2023年6月24日土曜日

33 1/3計画 — 日本の45回転レコード創成期とコンパクト盤(下)

■その1 アメリカでは

1950年代末以降、米国のレコード業界において7インチシングル盤にとっては地味に迷走の10年でした。「地味に」というのは、業界からは新たな提案を続けていたものの、市場はその提案を受け入れずゆえにまったく新風は吹かず、それらのこと自体が歴史の中に埋もれたまま何事もなかったかのように時が過ぎていった…という、今となっては業界のいわゆる「黒歴史」となった流れがあったようだ、ということです。

Mike Callahanさん、Dave Edwardsさん、Patrice Eyriesさん、Randy Wattsさん、Tim Neelyさんによる2014年の大作記事に、そのあたりの経緯がまとめられています。
「The Stereo Singles Project: History and Discography of 7" stereo singles and Little LPs」
情報量の多いサイトなので、こちらの記事を参考に私が独断で要約 + 当時のBillboard紙からの引用で若干細かめにまとめますと…

1958年、ステレオ録音の登場により7インチ盤市場にも各社がステレオシングル、ステレオEPを投入します。ポップスファンにとってはちょっと早いタイミングと思われる方もいるかもしれません。それもそのはず、当時はポップスもののレコーディングはまだモノラルが主流、そもそも供給できる音源が少ない状況でした。また、モノラル用カートリッジでステレオ盤はかけられないという互換性の問題から、そもそも需要も無かったようです。そしてさらに、ポップスの宣伝の場でもあるAMラジオ局も当時はモノラル放送ですから、これまたステレオ盤はかけられない…等の理由が先のサイトで推測されています。ということで、ステレオのシングル盤自体がすぐに廃れてしまう…

という状況になりかけた1959年、沈黙していたColumbiaが満を持して33 1/3回転の7インチシングル、「Stereo Seven」のリリースを開始。ここには10年以上前の因縁がありました。

ここで時計の針を戻して1948年の話をしますと…Columbiaは78回転盤に代わる新しいマイクログルーヴのレコードとして、10インチと12インチでLP=Long Play Record、33 1/3回転盤を開発・発売。その半年後、ライバルのRCA Victorが7インチでマイクログルーヴの45回転レコードを開発・発売。熾烈な回転数戦争の火蓋が切って落とされましたが、回転数切替機能を持つプレイヤーも普及、2社以外のレコード会社もいずれかに絞るわけでもなくそれぞれをリリースし、結果的に棲み分けが成立します。45回転盤登場とほぼ同時にColumbiaは慌てて7インチでも33 1/3回転盤をリリースしますが、7インチの領域では45回転盤にかなうことはありませんでした。1950年、Columbiaが渋々45回転市場に参入したのち、33 1/3回転7インチ盤はいつのまにかフェイドアウトの憂き目にあっています。
このあたりは松林弘治さんによるこちらの記事が詳しいです。
「Things I Learned On Phono EQ Curves, Pt.14」

ということで、フェイドアウトから10年も経たないうちに、シングル盤のステレオ化に乗じて、Columbiaは(仕様的に回転数はステレオと関係ないのですが)再度33回転でStereo Sevenを発売開始したのです。

Billboardの59年7月20日号において、Columbiaが33回転のステレオ7インチを発売、という記事が掲載されます。
Columbiaの社長Goddard Libersonは「我々はStereo Sevenのターゲットを、シングル盤の新たなリスナー=最近シングル盤を買っていない大人のリスナー、と考えています」「総売上の80%は33回転レコードです。ステレオ環境が整ってるユーザーはLP購入者ですから、33回転はステレオ・シングルに必然なのです」と語っています。音質や仕様の問題ではなく、普段シングルを買わないLP購入層にアプローチするための戦略として33回転なのだ、という理屈です。
Col. to Intro New Stereo 7-Inch 33 1/3


ステレオ45回転シングルに失敗したと考えた各社は、Columbiaの動きに追随し33回転シングルのリリースを開始します。こちらはABC Paramount参入の記事です。
Am-Par Debs Seven-Inch LP

こちらはCraftのステレオ用レーベル、Stere-o-craftも大人向けを想定して33回転シングルに参入する、との記事です。
Label Climbs 7-Inch Stereo Bandwagon

こちらの記事では、Capitolが年明けに33回転シングル市場に参入するという話がスポークスマンによって否定された、とあります。Capitolは過去の回転数戦争において、最初にRCA Victor側につき、45回転盤をリリースした会社でした。同時にジュークボックス製造会社Seeburgのエンジニア、John Stuparitzが33回転シングルに可能性を感じているとのコメントも寄せられています。「ステレオ、モノラルともシングル盤の未来は33回転にある」との熱いコメントが光ります。
Interest Builds in Stereo 33 Single

米国内に留まらず、海外でも33回転シングルがリリースされるとの記事も登場します。日本において、Columbiaと同じタイプの盤を日本コロムビアが発売するとの記事です。

そして翌60年6月。秋にCapitolも33回転シングルに参入、しかもステレオのみならずモノラルシングルもリリースするとの記事が掲載されます。モノラル・ステレオ両方をリリースすることで、Capitolは最終的にレコードの回転数が1種に戻ることに全力を尽くしている…とBillboard紙は書いています。ここが7インチシングルのステレオ化から、33 1/3への回転数統一に目的がスライドしていくターニングポイントとなったようです。
Capitol to Issue Mono and Stereo Seven-Inch 33's

1週間後には他のメジャー会社も回転数統一に向けて動いている、という記事が出てきます。Capitolが先陣を切る中、Columbiaのみならず、Victorもこの問題についてトップ達がこの数ヶ月研究を続けている、とあります。
Mono 33 Single Can Spur 1-Speed Industry Thinking

そしてColumbiaはすべてのシングルについて、45回転と同時に33回転(モノラル)でもリリースする予定、と報じられます。
Col. to Issue All Singles 33 and 45

そして60年の年末。業界のこの流れには逆らえないと思ったのか、ついには回転数戦争における7インチ界の勝者・45回転レコード生みの親であるRCA Victorまでが33回転7インチ「Compact 33」の発売を大々的に始めます
Victor Sights on Broader Market Via 'Compact 33'
RCA Victorの33回転シングルの登場で、業界が回転数統一に向かう道が示された…と小見出しがあります。シングルは「Compact 33 Single」、4曲入りのEPに相当するものが「Compact 33 Double」としてリリースされること、歯ブラシメーカーDr. Westとタイアップし、歯ブラシにCompact 33のハイライト盤『Tunes for Teens』がついてくる、というプロモーションが展開される…などが書かれています。ハイライト盤のタイトルは、45回転盤の主要顧客層である若者に33回転7インチを売っていこうという明確な意思が見てとれます。

こちらは歯ブラシなしで単体発売されていた、無題のバージョンと思われます(歯ブラシ付バージョンはこちら)。Compact 33は回転数切替不要、センター用アダプターも不要…とアピールポイントが書かれています。
歯ブラシの有無にかかわらず盤は共通のものが使われていたようです。A面モノラル・B面ステレオでなんと計8トラック入り。片面4トラックでもはやDoubleですらありません。

若者向けに33回転のみの安価なプレイヤーが求められている…というBillboard紙の社説も掲載されています。
Sparking 33 Singles

61年末になっても、まだまだ各社の33回転チャレンジは続いていました。4曲にとどまらず6曲入り33回転7インチを、Cadenceは「Cadence Little LP」・Mercuryは「Compact 6」のシリーズ名でリリース開始します。
Manufactures Unveil New 'Small' LP's



さてこれらの33回転7インチ、息巻く業界と裏腹に、実は市場にはまったく受け入れられなかったようです。RCA Victorが参入して半年後、61年6月のBillboard紙、ラジオ局WBUCの制作マネージャーDale Brooksの意見を見てみましょう。
Vox Jox: Vetoes Compact 33
Brooksも最初は良いアイディアと思っていた33回転7インチ、実際45回転盤に比べると
・大きさが同じなので収納には何のメリットもない
・再生忠実度に大きな改善はない
・センターホールが小さいので片手で手軽につかめない
・扱いが面倒くさい
…と、完全に酷評です。センターホールなどはアダプターの手間を考慮したのが裏目に出てしまっています。

唯一33回転7インチに活路を見出し、当初よりジュークボックス界においてバックアップを続けてきたSeeburg社の奔走を取り上げた62年9月のこちらの記事を読むと、「市場に大きな影響を与えたものはなかった」ということで、一般向け33回転7インチ盤はもはや終わったことになっています。
After considering the concept as a retail entity, most diskers called last week were pessimistic. There were recollections of various experiments with new concepts in disks, such as RCA Victor’s compact 33-speed singles, Columbia’s stereo 33, introduced some time before, and others. In none of these cases, did the disks in question make a serious dent in the marketing picture. Fault, in most cases, was laid at the doorstep of Mr. Average Record Dealer, whose problems of inventory were already compounded by the necessity of stocking both stereo and monaural versions of the same LP titles.
("Little LP's Stir Mixed Reactions", Billboard Music Week, September 22, 1962

以降、一般向け33回転7インチについての記事は見かけなくなります。各社とも、1950年のColumbiaのように、生産をフェイドアウトさせていったようです。Stereo Seven発売からわずか3年、33回転7インチはすっかり過去のものになってしまいました。

しかしこれ以降、Seeburgの33回転7インチ専用ジュークボックスのために、各レコード会社は1枚に6曲程度収録された「Little LP」を作り続けていくことになります。アルバム作品のプロモーション用として、多くの曲が入った33回転7インチというのはジュークボックスにとってはメリットのあるものだったということでしょう。Seeburgの奮闘がなければ、33回転7インチは完全に消えてしまっていたかもしれません。

そして最初の話に戻りますが…再度業界は市場が選択し続けた、45回転でのシングル盤のステレオ化を目指します。この間何年かでFM局の増加、ポップスでも12インチLP=アルバムのステレオ化などが進み、購入者のリスニング環境などの障壁は少なくなっていました。渋るAM局にはモノミックスを収録したプロモ盤を出し続けるというところで落とし所をつけ、1968年より、ようやく全体的に45回転シングルがステレオ化され始めました。当初のトライから丸10年の廻り道、でした。



■その2  日本では

長らくお待たせしました、今回の本題です。日本での4曲入り33回転7インチ・いわゆるコンパクト盤について、見ていきましょう。


●日本初の33回転7インチレコード

日本でマイクログルーヴのレコードが発売されたのは33 1/3回転盤が51年、45回転盤が54年。既に米国で回転数戦争は終わっており、日本コロムビアも特に50年代初頭から33回転の7インチを発売することはなかったようです。12インチの33回転LP、7インチの45回転シングル、7インチの45回転EPが共存していました(さらには地味ながら16 2/3回転のマイクログルーヴ盤というのもありましたので、実は旧式78回転盤とあわせると4スピード存在していました)。

平和な時代が続いた1958年、ひっそりと日本ディスクがおそらく日本初の33回転7インチレコード、6曲入りをリリースしています。

7DLP-1(7"LP) ¥800 パリー・ニューヨーク
いつの日か君に逢わん、詩人の魂、パリ・カナイユ
美しきコペンハーゲン、アイ・ビリーヴ、スウエーデン・ラプソデイ
仏のル・アープ港から、ニユーヨーク迄の間の大西洋航路の豪華船“リベルデ”号に乗り込んだ、ジエーリー・メンゴ、フランク・プーセルその他のバンドがフランスとアメリカを想わせる曲を美しくきかせる33回転の7"LP
『デュクレテー・トムソン デイスコフイル・フランセー オアゾーリール Nippon Mercury 日本ディスク株式会社 1958・1 正月新譜拔粹目録』日本ディスク株式会社、1958

同社はこの頃8インチLPのリリース(「月報 日本マーキュリー 1950年代」https://muuseo.com/chirolin_band/items/12などユニークなトライをいくつか行っており、33回転7インチもその一環のようです。日本ディスクがこのようなトライを続けた理由は、社長André Calabuigの方針によるものだったと推測されます。

(引用者注:フランスでのレコード事情について)レコードの値段についてはよく質問されます。一枚一枚の値段は日本より少し高いのですが、生活水準が日本より高い様に思いますので、それ程購入にさしつかえる事はない様です。それに12吋LPにプレスされた曲の一部分を抜粋して、7吋LPにして出していますので、手ごろな値段で求められ、又自分の好きな曲目だけを楽しめます。日本ではまだこの7吋LPが普及されていませんが、日本ディスクではこの企画をしていますので良いプレスで数多くの名曲を、求めやすいお値段で出まわるのも近い事と思います。
アンドレ・キャラビ「外・人界 フランス人は…『レコード藝術 1957年4月号』音楽之友社、1957)

45catなどで本国Ducretet-Thomsonのディスコグラフィーを見ると、50年代後半は45回転シングル、4曲入りもEPのみで、33回転の7インチは出ている形跡がありません。1952年には出ていたようですが…。ほか仏Columbia、仏RCA Victorなどを見ても7インチは45回転盤ばかりのようです。もちろん前回のとおり、当時の日本でもEPはそれなりに出ていましたので、この辺はCalabuigがうまいこと話を盛ったのか、それともポップス畑の事情に疎かったのか、どちらかでしょうか。

日本ディスクの33回転7インチは大きい会社ではなかったこと、また月報でもこの一枚しか確認できない程度の規模のリリースだったようで、このチャレンジは歴史の中に埋もれてしまったようです。

Calabuigはこの数年後、朝日新聞社が仏Sonopresseと提携した朝日ソノプレス(のちの朝日ソノラマ)創立時の社長に就任。リーズナブルなメディアとして日本人にも非常に身近な存在となる、ソノシートの普及に大きく関わります。


●ステレオ・セブンの日本上陸

さてこれ以降は前回も登場した日本レコード協会の機関紙『Record』(現:『The Record』)の海外情報「世界の話題」、国内情報「News」コーナーを主に参照していきたいと思います。

59年9月号「世界の話題」コーナーでは、米ColumbiaのStereo Seven発売についての記事があります。

米国コロムビアの「Streo Seven」
 米国コロムビアは七月中旬マイアミのアメリカーナ・ホテルに於いて開催された一九五九年度販売会議で、三十三回ステレオ七吋レコードを発表した。四五シングルで発売する内の特種の曲目だけを三十三回ステレオで出す。これを「Streo Seven」と命名した。
 これは大人を対象に発売するもので、大部分の大人は四五シングルを使用するのをやめている。これはスピンドルにアダプター取り付けの面倒さがあるからである。
(略)
 この「ステレオ・セヴン」に関する他の諸会社の批評は賛否まち〳〵で纏まらない。反対者達は「何のために出すのだ。また商売に混乱を引き起こすではないか。四五シングルのステレオ盤があるではないか」という。併し、熱心に賛成する諸会社もあり、或る大会社は、「これは素晴らしい考えだ。どうして我が社が思いつかなかったのだろう」と言ってもいる。
 然し、現在のところどの会社も三十三回ステレオ七吋を出そうとするものはなく、コロムビアの売行をよく見極めて決心をつけようとしている。
『Record 1959年9月号』日本蓄音機レコード協会、1959) ※引用者注:Steroの綴りは原文ママ

まだ海の向こうの小さな動きかと思いきや、先のBillboard紙の記事にもあったとおり、1960年1月、日本コロムビアはStereo Sevenを日本においても発売開始します。1960年1月5日発行の月報で1ページが設けられています。

1960年レコード界の寵児!
STEREO SEVEN ¥400 <1月10日発売>
コロムビア33 1/3rpmステレオ・7登場!
LPファンがそのままの回転で手軽に楽しめる17cmのステレオ・シングル盤。
『レコード月報 コロムビア M-G-M エピック ウェストミンスター ヴェガ・ニクサ 1960 2』日本コロムビア株式会社 レコード営業部、1960)

初回発売は以下の5枚、4曲入りEPの代用品ではなく、あくまで45回転シングル盤に代わるものとしての、片面1曲ずつの収録でした。

・LLS-1「The Battle Of New Orleans / All For The Love Of A Girl」Johnny Horton
・LLS-2「Love Is A Many-Splendored Thing / Flirtibird」Duke Ellington & His Orch.
・LLS-3「Volare / I Love Paris」The Kirby Stone Four
・LLS-4「Smile / You Can't Love Em All」Tony Bennett
・LLS-5「Goodnight Irene / On Top Of Old Smoky」Micth Miller & His Orch.

こちらは第一回発売のうちのLLS-2。レーベルやカンパニースリーブのデザインは米国ColumbiaのStereo Sevenを踏襲し、細部のみ変えてあるようです。

ライナーには「ステレオ・レコード界にセンセイショナルな話題を提供したステレオ・セブン」とあります。


●「米国で好調な」33回転7インチ

『Record 60年4月号』の「世界の話題」コーナーで、再度Stereo Sevenが登場します。好調なうえに、45回転シングルは消えゆくのではという業者のコメントまで載っています。

ステレオ・セブンのその後の売行
 昨年七月米国コロムビアが発売した三十三回転ステレオ七吋は、その後徐々にレコード会社ならびにジュークボックス設置店主達の興味の的になりつつある。特に最近のように四五回シングル売行が低下し始めている際においてである。或る業者は、四五回シングルは間もなく消え失せるのではないかと言っている。
『Record 1960年4月号』日本蓄音機レコード協会、1960)

いっぽう日本では、まだまだ45回転EPの可能性を広げる試みが続けられていました。『Record 60年5月号』の国内情報「News」コーナーでは、日本ビクターがさらに曲数を増やしたEPをリリースするとの記事が掲載されています。

ビクターから六曲入りEP JETシリーズ発売
普通EPは両面で四曲録音されているがビクターレコードではEPの収録時間を最大限に活用し六曲収録のキングサイズEPを制作し“スーパー・ドーナッツ・ジェット・シリーズ”として6月新譜から発売する。
価格は一枚六百円という徳用版。
『Record 1960年5月号』日本蓄音機レコード協会、1960)

日本ビクターのJETナンバーはその後2曲入りのシングル盤にも使用されることになりますが、当初は6曲入りEPの番号だったようです。JET-2が45catに掲載されています(余談ですが、このChantelsのアルバム・ジャケット、ジュークボックスの写真の流用もひょっとしてこのキングサイズEPが始まりでしょうか?)。

『Record 60年10月号』の「世界の話題」、モノラルでも33回転シングルが出る・キャピトルも参入するという記事で、またしても海外での33回転シングルの好調さが伝えられます。

モノラル七吋三三回転盤
 昨年夏発売したステレオ・セヴンの成功に引続き、米国コロムビアは今回四五シングルと同時にモノラル三三回盤を発売し始めた。同一ポピュラー曲を二つの速度で発売していく方針である。小売店側も、配給者側も喜んでこれを迎えていると営業部長ガラハー氏が語っている。
(略)
 キャピトルも、この例にならい特定の曲だけ、四五及び三三回七吋で発売することを決定し、他の数社もこれに従うことになるらしい。
『Record 1960年10月号』日本蓄音機レコード協会、1960)


●ステレオ・セブンの方針転換

『Record 60年10月号』では同時に「News」で、日本のコロムビアが4曲入りのステレオ・セブンをリリースすると報じられています。

コロムビア「ステレオ7」五百円盤発売
コロムビアでは新たに一枚四曲入りのステレオ・セブン五〇〇円盤シリーズ(17cmLP)を設け第一回新譜として次の五枚を十一月二十日発売する。
『Record 1960年10月号』日本蓄音機レコード協会、1960)

コロムビアの月報では60年11月1日発行の『レコード月報 '60/12』(日本コロムビア株式会社 レコード営業部、1960)において、「4曲入ったステレオ7 17cmLP」の題で、4曲入りステレオ・セブンが5枚リリースされる旨記載されています。EPに変わるものとしての「17cmLP」、33回転盤です。初回発売は以下の5枚でした。

・LSS-1「La Cumparsita / Jalousie / Besame Mucho / Miami Beach Rhumba」Xavier Cugat & His Orch.
・LSS-2「Quien Sera / La Malagueña / Me Voy Pa'l Pueblo / Carilu」Trio Los Panchos
・LSS-3「Love Is A Many-Splendored Thing / Third Man Theme / Around The World In 80 Days / An Affair To Remember」Frank De Vol & His Orch.
・LSS-4「La Cumparsa / Taboo / Quierme Mucho / Para Vigo Me Voy」Percy Faith & His Orch.
・LSS-5「Night And Day / Check To Cheek / Over The Rainbow / Three Coins In The Fountain」Doris Day

こちらが4曲入り第一弾のLSS-1。シングルのLLSナンバーから心機一転、レーベルやスリーブのデザインも変わっています。このデザインは米Columbiaのモノラル33回転シングルに準じているようです。

LLSナンバーにはあった、録音特性RIAAについての記載がなくなっています。

いっぽう気になるのは片面1曲入り、シングルのステレオ・セブンなのですが、コロムビア年鑑によると60年8月発売のLLS-17、Andre Kastelanetz & His Orch.「Dark Eyes / Two Guitars」を最後にすでにリリースが止まっています。つまり45回転シングルの代替としてのステレオ・セブンをいったん打ち止めにし、改めて4曲入りEPの代替としてステレオ・セブンを再スタートさせたような状況です。

面白いのが、米ColumbiaのStereo Sevenはこの時点ではまだ片面1曲ずつのシングルのみで、片面に複数曲が入るのは6263年のことのようです。イエローのレーベル・デザイン等もColumbiaのモノラル33回転盤の流用で、Stereo Sevenのものではありません。タイミングとしては、Capitolも参入し、ステレオだけでなくモノラルの33回転シングルを開始、33回転統一の動きが見られ始めた頃です。RCA Victorの参入も間近で、CapitolやRCA Victorは33 Doubleを当初よりリリースしているようですので、この辺の情報を先取りしてヒントにしたのか、それとも日本コロムビア独自の判断だったのか…この辺は興味深いところです。

今回この背景については見つけることはできませんでしたが、33回転シングルを打ち止めにしてしまうということは、単純に8ヶ月リリースしてみて、方針転換せざるを得ないような売れ行きだったという可能性もあります。いずれにせよこの判断・発売スタイルが、後々日本のEP、4曲入り7インチ界に大きな影響を与えることになるようです。


●他社の33回転4曲入り7インチ参入

年が明けて『Record 61年1月号』の「News」、33回転7インチにコロムビア以外の会社が参入するニュースが登場します。テイチクが国内製作ものの33回転7インチをリリースするという内容です。

テイチク、33回転17cmステレオ発売
テイチクは2月新譜から33回転17cmステレオを発売する。価格は四〇〇円、第一回発売は次のとおり。▶︎戦友、佐渡おけさ<アイ・ジョージ>▶︎銀座の恋の物語<ブルー・キャナリーズ>君忘れじのブルース<クリスタル・シスターズ>北上夜曲<トリオ・こいざんす>十三夜<ふりそで・シスターズ>▶︎独立騎兵隊マーチ/峠の幌馬車/コーヒー・ルンバ/九月になれば<バッキー白片とアロハハワイアンズ>SS-一〜三。
『Record 1961年1月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

SS-1は片面1曲ずつとシングルっぽいですが、「戦友」は7分45秒の収録なので、これのみ特例と思われます。テイチクの年鑑『テイチク・デッカ・ユニオン・フォニット番号順総目録 : 営業用 1963』テイチク株式会社、1962)を見ても、SS-2以降はすべて4曲入りの「Stereo LP」でした。あくまで4曲入りEPに相当するものを33回転でリリースし始めた、というところです。


●日本のレコード業界の方針

『Record 61年2-3月号』ではコンパクト盤史的に重要な情報が掲載された一冊です。まずいつもの「世界の話題」では、米RCA VictorのCompact 33のニュースが飛び込みます。

RCAのCOMPACT33とレコード速度の一本化
 米国コロムビアが一年半前、十年目に再発売したSTEREO SEVENはその後好調の波に乗り切り、シーバーグもこの小型三三回盤演奏可能のジュークボックスを市販し始め、キャピトル、デッカとこれに続き、現在米国では二十二のレコード会社が発売しつつある。四五回盤の創始社RCAビクターは永らくその売行状況を注視していたが、遂に一九六一年一月一挙二十五枚の七吋三三回盤をCOMPACT33と銘打って発売した。これは世界的に有名な歯ブラシDr. West's Toothburshと提携して行なわれる。(この歯ブラシは、現在は知らないが、その昔は大阪製で神戸の米人商社から米国へ輸入されていた事実を筆者は知っている)
 この新発売盤は二種類あり、COMPACT 33 SINGLEは片面一曲づつで小売値段九八仙、COMPACT 33 DOUBLEは片面二曲づつで一弗四九仙となっている。そして、四五版と同時発売される。
 大会社がすべて三三回七吋を取扱うようになれば、自然考えられてくるのはレコード速度の一本化(現在は四速度)である。この点に関して、各社幹部は最深の注意を払って成り行きを見ているが、ビクターは各放送局につき三三回と四五回といずれが便利であるかを調査しつつあり、同時に小売店側の在庫状態をも検討し最も苦痛なく一本化できる方法を考えている。もっともこの一本化迄には相当の時間を必要とすることであろう。又ビクターは三回転のみの安価蓄音機を発売する予定である。
『Record 1961年2-3月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

時間はかかるだろうとしながらも、米国では回転数統一にむけ各社(22社!)が動いており、33回転7インチ自体も好調であるという印象を与える記事になっています。

さて同誌では、協会誌ということでレコード会社各社の社員、さらに日本オーディオ協会の理事らの座談会が掲載されています。お題は「演奏機に関係するクレームの問題点」。プレーヤーに関する苦情について、あれこれ意見交換が行なわれています。大きくは3点話題があり、針飛びの問題、針自体の問題、そして回転数、です。プレーヤーのスピード選択肢に78回転・16回転はもう不要ではないかという話が続くのですが、その中でこんな発言があります。

浅野勇(オーディオ協会理事)「スピードの問題をつきつめて行きますと45あたりも無意味だと思うんです、7吋だって33でいいと思いますね。」
和田正三郎(キングレコード技術課長)「アメリカでは、そういう趨勢にありますよ。1スピードですみますし。」
(略)
白石勇磨(日本ビクター録音技術課長)「オプショナルセンター(アダプターのいらないもの)の将来はどうでしょうか。45はみんなアレになるとか……。」
池田圭(オーディオ協会理事)「どっちがいいんですか、ドーナツとオプショナルセンターでは。ビクターさん以外はみんなドーナツなんですね。」
和田「別にドーナツにして大きくする理由はもうないんです。」
白石「アダプターを無くしたりする心配もないわけです。」
池田「そうするとみんな小さくするというようなことではどうなのですか。」
和田「それはもうできてるでしょう。33で7吋を出せばそれは解決できますよ。会社はみんな33にして行こうという傾向があるのですから。
岡原勝(オーディオ協会理事・岡原研究所)「あるようですね。
池田「そうすると45本来の意義からはずれることになりますね。」
和田「そうですよ。最初ビクターが45を発明したときの理論的根拠はくずされるわけです。しかしEPだとか、その理論を超えた長い時間のカッティングを既にやっているので、要は耳できいてどの程度の歪までききわけられるかによるので、その辺にふんぎりをつける根拠がありそうです。」
(「座談会 演奏機に関係するクレームの問題点『Record 1961年2-3月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

さらっと話していますがキングレコードの技術課長の発言にあるように、この時すでに日本のレコード会社各社は、米国の趨勢を横目で見ながら33回転に統一する流れに意識的に足を踏み入れていた、ということがわかります。となると、数ヶ月前にテイチクが4曲入りの「Stereo LP」をリリース開始したのは、この流れを踏まえたものでしょう。

『初歩のラジオ 1961年3月号』(誠文堂新光社、1961)でも海外トピックス欄に「33 1/3回転の“新シングル盤”」という記事があり、RCA VictorのCompact 33についての情報があります。45回転盤はかつての78回転盤のように影が薄くなっていくのではと予想される…と締められています。


●日本ビクターの33回転4曲入り7インチ参入

そして『Record 61年5月号』の「News」では、日本のビクターもRCA VictorのCompact 33 Doubleの日本盤を発売開始するとの記事があります。直近でクラシックはすでに33回転7インチをリリース開始していたようです。

ビクター17cmLPに新シリーズ「コンパクト33ダブル」「33E-100番シリーズ」「ミニLP」
ビクターは17cmLP「スーパー・ボックス・シリーズ」に続いて、六月、七月新譜からステレオ・モノラルに「コンパクト33ダブル」「33E-100番シリーズ」「ミニLP」を新設、発売することとなった。
『Record 1961年5月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

ビクターからのモノラルコンパクト33ダブルの第一弾はElvis Presley『Flaming Star』でした。レーベルやスリーブはRCA VictorのCompact 33 Doubleにに近いデザインです。ただし、コロムビアのステレオ・セブンのような商品説明は特にありません。

やはり前年のコロムビアの判断を踏まえているのか、4曲入りEPに相当するコンパクト33ダブルのみで、米国のようにCompact 33 Singleはリリースされず、この後もリリースされることはありませんでした。


●コンパクト盤と入れ替わり、消えゆくEP

『Record 61年7月号』の「News」は、1年前には6曲入りEPということでニュースとなっていた日本ビクターのジェット・シリーズがステレオになると同時に33回転盤に切り替わるとの報です。

ビクター新企画 ステレオ・ジェット・シリーズ
ビクターは従来ワールド・グループにスーパー・ドーナッツ・ジェット・シリーズを設けEP45回転<六曲入り一枚六〇〇円>を発売しているが、7月新譜から17cmLPステレオによる「ステレオ・ジェット・シリーズ」を設け、一枚五〇〇円で発売することとなった。
『Record 1961年7月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

このようにこの時期、EPは33回転のコンパクト盤に切り替えられることで徐々に絶滅していったようです。

『Record 61年11-12月号』の「世界の話題」では、米国での45回転シングルの売上低下の原因を解説した記事があります。ここで33回転7インチについても触れられていますが、効果が出ていない、と、これまでの勢いがありません。

四五シングル売上低下の原因
 シングル売上げ増進の一策として、七吋三三回盤、ワーナーのシングル片面二曲録音のPlus2等が発売されているが、未だそれ程の効果は認められていない。
『Record 1961年7月号』日本蓄音機レコード協会、1961)

これ以降、米国でも33回転7インチはジュークボックス界でのみ生きながらえることになります。その後は『Record』でも、コンパクト盤についての記事は見当たりませんでした。

そもそもの話になりますが、今回調べてみて、コンパクト盤についての記事自体数える程度しか見当たりません。特集記事があっても音質については煮え切らない、というか曖昧な記載しかなかったのは推して知るべし、というところでしょうか。

 ドーナツがはじめて発売されたとき、それが三十三回転よりもスピードの速い四十五回転であることとアームとの対角関係で最も合理的な大きさであることを理由として音質の良さをライバルのLPに対して宣言したことからすると、LPなみに三十三回転のステレオとなったダブル盤が果して音質的にLP以上という往年の誇りを維持しているのか、或いは別の大きな目的のまてにその点では数歩後退したのか、私には責任ある回答はできないが、しかし察するところ後者であったとしてもシート(引用者注:ソノシート)とは同日には論じられないだろう。
藁科雅美「ダブル盤礼賛」『レコード藝術 1964年5月号』音楽之友社、1964

日本ではその後回転数が統一されることもなく、かといってEPが復活するわけでもなく、7インチシングルは45回転・4曲入り7インチ=コンパクト盤は33回転、という暗黙のルールが業界で固定化されます。このルールは特にひっくり返ることもなく、CD時代が到来するまで継続するのでした。


●日本におけるシングルのステレオ化

そういえば米国で発端となったステレオシングルの問題、日本では早く45回転シングルのステレオ化が進みました。国内制作でいうとコロムビアの美空ひばりが63年、ビクターの橋幸夫が64年にシングルのレギュラーリリースをステレオに切り替えていますので、シングル盤のステレオ化は欧米に先駆けてかなり早く進んでいます。供給側の対応はスムーズに終わり、購入者側、ラジオ局もすんなり?かどうか不明ですが、状況を見る限り受け入れていたと思われます。

コンパクト盤もそうなのですが、米国のように購入者に選択肢を与える(33回転シングルが出ていた間、米各社は一貫して45回転シングルは通常どおりリリースし続けていました)わけでもなく、また購入者側もさほど拘りがなければこのような流れになるということでしょうか。


●33回転7インチレコードの呼称

ちなみに今回「コンパクト盤」とタイトルにしておいてなんなのですが、この固有名詞、リアルタイムの文献を見る限り必ずしも一般的ではなく、「コンパクト盤」以外に「ダブル盤」(『レコード藝術 1964年5月号』音楽之友社、1964)「ミニLP」『Music Monthly 1961年6月号』月刊ミュジック社、1961)、「17cmLP」など実に多様です。もともと「EP」ですら違う使われ方になってしまった日本ですが、4曲入り7インチの立場の緩さがうかがえます。

「ダブル盤」というのは「シングル盤」に対して片面2曲という意味と思われ、既に日本でも『Record 1957年7月号』(日本蓄音機レコード協会、1957)で4曲入りEPを指す言葉として既に登場しています。そのため、もともとは特に33回転に特化した名称ではありません。RCA Victorも「Compact 33 Single」「Compact 33 Double」のシリーズ名で区別していました。先の『レコード藝術 1964年5月号』では、「ダブル盤」の語を使っていますが、記事内容から呼称が統一されていない、というか筆者もそもそもその語を使っていなかったのがわかります。

 ダブル盤という、私がうかつにもつい最近、本誌の編集者からはじめてその名を教わったレコードが、そのコンパクトである。Compact…目のつんだ、ぎっしり詰った…つまり三十三回転の十七センチのレコードのことであるが、念のためにレコード会社でもダブル盤という呼称を使っているかどうか訊ねてみると、ある社ではイエスと答え、ある社ではコンパクト・ダブルだと云い、またある社ではダブル盤という名前は音楽之友社の人たちの創造で、うちではコンパクトLPと呼んでいるというはなしだった。要するにダブル盤はまだレコード業界が公式に採用している統一名ではなく、名付け親は『レコード藝術』だというのが図星かもしれないが、字数も少なく、コンパクトの別の意味である簡潔という趣旨にも添った、たいへん巧い用語だと思う。それが普及すると、普通のLPや四十五回転のシングルやEPと区別するためにいちいち十七センチLPなどと書かなくても、ダブルの三文字で用が足りるようになるだろう。
藁科雅美「ダブル盤礼賛」『レコード藝術 1964年5月号』音楽之友社、1964

近年、日本で「コンパクト盤」の言葉が比較的使われているのは、おそらく後世もコレクターの多いBeatlesをリリースしていた東芝が「コンパクト7」「〇〇(レーベル名)コンパクト」のシリーズ名を使っており、CDがメインとなる80年代末までカタログに残り続けていたというのもあるかもしれません。コンパクトの語こそないものの、92年のリイシューでもまだ律儀に45回転ではなく33回転でリリースしています。

もともと米国でCompactの語を使っていたのがRCA VictorとCapitol、Libertyで、日本では配給していたビクターが「コンパクト盤」、東芝が「コンパクト7」「〇〇コンパクト」と使用していましたが、他のレーベルは特にコンパクトとも呼んでいなかったようです。



■その3  フランスでは・メキシコでは・アラスカへゆけば

ここからは参考程度に他国の状況をBillboard紙に頼って探ってみましょう。

欧州ではそもそも33回転7インチなどは試験的リリースすらあったのかどうか…というイメージでしたが、61年3月のBillboard、スペインでのRCAの「Compact」リリースに関する記事がありました。
Spanish Newsnotes: Disk Biz

確かに45catにも掲載されており、4曲入りのCompact 33 DoubleがLPCナンバーで61年に何枚かリリースされていますが、62年以降リリースされた形跡がありません(EPのみのリリースに戻っています)。早々に諦めたと言っていいような状況です。他国でもリリースされた形跡は見当たらず、基本的に欧州のレコード会社は米国の動きを冷静に見ていた(見てるだけ)というところでしょうか。

英国やフランス・イタリアなどにおいては、45回転EPはLP=アルバムからの抜粋盤としての重要な地位を確保し、60年代においてもリリースが継続されました。このあたり、4曲入り7インチの需要自体が無くなった米国とは異なる点です。

オセアニアではどうでしょう。61年6月、ニュージーランドでCompact 33 Double第一弾、Elvis Presleyの「Flaming Star」がヒットしているとの記載があります。
Harry Miller Plans Jazz Pack

「Flaming Star」=『Elvis By Reqest』は日本ビクターのコンパクト33ダブル第一弾と同じです。しかし、日本と異なりニュージーランドでは、これ以外のCompact 33のリリースがほとんどなく、その後もEPばかり、シングルももちろん45回転のままだったようです。

45catの『Elvis By Reqest』を見ると他にカナダ、南アフリカ盤でもCompact 33 Doubleで出ていることがわかります。そこでRCA( Victor)のそれぞれのリリース状況を覗いてみると、カナダ南アフリカも数枚出してその後すぐ45回転EPに戻るという、スペイン、ニュージーランドと同じ流れが繰り広げられていたようです。

ということで欧州、オセアニア、北米、アフリカなどでは33回転7インチは4曲入りを試験的にリリースしてみたものの根付かず、45回転が7インチ盤の回転数の座を譲ることはありませんでした。米国とほぼ同じ流れと言っていいでしょう。

それでは…南米についてはどうでしょうか。

Columbia Sales Climb South of the Border
これによると62年初頭、南米では以下の状況だったようです。
アルゼンチンでは60年の33回転シングル発売当時、45回転盤はまだ市民権を得ていなかったため、33回転シングルが根付いた
ブラジルやウルグアイでも33回転シングルが好調
・メキシコでは33回転シングルは未リリース、チリでは全く広がりを見せていない
・アルゼンチンやブラジルでは45回転ではなく、33回転EP(Billboardもこの頃はこんな呼び方してるんですね)のリリースが予定されている

ここでまたまた45catを見ますと、アルゼンチン(ColumbiaCBSRCA Victor)は60年頃〜70年代半ばまで、ブラジル(CBSRCA Victor)・ウルグアイ(ColumbiaCBSRCA Victor)も80年頃もしくはそれ以降もでしょうか?7インチはシングルも4曲入りも33回転「のみ」でリリースされています。

他方、すでに45回転が根付いていたメキシコ(ColumbiaCBSRCA Victor)、チリ(CBSRCA Victor)では確かに記事のとおり45回転盤のみがリリースされているのがわかります。

60年代以降、南米数カ国の7インチが33回転でリリースされているのは謎でしたが、アルゼンチンで60年にリリースが開始されたということは、米国の33回転統一ムーブメントの影響を受けていると言ってよいタイミングです(それ以前は実は45回転で普通に出てるようですし、RCAでは61年以降「33 Simple」「33 LP」に切り替わっています)。おそらく、定着した国では米国の動きを見て試験的に導入しうまく定着した・もしくは日本のコンパクト盤のように有無を言わさず33回転オンリーに発売を切り替えたのではないでしょうか。そうするとその後アルゼンチンなどで70年代以降、45回転に再び切り替わる契機も非常に気になるところですが、今回はここまでとしたいと思います。



■おわりに :世界は1分間に45回転で

ということで、どこにも明確に記録がない(私が見つけられなかっただけかもしれませんが)日本のコンパクト盤の成立経緯、軽い気持ちで調べていったのですが思いもよらないワールドワイドでグローバルな話にまで行き着いてしまいました。単純に、なぜ日本の4曲入り7インチは45回転EPではなく、12インチLPの音質的に不利な部分になってしまうコンパクト盤で出しているんだろう、という長年うすらぼんやり感じていた疑問をきれいにしようとしただけだったのですが…予想以上に知らない歴史があったようです。45回転7インチレコードファンの私にとっては、まさか60年代初頭にその存在を脅かす動きがあったとは驚きを禁じ得ませんでした。世が世なら、60年代以降、世界は1分間に33回転でのみ廻っていたのかもしれません。

結局、33回転・45回転と2種の回転数が共存するという状況は、70年以上経った今日も続いています。回転数戦争で出た結論は、業界が改めて整理しようとしても崩れるものではなかったということになり、そう考えるとこの共存状況はなかなか面白いものです。

実はこのあとも12インチの45回転盤が日本では意外と早く、67年にメジャー数社から登場(これは単純に音質を重視した試みのようです)していったんフェイドアウトしていたり、レコードの新しいスタイルについては細々したチャレンジがいろいろ行なわれているようです。そのあたりもそのうち調べてみたいところです。

米国ではたった3年弱で潰えた市販用33回転7インチの挑戦、米国でこそ息絶えましたが、その種は遠く離れた南米数カ国と日本でのみ花開き、静かに、生きながらえていたのでした…ということで、今回の記事を締めたいと思います。

2023年5月5日金曜日

1988 (2) :“みんなのうた”

サザンオールスターズのレコードデビュー日は1978年6月25日。シングル「勝手にシンドバッド」がビクター音楽産業のinvitationからリリースされた日である。

1985年末以降、サザンはバンドとしては開店休業状態で、これまで見てきたとおり各メンバーのソロ活動のみが行われていた。当初、ソロ活動期間は86年の1年間の計画で始められたようだが、翌87年も桑田の海外レコーディング、原由子の第二子産休&育休、桑田のソロレコーディングがあり、サザンの休業状態は継続していた(なんとか6月にベスト盤『Ballade 2 ‘83-’86』がCD・カセットオンリーでリリースされる程度であった)。

桑田のソロアルバムは88年1月1日リリース予定がレコーディングの遅延で後ろに倒れ、レコーディング完了は5月初頭。本来であればアルバムリリースとともにソロでツアーを行う…というのがルーティーンだが、そうはならなかった。

1988年6月25日はサザンデビュー10周年。内外から活動再開が待たれていたサザンに、デビュー10周年というのは、格好の復帰タイミングだったのだ。88年の夏は、サザンの復活ツアーが行われることになる。それは、桑田ソロのツアーを差し置いてでもやる需要が内外にあったということだろう。

とはいえ前述の桑田ソロの録音完了遅延により、スケジュール的にはサザンはシングル1枚分の制作期間があるかないかという状況。スイッチで5月11日よりサザンのレコーディングが開始された「バックステージ・パス 1988年7月号」シンコーミュージック、1988。エンジニアの今井邦彦・A&R高垣健が桑田ソロマスタリングやり直しのため再渡米したのは、サザンのレコーディングの合間であった(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019)。

今井によると、サザンのシングル曲は作詞作業前の段階でタイトルだけは決まっていたそうだ。
今井邦彦「「みんなのうた」で3年ぶりにスタジオにメンバーが集まりました。この曲で覚えているのは、桑田さんはまだ歌詞がなかった時点で、タイトルだけは「これで行く」と決めていたこと。」
(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019
今井「最初このタイトルを聴いた時はびっくりしましたけどね(笑)。」
(FM COCOLO『J-POP レジェンドフォーラム』7月はサザンオールスターズを特集!3代目エンジニア今井邦彦をゲストに迎えた番組トークvol.3を公開


***


桑田ソロのツアーは叶うことはなかったが、サザンの復活イベントの中で桑田ソロコーナーを設けることになる。

— だから、そういった意味で今度はサザンに戻っていくわけなんですが、そこでの行き帰りというのは自分の中では全然苦痛ではなかったですか。
「ちょっと苦痛でしたよ、やっぱり。だから復活祭の時はバンドを(サザンとソロという形で)二つやったでしょう。で、やってみて『何やってんだろうなあ』と俺は思ったんですけどね。(略)」
— はははは。あの時は例えばサザン単体でやるっていうことは考えられなかった?
「うん、アルバムが、新曲がなかったっていうのはある。まあ”みんなのうた”はあったけど。それとやっぱり、ソロ・プロジェクトでほんとは俺コンサート・ツアー廻りたかったんですね、じつは。だけど、サザンオールスターズは開店休業状態がもう何年続いているかっていうのがあったし。そこでまあ、ソロ・アルバムみたいなものもちょこちょこっと交えながら  それをサザンで演奏するのもおかしいしね  だから『さあ、これから行きますよ。復活ですよ』みたいなことを並べちゃおう!みたいな。まことにラフな、野蛮な発想なんだけど。もうそろそろ内部的にも活動を始めないとあんまりだなというのもありましたしね
— その辺の大人の判断ができちゃうあたりがまた桑田佳祐の
「いや、大人の判断じゃないんですけどね」
— だけど、本当に子供のエゴを押し通すんだったら「サザンはもうちょっと休もうよ」って言うじゃないですか。
「だって客を相手にしてやってることだからそれはどっかツラいじゃん」
— はははは。
「『あれ?』なんてなりながら『どうも受けてないな』とか、そういうところに陥るのはイヤだから」
— はははは。一貫してその辺はスケベなんだよなあ。
「一貫してスケベ(笑)」
— いいことですけどね。
「そうですかねえ?でも、一貫して気が小さいのかもしんないけど。だからもう時期がテンパってて、開店休業状態が長すぎるぞコールがあって。もう『またソロのコンサートやるの?』って言われるのもヤだし、こっちはやりたいしね。需要はないけど」
(「季刊渋谷陽一 Bridge Vol.4 Oct. 1994」ロッキング・オン、1994)

桑田ソロバンドは以下のメンバーが召集された。小林武史・藤井丈司の両名はパンフにはプロデューサーともクレジットされており、「キーボード・スペシャル 1988年10月号」(立東社、1988)によると、小林の仕切りでバンドのリハーサルが行われたようだ。

小林武史:Keyboard, Producer
藤井丈司:Producer
古田たかし:Drums
樋沢達彦:Bass
原田末秋:Guitar
矢代恒彦:Keyboard
今野多久郎:Percussion
包国充:Sax
本田義博(1・3・5):Chorus
前田康美:Chorus


***


イベントを控えた慌ただしいスケジュールの中、突貫工事のようにサザンのレコーディングも開始されていく。

— 明日からサザンのシングルのレコーディングだそうですけど、どういう曲なんですか。
「まだ作ってないの」
— (笑)。
「あーねえ……自分で言うのもあれだけど、僕は結構色んなしがらみの中で生きてましてね(笑)。スタッフ・ワークもある種やらなくちゃいけない時もあるし、曲作んなくちゃいけないし歌うたわなくちゃいけないし……いろいろ裏方もしなくちゃいけないでしょう。そういう意味では、うたう電通だね、本当に。ミーティングを仕切りレコーディングを仕切り、私生活を仕切られ(笑)、これは世に出す問題じゃあないんですけど。」
(略)
「今度のシングルなんか
—できてませんけど(笑)、あたかもできたように言うとね—視点がもう大ズレ、見てる範囲が狭い狭い。やっぱりサザンはですね、避暑地を捨ててですね、レジャー、バカンスを捨てて、そう!サザンはバケーションを捨てます。バケーションを捨てて都会に上陸しようと思ってるの。スキー場も海も捨ててですね、もうリゾートしないの。本当の日常生活にもどっちゃおうかなって言う気がしてんですよね。
(略)
— (笑)すごいですね。できてないのに言っていいんですか。
「(笑)できてないから言えるんだけど。ほんと、ボキャブラリー一切変えますから」
— 楽しそうですね。
「でもそれは、僕バンド活動としては夢だったですよね。僕らリトル・フィートのコピーしたりさ、E・クラプトンの真似したりしてずっときたでしょう。それがだんだんサザンのカラーっていうのができちゃったんだよね。だから、そうじゃないカラーっていうのを、最近私はね、ヒシヒシと感じるんです。」
(「ロッキング・オン・ジャパン 1988年7月号」ロッキング・オン、1988)

結局このバケーション、サザンのカラーを捨てて都会、日常生活に…というコンセプトは88年のシングルというより、翌89年1枚目のシングルでより明確な形で実現することになる。


***


シングルA面は歌詞より先にタイトルだけ決まっていたということだが、「みんなのうた」といえばおなじみNHKの子供向け長寿歌番組だ。番組ホームページによるコンセプトは以下のとおり。

みんなのうたって?
子どもたちに良質で健全なうたを聴いてもらおうと「みんなのうた」はNHKのテレビ・ラジオで放送されている5分間の音楽番組です。
(NHK みんなのうた 番組ホームページ https://www.nhk.or.jp/minna/about/

もちろん直近のソロとバンドの対比や、サザン復活を待っていたリスナーのための歌、などいくつかの意味があろうが、当時の桑田はこんな発言もしている。棘のあるコメントではあるが、良く言えば「良質で健全」、シンプルなポップスを提示したということだろう。

— 「みんなのうた」は、3曲分位の曲を1つにまとめたっていう位のカラフルなメロディですよね。
「あっ、それはあるかもしれない。あの「ジョンとヨーコのバラード」みたいのがいいと思ってたんですよ。ああいう自堕落で駄作的なものがいいなと。「GET BACK」とか「ジョンとヨーコのバラード」とか、結局イージーな曲作ってたでしょ。それは、それで良かったじゃないですか。
— あのシングルがとても駄作だなんて思えませんけど。こんなものができてしまいました、という感じですか。
「うん。サザンの場合は「みんなのうた」じゃないけど、なんか、バンドだからね、要するに責任転嫁の戦いだから、こんなこともやっちゃおうかな?っていうのもできるんですよね。だから、反則技ができるんです。そういう意味では、サザンは、“雑誌の編集”みたいだね。あれもこれもあり、相原コージもあり、どおくまんプロもあり、っていう感じでいきますから。」
— 雑誌のような、というのは面白いですね。
「要するに生命エネルギー体が6つあるから、例え曲が自堕落でも、作品を上回る力ってあるでしょ?それで作品が低くてもいいっていうんじゃいうんじゃ勿論ないけど、何かその、反則技、飛び道具が出せるんですよね。いろいろな風に組み合わせれるし、6人という形は。1対5にもなるし、3対3にもなるし。」
(「シンプジャーナル 1988年8月号」自由国民社、1988)

それに俺だって今までにこんな曲は作ったことがないくらい、良く言やあシンプル、悪く言やあ……なんで悪く言う必要があるんだ!? いや、こんな曲を作るのは高校のとき以来かもしれない。まるでビートルズで言えば「ゲット・バック」や「ジョンとヨーコのバラード」のようなチープなメロディが駄作量産への回帰を思わせるかまえで、ガキのように演ることだけをこよなく楽しんでいるといった感じだ。
(「ケースケランド K-SUKE LAND」『Playboy日本版 1988年8月号』集英社、1988)

おそらく細部まで時間をかけて作り込んだ桑田ソロとの対比が念頭にあっての挑発的なコメントが繰り広げられているが、実際に曲を改めて聴いてみると、歌い出しからコード進行も実にシンプルで、ゆえにポップ職人のクールさすら感じられる。シンプルなコード使いというところでかGeneral Public「Tenderness」に接近するパートを経て、サビは桑田ソロ「いつか何処かで」でも使用した5度が半音ずつ上がるコード進行を早々に使い回しながら、Beatles「What Goes On」(これもBeatlesの中では桑田が言及した系譜の曲ともいえよう)を圧縮したようなメロディが足早に過ぎ去るという展開。ヘソを曲げて書き殴った…のかどうかは不明だが、一筆書きだったのならばそれはそれでかなり華麗に着地したというべきだろう。


***


「バックステージ・パス 1988年7月号」(シンコーミュージック、1988)には、佐伯明によるサザンレコーディング初日のルポが掲載されている。初日はB面用の曲のデモ録音のため、バンドでセッションを行なったようだ。

プログラマーがいるとの記載から、おそらく藤井丈司は居合わせたと思われ、また写真にはバンドメンバーとともに矢代恒彦が参加しているのが確認できる。矢代はパール兄弟のセカンド『Pearltron』からキーボードとして参加し、のちの90年からはバンドに正式メンバーとして加入している。88年当時は他にS-Ken、ゴーバンズ、鈴木雅之、Kanなどの作品で名前を見つけることができる。サザンでは88年のライブでサザン・桑田ソロバンド両方に参加し、サザンのシングルB面に収録されたライブ音源ではクレジットがあるが、スタジオ音源ではクレジットされていない。しかし実際はこのようにこの時期、矢代はスタジオでのサポートも行っていたようだ。そしてこの記事=録音初日では、桑田ソロで十分な活躍を見せた小林武史の存在は確認できない。

リリースされたシングル盤に記載されたアレンジとプロデュース、外部ミュージシャンのクレジットは以下のとおり。

Arranged by Southern All Stars & Takeshi Kobayashi

Produced by Southern All Stars
Co-Produced by Takeshi Kobayashi  Takeshi Fujii  Kunihiko Imai

小林武史:Synthesizer, Keyboards
藤井丈司:Synthesizer Programming
松本治:Trombone

結果的に直前の桑田ソロのメンバー・プロデューサーとサザンの融合が図られており、なんといっても小林武史の名前が記載されたことがトピックだろう。

小林がいつから登場したのか定かではないが、編曲クレジットや後述の松田弘の証言などから、おそらく(シンセの)ストリングス・ブラスのアレンジ・演奏などを依頼するのにあわせ、7人目のメンバーとしてアレンジの参加やトリートメントを担当したのではないかと思われる。この先のサザンのレコーディングとはまた距離感の異なるスタイルだ。

溌剌としたA面に対し、ユニークな、サザンならではのファンクネスが提示されたのが先に着手されたB面「おいしいね〜傑作物語」である。

松田弘「カップリングの「おいしいね〜傑作物語」は、皆で好き勝手に演った曲。ドラムについて言えば『kamakura』でつかんだ手応えの延長線上にある。2-4の、普通の2拍4拍にスネアを入れたくないなっていうヒネた性格が出てる(笑)。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

松田が語っているとおり『kamakura』の延長ということで、基本的にタムが変則的にずっと鳴るユニークなリズムパターンだ。ベースは関口のフレーズを藤井のシンベに置き換えたと思われるが、この関口-藤井のコンビネーションも『kamakura』でよくあったスタイルであろう。イントロから桑田ソロでもよく聴こえた小林武史と思しきシンセ・サックスが鳴り響き、さらにこちらも桑田ソロで登場していた松本治の気怠いトロンボーンが曲のやるせなさを強調する。終盤、久々に聴こえる男声中心・バンドメンバーによるラララコーラスは「勝手にシンドバッド」のパロディにも思えるが、そこに「勝手にシンドバッド」の楽しさは無く、松本のトロンボーン同様やるせない雰囲気を表すのに一役買っている。

歌詞は、冒頭のエピソードを読めば説明不要かと思うが、この当時の桑田個人の本音、愚痴をつらつらと綴った内容だ。そのまま「This song's about my actions」と歌い、力無く笑う箇所まである。シングル盤が裏と表で1曲ずつという造りを活かした、「身体と心は裏おもて」な一枚に仕上がっているわけだ。「あやつり人形」というのはサザンの2008年「I Am Your Singer」のマイムパフォーマンスについて語った際にも言及されており、この間20年、桑田のサザンへの複雑な思いが見てとれるワードだ。

さて続いてA面曲、当初は完成形とは異なる方向を目指していたようである。

山下達郎「僕ね、今度のシングルすごい好きなんですよ、「みんなのうた」っての。あの「悲しい気持ち」ってのもすごい好きなんですよ。ここのとこすごい私好みなんですよ、メロディが。」
桑田「ありがとうございます、そうですか?あれですよね、あんまりこう、机の上で頑張って一生懸命作った曲ってのは見破られますね。ちょっとこう、まあいっか!っていうスタンスでやったほうが。
山下「これは割とさりげなく作った歌なんですか?
桑田「もうさりげない。久しぶりのシングルだしね、本当はね、この曲はね、例えばエレファントカシマシとかね、あの渋谷陽一の世界ですけど、ロッキングオンジャパンのあれとかね。例えばThe Rock Bandとかね、アナーキーとかね、そういうアレンジで始めたんですよ。ズガーッカカカカカ ガーッカカカカカ
山下「なるほど。」
桑田「歌詞もちょっと違ってたんですよ。学校の先公がとか歌ってたんですよ、みんなで『ガッコのセンコーが』って。」
山下「(笑)」
桑田「そしたらうちのスタッフが入ってきてね、『泉谷かと思った』って言われてね…で『やめようか』っつって。」
山下「(爆笑)」
桑田「それでまあ一応、軌道修正したという。」
(「Tokyo Radical Mystery Night」Tokyo FM, 1988.7.5.)

ということでエレカシ(デビュー直後)やアナーキー/Rock Band、泉谷しげるに寄り道したのちポップに生まれ変わった「みんなのうた」である。松田のコメントによると、この曲で小林がサザンにバランスよく関わっていったのがわかる。

松田「この曲の前に三年ほどブランクがあって、僕はKUWATA BANDをやってね。その後、桑田がソロ・アルバムを作って小林武史というアレンジャーを連れてきたんですよね。彼がイイ形でサザンに溶け込んだ。(略)小林君の力が大きかったと思う。うまい具合にサザンに新風を注ぎ込んでくれたよね。小林君が、サザンというバンドの良さは何だろう?って考えてくれたという…。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

この曲のドラムについては松田本人がYouTubeで解説しているが、何か特定のヒントがあったわけではなく松田が編み出したもののようだ。

松田「「みんなのうた」のドラミングは本当にオリジナルというか、何かをコピーしたわけじゃなく自分だけのビートになったのかなと思ってて。」
「ハットの裏打ちを左手でやったっていうところがね、すごく面白いのかなと思いますけどね。」
(『「みんなのうた」ドラム解説【松田弘のサザンビート #09】』サザンオールスターズ official YouTube channel、2022 https://www.youtube.com/watch?v=AaWPwnFwV2w

冒頭から鳴る4ビートのキック四つ打ちに裏打ちのハイハット、この曲のアレンジを支配しているのは実質松田のドラムなのではという感もある。2つ目のパートでスネアが2-4で入り、サビは若干スウィング的なノリが含められ心地よく駆け抜ける。個人的にはキックはもう少しミックスで目立たせてもよかったと思うが、印象的なドラムである。さらには冒頭からドラムにあわせて幾度となく4ビートになる関口のベース、初期サザンのラテンディスコ歌謡もので聴かれた16ビートに軽やかに乗るユニークなフレーズを思い起こさせ、原点回帰の要素ともいえる。

この2人のリズムに小林と思しきシンセのサックス、松田のハイハットにあわせて裏拍フレーズ、一瞬スカを掠めるような味付けもあり、高速スカジャズとはさすがに言い過ぎだが疾走感溢れるアレンジである。これまた桑田ソロでよく聴かれたグロッケンも途中から登場。シンセのストリングス、頭からずっと右で鳴っている琴とハープの間のようなシンセも疾走感、高揚感を出すのに大きく貢献している。とにかく正面からポップ感満載なのだ。

「熱い波が また揺れる」の部分は一瞬アカペラとなるが、B面同様バンドメンバー全員によるコーラスが聴ける。こちらは溌剌とした曲にマッチした雰囲気だ。全員での荒々しいコーラスも初期サザンではよく聴くことのできたもので、原点回帰を匂わせる(ベース・パートはこののちのサザンでもよく出てくる桑田の声のサンプリングっぽく聴こえるが)。


***


というわけで生まれたシングル「みんなのうた c/w おいしいね〜傑作物語」だが、今回指摘したいのはその背景そのものに加え、動機や本音がどうであれ、この状況でこのようなポップネス溢れる名曲を生み出してしまうメロディ・メイカーとしての桑田、そしてそれに応えたバンド+小林武史によるトラックの組合せの素晴らしさである。桑田のポップ・ミュージック宣言を経ての感覚が無意識に滲んでいたということか、ソロ直後の勢いでタイミングが良かった、というべきか。

健全で良質な雰囲気は、小林の参加、桑田ソロを経由したポップネスが十分にフィードバックされているとはいえ、サザンというバンドとしてはそれまでの作品とは異質なものだ。来たるJポップ時代へのシフトチェンジを意図したわけでもないだろうが、後世から見ても面白いものである。

音楽誌ではないが、このようなリアクションも見られた。桑田の変化を察知したリアルタイムの例として載せておきたい。
 (前略)何より残念だったのは、むろん桑田の曲じたいの変質である。そもそも、『みんなのうた』なぞ、桑田ほどの素敵にみだらな才能が断じて歌ってはならぬたちのものなのだ。松田聖子じゃあるまいに。
 (略)才能の豊かさと含蓄との、いわばその江川卓的な調整の妙にかけて、みずからの環境音楽化を拒み、どれほど圧倒的な支持を得ようが、軽音楽右翼にだけはなりえなかった点にこそ、たとえば『マス・イメージ論』の音痴が絶賛するRCサクセションはおろか、『陽水の快楽』(武田青嗣)すら遠く及びもせぬ桑田の貴重さが育まれていたのである。
 その彼が、「みんなで空高く舞い上がれ/やがて誰の心にも虹のカーニバル」などと、うたごえ喫茶もどきの無葛藤な善意(メッセージ)を伝え、サビのルフランでは《C/C+/C6/C7/F》のあまりに予定調和的な盛り上がりを、文字通り恥気もなく演出しながら『みんなのうた』を歌ってしまうこと。それはちょうど、《Key of Life》のスティーヴィー・ワンダーが、《We are the world》を歌わされてしまうのとよく似た光景なのだ、と言えばよいか。
(渡部直己「渡部直己の世紀末マルチ・クリティーク」『朝日ジャーナル 1988年7月15日号』朝日新聞社、1988)


***


「みんなのうた」リリースと同時、6月25日にチケット発売されたサザンのツアーチケットは即日完売となった。かなりのフィーバーぶりが当時の記事からも窺える。ビジネス的には大成功といっていいだろう。桑田の判断は(実のところ消極的だったとしても)需要に見事に応えたものだったのだ。
 六月二十五日の午後になると、土曜日なのに都区内の一部では電話がかかりにくくなってしまった。これらの地域では、受話器を取っても「ツー」という発信音がしなかったり、逆にこの地域へかけようとしても、「ただ今、電話が大変かかりにくくなっております…」というあのメッセージ・テープが流れるだけ。約七百件もの苦情や問い合わせの電話に、NTTも大弱りだった。
(略)
 そのアミューズとは、人気ロック・グループの「サザンオールスターズ」を抱える芸能プロダクションである。このサザンが三年ぶりに活動を再開し、この日、コンサートのチケットを全国一斉に発売。で、都内はもちろん地方からも、プレイガイドの予約センターにファンからの電話が集中したのがことの原因だった。
(略)
 こうした騒動の中、七月末から予定されているサザンのコンサートのチケットは、用意された五十万枚がたった一時間でさばけたという。昨年秋に来日した世界的なミュージシャンのマイケル・ジャクソンは、日本公演で四十七万枚を売るという日本のコンサート動員記録を作ったばかり。それを、いとも簡単に塗り替えてしまったのである。
(「週刊文春 1988年7月7日号」文藝春秋社、1988)

日経流通新聞では高垣が登場。こちらの記事でもチケット人気の凄さに言及している。
 六月二十五日に発売したばかりだが早くも大ヒットのきざしをみせている。コンサートのチケットは売り出しと同時にNTTが悲鳴を上げるほど電話予約が殺到。再びサザン旋風が吹き始めているのだ。
(略)
 高垣の構想にはサザンの世界進出が描かれている。「日本にあるのは車や工業製品ばかりではないことを世界中に広めなければ」と、世界の仕掛け人になろうとしているのだ。
(「日経流通新聞 1988年7月12日」日本経済新聞社、1988)

サザンのビッグ・ビジネス化、「国民的バンド」化が着々と進むその一方で、桑田個人の思いだけでなく、バンドとしてのサザンも決して安泰な雰囲気ではなかったようだ。

松田「大復活祭はけっこう大変だったね。久々にメンバー集まって演ったけど、最初の西武球場の三日間というのはツラかった。ステージやってて、この場所から逃げ出したいと初めてそう思ったよね。」
野沢秀行「音楽だけじゃなく、人間的にも皆、それなりに自分の時間っていうのを過ごしてるわけだから、おいそれとまとまるってのはね。三年って長いよね。中学校卒業しちゃうんだもん。」
(「月刊カドカワ 1992年12月号」角川書店、1992)

松田「88年に復活祭ってのがありましたよね。その初日を西武球場でやったんですけど、それがサザンの歴代3位に入る程の悪いステージだったんです。ドラム叩いても逃げ出したくなったくらい。お客さんも、あの惨状は判ったと思う。うちのカミさんも見てて泣いてたもの。それで、次のコンサートで、もう全て終わりにしよう、と皆で決めたんですよ。今だから言えるけど。」
(「R&R Newsmaker 1992年10月号」ビクター音楽産業、1992)

しかし、「次のコンサート」の前にサザンはアルバム1枚の制作、そして桑田個人にも音楽の枠を超えた新たなミッションが命じられる。様々なことが並行しながら、来たる90年代に向け、精力的に活動は続いていくのだった。


2023年3月21日火曜日

EPとはなんだったのか — 日本の45回転レコード創成期とコンパクト盤(上)

音楽メディアにおける「EP」というカテゴリ、2023年現在では主に「収録曲数がシングルより多く、アルバムより少ない」作品を指すことが多いと思います。

この「EP」、1950年代にビニール製レコードの一種としてアメリカで開発・発売されて以降、音楽メディアの変化や、勘違いからくる誤用等の影響もありつつ、各国でさまざまな意味に変わりながら現在の用法に落ち着いてるようです。特に日本では、シングルを含めた45回転レコード全般を「EP」と扱うことも多く、本来の英米での使われ方を知ると違和感を持つ方も多いかもしれません。

今回は、1950年代の日本において、発売当初「EP」を中心に45回転レコードはどのように扱われてきたのか、というあたり、興味本位であれこれ見ていくうちにわかってきたことをせっかくなんでこちらに記しておきたいと思います。本当は「EP」の類似品?である33 1/3回転の7インチレコード、「コンパクト盤」は日本でなぜ登場し、定着したのか…ということについて調べていたので当記事は副産物・序章にあたるのですが、長くなるのでコンパクト盤については後編でせまる予定です。



●前提:米国における「Extended Play」レコード

45回転レコードが生まれたのは1949年、そしてEPレコードが生まれたのは1952年。いずれも米国で産声をあげました。米国におけるEP登場時の本来の定義は、松林弘治さんによる当時のBillboard誌を追ったこちらの素晴らしい記事でよく理解できます。

「What the EP (Extended Playing) Originally Stands For」

「EP」の本来の意味は「Extended Playing」で、初出は1952年、米 RCA Victor がリリースした7インチ45回転盤を指し、それは

・7インチ45回転シングル盤と形状や回転数は同じ
・シングル盤よりカッティングレベルを下げることで単位当たりの記録密度をあげ、
・かつシングル盤よりもっと内側まで記録することで、
・片面あたり8分程度記録可能にしたメディア

でした。つまり元々の意味は「7インチシングルの収録時間を拡張した (Extended) 盤」という意味です。

ということで、1949年にまずは7インチ45回転レコード(いわゆる45回転シングルレコード)が世に出て、その3年後、長時間収録を目的として収録時間が「拡張された」7インチ45回転レコード=「EP」レコードが生まれた、という流れです。「EP」は7インチ45回転レコードのバリエーションのひとつとして世に出た、というところです。

この米国での事例を念頭に置きながら、1952年以降、日本での流れを見ていきたいと思います。

なお、この「EPの本来の意味」も諸説あるところで、こちらでは「本来の意味」として、LPの弱点である内周部分の溝の情報量を「拡張する」ものとして45回転レコード「=」EPが生まれた、との説が紹介されています。そのほか、78回転シェラック製レコード、いわゆるSPレコードに対して録音時間を「拡張する」ものが45回転レコード「=」EP、という説も一部書籍では見かけることができます。しかし、これらの説が書かれた50年代当時の文献は、今のところ見つけることができていません。もしご存知の方がいましたらご教示ください。



●輸入盤として日本に入ってきた「EP」

米国で登場した「EP」は、52年当時は国内プレスはされず、輸入盤として日本に入ってきていたようです。52年12月5日の時事通信 時事解説版』には、ちょうど12月から輸入が始まったEPレコードについて以下のように解説されています。

EPレコード
◇一枚で約三十分も連続してかけられるLPレコード(Long Playing 長時間レコード)は、今や音盤界の寵兒として音楽ファンを喜ばせているが、最近アメリカからニューフェイスのEPレコードが輸入され、我が国にも本格的なLP時代が訪れようとしている。
◇このEP(Extended Playing)レコードの特色は、四十五回転のレコードと同じ大きさの七インチ盤で、回転数は同じだが吹込面積を技術的に拡大し、四十五回転片面五分を八分に延長した新しいLPレコード。さる七月末アメリカ最大のラヂオ受信機製造会社RCAが発売し、今月初め「ジプシー男爵」「軽騎士序曲」など八枚がわが国に輸入された。
このEPの登場でLPレコードは三十三・1/3回転(十二インチ盤片面二十五分)、四十五回転(七インチ盤片面五分、従来の標準型レコードは一分間七十八回転)と三種類となつたわけだ。我が国で発売されているのは三十三・1/3回転が一番多いが、アメリカではEPができてから四十五回転に人気が出ているという。三十三・1/3回転のものは演奏時間の長いクラシックもの向きで四十五回転のものには軽音楽が多い。
(「用語」『時事通信 時事解説版 1952年12月5日 第2127号』時事通信社、1952)

マイクログルーヴのビニール製レコードのことを45回転レコード含めて「LP」と総称してしまっていますが、これは同年発行の『世界新語辞典 1953年版』(東京大学新聞研究会編、東京堂、1952)でもみられますので、この当時ありがちな誤りだったのかもしれません。ただし、時事通信では、EPは「既存の45回転レコードの収録時間を延長・拡大したもの」であることがきちんと説明されています。この辺は米国の定義とズレはありません。



●日本盤「EP」登場のニュース

1954年、国産の45回転レコード発売の報が入ります。初のリリースはコロムビアかビクターか、というところだったようですが、最終的にビクターが一番乗りとなることを『レコード藝術 1954年4月号』が報じています。

 日本ビクターでは、LPと並行してかねてから45廻轉盤の發賣計畫を進めていたが、諸般の準備が成り、陽春四月はじめには第一回發賣とまで漕ぎつけたと傳えられる。しかもEPが先ず登場するというのはまことに喜ばしいニュースである。
 “EP”とは、すでに讀者諸氏御承知のとおり、RCAビクターが從來のドーナッツを改良して、演奏時間一面五分强から八分までに延長したもので、Extended Playの略である。從つて、これまでSPの十二吋両面に収まっていた曲がEPの片面で通して聴けることになり、二枚物が一枚におさまつてしまう。
(「EP日本盤誕生 —ビクター近く發賣—」『レコード藝術 1954年4月号』音楽之友社、1954)

音楽誌らしく、EPとはなんなのかについては解説しつつも読者諸氏が既に承知のもの、ということです。



●日本初の45回転レコードは日本ビクター製の4曲入り「EP」

1954年に日本ビクターが国内カッティング・国内プレスでリリースした日本初の45回転レコードは前掲のレコード藝術記事のとおり、4曲入りの「45 Extended Play」、EPレコードでした。日本初の45回転レコードは、いわゆるシングルレコードではなくいきなり「EP」だったのです。EPの前史として45回転のシングルレコードのみの時代が存在した欧米と、日本は事情が異なるということになります。

63年に出版されたビクター社史には、「45回転EPレコード」のカッティング、プレスマシン開発エピソードがしっかり記載されていますが、ここでは45回転=EPとして語られています。両面で2曲入りの45回転レコード、というか収録時間・曲数については全く言及がありません。
更にその年の十二月に、まだ当時発売されていなかった最初のEPレコードを急遽発売する企画が立てられた。当時はまだ日本に45回転の録音機はどこにもなかったので、私たちは急いで、EPレコード用の録音機を自作することから仕事を始めた。
(略)
このようにして、最初に作られたダイナショアの歌うところのEP一〇〇一「ブルー・カナリヤ」が航空便でお店へ配達され、二月新譜として原盤輸入プレスだけで発売しようとしていた他社よりわずか数日早く発売され、国産EP第一号の栄誉をかちえることができたのである」
(井上敏也「新製品開発夜話<一技術者の記録から>」日本ビクター株式会社販売推進部編『音に生きる : ビクターの栄光』ダイヤモンド社、1963)
「日本盤 オールディーズ・シングル図鑑1954~1964」(菅田泰治編著 シンコーミュージック、2011)によるとポップスはシルバーレーベル・クラシックはゴールドレーベルがオリジナル盤とのことなので、ブラックのこちらはレイトプレスでしょうか。

上記エピソードでは他社が2月新譜で準備していたと記載がありますが、後述するコロムビアは実際には4月にリリースしているようです。ビクターがいつリリースしたかについては具体的な日付の記述がありません。

そこでビクターの毎月の新譜月報を確認することにします。45回転レコードは、54年4月末発行の月報において、第二回発売告知の記事で初登場しています。この際、後追いで第一回発売についても言及があり、「去る3月21日、本邦最初の45回轉レコードとして全國主要都市で一齊發賣され、たちまちファンの寵兒となつたビクター・ドーナッツ盤の第2回新譜です。」(「Victor "45" RPM ビクター45回轉レコード第2回發賣」『ビクターレコード 邦楽洋楽 6月新譜 1954』日本ビクター株式会社、1954)とあります。リアルタイムの記録として、これが正確な日本初の45回転レコードの発売日のようです。この月報によれば、第一回リリースは以下の6タイトルでした。

・EP-1001『Blue Canary』Dinah Shore
・EP-1002『Perez Prado Goes To America』Perez Prado And His Orch.
・EP-1003『Drum Boogie』Gene Krupa Jazz Trio
・EP-1004『This Is Glenn Miller Vol.1』Glenn Miller And His Orch.
・EP-1005『This Is Glenn Miller Vol.2』Glenn Miller And His Orch.
・EP-3001〜2『An Die Freude Symphony No.9 In D Minor "Choral" Beethoven, op. 125』Arturo Toscanini And The NBC Symphony Orchastra / The Robert Shaw Chorale

ちなみに毎年末に発行されるビクターの年鑑目録(「ビクターレコード番号順總目録 1955」日本ビクター株式会社、1954)では上記はすべて5月発売となっており、以降廃盤になるまで毎年そのままの記載です。このあたり、おおらかな時代ならではの混乱が見られます…。

ということで、3月21日は日本で初めて7インチ45回転レコードが発売された記念日ということで祝うのがよさそうです。ナイアガラファンにはおなじみの日ですね。来年2024年はなんと70周年になります。

当時のビクター月報には毎号音楽評論家の村田武雄さんによるコラムが複数掲載されていますが、同じく4月末発行の月報では、新商品45回転レコードについての話題もみられます。7インチビニール製レコードの素晴らしさ、LPとEPが出たことでいよいよ78回転レコードは時代遅れになった…等記載されています。ここではさすが専門家、EPとはなんなのかについてもきちんと言及しています。
ビクターの四十五回轉は全部EP<Extended Playing>(延長された演奏)の録音法なので片面六分から八分かかる。
(村田武雄「新しいレコード時代 —四十五回轉禮讃記—」『ビクターレコード 邦楽洋楽 6月新譜 1954』日本ビクター株式会社、1954)

しかし、同月報巻末の広告ページでは、見出しに「最高の芸術と最高の技術の勝利!! ビクターEPレコード発売!とあり、「EPの上に小さく「45回転がルビのように重なって記載されています。これだけ見ると、45回転レコード=EP、と捉えることができてしまいます。

『Jazz 1954年3月・4月合併号』(ホット・クラブ・オブ・ジャパン、1954)巻末掲載のビクターの広告では、ジャズ専門誌ということでGlenn MillerのEP2作をメインとし、Dinah Shore、Perez Pradoの4枚が掲載されています。隅には33 1/3回転と45回転両用プレーヤーの記載もあります。ここには「待望の45回転(EP)レコード 日本初登場!」とあり、こちらも月報の広告と同じ印象です。

『レコード藝術 1954年5月号』(音楽之友社、1954)では巻末にArturo Toscanini & The NBC Symphony OrchastraのLP・SPと共に、2枚組EPであるEP-3001〜2が新発売されたとの広告が掲載されています。こちらも「待望の45回転EP盤ビクターで発売!」と同じ調子です。

ビクターがEPではない45回転レコードをリリースしたのは第二回発売におけるJascha Heifetz「Introduction And Rondo Capriccioso」(ES-8001)になるようです(発売日は月報に記載なし、年鑑によると5月リリースとのこと)。先の月報の第二回発売告知ページでは、最後に価格がまとめて書かれており、ここではEPでない45回転レコードは「標準盤」という表現です。
★ビクター45回轉レコード定價表(解說付美麗ジャケット入)
★EP-3000(クラシックEP盤)¥850.-
★EP-1000(ポピュラーEP盤)¥700.-
★ES-8000(クラシック標準盤)¥550.-

このESシリーズはEPシリーズとは異なり、ジャケット、レーベル等に「45 Extended Play」の文字はありません。「45RPM」とあるだけです。
ということで、ビクターもEPとそうでない45回転レコードを明確に区別して製造・発売しているのがわかります。しかし、後述のとおり、これ以降もビクターはなぜか広告では積極的にこの違いを謳わず、逆に混同させるような広告しか出していないようです。



●日本初の「EPではない」45回転レコードは日本コロムビア製

ビクターの二月新譜として原盤輸入プレスだけで発売しようとしていた他社というのが日本コロムビアでした。先のビクター社史のとおり、コロムビア第一弾のカッティングは海外で行われたようで、メタルマスターを輸入し国内プレスした、というところが違いのようです。

日本コロムビアの59年4月15日発行の月報を見ると、第一回発売の日付まで記載はありませんでしたが、4月上旬と記載されています。ビクターに遅れること2週間くらいだったのでしょうか。
待望!ついに國産化成る! ★四十五回轉レコード第一回發賣
三十三 1/3回轉LPレコードの發賣に引き續きレコード界の寵兒として全世界に普及しつつある45回轉レコード(ドーナツツ盤)の國產化に銳意硏究を重ねて居りました弊社では、ついに他社に魁け4月上旬第一回のレコードを發賣する運びとなりました。御期待下さい。
『Columbia Records / M-G-M Records 5月新譜 May 1954』日本コロムビア株式会社、1954)

なお、コロムビアの年鑑(『コロムビア M-G-Mレコード番号順総目録』日本コロムビア株式会社、1955)では上記はすべて54年3月発売となっており、こちらも以降廃盤になるまで毎年そのままの記載です。おおらかな、時代です…。

第一回発売の内容は以下になります。この月報では、EPとそうでないものの違いは記載されておらず、すべて単に45回転レコードです。

・CC-1「Il Barbiere Di Siviglia - Overture」The Philharmonia Orchestra Conducted By Alcoe Galleria
・CC-2「Cavalleria Rusticana - Intermezzo」The Royal Opera House Orchestra, Covent Garden Conducted By Franco Patane
・EW-1『Puccini - La Boheme - For Orchestra』André Kostelanetz And His Orch.
・EM-1『Benny Goodman New Sextet』Benny Goodman Sextet
・EM-2『Mambo With Cugat』Xavier Cugat & His Orch.
・EW-2『Lecuona』Morton Gould Conducting The Robin Hood Dell Orchestra Of Philadelphia

全て海外からのメタルマスター使用ということで、内容も既存作品の国内盤仕様、EPについてはジャケットもオリジナル盤に準じているようです。

『レコード藝術 1954年6月号』(音楽之友社、1954)には、ビクターのToscanini & The NBC Symphony Orchastraの広告のほかに、コロムビアの広告「COLUMBIA 7吋盤 新發賣 45回転レコードが掲載されています。ここでは、広告上半分にCC-1、CC-2のタイトルとレコード一枚の本体の写真、そして下半分に「★EW・EM盤はEPレコード(6分間乃至9分間演奏可能)★」とあり、EW-1、2、EM-1、2のタイトル・収録内容が掲載されています。ビクターと異なり、45回転レコードと45回転EPレコードの2種をリリースしていることが明確にされています。そしてこれ以降もコロムビアの広告は、EPと、通常の45回転レコード=シングルレコード、を明確に区別して出しているようです『スイングジャーナル 1956年12月号』スイングジャーナル社、1956)。このあたり、ビクターとは対照的です。

ということで、日本初の「EPでない」45回転レコードはコロムビアのCC-1ということになります。

CC-1は英国Columbia(EMI)のSCD-2012の日本盤、ということのようです。英国オリジナル盤は(EPではないので)ジャケットなしでカンパニースリーブのみのようですが、日本盤は12インチLPのXL品番シリーズを流用したデザイン(元を辿るとこちらも英Columbiaの33CXシリーズと思われます)の、ライナーつきの豪華な厚紙のジャケットがついています。輸入メタルマスター使用のため、マトリックスナンバーも英EMIファンにはおなじみのフォントで「7XCA」の刻印があります。

ちなみに、当時のコロムビアのEPはジャケットに「Extended Play」の文字がありますが、こちらはビクターと異なりレーベルには特別記載はないようです。

その後ビクター、コロムビアに続いて、日本マーキュリー、テイチク、日本ポリドール、キングなど順次大手各社が45回転EP、シングルをリリースしていきます。



●レコード協会と「EP」

日本レコード協会の機関紙『Record』(現:『The Record』)は、1956年の創刊以降、現在も継続刊行されています。

1956年7月の創刊号では、「レコード界の現状」という記事で、業界の最新トピックがいくつも記載されています(『Record 1956年7月号』日本蓄音機レコード協会、1956)。ここでのレコード生産量・新譜曲数・生産高は、「LP」「SP」「EP」の3カテゴリで分類されています。45回転レコードはすべて「EP」に含まれていることになります。

しかし1年後の57年7月号のレコード各社の技術・研究部長、課長らの座談会「躍進するレコード(その一)技術座談会(上)」では、こんな会話があります。
伊藤(克人・日本コロムビア研究部長)「米国コロムビアがLPを発売したのが一九四八年七月で、翌年四月にRCAビクターが、LP同様の塩化ビニル樹脂を使って七吋45回転盤というものの市販を発表したんですね。」
和田(正三郎・キングレコード技術部長)「それはEPではないんですね。」
伊藤「そうですね、片面五分ぐらいでした。EPというのはそれから約三年後(一九五二年八月十五日)に、片面八分間に拡大されたものとして発表になったんです。」
『Record 1957年7月号』日本蓄音機レコード協会、1957)
同記事に掲載されている「レコードの呼び方」という表にも、45回転レコードは「四十五回転盤(或はシングル)」「EP(或はダブル)」と区別され、「シングル」という語も登場しました。

上記を境に、『Record』ではシングルとEPは別物として扱われるようになり、58年2月-3月号「昭和32年レコード生產の全貌」からはEPとシングルが別集計されています(『Record 1958年2月-3月号』日本蓄音機レコード協会、1958)

このように、レコード協会ですらもシングルとEPの違いは当初認識しておらず、軌道修正しています。混乱が当初から生じていたということの一端が、ここでも見受けられます。



●レコード店広告の「EP」

では、50年台後半、音楽雑誌におけるレコード店の広告ではどうでしょうか。

レコード買入!LP&EP最高価にて御買受け致します
(「オザワレコード店 広告」『レコード藝術 1957年5月号』音楽之友社、1957)

国産リアル・ジャズLP. EPは全種取揃へております
「レコードショップハンター 広告」『スイングジャーナル 1957年10月号』スイングジャーナル社、1957)

というように、やはりLPと並びEPの文字はありますが、45回転レコード、シングルといった表現はありません。ここらもおそらく、45回転=EP、という意味で使われていると思われます。



●回転数と代名詞

ここで45回転レコードから少し離れます。
33 1/3回転ビニール製レコードには、Long Play、「LP」という代名詞があります。そして78回転シェラック製レコードには、Standard Play、「SP」という代名詞もあるかと思います。しかしこの「SP」というのは、どうも和製英語、日本独自の代名詞である可能性が高いようです。2023年3月現在、英語版Wikipediaでは、「Phonograph Record」における「78rpm Disc Developments」の項に「SP」「Standard Play」などは一切記載がありません。

ここでまたまた松林弘治さんの記事を参考にしたいと思います。
「なぜ日本だけで「SP盤」と呼ぶようになったのか」

こちらでは、複数のサイトや、再び40年代末〜50年の米Billboard誌から、英語圏で「SP」という語は使用されておらず、「78rpm」という表現が一般的であることが示されています。さらに松林さんは推測として、日本でSPと呼ぶようになった理由を記載されています。
従来の(蓄音機や電蓄でかける)レコードの代わりとなる、新しいレコードが1951年に登場した
→ それは「LP = Long Playing」レコードと呼ばれているらしい
→ では、今までのレコードはなんと表現したらいいか
→ じゃあ「SP = Standard Playing または Short Playing」にしよう
と、日本独自表現を生むこととなったのかもしれませんね。

実際、2023年3月現在、国会図書館デジタルコレクションで「SPレコード」で検索すると、ヒットするのは1952年7月以降、すでに日本でもLPが発売されて以降の文献しか確認することはできません。

1950年では、以下のような表現です。
今までの標準の78回転盤
『初歩のラジオ 1950年7月号』誠文堂新光社、1950)
舊レコード(78囘轉盤)
『スイングジャーナル 1950年10月号』スイングジャーナル社、1950)

また、先の『時事通信 時事解説版 1952年12月5日 第2127号』でも78回転レコードのことを、「従来の標準型レコード」と表現しています。おそらくLPと比較しての「一般レコード」「標準型レコード」などを、LPに類する語に英訳した結果Standard Play、SPと呼ぶのに落ち着いたと推測できそうです。53年になると、『ラジオ技術 1953年1月号』(アイエー出版、1953)では「SPレコード(78廻転の一般レコード・LPに対してこう呼びます)」と解説されています。

となると、1954年当時、既に33 1/3回転レコードはLP、78回転レコードはSP、と呼ぶ日本独自の代名詞文化が根付いていたといえます。この流れの中で、新しく登場した45回転レコードをアルファベットの代名詞で呼ぶとしたら…、そしてそこに、少し意味は違っても近しい英語が既にあったとしたら…。

もともとあくまで45回転レコードの一部でしかない既存英語の「Extended Play」「EP」を、45回転レコード全体という意味に充ててしまうのも、この流れからすると自然なことなのかもしれません。



●ビクターS盤の45回転化

57年にもなると、78回転レコードの段階的廃止を目的とした45回転レコード移行の動きが見られます。ビクターのS盤、Sシリーズ(78回転レコードの洋楽ポピュラーシリーズ)が45回転シングル化されたSSシリーズが始まりました。Elvis Presley「Love Me」(SS-1001)が第一号になりますが、SSシリーズ発売開始の広告を見ると、シングルの広告にもかかわらず「1957年はEP(ドーナツ盤)時代」と大きく書かれています。(『スイングジャーナル 1957年4月号』スイングジャーナル社、1957)

こちらは第一回発売のうちのSS-1002。この頃になるとビクターは単なるドーナツタイプでなく、英国などでも見られるプッシュアウトセンターでリリースしています。

しかし、同年発行のPresley本である「エルヴィス・プレスリイ」小森和子編 荒地出版社、1957)巻末ディスコグラフィーには、「78回転S盤」「45回転EP盤」「45回転シングル盤」「33 1/3回転LP」と、きちんとEPとシングルが別物として記載されています。小森のおばちゃまこと小森和子さんがしっかり理解していただけかと思いきや、このディスコグラフィー、<ビクター提供>とのクレジットがあります。ということで、ビクターはとにかく一貫して自社の広告だけは、シングルもEPも45回転レコードは全て「EP」と扱っていることになります。前述のとおりコロムビアや他社も広告ではきちんと分けているにもかかわらず、です。ビクターの広告制作担当に、他部署からでも指摘することはできなかったのでしょうか。



●「EP」のゆくえ

『レコード藝術 1957年5月号』音楽之友社、1957)では、「EPの楽しみ」というこの時期のEP状況を知ることができる特集が組まれています。クラシックメインの雑誌のため基本はクラシック寄りの視点ですが、非常に興味深い特集です。導入部から当時のEPの状況がわかります。
クラシックで忘れがちなもの、そして、レコード会社もあまり力を入れず、レコード雑誌も積極的に取り扱わないもの、それがEPではないだろうか。それが果たして正当な評価なのかどうか。(後略)

座談会では呼称混乱問題から始まります。
記者「最初からちよつと変な話ですがある有名な音楽評論家がある有名なレコード評論家に、EPというのは何ですかときいたそうです。ところがそのレコード評論家の先生がそれにあまり明確な答えを差し上げられなかつたという伝説があるのですけれども(笑)つまりEPといい、45回転といい、或いはドーナッツ盤と言い、非常にわずらわしいので、この辺で一応分かりやすく説明して頂きたいのです。
藁科雅美「四十五回転とEP、 MPとLPとがそれぞれ親戚になるのですね
伊奈一男「混乱するのは、例えばカタログを見ると四十五回転と書いてあるでしよう。そのほかにEPがある。あれがいけないんでしょうね。」
上野一郎「そういう分け方は非常に不正確な分け方で、EPだつて四十五回転でしよう。(後略)」

ここで日本のEPの課題として指摘されているのが価格の件です。
上野「日本の場合は、四十五シングルとEPに値段の差がついていますね。所がアメリカでは初めEPを売り出したときには値段の差をつけなかつたんですよ。今までの四十五シングルの値段でEPが買える。そうすると十二吋LPをEP盤にすると三枚になるわけですから、ずっと安いということになる。その点で非常に利点があたわけです。ところが日本じや値段に差をつけているから、LP十二吋とそれをEPに直したものと比較すると、EPの方がいくらか割高になる。

とはいえポピュラーにおいて、45回転レコード自体は78回転レコードの代替品として売れ始めていることも話題に出ています。
藁科「でも売れ行きは伸びているんでしよう。この間のレコード協会の雑誌を見ても、LPの伸び方より四十五とEPがずつと上廻っている。
伊奈「ただそれはクラシックよりも主としてポピュラーでしよう。ただクラシックも昨年の暮れあたりから、ようやく伸びているようです。ポピュラーの方は、例えば四十五回転シングルというのは、今SPと同じ値段の三百五十円ですから、当然伸びるのが当たり前だと思います。」

先のレコード協会の機関紙『Record 1957年7月号』の座談会でも、米国の話と並べながら、78回転レコードの代替品として45回転シングルレコードが定着しつつある一方、EP複数枚を組み合わせてアルバムとする方式が廃れつつあることが触れられています。
井上(敏也・日本ビクターレコード部録音技術課長)「結局日本なんかではハイ・ファイというものが別の意味で大きく問題にされてチェンジするということは二の次になっていて、依然として丁寧に一枚づつかける。オートチェンジャーで自動式演奏しようという考えは少ないですね、やはり昔なみに手でレコードをかけかえる、となるとやはりLPのように長いものが強いということになるのですね。
和田「そういうことで発明者のアメリカのRCAビクターでも45回転の組物はやはり売れないんだということですね、そういうものは十二吋のLPに任せておけ、ということですな。」
井上「従来のSPに代るべきものとして45回転盤の意味がある……と私はそう思うんです。」
和田「今日ではね。そういう情勢に変りつつある……。」
井上「変ってますね。」

45回転シングルレコードが78回転の代替としてポピュラー界で浸透していく一方、当初想定されていた2〜3枚組で1LPと同等の「アルバム」として扱う、といった目的でのEPの存在意義は薄れていきます。上記の会話のとおり、アルバムを聴くならやはり手間の少ないLPで…という志向があったと推測できます。60年代を通して英国等ではLPからの廉価抜粋盤としてEPの役割は残ったものの、米国ではLPの価格が手ごろになっていったのか、そういった需要も起こらなかったのかもしれません。日本ではレコードはまだまだ高級品でしたので、廉価抜粋盤としての需要はあったことでしょう。

1958年になると、こちらもクラシックですがEPの価格を下げ、手に入れやすい立ち位置に置き、その居場所を確保しようという動きも見られるようになります。
シリーズ名にもいろいろあるが、“エース”とはちょっと変っている。「切り札」という意味だそうだが、野球のエースにあやかりたいのが本音かもしれない。冗談はさておき、EPの売れゆきがあまりかんばしくないといわれている昨今、あえてEPをエピックが始めたのは1枚500円という手ごろな値段でヒットを狙ったのであろう。1,000円のLPがある以上600円から700円のEPは明らかに割高で、ここに目をつけたエピックの企画は当を得たもの。
(相沢昭八郎「クラシック17cm EPの新規格 エース・シリーズへの期待」『Music Monthly 1958年10月号』月刊ミュジック社、1958

しかし、日本では1960年に33 1/3回転の7インチレコード、のちのいわゆる「コンパクト盤」が登場します。コンパクト盤の登場後1、2年で、EPは一気にその座を奪われるどころか、完全に消滅することになるのです。

(つづく)