックス…という体で、Z団のロゴには「Unknown Guys From Asia」のフレーズがある。レーベルはわざわざこのシングル用に「江ノ島レコード」を名乗り、Tycoon Graphicsを起用した『Nude Man』を元にしたジャケ、初回出荷分CDは帯なし、他シングルに貼られたサザン15周年キャンペーン応募ステッカーも無し…などアンオフィシャル風・ゲリラ風に装丁も凝っていた。

「1993 Tycoon Graphics」のクレジットが数カ所に掲載。Tycoon Graphicsの宮師雄一はCDジャケットの初仕事は酒井ミキオの作品と語っているが、94年デビューなのでこちらの方がリリースは古い。

12インチはビクターの表記なし。CD裏ジャケも発売元V. E.とがんばっている。

なにより、オフィシャルなミックスなのでマルチテープの音源を堂々と使用できているのが素晴らしい。約30曲プラスアルファをメドレーに再構築、ハネる「チャコの海岸物語」、ラヴァーズロックの「Oh!クラウディア」から「いとしのエリー」への展開、揺れる「真夏の果実」など聴き慣れたヒット曲たちの新たな、しかし違和感のない味付けが楽しい。歌ではなく一部フレーズのみで登場する「そんなヒロシに騙されて」「My Foreplay Music」、「マチルダBaby」のベースとサックスのループに乗ってアシッドに展開する「私はピアノ」、「祭りはラッパッパ」のイントロフレーズに乗る「勝手にシンドバッド」のラララコーラスなどのマッシュアップなど細かい遊びにニヤリとさせられる仕掛けが多い。そのほか、当時のライブでの桑田の口癖「スタンド!アリーナ!カモン!」などもオフィシャルなのでライブからの実物音源をふんだんに使用している。

制作体制は公開される事なく2026年現在謎のままだが、参加者のうち3名は判明している。1人は福富幸宏。avex所属時のオフィシャル・サイトでリミックス・ワークスの93年、この「enoshima」が載っている(「Remix Works」one hundred twenty five beat per minutues -fukutomi web- http://www.avexnet.or.jp/fukutomi/works/remix.htm。のちに小西康陽もさりげなくこの件について触れている。「成功を収めた」とあり、翌年ブルーハーツのリミックス企画が福富に舞い込むきっかけになったという書き方である。おそらく、サウンド作りの中核を担っていたのだろう。

ザ・ブルーハーツ/TRAIN TRAIN
これはサザン・オールスターズのリミックス・プロジェクトで成功を収めた福富幸宏さんの許に来た企画で、そのうちの1曲を担当したもの。
小西康陽「不定期連載・リミックス覚え書き。その4。(2010.04.07)」 READYMADE V.I.C. Column『レコード手帖』 http://www.readymade-vic.com/column/author/konishiyasuharu/20100407.html

福富に声がかかったのは、寺田康彦とのユニットTF Productionが91年にアルファレコードからリリースしていた『歌謡曲のクラブミックス / Kayohkuoku-No Club Mix』あたりが契機だろうか。福富が91年末ファーストソロアルバム『Love Vibes』をリリースする以前のこと、TF Productionは90年のYMO「Nice Age」リミックスで登場。その後「おどるポンポコリン」ハウスカバー、そして歌謡曲のカバーでのメガミックス…と異色作を連続リリースしていた(マジックナンバー「1990年代のアルファレコード後期の(黒)歴史:Alfa In The '90sシリーズ、あるいはSPINレーベルについて(2)」note、2022 5.19. https://note.com/371113stm/n/neb2996a3d425)。そういう意味ではThe Hardcore Boysの「俺ら東京さ行ぐだ[ほうら いわんこっちゃねえMix]」から「Y. M. O. Mega Mix」のような流れDELIC RECORDS/イシヤマヨシアキYMO Megamix」note、2020.1.11. https://note.com/delicrecords/n/n86f60cd889d00も連想させる。

また、サザンの青学ベターデイズでの後輩・斎藤誠も自身のサイトに参加作品として記載(「biography」makoto saito  https://lalalumusic.com/wp2/archive/biography.html)、さらには元スペクトラム・Kuwata Bandの今野多久郎も参加していたことを公表している(「今野多久郎 Takuro Konno」axelle http://www.axelle.co.jp/model/konno_takuro/info.html
 / 「最新シングル「Missing Serenade」をリリース! 旧知の仲であるバークス今野多久郎と対談」barks https://barks.jp/news/556121/)。元音源に存在しないギターやパーカッションなどはこの両者によるダビングなのだろう。後の斎藤の立ち位置を思うと、ここで弾いてるのは未来を暗示している感もある。

しかし制作の実態もさることながら、サザンでハウスのメガミックスを…というアイディア出しから音源制作スタッフの選定、装丁まで取りまとめを行ったのはいったい誰なのか、この先明かされることはあるのだろうか。カタログには残っているのでCDは入手可能だが権利処理がやや複雑なのが理由かサブスク解禁もされておらず、覆面企画であるがゆえに「なんだかよくわからない」雰囲気で放置されている本作。企画ものとはいえアーリージャパニーズハウス〜メガミックスの名作として、福富幸宏ワークスのひとつとしても、30年以上経った今改めて評価されてよい一枚だろう。


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11月ににもう一枚、サザンのシングルがリリースされている。『世に万葉の花が咲くなり』の「Christmas Time Forever」からわずか一年、再びのクリスマスソング「クリスマス・ラブ(涙のあとには白い雪が降る)」である。

このシングルについてはプロデューサーやエンジニア、ゲストミュージシャンが明記されている。共同アレンジ・キーボード小林武史、プログラミング角谷仁宣、ミックス今井邦彦、つまりは『世に万葉の花が咲くなり』チームによるものである。

Produced by Southern All Stars & 小林武史
Co-Produced, Engineered & Mixed by 今井邦彦
Arranged by 小林武史 & Southern All Stars

「Christmas Time Forever」はペシミスティックなテーマを反映した温度低めのシリアスなテンションだったが、打って変わってストリングスやブラス、エレキシタール、そして原由子と松田弘のコーラスなどが鳴り響く甘々のサウンドである。わずか一年でのこの変わりようは、大下由祐の指摘大下由祐/YU-SUKE O-SHITA 「クリスマス・ラブ(涙のあとには白い雪が降る)/ サザンオールスターズ」 note、2024.11.24. https://note.com/fair_oxalis36/n/n3526839823de)のようにタイアップの話が入ってきたのが理由のように思える。「Christmas Time Forever」は92年末に丸井クリスマスのCMに起用されており、翌年第二弾として、今度は書き下ろしのシングルで…というオーダーがあったというところだろうか。

再度のクリスマスというテーマで桑田が持ち出してきたサウンドコンセプトがポップス史上燦然と輝くクリスマス・アルバムである『A Christmas Gift For You From Philles Records』のプロデューサー、Phil Spectorのウォール・オブ・サウンドである。

ちょうど同年、新譜リリースの見込みが無かった大滝詠一を横目に山下達郎が書き下ろし、TBS系「ビッグ・モーニング」のオープニング曲として6月からオンエアされていたのがナイアガラ的パーカッションのウォール・オブ・サウンドで彩られた「鳴かないでHeron」であった。また、前年の杉真理「夏休みの宿題」などナイアガラ関係者、そしてこの年11月には高浪敬太郎プロデュースの高橋ひろ「君じゃなけりゃ意味ないね」…など、ウォール・オブ・サウンドは当時の日本のポップス界でも一定の間隔でチャレンジされているジャンルだ。今回再び、小林武史を起用しているところからも桑田の気合がうかがえる。

メロディもPhillesレーベルに提供していたようなアルドン系作家のポップスを狙った感があり、「Whoa-oh」「Wow-ow-ow-ow-ow」も「悲しい気持ち」に比べ頻度は少ないが時折顔を覗かせている。原・松田を主体とした終盤のコーラスなどは、もちろん(70年代のSpectorによる) John & Yoko / The Plastic Ono Band With The Harlem Community Choir「Happy Xmas (War Is Over)」がリファレンス先であろう。ベースは根岸孝旨、ブラス隊は村田陽ー・大倉滋夫・佐藤潔とこのあたりも『世に万葉の花が咲くなり』と共通したミュージシャンで固めている。

しかしこの「クリスマス・ラブ」、翌年以降今に至るまで桑田や今井邦彦からうまくいかなかったと語られるようになる。

「いまはコンピューターなんかがあっていろんな音が出るでしょう。で、俺んちにMac持ってきてシンセサイザーを置いとくともう何でもシミュレーションが可能じゃないですか。だからそれが愉しかったんだけど、その揺れ戻しで虚しくなっちゃったというかね」
— はははは。
「あの“クリスマス・ラヴ”ってシングルを去年作ったんだけど、フィル・スペクターみたいなことをやりたかったんですよ。で、フィル・スペクターは当時2チャンか3チャンでやろうとしてできてるから。だから「ああ、かわいそうだなあ。いま48チャンあるぜ。ざまみろフィル・スペクター、そんなことはいまの世の中簡単にできるんだ」と思って。だから音楽ってのは細分化していけば同じことじゃないかと思ってて。で、できてきたものは「あれ!これはちょっと違う。違い過ぎる!」と思ってね」

(『季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994』ロッキング・オン、1994)

「それと去年「クリスマス・ラブ」っていうのを作ってるときに、俺、痛手を感じちゃってね。あれがすごく大きかったのね、俺は。フィル・スペクターみたいなサウンドで、よくあるクリスマスのビッグサウンドをやろうと思ったんですよ。それこそ、チュブラベルズが鳴ってて、弦が鳴っててみたいな、きらびやかなネ。重厚感があって音の壁みたいなやつ。それで歌にエコーがいっぱいかかっていて、そこにボーンといるような……。まあ、イメージは当たり前のイメージだけど、そこに合ってて……。で、今、48チャンあるでしょ。60年代の初めにフィル・スペクターがやってた頃っていうのは2チャンネルとかっていう世界でしょ。もう「せーの」じゃないですか。ピアノが5台分の音がいるなら、ピアノを5人呼んできて、一緒に同じこと弾かせるっていう。そういう理屈はあるんだけど、その時の録音マイクの選び方とか、マイクの位置とか、部屋の鳴らし方とか、多分いろんな事があるだろうね。そういうものが本当の意味での総力戦になって、いい形になって出てきてて。じゃあそれをどうやって再現するのかなって、ごく普通に思ったのね。で、今は48チャンあるんだからそれは多分できるはずだって思ったんですよ。でもやっぱり迷っちゃったんだよね、やってるうちに。だから、音楽っていうその1曲の幅をね、もともと窮屈な2チャンネルでやろうとしてたことを48チャンに細分できるでしょ。「せーの」じゃないんだからバランスも如何様にもとれるし。そういう贅沢なところでやったんだけど、それは逆の混乱が待っていたというかね。だから、音楽というのは、細かく微分すればいいってもんじゃないんだなって思ってね。今サザンってメンバーが6人いて、レコーディングではまだチャンネルいっぱい余ってるから、グロッケン入れて弦入れて、オルガン入れてっていう世界で、どんどんビッグサウンドになってくるでしょ。それが当たり前になってきたんだけど、それがずーっと「クリスマス・ラブ」につながって行ったんだなぁ、なんてすごく思ってね。僕らがデビューした頃は16チャンだったけど、それが24チャンになって48チャンになって、出来ないことは何もないじゃないかって思ってたけど、やっぱり音楽っていうか歌の基っていうのは何処に在るのかっていうと、人間の血肉の中に絶対在るわけじゃない。肉声とか、あと脳とかね。それをあんまり細分化してもね、所謂欲しい音にはならないっていうか、全然違うんだよね。」
『代官山通信 Vol.50』サザンオールスターズ応援団、1994)

今井邦彦「あと「クリスマス・ラブ」は現代のレコーディング技術でフィル・スペクターをやりたいっていう……」
林憲一「そう、これは大変でしたね!」
今井「本当に苦労したんだけど…結局「できねえんだ!」で終わりました。」
一同「(爆笑)」
今井「だから猪俣さんがさっき話したように、昔の音というのは今のテクノロジーでやろうとしてもそう簡単にはできないということですね。これは切ない一曲です(笑)。」

(『Switch Vol.31 No.8』スイッチ・パブリッシング、2013


確かに直球で60年代のウォール・オブ・サウンドを狙ったのであれば、アナログ録音、トラック数の少なさ、多人数でのリズムの一発録り…といった点だけでもどうしても分が悪い。ただ、先の山下達郎(と吉田保)のように多重録音をベースにしてでもアレンジやエコーでカバーし新たな着地点に導くアプローチがあるのも事実である。そんな観点からも音数の割にパーカッションやエコーなど(そして若干メロディも)、おとなしい点がどうしても気になってしまう。綺麗にまとまり過ぎている感が拭えないというか…本家ウォール・オブ・サウンドまたはそれに準ずるものの持つ賑やかさ、煌びやかさや狂気の再現には至っていない気はする。

といっても前述の山下達郎「鳴かないでHeron」などは思うような奥行きの音像にならないとの理由でこの93年時点ではレコードとしてはお蔵入り、数年間眠り続けることになる。それぞれが試行錯誤する時期ではあったのだ。

さて、この「クリスマス・ラブ」に関わった小林武史が翌年プロデュース・アレンジした曲にMr. Childrenの「innocent world」がある。この曲、ウォール・オブ・サウンドを意識したのではないかという指摘がある。

で、「innocent world」の場合は何なんだろうと思ったとき、これってウォール・オブ・サウンドなんじゃないかという笑 アコギとかものすごい重ね録りしてあるし。
吸い雲(maruomarukido) 3:52pm、2020.5.4.
https://x.com/maruomarukido/status/1257201425660010496

そう言われてみるとそのとおりで、壁は潔く複数本のアコギのみで構築し、シンセのストリングスやおなじみグロッケンなどは入るが基本はコンボスタイルでまとめている。合いの手にカスタネットが鳴りそうなところで鳴らないのが、ギリギリ甘くなり過ぎないように抑制している雰囲気だ。アコギの音壁というとGeorge Harrison「My Sweet Lord」のSpectorが浮かぶが、どちらかというとパブロック的な香りというか、Nick Lowe「Cruel To Be Kind」あたりの影響があるだろうか。日本では中村俊夫のアイディアによりそのサウンドをさらにSpector側に寄せたカバー、三遊亭円丈「恋のホワン・ホワン」もあった。

そうするとこの流れは「クリスマス・ラブ」の小林なりのリベンジと取れなくもない。これを聴いた桑田が何を思ったかは不明だが、直球ではない、こういったフォロワーの方向からのウォール・オブ・サウンド的アプローチに可能性を感じ取った…のかもしれない。

シングルのカップリングに収められたのがA面と対照的な方向性の「ゆけ!!力道山」である。これまでの桑田・サザンでも見られなかった、ミニマルな音数で攻めるスローファンクだ。右のキーボードはおそらく小林、ドラムは角谷のマシン。左右のいなたいギターと、さらにはベースも桑田によるものだそうだ。

「これね、こう言っちゃうとアレだけど、ギターとベース僕弾いてるんですよ。ドラム打ち込みなんですよ。だからそういう何ていうの、コンパクトというか、こう…狭い感じっていうの?そういうのが何か、良い感じで出たなあっていう感じで、もう自分で作った中で詞や曲っていう意味じゃなくて、これアレンジも含めてベスト10に入る。」
「この頃1993年っていろんな映画を見たりね、(略)音楽はやっぱりSlyをよく聴いて、今頃聴いてんのかい…Miles Davis聴いたりね、まあよく勉強した時代だったのかな。」
(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM, 2021.1.19.)

多重録音とドラムマシン、ミニマルなサウンドというコンセプトはSly & The Family Stone『There’s A Riot Goin’ On』『Fresh』あたりを意識してみたのだろう。山本拓夫と荒木敏男によるブラスはLittle Feat「Spanish Moon」の影響が濃厚だがこれも桑田のアイディアか。シンセで作ったのかセンターで鳴るスクラッチなどもクールな印象を与えるのに一役買っている。桑田本人もこの曲の出来は会心だったようで、A面とは裏腹に30年経った今でも、自作の中でフェイバリットとしてたびたび言及する曲となっている(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM、2021.6.22. / 同 2025.5.10. / 「Eight-Jam」テレビ朝日、2025.4.6.。Tommy Snyderによる英詞パートも「Baby, what you need is not a rock star. Get a funky, hunky, funky soul man.」とサウンドに合わせ小気味良い。

インナーはもちろん、こういった裏ジャケも5インチCD化の際にオミットされてしまっている。もちろんサブスクでも…


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「enoshima」リリース直後の10月には唐突に桑田のソロ・シングル「真夜中のダンディー」もリリースされている。共同アレンジャーに片山敦夫を迎えているため、「エロティカ・セブン」「素敵なバーディー」の直後もしくは並行して録られたのだろう。この流れでいきなり無骨で硬派な曲が飛び出したのは、桑田にキリンの缶コーヒーCM出演と新曲のオーダーがあったというのがきっかけのひとつのようにも思える。前年のサントリーの矢沢永吉をきっかけに、この年、缶コーヒー界は中年男性ミュージシャンをCMに起用する流れがあったのだ。さらには、同年末のイベントも影響しているように思われるが、このあたりは次回まとめて詳細を見ていこう。





2025年12月6日土曜日

1992 (2) : ツイン・ピークスの質感のような音の感触を

92年9月12日・13日、サザン初の海外公演「纪念中日邦交正常化20周年 日本现代流行音乐超级巨是 南天群星 演唱会 / 北京で逢いましょう Southern All Stars」が中国は北京の北京市首都体育館で開催される。『世に万葉の花が咲くなり』の録音を終えた後、アルバムのリリースとその後の日本国内ツアー「歌う日本シリーズ 1992〜1993」に先駆けてのライブであった。参加ミュージシャンやセットリストも「歌う日本シリーズ」とほぼ重複している。

初日では、桑田が極度のストレスでライブ中に倒れてしまう大きなアクシデントも発生している。オーディエンスが見えない・反応がわからないという珍しい環境が影響してしまったようだ。

具体的なことをいっちゃうと、コンサート会場(北京市首都体育館)は、アリーナに客が入っちゃいけない。スタンドの客は満員だけど、照明真っ暗でだれも見えない。そこに立って日本の歌を歌う。
 ほら、砂漠の中で夜中にテントを自分ひとりで張っているようなもんで、そして、地平線の彼方に異民族がじーっと見ている気配がかすかに感じられる。そこで、自分は日本語で叫んでいる。
 それに対して、地平線の彼方の異民族は確かにこっちを見据えている気配はあるんだけれども、見えない、無気味ですよ、ライトを顔の正面にあてられて取り調べを受けているようなもの。
 あれは、パニックというか、深い井戸の中にポーンと入れられたような感じですよね。視界もきかないし、自分たちのやっている音楽が単調にずーっと井戸の中で鳴っているような状況だから。
 で、時々演奏が終わると、異民族といっちゃあなんですけど、砂漠の彼方から声がザワザワッと聞こえてくる。これはけっこうききますよ。
(略)
 あんまりいろんなこと考えすぎちゃったんだよね。結果的には、堪能の様子をあらわに見せてくれた北京の人々(観客1万人)がいてくれたんですけどね。」
(『Views 1992年11月11日号』講談社、1992)

1年前には天安門広場などでカジュアルに演奏を楽しんだ桑田だったが、その時とは勝手が違ったようだ。

天安門でも、万里の長城でも、中国人たちはほんとうに楽しそうだったね。「あっ、同じじゃん」という感触はこのゲリラ的な行動でつかんだ。確かに、ロックの好きな若者はいると高をくくった。今回の北京では、それだけではダメだと感じたけどね。」
(『Views 1992年11月11日号』)


訪中の際、91年アジアリリースの『稲村ジェーン』に続きCBAV(中国广播音像出版社)からリリースされたベスト盤カセット。ラストに(本当は原由子ソロの)「花咲く旅路」のヴォーカルのみ北京語に歌い直した「花开在旅途」が収録されているが、このバージョンは2025年現在日本未発売。この曲は91年に香港で陳慧嫻が「飄雪」としてカバー。92年には日本アミューズの仕切りで「花开在旅途」として蔡国慶が訪日録音しており、おそらくこのサザンの訪中と連動した動きだろう。


***


時を遡って91年、崩壊寸前のソ連で30年近く歴史のあったソノシート付き雑誌『Кругозор』の91年4月号に桑田が登場している。

この時期にしては意図的なのか桑田ソロ扱いの記事(もちろん半分以上はバイオグラフィー的な説明なのでサザンの話ではあるのだが)。ソノシート収録曲は「今でも君を愛してる」「ハートに無礼美人」と渋いチョイス。ソノシートということで33回転片面2曲、両曲途中でフェイドアウトするショート・バージョンでの収録であった。

『Кругозор』はソ連の国営レコード会社 Μелодия(88年にPaul McCartney『Сно́ва в СССР』をリリースしたあのメロディアである)が発行していた音楽雑誌だ。70年代の誌面を見ても西側のポップス、ロックは意外としっかり音源付きで紹介されている。さらには日本のポップスも、ダーク・ダックス、西城秀樹、Yellow Magic Orchestra…など、実はソ連国内でもある程度リアルタイムで紹介記事を読みながら音源を聴くことができていたのがわかる。

誌面では桑田がソ連のバンドКиноのヴォーカリスト、Виктор Цой(Viktor Tsoi / ヴィクトル・ツォイ)と会いギターを進呈したエピソードがメインの話題として書かれている。90年春、アミューズの計らいで来日したЦойはサザンの「夢で逢いまShow」ツアーを見学。アミューズはКиноの日本ツアー、果てはサザンまたは桑田とのジョイント・ワールド・ツアーも想定していたようである。

 三日間だけではあるが、ツオイは一九九〇年四月末から五月上旬にかけて日本を訪問していたのである。名曲「血液型」のリリースを耳にした株式会社アミューズが、ツオイを日本に招待したのである。当時アミューズは、キノーの日本ツアーを企画していたようである。ツオイは、アミューズの手配でサザンオールスターズのコンサートも見学しており、同バンドの桑田佳祐とも対面している。サザンとキノーのワールド(アジア?)ツアーの企画もあったようである。ツオイは桑田佳祐の歌に関して、「現代版の和製シナトラ」という印象を持ったという。
(略)
 一九九〇年五月五日のキノーとしての最後のコンサート映像を見ると、ツオイは漢字で「東京」と書かれた黒色のTシャツを着用している。そしてこの時、彼がその手に握っているギターは、サザンの桑田から贈呈されたヤイリ(ヤマハ)のギターである。「一番」と書かれたTシャツを着ている写真もある。
(石川知仁『誰も知らないロシア 若手外交官が見た隣国の素顔』彩流社、2025)

しかし90年8月、Цойは交通事故で急逝、Киноは解散する。アミューズとの契約が成立していたのか不明だが、Киноの日本や世界規模での活動は実現することはなかった。


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そういえば桑田は、Цойと会っていたと思しき90年前半のインタビューでは、映画「稲村ジェーン」完成後に海外での活動に向けた何らかの動きを考えているという話もしていた。

映画が公開された直後の同年秋、桑田はメキシコ・ジャマイカ・ニューヨークと3カ所にまとめて向かっている。メキシコはCM撮影、ジャマイカは完全オフということまでは雑誌やファンクラブ会報に記されているが、最後のニューヨークでの詳細は当時から今に至るまで明らかにされていない。

翌91年は香港での「真夏の果実」のヒットを受けてか、中国や香港にSuper Chimpanzeeとして出向いている。これは現地のミュージシャンとの共演レコーディングというよりは、Super Chimpanzeeとしてのライブや「真夏の果実」のプロモーションという目的があっただろう。

その直前、91年3月〜4月にかけて行われたファンクラブでのファンミーティングイベント「SAS社会学ミーティング」にて、桑田は海外進出はどうなったのかと質問されている。

 以前何かのインタビューで海外進出をしたいというようなことを言ってらっしゃいましたが、今はどう思ってますか?
「海外進出は夢なんですけど……今までにも、修行的になんか皿洗いやりに行くような感じの海外進出から企業と一緒に進出するみたいなものまで、いっぱいケースはあったけど、正直言ってまだなかなか固まってないっていう感じなんだけどね。SASにはSASのやり方があるんじゃないかって気がしてネ。例えば、ロンドンやニューヨークやL.Aの方ばっかり向いてた視点がね、世界地図が変わっちゃったっていうかネ、アジアとかそういう方向もあるんじゃないか……とかね。それに海外進出って言ってもさ、帰って来ないっていうんじゃなくて絶対帰ってきて日本での活動が主だと思ってるしね。だから日本人に対して変な形で浸透しないような、地道な海外へのアプローチはやっていきたいなと思ってます。あと、向こうのミュージシャンとフランクに交流をとるっていうのは絶対やっていかなくちゃいけないと思ってる。
 でも、まず国内でやりきれてないことについて決着してから、その次にくる問題ではないかなって気がしてますけどネ。」
(『代官山通信 Vol.33 June. 1991』サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)

これまでと比較するとトーンダウンした様子である。もちろんこの時点でSuper Chimpanzeeの中国行きの話は決まっていたのでアジアというワードを出しているのだろうが、これまで何度かのチャレンジはあったにもかかわらず、どうにも弱気になっているような印象を受ける。

92年春に中国行きについて聞かれた際は、アメリカのミュージシャンとの力の差を自虐的に話している。

僕らは、アメリカの情報はすぐに入るし、外車にはすぐに乗れるし、国産のクルマに乗るよりメルセデスやフォードの方が成りきれるっていう人生を送ってるでしょ。僕は乗ってないですけど。洋式便所だし(笑)。でも、アメリカには憧れ続けたけど、どうもヒューイ・ルイスみたいな歌い方はできない(笑)。7000ccクラスの排気量はない(笑)。1800ccくらいだし。
(『スコラ 1992年4月9日号』スコラ、1992)

まずは日本での活動を前提としつつ、策を検討し地道にアプローチしたい…という一歩引いた、堅実な方針に変わったのがこの頃のようだ。


***


92年の『世に万葉の花が咲くなり』録音時、共同プロデューサーの小林武史は桑田にこんな提案をしていたことをのちに明かしている。

小林武史「僕は桑田さんの『孤独の太陽』というアルバムに何曲かキーボードで参加させてもらっているんですが、その前の段階で九四年(引用者注:92年の誤りと思われる)の「世に万葉の花が咲くなり」のレコーディング最中、既にニューヨークやロサンゼルスではないもう一つ別な視点で手に入れたサウンドを押し出そうとしていた。その時僕が言ったのは、八ミリでもいいから三〇分ぐらいのドキュメンタリー映画を作ろうと。またミッチェル・フレーム辺りに桑田さんが出向いてレコーディングするのはどうかとか……。アメリカ文化というものに強烈に影響を受けている人だと思うんですよ、彼は。ニューヨークでもロサンゼルスでもなく、ツイン・ピークスの質感のような音の感触を僕は彼に欲していた。それでもそれがサザンオールスターズのアルバムなんだということを展開したかった。でも今、考えてみると僕の独りよがりだったかもしれない。」
 どうしてですか。
「サザンオールスターズ=青春だと思っている人が多いわけです。それを何も壊すことはないという事かな……。」
 でも、それじゃ桑田佳祐は次の場所にいけないし、成長もしない。
「そうかもしれません。だから僕がそういう地平をミスチルに求めていったという気がする。
それが『es』に繋がるような展開だった……。桑田佳祐さんとのコラボレーションは結局、僕にとっては大きな旅にはならなかったのかもしれない。しかし桑田さんとのコラボレーションは自分の今あるプロデュースワークの原点であり、帰結する場所でもある。いつかまた彼とやれるといいなと思っているんです。何しろ、偉大なヴォーカリストだと思いますから……。
(『Switch 1997年7月号』スイッチ・パブリッシング、1997)

なんと桑田に対し、Mitchell Froomのもとに出向きプロデュースしてもらうのはどうかという提案をしていたのだ。Froomはカリフォルニア出身 、Paul McCartney『Flowers In The Dirt』でElvis Costello楽曲に共同プロデューサーとして名を連ね、80年代末のMcCartney再評価にも関わったプロデューサー・キーボードプレイヤーである。86年のニュージーランドのバンド、Crowded Houseのファーストを手がけたことをきっかけに、様々な作品に関わっていく。ラテンに傾倒していた80年代後半の桑田がよく触れていたLos Lobos「La Bamba」もFroomのプロデュース作だ。

Mitchell Froomと小林と、暗黒を提示しようとしていた当時の桑田で、『世に万葉の花が咲くなり』路線の延長上にあるサザン作品が作られていたら…というのは歴史のifでしかないが、しかしこれはこれで想像するのが楽しくなる仮定である。

小林は自省のコメントのみで桑田の反応については語っていないが、流れから察するにMitchell Froomとの共演アイディアは桑田に断られたのであろう。

これまでも桑田は84年のロサンゼルス、85年の東京、87年のニューヨーク、と海外の名うてのプロデューサー・アレンジャー・ミュージシャンたちとスタジオでのレコーディングを共にしている。しかし、そのうえでこの小林の案にポジティブな反応ができなかったというのは、これまでの現場がどれもなんらかのネガティブな記憶を伴ってしまっていたのではないだろうか。

小林は小林で、この時期自身の外部プロデューサーとしてのピークを感じており、この先どうするべきなのか悩んでいたようである。

小林「僕が『世に万葉の花が咲くなり』というサザン・オールスターズのアルバムを共同プロデュースしている時でした。プロデューサーと言ってもアーティストから見れば外部に位置しているわけですが、僕にとってはサウンドプロデューサーとしてピークを迎え、同時に、この先どういけばいいのか悩んだ時期だったわけです。」
(『Switch 1997年7月号』)

桑田との構想のずれからか、小林は自身の新たな展開、サウンドのみではなく活動のコンセプトからトータルに仕切るプロデューサー…という立ち位置を確立するようになる。91年にプロデュースを担当し始めた新人バンド、Mr. Childrenへの注力だ。こののちのMr. Childrenのドキュメンタリー映画や海外録音など、少なからずこの時期の小林のアイディアがベースになっているのだろう。

それは同時に、桑田にとっても偉大なパートナー小林からの独立を意味する。この数年アレンジ、サウンド・メイキングの大半を担っていた小林と離れたのち、どう音楽製作を行っていくか…という課題が生まれることになる。

後年小林のインタビュアーに「次の場所にいけないし、成長もしない」とまで言われた状況の桑田はこの先どうすることにしたのか。様々な迷いを抱えつつ、93年を迎えることになる。

2025年11月8日土曜日

1992 (1) : 無意識の領域で

91年末、サザンはニューアルバムのレコーディングを進めながら「Coca-Cola Special 闘魂!!ブラディ・ファイト 年越しライブ」を開催。このライブで初披露され、正月のテレビ番組でもスタジオ音源が流されたアルバムセッションからの新曲「君だけに夢をもう一度」は92年1月18日の朝日新聞で3月にシングルリリース予定と告知される。


しかし、3月には特に何も発売されないまま、レコーディングは続行する。


***


92年6月、長年サザンをビクター側から支えてきたinvitationのA&R高垣健が新たなレーベル、Speedstarを始動する。第一弾新譜はChika Boom、Up-Beat、シーナ&ザ・ロケッツ、The Minksの4タイトルであった。

高垣健「スピードスターは、まったくゼロから企画しました。インビテーションでもいろんな経験したし、ARB、松田優作さんをはじめ、いいアーティストとの出会いがいっぱいあったんですけど…インビテーションは77年からやってるから、14、5年いたんですよね。そうするとインビテーションっていうレーベルがね、気が付いたらもうすごく大規模な所帯になってまして、大きな組織、大勢のスタッフ、沢山のアーティストっていう、なんか非常にマンモスなレーベルになってまして。イメージも非常に大きすぎるし、あいまいにもなってきたんですね。それで僕はもともと、色の強いレーベルというか、キャラクターのはっきりとしたレコード会社に対する憧れが昔からあったんですよ。キャプリコーンなんてのはもう最大のシンボルだったり、昔のエレクトラもそうですけど。そういう憧れのイメージをもうずっと引きずってるんで、できればそういうはっきりした、小規模でポリシーの見えやすいレーベルにしたいなという思いがあったんです。」
(『Musicman リレーインタビュー 第11回 高垣 健 氏』https://www.musicman.co.jp/interview/19446

サザンはデビュー以来高垣の属するinvitationからのリリースで、83年以降は専用レーベルTaishitaを設立、そちらからのリリースとなっている。このTaishitaも実際のところ組織的に独立していたわけではなくinvitationの一部、レーベル内レーベル的な立ち位置であった。そしてこのSpeedstarの創立により、Taishitaも所属をSpeedstarへ移行している。とはいってもあくまでビクターの内部的な話であり、この時点で特にサザン作品にSpeedstarの表示は見られない。Speedstarが一レーベルから発売元の「Speedstar Records」となった95年4月以降、Taishita作品にもSpeedstar Recordsがクレジットされるようになる。

Speedstar創立に際して制作されたプロモ盤『We're Speedstar』にはサザンの記載はないが、さりげなくTaishitaの記載がある。

高垣の新レーベル創立前後で現場の制作体制にも変化があったようで、これ以降のサザン・桑田作品において高垣はプロデューサー/ディレクターではなく一歩引いた、エグゼクティブ・プロデューサーとクレジットされるようになる。高垣から跡を継いだA&R〜ディレクターは90年ビクター入社・原由子『Mother』から現場に入った松元直樹。サザン・桑田の現場も世代交代が進んでいくのだった。


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Speedstarがスタートした92年6月はサザンのデビュー記念月でもある。といってもニューアルバムはレコーディングの真っ只中ということでいつものように間に合わず、この年は原以外(原の旧譜は91年5月にリイシュー済)の各メンバーのソロ旧譜CDのリイシューが行われた。大森『真夜中のギター・ボーイ』、松田『Eros』、関口『砂金』が初CD化。Kuwata Band『Nippon No Rock Band』『Rock Concert』、Tabo's Project『Eyes Of A Child』は価格改定とマスター・装丁をリニューアル。さらに新作として桑田のサザン以外の活動のベスト盤、『フロム イエスタデイ』がリリースされている。


シングル・オンリーかつ86年の一年間で活動終了となったことでCD化のタイミングを逃し、アナログレコードの消滅でここまで2年半ほど廃盤となってしまっていたKuwata BandのA面4曲のCD化、というのが目玉であった。


ちなみにこのリイシュー/ベスト盤で嘉門雄三は対象外とされ、限定盤ではなかったカセットの廃盤以降は今日に至るまでカタログから外されたままである。また、このリイシューに乗じて(といってもタイミングを大きく逸した11月だったが…)東芝EMIも廃盤となっていたJEF『Japanese Electric Foundation』を再発している。


***
 

92年7月、満を待してサザンのアルバムセッションから先行シングルがリリースされる。景気良く、2枚同時リリースという企画であった。1枚は「シュラバ★ラ★バンバ Shulaba-La-Bamba / 君だけに夢をもう一度」、もう1枚は「涙のキッス c/w ホリデイ〜スリラー「魔の休日」より」。

2005年の旧譜シングルリイシューの際、「シャ・ラ・ラ/ごめんねチャーリー」と異なり単独A面表記、公式サイトでも「君だけに夢をもう一度」を「c/w曲」と明記したため以降そういうことになっているが、オリジナル盤実物を「涙のキッス」と並べるとこのとおり両A面扱いである。リリース後のテレビ番組でも「ホリデイ」を除く3曲のいずれかが披露されていた。

「君だけに夢をもう一度」はシングルリリース後にタイアップがついたため、92年当時の製造タイミングによってステッカーが三種類存在する。

A面3曲はいずれもファンクやソウルなどをベースとしたサウンドで、アナログシンセ、エレピ中心の音作りである。小林武史のトレードマークのひとつといえる、ポルタメントやベンドを多用するスタイルはこれ以前の小林作品でも断片的に登場してはいたが、特にアルバム中でもその特徴を如実に示している3曲がリード・シングルとして選ばれているのが興味深い。

とはいってもそれは結果論で、シングル選出のきっかけはタイアップにあるようだ。この構成でシングルを切ることになった経緯を、アルバム共同プロデューサーの小林が語っているので引用してみよう。

小林武史「今回、作ってる途中で、このアルバムの魅力は、ある種男っぽかったり骨っぽいところにあるんだろうと思ってた。「涙のキッス」を主題歌にすると言ったときにも、最初にあの曲が出てきたときには、アルバムの中で一曲は甘さが欲しいんだろうと思ったの、ぼくは。骨っぽいところに、変な話、お茶受けじゃないけれど、ちょっと箸休めみたいな。あの曲をシングルにするというのは、スタジオのスタッフは誰も思ってなかったと思うの。「涙のキッス」ってド定番でしょ。それをそのまま持ってくとは思わなかった。ぼくは本当は「慕情」が絶対いいよって言って。すごくシンプルに、ピュアな要素としてドラマの主題歌、エンディングテーマでやったら、絶対にカッコいいと思ったわけ。あまりガッついてなくて。でも敵は、桑田さんはもっと役者が上だった。なんで「涙のキッス」なのかっていったら、賀来千香子さんにはあれだけど、賀来千香子さんだからって(笑)。そのとおりなのよ。賀来千香子主演だから、「俺もたしかに引っかかってたんだよね」って話になって、「俺は「涙のキッス」しかないと思う。心はひとつです」って。「心はひとつです」ってフレーズが出ちゃうときの桑田さんは、もう何を言ってもだめだからさ。「涙のキッス」を主題歌にする条件としても、自分のなかでそのバランスをとるために「シュラバ〜」をもう片方にして同時発売しようと。久しぶりに出ていくサザンとして勢いがあっていいねって。歌う電通博報堂ですからね、あの人は、ほんと(笑)。案の定、「涙のキッス」を持っていったらドラマのプロデューサーが俄然、「目からウロコが落ちました」みたいになって、あのとおりの大ヒットになってしまいましたけど。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

おそらくここに(延期というテイで)「君だけに夢をもう一度」と、もともとシングルのカップリング用に作っていた「ホリデイ」を加えることで、2枚同時リリースの役者が揃った…ということだろう。

これら2枚のシングルの(オリジナル盤での)クレジットは以下のとおり。数名のゲストの記載があるいっぽう、メンバーは名前のみで、担当楽器は記されていない。

編曲 小林武史 & Southern All Stars

Southern All Stars
桑田佳祐、大森隆志、原由子、関口和之、松田弘、野沢秀行

Guests
小林武史 Keyboards
角谷仁宣 Computer Operation

包国 充 Sax

小倉博和 Electric Guitar
美久月千春 Bass

※注:包国は「シュラバ★ラ★バンバ Shulaba-La-Bamba / 君だけに夢をもう一度」のみ、小倉・美久月は「涙のキッス c/w ホリデイ〜スリラー「魔の休日」より」のみにそれぞれ記載


***


さて小林の語った「男っぽかったり骨っぽいところ」が魅力というこのアルバムはどのように制作されたのか。

当初桑田はアルバムのコンセプトについて何をやるべきか迷っていたようで、メンバーだけで「せーの」の一発録りや、50曲入りなど物量で攻めるなどのアイディアを持っていたという(『R&R Newsmaker 1992年10月号』ビクター音楽産業、1992)。物量については録音開始後もある程度念頭にあったようで、92年初頭の桑田(『スコラ 1992年4月9日号』スコラ、1992)、野沢(『FM Station 1992年3月2日号』ダイヤモンド社、1992)のインタビューでは2枚組になるかもしれないという話をしている。最終的にはCD1枚には収まる程度としたようで、16曲入りのボリュームに落ち着いた。

結局、小林武史と桑田を中心に据え、プレイヤーはゲストもサザンのメンバーも並列に扱う…という体制で進めるということになったようである。小林が今回に関しては桑田さんとぼくを中心にしたチームで進めていって、そうしたうえでメンバーを呼んでレコーディングすると語るそのスタイルは、事前にサザン内でもコンセンサスを取ったうえで進められたようだ。

— いやあ、やっぱり、桑田佳祐の中にはサザンオールスターズのクレジットでそういう作品を作るというのは、何がしかのためらいとハードルがあったと思うんですが。
「そうですね。だから、そこが一番悩んだとこだしねえ、最初に。で、まあ小林(武史)くんとやろうっていうことは、もちろん小林くんのブレーンも借りてくるわけだから、ソリッド・ブラスだとかね。やっぱり正直言ってそこまで拡げたかったっていうのもあるしねえ。だから、レコーディングが始まる前に慎重にメンバーだけでミーティングもしたしね。その、まあ『ちょっとエゴイスティックにならせてもらうけど』っていう話なんだけど」
— メンバーの反応はどうでした?
「うん……まあ、こういうこと言うのは恥ずかしいけど、とにかく『気を使わずにやってくれ』ということなんだけど。ある種その桑田・小林のセレクションに任せるから、まあやってくれと。もちろんサザンのメンバーのポジションといったことはこっちできちっとやるからっていうようなことで、まあ(レコーディングに)入ったんですけどね。」
(『ロッキング・オン・ジャパン 1992年10月号』ロッキング・オン、1992)

桑田の作曲も1曲まるまるできた段階ではなく、一部しかメロディが出来上がっていない状態でも小林のところに持っていき、アレンジをしながら作曲を進めていったようである。つまり、小林の提案するアレンジに刺激された桑田が次のパートのメロディを作り出していく…という相互作用で作曲・編曲が進むといった具合だ。この辺は『Keisuke Kuwata』の作業にも通ずるが、より深化した、贅沢な外部アレンジャーの使い方であり、作曲家とアレンジャーの濃密なコラボレーション作であるといえよう。

今井邦彦「「シュラバ★ラ★バンバ SHULABA-LA-BAMBA」は、ちょうど桑田さんが“猫に小判スタジオ”という小さなスタジオを作って、そこで作業をやり始めた頃でしたね。最初はAメロしかなかったんですよ。「これしかできてないんだよね」と8小節だけ弾いて、夜になってBメロができた。そういう感じを日々繰り返してましたね。
(『サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019』リットーミュージック、2019

当時のスタジオの風景ですか?どこか、桑田さんと二人で、“メロディ漫談”やっていたような気もしますね(笑)。ともかくこのアルバムって、メロディの洪水ですよね。もちろん最初は、センターに立つメロディを桑田さんが作る作業から始まるんですが、それを受けて、メロディの応酬というか…。桑田さんが、「まだここまでしか出来てないんだけど…」って、でも、そこまでベースラインとかカウンターラインとかレコーディングしているうちに、何かの空気を呼ぶわけなんですよ。匂いというか、湿度でもいいけど、それにまた、桑田さんが呼応して、「あ、いまの!」みたいな…。その瞬間て、桑田さんと僕の頭は、MIDIでつながってた気がします。二人がこれまで聴いていたものは違うのに、なぜなんだろうって思ったけど、まあ同じ人間なんだから、同じものがベースに流れているような気はしましたよね。
(小林武史「「世に万葉の花が咲くなり」ライナーノーツ」『世に万葉の花が咲くなり/サザンオールスターズ』[VICL-60222/初回盤] ビクターエンターテインメント、1998)

こういったスタイルが前提になったアルバムというのはこの『世に万葉の花が咲くなり』のみではないだろうか。そういったあたりも本作のユニークな出来に影響しているといっていいのかもしれない。

キーボードプレイヤーが隣にいながらも、今回はそれまでと異なり基本ギターで作曲するという縛りを設けたようだ。この辺も「男っぽかったり骨っぽいところ」に影響していそうだ。


小林君はすごく悩んでくれたと思うんだけど、私なんかはそのなかでギター一本で曲を作るっていうことに戻っていった。全部ギターで作った。ギターで曲作るのには限界があるのかなって思った時期もあったんだけど、ギター一本で作った曲の、ライヴでの食いつきのよさっていうのがすごくあって。キーボードって総合楽器みたいだから、ワンタンの皮を何枚も合わせていって厚みを見せるって感じになっちゃうときがある。それは実に拠り所がなかったりする。「いつか何処かで」って曲なんかも、すごくよくできてるんだけど、やっぱり微妙なものを加え込まないとあの雰囲気は出ない。ギターでジョキーンと作るっていうことを、まず念頭に置いてましたね。そういう小林君のやり方と、俺たちのやり方が、すごくミックスされたんだろうね。もちろん小林君の理解力がすごく必要なんだけど。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

さらにはベーシックの作業は自宅で実施…というのも時間がかかるレコーディングになった原因のひとつだろう。

田家秀樹「すごさに圧倒されたアルバムでしたね。1曲目の「BOON BOON BOON 〜 OUR LOVE [MEDLEY]」も、すごいですよね。」
今井「素晴らしい曲ですよね。この曲は紆余曲折あって、終わりが見えないレコーディングでしたね。 昼過ぎからレコーディングをして、「今日はこれくらいにしようか」って、色んな話をしながら片付けていると、桑田さんが「さっきのやつ、もう1回聴いちゃだめ?」って言って聴き始めるんですよ。そうしたら、そのまま作業が始まって、「うわー、また始まっちゃったよ」って(笑)。深夜の2時か3時くらいからですよ…。」
田家「終わらないですねー。」
今井「終わらないですね。毎日、明るくなってから家に帰っていましたから。」
FM COCOLO『J-POP レジェンドフォーラム』7月はサザンオールスターズを特集!3代目エンジニア今井邦彦をゲストに迎えた番組トークvol.3を公開


***


アルバムブックレットのゲストミュージシャンの欄には、全曲に関わったということであろう2名が大きくクレジットされている。

小林武史/Keyboards, Rhythm Programing, Synth Bass, Sampling Instruments, Guitars
角谷仁宣/Computer & Synthesizer Operation

さらにゲストごとに参加曲が明記されている。人選はもちろん小林プロデューサーによるところが大きいだろう。

ベースは不在の関口の代打として、Acoustic Revolutionでベーシストとしても紹介されたシンセベーシストの小林が担当。エレキベースのニュアンスが必要と判断された2曲は根岸孝旨、美久月千春がそれぞれ弾いている。

そして遂にギターも外部のミュージシャンを複数起用。『Southern All Stars』収録「愛は花のように」では諸事情により、あくまでガットギターという条件つきで小倉博和がクレジットされていたが、今回はガットギターに限らずエレキ・アコギとも正面切って外部ギタリストを迎えている。Super Chimpanzeeの小倉(4曲)、佐橋佳幸(3曲)に加え『Keisuke Kuwata』にも参加の長田進(1曲)が参加。クレジットのない曲は桑田や大森によるもののようだ。

ブラス隊は従来の新田一郎セクションから一新、前年結成の村田陽一Solid Brassの面々が登場。村田陽一、山本拓夫、荒木敏男の3名を軸に、「ブリブリボーダーライン」ではエリック宮城、菅坡雅彦、竹野昌邦、佐藤潔も集結。2曲のブラスアレンジは村田や山本が担当。従来のスペクトラム系は包国充のみが参加している。山本はここから長きにわたり、桑田・サザンのブラスアレンジ担当として関わっていくことになる。

ドラムはサンプリングやマシンが半数以上、松田によるドラムをフィーチャーした曲は聴く限りはほぼ中盤にまとまって配置されていると思われる。

林憲一「実はサザンでは、角谷君が早くからハードディスク・レコーディングを取り入れてましたね。92〜93年頃、サンプラー的に第一弾が投入されて。当時、オーディオ・メディアとかサンプルセルというのがあって、それをほぼサンプラーとして使ってました。たとえば、ドラム・トラックをReCycle!というソフトにかけると音の波形が見えるので、ぶった切ってパターンを入れ替えたりしていた。ドンパンドンパンがドンドンパンパンドンドンパンパンになるんです。今日のようなクオリティではなかったけど、当時がかなり画期的でしたね。
(『サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019

Samplecell、Audiomediaというと現在はProTools(これも91年発売)でおなじみDigidesign(現Avid Technology)が91年に発売したMac用サンプラー、ハードディスクレコーディング用ボードである。ハードディスクでの音源編集が可能になったことで、ブレイクビーツやサンプリングといったポストモダンなレコーディング手法がサザンの現場でも取り入れられていく。本作以降、そういった要素が効果的に登場するのは小林武史のみならず、Mac使いの角谷仁宣によるところが大きいとみていいだろう。冒頭2曲はブレイクビーツを流しつつ、並行して数種のサンプリングのスネア・キックで組み立てたドラムを鳴らしている。こういったテクノロジーも貪欲に取り入れる桑田の一面が垣間見れよう。

キーボードはアレンジャー・プロデューサーである小林の独壇場というところだろう。先に述べた先行シングルを中心とした古き良きアナログシンセやエレピはこれ以前の小林作品でも断片的に登場してはいたが、本作以降もグロッケンと共に小林のトレードマーク的に使われていく。これはこのアルバムの手応えを感じてのことであろう。

3月リリース前提でテレビ等でレコーディング音源が披露されていた「君だけに夢をもう一度」。当時の音源を聴くとドラム・シンベ・パーカッション・ワウギター、さらに弦などの上物シンセはリリース版と同じだが、オルガンや大森と思われる左チャンネルのギターはまだ入っておらず、なによりメインのキーボードがエレピではなくFMシンセが使われている。フレーズがリリース版より大味なのもあり、ここで大きく印象が異なっている。
「で、最後に微調整で手間がかかった。エレピの音色とかね。古くしようか新しくしようかっていうことでずいぶん違う。選択肢がたくさんあって。この曲をシングルにしようと思ってたんだけど、結局そういう悩みがいっぱいあって、久しぶりのシングルだし、'92年のお目見えだから「これじゃあ弱いよね」ということになって取りやめた。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
おそらく一旦発売中止にしたレコーディング中盤、ひと昔前の鍵盤類を多用する方向に傾いていったのではないだろうか。クラシックな楽器・機材を正面切って使う、というスタンスもこののちの90年代のポップスを象徴するものである。

なお、シングルでは名前のみだったサザンのメンバーのクレジットは以下のとおり。

SOUTHERN ALL STARS
桑田佳祐/Vocals, Guitars
大森隆志/Guitars
原由子/Keyboards, Vocals
関口和之/Bass
松田弘/Drums
野沢秀行/Percussions

本作の特徴としてもうひとつ、メンバーのコーラスのクレジットが無くなり男声コーラスは完全に桑田のワンマンになったことも挙げられる。原のコーラスも聴く限り「涙のキッス」「ブリブリボーダーライン」「ホリデイ」の3曲でしか聴こえず、そういった点もストイックな印象を与えている(因果が逆で、ストイックな曲が多いがゆえに原のコーラスが不要と判断された、ということかもしれない)。

アルバムのプロデュース・録音・アレンジのクレジットは以下のとおり。98年以降の再発盤では消えてしまったが、オリジナル盤では裏ジャケットにも曲目に並び最後にプロデューサーが明記されている。

PRODUCED by SOUTHERN ALL STARS & 小林武史
Co-PRODUCED, ENGINEERED & MIXED by 今井邦彦

ALL SONGS ARRANGED by 小林武史 & SOUTHERN ALL STARS

オリジナル盤CDのマスタリングは音響ハウスのベテラン、中里正男が担当。なお、『kamakura』から参加、『Nippon No Rock Band』からメインエンジニアを務める今井邦彦だが、この年ビクターを退職。フリーランスのエンジニアとなり、小林武史の烏龍舎にマネジメントを委託、これ以降の小林作品にさらに深く関わっていくことになる。


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本作では歌詞についてもこれまで以上に丁寧に、テーマを定めて書かれたものが多い。意図的に日本語を使い、大方フィクションの様々な物語が展開されている。曲調にもよるが、日本語としてきちんと理解できる発音で歌っている曲が多いのも過去の桑田からすると隔世の感がある。

「今回、詞に関して、洋楽のフォルムじゃない日本語の力というものが一番分かりましたね。最終的な色付けだから、骨組は出来た、壁も張られた、あと何色を塗るか?っていう部分で、詞を作って歌うことの演出効果っていうのは、凄いものがありますよね。さっき、暗黒って言ったけど、キング・クリムゾンとか聴いたんだよね。でさ、デヴィッド・ボウイにしろ、昔の良いものは今日的だなって思ったのね。
(略)
言葉選びのコツとか距離感とかって面白いなと今回思いましたね。その辺のバランス感覚は頑張ったつもりなんですけどね」
「幾ら洋楽のフォルムに近づいても、もう仕様が無いんだっていうのがまずあって、歌詞っていうのは、サウンドでもあったけど読み物でもあるんだってところにトライしたかな。」
(『R&R Newsmaker 1992年10月号』)

英語については『Southern All Stars』に続きTommy Snyderにサポートを依頼している。このあたりも意味や文法的な面を重視し、慎重に作詞をしようという桑田の意識の表れだろう。ドゥーワップ風味のアカペラ曲は英詞のニュアンスしか考えられないということでTommy Snyderの単独作、他も5曲については英詞部分のアシストとしてTommyのクレジットがある。


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また、ジャケットもそれまでの傾向からすると珍しい、Jackson Pollockに代表されるドリップ・ペインティングをフィーチャー。アートディレクション、デザインにクレジットされている野本卓司はソロ作や大竹伸朗のノイズ・ユニットJukeにも参加するなど音楽活動も行いつつ、広告や音楽作品のアートワーク(一風堂、尾崎豊、ユニコーンなど)を担当するデザイナーである。

さらに、タイトル文字は桑田本人による脅迫文風の新聞・雑誌の見出しコラージュを使用。トータルで暗く尖ろうという桑田の当時の意欲が伝わる装丁で、新機軸であった。

ステッカーは当初店頭に並んだ分にはついていなかった気がするが、筆者の記憶違いだろうか。


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ピッチを落としたダウナーなブレイクビーツとトリップ・ホップの幕開けのような小林のシンベで始まる「Boon Boon Boon」でアルバムはスタートする。順に左から小林のピアノ、右にクレジットから長田進と思われるギター、センターに村田陽一Solid Brassの面々によるブラス、そして桑田のシャウト「Ahhh, Let’s twist!」が炸裂…の流れがこれまでにないサザンのアルバムであることを告げる。最初の「C'mon, pretty baby」からサンプリングのスネアとキックのビートに変わり、その後ブレイクビーツと共存。左右で華麗にギターとピアノのソロが展開される間奏明けからはブリティッシュでハードな雰囲気の重いスネア/キックに切り替わる。最後はブレイクビーツとシンベ、ピアノと桑田のファルセットの小品「Our Love」が添えられている。桑田のMcCartney的メドレー・小品志向と小林のプログレ志向の合致がこのパートを生んだのだろうか。冒頭から目まぐるしい展開の一曲だ。

桑田は当初、ツイストをやりたかったそうだが、小林武史とのギャップで思わぬ方向に向かっていたようである。
「アナログはやっぱり俺が求めてた音だっていまさら思ったんだけど、そのよさのなかでオールドものをね、ちょっとヴィンテージな音楽をやってみようかという発想があって、曲を作った。それでコバやん(小林武史)に言ったら「俺、ツイスト知らない」って言うからさ、「な、なにぃ、知らない!?」って(笑)。」
(略)
「で、コバやんがリズムを倍のノリにして「こういうのでいけないかなあ」って言うから、俺は「冗談じゃないよ。ツイストなんだから」って。「でも一応今日はこの感じで試していいかな」「いいけど、俺は嫌だな」って。喧嘩はしなかったけど、コバやんがやってみた。ただ、これが聴いてみたら、よかったんですよ(笑)。そこから曲がどんどん化けていった。
(略)
「私のものじゃなくて、小林君のものに変化してったと言う流れを持っている曲ですね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

Guitar Man's Rag(君に捧げるギター)」は、再びダウナーなブレイクビーツを終始流しながらブルージーなスワンプ・ロックが展開されるという2曲目にしてストレンジな楽曲である。揺れない・ハネないビートの中、ブレイク部分で鳴るファンキーな音色のスネア・キックが心地よい。ベースは小林のシンベ、左のキーボードや特徴的なシンセのストリングスは小林、右はクレジットから原由子『Mother』で縦横無尽の活躍を聴かせた佐橋佳幸によるギター…と思われる。冒頭から酔いどれているアコギのスライドはおそらく桑田だろう。
「たとえばレオン・ラッセルの『カーニー』。ちょっと泥くさいあの感じって、私らの世代のアメリカ志向として、ありましたから。こういうのも、たまにはいいじゃないかって。」
(『FM Station 1992年10月2日号』ダイヤモンド社、1992)
「今のロックって、大変ですよね。昔はロックっていうのは新しいものだった。(略)だけど'90年代っていうか、僕らもそうだけど、いまの人は昔も知らなきゃだめでしょう?そのへんのサジ加減をうまくとらなきゃいけない。昔も目指してなきゃいけないところがある。」
「だからすごくソリッドなハイファイなものに向かわないように、だけどただ古のものにならないように、そのへんのヤジロベエみたいなバランスがあった。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

イントロから小林のモノシンセがリードする70sフォークロック風な「せつない胸に風が吹いてた」。ようやく普通の8ビートのドラムの登場であるが、音を聴く限りは松田のプレイではなくマシンによるもののようである。小林の八分を刻むシンベが心地よい。ギターはクレジットから察するに右のアコギ、左のエレキ両方佐橋か。スライドはこの曲も桑田と思われる。小林・桑田のポップサイドのトレードマーク、グロッケンもようやく登場。小林のアレンジか、桑田の多重コーラスも印象深い。歌詞は珍しく、桑田本人の実体験を元に書かれているようだ。
「またバランスの話になっちゃうけど、いまビーチボーイズを聴いてみて、1966年とかそういうアドレスが出てくるかっていうと、違うんじゃないかと思う。いわゆる新しい出会いをそこに発見するんだよね。未来と過去が現在の時点でこんなに混濁しちゃってるみたいな、微妙なバランスの取り方ばっかりしてたんだ、今回は。(略)
 いわゆるヴィンテージものを、ある場所にスッと置いてみせるスマートさ。それは新しいからね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

先行シングル曲のひとつ、「シュラバ★ラ★バンバ Shulaba-La-Bamba」はリズムに耳をやると四つ打ちのキックにハウス風に刻むスネアとキーボードが乗り、途中ビートがNJS風に揺れる部分などもある。あるのだが、小林と思しきシンベにとどまらないアナログシンセやハモンドなどの盛り合わせ、シンベとオクターブユニゾンのフレーズを奏でる左のギター、さらに右のカッティングのギター(このあたりは大森だろう)など70年代Pファンク的な要素、そして派手で暑苦しい桑田のヴォーカルと全体のアナクロな音色・音像処理で、単なるコンテンポラリーなハウスには落とし込まないあたり、やはり本作のコンセプト下にあるといえるだろう。
「サザンがいて、ヒップホップっていう音楽があって、いまの時代があって、この三者が出そろうとカッコいいかっていうと、それほどカッコよくないと思う。やり方ひとつによってはmi-keになっちゃう。そうじゃないためにはどれかをズラさないと。どっかで落とし前をつけるっていうコンセプトで。
 デモテープでははじめ俺がギター弾いてた。音はもうジュワジュワいってるし、俺のギターの下手さとからまって、昔のレコード聴いてるみたいだった。なんか'70年代でもいいよねっていうか……本当に胃袋でかいじゃないですか、'90年代っていうのは。とんねるずもディスコやってるし。それこそアフロヘアにパンタロンにハイヒールも有りじゃない。それなんですよね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
とはいいつつ終盤、演奏がブレイクし英詞のラップパートが入るなど色気を見せる展開はさすがである。アルバム用にはリミックスされたバージョンを収録。シングルよりタイトな音像に仕上げているが、ヴォーカルはシングルより派手目である。

小林と思しきピアノ2台とマシンのリズム、生のストリングス…などをフィーチャーして奏でられるバラード「慕情」。この曲のストリングスアレンジは小林ではなく、ひとり多重でヴァイオリンを弾いている桑野聖がクレジットされている。「水に投げた」からはセンターでシンセのパッドが鳴っているが、「何故に人は」直前からステレオで入る弦が桑野によるもののようだ。おなじく中盤から入るシンセのオーボエなど良い味を出している。桑田の、前曲から打って変わっての繊細な独唱はこれまた隙がない出来だ。たくさん音が入っているが締まって聴こえるという、小林の特徴のひとつが良く出た一曲である。
「今回のレコーディングでは、小林武史クンが色々と音を考えてくれたんですけど、この曲はピアノが2台、ジョン・レノンでいうと『オー・マイ・ラヴ』みたいな感じで入ってます。そうすることによって生まれる音のブレンド加減というか、派手な作業じゃないけど、そういうトライはたくさんしました。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)
この曲については、小林(ドラマのタイアップに推薦したようであるし)や小倉の受けも良かったようである。
「パートナーの小林君も、レコーディングに来てくれたギターの小倉君も「これ良いよ」って言ってくれたから、猿は木に登りますよ。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

Bob Dylan風のアプローチは桑田史上では初(Kuwata Bandでハードなカバーはあったが)となる「ニッポンのヒール」。マシンのビートに小林のシンベ、ハモンドと暴れる八木のぶおのハーモニカが聴きもの。ギターは小倉博和がようやく登場。センターのアコギは桑田だろうか。Dylanに至った経緯はSuper Chimpanzeeよろしく猫に小判スタジオで酒が入りながらの作業の産物のようだ。
「本当はモット・ザ・フープルみたいなのをやりたかったんだけど、作業は夜中に行うから酒が入る。酔っ払ってウチの地下のスタジオかなんかに居ると、何をやってもウケるから、だんだんこんなことになっていった。シャレです、シャレ(笑)。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)
「この曲こそギターで作ってる感じするでしょ。ピアノで作るバカいない。この曲ができて、小倉くんが来て弾いた。いつもレコーディングの一日目は簡単なコード譜書いて酒飲み会になっちゃう。そうすると物真似とかが出てくるわけだ。で、酒飲んでるから、つまんない芸でもウケるウケる。ビリー・ジョエルとか言って(笑)。その音楽ギャグが波状攻撃を生んで、ボブ・ディランにいたったんです。」
このDylan風歌唱とサウンドに社会ネタの歌詞を乗せるというスタイル、90年代の桑田の持ちネタのひとつとなる。重要なきっかけとなる曲であった。
「体制に歯向かってるパーソナリティはいまいないじゃん、僕らも含めて。(略)なんか、世の中もう、諸悪納得ずく、病気とお友達。別に社会に対して風刺してるっていうのでもなくて、ただその病気のスケッチ、世の中の病気のカルテぐらい、たとえサザンでも書けるっていうのが、やっぱりいまの時代っぽい。今回は詞を作ってても題材はいっぱいあった。サザンもそういう歌をうたうみたいな時代なんじゃないのかしらねぇ。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

本アルバムで最初にレコーディングされた、原由子ヴォーカルコーナー「ポカンポカンと雨が降る」。小林が語ったようにいつもの、「もうわかってる」桑田佳祐ラテン歌謡であり、ゆえにその世界観はキープはしつつも極力アレンジで新味を出す方向で動いたようだ。小倉博和がギターとしてクレジットされており、ガットギターはもちろんエレキギターも弾いていそうだが、原由子2010年のベスト盤『ハラッド』のクレジットによると小林もエレキギターを弾いているとのこと。この辺の自由な雰囲気は「毛ガニのシングル」として制作していた名残か。ひょっとしたら、間奏の切り刻んだ音源で再構築している演歌のようなメロディのギターソロあたりに小林のプレイも含まれているのかもしれない。
「ラテン歌謡。私でもサザンのメンバーでも原由子でも、この世界との関わり合いは消せないんですよ。人生の中でここから受けた恩恵は消せない。そういう年代だから。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
この曲のみ、打ち込みのアシストとして松本賢もクレジットされている。松本はこの頃から小林武史ワークスに参加し始め、Mr. Childrenや渡辺美里の作品のプログラミングを担当するようになる。

セッション2曲目「Hair」、この曲の制作がおそらくアルバムの攻めの姿勢のきっかけとなったのではないだろうか。David Bowie風に8分の6拍子のアコギと歌から始まり、ナロウな音質のドラム、野太いベース、ブラスなどが加わり盛り上がっていく。間奏では多くが8分の6拍子のままだが、打ち込みに変わったキックは2拍3連を刻むというポリリズムを展開。山本拓夫の歌うフルートに逆回転の金物などを散らし幻想的な景色が広がっていく。プログレ好きの小林武史ならではのセンスが炸裂する、本作でも白眉の一曲である。最後でまた歌とアコギだけになるのも心憎い。アコギは桑田、ベースは小林のシンベではなく根岸孝旨によるもので、タメのあるドラムは松田だろう。左のギターはゲストのクレジットがないので桑田か。村田陽一Solid Brassからの3名による重厚なブラスが曲をよりグルーヴィーなものにしている。ストリングスは桑野聖と庭田薫。
「あっという間にできた。ドラムも、狭い“猫に小判スタジオ”に無理やり押し込んで。だから低い豊かな音っていうのは全然出てなくて、バシバシしてるんだけど。生ギターも俺が一回しか弾いてないのね。デモテープ用に録った音なの。それが生きちゃってる。自宅のスタジオの恩恵っていうんですか?
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
攻めた歌詞はKing CrimsonのPete Sinfieldを意識したものだという。
今聞いても全然古くないし。ああいった詞って、英語なのに日本語に訳されるのを待っているのかのように思えた。だからボクは、ピート・シンフィールドの詞を訳すとしたらどうなるか、なんて気持ちになってやってみた。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)

先行シングル曲のひとつ「君だけに夢をもう一度」はセッション4曲目の曲だそうだ。イントロひとつとっても職人小林の独壇場ともいうべき世界が展開される、アレンジャー・小林武史の手腕が光るメロウなナンバーである。フィラデルフィア・ソウルに影響を受けた歌謡曲〜ニューミュージックの世界を意識したようだ。
「それから小林君がストリングスを入れたんだけど、それを聴いて本当に私は泣いたね。あまりにも嬉しくて。情けなくて泣いたんじゃないですよ(笑)。これはある種、筒美京平さん、フィラデルフィアもの。その振り幅を持っている小林武史っていう男はすごいなと思ったの。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
こちらもアナログシンセにセンターのエレピ、ハモンド、右のクラヴィネットなど小林の多種キーボード類や左の大森と思しきギターなどで、古き好きなフィリーサウンドを展開している。そのいっぽう、ストリングスはいかにも生っぽくないのがユニークだ。ソフトな音色のシンセブラスもこれまで原由子ソロなどでも聴けた、小林印の音である。包国もサックスでクレジットされているが、終盤で登場するフレーズの箇所だろうか。ドラムは松田によるもので、小林と松田でリズムパターンを構築していったという。
「リズムパターンの作り方は、小林くんと松田弘のコンビネーションにある
 最初はこういうリズムになるなんて、俺は想像してなかった。だけどリズムができてみたら、すごくハマった。そのことが弘と小林君の間でなされたんだけど、そこに行き着いたのがすごく嬉しかった、私は。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
歌謡、ニューミュージックの世界を意識してか、桑田のヴォーカルも完全に「入りきった」歌い方である。この歌唱は80年代では聴けなかったスタイルだろう。

「Ding Dong ディン ドン(僕だけのアイドル)」は熱いドラムとシンベのビートから始まるブリティッシュロックGS歌謡的な雰囲気の一曲。オルガン、クレジットから佐橋のギター(間奏の逆回転ギターも?)、包国のサックス、と熱い演奏で固めている。
「ロリコンの歌。それとGSですね。GSって、おかしかったでしょ?「スワンの涙」(オックスの68年のヒット曲)って曲は、宝塚なのかロリコンなのかマザコンなのかわからない世界だった。あとGSって、ヤードバーズとだとかキンクスだとか、ああいったブリティッシュロックの伝統を持ってたわけで、ボクらはそれをGSを通して聴いた。そんな洗礼を受けた。そういった、GSとブリティッシュロックの固まりを表現してみた。
(『FM Station 1992年10月2日号』)
「やっぱり歌謡曲とブリティッシュ・ロックの二股かけてるっていう存在感だからね、GSは。それにすごく支えられてるよっていう、私の人生の証。どこかやっぱり日本の古い芸能界の体質と、ブリティッシュ・ロックの様式美。ブリティッシュ・インヴェンションみたいな、そういうちょっと誇り高き前向きな姿勢みたいなもんだね。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

先行シングル曲「涙のキッス」はスウィート・ソウル的な発想から生まれた曲ということだ。
「この曲はそもそもはソフト・ソウルっていうか、ピーチュース&ハーブとか、ああいったクロっぽいアプローチから入ってはいるんだけど、ドラマとかいろいろな付加価値がついてくるうちに、それだけの印象ではなくなってきました。
(『FM Station 1992年10月2日号』)
イントロから登場し間奏を支配、そのまま最後まで踊る小林のポルタメントがかったモノシンセがなんといっても印象的である。終始控えめに鳴っているソリーナも欠かせない存在感があるといえよう。またイントロで登場する小林印のシンセブラスはあまり黒っぽい要素ではないがこちらも心地よい。ギターは前述のとおり小倉がクレジットされている。左のエレキ、トレモロを利かせているあたりはやはりスローで甘いソウルを意識しているのだろう。こちらも小倉か右のボトムを支えるエレキ、さらにはステレオで入っている複数のアコギで厚みを出している(これも音の壁系で黒っぽいのとはズレるが)が、このあたりは桑田・大森も入っていそうである。ベースは最終的に手弾きのベースが欲しいとなったのか、小林のシンベではなく、幻のKuwata Band初期メンバー・美久月千春のプレイを聴くことができる。

「今すぐ逢って」「なぜに黙って」など促音を効果的に使ったチャーミングな譜割とそれに合わせた歌詞も、ソウル的な感覚を意識したということである。
(引用者注:歌詞はどのように思いついたのかという問いに)
「いや、詞から先に作ってないからね俺。(略)
ソウルミュージックみたいなものが僕の中にあって、「今すぐ逢っ」ってこの辺のなんかこうちょっとハネて切る感じ?僕なりのブルーアイドソウルみたいな。(略)
あれですよ、Smoky Robinson。Smoky Robinsonみたいなものに向かってたんでしょうね。Smoky Robinson作ろうと思ったわけじゃないんですけど、なんかギターを持ってて、作った時のことよく覚えてますけど。そうだ、ソウルだ、みたいなね。(略)
ちょっと蝶ネクタイしたこう、ニュージャージーのなんか、Frankie Valliみたいな。達郎さんに言ったら怒られちゃいそうですけど。」
(「Fm Festival 2023 サザンオールスターズ デビュー45周年!「サザンとわたし」スペシャル」Tokyo FM、2023.11.3.
そう言われてみると「振られたつもりで」のあたりのしゃくり上げるメロディは山下達郎やFrankie Valliに接近しているような印象もある。とにもかくにも制作中は甘く、黒過ぎないソウル・ミュージックを意図していたのだ。

ブリブリボーダーライン」は村田陽一Solid Brassの面々を集結させ大きくフィーチャーしたブラス・ロック。ブラスアレンジも村田自ら担当した賑やかな一曲だ。1・4拍目にスネア、キックは裏打ち…とトリッキーなマシンのドラムパターンだが、これは桑田と角谷で考えたものだという。
— この曲はもともとは打ち込みだった?
松田弘「そうですね。打ち込みで。桑田くんとカワチョー(※引用者注:角谷仁宣)が考えたビートだと思うのね。あの普通の8ビートじゃなく、頭にスネアのアクセントがある。」
(『会場が一体化!!「ブリブリボーダーライン」&「YOU」ドラム解説【松田弘のサザンビート #14】』サザンオールスターズ official YouTube channel、2022 https://www.youtube.com/watch?v=j_NMFEZ2AZY
そんなドラムに合わせた小林のシンベがまた心憎い動きだ。間奏では唐突にサーフィンネタや、YMOの事例を踏まえて圧がかからない程度にもじった西部劇ネタ(わざわざ馬の声!)など楽しい引用が入っている。

セッションの一番最後に着手された、長尺7分超の「亀が泳ぐ街」。ブルース歌謡とでも言えばよいのか、本作でもひときわアク、癖の強い曲である。ブラスアレンジは山本拓夫。三者のブラス隊から桑田のギターソロ、さらに山本のバリトンサックスソロから再びブラス隊でキメて歌に戻るスリリングな間奏は極上だ。曲を通して軸となる小林のシンベ、そしてハモンドも欠かせない役割を果たしている。そして素晴らしい桑田のヴォーカル。直接下敷きにしたわけではないだろうが、早川義夫らのジャックスの持つ暗さを、今回桑田が指向する暗黒さとを重ねたようである。歌詞も含めて桑田にしては珍しいパターンで、月刊漫画ガロ的なイメージがしなくもない雰囲気だ。
「あと、ジャックスをやりたかった、というのもあるんですよ。それと12小節のブルースが持つ不条理。いいたいこと2ついったら、すぐ結論をいわないといけない。あの不条理な長さ。ベースのフレーズを考えて、最初に口から出てきた言葉が“亀が泳ぐ街”だったんです。言葉遊びというか、芸者遊びに近い。言葉を、続けてなんでもいいからいいっ放しにしてつなげていく、みたいな世界。芸者遊びはしたことないけど、そんな作り方で、7分以上の曲を作ってみたかったんです。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)
「心はフォーク、売れないフォークなんじゃないかな。これほど洋楽に忠誠を誓ってない曲はないよね、サザンのなかで。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
とか言いながら桑田のギターソロはE.C. Was Hereしているところにニヤリとさせられる。

シングルのカップリングとして先行リリースされている「ホリデイ〜スリラー「魔の休日」より」は小林のシンセと角谷のマシンが目立つエレポップな一曲。左右のギターは大森だろうか。打ち込みのトラックに「逮捕する」と言わんばかりのサックス、さらにトランペットがはまっているのがストレンジだが妙に心地良い。
「シングルのB面ように最初は書いたんですけど、なかなか難しかったねぇ。最初はジョー・ジャクソンみたいな感じでやってたんですけど、アレンジの小林クンが納得いかない、というんです。その後、フレンチテクノ寄りになっていきました。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)
ということでこの可愛らしいアレンジはJoe Jackson的ニューウェーブな世界を(小林のアイディアで)Mikadoあたりの要素で装飾してみた…という感じであろうか。

アルバムのクロージングに向けて配置された桑田のワンマンアカペラ第二弾「If I Ever Hear You Knocking On My Door」。「忘れられたBig Wave」ではBeach Boysを意識した楽曲だったが、今回はドゥーワップ的な雰囲気で『Big Wave』から『On The Street Corner』に寄せたというところか(といってもファルセットのみBB5っぽくしているあたりのフットワークの軽さが桑田らしい)。相変わらずパートによってはサンプリングした桑田の声を使用しているようだ。
「達郎さんみたいにひとつひとつ自分の声を重ねてくことができればいいんですけど、僕にはできないので。実はこれ、コンピュータでやってる部分もあるし。コーラス重ねてる部分は。
(『ワッツイン 1992年10月号』ソニー・マガジンズ、1992

アカペラの前曲と鐘の音でクロスフェイドされ始まる「Christmas Time Forever」でアルバムは幕を閉じる。クリスマスといっても体温は決して高くない、どこか影のある抑えたサウンドに、湾岸戦争やバブル崩壊直後の不穏でペシミスティックな雰囲気を反映した歌詞が載せられている。素敵な過去への郷愁と、いま終末・乱世を生きる人々に対する小さな祈り…といったシリアスな内容だ。小倉のクレジットがあるので左やセンターのエレキギター、右のアコギも小倉だろうか。シンベ、オルガン、グロッケンの重ね方などはいかにもポップサイドの小林らしいサウンドだ。
「なんか流行の風潮かもしれないけど、オゾン層に穴があいてるとか、気候の問題だけじゃなくて、悪いヤツはいるし、政治だおまわりだ宗教だ、胡散臭いのがいっぱいいる。だけど糾弾する術はないし、僕らを含めて棒っきれ振らないし。でもなんかこのままじゃ終わらないはずだよね、っていうことなんだけど。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
「世の中、不景気になるとスケベがはやるとか、そんな分析はありますけど、音楽をやる以前のボクらの気分というのが、いまは決して明るいものじゃない。なんか“病気とおつき合いしてるっていうか”。
(略)これからきっと、とおりいっぺんのラブソングとか、リアルじゃない時代が来ると思うし、そんなことの予告を含めました。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)


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アルバム完成後の取材において、渋谷陽一は桑田に対しこんな指摘をしている。

— じゃあ、例えばこの『世に万葉の花が咲くなり』をサザンオールスターズというクレジットではなくて、桑田佳祐で出すとしたらこういうアルバムになったと思います?
「いやあ、なんないじゃないかなあ」
— なんないと思うんですよ。
「うん、それは違うでしょうね」
(略)
— だから、サザンオールスターズという名前、ひとつのイメージに対してやっぱり桑田佳祐も従っていると思うんだ。
「はい」
— 桑田佳祐という名前だと自分が出ちゃうけれども、サザンオールスターズという名前だとサザンというバンドの—それは実態としてどういうものなのかはよくわからないけれども。いろいろな要素があるんだろうけども—その一部になり得ると思うんだ、桑田佳祐が。
「うん、そうですね。だから、バンドだと野蛮になったり意外と臭いことが言えたりね。ひとりだと責任を追わなくちゃいけないからねえ」
(『ロッキング・オン・ジャパン 1992年10月号』)

面白いことに、能地祐子も『ワッツイン』誌のアルバムレビューで同じような指摘をしている。つまり、桑田には「サザン」の名の下でないとできない芸風があるということだ。

このサザンらしさ。なんなのだろう?『稲村ジェーン』サントラ盤は、ソロともバンドともつかない雰囲気が漂っていたけれど。サザンのオリジナル・アルバムとしては10作目にあたるという本作、ひさびさにグッと“サザンだぞ”という手応えを感じさせてくれる。うれしい。アレンジは今回もほぼ、桑田&小林武史の黄金コンビ。バンド名義であっても、サウンド面ではこの2人の密室作業によって作りあげられた部分がほとんどだろう。それでもサザン、なんである。
(略)
特に“サザンらしさ”や“バンドらしさ”を打ち出すわけでもない。けれど、サザンオールスターズという名のもとで作品を作ることによって。後ろに気心知れまくった仲間たちがいることによって。桑田佳祐は“サザンの桑田佳祐”に戻る。純情な恋心をちょっと気取った言葉で歌ってみたり、ひたすらニギニギ強いお祭り気分を炸裂させたり、スケべーな妄想を繰り広げたり。この自由奔放な散らかりよう、ソロ・プロジェクトとは決定的に違う点だ。気持ちいい。サザンオールスターズは、私たち日本人の財産です。
(能地祐子「Brand New 100」『ワッツイン 1992年10月号』)

おなじみミュージックマガジンではアルバム・ピックアップは篠崎弘、アルバム・レビュー(ロック(日本))は小野島大が担当。篠崎は久々に反応したといういっぽう、小野島は明確にNot For Meとのことなので10点満点中5点と手厳しい。両者とも既にメジャー界でのベテランとして扱われて久しい、サザンに対する当時の空気を感じることができるレビューだろう。

 しばらくサザンを聞いていなかった。(略)独特のフシを持ったバンドは強い。一度その味を覚えてしまったファンは放っておいてもついてくる。そう、かつては考えていた。だが、近年、もっとアクが強くてもっと生々しい魅力をたたえた音楽を次々に知るにつれて、いつの間にかサザンの影が薄くなった。ファンは身勝手で移り気で貪欲で、もっと刺激的なもの、もっと新しく、もっとズシンとこたえるものを次々に求めていくものなのだ。
 それが今作では久々に耳が反応した。①や④ではベースの力強いイントロに「何が始まるのだろう」というワクワクする思いを味わったし、うねるようなビートの効いたそうした曲に挟まれるとブルージーな②のヴァイブや、いかにもサザンっぽい③や⑤が、今更のようにひどく新鮮に響く。(略)
 サウンドの厚みが増した分、桑田のボーカルにおんぶする比重が減っている。(例えば⑨のように)イントロだけを聞いたらサザンとはわからないという曲が多いのも特徴だ。逆にいえば、すぐサザンと分かってしまうのがこれまでのサザンの強みでもあり弱みでもあったのだ。
(篠崎弘「アルバム・ピックアップ」『ミュージック・マガジン 1992年11月号』ミュージック・マガジン、1992)

 メロディも歌詞もパターン化のきわみ。アレンジも保守的。通俗性ギリギリのあざとさも変化なし。だが変わらないからこそ価値が保たれるものもあるのだろう。たぐいまれな芸人根性のなせるわざ。商品として見事な完成度だ。残念ながら現在の僕からは遠く隔たった音楽だが。
(小野島大「アルバム・レビュー」『ミュージック・マガジン 1992年11月号』

92名の日本のミュージシャンに92年のベスト作を聞いた『ワッツイン』誌では、Buck-Tickの櫻井敦司が本作のみを選出し、好意的にコメントしている。短いながら、本作の内容を的確に示している文章だ。映画「The Collector」の部分は「Ding Dong」の歌詞のことだろう。
 メロディが非常に良い。細かいところもよく聴くと作りこまれている。詞の世界が、よく読むとけっこう暗いものが多い。中にはコレクター(映画)に近い世界の曲があったりして、世界がひとつ出来上がってるなという気がしました。
(桜井敦史(Buck-Tick)「92人のアーティストが選ぶ92年ベスト・アルバム大発表!」『ワッツイン 1993年1月号』ソニー・マガジンズ、1992)


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最後は共同プロデューサー・小林武史のコメントをいくつか見てみよう。

小林「このアルバムについて最近、“サザンオールスターズ”というものとは「もう違うね」と言う人の意見も聞いたけど、そういうことは僕はあまり気にしません。サザンオールスターズのイメージとは、あの混沌とした感じがアジア的なのかもしれないけれど、おそらくなんでも吸収できるということだと思う。
(略)
でも本当はレコーディングしている途中では、どこかサザンというものの中で帳尻合わせるのが苦しいんじゃないかなぁと、ぼくなんかは思ってたんだけど。いつかそのうちこれがサザンのアルバム、サザンという形をもうやめるわと言ってもおかしくないんだという気もしてたんだけど、結局そういうことにならなかったですけどね。そのへんのバランス感覚はぼくにはわからない。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

 バンドがあって、人がいて、それぞれのところから出音があって、何かひとつのものが見えるというのも、もちろんロックの形だけど、でも桑田さんの場合、そんなところに大義名分を持ちたくないっていうの、あるんじゃないですかね。少なくとも、中期以降のサザンのレコーディングでは、サザンオールスターズという“入れ物”で、ある種のトランス状態を生み出そうとしている気がするんです。その無意識の中で、桑田さんは道化もやるし、シリアスなところにも行く—。
 このアルバムでも、何となく無意識の領域に入るポイントが、何箇所かありますね、僕自身も、そういう感覚でレコーディングしていた気がします。今回、久しぶりに聴いたんですが、クオリティは、異様に高いですよね。「HAIR」とか、「ブリブリ ボーダーライン」とか、「亀が泳ぐ街」とか、あと10年後に聴いても、十分にかっこいいかもしれない。
(小林武史「「世に万葉の花が咲くなり」ライナーノーツ」

やはり渋谷陽一、能地祐子と同じく「サザン」という括りが桑田に与える影響を語っている。制作パートナーとして一番近くにいてもそういったことを感じていたのだろう。

そして実のところ、現場ではサザンのアルバムとして成立し得るのかという一抹の不安も抱えていたようである。そもそも小林は外部アレンジャー・プロデューサーとして、オーダーに対して100%の仕事をしたに過ぎない。メンバーを積極的に使わないレコーディングというのは別に小林が与えた方針でもなく、音楽制作のトレンドと、グループの状況を踏まえた桑田の依頼がありそれに小林が応じた…というのが正確なところだろう。

当時の桑田が時代を眺めて、そして年齢的なものもあったであろう、暗黒モードに入っているのはこれまで見てきたコメントから散々うかがえる。そのように基本的には暗くシリアスではありつつも、「サザン」の名の下に、当時のソロでは振り切れない振り幅まで表現しているという点で本作は異質である。そして暗黒モードの桑田に打ってつけの、決して明るくない密室的サウンドを提供した小林…というマッチングは92年のこのタイミングならではであり、延命されスタッフも入れ替わっていく新生サザンの第一弾として桑田と小林が打ち立てた金字塔がこの『世に万葉の花が咲くなり』であったのだ。

小林は数年後、本作を自身のサウンドプロデューサーとしてのピークとまで語っている(『Switch Special Issue 1999 Winter』スイッチ・パブリッシング、1998)

小林「終わってもう本当に満足ですよ。あとはアレンジよりも、まず最初に音だなって。音があって歌がある、そこから魂がガーッと出てくる、みたいな。いままで聴いて、いい音楽だな、いいロックだなって思えるものって、やっぱりほとんどそういうものを持っていたでしょう。そういう音ひとつにきちんと反応できる、野蛮な自分の感性みたいなものがいちばん問題なんだと思う。今回は本当に頑張ったと思う。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)


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小林武史との濃密なコラボレーションをやり切った直後、サザンは中国は北京にて海外コンサートを行う。そういえば海外に向けた活動について、その後桑田の意向はどうなっていたのか。次回はそのあたりを追っていく。