この歌(引用者注:「黒の舟唄」)はね、僕自身好きだったんですけど、アミューズ(桑田氏の所属する事務所)に横道坊主というグループがいましてスタッフから「いろいろ意見を聞きたい」みたいなことを言われてたんです。で、コンサートに行ったりして、僕なりに意見を述べて、ま、口から出まかせなんですけど(笑)、たとえば「昭和の少しハードな歌、男気のある歌もカバーしたら良いんじゃないの、君たち」とか話してたんです。
(『週刊文春 1993年10月21日号』文藝春秋、1993)
「黒の舟唄」は野坂昭如「マリリン・モンロー ノー・リターン」を71年2月にシングルリリースするにあたり、フリップサイド用に急遽作られた曲である。作曲・編曲は「マリリン〜」と同じく、三木鶏郎の冗談工房出身で幾多のコマソンなどを手がけていた桜井順。カゴメやAGFのサウンドロゴ、エースコック「こぶたの歌」などは2026年の今も現役のコマソン・クラシックだ。作詞は能吉利人、これは桜井の変名。自身の表の顔であるコマソンについての、悪意たっぷりのパロディ『CM詩集 毒』(思潮社、1969)(装丁は杉山登志!)の作者として初登場した、桜井の裏サイドの名義だ。能吉利人はこれ以降、長谷川きよしに詞の提供なども行うが、基本は野坂の座付き作家として野坂のイメージを憑依させたリリックを次々に繰り出していく。バックの演奏は宮間利之とニュー・ハード、櫓のSEは桜井。
もともと合歓ポピュラーフェスティバル'70で披露するために作られた「マリリン〜」のような派手さとは対局にある曲で、男と女の間のやるせなさをマイナーコードで描いた暗く重い一曲である。桜井によると、野坂ワールドからインスパイアされた「テツガク春歌?」で、「3日間ほどでデッチ上げ」たとのこと(歌手ノサカ・委員会「野坂唄大全・曲目紹介」野坂昭如『野坂歌大全I Akiyuki Nosaka Sings Jun Sakurai』 Solid CDSOL-1462)。歌い出しなどの和風軍歌風の香りも、野坂の春歌というコンセプトなら頷けるものがある(ルーツはヨーロッパなのかもしれないが…)。
この曲を気に入り、能吉利人に自作曲の作詞を依頼、さらに同時に「黒の舟唄」をカバーしたのが盲目のシンガーソングライター・ギタリスト、長谷川きよしである。
桜井順「でも「黒の舟歌」だけは、野坂さんが歌っていたのをたまたま長谷川きよしが聴いてて、「もったいないから俺が歌う」なんて言ってカヴァーされたんだけど。その長谷川きよしが歌ったものを加藤登紀子が耳にして、そこでまたカヴァーされたからバァーって広まっていったんだよね。」
(【インタビュー】 桜井順 『野坂歌大全I AKIYUKI NOSAKA SINGS JUN SAKURAI』https://www.hmv.co.jp/news/article/1202090063/)
長谷川の「黒の舟唄」は山木幸三郎のアレンジ(このバージョンは冒頭からよりによって70年ごろのプログレ風味に料理しているのが面白い)で、71年8月のLP『卒業』に収録。翌72年3月、日本でのVertigoレーベル第一弾としてシングルリリース。LPからのカットである能吉利人作詞「心中日本」とのカップリングで、「黒の舟唄」はシングル用に新録された別テイク。シングルバージョンは玉木宏樹のアレンジで、フライド・エッグ+細野晴臣の演奏とのこと(剛田拓哉「Artist File #030 長谷川きよし」『日本のフォーク完全読本』シンコー・ミュージック、2014)。ということはつのだ☆ひろ・細野晴臣・成毛滋・高中正義・玉木宏樹という布陣(ストロベリー・パス〜フライド・エッグ史観とはっぴいえんど史観の邂逅がここに)ということになろう。
74年になると加藤登紀子やダウン・ダウン・ブギウギ・バンドがカバー、その影響で能吉利人の歌詞が第七回日本作詞大賞特別賞を受賞。ここで野坂のシングルも「黒の舟唄」をA面にしてリイシュー。さらには演歌界でのフォークのカバーという流れの中で森進一や美空ひばりらも取り上げている。この流れも70年代末(サザンがデビューするあたり)でひと段落、しばらくは取り上げられにくくなっていったのだった。
そんな「黒の舟唄」を、1993年にカバーしてみては…という桑田の案は、横道坊主には却下されたようである。
でも、向こうはあんまりやる気がなくてね、年代のせいなのかな、ピンとこなかったみたい。
(『週刊文春 1993年10月21日号』)
***
7月に「エロティカ・セブン」「素敵なバーディー」をリリース、ヒットさせていたサザンだが、直後の8月下旬からはグループでなく、桑田がソロで出演するキリンの缶コーヒーのCMがオンエア開始されている。
前年にサントリーが缶コーヒーのCMに矢沢永吉を起用、矢沢がしがないサラリーマンを演じるという意外性が話題となりヒットCMに。93年はそれに続けとばかりに、缶コーヒーのCMは中年男性ミュージシャンだらけになる。UCCの世良公則、アサヒのChage & Aska、そしてキリンの桑田…といった具合であった。
そんなCMの企画が先なのか曲が先か明確には不明だが、CMに使われた「真夜中のダンディー」は先のサザンのシングルとはサウンド・歌詞ともに一線を画す曲に仕上がっている。アレンジは桑田と片山敦夫の連名、録音も今井邦彦ということでサザンのシングルと同じスタッフでの並行作業だったと思われるが、楽曲のスタイルからソロ扱いのほうが良いと判断したようだ。
ギターリフから始まるシンプルで無骨なミディアムのロックンロールで、シンセのストリングスのフレーズでポップな(後半、上がり続けて急降下・急上昇するフレーズなどもユニークだ)雰囲気を醸し出している。エレキシタールや逆回転ギターなども60sロックへの愛だろう。ギターは小倉博和と桑田(桑田はスライドか)、キーボードは片山、ベースに根岸孝旨、タンバリンは今野多久郎。ドラムは入らず、シンプルな角谷仁宣のマシンの演奏をそのまま使っている。コーラスも小倉と片山によるもので、桑田の1人多重とは違うラフな味わいだ。
いま一番やりたいのは、スタイルとしては — ラブ・ソングでも何でもいいからさ — やっぱり最小編成で、まず自分がギターでこしらえた歌をギター・バンドで聴かせるみたいな、やっぱりそこに来てるというか。それってすごくそんじょそこらの若者が同じことを言うよりも大事なことなんですよ(笑)。だから総力戦の音楽じゃなくて、いわゆるギター一本で再現できる音楽っていうのが、やっぱりへビーなんじゃないかなあっていうか。スタイルの問題じゃないと思うんだけど。その総力戦でたとえば弦を使ったり、いまのいわゆるハウス的な解釈でいろいろやるとかっていう、いろんなものを駆使した音楽性っていうのも好きだったけど。いま一番興味があるのは、だからジョン・レノンの『ジョンの魂』ですよね。あれができるとは思わないけどね。いま俺はあの涼しさとあの音像っていうのにやっぱり一番あこがれちゃうな。
(『Cut 1993年11月号』ロッキング・オン、1993)
「総力戦」というのは以前、桑田との対談での山下達郎の発したワードだ。
山下達郎「桑田くんって詞曲だけで歌が成り立つ人なんですよね。そういう人ってすごくうらやましいの。(略)
桑田くんの場合は個人の格闘技みたいなもんで、逆みたいに見えますけど、僕は総力戦なんですよねどっちかって言ったら。だから僕はアレンジ、イントロのフレーズ、ここのギターの美味しさとかね、そういうことを全部含めて1枚のレコードなんですよ。桑田くんのはね、詞曲だけで成り立つんですよ基本的には。」
桑田くんの場合は個人の格闘技みたいなもんで、逆みたいに見えますけど、僕は総力戦なんですよねどっちかって言ったら。だから僕はアレンジ、イントロのフレーズ、ここのギターの美味しさとかね、そういうことを全部含めて1枚のレコードなんですよ。桑田くんのはね、詞曲だけで成り立つんですよ基本的には。」
(「Tokyo Radical Mystery Night」Tokyo FM, 1988.7.6.)
つまり桑田は詞と曲だけでも十分成り立つが、山下はそれだけでは弱いのでアレンジ・演奏含めての「総力戦」を行う必要がある、という話である。といっても桑田もこの会話の頃から、小林武史や門倉聡らキーボード・プレイヤー・アレンジャーと一緒に「総力戦」の音楽を続けていたつもりだっただろうが、ここにきて煮詰まったのか「歌手」「ソングライター」としての自分の側面を見直し始めていたのかもしれない。
歌詞は、30代後半に差し掛かりもう若くはないという状況で、現在までの半生を振り返ろうという意図で書かれたようである。
この歌をリリースしたのは37歳の時で、実はこの辺りから、「年齢的に枯れていく自分」というのを意識し始めていた。もっと言うと、老成することに憧れていたのではないか?
こう言うと、
「37歳なんてまだ若いじゃないか」
と言われるかもしれない。
しかしあの当時、40歳を過ぎたらミュージシャンは世間的には“とっくに終わらされて”いたと思う。
しかしあの当時、40歳を過ぎたらミュージシャンは世間的には“とっくに終わらされて”いたと思う。
(略)
この歌が人生を回願するかのようなタッチになったのは、そんな想いがあったからだった。自分の中で“ひとつの時代”が終わったということを、ちょっぴり背伸びしながら描いてみようと思ったからである。
この歌が人生を回願するかのようなタッチになったのは、そんな想いがあったからだった。自分の中で“ひとつの時代”が終わったということを、ちょっぴり背伸びしながら描いてみようと思ったからである。
(桑田佳祐「やっぱり、ただの歌詩じゃねえか、こんなもん - 桑田佳祐 言の葉大全集」新潮社、2012)
2026年の今となってはあまり理解されないかもしれない、中年以降のミュージシャンのモデルケースがまだ十分に確立されていない時代ならではの、不安の入り混じった迷いのある感覚である。また、抽象的でなく、リアルなものを描いてみようという気分もこのような歌詞を生んだ要因のひとつのようだ。
「それよりも歌をする立場としては、現実をひとりの社会の一員として直視できるところにいないといけないなあっていう気分も最近あってね。うん、それはもう自分自身のこともそうなんですけどね。要するに自分はもう外タレのつもりで音楽の世界に入ったけど、いきなりサザンはその立場と世界を変えられてて。それで絶えず洋業とか日本の歌のとか、ポップスとか歌謡曲とかロックとか、必ず箱の中のどっちにいなくちゃいけないかっていう矛盾の中でずーっと来て。で、あるとき外タレであることは間違いなく勘違いだったなと思った時期もあったし」
— ははははは。
「いわゆるジョン・レノン並みのロックンローラーであるかどうかっていうことは、これは間違いなく違うなとか、いろんなことを捨てていくとね、やっぱり自分は真っすぐ日本のシンガーであるというね。それから歌謡曲シンガーでもいいんだけどね。歌謡曲っていう言葉を嫌う人はいっぱいいるけど、俺は嫌わないんだよね。だから歌謡曲シンガーでもいいから、その辺の自分の在り方が現実にだいぶ見えてきたからね。だから、さっきのバンドを私物化する話じゃないけど、とにかく現実をもうハッキリ解明していこうと思ったの。そういう気分が、ひとつにはこんな種類の歌詞にもなったんだけど。たまには自分の現在位置を知らしめるような歌があってもいいかなぁ、みたいな。」
「いわゆるジョン・レノン並みのロックンローラーであるかどうかっていうことは、これは間違いなく違うなとか、いろんなことを捨てていくとね、やっぱり自分は真っすぐ日本のシンガーであるというね。それから歌謡曲シンガーでもいいんだけどね。歌謡曲っていう言葉を嫌う人はいっぱいいるけど、俺は嫌わないんだよね。だから歌謡曲シンガーでもいいから、その辺の自分の在り方が現実にだいぶ見えてきたからね。だから、さっきのバンドを私物化する話じゃないけど、とにかく現実をもうハッキリ解明していこうと思ったの。そういう気分が、ひとつにはこんな種類の歌詞にもなったんだけど。たまには自分の現在位置を知らしめるような歌があってもいいかなぁ、みたいな。」
(『Cut 1993年11月号』)
現実を描く、として、「自分は真っすぐ日本のシンガー」「歌謡曲シンガーでもいい」という点を強調しているのが興味深い。まるで自分に言い聞かせているかのようなスタンスにも見えるのは、これまでの発言とのテンションの違いからであろうか。
「あと、人間というのは、結局、今の状況に満足しないんだよね。“可愛い妻は 身ごもりながら 可憐な過去を きっと憂いてる”っていう歌詞があるんだけど、結婚という儀式は非常に盛り上がるけど、3年経ち、5年経つと、“所詮夫婦は他人だった”みたいなことに気づいたりすることあるんじゃないかな。それは性的な欲求不満じゃなくて、絶えず人間にはそういう小さなアンチテーゼがあるように思う。それを乗り越えるか、我慢するかは、人それぞれだけど、僕らの今の世代と年代はそういう岐路に来てるかなみたいな……。それは別にメッセージじゃなくて、そういう気持ちを書きたかったの。」
(『R&R Newsmaker 1993年12月号』ビクターエンターテインメント、1993)
悩める年齢の自分を素直に本音で吐露しようというコンセプトからか、歌詞にかける時間もさほどかからずスムーズにいったそうだ(『月刊カドカワ 1995年1月号』角川書店、1994)。
この曲のミュージック・ビデオは、一筆書き的なライブ感を意識したのか珍しくヴォーカルのみ映像との同時収録。レコードよりハードなヴォーカルをフィーチャーした別ミックスが作られた。これは現在はYouTubeのみならず、Apple Musicでもレコード音源と並んで視聴することができる。映像では髭面の桑田とこの2、3年前からの桑田の愛機であるNeumann U47 (Tube)のアップを中心に、小倉と根岸も登場する。
「真夜中のダンディー」は93年10月6日にシングルリリース。93年のサザン関連としては7月の「エロティカ・セブン」「素敵なバーディー」、8月の「enoshima」12インチ、9月の「enoshima」CD/カセット、11月の「クリスマス・ラブ」の毎月連続リリースの流れに位置するものだが、このとおりで明らかに一枚だけ異質な存在である。
異質さを強調するように、シングルのカップリングでは前述の「黒の舟唄」を桑田自らカバー。こちらのアレンジは桑田と小倉の連名で、A面よりさらに渋い着地となっている。センターで鳴る片山敦夫のオルガンなど含め、60年代半ばのブルージーな英国のビートバンドなどを思わせる仕上がりで、そういう意味では若干老成した、日本語で歌うKuwata Bandのリベンジ的側面もある…といえなくもない。このあたりは長谷川きよしのシングル・バージョンあたりを発想の起点にしつつ、組み立てていったのかもしれない。小倉の左右のエレキ/アコギ、根岸のベース、ドラム等は角谷のマシンという編成はA面と同じ。右で鳴るブルースハープはここまでおなじみの八木のぶおによるものだ。
— で、いきなりカップリングが「黒の舟歌」という、この選曲もユニークですよね。
「うん。それはねえ、まあソロならではなのかもしれないけど、絶対いいと思ったのね。この歌が好きだから。で、いろいろ選択肢がこの曲はあるから、アレンジに関しては迷ったんだけどね。だから、やっぱり自分の歌というものに対する気持ちみたいなものを最近ずーっと考えるじゃないですか?考える時間が — たとえば年に一度くらいカラオケへ行って自分が歌うものっていうのは、松尾和子の歌だったりするわけね(笑)」
「うん。それはねえ、まあソロならではなのかもしれないけど、絶対いいと思ったのね。この歌が好きだから。で、いろいろ選択肢がこの曲はあるから、アレンジに関しては迷ったんだけどね。だから、やっぱり自分の歌というものに対する気持ちみたいなものを最近ずーっと考えるじゃないですか?考える時間が — たとえば年に一度くらいカラオケへ行って自分が歌うものっていうのは、松尾和子の歌だったりするわけね(笑)」
— ははははは。
「そういうのって何だろうっていうか。自分が求めてる、欲しかった歌ってやっぱり嘘つけないなと思って。もちろんディープ・パープルもツェッペリンもよかったけど、何かこういう日本語の歌謡曲っていうか、リアリティっていうか、それは捨てられないな、みたいなことをちょっと最近思っててね」
「そういうのって何だろうっていうか。自分が求めてる、欲しかった歌ってやっぱり嘘つけないなと思って。もちろんディープ・パープルもツェッペリンもよかったけど、何かこういう日本語の歌謡曲っていうか、リアリティっていうか、それは捨てられないな、みたいなことをちょっと最近思っててね」
(『Cut 1993年11月号』)
『黒の舟唄』はカラオケでは歌ったことがないけど、好きなんですね。半端なサイズである十二小節のワークソングで、それを言葉とループしていくというか、なかなか歌として、非常に気に入ってるんです。
(略)
こういう歌は、時代がお呼びというか、“今”聴きたいという感覚があるんですよ。『真夜中のダンディー』もそうですけど、たまにはこの手の沈んだ歌も歌ってみたいなあと思うことがあるんです。前はソロ活動とサザン(オールスターズ)での活動とをシビアには分けて考えなかったんですけど、敢えてソロやるんだったら、対比物というか、違ったものをやるのも良いかなと思い始めてます。
(『週刊文春 1993年10月21日号』)
日本語の歌謡曲のリアリティ、サザンと違ったものとしてのソロ、言葉とループしていくワークソング…と、この後を予感させるような発言が目につく。
***
93年8月、慈善団体ジャスティス・クラブを母体とし、音楽制作会社ミュージカルステーション創立者の金子洋明・おなじみアミューズ創立者の大里洋吉・キョードーグループ創立者の内野二朗の三世話人の呼びかけにより、複数の音楽団体を発起人としてAct Against Aids '93実行委員会が発足する(『Zoning Vol.14』全国コンサートツアー事業者協会、1994/『同 Vol.20』、2004/ACPC navi Winter. 2013 Vol.16 Act Against AIDSの軌跡と理念、そして未来 https://www.acpc.or.jp/magazine/navi_issue.php?topic_id=99)。
日本の音楽産業に携わる人々による、エイズ撲滅を目指した運動を展開しようという目的である。世界エイズデーの12月1日をターゲットとし、全国各地でコンサートイベントを同時開催、エイズについての啓発活動を行うという企画が立てられる。
アミューズ所属の桑田は5月にこの企画を聞いており、当初は参加に難色を示していたようだ。
僕がその話を聞いたのは、五月にニューヨークに行ったときです。AAAがいろんな事務所に撤文を送ったらしいんですよ。そんなもの、どこの事務所でも部屋の隅に置かれているというのがパターンでしょ。だから、ミュージシャンのほうも、僕の知るかぎり誰もこんな計画があることを知らなかったですね。
(『週刊文春 1993年10月21日号』)
企画をしたのは音楽協会だったんだ。
最初に話しを聞いた時はやりたくないと思った。だって、友人や知り合いにエイズキャリアの人がいなかったし、ピンと来ないのにやっても説得力がない。だから、やるべきじゃないと思った。
最初に話しを聞いた時はやりたくないと思った。だって、友人や知り合いにエイズキャリアの人がいなかったし、ピンと来ないのにやっても説得力がない。だから、やるべきじゃないと思った。
(『Hot-Dog Press 1993年11月10日号』講談社、1993)
85年の「Live Aid」などに関するコメントなど、もともとこういった社会運動系のイベントを「しがらみ」(『週刊平凡 1985年11月15日号』平凡社、1985)と評しなるべく距離を置いてきた桑田からすれば、積極的になれなかったのも頷ける話ではある。しかし腹を括ったようで、早くも7月のサザンのシングルリリースインタビューでは匂わせをしている(『ワッツイン 1993年8月号』ソニー・マガジンズ、1993)。この時点でグループかソロかはさておき、既に参加を決めていたのだろう。9月になると、武道館でのイベントのプロデューサー役を引き受けたということである。
それで全国の会場をくまなく押さえた。とにかく会場を押さえて、この話を事務所単位で浸透させて、いろいろなミュージシャンに広げていく、というのがAAAの狙いだったんでしょうね。ところが、誰がやるか、どういう風にやるかがなかなか決まらなくて、櫛の歯が欠けるようにして会場がキャンセルされていった。面白いというか、間抜けな話なんですけど(笑)。
ですから、もともとは不純な動機ですよ。音楽業界が中心になって動いている。そして、とにかく会場が空いてる。どうぞ、お使い下さいと言われてる。じゃ、やってみようか、と。このとき「やろう」と感じたのは、まさに反射神経としか言いようがないですけど(笑)。
ですから、もともとは不純な動機ですよ。音楽業界が中心になって動いている。そして、とにかく会場が空いてる。どうぞ、お使い下さいと言われてる。じゃ、やってみようか、と。このとき「やろう」と感じたのは、まさに反射神経としか言いようがないですけど(笑)。
(『週刊文春 1993年10月21日号』)
とはいえ最終的には全国六ヶ所(日本武道館、代々木第一体育館、オーチャードホール、横浜アリーナ、大阪城ホール、名古屋レインボーホール)での同日開催・いずれの会場も多数のミュージシャンが参加…と豪華なイベントが催されることになる。
武道館公演の人選と内容を任された桑田は複数のミュージシャンに声をかけ、オリジナルではなく世代を超えた日本の歌をカバーする…という内容を企画する。
お客さんというのは、お題目を見にくるわけじゃないから。コンサートそのものの仕切りがきちんとできていて、エンターテイメントの形になっていて、その中でチャリティの趣旨に賛同していくのが本当なんじゃないかな、と。
(『週刊文春 1993年10月21日号』)
今回は、オリジナルみたいなものはやらないで、日本の歌をやろうかなと思ってる。「東京ラプソディー」とか。人選と選曲が勝負。コンテはちゃんと書きます。出てくれる人には、音楽人として納得できる材料をちゃんと与えたい。
(『ワッツイン 1993年12月号』ソニー・マガジンズ、1993)
ここで桑田が依頼したミュージシャンの中には、93年7月の北海道南西沖地震の被災者救援を目的とし、8月から都内でチャリティゲリラライブを敢行していた泉谷しげるも含まれている。9月のゲリラライブ真っ只中に依頼に来た桑田に、泉谷はバーターとして泉谷の「奥尻島チャリティコンサート」への出演を依頼。11月15日、桑田は横道坊主の今井秀明とともに出演し「黒の舟唄」「真夜中のダンディー」などを披露している(泉谷しげる『お前ら募金しろ! 泉谷しげるのひとりフォークゲリラ』読売新聞社、1994)。
武道館公演の出演者・セットリストは以下のとおり。「エイズは世代を超えて感染してしまうもの。その、“世代を超える”という部分を、逆説的に理解してほしかった」(『CDでーた 1994年1月5・20日合併号』角川書店、1993)というコンセプトの選曲ということである。
Overture. 光の世界(桑田佳祐)/桑田佳祐 & 奥田民生 ※VTR
1. 東京ラプソディ(古賀政男 - 門田ゆたか)/桑田佳祐
2. 蘇州夜曲(服部良一 - 西條八十)/奥田民生
3. たどりついたらいつも雨降り(吉田拓郎)/奥田民生
4. トンネル天国(鈴木邦彦 - 橋本淳)/奥田民夫 & 宮田和弥
5. いとしのエリー(桑田佳祐)/宮田和弥
6. いつでも夢を(吉田正 - 佐伯孝夫)/宮田和弥 & 奥居香
7. 真夏の出来事(筒美京平 - 橋本淳)/奥居香
8. 黒の舟唄(桜井順 - 能吉利人)/大友康平
9. ローリング・オン・ザ・ロード(大野克夫 - 東海林良)/大友康平
10. また逢う日まで(筒美京平 - 阿久悠)/大友康平
11. ありがとう(細野晴臣)/高橋幸宏、森雪之丞 & 高野寛
12. 悲しくてやりきれない(加藤和彦 - サトウハチロー)/高橋幸宏、森雪之丞 & 高野寛
13. 星屑の町(安部芳明 - 東条寿三郎)/高橋幸宏、森雪之丞 & 高野寛
14. 真赤な太陽(原信夫 - 吉岡治)/アン・ルイス
15. ロックンロール・ウィドウ(宇崎竜童 - 阿木燿子)/アン・ルイス
16. 逢いたくて逢いたくて(宮川泰 - 岩谷時子)/アン・ルイス
17. あの時君は若かった(かまやつひろし - 菅原芙美恵)/杉真理、伊藤銀次 & 斎藤誠
18. いつまでもいつまでも(佐々木勉)/杉真理、伊藤銀次 & 斎藤誠
19. 魔法の黄色い靴(財津和夫)/杉真理、伊藤銀次 & 斎藤誠
20. 君といつまでも(弾厚作 - 岩谷時子)/泉谷しげる
21. 嵐を呼ぶ男(大森盛太郎 - 井上梅次)/泉谷しげる
22. 上を向いて歩こう(中村八大 - 永六輔)/泉谷しげる
23. 出演者の替え歌メドレー/嘉門達夫
24. 歌が途中でかわるシリーズ/嘉門達夫
25. 世の中でこんなことはしちゃいけないシリーズ(嘉門達夫)/嘉門達夫
26. てぃんさぐぬ花(Trad.)/ネーネーズ
27. 安里屋ユンタ(Trad.)/ネーネーズ
28. 鉄腕アトム(高井達雄 - 谷川俊太郎)/渡辺美里
29. タイムマシーンにおねがい(加藤和彦 - 松山猛)/渡辺美里
30. 東京ブギウギ(服部良一 - 鈴木勝)/渡辺美里
31. 宵街草(多忠亮 - 竹下夢二)/小林克也、原由子 & 福山雅治
32. この道(山田耕作 - 北原白秋)/小林克也、原由子 & 福山雅治
33. ソーラン節(萩原哲晶 - 青島幸男)/小林克也、原由子 & 福山雅治
34. ヨイトマケの唄(丸山明宏)/桑田佳祐
35. 花~すべての人の心に花を~(喜納昌吉)/桑田佳祐
36. 真夜中のダンディー(桑田佳祐)/桑田佳祐
37. 春夏秋冬(泉谷しげる)/泉谷しげる、大友康平 & 桑田佳祐
38. 光の世界(桑田佳祐)/桑田佳祐、奥田民生、宮田和弥 & 奥居香
39. 勝手にシンドバッド(桑田佳祐)/全員
1. 東京ラプソディ(古賀政男 - 門田ゆたか)/桑田佳祐
2. 蘇州夜曲(服部良一 - 西條八十)/奥田民生
3. たどりついたらいつも雨降り(吉田拓郎)/奥田民生
4. トンネル天国(鈴木邦彦 - 橋本淳)/奥田民夫 & 宮田和弥
5. いとしのエリー(桑田佳祐)/宮田和弥
6. いつでも夢を(吉田正 - 佐伯孝夫)/宮田和弥 & 奥居香
7. 真夏の出来事(筒美京平 - 橋本淳)/奥居香
8. 黒の舟唄(桜井順 - 能吉利人)/大友康平
9. ローリング・オン・ザ・ロード(大野克夫 - 東海林良)/大友康平
10. また逢う日まで(筒美京平 - 阿久悠)/大友康平
11. ありがとう(細野晴臣)/高橋幸宏、森雪之丞 & 高野寛
12. 悲しくてやりきれない(加藤和彦 - サトウハチロー)/高橋幸宏、森雪之丞 & 高野寛
13. 星屑の町(安部芳明 - 東条寿三郎)/高橋幸宏、森雪之丞 & 高野寛
14. 真赤な太陽(原信夫 - 吉岡治)/アン・ルイス
15. ロックンロール・ウィドウ(宇崎竜童 - 阿木燿子)/アン・ルイス
16. 逢いたくて逢いたくて(宮川泰 - 岩谷時子)/アン・ルイス
17. あの時君は若かった(かまやつひろし - 菅原芙美恵)/杉真理、伊藤銀次 & 斎藤誠
18. いつまでもいつまでも(佐々木勉)/杉真理、伊藤銀次 & 斎藤誠
19. 魔法の黄色い靴(財津和夫)/杉真理、伊藤銀次 & 斎藤誠
20. 君といつまでも(弾厚作 - 岩谷時子)/泉谷しげる
21. 嵐を呼ぶ男(大森盛太郎 - 井上梅次)/泉谷しげる
22. 上を向いて歩こう(中村八大 - 永六輔)/泉谷しげる
23. 出演者の替え歌メドレー/嘉門達夫
24. 歌が途中でかわるシリーズ/嘉門達夫
25. 世の中でこんなことはしちゃいけないシリーズ(嘉門達夫)/嘉門達夫
26. てぃんさぐぬ花(Trad.)/ネーネーズ
27. 安里屋ユンタ(Trad.)/ネーネーズ
28. 鉄腕アトム(高井達雄 - 谷川俊太郎)/渡辺美里
29. タイムマシーンにおねがい(加藤和彦 - 松山猛)/渡辺美里
30. 東京ブギウギ(服部良一 - 鈴木勝)/渡辺美里
31. 宵街草(多忠亮 - 竹下夢二)/小林克也、原由子 & 福山雅治
32. この道(山田耕作 - 北原白秋)/小林克也、原由子 & 福山雅治
33. ソーラン節(萩原哲晶 - 青島幸男)/小林克也、原由子 & 福山雅治
34. ヨイトマケの唄(丸山明宏)/桑田佳祐
35. 花~すべての人の心に花を~(喜納昌吉)/桑田佳祐
36. 真夜中のダンディー(桑田佳祐)/桑田佳祐
37. 春夏秋冬(泉谷しげる)/泉谷しげる、大友康平 & 桑田佳祐
38. 光の世界(桑田佳祐)/桑田佳祐、奥田民生、宮田和弥 & 奥居香
39. 勝手にシンドバッド(桑田佳祐)/全員
バンマス、アレンジャーは11月リリースのサザン「クリスマス・ラブ」の共同プロデューサー・アレンジャーでもあった小林武史を起用。このあたりは、87年の「Merry X’mas Show」の延長上にあるといえるかもしれない。
さらにはこの数年後以降、桑田が出演するAAAイベントは桑田のソロライブイベント化していくが、基本的にオリジナル曲は扱わない、カバー主体の企画が続く。そういった意味では、93年のコンセプトを受け継いだ内容である。桑田にとってミュージシャンとして重要な、そして立場上貴重なカバー披露の場として機能していくことになる。悩みながら引き受けたとはいえ、この先の表現・楽しみの機会を広げたということになるのだから世の中わからないものである。
冒頭と終盤では、桑田書き下ろし・小林武史&桑田編曲の新曲「光の世界」が披露された。オープニングで流れたスタジオ録音版は当時としても珍しい、桑田と奥田民生のダブルヴォーカルをフィーチャー。キーボードは小林、プログラミングは角谷、エレキ・アコギは小倉…と定番の組み合わせでのレコーディング。小林のスコアと思しき桑田と奥田の多重コーラスが圧倒的で心地よい。「世代を超える」と、セットリストのコンセプトをなぞったフレーズも登場する。ライブでは桑田・奥田に加え宮田和弥、奥居香を加えた4名で歌われている。なお、スタジオ版は当時リリースはされなかったが、9年後に桑田のベスト盤『Top Of The Pops』でようやく商品化の運びとなる。
***
さて、そんな新曲を差し置いてライブのハイライトと言われることになるのが、桑田による「ヨイトマケの唄」である。
会場全体がしばし深い感銘に包まれた桑田佳祐の「ヨイトマケの唄」を後半のハイライトに(後略)
(『CDでーた 1994年1月5・20日合併号』)
私も実際、AAA’93会場に足を運んだ1人であるが、この時に聞いた『ヨイトマケの唄』は自分的にもなかなかの衝撃であった。
私も実際、AAA’93会場に足を運んだ1人であるが、この時に聞いた『ヨイトマケの唄』は自分的にもなかなかの衝撃であった。
桑田佳祐が歌う
“これだけ日本語がストレートにドカンと肉体に入ってくる曲“
を聞いたのが初めてだったからである。
“これだけ日本語がストレートにドカンと肉体に入ってくる曲“
を聞いたのが初めてだったからである。
一緒に観に行った友人と帰り道に「あの曲が1番凄かったね」と話した記憶が。大仰ではなくエポックメイキングな出来事であった。
(ヨイトマケの唄~桑田佳祐|YU-SUKE O-SHITA https://note.com/fair_oxalis36/n/n632fbc377444)
桑田によると、比較的軽い気持ちでこの曲を選曲したらしい。
「ヨイトマケの歌」は昔聴いたことあったんだけど。AAA(アクト・アゲンスト・エイズ)のときね、日本の歌謡曲みたいな本を見てたら、載ってて、譜面書いてあったからちょっと歌ってみたら、「知ってる知ってる」ってことで決めたのよ。
(略)
この歌って不思議でね。今回のアルバム(引用者注:桑田94年作『孤独の太陽』)のコンセプトにも似ているんだけど、いわゆるサウンドでフォローしなくても充分なりたってしまう曲なんだよね。詞の部分も大きいんだろうけど、メロディーをサウンドでビルドアップさせる洋楽みたいなサウンド指向じゃなくてさ。結局人間のもってる強弱のダイナミックレンジが、あの曲のアレンジになると思うんですね。
(略)
この歌って不思議でね。今回のアルバム(引用者注:桑田94年作『孤独の太陽』)のコンセプトにも似ているんだけど、いわゆるサウンドでフォローしなくても充分なりたってしまう曲なんだよね。詞の部分も大きいんだろうけど、メロディーをサウンドでビルドアップさせる洋楽みたいなサウンド指向じゃなくてさ。結局人間のもってる強弱のダイナミックレンジが、あの曲のアレンジになると思うんですね。
(『月刊カドカワ 1995年1月号』)
オリジナルは丸山明宏(71年に美輪明宏に改名)。作曲・作詞も丸山本人によるもの。丸山はもともと銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で歌っていた歌手で(前述の長谷川きよしも)、57年に本人による異色の訳詞での「メケ・メケ」でレコードデビューを果たす。興行師の手違いで九州の炭鉱で公演をした際、炭鉱不況で苦しい生活をしている観客たちに衝撃を受け・さらには土門挙の写真展にインスパイアされ、初めてのオリジナル曲「ボタ山の星」を書く。
私は、他の国には、それぞれ、黒人霊歌をはじめ、その国の人々が悲しみ苦しんでいる折、魂深く、歌ったり聞いたりすることが出来る歌があるのに、現在の日本には、そのような系統の歌が存在しないことを残念に思った。
(丸山明宏『紫の履歴書』大光社、1968)
以降、自身の長崎での被曝体験をベースにした「故郷の空の下に」(65年のシングル「ヨイトマケの唄」B面収録時は「ふるさとの空の下で」と改題)など、次々に曲を書き上げ自身のショーで披露。果ては自作曲のみで構成されたリサイタルを企画し、古くの知り合い中村八大にアレンジを依頼。ちょうど、米Capitolから「Sukiyaki」がリリースされる直前のタイミングであった。中村は丸山の書いていた楽曲のクオリティに驚き、太鼓判を押す。中村のサポートのもと、丸山は80数名のオーケストラとコーラスを従えたリサイタルを敢行、成功を収めていた。
リサイタルのパンフレットには、丸山の自作曲のコンセプトが明確に記されている。
此の度、6年振りにリサイタルを開かせて頂きましたが、今回は大変おこがましい事ながら自分で詩と曲を作り、借り着ではないこれからの日本人の為の生活の歌と云うジャンルを設けるための捨て石のヒトツにでもなればと思い、会を開かせて頂きました次第で御座居ます。
まだまだ人生経験の乏しい若輩者ですが私なりに種々と見聞して参りました様々な人の生活を唄に作り、唄い手と云う務めを授かった自分としてその人たちのせめてもの心の憩いになれば幸せだと存じます。
まだまだ人生経験の乏しい若輩者ですが私なりに種々と見聞して参りました様々な人の生活を唄に作り、唄い手と云う務めを授かった自分としてその人たちのせめてもの心の憩いになれば幸せだと存じます。
(丸山明宏「昭和38年度芸術祭参加 丸山明宏リサイタル プログラム」佐藤剛『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』文藝春秋、2017)
大会場で自作曲のみで構成されたコンサートというのは、本人によると日本初の試みとのこと。「ヨイトマケの唄」も、リサイタル第二回からはセットリストに加わり、雪村いづみら友人のヴォーカリストらから評判だったという。
母と子の愛が綴られたこの曲は、丸山が上京直後に知り合っていた友人に久々に再会したことをきっかけに、戦中、地元長崎での小学校同級生のエピソードを思い起こし、それらふたつを組み合わせて作られている。
小学校時代、確か二年生の頃だった。ほんとうにヨイトマケの子が級友にいた。彼は、いつもきたない格好をし、ハナを垂らしていた。ある日、参観日があり、その子のお母さんがきた。
休憩時間、ヨイトマケのお母さんは、すみっこにその子を呼んだ。なんとかして、その子をきれいにみせようと、ヨイトマケのお母さんは、ハナをふこうとしたが、ハナ紙がない。”どうするかな?”と見ているぼくの前で、とっさにお母さんは、その子のハナを、自分の日で吸ったのである。そのお母さんがみるみる大きく教室一ぱいに輝いた。
ぼくは感動した。母の愛に飢えていたせいかもしれない。
(よし、あすから、あいつをいじめるのはやーめた)こども心にそう決心したことをおぼえている。
もうひとつは、やはりぼくがどん底だった新宿時代、知りあった友のことである。
夜の街角の屋台でアルバイトをしていた彼には両親がいなかった。満州から引き揚げる時、幼なかった彼の目前で殺されたのだと言う。たった一人の身寄りであるくず屋だった祖父を亡くした彼は、その遺骸を、大八車に乗せて火葬場に運んだ。わびしい葬式だった。上には上があるものよと、妙な感動を覚えた。その彼に、数年後再会したのは、ある工事現場である。苦境にめげず工業学校へ進学した彼は、そのころ立派な技師になっていた。
「こんな仕事をしているんだ」にっこり笑った彼の顔が明るく、その歯並みは太陽に明るかった。彼の背後で、大地の底から響くように聞こえて来たのは、ヨイトマケの歌ではなく、力強い機械の音であった。
休憩時間、ヨイトマケのお母さんは、すみっこにその子を呼んだ。なんとかして、その子をきれいにみせようと、ヨイトマケのお母さんは、ハナをふこうとしたが、ハナ紙がない。”どうするかな?”と見ているぼくの前で、とっさにお母さんは、その子のハナを、自分の日で吸ったのである。そのお母さんがみるみる大きく教室一ぱいに輝いた。
ぼくは感動した。母の愛に飢えていたせいかもしれない。
(よし、あすから、あいつをいじめるのはやーめた)こども心にそう決心したことをおぼえている。
もうひとつは、やはりぼくがどん底だった新宿時代、知りあった友のことである。
夜の街角の屋台でアルバイトをしていた彼には両親がいなかった。満州から引き揚げる時、幼なかった彼の目前で殺されたのだと言う。たった一人の身寄りであるくず屋だった祖父を亡くした彼は、その遺骸を、大八車に乗せて火葬場に運んだ。わびしい葬式だった。上には上があるものよと、妙な感動を覚えた。その彼に、数年後再会したのは、ある工事現場である。苦境にめげず工業学校へ進学した彼は、そのころ立派な技師になっていた。
「こんな仕事をしているんだ」にっこり笑った彼の顔が明るく、その歯並みは太陽に明るかった。彼の背後で、大地の底から響くように聞こえて来たのは、ヨイトマケの歌ではなく、力強い機械の音であった。
(丸山明宏「唄う不死鳥の歌」『婦人生活 1965年7月号』婦人生活社、1965)
なお、自伝によると、丸山は2歳で実母、9歳で関係の良かった継母を、それぞれ病で亡くしている。継々母とはあまり関係が良くなかったようだ。
65年4月に丸山はNETテレビ「木島則夫モーニングショー」番組にゲスト出演。「ヨイトマケの唄」が歌われたリサイタルを観ていた番組ディレクターから声がかかったのがきっかけであった。ここで「ヨイトマケの唄」を披露したことで、主婦層を中心に大きな反響を得る。そして同年7月、キングからシングルでリリースされる運びとなった。ちなみに、NHKテレビ「夢で会いましょう」の当時アシスタント・ディレクターを務めていた下川純弘は遡る63年12月に丸山が出演した際「ヨイトマケの唄」を披露していたはず、と証言しているが、それを示す記録は見つかっていないようだ(『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』)。
なお、「ヨイトマケの唄」リリース直後のカバーはレコードでは見かけないが、中村八大の縁か坂本九はライブのレパートリーに加えており、66年の自身の番組である日本テレビ「味の素K.K. ミュージックレストラン 九ちゃん!」でも披露している(坂本九オフィシャルWebサイト
桑田としてはたまたまだったのだろうが、「黒の舟唄」の野坂昭如と縁のあった丸山/美輪明宏をここでチョイスしたというのが面白い。
丸山明宏というと上京後、銀座のゲイ喫茶「ブランスウィック」でボーイをしていたところで三島由紀夫と出会った話が有名である。初めて丸山の歌を聞いた三島は、「君は大物になる」と伝えたという。そんな丸山が店を辞めた直後に同店でボーイとなったのが野坂で、同じくここで偶然、憧れていた三島と初対面を果たしている(ただ、その場の三島の発言で野坂はゲイ喫茶と気づき、すぐに辞めたようだ)。その後、丸山の銀巴里時代に野坂は「クロード・野坂」(クロード・岡本からの拝借とのこと)を名乗り、銀巴里に客が来るまでの間、Juliette GrécoやYves Montandなどシャンソンを歌っていたらしい。そんな野坂は63年に「エロ事師たち」で文壇デビュー。ちょうど丸山が自作曲のみのリサイタルを成功させた年である。野坂の処女作も丸山のリサイタルも、三島には絶賛される運びとなった。
72年、野坂が編集長の雑誌『面白半分』に掲載された「四疊半襖の下張」が猥褻文書販売罪で摘発され、野坂は起訴される。これを受け、73年9月に行われた野坂のライブ「猥褻リサイタル」では前座という名のゲストとして美輪明宏を迎えている。美輪のパフォーマンス2曲を含めた当時の模様は『不浄理の唄』として、同年12月に野坂が契約していたエレックレコードのKivaからリリース。
この『不浄理の唄』の担当ディレクターであるエレックの三浦卓が美輪に声をかけ(『サンデー毎日 1975年2月9日号』毎日新聞社、1975)、エレックから75年2月にリリースされた美輪のLPが『白呪』である。メジャーなレコード会社では、65年のファーストLP『ヨイトマケの唄』以外はカバーやライブなど、あくまでヴォーカリストとしての美輪の魅力を伝える作品のリリースが続いていた。他方、シンガーソングライターとしての美輪に10年ぶりに改めて焦点を当てた『白呪』は、美輪ならではの鋭い呪いが込められたハードな作品に仕上がっており、現在もその凄みは衰えていない。前述の「ボタ山の星」初レコード化のほか、「ヨイトマケの唄」はリレコーディングされ、演劇めいたヴォーカルをフィーチャーした、オリジナルよりも濃厚なバージョンが収録されている。
そんな美輪の「ヨイトマケの唄」も、「黒の舟唄」よろしく80年代が近くなると地味になっていった曲ではある。これはもちろん、ポップミュージックにおけるトレンドの移り変わり、新陳代謝の流れがあるのは当然だが、加えてこちらは民放各局で、放送自粛の動きがあったことも認識しておくべき点だろう。
「土方」というワードが含まれることで、民放連の放送自主規制リスト「要注意歌謡曲」、いわゆる放送禁止に指定されたといわれているが、70年代〜90年代に複数の関連書籍で掲載された「要注意歌謡曲リスト」ではいずれも「ヨイトマケの唄」は見つからない(吉野健三『歌謡曲:流行らせのメカニズム』晩声社、1978/用語と差別を考えるシンポジウム実行委員会編『続・差別用語』汐文社、1981/森達也『放送禁止歌』解放出版社、2000)。おそらく正しくは、リストアップこそされなかったが、この手のワードを含む曲として暗黙のうちに自主規制の対象になってしまったというところだろう(ちなみに、作家桑田は「I Love Youはひとりごと」、歌手野坂は「梵坊の子守唄」で正式に要注意歌謡曲リスト入りの実績がある)。
70年代ではむしろ、検討されつつもオンエアされたというエピソードが見受けられる。74年秋のTBSテレビでの五木ひろしライブのカバーはオンエア(『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』)、75年7月の毎日放送ラジオでも検討されながらフルなら問題なしとの判断で美輪のバージョンがオンエアされている(『続・差別用語』)。なお、NHKはそもそも規制の対象となったことはないということで、85年のNHK-FM「サウンドストリート」坂本龍一担当回などで取り上げられている。
80年代になると、「要注意歌謡曲」制度自体が終了。当初の「要注意歌謡曲」の特徴の最たるものである性的な歌詞の楽曲は緩和傾向に向かう一方、差別語や身体的なワードについての自主規制は強まっていったようである(といっても『広告年鑑 1955年』(萬年社、1955)などに掲載の、民放連以前の要注意歌謡曲リストである1955年のラジオ東京・朝日放送のものには美空ひばり「びっこの七面鳥」が既に掲載されてはいる)。85年、TBSテレビで服部良一の伝記ドラマ『昭和ラプソディ』が制作されているが、「買物ブギー」において笠置シヅ子役の研ナオコは「つんぼ」の部分のみ歌わず、ジェスチャーでパフォーマンスしている。この番組にあわせて編まれた、ドラマと同題のコンピレーション(コロムビア AX-7423-4、1985)において、日本コロムビアは笠置シヅ子のオリジナル版「買物ブギー」をビートを無視した該当ワード部分のぶつ切り編集で収録。テレビの基準にレコード会社があわせた形だ。SP時代のレコーディングで、マルチからのリミックスなどは不可能であり該当箇所の歌のみの削除ができないとはいえ、曲の構造を無視したかなり乱暴な編集である。以降、レコード用録音はこの編集版のみのリリースとなり、2026年現在もこのテイクは公式にはこのぶつ切りエディットでしか聴くことができない状況である。
「ヨイトマケの唄」に話を戻すと…この曲も放送界ではアンタッチャブルな存在となっていく。91年9月のTBSテレビの番組では、美輪明宏本人の歌唱が予定されながら、直前にNGの判断が下り、美輪本人も番組自体に出演拒否という対応に出る(『創 1993年12月号』創出版、1993)。96年、当時テレビ朝日映像の丹羽俊夫はオンエア可否の相談を受け、それまでもこの曲は何度も民放連の会合で検討されていたと記している(『月刊民放 1996年6月号』日本民間放送連盟、1996)。
こういった状況を93年秋の時点でどこまで桑田がはっきり認識していたか不明だが、とにかく桑田はこの曲を選び、歌った。自分という歌手を通した母と子の愛、「日本人の為の生活の歌」で、桑田は聴衆から確かな手応えの感覚を得たようである。
オレはレコード発売してないし、直接歌うでしょ。お客は初めて聴く人が多いと思うんですよ。だからものすごくフィルターを通さないですよね。事前のプロモーションもないし。そういう手触りがざらっとあるだけ、ぼくらが普通やってるのとは全然違いますよね。普通はCD出して振っておいて、歌詞を覚えさせてライヴでいっきに攻め込もうって感じでしょ。
(『月刊カドカワ 1995年1月号』)
あの時、「ヨイトマケの唄」を初めて歌ってみて、あそこにいた人たちも、ああいう唄は初めて聴いたんだと思う。でも、あれ歌ったことで、お客さんとの距離がぐっと縮まった気がしたんです。なんていうか、こたつを挟んで向こうとこちらに居る、みたいな、そういう距離になれた。最近、忘れてたことなんです。
歌の好きなサルの私が、ギター一本持って、こたつの向こうの友達に歌う。その時の説得力、久しぶりに思い出したんです。
歌の好きなサルの私が、ギター一本持って、こたつの向こうの友達に歌う。その時の説得力、久しぶりに思い出したんです。
(『ワッツイン 1994年10月号』ソニー・マガジンズ、1993)
なお、AAA ’93はNHK(BS)・TBS・テレビ朝日でテレビ放送されている。各局生中継では各会場の抜粋版、NHKでの録画は武道館のみの構成であるにもかかわらず、いずれにおいても「ヨイトマケの唄」がオンエアされることはなかった。
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AAA ’93終了後は、12月いっぱいサザンの年末ライブ『Victor Presents ’93年末スペシャル 「しじみのお味噌汁」コンサート』が横浜アリーナで開催される。思うように仕上がらないままリリースされた「クリスマス・ラブ」を引っさげ、(アルバムが出なかったので)過去からのヒット曲中心の内容で展開。そんなセットリストについて、『R&R Newsmaker 1994年2月号』(ビクター音楽産業、1994)では「この日のサザンのステージは、ほとんとポール・マッカートニー状態だった」と評されている。
そしてこの時点でどこまでコンセプトがあったか不明だが、94年3月には次のアルバム用のレコーディング開始が定められる。セッションが始まるまでに桑田は、何曲か曲を書いておく必要があった。

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