2025年11月8日土曜日

1992 (1) : 無意識の領域で

91年末、サザンはニューアルバムのレコーディングを進めながら「Coca-Cola Special 闘魂!!ブラディ・ファイト 年越しライブ」を開催。このライブで初披露され、正月のテレビ番組でもスタジオ音源が流されたアルバムセッションからの新曲「君だけに夢をもう一度」は92年1月18日の朝日新聞で3月にシングルリリース予定と告知される。


しかし、3月には特に何も発売されないまま、レコーディングは続行する。


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92年6月、長年サザンをビクター側から支えてきたinvitationのA&R高垣健が新たなレーベル、Speedstarを始動する。第一弾新譜はChika Boom、Up-Beat、シーナ&ザ・ロケッツ、The Minksの4タイトルであった。

高垣健「スピードスターは、まったくゼロから企画しました。インビテーションでもいろんな経験したし、ARB、松田優作さんをはじめ、いいアーティストとの出会いがいっぱいあったんですけど…インビテーションは77年からやってるから、14、5年いたんですよね。そうするとインビテーションっていうレーベルがね、気が付いたらもうすごく大規模な所帯になってまして、大きな組織、大勢のスタッフ、沢山のアーティストっていう、なんか非常にマンモスなレーベルになってまして。イメージも非常に大きすぎるし、あいまいにもなってきたんですね。それで僕はもともと、色の強いレーベルというか、キャラクターのはっきりとしたレコード会社に対する憧れが昔からあったんですよ。キャプリコーンなんてのはもう最大のシンボルだったり、昔のエレクトラもそうですけど。そういう憧れのイメージをもうずっと引きずってるんで、できればそういうはっきりした、小規模でポリシーの見えやすいレーベルにしたいなという思いがあったんです。」
(『Musicman リレーインタビュー 第11回 高垣 健 氏』https://www.musicman.co.jp/interview/19446

サザンはデビュー以来高垣の属するinvitationからのリリースで、83年以降は専用レーベルTaishitaを設立、そちらからのリリースとなっている。このTaishitaも実際のところ組織的に独立していたわけではなくinvitationの一部、レーベル内レーベル的な立ち位置であった。そしてこのSpeedstarの創立により、Taishitaも所属をSpeedstarへ移行している。とはいってもあくまでビクターの内部的な話であり、この時点で特にサザン作品にSpeedstarの表示は見られない。Speedstarが一レーベルから発売元の「Speedstar Records」となった95年4月以降、Taishita作品にもSpeedstar Recordsがクレジットされるようになる。

Speedstar創立に際して制作されたプロモ盤『We're Speedstar』にはサザンの記載はないが、さりげなくTaishitaの記載がある。

高垣の新レーベル創立前後で現場の制作体制にも変化があったようで、これ以降のサザン・桑田作品において高垣はプロデューサー/ディレクターではなく一歩引いた、エグゼクティブ・プロデューサーとクレジットされるようになる。高垣から跡を継いだA&R〜ディレクターは90年ビクター入社・原由子『Mother』から現場に入った松元直樹。サザン・桑田の現場も世代交代が進んでいくのだった。


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Speedstarがスタートした92年6月はサザンのデビュー記念月でもある。といってもニューアルバムはレコーディングの真っ只中ということでいつものように間に合わず、この年は原以外(原の旧譜は91年5月にリイシュー済)の各メンバーのソロ旧譜CDのリイシューが行われた。大森『真夜中のギター・ボーイ』、松田『Eros』、関口『砂金』が初CD化。Kuwata Band『Nippon No Rock Band』『Rock Concert』、Tabo's Project『Eyes Of A Child』は価格改定とマスター・装丁をリニューアル。さらに新作として桑田のサザン以外の活動のベスト盤、『フロム イエスタデイ』がリリースされている。


シングル・オンリーかつ86年の一年間で活動終了となったことでCD化のタイミングを逃し、アナログレコードの消滅でここまで2年半ほど廃盤となってしまっていたKuwata BandのA面4曲のCD化、というのが目玉であった。


ちなみにこのリイシュー/ベスト盤で嘉門雄三は対象外とされ、限定盤ではなかったカセットの廃盤以降は今日に至るまでカタログから外されたままである。また、このリイシューに乗じて(といってもタイミングを大きく逸した11月だったが…)東芝EMIも廃盤となっていたJEF『Japanese Electric Foundation』を再発している。


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92年7月、満を待してサザンのアルバムセッションから先行シングルがリリースされる。景気良く、2枚同時リリースという企画であった。1枚は「シュラバ★ラ★バンバ Shulaba-La-Bamba / 君だけに夢をもう一度」、もう1枚は「涙のキッス c/w ホリデイ〜スリラー「魔の休日」より」。

2005年の旧譜シングルリイシューの際、「シャ・ラ・ラ/ごめんねチャーリー」と異なり単独A面表記、公式サイトでも「君だけに夢をもう一度」を「c/w曲」と明記したため以降そういうことになっているが、オリジナル盤実物を「涙のキッス」と並べるとこのとおり両A面扱いである。リリース後のテレビ番組でも「ホリデイ」を除く3曲のいずれかが披露されていた。

「君だけに夢をもう一度」はシングルリリース後にタイアップがついたため、92年当時の製造タイミングによってステッカーが三種類存在する。

A面3曲はいずれもファンクやソウルなどをベースとしたサウンドで、アナログシンセ、エレピ中心の音作りである。小林武史のトレードマークのひとつといえる、ポルタメントやベンドを多用するスタイルはこれ以前の小林作品でも断片的に登場してはいたが、特にアルバム中でもその特徴を如実に示している3曲がリード・シングルとして選ばれているのが興味深い。

とはいってもそれは結果論で、シングル選出のきっかけはタイアップにあるようだ。この構成でシングルを切ることになった経緯を、アルバム共同プロデューサーの小林が語っているので引用してみよう。

小林武史「今回、作ってる途中で、このアルバムの魅力は、ある種男っぽかったり骨っぽいところにあるんだろうと思ってた。「涙のキッス」を主題歌にすると言ったときにも、最初にあの曲が出てきたときには、アルバムの中で一曲は甘さが欲しいんだろうと思ったの、ぼくは。骨っぽいところに、変な話、お茶受けじゃないけれど、ちょっと箸休めみたいな。あの曲をシングルにするというのは、スタジオのスタッフは誰も思ってなかったと思うの。「涙のキッス」ってド定番でしょ。それをそのまま持ってくとは思わなかった。ぼくは本当は「慕情」が絶対いいよって言って。すごくシンプルに、ピュアな要素としてドラマの主題歌、エンディングテーマでやったら、絶対にカッコいいと思ったわけ。あまりガッついてなくて。でも敵は、桑田さんはもっと役者が上だった。なんで「涙のキッス」なのかっていったら、賀来千香子さんにはあれだけど、賀来千香子さんだからって(笑)。そのとおりなのよ。賀来千香子主演だから、「俺もたしかに引っかかってたんだよね」って話になって、「俺は「涙のキッス」しかないと思う。心はひとつです」って。「心はひとつです」ってフレーズが出ちゃうときの桑田さんは、もう何を言ってもだめだからさ。「涙のキッス」を主題歌にする条件としても、自分のなかでそのバランスをとるために「シュラバ〜」をもう片方にして同時発売しようと。久しぶりに出ていくサザンとして勢いがあっていいねって。歌う電通博報堂ですからね、あの人は、ほんと(笑)。案の定、「涙のキッス」を持っていったらドラマのプロデューサーが俄然、「目からウロコが落ちました」みたいになって、あのとおりの大ヒットになってしまいましたけど。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

おそらくここに(延期というテイで)「君だけに夢をもう一度」と、もともとシングルのカップリング用に作っていた「ホリデイ」を加えることで、2枚同時リリースの役者が揃った…ということだろう。

これら2枚のシングルの(オリジナル盤での)クレジットは以下のとおり。数名のゲストの記載があるいっぽう、メンバーは名前のみで、担当楽器は記されていない。

編曲 小林武史 & Southern All Stars

Southern All Stars
桑田佳祐、大森隆志、原由子、関口和之、松田弘、野沢秀行

Guests
小林武史 Keyboards
角谷仁宣 Computer Operation

包国 充 Sax

小倉博和 Electric Guitar
美久月千春 Bass

※注:包国は「シュラバ★ラ★バンバ Shulaba-La-Bamba / 君だけに夢をもう一度」のみ、小倉・美久月は「涙のキッス c/w ホリデイ〜スリラー「魔の休日」より」のみにそれぞれ記載


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さて小林の語った「男っぽかったり骨っぽいところ」が魅力というこのアルバムはどのように制作されたのか。

当初桑田はアルバムのコンセプトについて何をやるべきか迷っていたようで、メンバーだけで「せーの」の一発録りや、50曲入りなど物量で攻めるなどのアイディアを持っていたという(『R&R Newsmaker 1992年10月号』ビクター音楽産業、1992)。物量については録音開始後もある程度念頭にあったようで、92年初頭の桑田(『スコラ 1992年4月9日号』スコラ、1992)、野沢(『FM Station 1992年3月2日号』ダイヤモンド社、1992)のインタビューでは2枚組になるかもしれないという話をしている。最終的にはCD1枚には収まる程度としたようで、16曲入りのボリュームに落ち着いた。

結局、小林武史と桑田を中心に据え、プレイヤーはゲストもサザンのメンバーも並列に扱う…という体制で進めるということになったようである。小林が今回に関しては桑田さんとぼくを中心にしたチームで進めていって、そうしたうえでメンバーを呼んでレコーディングすると語るそのスタイルは、事前にサザン内でもコンセンサスを取ったうえで進められたようだ。

— いやあ、やっぱり、桑田佳祐の中にはサザンオールスターズのクレジットでそういう作品を作るというのは、何がしかのためらいとハードルがあったと思うんですが。
「そうですね。だから、そこが一番悩んだとこだしねえ、最初に。で、まあ小林(武史)くんとやろうっていうことは、もちろん小林くんのブレーンも借りてくるわけだから、ソリッド・ブラスだとかね。やっぱり正直言ってそこまで拡げたかったっていうのもあるしねえ。だから、レコーディングが始まる前に慎重にメンバーだけでミーティングもしたしね。その、まあ『ちょっとエゴイスティックにならせてもらうけど』っていう話なんだけど」
— メンバーの反応はどうでした?
「うん……まあ、こういうこと言うのは恥ずかしいけど、とにかく『気を使わずにやってくれ』ということなんだけど。ある種その桑田・小林のセレクションに任せるから、まあやってくれと。もちろんサザンのメンバーのポジションといったことはこっちできちっとやるからっていうようなことで、まあ(レコーディングに)入ったんですけどね。」
(『ロッキング・オン・ジャパン 1992年10月号』ロッキング・オン、1992)

桑田の作曲も1曲まるまるできた段階ではなく、一部しかメロディが出来上がっていない状態でも小林のところに持っていき、アレンジをしながら作曲を進めていったようである。つまり、小林の提案するアレンジに刺激された桑田が次のパートのメロディを作り出していく…という相互作用で作曲・編曲が進むといった具合だ。この辺は『Keisuke Kuwata』の作業にも通ずるが、より深化した、贅沢な外部アレンジャーの使い方であり、作曲家とアレンジャーの濃密なコラボレーション作であるといえよう。

今井邦彦「「シュラバ★ラ★バンバ SHULABA-LA-BAMBA」は、ちょうど桑田さんが“猫に小判スタジオ”という小さなスタジオを作って、そこで作業をやり始めた頃でしたね。最初はAメロしかなかったんですよ。「これしかできてないんだよね」と8小節だけ弾いて、夜になってBメロができた。そういう感じを日々繰り返してましたね。
(『サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019』リットーミュージック、2019

当時のスタジオの風景ですか?どこか、桑田さんと二人で、“メロディ漫談”やっていたような気もしますね(笑)。ともかくこのアルバムって、メロディの洪水ですよね。もちろん最初は、センターに立つメロディを桑田さんが作る作業から始まるんですが、それを受けて、メロディの応酬というか…。桑田さんが、「まだここまでしか出来てないんだけど…」って、でも、そこまでベースラインとかカウンターラインとかレコーディングしているうちに、何かの空気を呼ぶわけなんですよ。匂いというか、湿度でもいいけど、それにまた、桑田さんが呼応して、「あ、いまの!」みたいな…。その瞬間て、桑田さんと僕の頭は、MIDIでつながってた気がします。二人がこれまで聴いていたものは違うのに、なぜなんだろうって思ったけど、まあ同じ人間なんだから、同じものがベースに流れているような気はしましたよね。
(小林武史「「世に万葉の花が咲くなり」ライナーノーツ」『世に万葉の花が咲くなり/サザンオールスターズ』[VICL-60222/初回盤] ビクターエンターテインメント、1998)

こういったスタイルが前提になったアルバムというのはこの『世に万葉の花が咲くなり』のみではないだろうか。そういったあたりも本作のユニークな出来に影響しているといっていいのかもしれない。

キーボードプレイヤーが隣にいながらも、今回はそれまでと異なり基本ギターで作曲するという縛りを設けたようだ。この辺も「男っぽかったり骨っぽいところ」に影響していそうだ。


小林君はすごく悩んでくれたと思うんだけど、私なんかはそのなかでギター一本で曲を作るっていうことに戻っていった。全部ギターで作った。ギターで曲作るのには限界があるのかなって思った時期もあったんだけど、ギター一本で作った曲の、ライヴでの食いつきのよさっていうのがすごくあって。キーボードって総合楽器みたいだから、ワンタンの皮を何枚も合わせていって厚みを見せるって感じになっちゃうときがある。それは実に拠り所がなかったりする。「いつか何処かで」って曲なんかも、すごくよくできてるんだけど、やっぱり微妙なものを加え込まないとあの雰囲気は出ない。ギターでジョキーンと作るっていうことを、まず念頭に置いてましたね。そういう小林君のやり方と、俺たちのやり方が、すごくミックスされたんだろうね。もちろん小林君の理解力がすごく必要なんだけど。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

さらにはベーシックの作業は自宅で実施…というのも時間がかかるレコーディングになった原因のひとつだろう。

田家秀樹「すごさに圧倒されたアルバムでしたね。1曲目の「BOON BOON BOON 〜 OUR LOVE [MEDLEY]」も、すごいですよね。」
今井「素晴らしい曲ですよね。この曲は紆余曲折あって、終わりが見えないレコーディングでしたね。 昼過ぎからレコーディングをして、「今日はこれくらいにしようか」って、色んな話をしながら片付けていると、桑田さんが「さっきのやつ、もう1回聴いちゃだめ?」って言って聴き始めるんですよ。そうしたら、そのまま作業が始まって、「うわー、また始まっちゃったよ」って(笑)。深夜の2時か3時くらいからですよ…。」
田家「終わらないですねー。」
今井「終わらないですね。毎日、明るくなってから家に帰っていましたから。」
FM COCOLO『J-POP レジェンドフォーラム』7月はサザンオールスターズを特集!3代目エンジニア今井邦彦をゲストに迎えた番組トークvol.3を公開


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アルバムブックレットのゲストミュージシャンの欄には、全曲に関わったということであろう2名が大きくクレジットされている。

小林武史/Keyboards, Rhythm Programing, Synth Bass, Sampling Instruments, Guitars
角谷仁宣/Computer & Synthesizer Operation

さらにゲストごとに参加曲が明記されている。人選はもちろん小林プロデューサーによるところが大きいだろう。

ベースは不在の関口の代打として、Acoustic Revolutionでベーシストとしても紹介されたシンセベーシストの小林が担当。エレキベースのニュアンスが必要と判断された2曲は根岸孝旨、美久月千春がそれぞれ弾いている。

そして遂にギターも外部のミュージシャンを複数起用。『Southern All Stars』収録「愛は花のように」では諸事情により、あくまでガットギターという条件つきで小倉博和がクレジットされていたが、今回はガットギターに限らずエレキ・アコギとも正面切って外部ギタリストを迎えている。Super Chimpanzeeの小倉(4曲)、佐橋佳幸(3曲)に加え『Keisuke Kuwata』にも参加の長田進(1曲)が参加。クレジットのない曲は桑田や大森によるもののようだ。

ブラス隊は従来の新田一郎セクションから一新、前年結成の村田陽一Solid Brassの面々が登場。村田陽一、山本拓夫、荒木敏男の3名を軸に、「ブリブリボーダーライン」ではエリック宮城、菅坡雅彦、竹野昌邦、佐藤潔も集結。2曲のブラスアレンジは村田や山本が担当。従来のスペクトラム系は包国充のみが参加している。山本はここから長きにわたり、桑田・サザンのブラスアレンジ担当として関わっていくことになる。

ドラムはサンプリングやマシンが半数以上、松田によるドラムをフィーチャーした曲は聴く限りはほぼ中盤にまとまって配置されていると思われる。

林憲一「実はサザンでは、角谷君が早くからハードディスク・レコーディングを取り入れてましたね。92〜93年頃、サンプラー的に第一弾が投入されて。当時、オーディオ・メディアとかサンプルセルというのがあって、それをほぼサンプラーとして使ってました。たとえば、ドラム・トラックをReCycle!というソフトにかけると音の波形が見えるので、ぶった切ってパターンを入れ替えたりしていた。ドンパンドンパンがドンドンパンパンドンドンパンパンになるんです。今日のようなクオリティではなかったけど、当時がかなり画期的でしたね。
(『サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019

Samplecell、Audiomediaというと現在はProTools(これも91年発売)でおなじみDigidesign(現Avid Technology)が91年に発売したMac用サンプラー、ハードディスクレコーディング用ボードである。ハードディスクでの音源編集が可能になったことで、ブレイクビーツやサンプリングといったポストモダンなレコーディング手法がサザンの現場でも取り入れられていく。本作以降、そういった要素が効果的に登場するのは小林武史のみならず、Mac使いの角谷仁宣によるところが大きいとみていいだろう。冒頭2曲はブレイクビーツを流しつつ、並行して数種のサンプリングのスネア・キックで組み立てたドラムを鳴らしている。こういったテクノロジーも貪欲に取り入れる桑田の一面が垣間見れよう。

キーボードはアレンジャー・プロデューサーである小林の独壇場というところだろう。先に述べた先行シングルを中心とした古き良きアナログシンセやエレピはこれ以前の小林作品でも断片的に登場してはいたが、本作以降もグロッケンと共に小林のトレードマーク的に使われていく。これはこのアルバムの手応えを感じてのことであろう。

3月リリース前提でテレビ等でレコーディング音源が披露されていた「君だけに夢をもう一度」。当時の音源を聴くとドラム・シンベ・パーカッション・ワウギター、さらに弦などの上物シンセはリリース版と同じだが、オルガンや大森と思われる左チャンネルのギターはまだ入っておらず、なによりメインのキーボードがエレピではなくFMシンセが使われている。フレーズがリリース版より大味なのもあり、ここで大きく印象が異なっている。
「で、最後に微調整で手間がかかった。エレピの音色とかね。古くしようか新しくしようかっていうことでずいぶん違う。選択肢がたくさんあって。この曲をシングルにしようと思ってたんだけど、結局そういう悩みがいっぱいあって、久しぶりのシングルだし、'92年のお目見えだから「これじゃあ弱いよね」ということになって取りやめた。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
おそらく一旦発売中止にしたレコーディング中盤、ひと昔前の鍵盤類を多用する方向に傾いていったのではないだろうか。クラシックな楽器・機材を正面切って使う、というスタンスもこののちの90年代のポップスを象徴するものである。

なお、シングルでは名前のみだったサザンのメンバーのクレジットは以下のとおり。

SOUTHERN ALL STARS
桑田佳祐/Vocals, Guitars
大森隆志/Guitars
原由子/Keyboards, Vocals
関口和之/Bass
松田弘/Drums
野沢秀行/Percussions

本作の特徴としてもうひとつ、メンバーのコーラスのクレジットが無くなり男声コーラスは完全に桑田のワンマンになったことも挙げられる。原のコーラスも聴く限り「涙のキッス」「ブリブリボーダーライン」「ホリデイ」の3曲でしか聴こえず、そういった点もストイックな印象を与えている(因果が逆で、ストイックな曲が多いがゆえに原のコーラスが不要と判断された、ということかもしれない)。

アルバムのプロデュース・録音・アレンジのクレジットは以下のとおり。98年以降の再発盤では消えてしまったが、オリジナル盤では裏ジャケットにも曲目に並び最後にプロデューサーが明記されている。

PRODUCED by SOUTHERN ALL STARS & 小林武史
Co-PRODUCED, ENGINEERED & MIXED by 今井邦彦

ALL SONGS ARRANGED by 小林武史 & SOUTHERN ALL STARS

オリジナル盤CDのマスタリングは音響ハウスのベテラン、中里正男が担当。なお、『kamakura』から参加、『Nippon No Rock Band』からメインエンジニアを務める今井邦彦だが、この年ビクターを退職。フリーランスのエンジニアとなり、小林武史の烏龍舎にマネジメントを委託、これ以降の小林作品にさらに深く関わっていくことになる。


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本作では歌詞についてもこれまで以上に丁寧に、テーマを定めて書かれたものが多い。意図的に日本語を使い、大方フィクションの様々な物語が展開されている。曲調にもよるが、日本語としてきちんと理解できる発音で歌っている曲が多いのも過去の桑田からすると隔世の感がある。

「今回、詞に関して、洋楽のフォルムじゃない日本語の力というものが一番分かりましたね。最終的な色付けだから、骨組は出来た、壁も張られた、あと何色を塗るか?っていう部分で、詞を作って歌うことの演出効果っていうのは、凄いものがありますよね。さっき、暗黒って言ったけど、キング・クリムゾンとか聴いたんだよね。でさ、デヴィッド・ボウイにしろ、昔の良いものは今日的だなって思ったのね。
(略)
言葉選びのコツとか距離感とかって面白いなと今回思いましたね。その辺のバランス感覚は頑張ったつもりなんですけどね」
「幾ら洋楽のフォルムに近づいても、もう仕様が無いんだっていうのがまずあって、歌詞っていうのは、サウンドでもあったけど読み物でもあるんだってところにトライしたかな。」
(『R&R Newsmaker 1992年10月号』)

英語については『Southern All Stars』に続きTommy Snyderにサポートを依頼している。このあたりも意味や文法的な面を重視し、慎重に作詞をしようという桑田の意識の表れだろう。ドゥーワップ風味のアカペラ曲は英詞のニュアンスしか考えられないということでTommy Snyderの単独作、他も5曲については英詞部分のアシストとしてTommyのクレジットがある。


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また、ジャケットもそれまでの傾向からすると珍しい、Jackson Pollockに代表されるドリップ・ペインティングをフィーチャー。アートディレクション、デザインにクレジットされている野本卓司はソロ作や大竹伸朗のノイズ・ユニットJukeにも参加するなど音楽活動も行いつつ、広告や音楽作品のアートワーク(一風堂、尾崎豊、ユニコーンなど)を担当するデザイナーである。

さらに、タイトル文字は桑田本人による脅迫文風の新聞・雑誌の見出しコラージュを使用。トータルで暗く尖ろうという桑田の当時の意欲が伝わる装丁で、新機軸であった。

ステッカーは当初店頭に並んだ分にはついていなかった気がするが、筆者の記憶違いだろうか。


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ピッチを落としたダウナーなブレイクビーツとトリップ・ホップの幕開けのような小林のシンベで始まる「Boon Boon Boon」でアルバムはスタートする。順に左から小林のピアノ、右にクレジットから長田進と思われるギター、センターに村田陽一Solid Brassの面々によるブラス、そして桑田のシャウト「Ahhh, Let’s twist!」が炸裂…の流れがこれまでにないサザンのアルバムであることを告げる。最初の「C'mon, pretty baby」からサンプリングのスネアとキックのビートに変わり、その後ブレイクビーツと共存。左右で華麗にギターとピアノのソロが展開される間奏明けからはブリティッシュでハードな雰囲気の重いスネア/キックに切り替わる。最後はブレイクビーツとシンベ、ピアノと桑田のファルセットの小品「Our Love」が添えられている。桑田のMcCartney的メドレー・小品志向と小林のプログレ志向の合致がこのパートを生んだのだろうか。冒頭から目まぐるしい展開の一曲だ。

桑田は当初、ツイストをやりたかったそうだが、小林武史とのギャップで思わぬ方向に向かっていたようである。
「アナログはやっぱり俺が求めてた音だっていまさら思ったんだけど、そのよさのなかでオールドものをね、ちょっとヴィンテージな音楽をやってみようかという発想があって、曲を作った。それでコバやん(小林武史)に言ったら「俺、ツイスト知らない」って言うからさ、「な、なにぃ、知らない!?」って(笑)。」
(略)
「で、コバやんがリズムを倍のノリにして「こういうのでいけないかなあ」って言うから、俺は「冗談じゃないよ。ツイストなんだから」って。「でも一応今日はこの感じで試していいかな」「いいけど、俺は嫌だな」って。喧嘩はしなかったけど、コバやんがやってみた。ただ、これが聴いてみたら、よかったんですよ(笑)。そこから曲がどんどん化けていった。
(略)
「私のものじゃなくて、小林君のものに変化してったと言う流れを持っている曲ですね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

Guitar Man's Rag(君に捧げるギター)」は、再びダウナーなブレイクビーツを終始流しながらブルージーなスワンプ・ロックが展開されるという2曲目にしてストレンジな楽曲である。揺れない・ハネないビートの中、ブレイク部分で鳴るファンキーな音色のスネア・キックが心地よい。ベースは小林のシンベ、左のキーボードや特徴的なシンセのストリングスは小林、右はクレジットから原由子『Mother』で縦横無尽の活躍を聴かせた佐橋佳幸によるギター…と思われる。冒頭から酔いどれているアコギのスライドはおそらく桑田だろう。
「たとえばレオン・ラッセルの『カーニー』。ちょっと泥くさいあの感じって、私らの世代のアメリカ志向として、ありましたから。こういうのも、たまにはいいじゃないかって。」
(『FM Station 1992年10月2日号』ダイヤモンド社、1992)
「今のロックって、大変ですよね。昔はロックっていうのは新しいものだった。(略)だけど'90年代っていうか、僕らもそうだけど、いまの人は昔も知らなきゃだめでしょう?そのへんのサジ加減をうまくとらなきゃいけない。昔も目指してなきゃいけないところがある。」
「だからすごくソリッドなハイファイなものに向かわないように、だけどただ古のものにならないように、そのへんのヤジロベエみたいなバランスがあった。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

イントロから小林のモノシンセがリードする70sフォークロック風な「せつない胸に風が吹いてた」。ようやく普通の8ビートのドラムの登場であるが、音を聴く限りは松田のプレイではなくマシンによるもののようである。小林の八分を刻むシンベが心地よい。ギターはクレジットから察するに右のアコギ、左のエレキ両方佐橋か。スライドはこの曲も桑田と思われる。小林・桑田のポップサイドのトレードマーク、グロッケンもようやく登場。小林のアレンジか、桑田の多重コーラスも心地よい。歌詞は珍しく、桑田本人の実体験を元に書かれているようだ。
「またバランスの話になっちゃうけど、いまビーチボーイズを聴いてみて、1966年とかそういうアドレスが出てくるかっていうと、違うんじゃないかと思う。いわゆる新しい出会いをそこに発見するんだよね。未来と過去が現在の時点でこんなに混濁しちゃってるみたいな、微妙なバランスの取り方ばっかりしてたんだ、今回は。(略)
 いわゆるヴィンテージものを、ある場所にスッと置いてみせるスマートさ。それは新しいからね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

先行シングル曲のひとつ、「シュラバ★ラ★バンバ Shulaba-La-Bamba」はリズムに耳をやると四つ打ちのキックにハウス風に刻むスネアとキーボードが乗り、途中ビートがNJS風に揺れる部分などもある。あるのだが、小林と思しきシンベにとどまらないアナログシンセやハモンドなどの盛り合わせ、シンベとオクターブユニゾンのフレーズを奏でる左のギター、さらに右のカッティングのギター(このあたりは大森だろう)など70年代Pファンク的な要素、そして派手で暑苦しい桑田のヴォーカルと全体のアナクロな音色・音像処理で、単なるコンテンポラリーなハウスには落とし込まないあたり、やはり本作のコンセプト下にあるといえるだろう。
「サザンがいて、ヒップホップっていう音楽があって、いまの時代があって、この三者が出そろうとカッコいいかっていうと、それほどカッコよくないと思う。やり方ひとつによってはmi-keになっちゃう。そうじゃないためにはどれかをズラさないと。どっかで落とし前をつけるっていうコンセプトで。
 デモテープでははじめ俺がギター弾いてた。音はもうジュワジュワいってるし、俺のギターの下手さとからまって、昔のレコード聴いてるみたいだった。なんか'70年代でもいいよねっていうか……本当に胃袋でかいじゃないですか、'90年代っていうのは。とんねるずもディスコやってるし。それこそアフロヘアにパンタロンにハイヒールも有りじゃない。それなんですよね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
とはいいつつ終盤、演奏がブレイクし英詞のラップパートが入るなど色気を見せる展開はさすがである。アルバム用にはリミックスされたバージョンを収録。シングルよりタイトな音像に仕上げているが、ヴォーカルはシングルより派手目である。

小林と思しきピアノ2台とマシンのリズム、生のストリングス…などをフィーチャーして奏でられるバラード「慕情」。この曲のストリングスアレンジは小林ではなく、ひとり多重でヴァイオリンを弾いている桑野聖がクレジットされている。「水に投げた」からはセンターでシンセのパッドが鳴っているが、「何故に人は」直前からステレオで入る弦が桑野によるもののようだ。おなじく中盤から入るシンセのオーボエなど良い味を出している。桑田の、前曲から打って変わっての繊細な独唱はこれまた隙がない出来だ。たくさん音が入っているが締まって聴こえるという、小林の特徴のひとつが良く出た一曲である。
「今回のレコーディングでは、小林武史クンが色々と音を考えてくれたんですけど、この曲はピアノが2台、ジョン・レノンでいうと『オー・マイ・ラヴ』みたいな感じで入ってます。そうすることによって生まれる音のブレンド加減というか、派手な作業じゃないけど、そういうトライはたくさんしました。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)
この曲については、小林(ドラマのタイアップに推薦したようであるし)や小倉の受けも良かったようである。
「パートナーの小林君も、レコーディングに来てくれたギターの小倉君も「これ良いよ」って言ってくれたから、猿は木に登りますよ。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

Bob Dylan風のアプローチは桑田史上では初(Kuwata Bandでハードなカバーはあったが)となる「ニッポンのヒール」。マシンのビートに小林のシンベ、ハモンドと暴れる八木のぶおのハーモニカが聴きもの。ギターは小倉博和がようやく登場。センターのアコギは桑田だろうか。Dylanに至った経緯はSuper Chimpanzeeよろしく猫に小判スタジオで酒が入りながらの作業の産物のようだ。
「本当はモット・ザ・フープルみたいなのをやりたかったんだけど、作業は夜中に行うから酒が入る。酔っ払ってウチの地下のスタジオかなんかに居ると、何をやってもウケるから、だんだんこんなことになっていった。シャレです、シャレ(笑)。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)
「この曲こそギターで作ってる感じするでしょ。ピアノで作るバカいない。この曲ができて、小倉くんが来て弾いた。いつもレコーディングの一日目は簡単なコード譜書いて酒飲み会になっちゃう。そうすると物真似とかが出てくるわけだ。で、酒飲んでるから、つまんない芸でもウケるウケる。ビリー・ジョエルとか言って(笑)。その音楽ギャグが波状攻撃を生んで、ボブ・ディランにいたったんです。」
このDylan風歌唱とサウンドに社会ネタの歌詞を乗せるというスタイル、90年代の桑田の持ちネタのひとつとなる。重要なきっかけとなる曲であった。
「体制に歯向かってるパーソナリティはいまいないじゃん、僕らも含めて。(略)なんか、世の中もう、諸悪納得ずく、病気とお友達。別に社会に対して風刺してるっていうのでもなくて、ただその病気のスケッチ、世の中の病気のカルテぐらい、たとえサザンでも書けるっていうのが、やっぱりいまの時代っぽい。今回は詞を作ってても題材はいっぱいあった。サザンもそういう歌をうたうみたいな時代なんじゃないのかしらねぇ。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

本アルバムで最初にレコーディングされた、原由子ヴォーカルコーナー「ポカンポカンと雨が降る」。小林が語ったようにいつもの、「もうわかってる」桑田佳祐ラテン歌謡であり、ゆえにその世界観はキープはしつつも極力アレンジで新味を出す方向で動いたようだ。小倉博和がギターとしてクレジットされており、ガットギターはもちろんエレキギターも弾いていそうだが、原由子2010年のベスト盤『ハラッド』のクレジットによると小林もエレキギターを弾いているとのこと。この辺の自由な雰囲気は「毛ガニのシングル」として制作していた名残か。ひょっとしたら、間奏の切り刻んだ音源で再構築している演歌のようなメロディのギターソロあたりに小林のプレイも含まれているのかもしれない。
「ラテン歌謡。私でもサザンのメンバーでも原由子でも、この世界との関わり合いは消せないんですよ。人生の中でここから受けた恩恵は消せない。そういう年代だから。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
この曲のみ、打ち込みのアシストとして松本賢もクレジットされている。松本はこの頃から小林武史ワークスに参加し始め、Mr. Childrenや渡辺美里の作品のプログラミングを担当するようになる。

セッション2曲目「Hair」、この曲の制作がおそらくアルバムの攻めの姿勢のきっかけとなったのではないだろうか。David Bowie風に8分の6拍子のアコギと歌から始まり、ナロウな音質のドラム、野太いベース、ブラスなどが加わり盛り上がっていく。間奏では多くが8分の6拍子のままだが、打ち込みに変わったキックは2拍3連を刻むというポリリズムを展開。山本拓夫の歌うフルートに逆回転の金物などを散らし幻想的な景色が広がっていく。プログレ好きの小林武史ならではのセンスが炸裂する、本作でも白眉の一曲である。最後でまた歌とアコギだけになるのも心憎い。アコギは桑田、ベースは小林のシンベではなく根岸孝旨によるもので、タメのあるドラムは松田だろう。左のギターはゲストのクレジットがないので桑田か。村田陽一Solid Brassからの3名による重厚なブラスが曲をよりグルーヴィーなものにしている。ストリングスは桑野聖と庭田薫。
「あっという間にできた。ドラムも、狭い“猫に小判スタジオ”に無理やり押し込んで。だから低い豊かな音っていうのは全然出てなくて、バシバシしてるんだけど。生ギターも俺が一回しか弾いてないのね。デモテープ用に録った音なの。それが生きちゃってる。自宅のスタジオの恩恵っていうんですか?
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
攻めた歌詞はKing CrimsonのPete Sinfieldを意識したものだという。
今聞いても全然古くないし。ああいった詞って、英語なのに日本語に訳されるのを待っているのかのように思えた。だからボクは、ピート・シンフィールドの詞を訳すとしたらどうなるか、なんて気持ちになってやってみた。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)

先行シングル曲のひとつ「君だけに夢をもう一度」はセッション4曲目の曲だそうだ。イントロひとつとっても職人小林の独壇場ともいうべき世界が展開される、アレンジャー・小林武史の手腕が光るメロウなナンバーである。フィラデルフィア・ソウルに影響を受けた歌謡曲〜ニューミュージックの世界を意識したようだ。
「それから小林君がストリングスを入れたんだけど、それを聴いて本当に私は泣いたね。あまりにも嬉しくて。情けなくて泣いたんじゃないですよ(笑)。これはある種、筒美京平さん、フィラデルフィアもの。その振り幅を持っている小林武史っていう男はすごいなと思ったの。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
こちらもアナログシンセにセンターのエレピ、ハモンド、右のクラヴィネットなど小林の多種キーボード類や左の大森と思しきギターなどで、古き好きなフィリーサウンドを展開している。そのいっぽう、ストリングスはいかにも生っぽくないのがユニークだ。ソフトな音色のシンセブラスもこれまで原由子ソロなどでも聴けた、小林印の音である。包国もサックスでクレジットされているが、終盤で登場するフレーズの箇所だろうか。ドラムは松田によるもので、小林と松田でリズムパターンを構築していったという。
「リズムパターンの作り方は、小林くんと松田弘のコンビネーションにある
 最初はこういうリズムになるなんて、俺は想像してなかった。だけどリズムができてみたら、すごくハマった。そのことが弘と小林君の間でなされたんだけど、そこに行き着いたのがすごく嬉しかった、私は。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
歌謡、ニューミュージックの世界を意識してか、桑田のヴォーカルも完全に「入りきった」歌い方である。この歌唱は80年代では聴けなかったスタイルだろう。

「Ding Dong ディン ドン(僕だけのアイドル)」は熱いドラムとシンベのビートから始まるブリティッシュロックGS歌謡的な雰囲気の一曲。オルガン、クレジットから佐橋のギター(間奏の逆回転ギターも?)、包国のサックス、と熱い演奏で固めている。
「ロリコンの歌。それとGSですね。GSって、おかしかったでしょ?「スワンの涙」(オックスの68年のヒット曲)って曲は、宝塚なのかロリコンなのかマザコンなのかわからない世界だった。あとGSって、ヤードバーズとだとかキンクスだとか、ああいったブリティッシュロックの伝統を持ってたわけで、ボクらはそれをGSを通して聴いた。そんな洗礼を受けた。そういった、GSとブリティッシュロックの固まりを表現してみた。
(『FM Station 1992年10月2日号』)
「やっぱり歌謡曲とブリティッシュ・ロックの二股かけてるっていう存在感だからね、GSは。それにすごく支えられてるよっていう、私の人生の証。どこかやっぱり日本の古い芸能界の体質と、ブリティッシュ・ロックの様式美。ブリティッシュ・インヴェンションみたいな、そういうちょっと誇り高き前向きな姿勢みたいなもんだね。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

先行シングル曲「涙のキッス」はスウィート・ソウル的な発想から生まれた曲ということだ。
「この曲はそもそもはソフト・ソウルっていうか、ピーチュース&ハーブとか、ああいったクロっぽいアプローチから入ってはいるんだけど、ドラマとかいろいろな付加価値がついてくるうちに、それだけの印象ではなくなってきました。
(『FM Station 1992年10月2日号』)
イントロから登場し間奏を支配、そのまま最後まで踊る小林のポルタメントがかったモノシンセがなんといっても印象的である。終始控えめに鳴っているソリーナも欠かせない存在感があるといえよう。またイントロで登場する小林印のシンセブラスはあまり黒っぽい要素ではないがこちらも心地よい。ギターは前述のとおり小倉がクレジットされている。左のエレキ、トレモロを利かせているあたりはやはりスローで甘いソウルを意識しているのだろう。こちらも小倉か右のボトムを支えるエレキ、さらにはステレオで入っている複数のアコギで厚みを出している(これも音の壁系で黒っぽいのとはズレるが)が、このあたりは桑田・大森も入っていそうである。ベースは最終的に手弾きのベースが欲しいとなったのか、小林のシンベではなく、幻のKuwata Band初期メンバー・美久月千春のプレイを聴くことができる。

「今すぐ逢って」「なぜに黙って」など促音を効果的に使ったチャーミングな譜割とそれに合わせた歌詞も、ソウル的な感覚を意識したということである。
(引用者注:歌詞はどのように思いついたのかという問いに)
「いや、詞から先に作ってないからね俺。(略)
ソウルミュージックみたいなものが僕の中にあって、「今すぐ逢っ」ってこの辺のなんかこうちょっとハネて切る感じ?僕なりのブルーアイドソウルみたいな。(略)
あれですよ、Smoky Robinson。Smoky Robinsonみたいなものに向かってたんでしょうね。Smoky Robinson作ろうと思ったわけじゃないんですけど、なんかギターを持ってて、作った時のことよく覚えてますけど。そうだ、ソウルだ、みたいなね。(略)
ちょっと蝶ネクタイしたこう、ニュージャージーのなんか、Frankie Valliみたいな。達郎さんに言ったら怒られちゃいそうですけど。」
(「Fm Festival 2023 サザンオールスターズ デビュー45周年!「サザンとわたし」スペシャル」Tokyo FM、2023.11.3.
そう言われてみると「振られたつもりで」のあたりのしゃくり上げるメロディは山下達郎やFrankie Valliに接近しているような印象もある。とにもかくにも制作中は甘く、黒過ぎないソウル・ミュージックを意図していたのだ。

「ブリブリボーダーライン」は村田陽一Solid Brassの面々を集結させ大きくフィーチャーしたブラス・ロック。ブラスアレンジも村田自ら担当した賑やかな一曲だ。1・4拍目にスネア、キックは裏打ち…とトリッキーなマシンのドラムパターンだが、これは桑田と角谷で考えたものだという。
— この曲はもともとは打ち込みだった?
松田弘「そうですね。打ち込みで。桑田くんとカワチョー(※引用者注:角谷仁宣)が考えたビートだと思うのね。あの普通の8ビートじゃなく、頭にスネアのアクセントがある。」
(『会場が一体化!!「ブリブリボーダーライン」&「YOU」ドラム解説【松田弘のサザンビート #14】』サザンオールスターズ official YouTube channel、2022 https://www.youtube.com/watch?v=j_NMFEZ2AZY
そんなドラムに合わせた小林のシンベがまた心憎い動きだ。間奏では唐突にサーフィンネタや、YMOの事例を踏まえて圧がかからない程度にもじった西部劇ネタ(わざわざ馬の声!)など楽しい引用が入っている。

セッションの一番最後に着手された、長尺7分超の「亀が泳ぐ街」。ブルース歌謡とでも言えばよいのか、本作でもひときわアク、癖の強い曲である。ブラスアレンジは山本拓夫。三者のブラス隊から桑田のギターソロ、さらに山本のバリトンサックスソロから再びブラス隊でキメて歌に戻るスリリングな間奏は極上だ。曲を通して軸となる小林のシンベ、そしてハモンドも欠かせない役割を果たしている。そして素晴らしい桑田のヴォーカル。直接下敷きにしたわけではないだろうが、早川義夫らのジャックスの持つ暗さを、今回桑田が指向する暗黒さとを重ねたようである。歌詞も含めて桑田にしては珍しいパターンで、月刊漫画ガロ的なイメージがしなくもない雰囲気だ。
「あと、ジャックスをやりたかった、というのもあるんですよ。それと12小節のブルースが持つ不条理。いいたいこと2ついったら、すぐ結論をいわないといけない。あの不条理な長さ。ベースのフレーズを考えて、最初に口から出てきた言葉が“亀が泳ぐ街”だったんです。言葉遊びというか、芸者遊びに近い。言葉を、続けてなんでもいいからいいっ放しにしてつなげていく、みたいな世界。芸者遊びはしたことないけど、そんな作り方で、7分以上の曲を作ってみたかったんです。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)
「心はフォーク、売れないフォークなんじゃないかな。これほど洋楽に忠誠を誓ってない曲はないよね、サザンのなかで。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
とか言いながら桑田のギターソロはE.C. Was Hereしているところにニヤリとさせられる。

シングルのカップリングとして先行リリースされている「ホリデイ〜スリラー「魔の休日」より」は小林のシンセと角谷のマシンが目立つエレポップな一曲。左右のギターは大森だろうか。打ち込みのトラックに「逮捕する」と言わんばかりのサックス、さらにトランペットがはまっているのがストレンジだが妙に心地良い。
「シングルのB面ように最初は書いたんですけど、なかなか難しかったねぇ。最初はジョー・ジャクソンみたいな感じでやってたんですけど、アレンジの小林クンが納得いかない、というんです。その後、フレンチテクノ寄りになっていきました。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)
ということでこの可愛らしいアレンジはJoe Jackson的ニューウェーブな世界を(小林のアイディアで)Mikadoあたりの要素で装飾してみた…という感じであろうか。

アルバムのクロージングに向けて配置された桑田のワンマンアカペラ第二弾「If I Ever Hear You Knocking On My Door」。「忘れられたBig Wave」ではBeach Boysを意識した楽曲だったが、今回はドゥーワップ的な雰囲気で『Big Wave』から『On The Street Corner』に寄せたというところか(といってもファルセットのみBB5っぽくしているあたりのフットワークの軽さが桑田らしい)。相変わらずパートによってはサンプリングした桑田の声を使用しているようだ。
「達郎さんみたいにひとつひとつ自分の声を重ねてくことができればいいんですけど、僕にはできないので。実はこれ、コンピュータでやってる部分もあるし。コーラス重ねてる部分は。
(『ワッツイン 1992年月号』ソニー・マガジンズ、1992

アカペラの前曲と鐘の音でクロスフェイドされ始まる「Christmas Time Forever」でアルバムは幕を閉じる。クリスマスといっても体温は決して高くない、どこか影のある抑えたサウンドに、湾岸戦争やバブル崩壊直後の不穏でペシミスティックな雰囲気を反映した歌詞が載せられている。素敵な過去への郷愁と、いま終末・乱世を生きる人々に対する小さな祈り…といったシリアスな内容だ。小倉のクレジットがあるので左やセンターのエレキギター、右のアコギも小倉だろうか。シンベ、オルガン、グロッケンの重ね方などはいかにもポップサイドの小林らしいサウンドだ。
「なんか流行の風潮かもしれないけど、オゾン層に穴があいてるとか、気候の問題だけじゃなくて、悪いヤツはいるし、政治だおまわりだ宗教だ、胡散臭いのがいっぱいいる。だけど糾弾する術はないし、僕らを含めて棒っきれ振らないし。でもなんかこのままじゃ終わらないはずだよね、っていうことなんだけど。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
「世の中、不景気になるとスケベがはやるとか、そんな分析はありますけど、音楽をやる以前のボクらの気分というのが、いまは決して明るいものじゃない。なんか“病気とおつき合いしてるっていうか”。
(略)これからきっと、とおりいっぺんのラブソングとか、リアルじゃない時代が来ると思うし、そんなことの予告を含めました。」
(『FM Station 1992年10月2日号』)


***


アルバム完成後の取材において、渋谷陽一は桑田に対しこんな指摘をしている。

— じゃあ、例えばこの『世に万葉の花が咲くなり』をサザンオールスターズというクレジットではなくて、桑田佳祐で出すとしたらこういうアルバムになったと思います?
「いやあ、なんないじゃないかなあ」
— なんないと思うんですよ。
「うん、それは違うでしょうね」
(略)
— だから、サザンオールスターズという名前、ひとつのイメージに対してやっぱり桑田佳祐も従っていると思うんだ。
「はい」
— 桑田佳祐という名前だと自分が出ちゃうけれども、サザンオールスターズという名前だとサザンというバンドの—それは実態としてどういうものなのかはよくわからないけれども。いろいろな要素があるんだろうけども—その一部になり得ると思うんだ、桑田佳祐が。
「うん、そうですね。だから、バンドだと野蛮になったり意外と臭いことが言えたりね。ひとりだと責任を追わなくちゃいけないからねえ」
(『ロッキング・オン・ジャパン 1992年10月号』)

面白いことに、能地祐子も『ワッツイン』誌のアルバムレビューで同じような指摘をしている。つまり、桑田には「サザン」の名の下でないとできない芸風があるということだ。

このサザンらしさ。なんなのだろう?『稲村ジェーン』サントラ盤は、ソロともバンドともつかない雰囲気が漂っていたけれど。サザンのオリジナル・アルバムとしては10作目にあたるという本作、ひさびさにグッと“サザンだぞ”という手応えを感じさせてくれる。うれしい。アレンジは今回もほぼ、桑田&小林武史の黄金コンビ。バンド名義であっても、サウンド面ではこの2人の密室作業によって作りあげられた部分がほとんどだろう。それでもサザン、なんである。
(略)
特に“サザンらしさ”や“バンドらしさ”を打ち出すわけでもない。けれど、サザンオールスターズという名のもとで作品を作ることによって。後ろに気心知れまくった仲間たちがいることによって。桑田佳祐は“サザンの桑田佳祐”に戻る。純情な恋心をちょっと気取った言葉で歌ってみたり、ひたすらニギニギ強いお祭り気分を炸裂させたり、スケべーな妄想を繰り広げたり。この自由奔放な散らかりよう、ソロ・プロジェクトとは決定的に違う点だ。気持ちいい。サザンオールスターズは、私たち日本人の財産です。
(能地祐子「Brand New 100」『ワッツイン 1992年10月号』)

おなじみミュージックマガジンではアルバム・ピックアップは篠崎弘、アルバム・レビュー(ロック(日本))は小野島大が担当。篠崎は久々に反応したといういっぽう、小野島は明確にNot For Meとのことなので10点満点中5点と手厳しい。両者とも既にメジャー界でのベテランとして扱われて久しい、サザンに対する当時の空気を感じることができるレビューだろう。

 しばらくサザンを聞いていなかった。(略)独特のフシを持ったバンドは強い。一度その味を覚えてしまったファンは放っておいてもついてくる。そう、かつては考えていた。だが、近年、もっとアクが強くてもっと生々しい魅力をたたえた音楽を次々に知るにつれて、いつの間にかサザンの影が薄くなった。ファンは身勝手で移り気で貪欲で、もっと刺激的なもの、もっと新しく、もっとズシンとこたえるものを次々に求めていくものなのだ。
 それが今作では久々に耳が反応した。①や④ではベースの力強いイントロに「何が始まるのだろう」というワクワクする思いを味わったし、うねるようなビートの効いたそうした曲に挟まれるとブルージーな②のヴァイブや、いかにもサザンっぽい③や⑤が、今更のようにひどく新鮮に響く。(略)
 サウンドの厚みが増した分、桑田のボーカルにおんぶする比重が減っている。(例えば⑨のように)イントロだけを聞いたらサザンとはわからないという曲が多いのも特徴だ。逆にいえば、すぐサザンと分かってしまうのがこれまでのサザンの強みでもあり弱みでもあったのだ。
(篠崎弘「アルバム・ピックアップ」『ミュージック・マガジン 1992年11月号』ミュージック・マガジン、1992)

 メロディも歌詞もパターン化のきわみ。アレンジも保守的。通俗性ギリギリのあざとさも変化なし。だが変わらないからこそ価値が保たれるものもあるのだろう。たぐいまれな芸人根性のなせるわざ。商品として見事な完成度だ。残念ながら現在の僕からは遠く隔たった音楽だが。
(小野島大「アルバム・レビュー」『ミュージック・マガジン 1992年11月号』

92名の日本のミュージシャンに92年のベスト作を聞いた『ワッツイン』誌では、Buck-Tickの櫻井敦司が本作のみを選出し、好意的にコメントしている。短いながら、本作の内容を的確に示している文章だ。映画「The Collector」の部分は「Ding Dong」の歌詞のことだろう。
 メロディが非常に良い。細かいところもよく聴くと作りこまれている。詞の世界が、よく読むとけっこう暗いものが多い。中にはコレクター(映画)に近い世界の曲があったりして、世界がひとつ出来上がってるなという気がしました。
(桜井敦史(Buck-Tick)「92人のアーティストが選ぶ92年ベスト・アルバム大発表!」『ワッツイン 1993年1月号』ソニー・マガジンズ、1992)


***


最後は共同プロデューサー・小林武史のコメントをいくつか見てみよう。

小林「このアルバムについて最近、“サザンオールスターズ”というものとは「もう違うね」と言う人の意見も聞いたけど、そういうことは僕はあまり気にしません。サザンオールスターズのイメージとは、あの混沌とした感じがアジア的なのかもしれないけれど、おそらくなんでも吸収できるということだと思う。
(略)
でも本当はレコーディングしている途中では、どこかサザンというものの中で帳尻合わせるのが苦しいんじゃないかなぁと、ぼくなんかは思ってたんだけど。いつかそのうちこれがサザンのアルバム、サザンという形をもうやめるわと言ってもおかしくないんだという気もしてたんだけど、結局そういうことにならなかったですけどね。そのへんのバランス感覚はぼくにはわからない。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

 バンドがあって、人がいて、それぞれのところから出音があって、何かひとつのものが見えるというのも、もちろんロックの形だけど、でも桑田さんの場合、そんなところに大義名分を持ちたくないっていうの、あるんじゃないですかね。少なくとも、中期以降のサザンのレコーディングでは、サザンオールスターズという“入れ物”で、ある種のトランス状態を生み出そうとしている気がするんです。その無意識の中で、桑田さんは道化もやるし、シリアスなところにも行く—。
 このアルバムでも、何となく無意識の領域に入るポイントが、何箇所かありますね、僕自身も、そういう感覚でレコーディングしていた気がします。今回、久しぶりに聴いたんですが、クオリティは、異様に高いですよね。「HAIR」とか、「ブリブリ ボーダーライン」とか、「亀が泳ぐ街」とか、あと10年後に聴いても、十分にかっこいいかもしれない。
(小林武史「「世に万葉の花が咲くなり」ライナーノーツ」

やはり渋谷陽一、能地祐子と同じく「サザン」という括りが桑田に与える影響を語っている。制作パートナーとして一番近くにいてもそういったことを感じていたのだろう。

そして実のところ、現場ではサザンのアルバムとして成立し得るのかという一抹の不安も抱えていたようである。そもそも小林は外部アレンジャー・プロデューサーとして、オーダーに対して100%の仕事をしたに過ぎない。メンバーを積極的に使わないレコーディングというのは別に小林が与えた方針でもなく、音楽制作のトレンドと、グループの状況を踏まえた桑田の依頼がありそれに小林が応じた…というのが正確なところだろう。

当時の桑田が時代を眺めて、そして年齢的なものもあったであろう、暗黒モードに入っているのはこれまで見てきたコメントから散々うかがえる。そのように基本的には暗くシリアスではありつつも、「サザン」の名の下に、当時のソロでは振り切れない振り幅まで表現しているという点で本作は異質である。そして暗黒モードの桑田に打ってつけの、決して明るくない密室的サウンドを提供した小林…というマッチングは92年のこのタイミングならではであり、延命されスタッフも入れ替わっていく新生サザンの第一弾として桑田と小林が打ち立てた金字塔がこの『世に万葉の花が咲くなり』であったのだ。

小林は数年後、本作を自身のサウンドプロデューサーとしてのピークとまで語っている(『Switch Special Issue 1999 Winter』スイッチ・パブリッシング、1998)

小林「終わってもう本当に満足ですよ。あとはアレンジよりも、まず最初に音だなって。音があって歌がある、そこから魂がガーッと出てくる、みたいな。いままで聴いて、いい音楽だな、いいロックだなって思えるものって、やっぱりほとんどそういうものを持っていたでしょう。そういう音ひとつにきちんと反応できる、野蛮な自分の感性みたいなものがいちばん問題なんだと思う。今回は本当に頑張ったと思う。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)


***


小林武史との濃密なコラボレーションをやり切った直後、サザンは中国は北京にて海外コンサートを行う。そういえば海外に向けた活動について、その後桑田の意向はどうなっていたのか。次回はそのあたりを追っていく。


2025年1月25日土曜日

1991 (3):雨が魔性の夏を告げる


原由子のソロアルバムとSuper Chimpanzeeのシングルがリリースされた合間の91年7月、サザンオールスターズの1年ぶりのニューシングル「ネオ・ブラボー!!」もリリースされている。

追って開催されたスタジアムツアー「The 音楽祭 1991」の先行シングルにあたる立ち位置で、ライブ映えする景気のいいサザンロック…風ではあるのだが、歌詞の内容は世を憂う暗めの内容が綴られている。並行して活動していたSuper Chimpanzeeのように反戦に特化しているわけでもないが、作詞家・桑田のモードが世相の鏡にならざるを得ないような状況になっていたということか。猫に小判スタジオを拠点としレコーディングされたという意味でも、両者は通ずるところがある。


***


90年の『Southern All Stars』以降、サザンの活動はインターバルを置きつつの周期になり、どちらかというと各々ソロをメインとして活動していく…という予定になっていたようだ。アルバム制作中の89年に解散疑惑を追った『週刊明星 1989年7月6日号』(集英社、1989では、解散説を真っ向否定するA&R高垣健のコメントが載っているが、あわせてさりげなく語られているのは新譜リリース後のサザンは2、3年に一度、LPを出しツアーをやることになる…という、当時としてはかなりペースを落としての活動形態を予告するものであった。アルバムリリース時の『エニイ 1990年1月17日号』(彦書房、1990)では、来たる90年代について6人がそれぞれインタビューを受けているが、先の話はソロアルバムや新たなバンドについての話ばかりである。

そういえば88年の「大復活祭」では、バンド演奏のクオリティから、その次のコンサートで全て終わりにしようとしていたと松田が語っていた。「次のコンサート」というのは『Bridge 2001年8月号』(ロッキング・オン、2001)の桑田・吉井和哉対談などからおそらく90年春のツアー「夢で逢いまShow」だと思われるが、「ところが、そう決めてやったコンサートが、これが、すっごく良かったんです。ああ、これならまだやれるよって」(『R&R Newsmaker 1992年10月号』ビクター音楽産業、1992)ということで事なきを得たようだ。

そしてその後はというと…サザンとしてのシングル「真夏の果実」そして企画盤『稲村ジェーン』、90年末の年越しライブを経て、91年もシングル1枚とはいえリリース、スタジアムツアーもきちんと開催。結局サザンは大きなインターバルを開けることもなく、活動を続けていくのであった。


***


このシングルから、関口和之がサザンの活動を停止する。ファンクラブ会報における当時の通知では、循環器系のトラブルでライブ等の体力消耗の激しいものは1年ほど不参加(『代官山通信 Vol.34』サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)…ということであった。しかし、活動停止はこののち数年に及び、また復帰するまでのスタジオレコーディング作品も関口のクレジットは常にあるものの、他ベーシストのクレジットもあったり、さらには実際のベースのタッチなどから、参加してはいないようである。実のところ、大成功するサザンについて自分の中で折り合いがつかず、精神的なバランスをとりづらくなり活動を離れることになった…という状況であったことをのちに関口は明かしている(『ハワイアン・ミュージックの歩き方 アロハな音楽にであう旅』ダイヤモンド社、2009)

「ネオ・ブラボー!!」シングル盤では関口のクレジットもありつつ、『稲村ジェーン』『Mother』で活躍を見せた根岸孝旨がゲストとしてベースにクレジットされている。根岸はこのシングルのスタジオレコーディングのみならず、ツアー「The 音楽祭 1991」に出演、ライブでも存分に自身のスタイルを披露。関口不在の間、サザンのライブを支えていくことになる。


***


さてこのシングル、この時期にしては(原由子ソロ・Super Chimpanzeeと比べて)珍しい体制で製作されたようだ。当時のアレンジの要ともいうべき小林武史が参加しておらず、編曲も「Southern All Stars」と、バンド単独の表記である。プロデューサーやエンジニアの記載は無い。

ゲストはキーボードに片山敦夫、ベースに前述の根岸。さらにいつもの角谷仁宣と、カップリング曲のハーモニカに八木のぶおがクレジットされている。片山は白井貴子&クレージーボーイズや今野多久郎・河内淳一らのSTR!Xに在籍、90年のライブ「夢で逢いまShow」からサザンのライブのサポートで参加し、本作が桑田関連のレコーディングでは初クレジットとなる(90年、S.A.S Projectの録音には参加)。アレンジに名前はないので、小林武史や門倉聡とは若干異なり、あくまでキーボード・プレイヤーとして迎えた…ということのようである。

そんな体制で制作されたシングルは、「女神達への情歌」以降の緻密な音作りに比べると幾分風通しがよい印象がある。ここまでのキーボードプレイヤーを中心とした音作りからいったん離れ、どのようなアプローチが可能か試してみるといった意味合いもあったのかもしれない。結果的に両面とも、比較的リラックスしたギター主体のサウンドになっている。

「ネオ・ブラボー!!」は70年代前半のウェストコースト、具体的にはTom Johnstonが仕切っていた頃のDoobie Brothersの雰囲気のトラックに、桑田のスライドギターが絡む一曲だ。いわゆるサザンロックへの直球の回帰ともいえ、松田や大森、野沢等ののびのびとした雰囲気も感じることができる音造りに聴こえる。加えて根岸のベースは疾走感満載で、関口とはまた味わいの異なるプレイが堪能できる。そしてオールディーなカスタネットやグロッケンといったあたりで、ポップな方向に味を整えている。

しかしどうにも突き抜けてこない雰囲気があるのは、歌詞のせいだろうか。歌われるのは、すでに歌詞にこだわりを見せていた時期の桑田としても珍しい、退廃した人類・物質文明の様々な課題、温暖化・原発・不眠・ストレス・カルト…などを描写しつつ、生命のメビウスの輪をメインのテーマとして盛り込んだというSF的・難解な内容である。『代官山通信 Vol.33』(サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)では、歌詞についてのみの桑田本人による長文解説が載せられている。TBS系「筑紫哲也 News23」タイアップのため、詞を書く段階でその辺りを意識した可能性もある。軽快なサウンドが重い歌詞に若干引っ張られた感はあるかもしれない。

カップリングの「冷たい夏」はアコースティックギターを主体に大森によるラップスティール、前述の八木のハーモニカをフィーチャーした、シングルのカップリング曲とはいえ圧倒的な存在感のあるミディアム・ナンバーである。桑田のダミ声ながらぐっと抑制されたヴォーカル、そしてファルセット、さらにA面とはまたスタイルの異なる根岸のベースなど、色気がそこここに溢れている。A面以上にリラックスして書き下ろしたのが功を奏したのか(おそらくライブも想定せず、単なるB面用の曲として作ったと思われる)、「隠れた名曲」というのにふさわしい出来栄えだろう。


***


スタジアム・ツアー「The 音楽祭 1991」はセットリストが1回につき36〜7曲・3時間と、それまでのサザンとしてはかなり長時間の豪華なライブであった。桑田によると、新曲がない分を物量でカバーするという発想だったようである。

「今回ニューアルバムも出てないのと、「ネオ・ブラボー!!」っていうのはコンサートを意識して作ったシングルだったんですけど、新曲という意味ではあまり数がなかったんで、それを克服する意味でも、とにかく物量作戦で行こうと思いましてね。」
(『代官山通信 Vol.35 Nov. 1991』サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)

そのいっぽう、過去の曲で一大イベントを行なってしまうことについて、メタ視点から自身を含めて冷ややかに眺めてしまうというのも「大復活祭」から相変わらずである。

「過去の曲をやって、客と予定調和みたいに盛り上がるっていうのも、ある意味で古いものに自分たちを追い込んでしまうっていう危機感も持ったんですよね、実際やってて。だから、サザンのチケットが取れないっていうのも、そこまでチケットが売れるってことは僕らにとって凄く嬉しいんだけど、これは今のサザンじゃなくて、2〜3年前、もしくはそれ以前のサザンっていうものの幻影をね、チケットを求める人間が覚えててくれるっていう割合も多いと思うんだよね。でも、時代は僕らが思ってるよりも早いスピードで変わってるんだなと思ったから、客は、“現在”を観に来てるんだっていう厳しさを持ってて欲しいし、僕らも持っていかなくちゃって思うしね。だから、今回のコンサートはやっぱり一過性の物であって将来につながるものではなかったという結論なんだけど。」
(『代官山通信 Vol.35 Nov. 1991』

再び、「新しいこと」をやらなければならない、そういったモードにシフトしていくタイミングだったようだ。


***


91年後半のことを、Super Chimpanzeeのメンバーでもあった小林武史はこう述懐している。

小林武史「スーパー・チンパンジーが一段落ついてサザンをどうするのか。やるつもりなんだけど、まだ何も見えてないという桑田さんの話だった。ぼくもちょうど大貫妙子のレコーディングでニューヨークに行こうという時期で、ぼく自身ニューヨークのほうでも活動してみたいという理由もあった。そんな話をずっとしてて、「とにかくニューヨークに連絡するよ」ということになったわけ。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)

小林は相変わらずニューヨークでの活動を志向していたようで、大貫妙子のプロデューサーとしてSuper Chimpanzee後にも渡米している。『キーボード・マガジン 1992年3月号』(リットーミュージック、1992)の大貫・小林インタビューによると9月20日ごろから10月11日まで大貫用のNYレコーディングだったとのことで、このあたり米国に滞在していたようだ。このレコーディングは、角谷仁宣と小林で作った打ち込みのベーシックを持ち込み、NYのミュージシャンでセッションし完成させる…という手法で制作されている。小林の当初の意向でTony LevinとJerry Marottaを起用する、というところから、Jerry Marottaの推薦でTchad Blakeが録音を担当(小林いわく「凄くいいエンジニアだったんだよね〜」とのこと)。録音はBattery Studio、Marathon Recording、Sound On Sound、Clinton Recording Soundと、複数のスタジオを試している。「中でもバッテリー・スタジオにはヴィンテージもののアナログ機材が入っているということを聞いたので、特にあそこを選びました」とは大貫の談『サウンド&レコーディング・マガジン 1992年3月号』リットーミュージック、1992)。アルバムは日本で歌入れ後、『Drawing』のタイトルで92年2月にリリースされた。

大貫のNYセッションが完了するのと時を同じくして、とりあえず日本に来てほしいとの桑田の要請もあり小林は帰国。サザンのアルバムということでもなく、デモテープを作りたいとのことで猫に小判スタジオで作業が開始される。

小林「スタジオに入った最初の日にね、今日は何の曲をやろうかってふたりでしどろもどろしながら話してたらね、いや実は毛ガニのシングルを作ろうかと思ってんだという話になった。大竹まことさんなんかとデュエットしたらおもしろいんじゃないかって企画で、なんのこっちゃという感じだったんだけどね。それがこのアルバムで原坊が歌ってる「ポカンポカンと雨が降る」なんですけど。仮歌で“ポカン……”のフレーズが出てきて、ぼくはニューヨークから帰ってきたばっかりで「なんだよ、歌謡曲じゃねぇか。桑田佳祐ピーナッツ路線。もうわかってる」から、最初はけっこうガッカリしてた。ただアレンジしてるうちに変わってきて、何となくムードもよくなってきてね。そうしたら桑田さんが「そういえば毛ガニに歌わせたらすごく音痴だったことを思い出した」みたいなことを言い出して(笑)。やっぱり毛ガニはやめよう、原坊がいいと思うんだという話になったところから、要するにサザンのレコーディングに切り替わったんだよね。桑田さんなりの照れもあるんだけど、正面切ってあたまから「サザンオールスターズのアルバムに今日からかかりたいと思います。一曲目はこれです」というのはやっぱり相当つらいんだろうし、あの人らしい話なんだけど。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

相当に曖昧かつ強引な引き込み方だが、とにかく野沢をダシになし崩し的「風」に、小林武史を作業パートナーに迎えたレコーディングが開始される。最初に取り上げられたのが小林の語るとおり「ポカンポカンと雨が降る」となる曲であった。続いて「Hair」となる曲が取り上げられる。

小林「他のメンバーの参加するタイミングの話になって、「いや、まだそこまで俺は考えてないんだ。あくまでもデモテープといって始めたものだから」と桑田さんは言ってた。「HAIR」の終わり頃に、明らかにしなきゃだめだという段階がきたんですよね。で、今回のレコードはサザンとして作っていきたいと。でもレコーディングに関しては、いままで必ず用があってもなくてもみんな集まってやってるんだけど、今回に関しては桑田さんとぼくを中心にしたチームで進めていって、そうしたうえでメンバーを呼んでレコーディングするという形にしたいということになったんですよ。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

こうして「猫に小判スタジオ」を拠点とした、桑田と小林によるサザンオールスターズの宅録密室芸アルバムの制作が正式に始動する。


2024年11月30日土曜日

1991 (2) : 平和の祈りをこめて - Live Peace In Beijing 1991

原由子『Mother』のセッションが佳境となる90年3月24日・25日・26日、プロデューサーの桑田はレコーディングの中核メンバーであった小林武史、小倉博和、佐橋佳幸、角谷仁宣らを召集し、急遽ソロライブを開催する。「Nissin Power Station Acoustic Revolution」と題されたライブが3日間、新宿は日清パワーステーションにて行われた。上記メンバーに加え、ヴァイオリンに中西俊博、ドラムに元ARBのKeith、コーラスに前田康美・当時Hannaの倉本ひとみを迎えている。

このライブはこの時期にしては珍しく一切オリジナル曲を取り上げず、洋楽のカバーのみで構成されていた。セットリストは以下のとおり。

1. What A Wonderful World (Weiss - Douglas)
2. You've Got To Hide Your Love Away (Lennon - McCartney)
3. Proud Mary (Fogerty)
4. Born To Be Wild (Bonfire)
5. Easy Now (Clapton)
6. Dance with Me (J. & J. Hall)
7. Heart Of Gold (Young)
8. Tight Rope (Russell)
9. I Saw The Light (Rundgren)
10. Starman (Bowie)
11. Sunshine Of Your Love (Bruce - Brown - Clapton)
12. Stairway To Heaven (Page - Plant)
13. Smile Please (Wonder)
14. Mother And Child Reunion (Simon)
15. I'm Not In Love (Gouldman - Stewart)
16. A Day In The Life (Lennon - McCartney)
17. The Times They Are A-Changin' (Dylan)
18. Blowin' In The Wind (Dylan)
19. Summertime Blues (Cochran - Capehart)
20. Hello, I Love You (The Doors)
21. Paint It, Black (Jagger - Richard)
22. Telegram Sam (Bolan)
23. Oh, Pretty Woman (Orbison - Dees)
En. 1. Rain (Lennon - McCartney)
En. 2. Don't Worry Baby (Wilson - Christian)
En. 3. End Of The World (Dee - Kent)

なにしろ伸び伸びとカバーを楽しむ桑田の歌と、佐橋と小倉による、アコースティック/エレキギターやラップスティールのみならずバンジョー、マンドリンなど多彩でハイレベルな演奏、そして両者のハーモニーまで聴けるのが魅力のライブである。また、何曲かではキーボードを弾きながら同時に(ある意味でトレードマークである)グロッケンを叩く小林武史を見ることができるのも面白い。

「Dance With Me」までは佐橋と小倉を従えたアコースティック・トリオでの演奏。「Heart Of Gold」から中西が登場、「Tight Rope」から小林が合流。アコースティックとはいっても小林はシンセを弾き、「I Saw The Light」から佐橋はエレキに持ち替え。「Stairway To Heaven」でKeithが登場するがKeithのドラムはこの1曲のみで、以降は角谷のマシンによるドラムで展開、前田と倉本も合流。「A Day In The Life」では終始世界各所の日常映像が流れるが、終盤のストリングスが上昇するところで唐突に飛行するB29の映像に切り替わり、最後のコードでキノコ雲が映し出される。

佐橋がエレキをマンドリンに持ち替え、「The Times They Are A-Changin'」「Blowin' In The Wind」とBob Dylanコーナーに突入。Douglas MacArthurが厚木に降り立つところから戦後の混乱する日本、安保闘争、オイルショック、そしてベトナム戦争…最後に東京大空襲の映像が流れる。

ここで空気が打って変わり、再び登場したKeithによるエレドラをフィーチャー、佐橋・小倉もエレキに持ち替え「Summertime Blues」に突入。ここから本編ラストまで完全にアコースティックではなくなるのがタイトルに偽りありで面白い。「Rain」からはアンコールでドラムレス、佐橋小倉コンビもアコギの体制に戻る。

「でも意図的に入れたのは頭の「What a wonderful world」とラストの「End of the world」、それにディランの2曲だけだよ。ああいう世界情勢に対して無口にならざるを得ない日本人の体質にね、こういう禅問答みたいな歌が合ってるような気がしてさ
— ベトコンの兵士が銃殺されるシーンのニュースフィルムをスクリーンに映したりしてましたね。
「フォークゲリラの頃だったら、例えば「風に吹かれて」を日本語に訳して歌うことで説得力を持たせていたでしょ。いまの時代なら、英語の原詞に映像をプラスすることであの歌が持ってる意味合いを客と共有できるんじゃないかと思ったわけ。」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』ぴあ、1991)


***


90年8月、イラクがクウェートに軍事侵攻。そのまま撤退しないイラクに対し、アメリカを中心とする多国籍軍が攻撃を開始したのが91年1月。いわゆる湾岸戦争の勃発である。アメリカにとってはベトナム戦争以来の大きな戦争への参加であった。また、リアルタイムで空爆の様子が中継された初めての戦争でもある。もちろんその映像は日本でもさかんにテレビ放送された。

湾岸戦争勃発当時、桑田は原由子ソロアルバムのプロデュース作業のかたわら、テレビから流れる戦争の映像を見ていたようだ。

「あの頃はちょうどハラ坊のアルバムをつくってる頃でね。プロデューサーつっても基本的におれは見てるだけだから、欲求不満がたまってきちゃってさ、おれも歌いたいよぉという。人恋しくなるのよ。ダイレクトな反応がほしくなる。それとね、湾岸戦争ってことがあるね、ひとつ理由として。
「小林(武史)くんたちと毎日スタジオで顔つき合せてるじゃない。で、話すことといったらフセインのこととか90億ドルのこととか、海部さんてのはいい人なんだけどいじめられやすいキャラクターだなとかね、そんなのばっかり。ハラ坊はハラ坊でニュース見て暗い顔してるしさ。そういう情報とともにいろんな感情がもやもやっと渦巻いてね、その気分を正直に現そうと思ったらライブやるしかないな、と。まあ、そのへんのつながりはうまく説明できないんだけど。」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』)

また、当時はこの小林・佐橋・小倉らで、レコーディングやリハーサル等を行うのみならず、自宅スタジオ付きである桑田の自宅をたまり場にしていたようである。
佐橋佳幸「仕事も一緒だし、仕事が終わったら一緒に桑田さんちに飲みに行く(笑)。桑田さんの家には小さいスタジオがあってね。みんなで飲んだり食べたり、くだらない話をしたり、桑田さんが作った曲とかデモテープなんかも聴かせてもらったり…。夜な夜なワイワイやってたの。まだインターネットもない時代だったからね、お酒飲みながら桑田さんとかみんなが “あの曲、なんだっけ?” みたいなことを言いだすと、オタク担当の僕が Google 代わりになって答えたり、桑田さんに言われた曲をオグちゃんと一緒に弾いたり(笑)。そんな感じだった。あの頃、仕事が終わると桑田さんちか小林さんちかどっちかにいたなぁ。まだ独り者だったし、まず家には帰ってなかったねー(笑)」
(能地祐子 「【佐橋佳幸の40曲】SUPER CHIMPANZEE「クリといつまでも」桑田佳祐が結成した幻のバンド」 Re:minder、2023.11.25. https://reminder.top/646962821/

そして原由子のアルバムと桑田のライブをきっかけに、佐橋と小倉は接近。ギター・デュオ「山弦」はここから誕生する。
佐橋「桑田さんはビクター・スタジオで原さんのミックス作業をやりながら隣のスタジオでパワステのリハをやってた。だから、両方に関わっていた桑田さんと小林さんはふたつのスタジオを行ったり来たりしていて。そうすると、リハのスタジオに桑田さんと小林さんがふたりともいなくなっちゃったりするでしょ。僕とオグちゃんは時間が空くよね。それで、その時間ずっとふたりでギター弾いて遊んでいたの。そのうちだんだん、“これ、なんかよくね?” みたいな感じになっていって。それが、後の山弦へとつながっていくんです」
(「【佐橋佳幸の40曲】SUPER CHIMPANZEE「クリといつまでも」桑田佳祐が結成した幻のバンド」

山弦の胎動と並行して、桑田もこのメンバーを、3月のライブの一度きりではなく、自身の新たなグループにまとめようとしていたようである。ライブの模様は直後の4月14日にWOWOWで放送されているが、桑田は編集中であった映像をメンバーといつものように?酒を飲みながら視聴。冗談とも本気ともつかないグループ名を命名する。

「もとを正せば、ちょうどアコースティック・ライヴのヴィデオ編集をしてて、夜遅くなったんだよね。で、手持ちぶさたなんで、小林君や小倉君と酒を呑んじゃったんです。その時はライヴの映像を見てるから盛り上がってるでしょ?イイよねー、これはイイよ。これはもう海外へ持って行けるんじゃないか?みたいなさ、自惚れも含めて、酒呑んでるもんだから、皆、気がデカクなってるんだ。グループ名も「スーパー・チンパンジーという名前があるんだ」って俺が言ったら盛り上がって、「電気セーターズはどうだい?」なんてさ。皆「それがいい、ウワーッ」とか言っちゃって。ステージでの俺の動きなんか見ても、やっぱりマトモじゃないでしょ?「ブルース・スプリングスティーンみたいじゃないし、ロッド・スチュワートにもなれないから、日本ザル的なイメージで、でも洋モノを超えたという意味で、日本ザル=スーパー・チンパンジーだぁ!」なんてね。下が滑らかになってますから(笑)。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)


***


ライブから3ヶ月後の7月2日、桑田は小林・小倉・今野多久郎(佐橋はスケジュールの都合上不参加)を引き連れ中国は北京に向かい、再びアコースティック・パフォーマンスを行う。

湾岸戦争を契機に始まったソロ・プロジェクトで、なぜ中国・北京に訪問することになったのか。どうも源流は、事務所アミューズのビジネス的な観点からの意向があったようだ。

この91年、香港の広東語ポップス(カントポップ)界の大スター、張学友(ジャッキー・チュン)の「每天爱你多一些」が収録された『情不禁』が1月にリリースされ、全中華圏でヒットする。

ここに紹介する『情不禁(抑えきれない心)』は1991年にリリースされた通算17枚目のアルバムで、1985年のデビュー以来コンスタントに作品を重ねてきた彼が全中華圏で大ブレイクするきっかけとなった楽曲「每天愛你多一些」(A-3)を収めるヒット作だ。
(略)
中華圏では知らぬものはいないと言われる上述のメガヒット曲「每天愛你多一些」だが、一聴してもらえればすぐに分かる通り、サザンオールスターズの「真夏の果実」を広東語でカヴァーしたものだ。彼はここで、日本でも国民的なヒット曲として知られる同曲を、情感いっぱいに歌い上げている。その朴訥とした味わいはオリジナルとは一味異なる儚さと切なさを感じさせるもので、歌手としてのジャッキー・チュンの卓越した個性が表れた名カヴァーといえる。
(柴崎祐二 「【未来は懐かしい】Vol.48 蘇る黄金期カントポップ サザンオールスターズの大ヒット・カヴァーを収めた「歌神」の代表作」 TURN、2024.4.15. https://turntokyo.com/features/serirs-bptf48/

思わぬタイミングに全中華圏で「真夏の果実」のカバーが大ヒットしたのである。ここでアミューズはすかさずアジア圏でアルバム『稲村ジェーン』をリリース。アミューズ香港を設立し、日本の作品の展開のほか、香港のミュージシャンの日本進出等も手掛けるようになる(その後90年代末にいったん香港法人は閉鎖、2012年に改めて進出したようだ)。

まずは、北京行きのきっかけだが、知る知ぞ(引用者注:原文ママ)知る情報の1つとして、少し前、ジャッキー チョンという人が「真夏の果実」を歌い(もちろん現地語)連続5週にわたり第1位を飾ったのだが、それに気をよくしてかどうかは定かではないが、7月8日アジア9カ国で「稲村ジェーン」のアルバムが発売された
(『代官山通信 Vol.35 Nov. 1991』サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)

— (引用者注:北京訪問について)しかし、ビジネスにはしたくないとはいえ、現実にはアジア8カ国でリリースされたんでしょう、「稲村ジェーン」のアルバムが。
「……おれはイヤだったんだけどねえ(と、マネージャーのほうを見る)。ジャケットもオリジナルとは違うし。まあ、アミューズ香港なんて会社もできちゃったから、しかたがなかったというしかないんだけど。おれとしては日本人としてフェアにね、音楽だけで彼らとつきあって、田んぼ耕して井戸掘ってみたいなところから始めないと実感わかないんだよ」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』ぴあ、1991)

なぜ北京なのかというところははっきりしないが、アミューズとしてはビジネスチャンスを広げるという意味で香港の次なるターゲットが中国本土だった可能性もある(桑田一行の4人は北京7泊ののち、香港でも2泊している)。小林武史は「中国へある番組で行って、ゲリラ的にライブを行いましたね。」( 「中西健夫ACPC会長連載対談 Vol.36 小林武史(音楽プロデューサー)」 ACPC Navi Summer 2024、2024.7. https://www.acpc.or.jp/magazine/navi_issue.php?topic_id=379)と語っており、とするとTBS系「筑紫哲也 News23」のサザンシングルのタイアップをきっかけにした連動企画として、北京に絡めたという側面もあったのかもしれない。

「湾岸戦争で“戦争をやると思わなかったのは日本とフセインだけ”みたいな意見があったけど、俺は「あっ、そうなのかな」って思った。予測と、現実にTV画面から出てくる映像がジョイントできない。そんな時に、たとえば日本のロックとか僕らがいるところなんかをいろいろ考えていたら、とにかく居てもたっても居られないというような感じがしちゃって。で、中国の話が来たんで、スーパー・チンパンジーは、皆、乗ったんです。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

桑田一行は、天安門広場や万里の長城を訪れゲリラ的にストリート・パフォーマンスを行う。ここではDylanナンバーや、こののちリリースされるオリジナル曲「クリといつまでも」を披露したようだ。今野はタンバリン、小倉・桑田はアコギ、小林はアコーディオン…という編成。

さらには、月檀体育館 利生健康城というところで現地のバンドと対バンで出演。ここでは6曲のオールド・ロックンロール・ナンバーを披露する(『With 1991年12月号』講談社、1991)。さすがにアコースティック・スタイルではなく、マシンのドラムに今野のタンバリン、小倉・桑田はエレキギター、小林はショルダーシンベという編成だったようだ。あくまでサザンではないということで、「真夏の果実」は演奏していない。


***


帰国後の8月はサザンのスケジュールが入っていたため、そちらの活動を優先。そして秋、桑田が新たなユニット・Super Chimpanzeeを結成、シングルをリリースする…という情報が伝えられる。

このユニットはサザンと同時進行で、ゲリラ的かつ局地的に発生し、サザン本体の活動にも新たな刺激を与えるビタミン剤・ニュードラッグとか。メンバーは桑田佳祐、小林武史を中心に活動内容に応じて集められるそうだ。
(『オリコン・ウィークリー 1991年9月9日号』オリジナル・コンフィデンス、1991)

ここでシングル「クリといつまでも」c/w「北京のお嬢さん」が9月26日、桑田のソロ映像作品「Acoustic Revolution」が10月2日にVHS・LDでリリース。3月のライブ時点では実際は存在していなかったが、同じメンバーということで映像作品にはアレンジ、演奏、サウンド・プロデュースとしてSuper Chimpanzeeがクレジットされている。


11月21日はシャレであることを強調するためか、A面曲のカラオケ付シングルもリリースされた。カラオケ付にはしりあがり寿による振り付けマンガ(振付:南流石)も付属している。桑田関連のシングルでカラオケが収録されるのは初。

カラオケ付はいつものVIDL-1台/税込¥930ではなく、ビクターの歌謡曲などカラオケ付シングルのナンバーであるVIDL-10000台/税込¥1,000での発売であった。オリジナルの裏ジャケットはわかりにくすぎると思ったのか、カラオケ付には収録曲と作者・アレンジャーの記載、さらに「桑田佳」の文字で誰のグループなのか匂わせている。

シングルのジャケットにおけるSuper Chimpanzeeのメンバーは以下のとおり。ただし、楽曲ごとのクレジットでは、桑田はヴォーカルのみとなっている。

Keisuke Kuwata : Vocals, Guitars
Takeshi Kobayashi : Keyboards
Hirokazu Ogura : Guitars
Yoshiyuki Sahashi : Guitars
Yoshinori Kadoya : Computer Operation

シングルにプロデュースやエンジニアの記載は特に無いが、おなじみ今井邦彦による録音だろう。

「クリといつまでも」は、ピッチを上げた桑田のヴォーカルが印象的な、直球のいわゆる春歌というものにカテゴライズされるべき曲だろう。佐橋によるウクレレと、桶tionとクレジットされた小倉のエレアコ(ヤイリギターによる、桶がボディのエレアコ・オケーションである)が楽曲全編を支えている。途中から登場するヴォリュームは控えめだが右側で咆哮しているエレキも小倉によるもの。コーラス(?)は小倉と角谷という珍しい組み合わせである。

— スーパーチンパンジーのシングルは、桑田さんの植木等的部分ですか?
「いや、むしろ「ケメ子の歌」じゃないかな。一生に一度ほんとのナンセンス・ソングを作ってやろうという気で。いまだってナンセンスっぽい音楽ってのはあるにはあるけど、なにか学生気質が抜けてない感じでおれにはつまんないの。昔だったら月亭可朝とか、水商売の香りいっぱいのヤクザっぽいのがあったでしょ。もっとも実際やってみたら難しかったけどね。楽しいんだけど、難しいという二重構造」
(『Weeklyぴあ 1991年10月10日号』)

トラックの端正さゆえか水商売っぽさは欠ける気もするが、どちらかというと童謡・民謡等の替え歌を中心に酒席等で民衆に唄い継がれた春歌・猥歌のノリでそのまま90年代/平成の世に新曲として放り込んだ…という感がある。これはこの面々で自宅スタジオなどで夜な夜な語り明かした結果なのだろうか。

カップリング「北京のお嬢さん」はソリッドな佐橋のエレキ+小倉の12弦エレキ(Primal Screamセカンドの香りもしなくもないフレーズだ)とTR-909、小林のキーボード、シンベを組み合わせた、こちらも桑田いわく、「ハズし、ウケ狙い」の一曲とのこと。歌詞は完全に北京訪問ののちに書かれたと思われる内容だ。オルガンやTR-909など、トラックは同年4月にリリースされた、アニメ「ちびまる子ちゃん」のイメージアルバム『ごきげん〜まる子の音日記〜』収録の「乙女の微笑み」の発展系という感もある。小林・角谷によるトラックで、小林が提供した一曲である。
「カップリングの「北京のお嬢さん」はね、おれんちのスタジオでやったんだけど、これは『Acoustic Revolution』の人材でね、繰り広げていった感じなんだけど。小林くんを中心に盛り上がったんだよね。コミックソング狙いなんだけどね。ウケ狙い。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)


***


シングル・映像作品リリースの勢いで、Super Chimpanzeeは年末にかけ2つのテレビ番組に出演。NHKの「プライム10 音楽達人倶楽部」では、少し志向を変えて日本のポップス・クラシックを演奏。基本的にヴォーカル以外は事前録音音源を使用したマイム演奏のようだが、「クリといつまでも」は歌もレコードと同じもの。グループ名は「Super Chimpanzeeとその仲間たち」となり、桑田・小林・小倉・佐橋・角谷に加え松田弘・根岸孝旨・今野多久郎・兼崎順一が参加。小倉や佐橋もリード・ヴォーカルをとっている

1. 蘇州夜曲(曲:服部良一、詞:西條八十)
2. 花と小父さん(曲・詞:浜口庫之助)
3. 寒い朝(曲:吉田正、詞:佐伯孝夫)
4. 悲しきわがこころ(曲:不詳、詞:萩原哲晶)
5. 逢いたくて逢いたくて(曲:宮川泰、詞:岩谷時子)
6. 見上げてごらん夜の星を(曲:いずみたく、詞:永六輔)
7. クリといつまでも

日本テレビ系「EXテレビ」では「Super Chimpanzee EX Band」として出演。メンバーは桑田・小林・小倉・角谷に加え、小田原豊・根岸孝旨・古賀森男が参加。John Lennon関連のナンバーを3曲、マイムではない演奏で披露している。

1. Across The Universe (Lennon - McCartney)
2. Mother (Lennon)
3. Cold Turkey (Lennon)


***


さて、湾岸戦争を契機に結成・活動していたSuper Chimpanzee唯一のシングルが、なにゆえ桑田一世一代の直球春歌「クリといつまでも」だったのか。

大下由祐は「クリといつまでも」が「Acoustic Revolution」からの一連の流れに属する楽曲であることを示し、ひとつの反戦歌であった可能性を指摘した。

『Acoustic Revolution』が時代に対する一つの<解答>だったとすると、
そこから派生してできた『クリといつまでも』はもう一つの<解答>だったのではないか?
誤解を恐れずにいうと、桑田作品の中で最大の反戦歌なのかもしれない。
なぜなら、これほどノー天気で平和な歌はないから。
(略)
・・・とかなんとか言っちゃって、大袈裟に書きすぎちゃったかなあ~。
実際、単なるナンセンスエロエロソングという認識でいいと思う。
歌は歌として成立するべきだし、1曲は1曲としてしか成立しえないから。
音楽に理屈はいらない。
決して『世界平和』を歌った唄ではないし。
タダのエロソング。春歌のノリで作っただけかもしれないし。
だけど、その時の背景だけ、その時の桑田佳祐の姿だけ、知っておいてもらいたい。
(大下由祐/YU-SUKE O-SHITA 「クリといつまでも」 note、2023.12.6. https://note.com/fair_oxalis36/n/nfd74c9e6c1e6

原由子も『Mother』リリース時、反戦歌とは違う形で反戦・平和を表現したいと語っていた。また、これだけの豪華なメンバーで出したシングルがこの2曲であることについて、桑田は「外し」であると強調していた。

「この2曲のバランスってスーパーチンパンジーではすごく取れてるんですよ。このメンツだからできたってところかな。音楽を突き詰めるというか、どこにもないジャンルっていうかね。ハズしですよね。」
(『月刊カドカワ 1995年1月号』角川書店、1994)

反戦の意思をストレートな表現ではなく、あえての外しで…そういった逆張り的感覚の極地として、「クリといつまでも」が生まれたということなのかもしれない。


***


大島渚がベトナム戦争中の1967年に監督した作品に「日本春歌考」というのがある。添川知道の「日本春歌考―庶民のうたえる性の悦び」(光文社、1966)のタイトルを大島が引用した作品で、庵野秀明への影響が指摘されたり、坂本龍一が大島への弔辞でフェイバリットとして挙げた一作でもある。低予算・短時間という制約の中シナリオを用意せず、俳優とスタッフでディスカッションしながら即興的に撮影されたというユニークな怪作である。

きわめて性欲的になっている学生服の男子四人組が、引率の先生(伊丹一三)に代表される先行世代の敗北感にも、ブルジョワの美少女(田島和子)に代表される同世代の偽善ぶりにもいらだちながら、全てを転覆したいアナーキーな衝動を爆発させる。春歌から労働歌から反戦フォークまで、人物たちの意志の応酬がおびただしい歌の数々によって表現されるのも大島作品ならではのことだ。想像強姦と日本民族の騎馬民族起源説が強引な力技で架橋される結末部のスパークぶりは圧巻。
(樋口尚文 「Nagisa Oshima Works」 大島渚プロダクション https://www.oshima-pro.jp/works.html

様々な立場を象徴する軍歌、革命歌、反戦歌などに対抗するように、何度も春歌「ヨサホイ節」が歌われるのがこの作品の特徴だ。作中ではベトナム戦争反対フォークソング大会が批判的に描かれている。そしてそれへの対抗として、「ヨサホイ節」「満鉄小唄」などの春歌が歌われる。

笠原芳光による同作品の評論を読んでも、どことなくSuper Chimpanzeeの活動にリンクするワードが散見される。偶然なら、面白いシンクロニシティだ。

 かつて、「日本の夜と霧」で大島が描こうとしたものは革命への志向と挫折であり、自称前衛党への責任追及であった。この「日本春歌考」もまた背後のテーマは革命であろう。だか眼前の状況はよほど違ってきている。この抑圧され、後退し、鬱結する状況を一ミリメートルでも動かすものはなにか。その可能性が春歌によって象徴されているのではないだろうか。
 さきに春歌は倫理的であるといった。それはこの映画において、さまざまの抑圧のなかでの安住と無関心が春歌をきっかけにして、動揺しはじめるからである。春歌それ自体はみじめな歌であり、自慰的な歌にすぎない。だが状況によってはそれはストレートな革命歌よりもさらに破壊的となり、ポピュラーな反戦歌よりも、もっと抵抗的となるのではないだろうか。
(笠原芳光「日本春歌考」『純粋とユーモア : 評論集』 教文館、1967)

この「日本春歌考」、91年の3月29日に松竹ホームビデオより初ビデオ化されているようである。


***


また、こんな話もある。

なお、今では人々が栗の実る季節になると思い出すともされるこの作品(引用者注:「クリといつまでも」)なのだが、意外なことに、桑田がそもそもヒントを得たのは、ジョン・レノンの「コールド・ターキー(冷たい七面鳥)」からだったという。
(小貫信昭『いわゆる「サザン」について』水鈴社、2024)

この桑田のコメントが2024年の執筆にあたって得た情報なのかどうか不明だが、これだけではなんのことやらさっぱりなので、もう少し深掘りしてみたい。

「Cold Turkey」というとJohn LennonがBeatles末期の1969年10月20/24日、Plastic Ono Band名義でリリースしたシングルである。「Plastic Ono Band」はあくまで概念的な存在であり、特に固定のメンバーを持たないバンド、という位置づけであった。

1969年9月、Beatlesのレコーディングを終えたLennonは、「Toronto Rock Revival Festival」の出演依頼を受ける。開催前日の依頼という無茶なスケジュールだったが、LennonはEric Clapton、Alan White、Klaus Voormannらを召集、オノ・ヨーコと共にライブ出演。お得意のオールド・ロックンロール「Blue Suede Shoes」「Money」「Dizzy Miss Lizzy」、Beatlesの「Yer Blues」、ヨーコの前衛感の強い2曲、そして既にリリースされていたPlastic Ono Bandの「Give Peace A Chance」に加えて新曲として披露されたのが「Cold Turkey」であった。

その直後、「Cold Turkey」はスタジオ録音され、翌10月にシングルリリース。ライブの模様も70年1月に『Live Peace In Toronto 1969』のタイトルでリリースされている。


この『Live Peace In Toronto 1969』、10代の多感な時期、流行りのニューロックに馴染めず、T. RexやDavid Bowieに救いを求めていた桑田が衝撃を受けた作品として挙げている。もともとバンドをやろうとしたきっかけもこのLPにあるようだ。

「それからさ、ジョン・レノンがカナダのトロントでやったライブ盤があるじゃない。『平和の祈り』だっけ?プラスティック・オノ・バンドの。あれがまたショックだったわけ、俺には。だって、まずクラプトンでしょ。クリームのエリック・クラプトンと、イエスのアラン・ホワイトと、それからクラウス・ブーアマンがジョン・レノンと一緒にやってるんだよね。ニュー・ロックの連中がビートルズのレノンと。で、やってる曲はいったい何だっつうと、「ブルー・スウェード・シューズ」でしょ。ロックンロールでしょ。ショックですよ、これは。
 でね、歌ってみたわけ、俺。レコードと一緒に。「ブルー・スウェード・シューズ」。そしたら歌えるんだ、これが。♬ジャージャ!ウェリッツァ・ワンフォーザマニー……って。歌えんだよね。あ、これがバンドだ、と思ってさ、で、よし!とにかくギターのうめえやつ捜そう、とか思ったりしたの。」
(桑田佳祐『ロックの子』講談社、1985)

1973年10月、鎌倉高校に通っていた宮治淳一から文化祭の出演バンドを探しているという話を聞いた鎌倉学園3年生の桑田は、まだバンドをやっていたわけでもなく、さらには他校の文化祭にもかかわらず、強引に出演を交渉。ここで出演したバンドが桑田の初バンド、初ライブパフォーマンスになるようである。

 大トリを任された桑田たちだったが、ひとつ前の演者として茅ケ崎北陵高校の実力派が、矢沢永吉率いるキャロルの「レディー・セブンティーン」を軽快に歌い、観客を熱狂させていた。完全に萎縮。「負けるものか!」と向かったが、すでにメインは終わったと、教室はガラガラだった。
 その差は歴然。しかし、そんな様子を物ともせず桑田は「69年の(カナダ)トロントライブで、ジョン・レノンがやったみたいに、即興でやろうぜ」と舞台に立った。
 「マネー」などを歌う桑田に、宮治は「音楽はむちゃくちゃだけど、本物が現れた」と身震いがした。
(「音楽プロモーター 宮治淳一(62)× 歌手 桑田佳祐(61) 縁のものがたり@砂交じりの友情 茅ケ崎が生んだ2人の音楽少年」 カナロコ/神奈川新聞社、2017.9.13.

ここで取り上げられた曲のうち、判明している2曲が「Blue Suede Shoes」「Money」である。桑田の人生における初バンド・ライブは、『Live Peace In Toronto 1969』の再現であったのだ。

そして91年、北京での演奏でも、「Blue Suede Shoes」は取り上げられている。「Be-Bop-A-Lula」「I Saw Her Standing There」「Slow Down」など、やはりオールド・ロックンロールを中心とした選曲だったようである。ここに「クリといつまでも」を加えている。

「何か日本以外の場所でオールド・ロックンロールを演りたいって気持ちがずっとあったんで、夢がかなったような気分で…駄目でしょうか?(笑)
 やっぱりオールド・ロックンロール、ロックの原型みたいなものは、僕にとって不滅のものなんですよ。酒呑んでも真面目な顔して演ってもいつでも新鮮なのは、「ビー・バップ・ア・ルーラ」であり「ブルー・スウェード・シューズ」なんだ。あのー、ジョン・レノンがトロントに行って演ったのがあったでしょう?「ブルー・スウェード・シューズ」で始まる“ピース・イン・トロント”か。あれなんかは僕にとっては何かこう“人生の標語”なんですよ。振り返ってみれば、僕なんかでも節目節目で必ずロックンロール演ってる。文化祭で初めて人前に立った時からずっと……。
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)

北京でのライブは、自身のバンドに対する初期衝動の再確認とともに、平和への祈りを込めた音楽活動としてのPlastic Ono Bandのトレースだったようにも見える。桑田にとってPlastic Ono Band的な概念としてのバンド、流動的なメンバーを擁するソロ活動用の名義がSuper Chimpanzeeだったのかもしれない。

「クリといつまでも」に話を戻すと…「Cold Turkey」との共通性というとあまり明確なものは見つからないが、楽曲のシンプルな構成(最初のヴァース8小節を2回繰り返し、コーラスになだれ込む)は類似しており、コード進行も「Cold Turkey」をもとに幾分複雑にしたような感もある(「幸せ願えば」付近でシンクロする)。また、平和活動の流れのバンドのシングルではあるが全くそういった方針を感じさせず、かつ放送禁止扱いを受けそうな歌詞…というのも共通点ともいえなくはない(かたやドラッグの禁断症状、かたやクリとトリとリスがテーマである)。

この会合では今後のビートルズの活動について話し合われ、次のアルバムは3人で4曲ずつとリンゴに2曲程度という均等配分の案が出た。
また、ジョンがクリスマス期のシングル発売を提案したが却下されている。
このシングル曲がコールド・ターキーだったのではないか。
クリスマスに普通に連想するターキーという言葉を使いながらドラッグ禁断症状についての曲というのがジョンらしいが、このシャレはポールとジョージには受け入れられなかったようだ。
ジョージはこのあとのトロント・ライブに誘われたときにも断り、この曲の初演に参加しなかった。

意図したかどうかはともかく、季節もののワードを扱いながら一般的な連想との落差が凄い、という嫌味なセンスも共通点となるであろう。

Plastic Ono Bandは70年代のLennonのソロ作品のほとんどに大なり小なりクレジットされている(Plastic Ono Band with The Flux Fiddlers、Plastic Ono Band With Elephants Memory And The Invisible Strings、The Plastic Ono Band With The Harlem Community Choir、The Plastic U.F.Ono Band、The Plastic Ono Nuclear Band、など…)。Super Chimpanzeeは結果的には91年限定の活動となり、「音楽達人倶楽部」で「Super Chimpanzeeとその仲間たち」、「EXテレビ」で「Super Chimpanzee EX Band」としての出演までで活動は途切れてしまう(最後の曲は「Cold Turkey」であった)。92年以降、桑田のソロ活動においてこの名義で新譜をリリースすることはなかった。

後年、桑田は自身のソロ活動名義が多彩である(嘉門雄三&Victor Wheels、Kuwata Band、Super Chimpanzee、桑田佳祐& The Pin Boysなど)理由について、Plastic Ono Bandへの憧れ、影響であろうと語っている桑田佳祐ポップス歌手の耐えられない軽さ」文藝春秋、2021)。ただし、当時の状況からするとこのSuper Chimpanzeeこそが意図的に(1969年の)Plastic Ono Bandをフォローする存在として動いていたように見える。


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91年は原由子のソロアルバム・ライブ、そして桑田のライブ「Acoustic Revolution」から始まったSuper Chimpanzeeの濃密な活動の合間の夏、サザンのシングルのリリースとスタジアムライブも行われている。次回はそのあたりから見ていきたい。



2024年9月28日土曜日

1991 (1) :"Mother" Of Love

90年秋、桑田の自宅地下に「猫に小判スタジオ」が竣工。最初の録音は、8年ぶりとなる原由子のソロアルバムであった。

原のソロ楽曲は87年以降断続的にリリースされている。アルバムについてもシングルが出るたびに言及されてきたが、原自身の子育てや、プロデューサー・桑田が自身のソロやサザン〜映画撮影などで時間が取れなかったのか、着手は延び延びになっていたようである。自宅スタジオが完成し、移動しなくてもレコーディングが可能になったというのも大きいのかもしれない。

原由子「そのー、時間的制約もあって、集中してね、アルバムレコーディングするっていうのが、できないんです。でもやっぱり、いつか形としてLPっていうものにね、したいっていうのがあるんで、少しずつ作りだめしてるっていうか、唄いだめしてるっていう感じで…それで、2〜3曲ずつレコーディングっていうのが私のソロは一番やりやすいんで、それでまた今回(引用者注:シングル「ためいきのベルが鳴るとき」)もシングルになっちゃったんですけど、いずれはまとめてアルバムにしたいなっていうのが希望です。」
(『代官山通信 号外 1989年第2号』サザンオールスターズ応援団、1989)

87年以降リリースされた原のソロ作品は以下のとおり。珍しい原・桑田の共作「ガール/Girl」、桑田作「ためいきのベルが鳴るとき」以外はすべて原本人による作曲である。

「あじさいのうた c/w Tonight’s The Night」(1987.8.21.)
Produced by Keisuke Kuwata
Arranged by Keisuke Kuwata, Takeshi Fujii

「ガール/Girl / 春待ちロマン」(1988.4.21.)
Produced by Keisuke Kuwata
「ガール/Girl」
Arranged by Takeshi Kobayashi
「春待ちロマン」
Arranged by Hiroyasu Yaguchi, Satoshi Kadokura

「かいじゅうのうた c/w 星のハーモニー」(1989.4.26.)
「星のハーモニー / かいじゅうのうた」(1989.10.21. CDのみ、ジャケットのAB曲を逆転させ両A面表記で再発)
「かいじゅうのうた」
編曲:矢口博康
Engineered by 赤川新一
「星のハーモニー」
編曲:小林武史
Enginnered by 梅津達男

「ためいきのベルが鳴るとき c/w 星のハーモニー」(1989.5.21.)
Produced by Keisuke Kuwata, Takeshi Kobayashi
Arranged by Takeshi Kobayashi
Engineered by Tatsuo Umezu

『絵本とCDで楽しむピーターラビットのおはなし<第2集>』(1990.6.27.)
「キツネどんのおはなし」
編曲:門倉聡

『絵本とCDで楽しむピーターラビットのおはなし<第5集>』(1990.6.27.)
「ひげのサムエルのおはなし」
「グロースターの仕たて屋」
編曲:門倉聡

断続的に作られた作品は、特に88年以降は小林武史セクション、矢口博康・門倉聡セクションという2本の柱のスタッフによって制作されている。これは桑田ソロ〜サザンの制作体制と相互に影響を与えあっているということだろう。89年の録音・ミックスについては今井邦彦ではなく、この時点でビクターから既に独立していたベテランの梅津達男、さらに「かいじゅうのうた」は多くのミディ関連作や「ジャンクビート東京」も手がけた赤川新一が担当。サザンと比べると柔軟な体制で録音されていることも伺える。『絵本とCDで楽しむピーターラビットのおはなし』はイメージ曲のインストで、他に大貫妙子や山川恵津子らが作曲で参加。原は作曲のみで、演奏は門倉や菅原弘明に一任、「グロースターの仕たて屋」は小倉博和をフィーチャーしている。サントラ等も多く手がける門倉のセンスによるところも大きい3曲だ。「キツネどんのおはなし」で聴こえる滲んだコーラス・パッドは「ナチカサヌ恋歌」の原のコーラスの流用(サンプリング)に聴こえなくもないが、果たして…。

この流れで、門倉聡が90年に入りWinkのアレンジなどに注力していく中、『稲村ジェーン』を経た桑田は、原ソロアルバムでも継続して小林武史をパートナーに選んだということになる。ただし、88年春の時点で、すでに小林は原にソロアルバム制作の誘いとともに、自分がバックアップをすると宣言していたようだ。

原「これ(引用者注:「ガール/Girl」)は小林クンと私の最初の出会いの作品。ちょうど彼が桑田さんのソロでレコーディングをやっていて、並行してアレンジをみてくれた。この曲の作業の後に「ソロ・アルバム作ろうよ。オレに任せて」って感じで言ってくれたので、急に作ろうって気持ちが高まった。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』角川書店、1991)



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原のソロというと、前作『Miss Yokohamadult』においてはヴォーカリストとしての原の魅力を引き出すことに注力していたため、キーボードプレイヤーとしてトラック作りにはほぼ関わっていなかった。本作でもそのスタンスは変わっていない。ヴォーカルは原のキャリアの中では最も甘く艶のある時期で、ある意味さまざまなポップスを歌うのに適していたタイミングでもある。そんな原のヴォーカルに、87年の桑田のポップ・ミュージック宣言以降のスタンスをベースに、この数年の流れが反映されたサウンドが組み合わさり、バラエティ豊かな大作2枚組に仕上がっている。

翌92年、ソニーが提唱しソニー・マガジンズから雑誌「ガールポップ」が発刊されるような時代である。アイドルが廃れたJ-Pop初期における、女性シンガーものの雛形的な側面も持った2枚組ともいえよう。


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アルバム用のセッションは猫に小判スタジオが完成した90年秋以降に開始されたようで、以降の録音曲はアルバム『稲村ジェーン』同様小林武史、角谷仁宣のコンビによるトラックがベースとなっている。そして本作での初登場かつ重要なプレイヤーが、佐橋佳幸である。

佐橋は83年、Uguissのギタリストとしてエピック・ソニーよりデビュー。それ以前に高校の先輩にあたる清水信之の命を受け、同じく先輩のEPOのデビュー前のライブやデモテープ作りに携わり、80年のアルバム『Down Town』が初のレコード参加となる。84年のバンド解散後は様々なセッションに参加するようになり、80年代末には小林武史が仕切る現場に呼ばれることも多くなっていく。

佐橋佳幸「小林武史さんともちょうど、その少し前に知り合っていたんです。以前も話したけど、当時、僕はTOPという、藤井丈司さんや飯尾芳史さんといったYMO人脈が中心となって生まれた事務所に所属していて。その人脈繋がりで80年代の終わり、小林さんとも知り合うんです」
「小林さんがファーストアルバム『Duality』(1988年)を出した後かな。小林さんがアレンジする曲に僕をギター弾きとしてちょくちょく呼んでくれるようになって、仲良くなりました。ソロ作品のレコーディングや、その後のライブハウスツアーに大村憲司さんの後釜で参加したり…。あと、その頃だと鈴木聖美さんのレコーディングとか、小林さんが作編曲・プロデュースを手がけた仕事にも頻繁に呼ばれるようになって」
(【佐橋佳幸の40曲】小泉今日子「あなたに会えてよかった」名うてのビートルマニア大集合!https://reminder.top/292698159/

本作では、80年代のシングル曲を除く、90年以降のセッションのほとんどの曲のギターが佐橋によるものだ。15曲中8曲が佐橋単独のギター、加えて小倉博和と併記されている3曲も、クレジットや音から察するに佐橋の割合が大きいと推測される。多彩な楽曲たちに華麗に対応する、佐橋の万能さが窺い知れる。

そして『稲村ジェーン』から引き続き小倉博和、根岸孝旨、小田原豊らも参加。パーカッションはおなじみ今野多久郎が担当しているのも『稲村ジェーン』末期のレコーディングからの流れといえよう。

Produced by KEISUKE KUWATA & TAKESHI KOBAYASHI
Co-produced by KUNIHIKO IMAI
Recording Engineered by KUNIHIKO IMAI, HIROSHI HIRANUMA
  TATSUO UMETSU, SHINICHI AKAGAWA, SHOZO INOMATA
Remix Engineered by KUNIHIKO IMAI
  TATSUO UMETSU, SHINICHI AKAGAWA

プロデュースは桑田・小林、共同プロデューサーとして今井邦彦、さらには個別に高垣健も共同プロデューサーとしてクレジットされている。アルバム『稲村ジェーン』の延長といった体制でのレコーディングだ。桑田と小林とのコンビネーションも3年を超え、呼応関係がよりスムーズになっていったようである。
「小林(武史)クンがレコーディングに加わるようになって、もう何年も経つけど、それ以前と比べて変わったところは、アレンジのシミュレーションがいろいろできるようになったことなんだよね。だけど、最近はそういう作業も割と少なくなって、初めからかなりダイレクトに決まってきてる。最初から(曲の)敷地内にいろんなものを作ってくるしさ。何回も仮の住まいを建ててブッ壊すようなことはしない。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』)



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収録曲は桑田のペンによる曲が7曲、原のペンによる曲が10曲。小林作が1曲、原と小倉の共作が1曲、カバーが1曲と、意外と原による曲が最多収録となっている。そういった意味では、シンガーソングライター的な作品として楽しめるのも特徴だろう。原のペンによる曲は、プロデューサーソングライター桑田による、意図が明確でアクの強い曲とはまた別の魅力があることをリリース時に指摘したのはサザンのバンドメイト、関口和之である。

関口和之「とくに原坊が作った曲がいい。桑田が作った曲ってのは、“こう考えてる”というのが出ちゃうんですよ。僕なんかは聴いてると、桑田の声が聞こえてくるんだよね。だけど原坊の曲は、全体にこう、ほんのりした感じがするんです。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』)


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マシンのドラムによるRonnettes「Be My Baby」イントロを踏襲した桑田作「ハートせつなく」でアルバムは明るく(しかし歌詞は悲しく)スタート。「Be My Baby」ということでPhil Spector、いわゆるウォール・オブ・サウンドの再現かというとそこまででもなく、バリトンサックスでボトムに壁は作りつつも他は比較的あっさりとした音空間だ。桑田のBrian Wilson風ファルセットやMike Love風ベースパートなどでBeach Boysの要素も添えつつ、60年代の訳詞ガールポップ的な世界を90年代初頭に蘇らせたという雰囲気である。オールディー感あふれるトレモロギターやアコギは佐橋、的確に踊るベースは根岸、サックスはダディ柴田、パーカッションは今野。原によると、制作側はヴォーカル・ディレクションの際、竹内まりやの名を出していたようだ。
「だって歌う時に、まりやさんみたいな感じでって言われて。ぜんぜん真似できないんだけど、なるほど、こんな感じかなと思って。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
アルバムリリースの約2ヶ月前、91年3月27日にシングルとしてリリースされている。

イントロのコード進行などに笠置シヅ子「ラッパと娘」の香りを感じさせる、桑田作のジャズ歌謡もの「東京ラブコール」。左のギターはレーベルメイトであるレピッシュの杉本恭一。右にガットギターもフィーチャーされているが、こちらはもちろん小倉によるもの。トロンボーンは松本治。

「少女時代」はもともと斉藤由貴88年のアルバム『Pant』に原が提供していた曲で、セルフカバーにあたる。冒頭のコード進行からヒントを得たのか、小林は原由子版「希望の轍」といったアレンジ(メロトロン、ストリングスのフレーズ、ブラスの音色や使い方など類似要素が多い)を施したようで、オリジナルのポップであっさりとした雰囲気と比較するとかなりドラマティックな印象を与える出来栄えだ。最後にオリジナルには無かった「希望の明日へ」というフレーズも追加された。佐橋のギター、根岸のベースも同じ方向を向き、ひとつひとつのフレーズが曲の盛り上がりを増幅させている。パーカッションは今野。

89年のシングル2作のB面に収録されていた原によるペンの「星のハーモニー」は、本アルバム用のニュー・ミックスで収録(ちなみにシングル2作でもそれぞれミックス、エディットが異なっている)。抜けがよくなり、イントロの星の動きをイメージした?打ち込みのパーカッションがアルバムでは1小節おきにオミットされている。原いわく、「子どもと一緒に聴いてるお母さんを意識した」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)とのこと。アレンジは桑田がノータッチなのか、小林の単独クレジットである。89年の録音のため、角谷ではなく藤井丈司がプログラミングを担当。

桑田作、60年代後半のやさぐれGS歌謡の世界「じんじん」はアルバムリリースの3日前に先行シングルとしてリリースされている(この変則的なタイミングはどういう意図があったのだろうか)。エレキ・12弦・アコギが佐橋、小倉もエレキで参加。根岸・小田原・今野と本作の中心メンバーによる演奏に、桑田のひとりじんじんコーラスが炸裂するテンション高めの一曲である。
「これは和製のバタ臭さと申しましょうか、芸能界しか行くところがないって感じで。ちょっと整形に失敗しました、みたいな(笑)。ブルー・コメッツと美空ひばりでGSをやったりという……あとはピンキーとキラーズですかね。行き場のない人たちの集まる芸能界(笑)。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

ここで桑田・原の夫婦以外、本アルバムのプロデューサー兼アレンジャーである小林のペンによる「使い古された諺を信じて」が登場。アレンジも小林単独のクレジットだ。
原「小林クンの頭にお洒落な雰囲気というのがあって(後略)」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
お洒落ということで、小林のハネるシンベ、ワウ・クラヴィネット、そして何より左で鳴るおそらく佐橋のシティなカッティングがその雰囲気を支えている。間奏のギターソロは小倉だろうか。ドラムは小田原だが、「も一度だけ〜」の部分で一瞬ヒネったドラムパターンになるのも面白い。パーカッションでレベッカのサポート中島オバヲが参加。コーラスは前田康美と桑田。作詞のみ桑田というのも珍しい。
「小林クンの作ってきたメロディーにオレが詞をつけるそのやり方は歌謡曲ぽかったけど面白かった。原坊は仮り歌のお姉さんというか、ダミー(笑)。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

原によるペンの「Good Luck, Lovers!」では珍しくドラムに青山純を迎えている。ギターは小倉、コーラス…というか終盤でひとこと多重で歌っているのは桑田。原の当初の意図としては田舎臭いサザン・ロックがあったようだが、小林のクラヴィネットやシンベ、青山らしい重いながらもタイトなドラムなどが組み合わさり洗練された仕上がりとなっている。
原「これはサザン・ロックみたいな時代遅れ泥臭いイメージでやったんですけど、出来上がったらあんまり田舎さはなかったという。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

フジテレビ系幼児・子供向け番組「ひらけ!ポンキッキ」用に録音・シングルリリースされた「かいじゅうのうた」は89年の録音で、原の作曲・矢口博康によるアレンジ。桑田や小林はノータッチである。キーボードは門倉聡。東京ブラボーのブラボー小松、Soft BalletのサポートやShi-shonenに参加の塚田嗣人がかいじゅう風ギターを熱演。ベースは70年代からソウル系の作品(Michael Jackson「Rock With You」など)に参加しているBobby Watson。ドラムはおなじみ松田弘。松田によると、風変わりなレコーディングだったとのことである。
松田弘「ふつうはまずドラムでリズム録りをして、その上にメロディとかギターのカッティングなんかと“こうきたから、こういく”というように受け答えしながら重ねていくんだけど、今回例えば「かいじゅうのうた」では、曲全体の青写真が見えないまま、最初からドラムの細かい部分まで全部入れたんだよね。そのあとに入れたギターがもう最初から全編、グワーッとした感じの音ばかりで、これでほんとにいいのかなぁって感じなんだよ。まあそこから音をピック・アップしていって、怪獣の雄叫びっぽくしていくんだけど、なんだか摩訶不思議な作り方だった。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
さらには朝本千加、沢村充、矢口の3名によるサックスと豪華な顔ぶれによるトラックにのせ、桑田家の長男視点からの兄弟愛が歌われている。

都倉俊一&阿久悠コンビ作、ピンク・レディーのカバーである「UFO(僕らの銀河系)」。地味目のグラウンドビート風味のトラックで、ロシア語のラップをフィーチャーするなど、オリジナルに比べぐっと渋めに迫ったアプローチである。ギターは佐橋、コーラスと補作詞が桑田、Voice・補作詞としてクレジットされているラップのJadrankaはおそらくJadranka Stojaković。ユーゴスラビア出身のJadrankaは当時日本に活動拠点を移し、J.E.F.でおなじみ東芝のポップサイズからアルバムをリリースしている。
「この曲はボクの目配りから出てきたものでしょうか?“歌う電通”と言われてますから(笑)。でも二枚組アルバムのなかでカバーは絶対やった方がいいなと思って。」
「途中のラップは銀河系の彼方から来た宇宙人のつぶやき。地球人と仲良くするためにやって来たんだと。ところが地球じゃ地球人同士が喧嘩してる。もしかしたら、地球人とやらは銀河系の友だちが見てる目の前でお互いに殺し合ったりするんじゃないかってメッセージをロシア語で入れた。ちょうど湾岸戦争が始まった時期で、UFOは侵略みたいなことも連想するから、何となくそんなことを考えてた。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

1枚目の締めは「花咲く旅路」。作者の桑田によると、高田浩吉の「大江戸出世小唄」を意識して着手されたという。
「高田浩吉っぽい“土手の柳は風まかせ”というマイナーかメジャーか判然としない“転ぶ”みたいな曲を目指したんだけど、難しくてオレ作れなかったんだ。「こんぴらふねふねおいてに帆かけてシュラシュシュシュ」っていうの。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
「ナチカサヌ恋歌」の続編・延長ということなのか、同曲で聴かれた原の多重コーラスが冒頭から何度か登場。この数年のワールドミュージックブームで様々なチャレンジをしていた桑田が、原というヴォーカリストと共に最終的にこの曲に到達した…というところだろうか。佐橋のギター&マンドリン、桑田のコーラスをフィーチャーしている。90年秋からオンエアのJR東海の企業CM「日本を休もう」は当初中華風インストが流れるアニメCMであったが、すぐに「花咲く旅路」を使用したバージョンに変更。シングルカットはされていないが、アルバムリリース時すでに世間では耳馴染みの曲であったことだろう。

2枚目の1曲目は原による作曲・小林単独のアレンジ「お涙ちょうだい」。原はCarly Simon的ブルーアイドソウルの世界を意識したという。
原「高校の時、カーリ・サイモンとか好きでね。あんな、クロっぽい白人みたいなブルージーな感じが出せたらいいなぁって。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
佐橋をフィーチャーした小林のアレンジはニューソウル的な要素を、ミックスはナローでデッドながら当時のUK的、ソフィスティ・ポップ的な音色なども多少加味したような雰囲気で構築している。サックスは包国充、コーラスは桑田。どういう経緯か作詞は森雪之丞が担当している。

グラム・ロック・ミーツ・テクノといった雰囲気のトラックに、無機質なテクノ・ポップ風…というかジューシィ・フルーツでのイリア風ヴォーカルを乗せ、セクシュアルな歌詞が展開されるというミスマッチを狙った「イロイロのパー」。ギターは佐橋、ハーモニカは八木のぶお、コーラスは桑田、Voiceとして梶明子も参加。小林がキーボードと共にサンプリング・ギターとクレジットされているが、イントロの左で鳴っているカッティングの音であろうか。

本作で一番古い録音である87年リリース「あじさいのうた」は、産休・育休で音楽から離れていたシンガーソングライター原由子の復活を高らかに示した曲である。
原「この曲ができてみて、やっぱり私には音楽は必要なんだなってことがわかった。だから、記念碑的な作品です。忘れがちな思いを素直に歌にして。育児を含めて毎日に忙殺されてると、恋心とかステキな気持ちって忘れちゃうじゃないですか?」
「この曲はキーボードで作曲する時の私の特性みたいなのがあって、けっこう好きなコード進行なんですよね。だから自然にできた。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
桑田ソロ「悲しい気持ち」の前哨戦として桑田と藤井丈司の2名体制でアレンジ。原田末秋・琢磨仁・松田弘とのレコーディングで、「雨に唄えば」というフレーズも出てくる爽快感のあるレイニー・ポップスである。

珍しく原と小倉の共作である「夜空を見上げれば」は、佐橋と小倉のアコギに中西俊博・桑野聖・桑江千絵・向山佳絵子による弦楽四重奏をフィーチャーするという本作でも珍しい編成。原由子としか言いようのない優しさが全編を貫いた楽曲といえるだろう。この時期の世相を鑑みて書かれた歌詞のようだ。
原「世界や日本がこの先どうなるかわからないけど、子どもが大きくなった時にも夜空を見上げて「星がキレイだね」って言っていられる世の中であってほしいなと。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
アレンジは原・小倉・小林・桑田の連名で、加えてストリングスアレンジに中西俊博を迎えている。

「Anneの街」は原の作で、「赤毛のアン」にインスパイアされた歌詞ということである。アレンジは小林単独のクレジット。
「これは小林クンと原坊のカップリングで、お互いの繊細な部分が響き合ってる。僕はこのアレンジにはぜんぜんかかわってないです。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
コーラスも小林主体?で桑田が加わるという、異色のバランスだが不思議と曲に合っている。プログラミングは角谷でなく藤井丈司で、ひょっとしたらベーシックは80年代に録ってあったのかもしれない。途中から登場するMoogは、グロッケンと共にこれ以降の小林武史のアレンジを語る上で欠かせない存在だろう。なお、アルバムに収められたバージョンはシングルとミックスは同じようだが、歌が終わるところでフェイドアウトするショート・バージョン。そのため、この曲の大きな魅力のひとつである、何度か登場する八木のぶおのソロと佐橋のオブリの組合せのうち、歌が終わって以降の部分はシングルでしか聴くことができない。

「終幕(フィナーレ)」は歌謡調というか火曜サスペンス劇場調というか竹内まりやのマイナーもの調という雰囲気もする、原の作曲・小林アレンジの一曲。歌詞もバスが出ていくあたり、そういった雰囲気をさらに印象付けている。ドラムは小田原、ベースは味に変化をつけるためか有賀啓雄、ブラス・ストリングスアレンジは中西俊博によるもののようだ。そのため弦も中西俊博グループが担当、フリューゲルホーンは数原晋、フルートに篠原猛。

88年に「ガール/Girl」とのカップリングでリリースされたシングル曲「春待ちロマン」は矢口博康・門倉聡アレンジの春の訪れを感じさせる、シンセのスティールパンやマリンバが印象的な一曲。キーボードは門倉、サックスと珍しくギターも矢口、ベースに中原信雄、プログラミングは土岐幸男。原はこの曲についてはギターで作曲したという。
原「これはギターを鳴らしながら作曲しました。キーボードで作るとコード進行が似通ったりしてある意味自分の欠点が出ちゃったりするんで。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

イントロの小林・小倉の組み合わせから早くも印象的な、桑田のペンによる「ためいきのベルが鳴るとき」も89年にシングルとしてリリースされていた曲だ。小林の単独アレンジで、小林・小倉に加えドラムは松田弘、プログラミングは藤井丈司。ファルセットの多重コーラスは桑田。この曲も「星のハーモニー」同様アルバム収録に際しリミックスされており、すっきりしたタイトな音像に変わったほか、シングルバージョンにはあった各種パーカッションの一部や「uh...lalala...Ringin' a bell just seems to tell what's in my」部分のドラムがオミットされている。

87年にキユーピーのCMに使われた原の書き下ろしコマソンは、特に当時はタイトルも公表されず、リリースもされなかった。それが4年を経て後続部分を追加しリレコーディング、「キューピーはきっと来る」のタイトルで本作に収録となる。CM用録音ではブラス隊をメインに、ドラムもキックとブラシのみ…という編成だったが、今回は小林のニュー・アレンジ、松田弘のマーチングドラム、小倉博和のブズーキ、樋沢達彦のベース、包国充のサックス、小林正弘のトランペット、池谷明広のトロンボーンが賑やかに曲を彩っている。

原にしては珍しい、歌い込むバラード「想い出のリボン」でアルバムは締まる。エレキギターとエレキシタールに原田末秋、同じくエレキ・アコギに小倉、コーラスは桑田。こういった曲でエレキシタールが鳴るあたり、山下達郎によるフィリーソウル経由のバラードに通ずるものがあると思えば、実際桑田はヴォーカル・ディレクション時に山下を意識していたようなコメントをしている。
「(山下)達郎さん節を要求されるからね。ンン〜ンという、ンがなきゃダメだから。」(『月刊カドカワ 1991年7月号』)
山下達郎で締める、という意味では『Keisuke Kuwata』にも通ずるものがあるが、今回は竹内まりやで始めているあたり、同じ制作チームのこだわりが見てとれる。


***


91年6月1日にリリースされた本作が与えた影響として、共同プロデューサーでメインアレンジャーでもある小林武史の動向があるだろう。

このアルバムリリースの直前、5月21日にリリースされた小泉今日子のシングル「あなたに会えてよかった」の作曲・編曲を担当したのが小林武史である。

収録アルバム『afropia』になぜかクレジットはないがプログラミングはおなじみ角谷仁宣が担当(ジャパニーズポップスとヤマハシンセサイザー https://jp.yamaha.com/products/contents/music_production/synth_50th/anecdotes/012.html。そのほか、演奏も『Mother』セッションでおなじみ佐橋・根岸・小田原が起用された。佐橋によると、セッション中に悩んだ小林が自分のパートのみ弾いて失踪してしまうというハプニングがあり、3名でビートリーなフォークロックの方向へと転がしたという
(【佐橋佳幸の40曲】小泉今日子「あなたに会えてよかった」名うてのビートルマニア大集合! https://reminder.top/292698159/

とはいえ、上物については小林の、というか『Mother』アレンジのアイディア総復習といった感がある。「ハートせつなく」のバリトンサックス、「少女時代」「使い古された諺を信じて」(遡れば「希望の轍」)のメロトロン、「Anneの街」のポルタメントのかかったMoogなどのモノシンセ(遡れば「誰かの風の跡」)、「想い出のリボン」のエレキシタール(遡れば「真夏の果実」)、など、ここ数年の桑田絡みの小林作品の断片があちらこちらから聴こえてくる。(クレジットはないが佐橋アレンジの)鈴木祥子とのコーラスを含めた佐橋・根岸・小田原のBeatles的な要素と、小林=『Mother』の要素の組み合わせが不思議なバランスで仕上がったユニークなアレンジ…といえるのだろう。

この後、小林は91年10月リリースの牧瀬里穂「Miracle Love」(竹内まりや作)のアレンジも担当。こちらも小林・角谷・佐橋・小田原と、これまでの流れの面子による演奏である。この頃になると、小林によるガールものも80年代末の田村英里子や立花理佐で聴かれたシンセ中心のトラックから、生音志向に移り変わりつつあるのがわかる。

そのいっぽう小林は、8月には個人事務所、烏龍舎を設立。桑田のコネクションでアミューズ大里洋吉に直談判し、ニューヨークのアミューズ所有のマンションをレコーディングの場としてレンタルする。そして10月には渡米、拠点をニューヨークに移すのだった。

新しいミュージシャンを探してニューヨークから日本とアジアへ向けてプロデュースしたいというのが、小林のアイディアだったのだ。
(略)
途中でアミューズ側の事情が変わりスタジオ構想は頓挫するのだが、すでにこの時期、今年デビューした『MY LITTLE LOVER』につながる女性ユニットの原型を見つけてプロデュースを開始している。
(『月刊Views 1995年9月号』講談社、1995)

ニューヨークでMy Little Loverの原型…というと既にこの当時、ガールヴォーカルとLenny Kravitz〜Waterfront Studio的なサウンドの融合を目指していたのだろうか。しかし結局アミューズのマンションが使えなくなったため、2ヶ月程度で小林は帰国を余儀なくされる(そのタイミングで、トイズファクトリーから新人バンドのプロデュース依頼を受けることになる)。

のちの小林の発言(『月刊カドカワ 1996年1月号』角川書店、1995では、過去に自腹でWaterfront Studioに出向き、My Little Loverの前身としてとある女性ヴォーカリストと録音していると明かしている。レコーディングのタイミングは不明(『Vanessa Paradis』とどちらが先だろうか)だが、小林のこういった動きも『稲村ジェーン』〜『Mother』を経てのものというのが興味深い。

また、11月には原のシングル「負けるな女の子!」がリリース。読売テレビ制作のアニメ「Yawara!」主題歌用に原が書き下ろした曲で、小林の単独プロデュース・アレンジで桑田は完全にノータッチのようだ。角谷・小倉・小田原の3名とフルートはJake H. Conception、コーラスで前田康美が参加。小林のシンベや、小田原のタム捌きを存分に味わうことができる一曲だ。

小林武史以外にも『Mother』の影響は存在する。佐橋佳幸と小倉博和のコンビ「山弦」結成のきっかけはこの『Mother』セッション、そして後述の、並行して行われた桑田のソロライブであった。


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『Mother』には様々なラブ・ソングが収められているが、これはやはり当時の世相が影響しているといえそうである。

原「最近“私のメッセージ”があるとすればそれは何かな?とか考えるんです。たとえば、戦争に対して“戦争反対!”って行進するのも何か違うかなぁと。反対と言うのは簡単、と言っては大変失礼なんですけど、反対するよりどうやったら解決するかとか、どうしたら戦争に行かなくて済むだろうか?って考えたほうが、“戦争反対!”と言ってるだけよりもいいのになーって思う。何か根本的な、普遍的な、クサイ言い方だけど、普遍的な愛や子どもや、恋人とか友だちとか、そういうものをみんなが思い出せば戦争なんて事態には至らないんじゃないか?と思ったりしているんです。
「人間的には、やっぱり母親になったというのが一番大きかったでしょうねぇ。今もし母親じゃなかったら、湾岸戦争のこととか、環境問題もぜんぜん気にならなかったかもしれないなぁって思ってるんですよ。嫌だなぁっていうぐらいで、実際に自分のこととして考えられなかったかもしれない。やっぱり子どもを守りたい気持ちは強いですから、すべて他人事じゃなくなっちゃいました。」
(『月刊カドカワ 1991年7月号』)

特に91年1月〜2月の湾岸戦争は、まさに『Mother』レコーディングの最中に勃発している。この時期、録音現場でも話題の中心になっていたという。

そんな中、プロデューサーの桑田は、レコーディングと並行し急遽洋楽のカバーのみで構成されたソロライブを企画・開催する。演奏メンバーには『Mother』録音のコアメンバーから小林武史、小倉博和、佐橋佳幸らがそのまま召集されることになる。

佐橋「ある日、桑田さんから “オレが若い頃に聞いてた洋楽のカバーばっかりのライブをやるんだけど手伝ってくんない?” って言われて。そんなの、まさに僕の大好物の企画じゃないですか(笑)。断る理由がない。で、僕とオグちゃんと、ツインギターで参加したのがパワステでの “アコースティック・レボリューション” だったわけです。」
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