初日では、桑田が極度のストレスでライブ中に倒れてしまう大きなアクシデントも発生している。オーディエンスが見えない・反応がわからないという珍しい環境が影響してしまったようだ。
「具体的なことをいっちゃうと、コンサート会場(北京市首都体育館)は、アリーナに客が入っちゃいけない。スタンドの客は満員だけど、照明真っ暗でだれも見えない。そこに立って日本の歌を歌う。
ほら、砂漠の中で夜中にテントを自分ひとりで張っているようなもんで、そして、地平線の彼方に異民族がじーっと見ている気配がかすかに感じられる。そこで、自分は日本語で叫んでいる。
それに対して、地平線の彼方の異民族は確かにこっちを見据えている気配はあるんだけれども、見えない、無気味ですよ、ライトを顔の正面にあてられて取り調べを受けているようなもの。
あれは、パニックというか、深い井戸の中にポーンと入れられたような感じですよね。視界もきかないし、自分たちのやっている音楽が単調にずーっと井戸の中で鳴っているような状況だから。
で、時々演奏が終わると、異民族といっちゃあなんですけど、砂漠の彼方から声がザワザワッと聞こえてくる。これはけっこうききますよ。
(略)
あんまりいろんなこと考えすぎちゃったんだよね。結果的には、堪能の様子をあらわに見せてくれた北京の人々(観客1万人)がいてくれたんですけどね。」
それに対して、地平線の彼方の異民族は確かにこっちを見据えている気配はあるんだけれども、見えない、無気味ですよ、ライトを顔の正面にあてられて取り調べを受けているようなもの。
あれは、パニックというか、深い井戸の中にポーンと入れられたような感じですよね。視界もきかないし、自分たちのやっている音楽が単調にずーっと井戸の中で鳴っているような状況だから。
で、時々演奏が終わると、異民族といっちゃあなんですけど、砂漠の彼方から声がザワザワッと聞こえてくる。これはけっこうききますよ。
(略)
あんまりいろんなこと考えすぎちゃったんだよね。結果的には、堪能の様子をあらわに見せてくれた北京の人々(観客1万人)がいてくれたんですけどね。」
(『Views 1992年11月11日号』講談社、1992)
1年前には天安門広場などでカジュアルに演奏を楽しんだ桑田だったが、その時とは勝手が違ったようだ。
「天安門でも、万里の長城でも、中国人たちはほんとうに楽しそうだったね。「あっ、同じじゃん」という感触はこのゲリラ的な行動でつかんだ。確かに、ロックの好きな若者はいると高をくくった。今回の北京では、それだけではダメだと感じたけどね。」
(『Views 1992年11月11日号』)
訪中の際、91年アジアリリースの『稲村ジェーン』に続きCBAV(中国广播音像出版社)からリリースされたベスト盤カセット。ラストに(本当は原由子ソロの)「花咲く旅路」のヴォーカルのみ北京語に歌い直した「花开在旅途」が収録されているが、このバージョンは2025年現在日本未発売。この曲は91年に香港で陳慧嫻が「飄雪」としてカバー。92年には日本アミューズの仕切りで「花开在旅途」として蔡国慶が訪日録音しており、おそらくこのサザンの訪中と連動した動きだろう。
***
時を遡って91年、崩壊寸前のソ連で30年近く歴史のあったソノシート付き雑誌『Кругозор』の91年4月号に桑田が登場している。
この時期にしては意図的なのか桑田ソロ扱いの記事(もちろん半分以上はバイオグラフィー的な説明なのでサザンの話ではあるのだが)。ソノシート収録曲は「今でも君を愛してる」「ハートに無礼美人」と渋いチョイス。ソノシートということで33回転片面2曲、両曲途中でフェイドアウトするショート・バージョンでの収録であった。
『Кругозор』はソ連の国営レコード会社 Μелодия(88年にPaul McCartney『Сно́ва в СССР』をリリースしたあのメロディアである)が発行していた音楽雑誌だ。70年代の誌面を見ても西側のポップス、ロックは意外としっかり音源付きで紹介されている。さらには日本のポップスも、ダーク・ダックス、西城秀樹、Yellow Magic Orchestra…など、実はソ連国内でもある程度リアルタイムで紹介記事を読みながら音源を聴くことができていたのがわかる。
誌面では桑田がソ連のバンドКиноのヴォーカリスト、Виктор Цой(Viktor Tsoi / ヴィクトル・ツォイ)と会いギターを進呈したエピソードがメインの話題として書かれている。90年春、アミューズの計らいで来日したЦойはサザンの「夢で逢いまShow」ツアーを見学。アミューズはКиноの日本ツアー、果てはサザンまたは桑田とのジョイント・ワールド・ツアーも想定していたようである。
三日間だけではあるが、ツオイは一九九〇年四月末から五月上旬にかけて日本を訪問していたのである。名曲「血液型」のリリースを耳にした株式会社アミューズが、ツオイを日本に招待したのである。当時アミューズは、キノーの日本ツアーを企画していたようである。ツオイは、アミューズの手配でサザンオールスターズのコンサートも見学しており、同バンドの桑田佳祐とも対面している。サザンとキノーのワールド(アジア?)ツアーの企画もあったようである。ツオイは桑田佳祐の歌に関して、「現代版の和製シナトラ」という印象を持ったという。
(略)
一九九〇年五月五日のキノーとしての最後のコンサート映像を見ると、ツオイは漢字で「東京」と書かれた黒色のTシャツを着用している。そしてこの時、彼がその手に握っているギターは、サザンの桑田から贈呈されたヤイリ(ヤマハ)のギターである。「一番」と書かれたTシャツを着ている写真もある。
(略)
一九九〇年五月五日のキノーとしての最後のコンサート映像を見ると、ツオイは漢字で「東京」と書かれた黒色のTシャツを着用している。そしてこの時、彼がその手に握っているギターは、サザンの桑田から贈呈されたヤイリ(ヤマハ)のギターである。「一番」と書かれたTシャツを着ている写真もある。
(石川知仁『誰も知らないロシア 若手外交官が見た隣国の素顔』彩流社、2025)
しかし90年8月、Цойは交通事故で急逝、Киноは解散する。アミューズとの契約が成立していたのか不明だが、Киноの日本や世界規模での活動は実現することはなかった。
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そういえば桑田は、Цойと会っていたと思しき90年前半のインタビューでは、映画「稲村ジェーン」完成後に海外での活動に向けた何らかの動きを考えているという話もしていた。
映画が公開された直後の同年秋、桑田はメキシコ・ジャマイカ・ニューヨークと3カ所にまとめて向かっている。メキシコはCM撮影、ジャマイカは完全オフということまでは雑誌やファンクラブ会報に記されているが、最後のニューヨークでの詳細は当時から今に至るまで明らかにされていない。
翌91年は香港での「真夏の果実」のヒットを受けてか、中国や香港にSuper Chimpanzeeとして出向いている。これは現地のミュージシャンとの共演レコーディングというよりは、Super Chimpanzeeとしてのライブや「真夏の果実」のプロモーションという目的があっただろう。
その直前、91年3月〜4月にかけて行われたファンクラブでのファンミーティングイベント「SAS社会学ミーティング」にて、桑田は海外進出はどうなったのかと質問されている。
— 以前何かのインタビューで海外進出をしたいというようなことを言ってらっしゃいましたが、今はどう思ってますか?
「海外進出は夢なんですけど……今までにも、修行的になんか皿洗いやりに行くような感じの海外進出から企業と一緒に進出するみたいなものまで、いっぱいケースはあったけど、正直言ってまだなかなか固まってないっていう感じなんだけどね。SASにはSASのやり方があるんじゃないかって気がしてネ。例えば、ロンドンやニューヨークやL.Aの方ばっかり向いてた視点がね、世界地図が変わっちゃったっていうかネ、アジアとかそういう方向もあるんじゃないか……とかね。それに海外進出って言ってもさ、帰って来ないっていうんじゃなくて絶対帰ってきて日本での活動が主だと思ってるしね。だから日本人に対して変な形で浸透しないような、地道な海外へのアプローチはやっていきたいなと思ってます。あと、向こうのミュージシャンとフランクに交流をとるっていうのは絶対やっていかなくちゃいけないと思ってる。
「海外進出は夢なんですけど……今までにも、修行的になんか皿洗いやりに行くような感じの海外進出から企業と一緒に進出するみたいなものまで、いっぱいケースはあったけど、正直言ってまだなかなか固まってないっていう感じなんだけどね。SASにはSASのやり方があるんじゃないかって気がしてネ。例えば、ロンドンやニューヨークやL.Aの方ばっかり向いてた視点がね、世界地図が変わっちゃったっていうかネ、アジアとかそういう方向もあるんじゃないか……とかね。それに海外進出って言ってもさ、帰って来ないっていうんじゃなくて絶対帰ってきて日本での活動が主だと思ってるしね。だから日本人に対して変な形で浸透しないような、地道な海外へのアプローチはやっていきたいなと思ってます。あと、向こうのミュージシャンとフランクに交流をとるっていうのは絶対やっていかなくちゃいけないと思ってる。
でも、まず国内でやりきれてないことについて決着してから、その次にくる問題ではないかなって気がしてますけどネ。」
(『代官山通信 Vol.33 June. 1991』サザンオールスターズ・SAS応援団、1991)
これまでと比較するとトーンダウンした様子である。もちろんこの時点でSuper Chimpanzeeの中国行きの話は決まっていたのでアジアというワードを出しているのだろうが、これまで何度かのチャレンジはあったにもかかわらず、どうにも弱気になっているような印象を受ける。
92年春に中国行きについて聞かれた際は、アメリカのミュージシャンとの力の差を自虐的に話している。
僕らは、アメリカの情報はすぐに入るし、外車にはすぐに乗れるし、国産のクルマに乗るよりメルセデスやフォードの方が成りきれるっていう人生を送ってるでしょ。僕は乗ってないですけど。洋式便所だし(笑)。でも、アメリカには憧れ続けたけど、どうもヒューイ・ルイスみたいな歌い方はできない(笑)。7000ccクラスの排気量はない(笑)。1800ccくらいだし。
(『スコラ 1992年4月9日号』スコラ、1992)
まずは日本での活動を前提としつつ、策を検討し地道にアプローチしたい…という一歩引いた、堅実な方針に変わったのがこの頃のようだ。
***
92年の『世に万葉の花が咲くなり』録音時、共同プロデューサーの小林武史は桑田にこんな提案をしていたことをのちに明かしている。
小林武史「僕は桑田さんの『孤独の太陽』というアルバムに何曲かキーボードで参加させてもらっているんですが、その前の段階で九四年(引用者注:92年の誤りと思われる)の「世に万葉の花が咲くなり」のレコーディング最中、既にニューヨークやロサンゼルスではないもう一つ別な視点で手に入れたサウンドを押し出そうとしていた。その時僕が言ったのは、八ミリでもいいから三〇分ぐらいのドキュメンタリー映画を作ろうと。またミッチェル・フレーム辺りに桑田さんが出向いてレコーディングするのはどうかとか……。アメリカ文化というものに強烈に影響を受けている人だと思うんですよ、彼は。ニューヨークでもロサンゼルスでもなく、ツイン・ピークスの質感のような音の感触を僕は彼に欲していた。それでもそれがサザンオールスターズのアルバムなんだということを展開したかった。でも今、考えてみると僕の独りよがりだったかもしれない。」
— どうしてですか。
「サザンオールスターズ=青春だと思っている人が多いわけです。それを何も壊すことはないという事かな……。」
— どうしてですか。
「サザンオールスターズ=青春だと思っている人が多いわけです。それを何も壊すことはないという事かな……。」
— でも、それじゃ桑田佳祐は次の場所にいけないし、成長もしない。
「そうかもしれません。だから僕がそういう地平をミスチルに求めていったという気がする。それが『es』に繋がるような展開だった……。桑田佳祐さんとのコラボレーションは結局、僕にとっては大きな旅にはならなかったのかもしれない。しかし桑田さんとのコラボレーションは自分の今あるプロデュースワークの原点であり、帰結する場所でもある。いつかまた彼とやれるといいなと思っているんです。何しろ、偉大なヴォーカリストだと思いますから……。」
「そうかもしれません。だから僕がそういう地平をミスチルに求めていったという気がする。それが『es』に繋がるような展開だった……。桑田佳祐さんとのコラボレーションは結局、僕にとっては大きな旅にはならなかったのかもしれない。しかし桑田さんとのコラボレーションは自分の今あるプロデュースワークの原点であり、帰結する場所でもある。いつかまた彼とやれるといいなと思っているんです。何しろ、偉大なヴォーカリストだと思いますから……。」
(『Switch 1997年7月号』スイッチ・パブリッシング、1997)
なんと桑田に対し、Mitchell Froomのもとに出向きプロデュースしてもらうのはどうかという提案をしていたのだ。Froomはカリフォルニア出身 、Paul McCartney『Flowers In The Dirt』でElvis Costello楽曲に共同プロデューサーとして名を連ね、80年代末のMcCartney再評価にも関わったプロデューサー・キーボードプレイヤーである。86年のニュージーランドのバンド、Crowded Houseのファーストを手がけたことをきっかけに、様々な作品に関わっていく。ラテンに傾倒していた80年代後半の桑田がよく触れていたLos Lobos「La Bamba」もFroomのプロデュース作だ。
Mitchell Froomと小林と、暗黒を提示しようとしていた当時の桑田で、『世に万葉の花が咲くなり』路線の延長上にあるサザン作品が作られていたら…というのは歴史のifでしかないが、しかしこれはこれで想像するのが楽しくなる仮定である。
小林は自省のコメントのみで桑田の反応については語っていないが、流れから察するにMitchell Froomとの共演アイディアは桑田に断られたのであろう。
これまでも桑田は84年のロサンゼルス、85年の東京、87年のニューヨーク、と海外の名うてのプロデューサー・アレンジャー・ミュージシャンたちとスタジオでのレコーディングを共にしている。しかし、そのうえでこの小林の案にポジティブな反応ができなかったというのは、これまでの現場がどれもなんらかのネガティブな記憶を伴ってしまっていたのではないだろうか。
小林は小林で、この時期自身の外部プロデューサーとしてのピークを感じており、この先どうするべきなのか悩んでいたようである。
小林「僕が『世に万葉の花が咲くなり』というサザン・オールスターズのアルバムを共同プロデュースしている時でした。プロデューサーと言ってもアーティストから見れば外部に位置しているわけですが、僕にとってはサウンドプロデューサーとしてピークを迎え、同時に、この先どういけばいいのか悩んだ時期だったわけです。」
(『Switch 1997年7月号』)
桑田との構想のずれからか、小林は自身の新たな展開、サウンドのみではなく活動のコンセプトからトータルに仕切るプロデューサー…という立ち位置を確立するようになる。91年にプロデュースを担当し始めた新人バンド、Mr. Childrenへの注力だ。こののちのMr. Childrenのドキュメンタリー映画や海外録音など、少なからずこの時期の小林のアイディアがベースになっているのだろう。
それは同時に、桑田にとっても偉大なパートナー小林からの独立を意味する。この数年アレンジ、サウンド・メイキングの大半を担っていた小林と離れたのち、どう音楽製作を行っていくか…という課題が生まれることになる。
後年小林のインタビュアーに「次の場所にいけないし、成長もしない」とまで言われた状況の桑田はこの先どうすることにしたのか。様々な迷いを抱えつつ、93年を迎えることになる。



