原由子のソロアルバムとSuper Chimpanzeeのシングルがリリースされた合間の91年7月、サザンオールスターズの1年ぶりのニューシングル「ネオ・ブラボー!!」もリリースされている。
追って開催されたスタジアムツアー「The 音楽祭 1991」の先行シングルにあたる立ち位置で、ライブ映えする景気のいいサザンロック…風ではあるのだが、歌詞の内容は世を憂う暗めの内容が綴られている。並行して活動していたSuper Chimpanzeeのように反戦に特化しているわけでもないが、作詞家・桑田のモードが世相の鏡にならざるを得ないような状況になっていたということか。猫に小判スタジオを拠点としレコーディングされたという意味でも、両者は通ずるところがある。
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90年の『Southern All Stars』以降、サザンの活動はインターバルを置きつつの周期になり、どちらかというと各々ソロをメインとして活動していく…という予定になっていたようだ。アルバム制作中の89年に解散疑惑を追った『週刊明星 1989年7月6日号』(集英社、1989)では、解散説を真っ向否定するA&R高垣健のコメントが載っているが、あわせてさりげなく語られているのは新譜リリース後のサザンは2、3年に一度、LPを出しツアーをやることになる…という、当時としてはかなりペースを落としての活動形態を予告するものであった。アルバムリリース時の『エニイ 1990年1月17日号』(彦書房、1990)では、来たる90年代について6人がそれぞれインタビューを受けているが、先の話はソロアルバムや新たなバンドについての話ばかりである。
そういえば88年の「大復活祭」では、バンド演奏のクオリティから、その次のコンサートで全て終わりにしようとしていたと松田が語っていた。「次のコンサート」というのは『Bridge 2001年8月号』(ロッキング・オン、2001)の桑田・吉井和哉対談などからおそらく90年春のツアー「夢で逢いまShow」だと思われるが、「ところが、そう決めてやったコンサートが、これが、すっごく良かったんです。ああ、これならまだやれるよって」(『R&R Newsmaker 1992年10月号』ビクター音楽産業、1992)ということで事なきを得たようだ。
そしてその後はというと…サザンとしてのシングル「真夏の果実」そして企画盤『稲村ジェーン』、90年末の年越しライブを経て、91年もシングル1枚とはいえリリース、スタジアムツアーもきちんと開催。結局サザンは大きなインターバルを開けることもなく、活動を続けていくのであった。
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このシングルから、関口和之がサザンの活動を停止する。ファンクラブ会報における当時の通知では、循環器系のトラブルでライブ等の体力消耗の激しいものは1年ほど不参加(『代官山通信 Vol.34』サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)…ということであった。しかし、活動停止はこののち数年に及び、また復帰するまでのスタジオレコーディング作品も関口のクレジットは常にあるものの、他ベーシストのクレジットもあったり、さらには実際のベースのタッチなどから、参加してはいないようである。実のところ、大成功するサザンについて自分の中で折り合いがつかず、精神的なバランスをとりづらくなり活動を離れることになった…という状況であったことをのちに関口は明かしている(『ハワイアン・ミュージックの歩き方 アロハな音楽にであう旅』ダイヤモンド社、2009)。
「ネオ・ブラボー!!」シングル盤では関口のクレジットもありつつ、『稲村ジェーン』『Mother』で活躍を見せた根岸孝旨がゲストとしてベースにクレジットされている。根岸はこのシングルのスタジオレコーディングのみならず、ツアー「The 音楽祭 1991」に出演、ライブでも存分に自身のスタイルを披露。関口不在の間、サザンのライブを支えていくことになる。
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さてこのシングル、この時期にしては(原由子ソロ・Super Chimpanzeeと比べて)珍しい体制で製作されたようだ。当時のアレンジの要ともいうべき小林武史が参加しておらず、編曲も「Southern All Stars」と、バンド単独の表記である。プロデューサーやエンジニアの記載は無い。
ゲストはキーボードに片山敦夫、ベースに前述の根岸。さらにいつもの角谷仁宣と、カップリング曲のハーモニカに八木のぶおがクレジットされている。片山は白井貴子&クレージーボーイズや今野多久郎・河内淳一らのSTR!Xに在籍、90年のライブ「夢で逢いまShow」からサザンのライブのサポートで参加し、本作が桑田関連のレコーディングでは初クレジットとなる(90年、S.A.S Projectの録音には参加)。アレンジに名前はないので、小林武史や門倉聡とは若干異なり、あくまでキーボード・プレイヤーとして迎えた…ということのようである。
そんな体制で制作されたシングルは、「女神達への情歌」以降の緻密な音作りに比べると幾分風通しがよい印象がある。ここまでのキーボードプレイヤーを中心とした音作りからいったん離れ、どのようなアプローチが可能か試してみるといった意味合いもあったのかもしれない。結果的に両面とも、比較的リラックスしたギター主体のサウンドになっている。
「ネオ・ブラボー!!」は70年代前半のウェストコースト、具体的にはTom Johnstonが仕切っていた頃のDoobie Brothersの雰囲気のトラックに、桑田のスライドギターが絡む一曲だ。いわゆるサザンロックへの直球の回帰ともいえ、松田や大森、野沢等ののびのびとした雰囲気も感じることができる音造りに聴こえる。加えて根岸のベースは疾走感満載で、関口とはまた味わいの異なるプレイが堪能できる。そしてオールディーなカスタネットやグロッケンといったあたりで、ポップな方向に味を整えている。
しかしどうにも突き抜けてこない雰囲気があるのは、歌詞のせいだろうか。歌われるのは、すでに歌詞にこだわりを見せていた時期の桑田としても珍しい、退廃した人類・物質文明の様々な課題、温暖化・原発・不眠・ストレス・カルト…などを描写しつつ、生命のメビウスの輪をメインのテーマとして盛り込んだというSF的・難解な内容である。『代官山通信 Vol.33』(サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)では、歌詞についてのみの桑田本人による長文解説が載せられている。TBS系「筑紫哲也 News23」タイアップのため、詞を書く段階でその辺りを意識した可能性もある。軽快なサウンドが重い歌詞に若干引っ張られた感はあるかもしれない。
カップリングの「冷たい夏」はアコースティックギターを主体に大森によるラップスティール、前述の八木のハーモニカをフィーチャーした、シングルのカップリング曲とはいえ圧倒的な存在感のあるミディアム・ナンバーである。桑田のダミ声ながらぐっと抑制されたヴォーカル、そしてファルセット、さらにA面とはまたスタイルの異なる根岸のベースなど、色気がそこここに溢れている。A面以上にリラックスして書き下ろしたのが功を奏したのか(おそらくライブも想定せず、単なるB面用の曲として作ったと思われる)、「隠れた名曲」というのにふさわしい出来栄えだろう。
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スタジアム・ツアー「The 音楽祭 1991」はセットリストが1回につき36〜7曲・3時間と、それまでのサザンとしてはかなり長時間の豪華なライブであった。桑田によると、新曲がない分を物量でカバーするという発想だったようである。
「今回ニューアルバムも出てないのと、「ネオ・ブラボー!!」っていうのはコンサートを意識して作ったシングルだったんですけど、新曲という意味ではあまり数がなかったんで、それを克服する意味でも、とにかく物量作戦で行こうと思いましてね。」
(『代官山通信 Vol.35 Nov. 1991』サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)
そのいっぽう、過去の曲で一大イベントを行なってしまうことについて、メタ視点から自身を含めて冷ややかに眺めてしまうというのも「大復活祭」から相変わらずである。
「過去の曲をやって、客と予定調和みたいに盛り上がるっていうのも、ある意味で古いものに自分たちを追い込んでしまうっていう危機感も持ったんですよね、実際やってて。だから、サザンのチケットが取れないっていうのも、そこまでチケットが売れるってことは僕らにとって凄く嬉しいんだけど、これは今のサザンじゃなくて、2〜3年前、もしくはそれ以前のサザンっていうものの幻影をね、チケットを求める人間が覚えててくれるっていう割合も多いと思うんだよね。でも、時代は僕らが思ってるよりも早いスピードで変わってるんだなと思ったから、客は、“現在”を観に来てるんだっていう厳しさを持ってて欲しいし、僕らも持っていかなくちゃって思うしね。だから、今回のコンサートはやっぱり一過性の物であって将来につながるものではなかったという結論なんだけど。」
(『代官山通信 Vol.35 Nov. 1991』)
再び、「新しいこと」をやらなければならない、そういったモードにシフトしていくタイミングだったようだ。
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91年後半のことを、Super Chimpanzeeのメンバーでもあった小林武史はこう述懐している。
小林武史「スーパー・チンパンジーが一段落ついてサザンをどうするのか。やるつもりなんだけど、まだ何も見えてないという桑田さんの話だった。ぼくもちょうど大貫妙子のレコーディングでニューヨークに行こうという時期で、ぼく自身ニューヨークのほうでも活動してみたいという理由もあった。そんな話をずっとしてて、「とにかくニューヨークに連絡するよ」ということになったわけ。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)
小林は相変わらずニューヨークでの活動を志向していたようで、大貫妙子のプロデューサーとしてSuper Chimpanzee後にも渡米している。『キーボード・マガジン 1992年3月号』(リットーミュージック、1992)の大貫・小林インタビューによると9月20日ごろから10月11日まで大貫用のNYレコーディングだったとのことで、このあたり米国に滞在していたようだ。このレコーディングは、角谷仁宣と小林で作った打ち込みのベーシックを持ち込み、NYのミュージシャンでセッションし完成させる…という手法で制作されている。小林の当初の意向でTony LevinとJerry Marottaを起用する、というところから、Jerry Marottaの推薦でTchad Blakeが録音を担当(小林いわく「凄くいいエンジニアだったんだよね〜」とのこと)。録音はBattery Studio、Marathon Recording、Sound On Sound、Clinton Recording Soundと、複数のスタジオを試している。「中でもバッテリー・スタジオにはヴィンテージもののアナログ機材が入っているということを聞いたので、特にあそこを選びました」とは大貫の談(『サウンド&レコーディング・マガジン 1992年3月号』リットーミュージック、1992)。アルバムは日本で歌入れ後、『Drawing』のタイトルで92年2月にリリースされた。
大貫のNYセッションが完了するのと時を同じくして、とりあえず日本に来てほしいとの桑田の要請もあり小林は帰国。サザンのアルバムということでもなく、デモテープを作りたいとのことで猫に小判スタジオで作業が開始される。
小林「スタジオに入った最初の日にね、今日は何の曲をやろうかってふたりでしどろもどろしながら話してたらね、いや実は毛ガニのシングルを作ろうかと思ってんだという話になった。大竹まことさんなんかとデュエットしたらおもしろいんじゃないかって企画で、なんのこっちゃという感じだったんだけどね。それがこのアルバムで原坊が歌ってる「ポカンポカンと雨が降る」なんですけど。仮歌で“ポカン……”のフレーズが出てきて、ぼくはニューヨークから帰ってきたばっかりで「なんだよ、歌謡曲じゃねぇか。桑田佳祐ピーナッツ路線。もうわかってる」から、最初はけっこうガッカリしてた。ただアレンジしてるうちに変わってきて、何となくムードもよくなってきてね。そうしたら桑田さんが「そういえば毛ガニに歌わせたらすごく音痴だったことを思い出した」みたいなことを言い出して(笑)。やっぱり毛ガニはやめよう、原坊がいいと思うんだという話になったところから、要するにサザンのレコーディングに切り替わったんだよね。桑田さんなりの照れもあるんだけど、正面切ってあたまから「サザンオールスターズのアルバムに今日からかかりたいと思います。一曲目はこれです」というのはやっぱり相当つらいんだろうし、あの人らしい話なんだけど。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
相当に曖昧かつ強引な引き込み方だが、とにかく野沢をダシになし崩し的「風」に、小林武史を作業パートナーに迎えたレコーディングが開始される。最初に取り上げられたのが小林の語るとおり「ポカンポカンと雨が降る」となる曲であった。続いて「Hair」となる曲が取り上げられる。
小林「他のメンバーの参加するタイミングの話になって、「いや、まだそこまで俺は考えてないんだ。あくまでもデモテープといって始めたものだから」と桑田さんは言ってた。「HAIR」の終わり頃に、明らかにしなきゃだめだという段階がきたんですよね。で、今回のレコードはサザンとして作っていきたいと。でもレコーディングに関しては、いままで必ず用があってもなくてもみんな集まってやってるんだけど、今回に関しては桑田さんとぼくを中心にしたチームで進めていって、そうしたうえでメンバーを呼んでレコーディングするという形にしたいということになったんですよ。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
こうして「猫に小判スタジオ」を拠点とした、桑田と小林によるサザンオールスターズの宅録密室芸アルバムの制作が正式に始動する。