というわけで1985年秋、『kamakura』後のプロジェクトの一部を形にすることができなかったサザンオールスターズは、原由子の産休を理由に一旦グループとしての活動を休止し、各自ソロ活動を行う期間をスタートさせる。といっても野沢毛ガニのプロジェクトJapanese Electric Foundation、関口和之ソロは既にこれ以前から企画が進んでおり(83年の松田弘以降、ソロ作を出していないのが野沢・関口の両者であった)、両作はサザンの85年プロジェクト終了直後の10月にレコーディングが開始されている。(「KB Special 1986年3月号」立東社、1986/「Guitar Book GB 1986年5月号」CBSソニー出版、1986)
原の産休も一つの理由だが、実際のところはそろそろ煮詰まった本体をリフレッシュするために活動休止期間を用意した、というところだろう。
桑田「単純にいうとだから、ちょっと飽きてたというのはありますけど。85年だからもうサザンを7年ぐらいやってるんですよ。なんか飽きるじゃないですか、やっぱりどっか。で、お互いにいいとこも悪いとこもわかっちゃうから。ちょっと一回別れよう、みたいな。」
「やっぱり原さんのこととかで、もっとサザンじゃない形で可能性を探ろう、みたいな。ある意味で半分煮詰まってたけども、ちょっと原さんには悪いけど、逆にそれが前向きになる材料みたいな感じで。」
(「季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994」ロッキング・オン、1994)
(「季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994」ロッキング・オン、1994)
残る桑田、松田、大森のソロ活動を年末にかけて企画することになったと思われる。
そこで桑田が活動アイディアの元としたのが、ArcadiaとThe Power Stationである。Duran Duranの休業期間にバンドメンバーがそれぞれ著名ミュージシャンと別プロジェクトを進行させる、というこの構造をそのまま自身に重ね、サザンの松田を連れ新バンドを結成することにしたようだ。
「クワタ・バンドを、というか、サザン以外のバンドをやってみたいなぁと思い始めたのは一九八五年の暮れ、だっけな……アレを見てたんですよ、アーケイディアとかパワー・ステーションを、MTVでね。こういう方法がメジャーで出来るんだったらっていう、ほんの一瞬の閃きだったんだけども、この閃きを大事にして、「絶対やろう!」みたいなね。」
(桑田佳祐「ブルー・ノート・スケール」ロッキング・オン、1987)
85年末の原由子の誕生会において、桑田はスペクトラムのパーカッションでもおなじみ、今野多久郎に新バンドの結成を持ちかける。前述のとおりドラムはサザンの松田、ギターは今野とSTR!Xに在籍していた河内淳一らが召集される。今野は以下のように回想している。
のちに発売されるLP(Taishita/Victor VIH-28259)のライナーのスケジュール(CDではオミットされてしまっている箇所)を見ると、86年1月4日にバンドのリハーサルがスタート、2月8日にはシングルの録音が開始されている。Kuwata Bandの楽曲は、シングルとアルバムで方向性が異なるとはよく言われる話ではあるが、そもそもレコーディングされた時期から異なるようだ。シングル盤記載の参加ミュージシャンやLPのライナー、各種インタビュー等から総合すると、シングルとしてリリースされた楽曲はほとんど初期、2月にまとめて録られ、その後3月11日からアルバムの録音、その先にライブと進めていったようである。
ただし、同年3月中旬〜下旬と思われる(メンバー紹介では後述する正メンバーが揃っているが、コンピューター・オペレーションは藤井丈司のみの記載)桑田の連載コラムでは、バンドメンバーの招集のエピソードに絡めてハード・ロック宣言が行われており、もしかしたらバンド結成の時点で方向性は既に決まっていたのかもしれない。
***
アルバムのセッション以前に録音された楽曲が以下と思われる。
「Smoke On The Water」はDeep Purpleの72年のアルバム『Machine Head』収録曲。アメリカではシングル・カットされチャート4位の大ヒットを記録した、ブリティッシュ・ハード・ロックおなじみのナンバー。ここまでの桑田関連の路線からは異色の選曲だが、高校時代、自身のバンドで取り上げていたこともあったようだ。以下、高校時代のクラブの定期コンサートを回想した桑田のコメント。
桑田「そんときやったのは三曲かな。ステッペン・ウルフの「ワイルドで行こう」とジョン・レノンの「ウェル」と、あと「スモーク・オン・ザ・ウォーター」ね。」
− ディープ・パープル!?
桑田「そ。」
− すごいね。その辺の混乱した感じが。
桑田「結局、あのリッチー・ブラックモアのギターってのが、やっぱり象徴だったんだよね。ハード・ロックに傾倒すると、あの人のギターに行っちまうっていうようなさ。だって感動的なんだもん。かっこいいっていうか。俺、グランド・ファンクのマーク・ファーナーってのも好きだったけど、それよかうまいやつがいるって感じで。」
− へえ、ハード・ロックもやってたんだ。
桑田「でもね、本気でやってたのは「ウェル」なんだよね。知ってる?ジョン・レノンの。あっちがやっぱり根本だった。」
(桑田佳祐「ロックの子」講談社、1985)
「神様お願い」はザ・テンプターズ68年のセカンド・シングルで、バンドの松崎由治のペンによる楽曲。当時の桑田にとっては日本語曲のカバーというのも珍しい。テンプターズについて、桑田はリアルタイムでのGS経験を「テンプターズとかオックスとか好きだった。」(「ロックの子」)と語っており、フェイバリット・グループだったようだ。サウンドは「Smoke On The Water」のように重厚に仕立てているが、自分と同年代のミュージシャン達の中でのクラシックとしての選曲だったのだろう(例えば、この前後で桑田とプライベートで急接近している山下達郎は、以前から自身のラジオ番組でGS特集を組む際、フェイバリット曲として必ずこの曲で特集を締めている)。
***
上記楽曲では、キーボードは『kamakura』セッション後半で原由子の代打も務めたDang Gang Brothers Bandの大谷幸、ベースは美久月千晴による演奏のようだ。86年4月5日リリースの「Ban Ban Ban」7インチシングルでは、大谷・美久月の両名は藤井丈司とともにゲスト・ミュージシャンとしてクレジットされ、バンドのメンバーは桑田、今野、松田、河内の4名のみとなっている。
86年3月5日のインタビューではこのように語っている。
シンセのオペレーションは『kamakura』に続き藤井丈司が担当していることもあり、直近のサザンの要素が骨太の演奏と見事に融合したのがこのシングル曲たちといえる。メイン・エンジニアは『kamakura』までの池村雅彦から今井邦彦に担当変更、音像は新たな印象に。今井は『kamakura』でアシスタントの代打として参加したのをきっかけにそのままアシスタントに定着、「Brown Cherry」ではミックスを担当(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019)。ここから桑田/サザンのレコーディングは、アシスタントの若手エンジニアをメイン担当にピックアップする手法が続いていくことになる。
***
その後、キーボードはBaker's Shopの小島良喜、ベースはザ・ナンバーワン・バンドの琢磨仁が固定メンバーとして加入。
「それでまあ、オーディションをして、小島良喜っていうのと琢磨仁さんってのが最後に入って来たんだよね。で、一緒にやってみて俺は、「ああ良かった、良かった」って感じなのね。」
(「ブルー・ノート・スケール」)
ようやくメンバーが確定したところで、同時代的メロウなブリティッシュ・ファンク風?「Pay Me」を録音。作曲はバンド名義となっているため、トラックを先に作り、その後桑田中心にメロディを作る手法を取ったと思われる(後のLPに繋がる流れである)。ラストにTommy Snyderのラップが入るのも面白い。
琢磨「PAY MEはやってます。これはすごくおしゃれで素敵な、僕の好きな曲のひとつ。前からあった素材を急遽引っ張り出して、みんなで盛り上がって、夜の2時ぐらいからいきなり2時間ぐらいで録ってしまった。」(「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」アミューズ、1987)
そのまま、アルバムのレコーディングが開始されることになる。
なお、その後のTDKのCMで流れた2曲、Creedence Clearwater Revival「Have You Ever Seen The Rain(雨を見たかい)」のカバーについては、琢磨が「僕がやってます」(「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」)と発言していること、またPinetop Sparks(というよりはB.B. King)のカバー「Everyday I Have The Blues」 もCMのオンエア開始が最後だったことから、これらはメンバー6人が揃ってからのレコーディングと推察される(出演は最後までサザンであった)。「Have You Ever Seen The Rain」はシングル「One Day」のB面としてリリースされたが、「Everyday I Have The Blues」は未商品化。
また、86年7月以降にリリースされた「スキップ・ビート」「One Day」については、「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」の小島のコメントによると、小島によるキーボードのダビングや差し替えが行われている。さらに、「スキップ・ビート」「Pay Me」「One Day」については、当時小島と同じ事務所に所属していた古川貴司がマニピュレーターとして参加している(「KB Special 1986年9月号」立東社、1986)。これはおそらく藤井丈司がEPO『Pump! Pump!』のレコーディングのため、3月初旬にはKuwata Bandのレコーディングを離れた影響と思われる。
そこで桑田が活動アイディアの元としたのが、ArcadiaとThe Power Stationである。Duran Duranの休業期間にバンドメンバーがそれぞれ著名ミュージシャンと別プロジェクトを進行させる、というこの構造をそのまま自身に重ね、サザンの松田を連れ新バンドを結成することにしたようだ。
「クワタ・バンドを、というか、サザン以外のバンドをやってみたいなぁと思い始めたのは一九八五年の暮れ、だっけな……アレを見てたんですよ、アーケイディアとかパワー・ステーションを、MTVでね。こういう方法がメジャーで出来るんだったらっていう、ほんの一瞬の閃きだったんだけども、この閃きを大事にして、「絶対やろう!」みたいなね。」
(桑田佳祐「ブルー・ノート・スケール」ロッキング・オン、1987)
85年までのサザンオールスターズ、特に83年以降のニューウェーブ化は、ビクターのデビュー時からの担当A&R/ディレクター、高垣健の手腕によるところが大きかったことを当時のエンジニア、池村雅彦は示唆している。
池村「プロデューサーの高垣さんが色んな音楽とか新しいプロデューサーやアーティスト、ミュージシャンを勧めて桑田くんを触発していたんですけど、この曲(筆者注:「マチルダBABY」)なんかそういう影響を感じますよね。」
(FM COCOLO『J-POP レジェンドフォーラム』7月はサザンオールスターズを特集!2代目エンジニア池村雅彦をゲストに迎えた番組トークvol.2を公開
この86年以降の展開にどれだけ高垣が関与していたのか、というのも気になるところではある。
85年末の原由子の誕生会において、桑田はスペクトラムのパーカッションでもおなじみ、今野多久郎に新バンドの結成を持ちかける。前述のとおりドラムはサザンの松田、ギターは今野とSTR!Xに在籍していた河内淳一らが召集される。今野は以下のように回想している。
今野「実は、楽器車1台で身軽に、日本中ライブしてまわりたいねっていうのがあったんです。それを12月の原坊の誕生会のときに話して。」
「今じゃ考えられないですけど、はじめは桑田がスケジュール帳を持ってリハーサルスタジオとか押さえるっていうのをやったんですよ。2〜3回やったらさすがにマネージャーに替わっちゃったんですけどね(笑)。」
「今じゃ考えられないですけど、はじめは桑田がスケジュール帳を持ってリハーサルスタジオとか押さえるっていうのをやったんですよ。2〜3回やったらさすがにマネージャーに替わっちゃったんですけどね(笑)。」
(「証言「1986年」その1 今野多久郎さん」https://www.ongakusyugi.net/special/20161100151a8f15e)
サザンとは別のバンドを結成するということで、コンセプトとしては上記のとおり「身軽」「ライブ」というのがあったようだが、結成の時点で明確なサウンドの方向性があったかどうかははっきり語られていない。桑田は当初のセッションについて、以下のとおり語っている。
「で、最初、音合わせみたいな感じで、セッションしてね。」
「ほとんどね、俺のイメージの中にある、一九六四年頃のバンド、ドアーズとかアニマルズとかキンクスとかあの辺の暗さと辛さと悪さっていうか、そういうのに対する憧れだよね。」
(「ブルー・ノート・スケール」)
「ほとんどね、俺のイメージの中にある、一九六四年頃のバンド、ドアーズとかアニマルズとかキンクスとかあの辺の暗さと辛さと悪さっていうか、そういうのに対する憧れだよね。」
(「ブルー・ノート・スケール」)
のちに発売されるLP(Taishita/Victor VIH-28259)のライナーのスケジュール(CDではオミットされてしまっている箇所)を見ると、86年1月4日にバンドのリハーサルがスタート、2月8日にはシングルの録音が開始されている。Kuwata Bandの楽曲は、シングルとアルバムで方向性が異なるとはよく言われる話ではあるが、そもそもレコーディングされた時期から異なるようだ。シングル盤記載の参加ミュージシャンやLPのライナー、各種インタビュー等から総合すると、シングルとしてリリースされた楽曲はほとんど初期、2月にまとめて録られ、その後3月11日からアルバムの録音、その先にライブと進めていったようである。
以下は86年3月5日の桑田へのインタビュー。
− それじゃあ、桑田バンドのサウンドっていうか、音はどんな感じ?
桑田「やってみなきゃわかんないっていうか、まず最初に空気から入るから、いつも、例えばスタジオでみんなで音出してみて、お互いに顔を見合わせて、“あっ、ヒロシとキーボードの誰それが気持ちよさそうにやっているかな”、そういうところから入るでしょ。」
− ということは、もうでき上がっているシングルとアルバムは全く別のものだということになるんですか?
桑田「う〜ん、シングル月間とアルバム月間があるから(笑)。ただ、バンドのサウンドとしては一本筋を入れたいなって気はしてる。」
(「Guitar Book GB 1986年5月号」)
− それじゃあ、桑田バンドのサウンドっていうか、音はどんな感じ?
桑田「やってみなきゃわかんないっていうか、まず最初に空気から入るから、いつも、例えばスタジオでみんなで音出してみて、お互いに顔を見合わせて、“あっ、ヒロシとキーボードの誰それが気持ちよさそうにやっているかな”、そういうところから入るでしょ。」
− ということは、もうでき上がっているシングルとアルバムは全く別のものだということになるんですか?
桑田「う〜ん、シングル月間とアルバム月間があるから(笑)。ただ、バンドのサウンドとしては一本筋を入れたいなって気はしてる。」
(「Guitar Book GB 1986年5月号」)
ただし、同年3月中旬〜下旬と思われる(メンバー紹介では後述する正メンバーが揃っているが、コンピューター・オペレーションは藤井丈司のみの記載)桑田の連載コラムでは、バンドメンバーの招集のエピソードに絡めてハード・ロック宣言が行われており、もしかしたらバンド結成の時点で方向性は既に決まっていたのかもしれない。
で、私、これだけの仕事師のメンバー何つって集めたかというと、これが、
「ハード・ロックやろうよ」
という、何かイキナリ金○ギュッとつかむようないい方なのね。
ハード・ロック。私は次のアルバムはこれで当ててみせる。別に売ろうとは思ってないの。そういうつもりでは作ってない。話題になりゃいんだから。ハード・ロックでウケてみせるよ"桑田バンド"は。
(「週刊セブンティーン 1986年4月22日号 桑田佳祐の有言不実行日記 26」集英社、1986)
***
アルバムのセッション以前に録音された楽曲が以下と思われる。
・Ban Ban Ban
・鰐
・スキップ・ビート
・One Day
・Smoke On The Water
・神様お願い
4曲は桑田のペンによる新曲、もう2曲はそれぞれDeep Purple、ザ・テンプターズのカバーである。
桑田の新曲は特にサザンと路線を変えようという意図は見られない。甘酸っぱいこみ上げ系メロディを骨太な演奏と過剰なエコー(70年代のPhil Spectorでも意識したのだろうか)で包んだ爽快感溢れる「Ban Ban Ban」(サビの美久月千晴のベースが最高である)。85年秋には楽曲は存在していた?アフリカン的な香りも漂う「鰐」。サザンでもおなじみ(しかしこれが最後)新田一郎セクションとEPOを起用した緩めのグルーヴが心地よいファンキー路線猥歌「スキップ・ビート」。バンド結成直後に書かれたという、John Lennon「Love」辺りを念頭に置いたと思しきシンプルなバラード「One Day」…と、いつもの桑田らしくバラエティに富んだ楽曲群である。
・Smoke On The Water
・神様お願い
4曲は桑田のペンによる新曲、もう2曲はそれぞれDeep Purple、ザ・テンプターズのカバーである。
桑田の新曲は特にサザンと路線を変えようという意図は見られない。甘酸っぱいこみ上げ系メロディを骨太な演奏と過剰なエコー(70年代のPhil Spectorでも意識したのだろうか)で包んだ爽快感溢れる「Ban Ban Ban」(サビの美久月千晴のベースが最高である)。85年秋には楽曲は存在していた?アフリカン的な香りも漂う「鰐」。サザンでもおなじみ(しかしこれが最後)新田一郎セクションとEPOを起用した緩めのグルーヴが心地よいファンキー路線猥歌「スキップ・ビート」。バンド結成直後に書かれたという、John Lennon「Love」辺りを念頭に置いたと思しきシンプルなバラード「One Day」…と、いつもの桑田らしくバラエティに富んだ楽曲群である。
「実際にオリジナルの曲をやり始めたのはね…、ちょうど資生堂の話が来たんで、「こりゃーいいぞ」と思ってさ、面白いわけよ。俺のバンドは小回りがきくんだよ、みたいな。」
「で、まずその資生堂の CMソングだっていうのを意識して、よしじゃあメジャー展開を考えていいんだなという部分で、“スキップ・ビート”と“バン・バン・バン”を作ったの。ちゃんとした形としてできたのがその二曲と“メリー・クリスマス・イン・サマー”。だから十割でしょ、打率は(笑)。“ワン・デイ”も正月に出来てたから、もう十二割。」
(「ブルー・ノート・スケール」)
*「Merry X'mas In Summer」は作曲クレジット・参加ミュージシャンやメンバーのコメントから、アルバムセッションでの録音と思われる
さて残りのカバーの選曲である。これらは86年3月からオンエアの、サザン出演(!)のTDKカセットテープ・ADのCMに使用されたので、それを前提に企画されたカバーか、はたまたハード・ロック・バンドの肩慣らしとしてのカバー・レコーディングをCMに流用したのだろうか。
「で、まずその資生堂の CMソングだっていうのを意識して、よしじゃあメジャー展開を考えていいんだなという部分で、“スキップ・ビート”と“バン・バン・バン”を作ったの。ちゃんとした形としてできたのがその二曲と“メリー・クリスマス・イン・サマー”。だから十割でしょ、打率は(笑)。“ワン・デイ”も正月に出来てたから、もう十二割。」
(「ブルー・ノート・スケール」)
*「Merry X'mas In Summer」は作曲クレジット・参加ミュージシャンやメンバーのコメントから、アルバムセッションでの録音と思われる
さて残りのカバーの選曲である。これらは86年3月からオンエアの、サザン出演(!)のTDKカセットテープ・ADのCMに使用されたので、それを前提に企画されたカバーか、はたまたハード・ロック・バンドの肩慣らしとしてのカバー・レコーディングをCMに流用したのだろうか。
「Smoke On The Water」はDeep Purpleの72年のアルバム『Machine Head』収録曲。アメリカではシングル・カットされチャート4位の大ヒットを記録した、ブリティッシュ・ハード・ロックおなじみのナンバー。ここまでの桑田関連の路線からは異色の選曲だが、高校時代、自身のバンドで取り上げていたこともあったようだ。以下、高校時代のクラブの定期コンサートを回想した桑田のコメント。
桑田「そんときやったのは三曲かな。ステッペン・ウルフの「ワイルドで行こう」とジョン・レノンの「ウェル」と、あと「スモーク・オン・ザ・ウォーター」ね。」
− ディープ・パープル!?
桑田「そ。」
− すごいね。その辺の混乱した感じが。
桑田「結局、あのリッチー・ブラックモアのギターってのが、やっぱり象徴だったんだよね。ハード・ロックに傾倒すると、あの人のギターに行っちまうっていうようなさ。だって感動的なんだもん。かっこいいっていうか。俺、グランド・ファンクのマーク・ファーナーってのも好きだったけど、それよかうまいやつがいるって感じで。」
− へえ、ハード・ロックもやってたんだ。
桑田「でもね、本気でやってたのは「ウェル」なんだよね。知ってる?ジョン・レノンの。あっちがやっぱり根本だった。」
(桑田佳祐「ロックの子」講談社、1985)
「神様お願い」はザ・テンプターズ68年のセカンド・シングルで、バンドの松崎由治のペンによる楽曲。当時の桑田にとっては日本語曲のカバーというのも珍しい。テンプターズについて、桑田はリアルタイムでのGS経験を「テンプターズとかオックスとか好きだった。」(「ロックの子」)と語っており、フェイバリット・グループだったようだ。サウンドは「Smoke On The Water」のように重厚に仕立てているが、自分と同年代のミュージシャン達の中でのクラシックとしての選曲だったのだろう(例えば、この前後で桑田とプライベートで急接近している山下達郎は、以前から自身のラジオ番組でGS特集を組む際、フェイバリット曲として必ずこの曲で特集を締めている)。
TDKのCMは「Smoke On The Water」編が3月、「神様お願い」編は7月からそれぞれオンエアされた。特に「神様お願い」編は、黒縁眼鏡の桑田を含むビート・バンドに扮したサザン5人と熱狂するギャラリーの様子がモノクロで展開される、珠玉の出来の映像である。「神様お願い」はシングル「Merry X’mas In Summer」のB面に収録されたが、「Smoke On The Water」のスタジオ録音は2021年現在商品化されていない。
***
上記楽曲では、キーボードは『kamakura』セッション後半で原由子の代打も務めたDang Gang Brothers Bandの大谷幸、ベースは美久月千晴による演奏のようだ。86年4月5日リリースの「Ban Ban Ban」7インチシングルでは、大谷・美久月の両名は藤井丈司とともにゲスト・ミュージシャンとしてクレジットされ、バンドのメンバーは桑田、今野、松田、河内の4名のみとなっている。
「どのようなメンツにしようかっていうのは……俺はね、手帳買っていろいろ好きなミュージシャンを書いてたの、そんなにたくさんじゃないけど。河内淳一とか今野多久郎とか美久月千晴とか書いてたのね。その中でもスケジュール的にもダメな人間が二、三人出てきて、ダンガン・ブラザーズの大谷とか」
(「ブルー・ノート・スケール」)
(「ブルー・ノート・スケール」)
86年3月5日のインタビューではこのように語っている。
桑田「ドラムはヒロシで、あとギターは河内淳一、パーカッションは今野タクロー、元スペクトラムにいた人。基本的にはこの4人のプロジェクトで、ベースとキーボードは流動的になりそう」
(「Guitar Book GB 1986年5月号」)
(「Guitar Book GB 1986年5月号」)
シンセのオペレーションは『kamakura』に続き藤井丈司が担当していることもあり、直近のサザンの要素が骨太の演奏と見事に融合したのがこのシングル曲たちといえる。メイン・エンジニアは『kamakura』までの池村雅彦から今井邦彦に担当変更、音像は新たな印象に。今井は『kamakura』でアシスタントの代打として参加したのをきっかけにそのままアシスタントに定着、「Brown Cherry」ではミックスを担当(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019)。ここから桑田/サザンのレコーディングは、アシスタントの若手エンジニアをメイン担当にピックアップする手法が続いていくことになる。
***
その後、キーボードはBaker's Shopの小島良喜、ベースはザ・ナンバーワン・バンドの琢磨仁が固定メンバーとして加入。
「それでまあ、オーディションをして、小島良喜っていうのと琢磨仁さんってのが最後に入って来たんだよね。で、一緒にやってみて俺は、「ああ良かった、良かった」って感じなのね。」
(「ブルー・ノート・スケール」)
ようやくメンバーが確定したところで、同時代的メロウなブリティッシュ・ファンク風?「Pay Me」を録音。作曲はバンド名義となっているため、トラックを先に作り、その後桑田中心にメロディを作る手法を取ったと思われる(後のLPに繋がる流れである)。ラストにTommy Snyderのラップが入るのも面白い。
琢磨「PAY MEはやってます。これはすごくおしゃれで素敵な、僕の好きな曲のひとつ。前からあった素材を急遽引っ張り出して、みんなで盛り上がって、夜の2時ぐらいからいきなり2時間ぐらいで録ってしまった。」(「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」アミューズ、1987)
そのまま、アルバムのレコーディングが開始されることになる。
なお、その後のTDKのCMで流れた2曲、Creedence Clearwater Revival「Have You Ever Seen The Rain(雨を見たかい)」のカバーについては、琢磨が「僕がやってます」(「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」)と発言していること、またPinetop Sparks(というよりはB.B. King)のカバー「Everyday I Have The Blues」 もCMのオンエア開始が最後だったことから、これらはメンバー6人が揃ってからのレコーディングと推察される(出演は最後までサザンであった)。「Have You Ever Seen The Rain」はシングル「One Day」のB面としてリリースされたが、「Everyday I Have The Blues」は未商品化。
また、86年7月以降にリリースされた「スキップ・ビート」「One Day」については、「Kuwata Band "Final" Bokura: Nineteen Eighty-Seven」の小島のコメントによると、小島によるキーボードのダビングや差し替えが行われている。さらに、「スキップ・ビート」「Pay Me」「One Day」については、当時小島と同じ事務所に所属していた古川貴司がマニピュレーターとして参加している(「KB Special 1986年9月号」立東社、1986)。これはおそらく藤井丈司がEPO『Pump! Pump!』のレコーディングのため、3月初旬にはKuwata Bandのレコーディングを離れた影響と思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿