MVを制作し、映像メディアでも同時にリリースされたため、シングルはいつもの3インチCD・7インチ・カセットに加えVHS、翌5月にはVHS-C・VHD・8インチLD、とこの頃ならではの多様な、計7形態で発売されている。
***
「女神達への情歌」はクールなトラックに桑田のブルージーなヴォーカルと、これまたクールなワンマン多重コーラスが乗った、「みんなのうた」とは全く印象が異なるこちらも意欲作であった。サウンド・コンセプトは「原点回帰」であることを桑田は複数のインタビューで口にしている。
— はじめにサザンオールスターズの新曲「女神達への情歌」の制作意図からお話しください。
桑田「まずいえるのは「みんなのうた」(88年6月)とは次元が違うということです。「みんなのうた」って、アマチュアっぽさバンザイ的な部分があって、それに関してはプロとして反省したの。まぁ、ここまできたら、怖いものはない!みたいなのもあるけど、「勝手にシンドバッド」(78年6月)を出す以前のサザン、下北沢のライブハウスでやってた頃の感覚がよみがえってきて、この曲ができた。今回の曲は”産業的な作為”がないです。」
— 早い話、売れ線狙いではない、と。
(略)
デビュー以前の気持ちというと、当時のお気に入りバンドのこととか思い出したりもしたんですか。
「やっぱりリトル・フィートなんですよ。正しい人間になって音楽やろうとすると、必ず出てくるバンドなんです。やっぱり、自分たちにとってのロック・スピリットを確認したかったしね。今度の曲って、全体にエコーを少なくしたんだけど、それもロック・スピリットの現れだと思ってください。」
(『FM Station 1989年 No.6』ダイヤモンド社、1989)
— 今回のニュー・シングルのテーマは原点回帰だとか?
「や、単に煮詰っただけ(笑)。ていうか、ブルースがやりたかったのね。『勝手にシンドバッド』でデビューする以前、アマチュア時代のサザンっぽいイメージ。プリミティヴな手触りをもう一度確かめてみたかったんだ。ある意味では、このシングルがいまレコーディング中のニュー・アルバムのパイロット版的存在になると思うけど。」
— プリミティヴなものを見直そうと思ったのはどんなキッカケで?
「(略)たとえば、ボ・ガンボスとレピッシュとプライベーツと……。これ、たぶん5〜6年前だったらほとんどいっしょくただったんじゃないかな」
— ロックという枠でひとくくり。
「そう。だけど、今はその辺の微妙なテイストの違いを、みんなかぎわけてるでしょ。受け取る側の感覚とか、マスコミの意識とか、あとミュージシャン本人たちの出どころが変わってきたとか。いろいろ理由があると思うんだけど。立ちはだかる歌謡曲の巨大な壁っていうのも、今がもうないしね。(略)」
— 歌謡曲という言葉が意味する音楽形態自体が変わったのかもしれない。
「かもしれないね。とにかく、そういう音楽性の差とか違いとかをあえて極端に打ち出しながら、産業ロックの法則にのっとって活動しなくてもわかってもらえる時代なんじゃないか、と。産業ロック、イコール歌謡曲だからさ。その法則にのっとってがんばるっていうのは、ね。いまとなっては、あんまり刺激ないし。」
— で、いきなりリトル・フィート。
「ほら、今も年寄りのミュージシャンが根強くやってるでしょ。キース・リチャーズとかスティーヴ・ウィンウッドとかブライアン・ウィルソンとか。ああいう永続性っていうのかな。特にブライアン・ウィルソンのアルバムなんか聞いてて、すごくうれしかったの。別に何か新しいことやってるわけでもないんだけど、かといって古さとか、いやらしさとかも感じさせないし。自分の世代と自分の音楽に対して忠実な姿っていうか、そういうものを平然と出してるじゃない。ナチュラルだなって思うわけ。」
(『SPA! 1989年3月16日号』扶桑社、1989)
「デビュー以前のサザンをね、やりたいっていう……。ま、それは言葉の上だけだけども、精神はそうだよね。ブルースっていうか、そういう古くせえもんをやりたいと思った。クールなんだけど、熱い!っていう。」
(略)
「今年はもう一度出直しっていうか、さっき言ったようにデビュー・アルバムってものにものすごく憧れがあるんだよね、俺は個人的に。」
(略)
「自分たちも、マスコミに登場したサザンに合わせて自分たちをコントロールしだしたところがあったじゃないですか。それはとっても楽しかったけど、ほんのちょっぴり残念だった。やっぱりブルースとか、暗い音楽ね、体験音楽、自分たちでやることに意味があるっていう音楽のフィールドね。だってサザンロックのサザンなんだから。そうやりたいなって、いまさら(笑)。
サザンロックのサザンはいつしか南のサーフィンの方にいっちゃったんだ(笑)。そっちの方の業界に流れちゃった。それは俺も悪いんだけど。いつしか加山雄三と並べられることに快感を覚えてきましたからね。
でも本来、グレッグ・オールマンのつぶやきとか、レオン・ラッセルのバター犬のようなボーカル、何というか女性の恥部をなめるような歌い方というかバンドというか、ネトネトしたのがやりたくなったわけですよ。まあ俺の言ってることなんて4カ月くらいとかで変わってしまうんでしょうけど(笑)。」
(『ワッツイン 1989年3月号』CBS・ソニー出版、1989)
サウンド作りの面では、ここで門倉聡・菅原弘明コンビが登場する。共同アレンジャー、キーボードでクレジットされた門倉は藤井丈司の人選で桑田ソロ「愛撫と殺意の交差点」にて初登場。88年春の原由子ソロシングル「春待ちロマン」を経て、今回サザン名義のレコーディングにも参加することとなった。プログラマーの菅原は当時オフィス・インテンツィオに所属しており、高橋幸宏『...Only When I Laugh』や高橋の関連作(Beatniks、高野寛)、坂本龍一『Neo Geo』などで活躍していた。2名を迎えたこのレコーディングで、桑田はかなりの手応えを感じたようで、「女神達への情歌」は桑田のフェイバリット・ナンバーとして後年も語られることになる。
「僕が思うサザンのベスト5に入るナンバーですよ。この曲と「勝手にシンドバッド」「真夏の果実」、あと一つか二つかなというぐらいなんだ、俺は。「ニッポンのヒール」とかもそのなかに入りますけどね。これをやっているときの門倉君と菅原君の相性が僕にすごく合った。これ以上言うと、コード進行がどうのとか、何だかワケがわからなくなっちゃうけど、まずコード進行は、イイよね(笑)。あとガットギターでやったギターのリフ。それとあとは歌詞とコーラス。あらゆる出来映えを考えてベスト・テイクだと思うもん。俺が初めてデモ・テープらしきものをウチで作って持っていった。クソみたいな内容だったけど、デモテープらしきものに聞こえたのはあれが最初で最後じゃない?」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』角川書店、1992)
イントロは各種シンセのリズムとガットギターのリフからスタートする。ガットギターというと同時期に録音が開始された「稲村ジェーン」用セッションが想起されるが、実際、そこからのフィードバックが行われている。「Tsuneishi Group Saturday Night Cruise 桑田佳祐のやさしい夜遊び」(Tokyo FM, 2008.6.28.)にて、この曲のギターは「稲村ジェーン」用レコーディングで登場したばかりの小倉博和が考案したリフであることを桑田は明かしている。「今回はちょっとブルージーなものを作りたくて、あの出だしのリフから作った。」(『シンプジャーナル 1989年6月号』、1989)という発言とあわせると、前述の桑田のデモテープは小倉と作ったものなのかもしれない。このガットギターのアレンジひとつにしても、桑田はかなり気に入っていたようだ。
「「女神達—」は、「KAMAKURA」とか「みんなのうた」とかのギターを超えたところがあるんだ。エレキもそうだし、ガットギターも大森がやってるけど、ひとつのアンサンブルをね、オーケストレーションというか、ギターで作っているんだ。あの曲はほとんどがギターとコーラスで支えているんだよ。」
(『代官山通信 Vol.23 Jul. 1989』サザンオールスターズ応援団、1989)
桑田の凝ったワンマンコーラスもサザンでは初で、前年のソロから継続登場となる。「忘れられたBig Wave」とどちらが先に着手されたのか不明だが、両方とも同じタイミングで、門倉によるコーラス・アレンジということになるだろう。
— 全体のコーラス・ワークも後期のビーチ・ボーイズみたいに実験性に富んでいて、思わず引き込まれたんですがあれは桑田さん一人でやったんですか。
「うん、好きなんですよ。一人のコーラスが。達郎さんじゃないけれども。自分一人でコーラスをやって、みんなでやるのとは違う倍音が聴こえてくるのが面白くて。」
(『シンプジャーナル 1989年6月号』)
さて、デモから実際のアレンジについては、おそらくこの曲からサザンはこれまでと作業順序を変えている。『kamakura』までのサザンはバンドのヘッドアレンジでシミュレーションを行い、そのあとコンピューターが登場する…という順序であった。以下は関口和之86年ソロ作リリース時のインタビューより。
関口和之「彼(引用者注:米光亮)の自宅のスタジオに16chのレコーダーがあるので、ドラム、ベース、キーボードの、すでに決まっているフレーズはそこで打ち込んじゃったんです。それをレコーディング・スタジオで24chにたちあげて、生音とさしかえたり、ダビングしたりしてね。コンピューターのアプローチとしては、サザンと逆。サザンの場合、まずバンドで音を出してみて、ベースやドラムをコンピューターにさしかえていく。」
(「キーボード・スペシャル 1986年3月号」立東社、1986)しかしこの曲はシンセとコンピューター(門倉と菅原)でシミュレーションを行ったのちに生音をダビングしていくという、関口や桑田ソロの手法を流用したものと思われる。
「で、今年89年にレコードとしてサザンが復活するんだけど、そのためのハズミをつけるためにこのシングルを慎重にやりたかった。メンバーが集まった時に言ったんだけど、設計図を引くようにアレンジをやろうって話をしたんだよね。せーので全員でボカーンとやって終わりっていうんじゃなくてね。」
(『ワッツイン 1989年3月号』)
この後のアルバム・セッション一曲目、「悪魔の恋」の今井邦彦コメントからもそれは伺える。
M③「悪魔の恋」
アルバム・レコーディングの最初の曲です。シンプルなリズム・パターンですが、ドラムは打ち込みで、おかずなどシミュレーションしてから叩く、というやり方をしました。
(今井邦彦「レコーディング実話 Southern All Stars/サザンオールスターズ」『Sound & Recording Magazine 1990年3月号』リットーミュージック、1990)
冒頭で引用した桑田コメントでは何度もLittle Featの名が挙がっているが、イントロのビートは「Dixie Chicken」でも、例えば79年の「I Am A Panty(Yes, I Am)」のように比較的そのまんまというアプローチではない。クールな響きはSteely Dan「Babylon Sisters」や、Donald Fagenバージョンの「Ruby Baby」の匂いも感じられる。そこに原点回帰的な泥臭いLeon Russel風ヴォーカル、洗練された桑田のひとりManhattan Transfer(実はコーラスのみならず全体が85年「That’s Killer Joe」の雰囲気もある)・Beach Boys風コーラスが絡んでいくという意外性の連続の世界。おそらくマニュアル・プレイのリズムは入っておらず(たまに入るスネアは生?)、菅原の打ち込んだシンセと門倉のキーボード、大森のガット+エレキギターと桑田の各種ヴォーカルでいかに「クールなんだけど、熱い」サウンドを構築するか、ということに念頭が置かれた録音だったのだろう。小林武史の参加はないようだが、またしてもグロッケンが要所要所で効果的に使われており、すっかり桑田のお気に入り楽器になったことがうかがえる。
サザンというバンドにしてはマニュアル・プレイの出番は少ないが、これも意図的・時代的なものだったようだ。
「要するにブルースっていう古臭いものをそのままやると、どんどん古臭くなって下手すると関西ブルースになるからね。例えばオルガンの音でも本当のハモンドでやると今やかえってアングラになるから、それをシンセであえてやると、何となくマゴウことなきシンセがハモンドの音に聞こえたりするっていう効果を狙ったんだけどね。できるだけ限定されない形でブルースやって、結果としてトラディショナルな音楽形態のものを作りたかったんです。」
(『シンプジャーナル 1989年6月号』)
ソロでも同じような発言をしていたが、ルーツをそのまま再現するのではなく、トレンドの手法・音色と組み合わせることで今を生きるサウンドに仕上げる、という方法論を今回も用いたということになる。
エンジニアはこれまでどおり今井邦彦が担当。桑田ソロでは桑田のサウンド追求癖に根気よく付き合ってきた今井だが、今回はサザン名義の録音でも桑田が同じくギリギリまで粘るようになっているのがコメントからわかる。
M⑧「女神達への情歌」
このアルバムのコンセプトとなった曲です。ヴォーカルとコーラスのからみが中心となって、いろいろな楽器が、オンで出てくるところがミソ。間奏のシンセは、プロフェット5を、コンソールのプリアンプで歪ませたものです。ほど良い歪みと渋いフレーズで、不思議な感じです。
この曲はPCM-3324とアナログ・スレーヴを使ったため、コーラスの孫スレーヴまでできてしまいました。
(今井邦彦「レコーディング裏話 Southern All Stars/サザンオールスターズ」)
今井「『女神達〜』で思い出深いのは、自分なりにミックスの手応えがあって、桑田さんも作業を終えた夜、「最高の出来だね」って電話をくれたのに、それから2日ぐらいしたら、「もう一回ダビングをしたいんだけど」と言われて(笑)。ミックスが終わったやつをもう一回デジタル・マルチに入れて、違うチャンネルにスネアを足しました。」
(「サザンオールスターズ公式データブック 1978-2019」リットーミュージック、2019)
さて、歌詞についても言及しておこう。このサウンドに乗って、アダルトビデオを鑑賞する男を描くというなんともユニークな、風刺のようで自虐的でもあるテーマ、他の追随を許さない作詞家・桑田の真骨頂ともいえる。歌詞もベスト、と自身でも語っていたが、このテーマはどこから発想されたのか。
「時代が呼んでるのは非常にコンビニエントなものでしょ。マンションの一室とモニターとちょっとした消費財。それがぼくらを含めて中堅どころ社会人のステイタスだったりするわけでしょ。世界のニュースから何から、ビデオをピッとやればまかなえる。密閉された中での熱狂というか。それを皮肉ってやりたいってのはありましたね。」
(『スコラ 1989年4月27日号』)
「密閉された中での熱狂」というと、スタジオにこもってコンピューターとシンセでシミュレーションしながら「クールなんだけど、熱い」サウンドを目指したこの曲の制作体勢がそのまま当てはまる。おそらくそんなサウンド・コンセプトをなぞった、皮肉ったテーマとして、アダルトビデオ鑑賞が発想されたということなのではないだろうか。そして、「みんなのうた」制作前に語っていた都会・日常生活、というコンセプトがやっと叶ったといえる。ある意味では、これも「シティ・ミュージック」なのだ。
「今度のシングルなんか—できてませんけど(笑)、あたかもできたように言うとね—視点がもう大ズレ、見てる範囲が狭い狭い。やっぱりサザンはですね、避暑地を捨ててですね、レジャー、バカンスを捨てて、そう!サザンはバケーションを捨てます。バケーションを捨てて都会に上陸しようと思ってるの。スキー場も海も捨ててですね、もうリゾートしないの。本当の日常生活にもどっちゃおうかなって言う気がしてんですよね。」
(略)
— (笑)すごいですね。できてないのに言っていいんですか。
「(笑)できてないから言えるんだけど。ほんと、ボキャブラリー一切変えますから」
「(笑)できてないから言えるんだけど。ほんと、ボキャブラリー一切変えますから」
— 楽しそうですね。
「でもそれは、僕バンド活動としては夢だったですよね。僕らリトル・フィートのコピーしたりさ、E・クラプトンの真似したりしてずっときたでしょう。それがだんだんサザンのカラーっていうのができちゃったんだよね。だから、そうじゃないカラーっていうのを、最近私はね、ヒシヒシと感じるんです。」
(「ロッキング・オン・ジャパン 1988年7月号」ロッキング・オン、1988)
英詞部分をネイティブの感覚に寄せるためか、Kuwata Bandからの縁でTommy Snyderを補作詞として起用。これ以降、2002年まで数々の桑田作品に英語補作詞としてTommy Snyderのクレジットがある。
***
「女神達への情歌」完成後に即アルバムのレコーディング開始…とはいかず、ホイチョイ・プロダクションズ原作・馬場康夫監督の映画「彼女が水着にきがえたら」主題歌のオーダーを受けたサザンは、そちら用に新曲を制作することになる。同じ原作・監督の体制での第一弾、87年「私をスキーに連れてって」は松任谷由実の旧譜を使用した映画だったが、「彼女が水着にきがえたら」ではサザンの旧譜を使用することに決定。さらには、書き下ろしの新曲を主題歌に据えることになったのであった。89年6月にリリースされたのが「さよならベイビー」である。
――この映画で気になるのは、サザンオールスターズの音楽は最初から決まっていたのかということなんですけれど。
馬場康夫「いや、実のところ当時はサザンオールスターズのことは全く興味がなかったんですよ。もちろん今は大好きですよ。なぜ興味がなかったかというと、桑田佳祐さんは僕より2つ年下なんです。ユーミンは僕よりひとつ上だったから学生時代に聴いていて染み付いているんですけど、サザンは僕が社会人になってから出てきたのであまり聴いていなかった。だから、フジテレビからサザンの音楽を使いたいという話があってから、じっくりと聴き込みましたね。でもサザンよりも桑田さんのソロ・アルバム『Keisuke Kuwata』のほうをとても気に入ってしまったんです。それで、「いつか何処かで(I FEEL THE ECHO)」をどうしても使いたいとお願いしたら、桑田さんも「いいよ、あれもいい曲だね」って感じで使わせてくれたんです。」
(略)
「『彼女が水着にきがえたら』で、「いつか何処かで」が流れるシーンがあるじゃないですか。さっきお話した鐙摺(あぶずり)の電話ボックス前で主役の二人がすれ違うところ。桑田さんはあのシーンに使われるものだと思って、「さよならベイビー」を書いてくれたんです。消えた夏灯り、戻れない乙女っていう歌詞を読めば、意識して書いてくださったのがわかりますよ。でも、あのすれ違いのシーンには、僕はどうしても「いつか何処かで」を使いたかったので、「さよならベイビー」ができ上がってきた時に頭を抱えたのを覚えています(笑)。結局は、オープニングでうまくはめることができました。」
(実は「さよならベイビー」は、主役の二人がすれ違うシーンを想定して桑田佳祐さんが書かれてたんです。ホイチョイ・プロダクションズ 馬場康夫 ロングインタビュー 第2回
「女神達への情歌」がその後のサザンのアルバムのパイロット的な位置に置かれようとしていたのに対し、こちらはあくまで映画のため職業作家的に提供した曲、という意味合いが強かったようだ。
桑田「アレは、つまり「彼女が水着にきがえたら」と言う映画のためにつくりましたから。サザンのアルバム用と言うよりはあの映画用としてね。監督の馬場さんを通して、主演の原田知世さんとか伊藤かずえさんの役どころのイメージに基づいて作ったと言う部分があるからね。あの映画を盛り上げるためのものなんだよ。」
(『代官山通信 Vol.23 Jul. 1989』サザンオールスターズ応援団、1989)
馬場が「いつか何処かで」を気に入ったというエピソードを踏まえてというわけでもなかろうが、ソロ・アルバムを経たポップス歌手桑田の繊細な、こだわりのあるヴォーカルがなにより素晴らしい。低めの地声とファルセットを行き来する唱法も珍しいアプローチだ。サウンド作りはというと「女神達への情歌」の手応えを踏まえ引き続き門倉をアレンジャーに迎え、門倉・菅原コンビ、さらに今回はプログラミングにおなじみ藤井丈司もクレジットされている(同時期の後藤次利による工藤静香用セクションの顔ぶれだ)。この面々による、ほどよくトロピカルなレゲエ・ラヴァーズロック風味のトラックで、湿度高めな楽曲とのバランスを取っている。下記で今井が語るように終盤でリズム隊がマニュアル・プレイにはなるものの、基本的には今回もクールなマシンのビートが心地よく(TR-808のカウベルも印象的だ)、この手の桑田のヴォーカルとも相性が良い。相変わらずレコーディングはすんなりといかず、時間をかけた録音となったようだ。
M11「さよならベイビー」
「彼女が水着にきがえたら」のテーマ・ソングなので、お馴染みの曲でしょう。この曲だけ、ヴォーカルはシュアーSM57で録ってます。多少、他の曲と歌の感じが違うのがわかります?リズム(ドラム、パーカッション)でもめた曲で、相当細かい打ち込みをしています(他の曲でもそうですが)。前半打ち込みドラム、大サビから生ドラムと生ベース、最後は生ドラムと打ち込みベースと、48chフルに使ってます。
(今井邦彦「レコーディング裏話 Southern All Stars/サザンオールスターズ」)
桑田「いま聴くとアレンジ的にアチャーッ!って感じもあるんだけど、その時はけっこうこだわって作った。コンピュータのリズムとかね。とにかく追求癖がついてたから、何かちょっとでも気に食わないことがあると詰めてましたね。」
(『月刊カドカワ 1992年12月号』)
また、映画にインスパイアされて作った曲、というのもこの時期大きなポイントだろう。馬場から映画の内容・シーンの説明を受けての作曲だったようで、馬場のコメントどおり、特定のシーンに使われることを想定したことが功を奏したようだ。当時の桑田の場合、こういったオーダーを受けての、ストーリーに寄り添った曲作りというのは珍しい。たまたまだろうが、この年の秋には桑田自身の監督作品の撮影が予定されていた。クランクアップ後、その映像に触発され、桑田は追加で新曲の制作を行うこととなる。
***
「女神達への情歌」の攻めの姿勢の背景の一つに、桑田はこんな危機感を持っていたことを明かしている。
— ところで、カラオケで今も、サザンのヒットナンバー、「いとしのエリー」などが、根強い人気で、中年のオジサンまで歌っちゃう、みたいなことって、当の桑田さんはどんなふうに受け止めてます?
桑田「サザンの大衆性(ポピュラリティ)ということでは喜ぶべきことなんですけど、ここまでなっちゃうと、ある種の危機感ていうか、“若い人間ついてこないのか”みたいなものを感じますね。たとえば、この前の夏、横浜球場でのコンサートでも最後“Oh!クラウディア”なんか歌って、わーっと盛り上がるんだけど、僕らの年代だけが持ちうる共通意識っていうか、その域を超えていないっていうのはあるんですよね。」
— それ以上のものを求めたい、と。
「うん、やっぱり……。僕らの同世代感覚で共有できるだけだと、もっと若い世代、例えば、高校生、大学生になると、話ができなくなってくる。サザンの今の曲を、高校生が学園祭でコピーしてるかっていうと、やってないんじゃないか、それに対する危機感はありますね。
(略)
だから、同世代が受け入れてくれるというありがたさとはまた別にね、常に若い人、この言い方がジジくさいんだけど、(笑)若者にベクトル向けてないとマズイと思うんです。
(略)
今年の活動なんかにしても、ビデオシングル作りました、映画作りましたとか、表面(うわべ)でとらえると、なんか文化人くさいじゃないですか。(笑)でも、僕らは文化人を相手にやろうというつもりはいっさいないし、やっぱり曲を演奏してナンボと思っていますから。」
— まだまだバリバリの現役でやる、と。
「もちろん、そう願っています。今回のビデオシングルと映画は、これからのサザンの心意気を示す打ち上げ花火、みたいなものです。」
(『月刊エフ 1989年5月号』主婦の友社、1989)
「サザンも、まあ、去年復活して、横浜球場なんかでライヴやったでしょ。で、何万人って客とみんなで「オー・クラウディア」を歌ってしまうという世界にいよいよきてしまったから。なんか、こう、全日本プロレスみたいになってきちゃって(笑)。ほら、あるじゃない、馬場が16文キックやると、それだけで“おーッ!”ていう世界が。もちろん、それはそれでうれしいんだけど、同時にそういういうパターンだけにおちこんでしまうといかんなって匂いをすごく感じたわけ。」
(『SPA! 1989年3月16日号』)
「ボク自身もポップスというようなものはいつでもできるといったらおかしいけど、今回はちょっと外したいんです」
— でも、それは、いままでのサザンのイメージを壊すことになる。
「いままでのサザンオールスターズという名前から連想されるものが好きな人は、ちょっととまどいがあるかもしれないね。だけど、そういう旧知のファンに対しては裏切らなくちゃいけないんだろうな」
(『Goro 1989年2月23日号』小学館、1989)
何度も言及される前年「大復活祭」の「Oh!クラウディア」は、ある種の定番、ナツメロ、懐かしいサザンの象徴として語られている。それに対抗するための裏切り、現役感を示そうとしたのが新曲「女神達への情歌」であったといえる。とはいっても一方で、わざわざB面にその「Oh!クラウディア」ライブ・バージョンを収録する、このシングル盤の構成における相変わらずのバランス感覚はなんとも桑田らしい。
時は前後して、90年初頭、アルバム『Southern All Stars』リリース時のインタビュー。新作の話もそこそこに、渋谷陽一は当時のサザンの立ち位置について、痛いところを突くような持論を桑田にぶつける。
— で、いよいよサザンでまたツアーをやるわけですけど——俺、横浜球場行って思ったんだけれども、世代の音楽としてのサザンオールスターズってあるねえ、20代の。
「ああ、ここんとこ最近ね、この4年ぐらいそういう風潮ありますね。」
— そういうのってどうですか?
「やだよねそんなの」
— 現役のナツメロ・バンドの役割があるみたいな。
「クラシックって言ってくれる?(笑)」
— (笑)失礼しました。
「現役のナツメロ・バンドかもしんないけど、やだよね俺は」
— 現役で一番メジャーでありながらナツメロ・バンド的意味合いも持ってるってすごいよね。4年半も休むからいけないんだよ(笑)。
「(笑)この4年半ぐらいでそうなった可能性あるよね」
— その辺ナツメロ・バンドのおじさんとしてはどうですか?
「んー、だからあんまり好きじゃないですよそれは。だって昔の曲を聴かれるっていう、これほど恥ずかしいものはないもん。昔の曲を聴き直されてるとかさ、会った時に『“いとしのエリー”聴きましたよ』とかさ」
— いいじゃない、「ありがとう」って言うんでしょ?
「言わないよォ。ほんっとに興味のない話題ってそういうことよね、『“チャコの海岸物語”、うちの父が好きで』なんて」
— いいじゃない。
「良くないよォ。世の中でいっち番興味のない話題ってそれ」
— アハハハ。だけど世間はそういうことにすごく興味があるわけじゃない?
「だからね、俺に言うことじゃないと思うんだけど」
— だって作ったのあなたじゃない?
「作ったけども、ひとつのレコードという形にして届けたんだから、それに対するコメントはもういらないの」
— レイ・チャールズと話すときに最新アルバムについて話す?クインシー・ジョーンズとの曲よかったとか言う?やっぱり昔の曲について話すでしょう。
「いや、俺はそう言うことについて気ィ遣うもん」
— 気ィ遣うけど本当は一番聞きたいんでしょ?(笑)
「ほんとはそう(笑)、ほんとはそうなの、そそそ(笑)」
— (笑)同じじゃないですか。
「俺はだから彼らの気持ちわかってるから。『レイ・チャールズさん、俺、“アイ・ガット・ウーマン”思い出の曲でね』っつったら彼らは顔で笑っていても腹の中は煮え繰り返ってるのわかるからさ(笑)。まあ、レイ・チャールズほど偉大になって仕舞えば煮えくり返んないかもしれないけさあ、俺はセコいからやなんですよ。そういう昔の話は」
(『ロッキング・オン・ジャパン 1990年3月号』ロッキング・オン、1990)
89年7月、ニューアルバム制作真っ只中のサザンは、限定生産のベスト・アルバムをリリースする。『すいか Southern All Stars Special 61 Songs』と題されたこのボックスセットは、サザンのデビューから「みんなのうた」までを年代順にCD4枚またはカセット4本に収めた、88年までのサザンのアンソロジー的なベスト盤であった。CDは税込10,000円、カセットは税込8,000円と高額商品であったが、発売前の段階で予約が内々の予定プレス数を上回ってしまったという。予約数に間に合わせるため、国内生産では間に合わず急遽米国で追加プレスを行ったのか、CDは1セットの中でも日本プレスとUSプレスの盤が混在している。
ニューアルバムのレコーディングの最中、先行シングルが2枚出た段階でこのようなベスト盤が出た背景はというと、アルバムが89年夏には間に合わない・しかし夏に何かサザンの新作を出したい…というのが最大の理由であろうことは想像に難くない。さらに、ベスト盤という発想は、88年の旧譜シングルの一括3インチCD化が念頭にあったはずだ。「みんなのうた」と同時にリリースされた23枚のCD一括リイシューでは、10数枚がオリコンシングルチャート100位以内にランクインしている(『FMレコパル 1989年2月20日号』小学館、1989)。まだまだサザンの旧譜には十分な経済効果が期待できる、という思惑が、レコード会社・事務所の両社にはあったことだろう。そういえば、6月公開の「彼女が水着にきがえたら」でもサザンの旧譜が使われたばかりであった。
— その割には『すいか』なんていうとんでもないレコード出したじゃないですか。
「あれは俺知らないところで……説明して説明して」
マネージャー「あれはビクターの企画モンっていう世界で」
— で、結局OKしたんでしょ?
「だからぁ……ああいう企画が最初からあったわけではなくて、ね?何か出したいっていう企画があって、ああいうのは一切やめようって話しになってたんだけど、結局——とにかく出したい動機があるじゃない。色々と思惑があるじゃない。その思惑はわかるけどもアーティスティックじゃないからやっぱりやだという戦いもあるんですよ。で、一緒に働いたものとしてはやっぱりね、ボーナスも欲しいだろう、これだけ言ってくるからにはやっぱり、よしわかった最後には信頼しなくちゃいけないっていうね。そういう微妙なねえ……んー、まさにスイカなんですサザンは。あの『すいか』のレコードじゃないけど、ま・さ・に・いろんな人間の思惑とか信頼関係とか、それから色んなのがあるんですよォ」
— だけど1万円もする高価な商品があんなにバカみたいに売れると思いました?
「んー、まあねえ、売れましたけどねぇ」
— やっぱり現役のナツメロ・バンドなんですかね。
「そうそうそう。まさに現役のナツメロ・バンドなんだよ、あの『すいか』の時点までは。だからそういうことはしたくなかったわけ俺は。でも、やっぱり色んな思惑とかね、ノヴェルティとかそういうものをどっかで手放さなくちゃいけないというね、新譜が出てない分……辛いっスねえ」
— だけどそういうヤクザな商売っていいと思いません?逆に。何かポップ・ビジネスやってるっていうダイナミックさがあると思いません?
「思います思います」
— そういうことをも楽しめる余裕というか、キャパシティっていうのは……。
「いや、楽しめないけどさ俺は。『すいか』に関しては別に」
— そこかサザンオールスターズの大衆性を支えていると思うんですけどね。
「んー、そうかもしんないけど……まっ『すいか』はね、あれはあれだけのもんですからね、ほんとに。スイカじゃないけど置いときゃ腐るもんでしかないでしょ?もうあれは腐ってしまってますよ」
— いや、今年ビクターは『めろん』出すっつってましたよ。
「キャーッ」
— 今度は四枚組だっつう話だよ(笑)。
「キャーッ(笑)。もう当分ないでしょう。やっぱり現役としてのレコードが出てなかったっていうのが一番大きかったんじゃないの?こっちの弱みとしても。それはやですよやっぱり」
(『ロッキング・オン・ジャパン 1990年3月号』)
『すいか』現象が発生していた89年夏、それを横目にサザンはスタジオで「現役としてのレコード」制作の真っ只中であった。そんな新作はどのような内容になったのか、次回、詳細を見ていこう。
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