2023年2月21日火曜日

Glyder「In Love With Cherry」[Ken Gold Songbook]

Glyderは英国で70年代半ばに活動していた7人組ヴォーカル&インストゥルメンタルグループです。英Warner Bros.と契約し、75年に唯一のLP『Glyder』をリリースしています。LPのプロデュースはNew Seekersの一連の作品やBee Geesの3枚目『Bee Gees’ 1st』などのエンジニアであるMark Claytonによるものでした。

このGlyder、LPリリース後に数枚シングルをリリースしていますが、最後の2枚はメンバー以外のペンによる曲で、76年は大晦日にラスト・シングルとしてリリースされたのがKen Gold & Micky Denneコンビ作の「In Love With Cherry」です。プロデュースはGoldとは馴染みの、Sugarbeats〜Castaways〜Grapefruitと渡り歩いたPete Swettenhamがクレジットされています。

楽曲はパワーポップとまではいかない明るく楽しいポップスで、前年Hermitsが取り上げたGoldとMartin Shaer(これまたGoldとは旧友の、Sugarbeats〜Castawaysの元メンバー)の共作「Ginny Go Softly」のメロウでポップな路線をキープしつつ、ビートを強化したような一曲に仕上がっています。Gold-DenneコンビがReal ThingやDelegationで既にコンテンポラリーなソウルのソングライターチームとなりつつあった中では貴重な、70年代前半のGoldを想起させる一曲であると言えましょう。

メンバーのうちAndy Price、Nevil KiddierはこののちパワーポップバンドPinkeesを結成、英Creoleから82年にアルバム1枚とシングル数枚をリリースしています。


2023年2月11日土曜日

1988 (1) :『Keisuke Kuwata』

87年7月より開始された桑田のソロ用レコーディングは、「悲しい気持ち」レコーディングを経たのち、小林武史を共同プロデューサー/アレンジャーとして迎える。アルバムに記載されたプロデューサーは桑田・小林・藤井丈司、アレンジは「小林武史 with 桑田佳祐、藤井丈司」と、小林がメインアレンジャーであることが主張されている。LPのゲートフォールド内側/CDのブックレットには、桑田のみならず小林、藤井の3名が写った写真が掲載、このチームによる作品ということが示されている。

なお、A&Rの高垣健はそれまでサザン・Kuwata Bandではプロデューサーとしてクレジットされていたが、本作では過去の原由子のソロ同様、ディレクターと記載されている。

録音・ミックスはKuwata Bandに続き今井邦彦が担当、共同プロデューサーとしてもクレジットされている。LPカッティング、CDマスタリングはNYで今井と高垣立ち合いのもと、60年代後半から数々の名盤を手掛けていたGeorge Marinoが担当。今井によると当初はSterling Soundの別の某エンジニアに依頼していたが、完成品の曲間に取れないノイズが入っており、急遽George Marinoに再依頼、結果2度渡米することになったという(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019

当初は88年1月1日にはリリースする予定でレコーディングは進められたが(「Guitar Book GB 1987年11月号、結局録音完了したのは88年5月初頭、という長丁場となる。


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録音現場では、当初こそ桑田のデモテープを元に複数ミュージシャンとのリハーサルも行われていたが、そのうち桑田・小林・藤井だけでの、プリプロダクションと本番レコーディングが一体となったスタイルで進行されるようになる。桑田の持ってきたメロディ(一曲丸々という状態でもなく、部分部分のみの場合も多々あったようだ)をもとに3者でトラックを作り、出てきたサウンドによってはさらにメロディを加える・変えていくという、作曲と編曲がキャッチボールで進行していく状態となったようだ。

— プリプロダクションはどうでした?
小林武史「いや、最初から本番のレコーディングだったんです。だから、いつもレコーディング・スタジオでデモ・テープ段階の作業とレコーディングが、ずっと繰り返されてたって感じですね
。」
— 小林さんのアレンジ法というのは?
小林「ある程度、曲が成熟していくまでの段階で、例えばA、B、Cという段階があるとしますよね。まずAの段階で、Aメロとサビだけ出来ていると。その間に何かメロディが欲しいんだけど、とりあえずやってみる。この段階で、リズムとかベースの感じでまず第1段階のアレンジが始まるわけです。で、B段階になると、それを元に構成してみる。イントロをどういう雰囲気にするとか、間奏の雰囲気とか、そういうアレンジになっていくんです。第2段階になると、Bメロだけ作り直すっていう形になって、最終的なメロディの作り直しとか、決定稿が出てくるわけです。その段階で、曲の大体の雰囲気というか、環境みたいなものはできてくるわけです。例えば、弦とブラスの絡みとか、ブラスの音色であるとか。」
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」リットーミュージック、1988)

象徴的なのがアルバム一曲目「哀しみのプリズナー」のエピソードだ。
— 特にレコーディングで難航した曲というのはありますか?
桑田「1曲目の「哀しみのプリズナー」がそうなんですよね。メロディが全然違ってたんですよ。最初はジョージ・ハリスンみたいな曲だったんです。僕がスライド・ギター弾いて。でも、どう考えても古いんですよね、その曲が。ちょっとカントリーを匂わせるような、暗いイギリスの雰囲気がしたんです。で、ちょっと新しさを出すためにTR-808のタムを入れようってことになって。”スッテケ、スッテケ”っていう、ちょっとハネた感じのを入れたんです。そしたら、今度は歌がハマんなくなっちゃったんですよ。それで、16ビートを強調しようってことで、小林クンが”デケデケデケギャーン”っていうフレーズをキーボードで入れたんですよね。もう完全にナウくなってきちゃって、まずAメロの歌を入れ直したんです。その場でAメロを考えて、当然Bメロも合わなくなってきたんでどんどん付け足していったんです。Cメロも考えて付け足して……だから、イントロの”スッテケ、スッテケ”と、小林クンの”デケデケデケギャーン”、それだけのことで、もう曲が変わらざるを得なかった。すごく微妙なことにこだわったんですよ。スリルがあって非常に面白かったけど。
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)
小林「たとえば、M1という曲、A面の1曲目の曲ですけど、あれなんかはイントロの生ギターのストローク以外は全部変わっちゃったんだけど、最初は生っぽく8 beatでやってて。でも、そのままだと古いロックになってしまう。“何とか新しくしたい”って。それは彼(引用者注:桑田)の口グセで。サビが2曲(引用者注:原文ママ)変わったんですけどナカナカ上手くいかないんですよ。じゃあ、この曲の考え方は60年代の曲を今風のアレンジでリメイクしたような感じを狙ってみようかって話もあったんだけど、その発想って単純でしょ?結局、この曲が最後まで残って時期的に気持ちも高まってきていたから、僕が考えた16のベース・パターンに全然別のAメロがついたっていう感じなんですよね。
(「キーボードランド 1988年7月号」リットーミュージック、1988)
冒頭の複数アコギが名残ということは、「My Sweet Lord」的なサウンドでも目指していたのだろうか。ちなみに、この当初用意されボツとなったメロディは、95年の桑田と小林の最後のコラボレーションでめでたく世に出たものだろう(アレンジはRolling Stones meets Stevie Wonderのようなサウンドだが、楽曲のコード進行、特に冒頭のヴァースは「哀しみのプリズナー」とほぼ同一で、その後も付かず離れずの展開である)。小林のお気に入りだったようで、94年以前に小林の依頼でMr. Children用に桑田から譲り受けていたものだという(「Views 1995年9月号」講談社、1995)

アルバムからのセカンド・シングルとなった「いつか何処かで」のエピソードも。
小林「2枚目のシングルになった「いつか何処かで」っていう曲も、最初のとまったく違ってましたね。最初はブライアン・アダムスみたいな曲だったんです。割とヘヴィな感じで、サビだけはできてたんですけど、Aメロが全然違ってたんです。Aメロは、ある日作り直してきたときに、僕の中で「ああ、これは違うんじゃないか?」っていうのが出てきちゃったんです。そしたら、「これ、打ち込みでやろう」って桑田さんが言い出して、シーケンス・パターンを僕が考えて、藤井クンがTR-808でやってみたんです。そこでもう大きく流れが変わって、あとはもう……。あの曲はそういう意味ではガラス細工みたいな、密室性って言われてますけど(笑)、細いもので作り上げる、そういう感じでした。」
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)

このアルバムのレコーディング途中の87年末には前年に引き続き「Merry X'mas Show」が日本テレビ系で放送されている。解散したKuwata Bandもこの番組では再結成し出演、メンバー各自のアレンジの曲も含まれているが、小林・藤井のソロアルバム組が担当している楽曲も披露されている。
スクランブル四重合唱」「二人のFour Seasons Dedicate to “Noboru”」「きよしこの夜」は小林が単独で編曲にクレジット。おそらくトラック制作は藤井と桑田が参加しているだろう。
また編曲クレジットは無いが、「愛のさざ波 Dedicate to “Chiyoko”」は小林・藤井・桑田の3名によるトラック(その後の「リンゴ追分 Dedicate to “Hibari”」もだろうか)。
藤井丈司「クリスマスショウの時だね。アレンジは小林武史さん、桑田さん、僕。元ネタはTaste of honeyやMtume。@st_batucada: “@isoberyo: @junpq: このブラコンアレンジYouTube - 愛のさざ波 http://bit.ly/fgWaeN” 藤井丈司(fujiitake)10:11am、2011.3.2.
https://twitter.com/fujiitake/status/42753850372927488
ハマクラ・クラシックを藤井のツイートのとおりオリエンタル・ブラコンで、といったコンセプトだが、特にこの曲のトラックの質感は録音中の桑田ソロのサウンドを先行披露したような形だ。


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ソロアルバムの制作にあたり、「ポップ・ミュージック」のキーワード以外に桑田がイメージしていたミュージシャン、作品というのはどんなものだったのだろうか。

「今は、んー、高校生時代とかね、鎌倉学園の在校生だった頃の気持ちに戻ってやってみたいの。ポール・マッカートニーの『ラム』とか、『ジョンの魂』とか、ポール・サイモンとか。シンプルで、メロディ・ラインがあって、ね。そういうのを聞いてた時期に戻りたい。自分の中の聞き手みたいなものに対してもっと素直にアピールしたい、と、そんな感じ。」
(「宝島 1987年11月号」JICC出版局1987)
「悲しい気持ち」リリース直後のセッション初頭のコメントでは、まだ探りの段階ながら、自身が愛聴してきた、グループのヴォーカリストのソロアルバムというのが念頭にあったのが窺える。

「ちょうど洋楽でもスティーブ・ウィンウッドやティナ・ターナーとかロバート・パーマーなんかがヒットしていてね。かつてグループのリードシンガーだった人がソロで打って出たというサンプルをたくさん見ていて、『そういうのもいいなあ』なんて思えたんじゃないかな。」
(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)
といった具合に、直近の作品でやはりグループのヴォーカリストの直近のソロ作なども参考にしている節はある。後述の鈴木惣一郎の指摘にもあるように、破綻しないアダルトな質感などはDonald Fagen『The Nightfly』なども意識していそうだ。


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このアルバムでは藤井と小林によるコンピューター、シンセの音でほとんどが占められ、小林以外のマニュアル・プレイは原田末秋を中心とするギターがある程度登場するに留まっている。ブラスもほぼシンセ・弦も完全にシンセではあるのだが、しかしいわゆるエレポップ的なところには行かず、16ビートのファンキーな要素も顔を出しつつも基本は大人のオーソドックスなポップス、AOR的な枠をキープした作品になっている。

— 変な言い方になりますが、藤井さんといえばデジタル、桑田さんといえばアナログっていうイメージがあるのですが、桑田さん自身は打ち込みとかデジタルとかに違和感はありませんか?
桑田「6、7年前に、例えばバグルスとか、トレヴァー・ホーンとかが一生懸命やってたような音楽を日本人が真似してピコピコやってた頃に比べて、もうかなり機材とかも進歩してるしね。それに、デジタルが冷たいからっていう理由で、弦とかサックスのソロとか呼んでくると、けっこうアングラになっちゃったりするというのがあるんですよ。だから、藤井クンとカーツウェイルとかでサックスのソロとか弦やるっていう方が……むしろデジタルの方が暖かく聴こえるっていうところまできてません?昔の、エレクトロ・ポップの時代っていうのは、あくまでもテクノロジーって言ったら、そのプラスチックな部分を強調するばっかりだったけれども、今はその逆ですよね。(略)デジタルの方が自分の空想の中の音っていうのかな、けっこうそれに近いものがあったりとか、あと微調整ができたりするでしょ。だからそういう意味で、欲しい音になりますよね
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)
このとおり桑田は、マニュアル・プレイよりコンピュータのほうが自分の欲しい音であるとまで言い切っている。それを具現化するために必要なミュージシャンが、藤井・小林2人だったということだろう。

— (引用者注:桑田は)新しいものに対して貪欲?
小林「やっぱり、新しい形に自分を変えていくしかないっていうのはあるだろうし。POPSですからね、あの人は実体とかってないんですよ。桑田佳祐は一体なんなのかっていうんじゃなくて、彼が時代の鏡であり、今多勢いる人たちの鏡、投影者になろうとするんですよ。だから彼が立とうとする座標って、一番POPなところっていうことになる。言い換えると、彼が一番カッコよく見える音楽だし、彼の歌い易いものだし、歌って気持ちいいもの、彼自身が聴いて良いと思うものでなくちゃいけないわけで。とにかく彼は完全主義者だから、10ヶ月もかかってしまったんですよ。それを許す財力もあるってことですが。
(「キーボードランド 1988年7月号」
このコメントからも、コンピューターを使った音楽制作がデフォルトとなりつつある時代にいかに適応するか、という桑田の意思を小林がよく理解していたのがわかる。同時に「あの人は実体とかってないんですよ」とまで言い切る小林の洞察力も鋭い(2021年の桑田インタビューにおける桑田の自己分析と同じである)。

また、藤井・小林という人選は、最新の都会的なポップス・ミュージシャンらの感覚を、桑田自身の感覚とうまく融合させようとしていたのではないかというようにも見える(戸田誠司の参加案もあったということであれば、尚更だ)。藤井はすでに桑田にとって馴染みのある立場だったと思うが、元々はYMOのスタッフからプログラマーになり、YMO散解後もソロ作等に継続的に関わっている立場であった。
小林については、前回でそれまでのキャリアを眺めたとおり、決して単純に「シティ」の流れのミュージシャンというわけでもないのだが、桑田のコメントからは(いまだに)そのように見ているのがわかる。
「彼(引用者注:小林)は大貫妙子さんとか坂本龍一さんと言った、いわゆる知性派のシティ・ミュージック的な畑から出てきた人で。僕は僕でサザン然り、歌謡曲的な発想とかちょっと下世話なものを背負って出てきたタイプだったのかもしれない。少なくとも彼は最初、そう思ってたんじゃないかな?(笑)。彼には曖昧さや下世話さが皆無だった。よく僕の事を『電通っぽい』とか『野卑な香りがする』とか言ってたっけ(笑)。僕だって十分繊細だと思いますけどね(笑)。ともかくお互いそれまでにまでに会ったこともない類いの人間同士だった。その違いが、いい化学反応を起こしたんだと思います。
(「Switch Vol.30 No.7

なお、桑田が回想する小林のエピソードでは、自身と小林を上記のように対比する表現が多々登場する。このあたり、桑田のコンプレックスが顔を覗かせている。
小林くんはオレのことを芸能オヤジって思ってるかもしれないけど、その芸能オヤジっていうオレの持つ胡散臭いところと、小林くんの研ぎ済まされたところで清濁合わせ飲んだら合体したって感じだよね
(「月刊カドカワ 1995年1月号」角川書店、1994


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歌詞は完全日本語というわけでは無いが、程よく英語がブレンドされた従来の手法に戻っている。また「英語風に聞こえる日本語」の唱法も復活し、どちらかというとそちらを強く意識した歌い方も目立つ。このあたりはこれまでの経緯から自身の良さを改めて伸ばす方向に舵を切ったということだろう。

詞の内容はシンプルなラブ・ソングに加えて、シンガーソングライターよろしく2児に捧げた「Dear Boys」、住宅購入を元に書かれた「路傍の家にて」、Hall & Oatesのレコーディング現場を訪れた際の様子を描いた「Big Blonde Boy」など、ソロならではの個人的な内容も登場するようになる。また、「愛撫と殺意の交差点」での、世を真っ向から批判する形で主張するわけではなく、あくまでスケッチのように淡々と描写・独白するスタイルはここで初登場、90年代の桑田ではおなじみのパターンのひとつとなる。

もともと桑田の歌詞はサザンデビュー以降、仮歌のメロディから桑田の口をついて出たデタラメ英語/日本語をベースに組み立てられており、語感優先で意味は明確に用意されていなかった。しかしその曖昧に描かれている世界観とメロディ、歌唱の組合せが評価されていた面があったといえる。デビュー直後に「詞は画期的」「ただ読んだだけじゃ、一体何が何やら判らない詞が多いのだが、不思議なことに、メロディが付き、桑田が歌うと妙に自然な世界が広がってくる」「アイマイサにおいて桑田の作品はズバぬけて優れている。そしてメロディとの間に、すきまが全くないのも見事だ」と評したのは近田春夫であった「ニューミュージック・マガジン 1978年10月号ニューミュージック・マガジン、1978)

しかし、マンネリを感じた桑田はサザン83年『綺麗』から意図的にストーリーを組んだり、メッセージを忍ばせるようになる。そしてこのソロのタイミングで、周囲からまた新たな刺激を受けていたようだ。
 当時の詳しい様子は後述するが、この時、一緒にやり始めたのが藤井丈司、小林武史、小倉博和といった人達で、彼らは僕からしてみると意外にも”詩の事をとても気にする人達”だった。藤井君は「はっぴいえんど」の松本隆の世界観なども通ってきた人だし、小倉君は僕より若いのに、加川良とか高田渡だとかフォークのことや、古い映画のことなどをとてもよく知っていた
「言葉の羅列やインパクトだけじゃなく、歌全体で誰に何を伝えるか」
というような事を、誰に言われたわけではないが、小林くんも含め彼らとやっているうちに、そう考えさせられるようになった。(アイツら、エラそうに)
 スタジオでよく、
「この詩はどういう意味?」
 と訊かれたものだった。
 そんな彼らに囲まれているうちに、
「オレもやってやろうじゃないか」
 という気になる。「ただの歌詞」ではなく、文として、詩として、読むに値するものが書いてみたくなった。(悲しいことに歳をとると皆こうなるのよ)
桑田佳祐やっぱり、ただの歌詩じゃねえか、こんなもん - 桑田佳祐 言の葉大全集」新潮社、2012

小林も、自身のプロデュースワークについて、僕は言葉の部分もやっちゃうから。」
(「キーボードランド 1988年7月号」と語っていた。「小林武史はその後の桑田のサウンド作りを変えてしまった」とはよく指摘されることであるが、実のところサウンドのみならず、歌詞作りにおいてもその影響は大きかったのかもしれない。


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アルバムは原田末秋&笛吹利明の「My Sweet Lord」風?アコギの上で長田進のエレキギターと前述の小林のシンセが鳴る不思議な組み合わせ…がTR-808のタムを機に一気に雰囲気が変わる、というイントロのモダンな16ビート「哀しみのプリズナー」で幕を開ける。質感はSting『…Nothing Like The Sun』的な雰囲気もあり、歌い出しの「さあ部屋中を暗くしてくれ」から桑田の十八番である「英語っぽく聴こえる日本語」も全開だ。長田は佐野元春のThe Heartland加入以前から、小林とは顔見知りだったようだ。コーラスにアン・ルイスも参加。

Beach Boys+Chordettes?な桑田の一人多重コーラスで始まる「今でも君を愛してる」では抑制された桑田の歌と、小林の面目躍如というべきシンベの響きが素晴らしい。曲をさりげなく支えるブラス隊、ギターなども小林のシンセによるものである。ドラムロールのみ山木秀夫が演奏。

8ビートの「路傍の家にて」でも桑田の日本語の載せ方・崩し方は従来の芸風を推し進めたものになっている。イントロ、シンセのブラスとグロッケンの組合せからしてポップ感極まった、小林の手腕全開の一曲。ギターのみ原田末秋。

Dear Boys」は原田末秋のウクレレをフィーチャーした曲で、ヴォーカル含めてレトロ風の音処理が面白い。ミュート・トランペットの間奏を含めたブラスももちろん小林のシンセによるものだが、桑田の言うように暖かなサウンドに仕上げている。アコギは斎藤誠、ベースは琢磨仁。原由子もコーラス参加。

「ハートに無礼美人」はBo Diddley&シャッフルビートに小林によるシンセのブラス隊が絡む曲。間奏ではようやくシンセでない、松本治によるトロンボーン・ソロが入ってくる(桑田の「Heavy〜heavy〜」以降は左右に分かれ2本対位のソロになるのも面白い)。ギターは原田。

「いつか何処かで」はアルバムからのセカンド・シングルとして88年3月に先行リリースされている。抑制された桑田の歌がまたまた素晴らしい。maj7の頻出や、D→Daug→D6→D7と5度が半音ずつ上がるコードの上で同じメロディを繰り返す、という部分も印象的だ(桑田はこの後すぐこの進行を再利用することになる)。この曲でもイントロのベル系のシンセのみならず、歌の途中から控えめに、効果的にグロッケンが登場する。こののち小林のトレードマークのひとつとなるグロッケン、これ以前の小林作品では登場せず、どうもこの桑田ソロセッションから多用し始めているようである。またこの曲における、ほとんどシンセなのだがノスタルジックなアコースティック感を演出する、という手法は90年台前半までの小林の十八番ともいえるスタイルだが、「Dear Boys」やこの曲で既に完成されていると言ってもよいだろう。小林はこのアレンジについて、「あれだけピンセットで作ったガラス壜のなかの船みたいにきれいなアレンジと言うのは、ぼくの記憶では日本のポップスにはそんなになかったように思う(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)と自負している。ギターは原田。

「Big Blonde Boy」は前述のとおりHall & Oates訪問時の様子を歌っているが、サウンドもイントロのJBっぽい雰囲気からシンベがよく動く打ち込みファンクに流れる。日本語崩しとファルセット、女声コーラス(桑名晴子)などの組み合わせも相まって若干岡村靖幸の87年作ファースト・88年作セカンドの中間のような雰囲気もある。ギターは原田だが、ソロパートは当時ルースターズの下山淳。

「Blue〜こんな夜には踊れない」は歌謡調の渋いメロディを4つ打ちの16ビートで彩っている。桑田によると制作がかなり難航し、アルバムセッション初頭の87年8月に着手し完成したのはセッション終盤の88年4月とのこと(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」)。こちらもギターは原田だが、ソロの部分は下山によるもの。それまでの曲調から趣が変わり最後に拍子が変化する間奏が面白いが、ここは小林が「クラシカルな、バロックのような響きを「考えて」作った」(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」立東社、1988)とのこと。

「遠い街角」はコーラスに竹内まりやを迎えたA&MというかBurt BacharachというかCarpentars的なMORの世界。頭から作ったと思しき歌い出しのヴァースの美メロが印象的だ。若干このアルバム全体のサウンドからは浮いているが、当初桑田は打ち込みっぽくストレンジな方向で行こうとしていたようだ。しかし小林が「スタイルができ上がっている曲だから、ベーシックに」アレンジしたという(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)。ギターは河内淳一。アルバムからのプロモ盤7インチにはこの曲と「ハートに無礼美人」が選ばれている。

ファースト・シングル「悲しい気持ち」を経て、シャッフルのアバンギャルドなブルース「愛撫と殺意の交差点」が始まる。桑田によると自身が過去聴かずに飛ばしていたようなブルースを意図したという。
「ポールマッカートニーの《ラム》の中に<三本足>って曲があったじゃない?俺さ、昔からあの曲がキライでね。《ラム》を聴く時、いつもあの曲だけとばしてたの。ただ、ずっと気になっていたんだ、あのブルースっぽい曲のこと。それとリトルフィートのセイリンシューズの中に<アポリティカル・ブルース>っていう曲があるでしょ?あれも必ずとばしてたの。“やっぱりリトルフィートはファンキーにやってくれないと、ダメだ”とか言って。ローリングストーンズのスティッキー・フィンガーズに入ってる<ユー・ゴッタ・ムーブ>もそう。あれって、ちっとも良くないブルースだったでしょ?全然正統派のブルースじゃないのね。あの曲もイヤでイヤで、いつもとばしてた。でも、これらの半端なブルースが今になって良く思えたの。ブルースの解釈なんて、人それぞれでいいんだって思った。で、俺も<愛撫と殺意の交差点>っていう自分なりのブルースをやったの。」
(「GB増刊 Volume 1 Vol.4 1988 July」CBSソニー出版、1988
中盤、終盤はブリティッシュ、というかBeatles『Magical Mystery Tour』風にサウンド・コラージュが展開される。この曲のみ、藤井の連れてきた門倉聡がシンセ、シンベのみならず共同アレンジとしてもクレジット。門倉もそれまでに大貫妙子『Comin' Soon』や、矢口博康・戸田誠司・福原まりや鈴木さえ子参加の漫画イメージアルバム『アクマくん魔法★Sweet』等にアレンジャーとして名を連ねている。この曲がきっかけで、門倉はサザンの次のアルバムに参加、小林に代わりアレンジの中心を担うことになる。ギターは原田、コーラスで竹内まりやが参加。

「誰かの風の跡」はこのアルバムの総決算のような、シンセのアコギとボンゴが心地よいバラード。ポルタメントのかかったアナログ・シンセも、のちの小林武史のトレードマークのひとつとなる要素だが、この曲が初登場ではないだろうか。それまでの桑田にはなかった、大部分がファルセットで歌われている楽曲で、誰を意識したのか妙にクセのあるメロディ回しなども印象的だ。最後はかなりオフだが実は入っている、即1オクターブ上がるBのロングトーンのファルセットがフェイドアウト、追ってトラックもフェイドアウトしアルバムは幕を閉じる。



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このアルバムの制作中、前出の海外ミュージシャンの作品とは別に、プロデューサー3名が作業中常に意識していたある日本のミュージシャンがいたようだ。

桑田「最近ですね、僕もレコーディング10ヶ月してましたけど、コンピュータープログラミングなんていうのはね、当然ありましてそこに達郎さんの話題が必ず出るんですね。僕レコーディングずっとしてきてね、達郎さんほど語られる人って少ないよね、他所で。レコーディングしてる現場で、例えば何かやってると『タツローっていうのはこうこうこうで…』」
山下達郎「あーそう、意外…。」
桑田「うちの今コンピュータープログラミングの藤井っていうのとか、小林武史っていうのが。みんな達郎さんっていう人とたぶん会ったことは無いと思うんだけど…」
山下「いや藤井くんはよく知ってる。あのYMOやってた方でしょ。だから、よく知ってますよ。」
桑田「あ、ほんとに?だから、達郎さんに関してはね、出ますね。」
山下「あーそう…全っ然意外。」
桑田「達郎さんだったらどうするか、とかね。」
山下「そんなこと言ってんの…!」
桑田「うん、言ってる。」
山下「へえ〜。」
桑田「バラシバラシじゃなくてね。達郎さんのイメージっていうのを語り始めるってことが多かったですね、今回のアルバム僕ら、10ヶ月やってましたけど。」
(「Tokyo Radical Mystery Night」Tokyo FM, 1988.7.6.)

そういえばこのソロ・レコーディング初期、ポップスについて語る桑田は山下の名を出していたこともあった。
「でもやっぱりこう、ポップスって……俺、山下達郎みたいな人ってすごく好きなのね。竹内まりやとか。ちょっと堅物のさ、何か職人芸みたいなのあるじゃない?でも最終的にあの人は職人なんだよね、最後自分でボーカル乗っけるとき、あの人のボーカルって単なる女好きみたいに聞こえるんだよね俺は。ずーっと職人的にやってったのを、最後は自分の歌の色気だけを信じてさ、畳職人みたいなことをやってったのを、最後に自分の歌乗っけると結局全部ぶっ壊してしまうみたいなさ(笑)、ああいうたたずまいが好きだけどね。ああいうガンコ者の音楽だと思うの、ポップスってのは。筋金入りのもんですよ。
(「Rockin' On Japan 1987年11月号」ロッキング・オン、1987 / 「ロッキング・オン・ジャパン・ファイル ロッキング・オン3月号増刊」ロッキング・オン、1988)

この時点での山下のレイテスト・アルバムといえば『Pocket Music』だ。大胆にコンピュータを導入しながらも違和感無く従来の路線をキープし、かつ30歳を超えたシンガーソングライターとしてオプティミズムもペシミズムも包み隠さず表現した、中年男性によるポップスのひとつのあり方を提示したレコードであった。

山下は『Pocket Music』リリース時、サウンド・コンセプトの根幹思想として、こんな話をしている。
— でも達郎さんの場合、同世代の人たちがついてきてると同時に、若い人たちも新しく入ってきてますよね。
山下「交錯してますね。10数年もやってますとね、ギャップがすごいんです。20歳の人と30歳の人を同時に満足させるようなレコードやコンサートってのは、本当に大変なんですよ。だからね、少なくとも音の色というのは、今生きてる色じゃないとダメなんです。メロディなんかはもう変えられませんから。スタジオや楽器を含めた環境の中で、やっぱり一番コンテンポラリーだとされるような使い方をしていかない限り、生きてる音楽にはならないんですよね、流行音楽の場合は。」
(「Sound & Recording Magazine 1986年6月号」リットーミュージック、1986)
メロディは従来の持ち味をそのままに、サウンドはトレンドの音色を使うことで今を生きる流行歌を作ろうという試みもポップスの伝統的な手法ではあるが、山下のポップスとコンピュータの組合せはそのまま今回の桑田ソロの方法論、果てはこの先の「Jポップ」のひとつの方法論そのものともいえる。

細かいところでは山下の作品史上、『Pocket Music』はグロッケン(と何らかの楽器のユニゾン)や、類似のベル系シンセなどが多用されるようになる節目のアルバムでもあった。

ところで、小林武史は数年後自身がプロデューサー・メンバーを務めることになるMy Little Loverのコンセプトの原点にこの『Pocket Music』があったことを、後年さりげなく明かしている。
小林「そうすねえ。だからやっぱり - いや、これはもうどうとでも言えることなんですけど、マイ・リトル・ラバーっていうのはひとつの思いつきから生まれたものなんで。それは例えば(山下)達郎さんの『ポケット・ミュージック』だったり。(略)やっぱりちっちゃい頃から1曲好きになるとしばらくずーっとその曲聴いてるっていうか、そういう曲の在り方みたいなことでやってみるっていうアイディアがあって、たまたまそん時にAKKOが登場して。で、始まったんですよ。」
(「Bridge Vol.31 2001年8月号」ロッキング・オン、2001)
文脈からこのコメントではアルバムでなく楽曲としての「ポケット・ミュージック」を指していそうだが、小林によるJポップ史に残る名盤のひとつであろうMy Little Lover『Evergreen』も『Pocket Music』無しでは生まれなかったということになる。いま一度、日本ポップス史における『Pocket Music』の重要性は認識されるべきかもしれない。


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リリース後のアルバムレビューをいくつか見ていきたい。まずはこの時期かなり桑田が接近していた渋谷陽一の評から。
 A面1曲目のイントロの音にとりあえずは驚かされる。何も洋楽に近ければ偉いというものではないが、アレンジの緻密さ、演奏能力の確かさ、ほとんど洋楽のレベルである。しかも日本人のサウンド貧乏性とも言える録った音は全部使ってやる、というところがなく、音数はシンプルにまとめられている。この辺は小林武史の力が大きいのだろう。こうしたアレンジと録音のレベルの高さはアルバム全体にいえる。時間をかけてディテールまでていねいに作られている事が聞いていると十分に伝わってくるのだ。
 (略)英語で歌うKUWATA BANDで欲求不満を起こしていた彼の言葉のファンもこのレコードでは満足することができるだろう。
 さて、この僕にとっても長い間楽しみにしていたレコードを聞いて、おおむね満足したのだが、一点だけ気になる事があった。それはレコードの持つ密室的なムードである。あまりにもお見事にコントロールされ、どうもポップ・ミュージックの持つ下品さに欠けるような気がしたのだ。「まあ、いいか」と放りだしたものが結果、音楽に勢いをつけたりするのがポップ・ミュージックの面白いところであったりする。そうした、いい意味でのいいかげんさがない。何やら達人が作り上げた見事な完成品的な感じがする。確かに整合感を無視したような作品もあるが、それも予定された整合感の無視のように思えるのだが。(渋谷陽一)
(「ロッキング・オン・ジャパン 1988年7月号」ロッキング・オン、1988)

続いておなじみミュージック・マガジンからは高橋健太郎の評。高橋はサザンのデビュー前後のライブに足繁く通ったのみならず、「Young Mates Music Player 1978年10月号」(プレイヤー・コーポレーション、1978)とかなり早い段階でのインタビュー記事を担当。「ザ・ベストテン」サザン初登場時の新宿ロフト中継にも観客として桑田の真後ろにずっと映っている(高橋健太郎kentarotakahashhttps://twitter.com/kentarotakahash/status/37450118856839168 pm6:56 2011.2.15.)など、デビュー当時のサザンにかなり近い位置にいた音楽評論家のひとりだ。
 桑田佳祐は、その登場の時から馬鹿でかい個性を持っていた。僕は彼とはまったく同世代だが、ヤマハの渋谷店で初めてサザンのデモ・テープを聞かせてもらった時は、負けた!と思ったし(バンド解散したのはあの直後だったなあ)、アルバム・デビュー以前に10回は観に行っている。日本語をロック・ビートに、あるいは洋楽的なメロディーにのせる方法の新しさ、そして傍若無人でいながらハートフルな歌心には、ホント、惚れ込んできた。
 けれども、天才ゆえのワン・パターンというべきか、デビューした頃の彼の音楽の中に散らばっていた可能性の一部分しか発展していないように思えるのが、僕には気になる。(略)良いアレンジャーを得て、ゴージャスかつ凝った実験性のある音を作ってもいる。それでも、このアルバムの印象は、どこかフラットでレンジが狭い感じがあるのだ。まだまだ桑田佳祐にジェームズ・テイラーやマイケル・マクドナルドのようになって欲しくない僕には、それが惜しい。(高橋健太郎)
(「ミュージック・マガジン 1988年8月号」ミュージック・マガジン、1988)

ちなみにこの数ヶ月後、ミュージック・マガジン編集部は同じコーナーで高橋に山下達郎『僕の中の少年』のレビューを依頼している。続編のようなレビューになっているのが興味深い。
 桑田佳祐のソロに、まだまだジェームズ・テイラーやマイケル・マクドナルドのようにはなって欲しくない、と文句をつけたら、今度は山下達郎の新作が回ってきてしまった。知っての通り、この人はとうにジェームズ・テイラーの域ですからね。もはやモデル・チェンジなし。ひたすら細かいチューン・アップを重ねて、完成度を高めていくだけ。(高橋健太郎)
(「ミュージック・マガジン 1988年12月号」ミュージック・マガジン、1988)

渋谷はクオリティの高さとそれゆえの完璧なサウンドの息苦しさ、高橋はデビュー当時の桑田の才能の眩しさとこのアルバムの落ち着き様のギャップを素直に吐露している。おそらくデビューからリアルタイムで桑田を追いかけていたリスナーには、このあたり共感するところもあるかもしれない。

古参のこういった意見がある一方で、今回のアルバムで初めて桑田作品を気に入ったと評価する向きもある。こちらは鈴木惣一郎の評。
桑田佳祐はこのソロ・アルバムを作るにあたり、2枚のアルバムを絶対参考にしている。1枚はポール・マッカートニーの『ラム』、もう1枚はドナルド・フェイゲンの『ナイト・フライ』。これはかなりの確信がある。アルバム全体に漂うセンチメンタリズム、ダンディズム。+αの要素としてのスティング、バカラックなんてのも匂いますぜ。おそらく、桑田氏の描くソロ・アルバムというイメージは、前述のアーティストたち、いわゆるシンガー・ソングライターのりに集約されていると思われる。サザンは自他共に認める桑田氏のワン・マン・バンドなのに、KUWATA・BANDだってそうだったのに、やはり彼にとってのソロという部分はこのアルバムの中にのみある。とてもナイーブで、がんばり屋で、ポップスの大好きな桑田佳祐。僕は初めて気に入りました。(鈴木惣一郎)
(「Techii 1988年8月号」音楽之友社、1988)


***



様々な評はあるが、本ソロ・アルバムがなにより桑田本人にとって刺激のあるレコーディング、迷いのない出来になったのは間違いない。以下は日時の記載は無いが、90年はシングル「真夏の果実」と同日発売の歌詞集収録のインタビュー。
ソロアルバムはね、サザンとは比べられないけれど、個人的には一番好きだな!ってのが本音。っていうのは、音楽のキャリアが何年があって、その中で、やっぱりいろいろ踏まえて来たものを、ソロっていう形だけど自由に出せたこと……それに小林武史君っていう、とってもいいパートナーを見つけられたこと、まあサザンもクワタバンドの時のメンバーもそうなんだけど、いい仲間と音楽作りができるっていうのは最高。で、ソロアルバムの時はシェフが俺じゃなくて小林君。名シェフのもと、素材・桑田は、実に心地良く楽しませてもらいましたね。
桑田佳祐ただの歌詩じゃねえか、こんなもん ’84-’90」新潮社、1990

こちらは94年のソロ活動振り返りより。
「で、小林くんの場合というのは、それは8小節じゃないんだけど、歌に対してとるメロディーの考え方とか作り方とか、それから非常に繊細なエルトン・ジョンみたいなものから、アッパーなちょっと気狂い的なやつ-例えばT-レックスみたいなものとかちょっとプログレッシヴ的なもの……イギリス的なもんかなあ?その辺がすごくうまいのね。で、ビックリしちゃったの。だから彼とチームを組んでた時のすごいめくるめくアレっていうのは、愉しかったというか、すごく勉強になったっていう。だから最初のソロ・アルバムっていうのは、そういうふうにして自分の世界観みたいなのを小林くんによってすごくパーッと広げてもらったという憶えがあるんですけど。」
「自分はいままで音楽を作ってきたけど、それまでは『こんなもんでいいんじゃない?』っていうとこで途中でやめてたような気がする、全部1曲1曲。だけどあきらめなくなったですね、やっぱり彼(引用者注:小林)と一緒にやってると、大事にするようになったというか。詞もヨイヨイだし、それから『やっぱロックでしょ、はいヨイヨイ』だったしね」
(「季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994」ロッキング・オン、1994)

桑田はこの自信作を提げて小林とともにソロ・アルバムのツアーを行いたかったところだが、完成が予定より大幅に延びてしまったことから、88年夏に既に予定されていた別のスケジュールとバッティングしてしまうことになる。そのあたりについては次回に。


2022年12月15日木曜日

Warren Mills「Flame In The Fire」「It's Peculiar」[Ken Gold Songbook]


Warren Millsは84年に英JiveからMiraclesのエレクトロ・カバー「Mickey's Monkey」でデビューした、当時プレティーンのヴォーカリストです。

85年にはファーストにして唯一のアルバム『Warren Mills』がリリースされました。いくつかのプロデューサー・作者チームによる作品を並べた、80年台半ばのキッズ・エレクトロ・ソウル・アルバムになっています。リード・シングル「Sunshine」はFull Forceの提供曲で、ラップも含めたモダンなキッズソウルで最高です。このアルバムにおいて、当時同レーベルに所属していたBilly Oceanとチームを組んだ、Ken Gold作品が2曲収録されています。

1曲目はBilly Ocean - Ken Gold - Pete Q. Harrisが作者としてクレジットされた「Flame In The Fire」。プロデュースもこの3人がクレジットされています。Pete Q. HarrisとGoldは前年のKaite Kissoon以来のコラボレーションとなります。いかにも『Suddenly』『Love Zone』当時のBilly Oceanらしい(若干自身のものより派手?)エレクトロ・ソウルで、コーラスでもしっかりOceanの声が聴こえます。
「Flame In The Fire」は同年、アメリカの映画「Breakin'(邦題:ブレイク・ダンス)」「Breakin' 2: Electric Boogaloo」の系譜にある「Rappin'」のサントラに使用されたため、そちらのサントラにも収録されています。

2曲目はBilly Ocean-Ken Goldコンビの作品「It's Peculiar」。こちらはプロデュースがBilly Ocean-Pete Q. Harrisということで、Goldは楽曲提供のみのようです。ノスタルジックでメロウな60s前半のモータウンを思わせるシャッフルもので、この辺りはGoldやOceanのルーツというか十八番のようなスタイル、それをPete Q. Harrisによる最新のシンセ・サウンドで仕上げた1曲になっています。こちらも派手にOceanのコーラスが聴こえてきます。地味ながらも、好きな1曲です。




2022年12月8日木曜日

1987 (4) :悲しい気持ち(Just A Man In Love)pt.2

ソロ名義のレコーディングを始めるにあたり、桑田はまず藤井丈司にアルバム計画を伝え、同時にサウンド・プロデュース、スタッフ・ディレクションを依頼する。
(『Keisuke Kuwata』フライヤー ビクター音楽産業/アミューズ、1988)

藤井丈司はYMOのアシスタントとしてキャリアをスタート、『Technodelic』の後のソロ作や提供曲・バンド名義では『浮気なぼくら Naughty Boys』からプログラミングを手掛けるようになる。桑田とはサザン「ミス・ブランニュー・デイ c/w なんば君の事務所」『人気者で行こう』でのMC-4プログラミング並びにアレンジを皮切りに、『kamakura』での共同プロデュース・プログラミング・アレンジ、86年初頭のKuwata Bandシングルセッションでのプログラミングと、84年以降の桑田のレコーディングにほぼ参加している(「She’s A Big Teaser」NYミックスのプロモ盤7インチにもSpecial Thanksに藤井の名がある)。既に桑田にとっては馴染みの存在だったことだろう。

87年8月21日に原由子のシングル「あじさいのうた c/w Tonight's The Night」がリリースされている。ポップなA面と渋いブラコン的な雰囲気もあるB面の組み合わせで、アレンジは桑田と藤井の共同名義となっている。このシングル、おそらくスケジュール的に、桑田のソロ・レコーディングの前哨戦だったはずだ。実は参加ミュージシャンも桑田のセッション初頭とほぼ同じである。

Produced by 桑田佳祐
Arranged by 桑田佳祐、藤井丈司
Vocals, Keyboards : 原由子
Computer Programming : 藤井丈司
Guitars : 原田末秋
Bass : 琢磨仁
Drums, Chorus : 松田弘
Chorus : 桑田佳祐

初期桑田ソロセッションのポイントは、結果的にここからサザンのメンバーである2名を抜いていることだ。まずは原由子以外のキーボードが必要ということで、藤井は直前の藤井尚之『Naturally』レコーディングで共演していたキーボード・プレイヤーをセッションに起用。7月からレコーディングが開始される。


***


小林武史は山形県で生まれ育ち、高校卒業後に上京、78年に渋谷の音楽学校に入学。米軍キャンプ回り、自身の自作曲でのバンド活動等を経て、山根麻衣のバックや廣田龍人のRicky & Revolverのメンバーとして、プロの世界でのキャリアをスタートさせている。

82年に杏里のシングル用楽曲コンペの話があり、書き下ろしで見事採用されたのが「思いきりアメリカン」であった。その流れでアルバムにも楽曲提供することになり、翌年アルバム『Bi・Ki・Ni』のB面に3曲を提供。小林のデモを聴いたアレンジャー佐藤準の勧めで、うち一曲「Surf City」は小林自身によるアレンジで収録されることに。アルバムで唯一ドラムはマシンによるもので、淡々とした地味な出来だが、本人によるとAlan Persons Project「Eye In The Sky」のようで、のちの自分のひとつの定番(の路線)になる、と語っている(「月刊カドカワ 1996年1月号」角川書店、1996)

そののち、小林はプロデューサー/アレンジャーとして85年以降、とあるレーベルで年一のペースで作品を残している。

・Jive『Klaxon』(1985.11.)
・アイリーン・フォーリーン『ロマンティック』(1986.6.)
・The Rock Band『四月の海賊たち』(1987.8.)

Jiveは四人組男声ヴォーカル・グループで、ファーストアルバム『First Letter』は伊藤銀次プロデュース、伊藤や杉真理・竹内まりやらが楽曲提供したある意味「シティ」寄りのポップスといった内容。メンバーのオリジナル曲で固められた『Klaxon』がセカンドアルバムにあたる。プロデュースはJive・小林武史のクレジット、アレンジは全曲小林・ヴォーカルパートのみグループの宮下文一が担当。本作がおそらく、小林が最初にプロデューサーとしてクレジットされたアルバムと思われる。80s半ば、ニューウェーブ時代のニューミュージックにコーラスが絡むところがユニークな作品で、当記事的にも思わずニヤリのリズムパターンであるバブルガム・ドゥーワップ歌謡「熱い瞳のマジック」も含む、ポップでバラエティに富んだ内容だ。随所に見せるファンキーな要素も含めて小林の器用さを示した一枚といえる。ベースはマニュアル・プレイ(小林のプロデュース・アレンジでスラップが入るのも珍しい)の曲も入っているが、ドラムは全曲マシン、生の管弦は入っていない。また「Frothy Story」は詞曲とも小林が共作、「スローモーション ランナー」は小林が単独で作詞を手がけている。

アイリーン・フォーリーンは高知出身のニューウェーブ、エレクトロ・ポップ・バンドで、『ロマンティック』はこれまたセカンドアルバムにあたる。メンバーの安岡孝章のペンによる収録曲は、一曲を除き小林が全曲のアレンジを担当、プロデュースのクレジットは小林武史&アイリーン・フォーリーン。全曲武部聡志との共同アレンジであったファースト『プラスティック・ジェネレイション』に比べると落ち着いた内容のセカンドだが、これまたいかにも小林といった地味ながらも手堅いシンセ主体の音作りだ。安岡の耽美的なヴォーカル・丁寧なメロディとうまくマッチしたアレンジで、シンセのブラスやストリングスなど含め、既にこの後80年代後半にかけての小林サウンドが確立されつつある感がある。余談だが、ここで小林は小倉博和と初対面しているというのが面白い(「カドカワムック 別冊カドカワ 総力特集 小林武史」角川グループパブリッシング、2008)。『ロマンティック』に小倉のクレジットは無いが、既にこれ以前のライブで3人目のギターとしてサポート参加していたようだ。このアルバムのリリース後、メンバーチェンジで小倉はバンドの正メンバーとなる。

そしてThe Rock Bandは元アナーキーで、『四月の海賊たち』は(改名後の)セカンドアルバム。ファースト『アナーキー』はバンドと笹路正徳との共同プロデュース・アレンジで、続くこちらはプロデュース・アレンジともにThe Rock Bandと小林の共同名義だ。改名したアナーキーはパンクから距離を置き、重心低めのハードロック、ブルースロック的な色が濃くなっており、そのあたり小林ともウマの合ったコラボレーションになっているといえよう。五木寛之の同名小説にインスパイアされた歌詞もユニークで、アナーキー名義の頃とは印象が異なる作品に仕上がっている。
なお、小林本人は80年代は前2作についても言及していたが、90年代半ば以降は『四月の海賊たち』を自身の「初プロデュース作」として語るようになる。おそらく、サウンドの出来もさることながら、歌詞も含めてプロデューサーとして全体をハンドリングできたという自負があったのかもしれない。
小林武史「プロデュースでは、去年、元アナーキーのROCK BANDのLPやって。いいLPだから、聴いてください(笑)。あとアイリーン・フォーリーンとか。JIVEはサウンド・プロデュース的な関わりだったけど…僕は言葉の部分もやっちゃうから。」
(「キーボードランド 1988年7月号」リットーミュージック、1988)

とこのように既に80年代半ば、小林はバラエティに富んだ作品のプロデュース、アレンジを既に担当している。この3作をリリースしているレーベルというのが当時サザンのTaishitaが属していたおなじみビクターinvitationであり、すべて、invitationの発足時から在籍し、アナーキーのデビュー時からのA&R/ディレクターである村木敬史の担当作品である。おそらくこの時期、小林は既に村木には目をかけられていたということなのだろう。

また、ソロ・ヴォーカルものとしてはビクターではなくワーナーで86年、香港で活動していた杜麗莎、テレサ・カピロの日本録音作『Teresa Carpio』(全曲英語詞バージョンの日本盤は『Tokyoドリーミング』)で小林は全曲のアレンジを担当、服部克久・長束利博とともにプロデューサーとしてもクレジットされている。テレサはもともと70年の来日中、フィリピン出身のGSバンド、デ・スーナーズとの共演ライブを見た勝新太郎にスカウトされ勝プロに所属、71年に日本Denonから「混血児マリー」でレコードデビューしていた。86年のアルバムは日本再デビュー盤となる。服部や小林作の曲だけでなく、安全地帯「悲しみにさよなら」なども取り上げている。

他方、プレイヤーとしては85年ごろに大村憲司と出会ったことをきっかけに、86年に大村に呼ばれ井上陽水のツアーメンバーに加入、ビッグ・ネームのツアーを大物プレイヤー達とこなす日々を送ることに。
さらには大村の紹介で高橋幸宏らと出会い、87年には高橋と鈴木慶一=Beatniksのセカンド『Extentialist A Go Go』にキーボードとしてレコーディング・ツアー両方で参加、また大貫妙子『A Slice Of Life』のレコーディングからツアーにも参加と、いわゆるサブカル、「シティ」周りのミュージシャン関連の仕事が多くなる。その流れでこののち88年には、大貫の計らいでミディレコードとソロ・ミュージシャンとして本人のヴォーカルによるアルバムリリースの契約を結ぶことになり、新進気鋭のミュージシャンとして「Techii」「Pop Ind’s」などの雑誌に取り上げられる扱いになっていく。

同じく大村憲司の参加する藤井尚之の87年作『Naturally』セッションで、小林は藤井丈司とも共演することになる。そういった流れがあり、藤井は桑田ソロセッションのキーボード・プレイヤーに小林を迎えたようだ。
— 初めはキーボード・プレイヤーとしてのみの参加だったようですね?
小林「そうですね、最初は。ただ、きっとプロデュースという形になっていくと思うからって、藤井クンは言ってました
。シングルの「悲しい気持ち」までは、別にそういう形を取っていなかったんですよ。ほかにもミュージシャンが随分いて。でも、途中からだんだん切り換わっていったんですよね。」
(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」リットーミュージック、1988)

小林のコメントのとおり、おそらく、藤井の中では最終的に共同アレンジャー・プロデューサーとして小林を迎えようとしながらも、その手腕を桑田に確かめさせるためのお試し期間としてまずはプレイヤーとして参加させたということなのだろう。


***


「悲しい気持ち」のシングル盤に記載された参加ミュージシャンは以下のとおり。

Vocals: 桑田佳祐
Keyboards, Synthesizer: 小林武史
Guitars : 原田末秋
Bass : 琢磨仁
Computer Programming : 藤井丈司
Backing Vocals : 杉真理
Engineered & Mixed by 今井邦彦
Assist. Engineered by 平沼浩司

のちのアルバム曲と異なり、このシングルについてはまだ小林と藤井と桑田の3者体制での密室レコーディングではなく、ある程度開かれたレコーディングだったようだ。
小林「それで今回のスタジオ・ワークでは、初期の段階ではDsやBの人も加わってはいたんだけど、中盤以降はずっと3人だけでやっていました。」
(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」立東社、1988)

原由子セッションとほぼ同じメンバーであることを見ると、小林の証言からもおそらく当初は松田弘あたりが参加していたものと思われる。しかしこの楽曲の時点で、最終的に桑田はマニュアル・プレイでなく、藤井によるマシンのドラムを選択する。といってもサザンでも『綺麗』からはマシンのドラムを使用するようになり、『kamakura』に至ってはドラムセットをフルで使ったマニュアル・プレイの曲は聴く限り半分も無く、楽曲単位で見るともはや特に珍しい話ではない。

ただ、(この曲の時点でアルバム全編マシンで進める判断をしたかどうか不明だが、)結果的にソロアルバムではマニュアル・プレイのドラムは一曲も入っていない。それどころかリハーサル、プリ・プロダクションの段階から、ドラムは藤井が打ち込んでいくことになる。このあたりはサザンやKuwata Bandを経て、それらとのさらなる差別化であったり、また並走する時代のサウンドを眺めながら新しいスタイルを求めた桑田自身の結論だったのだろう。
小林「最初はミュージシャンを集めてライブっぽいリハーサルをやってみたんですけど、それだと今まで桑田さんがやってきたものと、あまり変わらないと。空気とかがね。で、どうしても人間がやると、良くも悪くもサウンド的に曖昧になって、それには彼が飽きてたっていうか。」
(「キーボードランド 1988年8月号」リットーミュージック、1988)


***


「悲しい気持ち」ではなんといっても印象的な二部構成のイントロからスタートする。シンセのヴィブラフォンで、松田聖子「赤いスイートピー」のイントロをマイナーキーに泳がせたようなしっとりした雰囲気で始まった…かと思えば瞬時に歌い出しのヴァースと同じメジャーキーのコード進行に変わり、しかし歌メロとは全く別の印象的なフレーズが、グロッケンと、おそらくRoland D-50のFantasiaあたりのキラキラした音色とのユニゾンで奏でられる。イントロのフレーズは小林も当時「ここが決めて」と語っているほどである(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)

楽曲を通していささか暗めの印象もあるシンセのヴィブラフォンが鳴り、要所要所でグロッケンとFantasiaのユニゾンが登場、と緩急のついた音選びが効果的だ。曲全体をさりげなく支える、生っぽくないシンセのストリングスもいい仕事をしている。

Roland D-50 Linear Synthesizerは87年3月に発売されたばかりの、当時最新のシンセサイザーだ。そのユニークなプリセット音たちは同年リリースでは順にThe Cars『Door To Door』(87.8.)、Michael Jackson『Bad』(87.8.)、George Michael『Faith』(87.10.)、Rick Astley『Whenever You Need Somebody』(87.11.)、翌年のPrince『Lovesexy』(88.5.)、Enya『Watermark』(88.9.)…とその後も数多くの名盤で耳にすることができる。
ちょうど「Techii 1987年10月号」における藤井の連載コーナー「シンクロ野郎」では、ゲストに小林を迎え、出て数ヶ月のD-50についてプレイヤーとオペレーターの立場からの対談が掲載されている。タイミング的におそらく「悲しい気持ち」録音当時と思われる。
藤井丈司「小林さんD50使い出してずいぶんになるよね。どう?」
小林「プリセット音がいいね。サンプリングした音とシンセの音を混ぜたり、エフェクト込みで音作りを考えたりっていう作業を、1台でやっちゃおうっていう発想がおもしろいよね。」
(略)
— 具体的にプリセット音で良し悪しはありますか?
小林「ピアノ系とか、シミュレーションは弱いって気もするけど、エディット次第で使える音になるかもしれない。」
藤井「まだ、ユーザーも研究段階だからね。DXが出たばかりのときと同じだよ、その辺は。」
小林「ただ、"Fantasia"とか、既製のシンセにはなかったような抽象的な音なんかの場合は、ほとんどが即使えるというぐらいの完成度を持ってるね。」
藤井「そう。聴いたことのない音というのが、たくさん入ってるね。」
小林「僕らがシンセ組み合わせてやっても、とても作れないんじゃないかってぐらい、凝ってるんだよね。さっきの、"Fantasia"にしても、完全5度ぐらいの倍音を発生させて、非常にバランスのいい音を作ってるし。」
藤井「だけど、ほとんどの音がリバーブで個性作ってるんだ。キタネーよな(笑)。」
(「Techii 1987年10月号」音楽之友社、1987)

さらに、この曲をぐっと馴染みやすくしているのがドラムパターンのいわゆる「(厳密には第二の)モータウン・ビート」であるところのSupremes「You Can’t Hurry Love」ビートだ。正直なところこのパターンを出してきたのが桑田なのか藤井なのか小林なのか、はたまた当初セッションに参加していた松田?なのか、今のところ不明なままである。ただし、「You Can’t Hurry Love」ビート自体は80年前後に英米でリバイバルが発生後、82年には日本にも飛び火しスクーターズ、翌年の松田聖子、そして桑田も原由子「恋は、ご多忙申し上げます」で既にトライしている。その後定番のひとつとなったビートであり、実際誰が言い出してもおかしくないものだ。また、同時にこの曲を支える琢磨仁のベースはまた別のパターンを提示することで、「そのまんま」にはなっていないのも最終的には正解なのだろう。

サビの最後で一瞬転調し、歌が終わったあとにオカリナのようなシンセのフレーズが鳴るが、このフレーズも小林考案のものとのこと(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)。このなんとも可愛らしい音色、フレーズを突っ込む絶妙なセンスも小林の魅力のひとつであろう。

そして(「シティ」)ポップス界の先達・杉真理をわざわざ起用し、タイトルを追いかけで連呼する、厚みのないさりげないコーラスなどの仕掛けは明らかに「60sガール・グループへの愛」の表れだ。間奏での桑田のファルセットの「Ooh-oh-ooh-ooh-…」などはDiana RossへのDedication、Supremes「Baby Love」歌い出しの変形と思われる。

前回で「Whoa-oh」の多用はRonettesを意識したのではないか、と書いたが、さらにSupremesも加わるとガール・ポップの大ネタと大ネタの組み合わせで、下手に元ネタたちを意識するとクドくなってしまいそうなものだ。しかし、あくまで凝りすぎないオーソドックスなアレンジを、打ち込み主体のクールで洗練されたサウンドで包んだトラックが功を奏し、非常に納まりのいい仕上がりとなっている。小林はこの曲のアレンジ全体についてこんなコメントを残している。
小林「曲が甘い青春ものになっているときには、アレンジで凝ろうとすると、曲のほうがはずかしくなっちゃう。甘いメロディーというのは隠そうと思っても隠れないものだから、むしろそれを広げるように考えたほうがいい。」
(「キーボード・スペシャル 1988年10月号」)

オールディーなクラシックを同時代的シンセ・サウンドで固めながらも、歌をメインに据えアレンジ自体はヒネらずに、というと前年の野沢毛ガニ&桜井鉄太郎によるJ.E.F.も似たスタイルではある。あちらは何よりまず本家B.E.F.の発想と桜井の選曲センスの融合が揺るぎない魅力なのだが、そんな方向性をぐっとメインストリーム側に寄せたのがこちらの桑田組と言えなくもない。桜井鉄太郎、小林武史と、6〜70年代のロック・ポップスに耽溺し、かつ時代に対応した音作りを熟知した、その後90年代の日本のポップス=J-POPを支えるプロデューサー達と共に試行錯誤しているのがこの頃のサザンメンバーのソロ活動の一面でもあった。

そして、ここまでアレンジについて見てきたが、桑田の歌唱も新基軸・変化のひとつとして大きく認識すべきポイントだろう。サザン『Nude Man』あたりからどんどんワイルドになっていった桑田のヴォーカルは、例えばKuwata Band「One Day」のようなバラードでさえ野太い発声で歌っているのだが、この「悲しい気持ち」では打って変わって繊細で、ぐっと抑制された発声となり、日本語も聞き取り易い発音に変わっている。いわゆる「普通」に近づいたと言えばそうなのだが、ヴォーカル・スタイルのバリエーションが増えたということでもある。ポップ・ミュージックに意識的になったこのタイミングでいま一度歌手、ヴォーカリストとして唱法を意図的に見直したことが、「さよならベイビー」「真夏の果実」等、90年代に向かう桑田ポップスの名唱に繋がっていくといっても過言ではないだろう。



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アレンジへの見事な貢献で、シングル「悲しい気持ち」の編曲は最終的に「桑田佳祐、藤井丈司、小林武史」と、小林が3番目のアレンジャーとしてクレジットされる。シングル盤にプロデューサーの記載は無いが、やはりこの時点での小林の権限は全てに口を出せるほど大きなものではなかったようで、シングル盤がリリースされた後に「打ち込みのドラムがハネていない」と指摘してくる小林に桑田は困惑したという(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM,  2014.10.25)

そして藤井の目論見どおり、小林は高垣健から正式に桑田ソロアルバムについてプロデュースの依頼を受ける。
小林「ソロ・シングルの「悲しい気持ち」から一緒に仕事をさせてもらうようになってね。そんな時、サザン (オールスターズ)のディレクターの高垣(健)さんから「ちゃんとこれをプロデューサーっていうやり方で受けてくれないか」と言われたんですよ。それまではレコード会社のディレクターの人が中心になって、作詞や作曲、編曲を人に頼んで、分業で、というのが一般的だったけど、やがてアーティストが自分で曲を書くようになったでしょう?分業がなくなって、その時、楽器の音でも録音のシステムのことでも理解できている人間、欧米で言う”プロデューサー”を育てる必要をレコード会社の人も感じたんだと思う。それを僕にやってほしいということだったんですね。」
(「カドカワムック 別冊カドカワ 総力特集 小林武史」角川グループパブリッシング、2008)

小林は高垣の依頼を快諾。前述のとおり、桑田の意向で他のプレイヤーを排し、桑田・藤井・小林のみの三者体制で、長期間にわたるアルバム・レコーディングが進められることとなる。





2022年11月25日金曜日

大瀧詠一『大瀧詠一』のバージョン違い

大瀧詠一さんのソロ第1作、『大瀧詠一』リリースからなんとなんと半世紀…50年とのことです。

こちらは大瀧さんがナイアガラを設立する前の作品ですので、原盤権保有会社はキングレコード、マルチのマスターは破棄、ということからさほど複数のバージョンが作成されているわけではない(単にリイシューの機会が多い)のですが、せっかく50周年ということなので、こちらについても記事にしておくことにしました。50周年盤『大瀧詠一 乗合馬車(Omnibus)』収録バージョンについてはいつものように先送りでそのうち追記しますので、まずはこれまでのバージョン違いについていってみましょう。

なお、これまでナイアガラ作品のみのつもりで記事を作成していましたので、一部『大滝詠一デビュー』『Let's Ondo Again』などと重複している楽曲もありますが、今回を番外編として、同じ楽曲でもキング/ベルウッド原盤のバージョンのみ扱う、ということでご了承ください。また、キング/ベルウッドのオムニバス盤・近年の海外編集のオムニバス盤などは手が回りませんでしたので、はっぴいえんど関係のおなじみのもの以外は省略ということでこれまたご容赦のほどを…。


●おもい

◆Version A
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
アーリー大瀧詠一 1985
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1995/1997
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
アーリー大瀧詠一 2000
大瀧詠一 2001
アーリー大瀧詠一 2001
大瀧詠一 2012
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
大瀧詠一 2015
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
アーリー大瀧詠一 2017
大瀧詠一 2018

◆Version B … コーラスダビング前の「Undubbed Version」、Take 1・Take 2
大瀧詠一 1995/1997


●それはぼくじゃないよ

◆Version A
恋の汽車ポッポ(Single)1971
シングルスはっぴいえんど 1974
シングルスはっぴいえんど 1976
シングルスはっぴいえんど 1981
アーリー大瀧詠一 1985
シングルスはっぴいえんど 1990
シングルスはっぴいえんど 1995
大瀧詠一 1995/1997
アーリー大瀧詠一 2000
シングルスはっぴいえんど 2000
ベルウッド7インチボックス 2000
アーリー大瀧詠一 2001
シングルスはっぴいえんど 2001
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
シングルスはっぴいえんど 2012
シングルスはっぴいえんど 2014
アーリー大瀧詠一 2017 
シングルスはっぴいえんど 2017
恋の汽車ポッポ(Single) 2017

◆Version B … 「それはぼくぢゃないよ」、各パートを差し替えたアルバム用リミックス
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1995/1997
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
大瀧詠一 2001
大瀧詠一 2012
大瀧詠一 2015
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
大瀧詠一 2018

◆Version C … 「アルバムMix-2」、アルバム用の未発表別ミックス
大瀧詠一 1995/1997

◆Version D … 1972年4月22日、日本武道館でのはっぴいえんどのライブ・テイク
はっぴいえんどBox 2004

◆Version E … 1972年8月5日、長崎市公会堂でのはっぴいえんどのライブ・テイク
はっぴいえんどBox 2004


●指切り

◆Version A
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
アーリー大瀧詠一 1982
アーリー大瀧詠一 1985
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1995/1997
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
アーリー大瀧詠一 2000
大瀧詠一 2001
アーリー大瀧詠一 2001
大瀧詠一 2012
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
アーリー大瀧詠一 2012 紙ジャケ
アーリー大瀧詠一 2014
Best Always 2014
大瀧詠一 2015
アーリー大瀧詠一 2016
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
アーリー大瀧詠一 2017
大瀧詠一 2018


●びんぼう

◆Version A
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
アーリー大瀧詠一 1982
アーリー大瀧詠一 1985
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
アーリー大瀧詠一 2000
大瀧詠一 2001
アーリー大瀧詠一 2001
はっぴいえんどBox 2004
大瀧詠一 2012
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
アーリー大瀧詠一 2012 紙ジャケ
アーリー大瀧詠一 2014
大瀧詠一 2015
アーリー大瀧詠一 2016
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
アーリー大瀧詠一 2017 
大瀧詠一 2018

◆Version B … Version Aと同じだが、最後のドラムソロのみカットされている
大瀧詠一 1995/1997

◆Version C … 「ヒマダラケ・バージョン」、歌詞違いの未発表ミックス
大瀧詠一 1995/1997

◆Version D … 1972年4月22日、日本武道館でのはっぴいえんどのライブ・テイク
はっぴいえんどBox 2004

◆Version E … 1972年5月6日、大阪天王寺野外音楽堂でのはっぴいえんどのライブ・テイク
はっぴいえんどBox 2004

◆Version F … 1972年8月5日、長崎市公会堂でのはっぴいえんどのライブ・テイク
はっぴいえんどBox 2004



●五月雨

◆Version A
空とぶくじら(Single)1971
シングルスはっぴいえんど 1974
シングルスはっぴいえんど 1976
シングルスはっぴいえんど 1981
アーリー大瀧詠一 1982 CT
アーリー大瀧詠一 1985
シングルスはっぴいえんど 1990
シングルスはっぴいえんど 1995
大瀧詠一 1995/1997
アーリー大瀧詠一 2000
シングルスはっぴいえんど 2000
ベルウッド7インチボックス 2000
アーリー大瀧詠一 2001
シングルスはっぴいえんど 2001
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
シングルスはっぴいえんど 2012
シングルスはっぴいえんど 2014
アーリー大瀧詠一 2017
シングルスはっぴいえんど 2017
空とぶくじら(Single) 2017

◆Version B … 歌、ギター、コーラスを差し替え、ハンドクラップを追加、パーカッションを削除したアルバム用リミックス
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1995/1997
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
大瀧詠一 2001
大瀧詠一 2012
大瀧詠一 2015
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
大瀧詠一 2018


●ウララカ

◆Version A
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
アーリー大瀧詠一 1985
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1995/1997
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
アーリー大瀧詠一 2000
大瀧詠一 2001
アーリー大瀧詠一 2001
はっぴいえんどBox 2004
大瀧詠一 2012
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
大瀧詠一 2015
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
アーリー大瀧詠一 2017
大瀧詠一 2018

◆Version B … 「イントロ・ドラム・バージョン」、未発表ミックス
大瀧詠一 1995/1997


●あつさのせい

◆Version A
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
アーリー大瀧詠一 1985
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
アーリー大瀧詠一 2000
大瀧詠一 2001
アーリー大瀧詠一 2001
はっぴいえんどBox 2004
大瀧詠一 2012
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
アーリー大瀧詠一 2012 紙ジャケ
アーリー大瀧詠一 2014
大瀧詠一 2015
アーリー大瀧詠一 2016
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
アーリー大瀧詠一 2017
大瀧詠一 2018

◆Version B … Version Aと同じだが、イントロのハイハットがカットされた、「All About Niagara」いわく「謎のバージョン」
アーリー大瀧詠一 1982

◆Version C … 「もうメロメロ編」、1974年7月11日のライブ録音
暑さのせい EP


●朝寝坊

◆Version A
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
アーリー大瀧詠一 1985
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1995/1997
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
アーリー大瀧詠一 2000
大瀧詠一 2001
アーリー大瀧詠一 2001
大瀧詠一 2012
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
大瀧詠一 2015
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
アーリー大瀧詠一 2017
大瀧詠一 2018


●水彩画の街

◆Version A
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
アーリー大瀧詠一 1985
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1995/1997
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
アーリー大瀧詠一 2000
大瀧詠一 2001
アーリー大瀧詠一 2001
大瀧詠一 2012
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
大瀧詠一 2015
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
アーリー大瀧詠一 2017
大瀧詠一 2018


●乱れ髪

◆Version A
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
アーリー大瀧詠一 1982
アーリー大瀧詠一 1985
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1995/1997
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
アーリー大瀧詠一 2000
大瀧詠一 2001
アーリー大瀧詠一 2001
大瀧詠一 2012
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
アーリー大瀧詠一 2012 紙ジャケ
アーリー大瀧詠一 2014
大瀧詠一 2015
アーリー大瀧詠一 2016
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
アーリー大瀧詠一 2017
大瀧詠一 2018


●恋の汽車ポッポ

◆Version A
恋の汽車ポッポ(Single)1971
シングルスはっぴいえんど 1974
シングルスはっぴいえんど 1976
シングルスはっぴいえんど 1981
アーリー大瀧詠一 1982
アーリー大瀧詠一 1985
シングルスはっぴいえんど 1990
シングルスはっぴいえんど 1995
大瀧詠一 1995/1997
アーリー大瀧詠一 2000
シングルスはっぴいえんど 2000
ベルウッド7インチボックス 2000
アーリー大瀧詠一 2001
シングルスはっぴいえんど 2001
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
アーリー大瀧詠一 2012 紙ジャケ
シングルスはっぴいえんど 2012
シングルスはっぴいえんど 2014
Best Always 2014
アーリー大瀧詠一 2016
アーリー大瀧詠一 2017
シングルスはっぴいえんど 2017
恋の汽車ポッポ(Single) 2017

◆Version B … 「恋の汽車ポッポ 第二部」、歌詞が変わってコーラスやエンディングのパートが追加されたアルバム用ステレオ・リミックス
大瀧詠一 1972
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1995/1997
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
大瀧詠一 2001
大瀧詠一 2012
大瀧詠一 2015
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
大瀧詠一 2018


●いかすぜ!この恋

◆Version A
大瀧詠一 1972(日本カッティング)
大瀧詠一 1977
大瀧詠一ファーストアルバム 1979
大瀧詠一 1981
アーリー大瀧詠一 1985
大瀧詠一 1989
大瀧詠一ファーストアルバム 1992
大瀧詠一 1995/1997
大瀧詠一 1996
大瀧詠一ファースト 2000
アーリー大瀧詠一 2000
大瀧詠一 2001
アーリー大瀧詠一 2001
大瀧詠一 2012
アーリー大瀧詠一 2012 プラケース
大瀧詠一 2015
大瀧詠一 2017 CD
大瀧詠一 2017 LP
アーリー大瀧詠一 2017
大瀧詠一 2018

◆Version B … Version Aと同じだが、最後のカセットコーダーのオート・シャット・オフ音が鳴る前に終了する
大瀧詠一 1972(USカッティング)

◆Version C … Version A/Bをカセットに落とす前のモノミックス
大瀧詠一 1995/1997

2022年10月6日木曜日

1987 (3) :悲しい気持ち(Just A Man In Love)pt.1

桑田のソロ・デビュー・シングルである「悲しい気持ち(Just A Man In Love)」については、そのドラムパターンからSupremes「You Can’t Hurry Love」の影響が語られがちだが、あまり桑田本人は何を意識してこの曲を書いたか、多くを語っていない。

前回に続き、2012年のインタビューを見るとこんな発言がある。
「『悲しい気持ち』で、ポップスという言葉を、等身大の音楽を、ようやく掴まえたんですよ。ディープ・パープルも悪くないけど、やっぱり自分の本質はロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』や坂本九の『上を向いて歩こう』なんだよって。遅れてきた反抗期というか間の悪い自我の目醒めだったけど、自分には大きな変換期だったんです。」
(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)


***


Ronettesといえばアメリカン・ポップス史上にその名を轟かすガール・グループで、鬼才プロデューサー・Phil Spectorのプロデュース作品という意味でもポップス史上にその名を残す偉大なヴォーカルグループのひとつだろう。特にプロデューサーSpector-アレンジャーJack Nitzsche-エンジニアLarry Levineの三者が織りなす「ウォール・オブ・サウンド」のひとつの完成形ともいえる「Be My Baby」はいまだに語り継がれる名曲だ。

そんな「Be My Baby」でおなじみRonettesだが、Spectorプロデュース期=Philles期以降トレードマークのひとつになったのがリード・ヴォーカルVelonicaのキュートで印象的な「Whoa-oh」だろう。これはPhilles移籍前の作品では見られず、Spectorのプロデュース下最初にリリースされた作品、「Be My Baby」において登場するものだ。

音楽評論家の高橋健太郎は、Ellie Greenwich & Jeff Barryが「Be My Baby」を作曲した時点では3拍子だったのではないかと推察している。
グリーニッチ&バリーの書いた「Be My Baby」はたぶん、デモの時点ではロネッツのバージョンとはかなり違った雰囲気だったのではないかと思われる。グリーニッチは1973年に発表したソロ・アルバム『Let It Be Written, Let It Be Sung』で同曲をセルフ・カバーしているが、それはゆったりした3拍子で、フレンチ・ポップ的な優しい雰囲気を持つ。『Let It Be Written, Let It Be Sung』(書いたままに、歌ったままに)というタイトルからして、ソロ・アルバム用にそういうアレンジを施したのではなく、もともと彼女が書いた形、自身で歌っていた形を示したのが、そのセルフ・カバー・バージョンだったのではないだろうか。
(高橋健太郎「音楽と録音の歴史ものがたり ロネッツ「Be My Baby」をめぐるエリー・グリニッチとヴェロニカ・ベネットのストーリー 〜【Vol.87】https://www.snrec.jp/entry/column/historysr87

その3拍子であるEllie Greenwich「Be My Baby」セルフカバーを聴くと、曲最後の必殺「Whoa-oh-oh-oh-oh」は入っておらず、「Wow-yeah」と別のフレーズが収まっている。ひょっとしたら「Whoa-oh-oh-oh-oh」は、Jack Nitzscheと共に3拍子からロックンロールにビートを変えた際、もしくは長時間に渡ったというレコーディング・セッション中 —Hal Blaneのタム回しを聴きながら— 、Velonicaの歌声が生きるキメとして、プロデューサーであるSpectorが入れ込んだものなのかもしれない。

「Be My Baby」後のRonettesというと、第二弾「Baby, I Love You」では冒頭から「Whoa-oh, whoa-oh-oh-oh」が登場。その後の「Do I Love You?」「You Baby」「Walking In The Rain」と、必ず入れ込まれたVelonicaの「Whoa-oh」はVelonica、RonettesのトレードマークとしてSpectorが意図的に作曲家たちに仕込ませた、もしくは自ら仕込んだフレーズであったことだろう。80年代の日本でも、Spector-Ronettesを意識したと思しきガール・ポップのうち、中村俊夫・沖田優司による原めぐみ「涙のメモリー」や大瀧詠一による松田聖子「一千一秒物語」、こののちの89年は小西康陽による須藤薫「つのる想い」などでVelonicaの影響を感じさせる「Whoa-oh」が登場する。


***


坂本九といえば、「上を向いて歩こう」で日本人初の全米一位を記録した和製ポップス史上に残る偉大な歌手のひとりである。ダニー飯田とパラダイス・キング在籍時の「ステキなタイミング」でも印象的なファルセットを聴かせていた坂本だが、ソロデビュー曲となる「上を向いて歩こう」もヒーカップ唱法で、日本語を崩して歌われるヴォーカルが印象的だ。初演をステージで聴いた作詞の永六輔は、歌詞の崩され方に戸惑いを隠せなかったという。

六輔はその歌を聞いて耳を疑った。
「ウォウォウォウォ」とは何だろう。
九の声も緊張して上ずっていた。
六輔の耳には……
「ウヘフォムフヒテ
 アハルコフホフホフホフ」
なんだこの歌は!
「ナハミヒダガハ
 コッボレッヘェナハイヨフホフホフニ」
六輔は九がふざけているとしか思えなかったが、舞台の袖からみていると、九は前傾姿勢の直立不動、しかも足がガタガタとふるえている。
(永六輔「六・八・九の九 坂本九ものがたり」中央公論社、1986

特に歌詞カードの「歩こう」「こぼれないように」の部分は実際には「あーるこow wow wow wow」「こーぼーれ、なーいよow wow wowに」と歌われている。佐藤剛「上を向いて歩こう」岩波書店、2011では、中村八大がロカビリー歌手・坂本九の魅力を最大限に生かすために、Wow Wowの箇所を起点にこの曲を作ったことが示されている。中村から坂本へ楽曲提供したい、と声をかけられた事務所マナセプロの担当マネージャー曲直瀬信子は、中村にこのようなオーダーをしたという。

曲直瀬信子「九ちゃんにはチャンスだと思ったんです。だから八大さんにプレスリーのシングルなんかを届けて、聴いてもらいました。(略)何しろ九ちゃんは音域が狭いから、ファルセット・ヴォイスの特徴をうまく出してほしかったんです。」
「それで当日、八大さんのお宅に行くと、『上を向いて歩こう』の譜面を渡されました。そのまま八大さんはどこかへいなくなってしまって、とにかく忙しかったんですね。でも渡された譜面を見るとすぐに特徴がわかりました。『オゥオゥオゥオゥ』の部分の意味することもわかりました。九ちゃんは音域が狭いので、ファルセットを生かして欲しいと頼んでいたんです。とても嬉しかったですね。以前の打ち合わせで、私が思っているプレスリーの特徴とかを、八大さんに一生懸命に説明していたことが、そこには生かされていましたから」
佐藤剛「上を向いて歩こう」岩波書店、2011

同書によれば、この部分をヒーカップ唱法で、裏声を交えながら歌うことだけは中村の作曲段階で既に考案してあったようで、レコーディング時も中村から坂本への指示というとこの箇所だけはうまくやってくれ、程度だったという。作者の中村にとって、この曲の肝はWow Wowの部分だったというのがわかるエピソードである。

なお、桑田佳祐史的に重要人物のひとりである宮川泰はザ・ピーナッツ初のオリジナル曲「ふりむかないで」を書き下ろすにあたり、楽曲自体はPaul Anka「Diana」のコード進行を基にしながらも、レコーディング時に「上を向いて歩こう」のWow Wowの箇所をヒントに冒頭の「イェイイェイイェイイェイ」を入れ込んだという。(宮川泰「若いってすばらしい 夢は両手にいっぱい 宮川泰の音楽物語」産経新聞出版社、2007)


***


さて、そんなことを考えながら「悲しい気持ち」を聴いてみると、桑田の曲でここまで「Wow Wow」「Whoa-oh」が頻発するのも珍しいことに気づく(要所要所、都合8回の登場だ)。おそらく、Ronettesをきっかけとし、洋邦のロックンロール、ポップ・クラシックの美味しいポイントとして、意識的に取り入れたのではないだろうか。もっと突っ込んでしまうと、タイトル部分「Just a man in love」直後の下降する「oh yeah-eh-eh-eh-eh」のメロディはそのまま「Be My Baby」の「Whoa-oh-oh-oh-oh」にシンクロしている(シンプルにGFEDC・ソファミレド、ではあるのだが)。

コード進行もシンプルで、メロディもそれまでの桑田らしいアクはどちらかというと控えめ、端正な仕上がりである。冒頭は多少Ronettes「You Baby」(これはPhil Spector-Barry Mann-Cynthia Weil作)の香りもしなくもない雰囲気だが、たぶんこの曲のベースにあるのは特定の作曲家というよりは、Velonica、Ronettesを起点とした「ポップ・ミュージックへの愛」ということなのだろう。そこまで仰々しい展開もなく、明るくも切ない、甘酸っぱいメロディが淡々と、あっさりと過ぎ去るように展開される、まさに「たかがポップ・ミュージック」を体現するような楽曲だ。

驚くべきことに、「悲しい気持ち」はこのソロ用に気合を入れて作られた曲ではなくストックであり、Kuwata Bandのシングル用セッションで既に一度トライしていたということが近年明かされている。
— 当時の楽曲製作のエピソード等覚えていらっしゃいますか。
「これね、Kuwata Bandってのがありまして、これソロの前の86年なんですけど、ソロは87年でしょ?でもね、86年の時にね、ちょっと作ってあったんですよ。でKuwata Bandで、1回やったことあったんですよ。」
— じゃあもしかするとKuwata Bandの曲になったかも…
「なったかもしれないけどあんまり歌詞とかもこうちゃんとできてなかったのか、不完全なものでちょっと一旦横に置いておいてね、「Ban Ban Ban」とかそういう曲を、Kuwata Bandでやったんだと思うんですけど。」
(「桑田佳祐のやさしい夜遊び」Tokyo FM, 2021.10.9.)

世が世ならKuwata Bandのシングルとしてリリースされていたかもしれないと思うと、この時期の桑田の湧き出るメロディ・メーカーとしての恐ろしさに驚愕する。そういえばKuwata Bandのライブではシングル曲のコーナーに混じっていささか唐突に「Be My Baby」(『Rock Concert』収録)も取り上げられていた。ひょっとしたら当時の「悲しい気持ち」もあのDavid Foster風にエレピが八分を刻むアレンジだったのだろうか。

前述の「Be My Baby」が作曲時点では三拍子だったのでは…という高橋健太郎の推測ではないが、「悲しい気持ち」もソロ・セッションで取り上げるまではSupremesな16ビートではなく、Ronettesな8ビートの楽曲だったのかもしれない。となると発想の起点はBilly Joel「Say Goodbye To Hollywood」あたりだろうか…、などと想像が膨らむ。そういえば「Ban Ban Ban」も70年代Geroge Harrison風ウォール・オブ・サウンドの80年代解釈、と言えなくもないようなディレイを効かせたサウンドでもあったが…。86年初頭、「ロック」モードにシフトしようとしつつも、どうにも隠せない桑田のポップス志向が既にウズウズしながら顔を覗かせていた…ということになるのだろうか。


***


初となるソロ・セッションの初期段階では、桑田がTR-707・ギター・ベース・キーボードを使いひとりで製作したデモテープをもとに進められたという(「Sound & Recording Magazine 1988年8月号」リットーミュージック、1988)。このあたりの模様は次回、詳しく見ていきたい。


2022年10月2日日曜日

1987 (2) :ポップ・ミュージック宣言

87年10月2日、朝日新聞夕刊に桑田のソロ・デビュー・シングルリリースにあたっての全面広告が掲載される。桑田の顔面アップとコピー、そして小さく声明が添えられている。

 僕はミュージシャンである以前にポップ・ミュージックの聞き手でした。そして今だに聞き手である自分を満足させるために曲を書いているような気がします。
 ポップ・ミュージックは他人の為の音楽です。何より聞き手にとって楽しいものでなくては駄目なのです。だからミュージシャンとしての快感も聞き手が喜んでくれる視線の中でしか確かめられません。だけど、そんな音楽だから、人種や年令、あるいは考えかたを超えて、たくさんの人に同じ快感を与えるというマジックを作りだせるのでしょう。
 たかがポップ・ミュージック、そう自分を励ましながら曲を書く事によって、僕の音楽はきっと自分だけの満足に終らず、皆さんに楽しんでもらえる方に向かって歩んでいけてるのでしょう。これからソロとして、あるいはサザンの桑田として歌う時も、そうしたテレパシーとしてのメロディーが貴方へ届くことを祈ります。
サザンオールスターズ 桑田佳祐
(「悲しい気持ち」各種広告 ビクター音楽産業/アミューズ、1987)

Kuwata Band、Hall & Oatesとの共演を経たうえで、なぜ「ポップ・ミュージック」でソロ活動を始めるという方針になったのか。いささか唐突感があるような気もするが、背景を紐解くと、それぞれの経験を踏まえての結論だったようである。

「まずひとつにはバンド活動の反動が大きかった。サザンでやって、KUWATA BANDでやって、どちらも楽しいんですけど、さすがに集団で動くことが面倒くさいというか、食傷気味に思えてきちゃって(笑)。自分でやっておいて悪いけど『そろそろ一人にしてくれよ』という気分になっちゃったんですよね。あとはKUWATA BANDで『これからはロックだろ』とか言っちゃったけど、なんかちょっと無理していたかなという反省もかなりあってね。」
(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)

— ソロ・アルバムを作ろうと決めたのは、いつ頃だったんですか。
「去年の4月にNYに行った時、ホール&オーツのレコーディングを見たんだけど、その時、彼らにすごく刺激を受けたのね。彼らにとっては約3年ぶりのレコーディングだったんだけど、とても自然にやっていたというか、等身大の自分たちに近づこうとしているって感じだった。なんて言うか、無理にコンテンポラリーなところにいようとしてないし、昔にすがろうともしていない。古いものの流れと新しいものの流れが彼らの中で大きな渦を巻いているとような、そんなふうに見えたの。で、あとで彼らのでき上がったアルバムを見たら、そこには"future classics"と言うボディ・コピーがついてたんだけど、それを見た時、なるほどなって思ったの。あ、これがポップスというものなんだ、と。ロックというプロパガンダの世界じゃなくて、ね。彼らのレコーディングを見て、やっぱり等身大っていうのはイイなあって思った。」
「最初はKUWATA BANDが終わったら、サザンを再始動しようと思ってたんだけど、その前にひとつのキッカケというか、自信みたいなものが欲しかったの
。というのは、KUWATA BANDでは全曲英語のアルバムを作ったわけだけど、結局あれはどういう評価を得たんだろうってことを考えたのね。今になってみて、いまひとつ自信がない、と。それに俺という存在は、いったいなんだろうって思った。サザンを休養してた時にね、もちろん俺はサザンのメンバーであり、ボーカリストなんだけど、そうじゃない自分の姿、裸の自分の姿をここで見せなきゃシャクにさわると思って、ソロ・アルバムを作ろうと決心したの。」
(「GB増刊 Volume 1 Vol.4 1988 July」CBSソニー出版、1988

「だから限定するんならポップスって言い方の方がいいやって気がするしね。自分はついつい色んなことをやってしまうから、音楽の中で。だからロックって断って失敗したなって思う、俺は。メロディー弱くなっちゃったかな、とかね(笑)」
(「Rockin' On Japan 1987年11月号」ロッキング・オン、1987
 / 「ロッキング・オン・ジャパン・ファイル ロッキング・オン3月号増刊」ロッキング・オン、1988)

1986 (3) :Nippon No Rock Bandへの批判と反論の終盤で引用した箇所でも語っているが、とにかくサザンを復活させる前に、桑田個人としての、Kuwata Bandのアルバムへの批判を受けての反省とリベンジ、というのがこのソロレコーディングのきっかけになっているのがわかる。「ロック」との距離感、英語詞とそれによるヴォーカルのドライブ感、作曲への時間のかけ方…等。

さらにはHall & Oatesの、ルーツミュージックへのプリミティブな愛と、同時代的なものへの目線のバランスに共感したということも大きいのだろう。そういえばNYレコーディングを経て、「勝手にシンドバッド」が最高傑作であることに気づいたとも語っている(「Playboy日本版 1987年7月号」集英社、1987)。自身のルーツ、初期衝動の側にはどんな音楽があったのか…というところに立ち返ろうという意識もあったはずだ。


***


日本国内製作のポップ・ミュージック、ポップスというカテゴリは、80年代前半の一部音楽雑誌を見ると「フォーク」に対する「ロック」に相当するような扱いで、カウンター的に「ニューミュージック」に対抗するもの、として使用されているものをいくらか見つけることもできる。

70年代がフォークを中心としたニューミュージックの時代だったとすれば、80年代はロックがメインのポップミュージックの時代になる、と予測する人は多い。
(「週刊明星 1980年3月10日号」集英社、1980

少しずつではあるけれど日本の真の意味でのポップスというものが育ちつつある。ひと頃、「ニュー・ミュージック」という、フォークなんかも含んだいやらしい言葉が盛んに使われたが、もう、そんな手垢にまみれた言葉を捨てるべきだろう。(市川清師
(「ミュージック・ステディ 1982年4月号」ステディ出版1982
市川清師「僕たちが支持するポップスはあくまでも<ロック・スピリットを持ったポップス>のことだということを明言しておきたい。もうフォークやニューミュージックが死語になりつつある、いや、なったというのは音楽業界の常識だと思うんだ。」
(「ミュージック・ステディ 1983年3月号ステディ出版、1983

死語になったかどうかというと実際は、「Jポップ」という言葉が浸透する90年代初頭までは、レコード店など国内製作ものを大きく括る言葉としては「ニューミュージック」が残り続けるのだが、それは置いておいて…
ここで「ミュージック・ステディ」誌がポップスのミュージシャンとしてインタビューしているのは佐野元春・伊藤銀次・山下久美子・村田和人・鈴木雅之・Epo…と、その裏にナイアガラの影が透けて見えるような人選だ。
同誌で杉真理はこんな発言をしている。
杉真理「今だからこそ「ポップスをやってる」なんて大見得を切って言えるけども、ちょっと前までは「ポップス」なんて言ったら、「軟弱だ」といわれて、馬鹿にされましたからね。僕の大好きなポール・マッカートニーにしても、「結局、あいつはポップスがやりたかったのさ」なんて、非常に軽蔑的な言い方をされて……。当時は、ポップスって言うと、トム・ジョーンズとか、エンゲルベルト・フンバーディングとか(笑)、そう言うニュアンスしか無かったからなあ。」
(「ミュージック・ステディ 1983年3月号ステディ出版、1983

桑田自身はというと、やはりデビュー以来、杉の発言と似たような空気は感じていたようだ。
— それにしても面白いのは、サザンだってこの当時すでに古今東西のエッセンスを凝縮した”ポップス”だったのに、ソロを契機に桑田さんがようやくポップスという記号性に対して自覚的になったという点ですね。
「最初は”手がかり”でした。サザンのデビュー当時、ポップスという言葉はしばしば差別的というか、少々時代遅れ的な意味合いで使われることもあったし、やっぱり褒め言葉は何だかよくわからないけど『ロックだね!』だった(笑)。あとは”フォーク”とか、”ニューミュージック”の方が、ジャンルとしては何となく分かり易いというか、確立された感もあって。だから僕から見るとフォークの人やユーミンなんかは、確固たる信念を持っている感じがした。歌詞も自分のメッセージを織り込んで、時代の匂いを言い当てたり、ファンへの『お前ら俺についてこいよ』という姿勢も感じられた。ところが僕にはそういうものが全くない(笑)。もちろんサザンの桑田として藻搔いてたことは事実だけれど、実は僕、”サザンの桑田”という呼ばれ方が一番嫌でね(笑)。なんか”お向かいのおじいちゃん”みたいで(笑)。自分が何者で、世間から、メンバーから、何を期待されているのかがさっぱり分からない時代だった。只の無自覚な音楽ファンだったんです。
(「Switch Vol.30 No.7」スイッチ・パブリッシング、2012)


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ポップ・ミュージック、ポップスをやるにあたってのサウンド・コンセプトについては、レコーディングを始めるにあたり特に具体的なものや、目標としたものは考えていなかったようだ。当初はとにかく幅広い世代、多くの人に聴かれる・メロディ重視・コードもシンプルに、ということで、編曲以前に作曲を重視している様子が窺える。

「ポップソングを認知する人たちというのは、たいていがレコードをそんなに買わない、要するにサイレント・マジョリティというか、そういうものだと思うんだよね。オリコン関係者じゃないけど、潜在的ユーザーとかサイレント・マジョリティというのは、ぜったいにポップソングに欠かせないものなんだよね。
 例えば、主婦向けに音楽やりたいと思ってるわけ。主婦でもいいし、年増でもいいんだけど、やっぱり成熟した人というのを説得しないとさ、彼らが楽しめて共感できる言葉じゃないと、その音楽ウソだなと思うのね。
 いま、30過ぎた中産階級といわれるかもしれない人々が、ココロの拠り所を自分の音楽に向けてくれたら、なんて素晴らしいことだろうと思う。俺、自分の音楽のこと、中産階級のババアどもに聴かせる音楽じゃねえよ、とは思わないの。」
「ポップスというのは、サーファーのための音楽とか、ワンレン・ギャルをイテコマすための音楽とかそういう部分ばかりじゃなくて、ある種の日常のテンションでいいと思うんだよね。街を歩いていて、”ちょっといい女だな”とか、昔を懐かしむみたいな…俺たちの日常って決して退屈ではないでしょう。」
「だからサイレント・マジョリティという特徴のない人たちに対して俺が歌いたいのは、うーん、なんら特徴のない音楽かもしれないね。ただそれは、反戦とかなんとかってのと違って、いいわけのきかない音楽なんだ。そのニュアンスをうまく言えたら、きっといいコピーライターになれるかも知れない。」
(「エスクァイア日本版 1987年12月20日号エスクァイアマガジンジャパン、1987

「あと、生ギターで弾ける曲ね。これです。生ギターかウクレレで弾ける曲。」
— ウクレレ?
「そう。ウクレレ持つと加山雄三の曲が出てきちゃうんだよねー。あれ、すごいと思う。ウクレレ弾いて、♪もーしもォこの船で……とか歌ってると、なぜか人に聞かせたくなるしさ。一緒に歌を共有したくなっちゃうの、誰かと。俺の場合は女房だけどさ。原坊が夜中に寝てるときでも、俺起こしちゃうもん。俺のオリジナル聞かせるんじゃなくて、
♪もーしもォこの船で……って聞かせるためにね(笑)。輪が生まれるわけよ、ウクレレと歌と、あと明星の歌本さえあれば。歌詞の上にパァーっとコードの押さえ方も書いてあって。そういうのやりたいの。今回のソロアルバムはその方向だね。それしかできないからさ、俺には。アパートの勤労学生にも俺の歌を届けたい、と。」
— 人々の唇に歌を。
「そうそう。もう一度、唇に歌を、頬に涙を、三世代に輪を……ね(笑)。」
(「宝島 1987年11月号」JICC出版局1987)


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冒頭の桑田の声明、特に桑田ソロと限定しているわけでもなく「サザンの桑田として歌う時も」とも記されている。手探りでありきっかけだったと本人は振り返っているが、2001年のベスト盤『Top Of The Pops』、2020年の連載コラム・2021年の著書「ポップス歌手の耐えられない軽さ」など、現在に至るまで意識的に「ポップス」というワードが使われている。ミュージシャン・桑田佳祐の立ち位置をポップス、ポップ・ミュージックに置いた瞬間が、この87年ソロ活動スタートのタイミングだったといえよう。現在から振り返ると、桑田の長いキャリアの中でも、活動コンセプトのターニングポイントだったのである。